「愛に関する短いフィルム」 クシシュトフ・キェシロフスキ監督  1988年 ポーランド 

エンジニアかな(郵便局員でした)、孤独な状態というのはすぐにわかります。覗きが趣味かその対象が好きなのか、わかりませんが、かなり暇でエネルギーもてあましてますね。私は常づね思うのですが、覗き、ストーカーは冷静にコスト計算すると絶対に合わない犯罪だと思うのですが、なぜ多発するのでしょう。このケースは公務員でした。そして自分の部屋から望遠鏡で中年の女の部屋を覗いているので、オタクです。さらに友人の母と二人暮しで、母の方が若い女に興味がない息子の友達(施設に入っていた)を心配してます。なぜ?この中年を?相手も同じ孤独な人間だからです。類は類を呼ぶというわけではないのですが、行動の裏に隠された孤独が読めるから観ているのです。これが愛情に変わるのかな。しかしこの女が恋人と抱き合っているときは覗きはしません。なにか表面的な愛というのを覗き男は自分なりに曲解、理解しているのでしょう。二人がセックスしようとすると邪魔をします。ガス会社を呼びつけたりして。

この覗き(Aとする)の母は「女は無邪気に遊んでいるようで、本当は優しい男が好きなのよ」とアドバイスしてくれます。そして牛乳配達のバイトをして直接のコンタクトを求めていきます。しかしひょんなことから、自分で覗いていたことを告白します。するとその夜から女は窓から見える位置にベットを動かして電話を近くにおきます。そして遊びに来た恋人に覗かれていることを言うとその恋人にAは呼び出され、殴られます。しかし次の日牛乳配達をすると女と話す機会があり、なぜつけまわすの?と聞かれると「愛しているから」と答えます。そしてデートに誘い会話が弾みます。女も好奇心ありますからね。覗かれていたわけですから、なに見られていたか知りたいですよ。そして部屋に誘われますがその様子を友人の母が今度は覗いてます。しかしセックスに誘われてしまい、Aはそのまま逃げ出します。そして家に戻り手首を切るのです。しかしその事実を知ると女の方がAをいとおしくなります。遊びではなかったと知るからですね。そして、極めつけのシーン、退院したあとお見舞いにAのうちを訪ねるのですが、そのときにAは横たわって寝てます。そして何気なく望遠鏡を覗くと、そこには自分自身がいて、孤独に打ちひしがれている姿が映し出されているのです。その孤独を癒すかのようにAが手を差し伸べてくる瞬間が映し出されます。そうです、Aはこのような優しいまなざしで彼女を見つめていたのです。それを知るのが遅すぎました。

 

「悪霊島(あくりょうとう)」篠田正浩監督 1981年

久しぶりに金田一さんです。そして篠田監督です。あまり好きな監督ではないのですが。

舞台は九州と四国の間の島。景色のいいところですよ。大好きな場所です。これだけで見てよかったと思ってしまう。しかし役者が違うとこんなに違和感があるのか、と思うのも事実です。

たぶん本当のことでしょうが、恐山の「いたこ」のような霊媒師を四国のこの地方では「いちこ」というらしい。どちらも行ってみたいところです。刑部島と刑部神社共にあるなら行って見たいです。磯川警部と金田一耕介の目的がひょんなことから一致します。

この島に向かうのですが、当然この島は平家の落人伝説があります。そして「鵺」という鳥。からつむぎ、というらしい。私の場合、「能曲」で知っているので何の疑いもなかったのですが、「鵺」という鳥は別名みたいです。伝統芸能の流れですが、祭りで「人形浄瑠璃」をやるなんていいねえ。「神楽」はスサノオノミコト、

事件は少し入り組んでいて、監督のまとめ方が下手なので、わかりにくい人物関係です。

まあどうでもいいでしょう。シーンのつなげ方がうまくないと思うのです。また金田一シリーズの中で一番つまらないと思います。

しかしまたこの映画でも「原爆」が出てきたのは、なにか縁があるのでしょうか?最近原爆や戦争の事が出てくる映画ばかり観ております。

古尾谷の述懐という展開も気に入らなければ、ビートルズの曲が流れるのも気に入らない。この監督は、やはり「心中天網島」だけの監督です。60年代で安保闘争していた連中は好きになれません。これほど持ち上がらない「金田一シリーズ」もこの作品以外にはないと思います。もうちょっとおどろおどろしくなければだめです。この島は実存しないらしい。監督が日本の原風景を求めて作った架空の空間とのこと。この点では大成功をしております。

 

「穴(あな)」ニック・ハム監督 2001年

市川監督の作品ではないのです。市川監督の「穴」は大好きですがこれはどうでしょう。

ソーラ・バーチはまた髪を染める役ですね。高校生の多感な時期の金持ちの子供の話です。

余裕がありすぎると文化が生まれますがゴシップも生まれますわね。ゴシップの方かな。

ウェールズへの研修旅行に行きたくなくて、学校と親をだまして旅行に出かけます。それが防空壕の穴なんです。普通はウェールズのほうが良いのですが向うで特訓が待っているみたいでこちらに逃げてきました。アレンジしているやつがオタク系(B)でこいつが好きな女の子(A)と彼女の憧れの男子(C)を一緒にしてあげます。何かたくらみがあるのでしょう。3日後に迎えに来るといったまま、迎えに来ないのです。中の人間はあせります。

ACと一緒に相談して、ACのことを嫌いになるのを待っていると言います。CBAのことを好きなのか、と聞きますがその通り。嫉妬のなせる業なのか、と逆に仲が良くなってしまう。そして盗聴をしていると知って逆に中の悪い振りをする。これは危険です。本音が出てしまう可能性があります。

しかし成功、脱出できます。ACの愛情も勝ち得ます。ここがおかしい。ここまで筋書きに入っている気がする。

しかしBの供述は逆です。ACをくどき落とすために仕組んだと。まったく違うことを言います。

事実は監禁された中で3人が死んで1人が帰って来れたという事実です。

しかしこういう展開は映画としてかなりいけない行為だと思うのですが、実はAは乱交パーティーを企画してCをものにしようとしたのでした。しかしCがのってこないでAの友人の美人の女の子(D)ばかり男2人の目が注がれるので頭にきております。そして監禁状態を作ってAは好きな人と一緒に死んでも良いとさえ思っているんです。鍵を閉めたのはAですよ。そしてCと一緒にいられると思ったのです。事実仲良くなりますが、Dは死んでしまい、Cも友人を些細なことで殺してしまいます。そしてふたりだけになったときCからとうとう愛しているという言葉が発せられます。とりあえずこの賭けは勝ったのだと思うのですがなぜこの続きがあるのでしょう。

Cに真実を告白したら嫌われるだけでなくすべてが明るみに出るところでした。しかしアクシデントでCは死にます。確かにCの愛情を勝ち得るためにやったことです。しかし3人が死んでしまいます。Aは直接にはまったく手を出しておりません。唯一、Bを犯人に仕立てるために自殺と見せかけるときに殺します。Aも生きていても仕方ないのですが死なないということはCの面影を抱いたまま生きるのでしょう。後味の悪い、気持ち悪い映画です。まずこんなことは起こらないでしょう。

「殺人に関する短いフィルム」クシシュトフ・キェシロフスキ監督 1987年ポーランド

はじめにゴキブリ、ねずみ、猫の死体が出てきます。なんとなく人間がその死に関与している感じの死体です。猫なんか首吊りです。

話は3人の男を中心に進行します。若い男(Aとする)は何もすることがなく不安定な面持ちで街をふらついてます。映画を観ようとしても、時間が合わず見ることが出来ないし、絵描きに話しかけても、何が出来るのか、という質問に答えられません。逆に「木を育てられるか?」という質問を受けるのですが、「出来る」というと少なくても植木職人になることが出来るということを示唆されます。しかしそんな職業に興味ないのでしょう。そのあと、公園では鳩にえさをやる邪魔だとおばあさんにどけと言われます。居場所がないんですよ。歩道橋の欄干にたたづんでいると石が置いてあり、それを下に落としたくなります。下は車が走っているので、危ないのですが、落とすと案の定車にぶつかります。

もうひとりはタクシーの運転手(Bとする)住んでいるアパートの近くで自分のタクシーを洗っております。途中、お客が来るのですが、洗っている最中と断ります。客を選んでいるのか向かうところがあるのかわかりません。

もうひとりは弁護士の試験を受けている男です(Cとします)。彼は大学の後働いて勉強しているうちに、人生経験から弁護士の仕事の重さを認識し始めているのです。ゆえに答えは(口頭試問)深いものです。たとえば、犯罪の抑止には何が有効かという問いに対しては刑罰ではだめ、恐怖を抑止力とする、と答えます。理由はカインの頃から刑罰はひとの犯罪の抑止にならないというのです。この3人が交互に映し出されていくのです。

 

Aはある少女の写真を持っていて引き伸ばそうとします。そして街をふらつくだけ。Bは地道に稼ぐだけ。Cは弁護士に合格します。しかしAはたまたまBのタクシーに乗ります。それももしかしたらBのあとのタクシーになったかも知れないのですが運ですね。そして途中で殺します。めった打ちですね。死体は川に捨て車を乗って帰ります。まったく動機はないのです。あるとしたら彼女みたいな女を誘ってドライブに行きたかったことでしょう。しかし誘う女はタクシードライバーの近くの人で車を見たらすぐに誰のものかわかりました。さて裁判が始まります。Aの弁護人はCです。しかし完敗。しかし刑務所に護送されるときにCはAの名前を呼びます。そのあと、裁判官のところに行き、もっとベテランの弁護士なら判決は違ったか?尋ねます。変わらない、という答え。CはたまたまAが犯行の準備をしていたカフェに合格のあと、偶然居合わせていたのです。何をやるのか知っていれば、とめたでしょう。しかしそのときは赤の他人です。どうしようもないです。弁護士として初めてAと縁が出来たのです。この縁のめぐり合わせがCを悩ませます。そして死刑の日、CはAに面会に行きます。そして話を聞きます。するとAはあの名前を呼んでくれたことがすごくうれしかったと、そしてなぜ車を憎むかを話し始めます。それは友人とAが酒を飲んだ後、友人が酔っ払ってAの妹を引いて殺してしまったからです。それ以来、Aの歯車が狂ったと話すのです。人には、小さな出来事でもその人の運命を変えてしまう出来事があるのです。このように死刑の日になって饒舌に今までのことを話し始めるA。同情の余地はあるものの行った犯罪は紛れもなくAのなすところです。Cが弁護士試験で言っていたように、恐怖は抑止力にはこのケースではなりませんでした。意味もない犯罪です。恐怖なんかAは感じていなかったのです。そしてAの過去の悲しい経験がこの犯罪を起こしたのです。過去に妹を殺されたのも過失のある何の意識もない暴力でした。人間はもっと深い、わからない存在みたいです。なぜに暴力はなくならないのでしょう?そのことが疑問に残ったCでした。私は救われたのは最後に死刑の前にAの話をCが聞いたシーンです。ここが唯一、Aの人間らしい描写でした。本当に近くに生活しているのに殺される人、裁く人、弁護する人、犯罪者が日常的に関与しているのです。ここではじめのシーン、動物たちが殺されてます。どんな恐怖を与えても人間の暴力はなくならないのでしょう。それが人間みたいです。残念なことです。この作品は単品で見るより「デカローグ」の十戒のひとつ「暴力、殺人」としてみなければ内容がわからないでしょう。

「青空」 サトウトシキ監督 2000年

この作品はアダルトなので簡単に。最近、ピンク映画とも言われてますが、ピンクとは赤と白が混ざると出来る色なのですがそれがポルノを示すというのは、なんかうまいオブラートのような気がします。

そしてこれはポルノ映画ということですが、実は「いちげんさん」の方がエロい作品です。「いちげんさん」がむっつり助平なのに対して、こちらは、スケベが悩んだ映画でしょう。3作品手に入れてしまったので3回ほど、いつか何気なく書くと思います。

本当に、エロの直線的なシーンはほとんどないです。また遠めから映しているのでまあこんなものか、という程度です。若く、自分がなにやっているのかわからない人間ばかり出てきます。そのやっていることが犯罪なので、社会的には大問題になるのですが、自分たちは軽く喧嘩でもするような気持ちなんでしょう。若い女は街でぶつかった男に言いがかりをつけて、逆に犯され、そのまま同居するし、ある事件がもとであえなくなって再会してもそのままの関係をずるずる続けるし、よくわからないのです。しかし、感じるのは、女は男がどうしようもない奴だと知っていて、どこかで見切ろうとするところです。逆に男に悟られ、殺されるのです。このあえなくなった1年間は逃げ回った時期ですがその逃亡先でも勤め先の社長の愛人が社長を殴り殺す場面があるのです。当然、すべて映像はないですよ。こういうシーンお金かかるから、また趣旨が違うからないのです。エッチなシーンもないのですが。

この主人公の男のモノローグで話が展開するので、男が生活を安定させたいと思うときに終わるのですが、その途中、勤めの合間にジョギングをするシーンがあるのです。「考えを分散させたい」「ひとつのことにこだわらないようにする」などのために自分で気に入った精神衛生方法でした。犯罪をする際にはこのジョギングが切れてしまうのです。

 

私は思うのですが、多分、このジョギングのシーンがなければこの映画について書かなかったと思う、ジョギングはかなり足をけることによって眼の奥の疲れを、頭の詰まりを取る効果があると思います。そして足の筋肉にも適当な重力をかけて、自分の重さを意識させるのです。これを定期的にやると体が自分は、どの程度重いのかわかってくれて、いざというときに動けるし、体重の負荷は神経繊維のマッサージにもなるような気がします。このジョギングの効果を発見して立ち直ろうとしたのですが、女が再会に応じなければ良かったのでしょうし、女の中途半端な気持ちで殺人まで行き着いてそのあとに、反省がきたのでしょう。この男はもう一度社会復帰したら、家庭を持ちたい。と言って終わりますが、もう出てこなくてもいいよ、と思う反面、ここまで経験しなければ、実は本当の反省はおこらないのかもしれないと思います。まったくお勧めではない映画です。しかしこの映画を観ると「いちげんさん」はポルノです。

 

「悪魔の手毬唄」市川昆監督(昆という字が違いますが変換できないのです) 1977年

これも始めてみる映画です。音楽村井邦彦なんですね。まあ20年前の事件が関係するらしいのですが、また岸恵子(Aとする)なので犯人だと思います。さとちゃんが顔にあざがあるのもそれが原因らしい。しかし岡山ばかりが舞台ですね。総社からまた田舎のところが舞台です。しかし仁科明子は美人です。詐欺師の娘役ですが、身元のわからない子の方が美人になるというのも因果ですねえ。実際の仁科さんは名門です。舞踊の名手岩井さんの娘です。よく国立劇場みに行きました

。この村(鬼首村)の2つの勢力争いがもと。旧家が没落して、新興勢力が台頭してきた頃ですね。この旧家の女の子と旅館の男ができているんですが、何か意味があるのでしょうか?その前に室町からの本当の庄屋はもう跡形もなく一応子孫が生きているだけです。この老人がポイントなんです。この庄屋の土地を旧家と新興勢力の2つが買い取っているんです。庄屋が遊びすぎたのが良くないのですけど。

まあ劇中劇で「モロッコ」がでてきます。まあ対比ですが。

そして感じるのが人間の運命は本当にわからないということ。いろいろあると思いますが、最終的に収まるところに収まるのですね。さらに半端ものとされている人間たちが一番人間を見ているということですね。すべて煙たがれる人物がキーポイントを握ってます。それも証人として。

まあ推理小説なので内容はともかく、かなりいい映画です。松竹の「八つ墓村」(この辺の漢字変換ででませんね)に次ぐ出来ではないかと。

多分、かなりの役者が本当の脇役で出てくるのと、かなり愛情がテーマの映画だからでしょう。それと音楽が「翼をください」を作曲した人で「赤い鳥」などにもかなり曲を提供した人なので意外と雰囲気が出ていたと思います。もともと「赤い鳥」も神戸で活躍してましたし。まあ普通に見て面白いとは思います。今回のBOXでは一番面白かった。しかし届いてから観終るまで2ヶ月かかりました。犯人ははじめの予想通りでした。

 

「あこがれ 美しく燃え」 ボー・ヴィーデルベリ監督 スウェーデン   1995年

 

最近映画欧州旅行している気分です。出だしから、ヘンデルの「リナルド」のアリア。そこに1700年代のリンネという人の「男女の結ばれ方について」が文章で流れます。性教育の文章です。舞台は1943年のマルメという地方都市。このころナチスはこちらの方を攻めていなかったみたいですね。カール・ドライヤーの「怒りの日」もこのころの作品ですね。この作品ができたころが舞台だと思うと、前編すごく違和感があるのですが人間はいつの時代もこんなものかと思うだけです。

主人公のAの年は性欲多感でクラス全部ではそんな話もしているんですが、Aはなぜか中年の女の先生に興味がわきます。この先生は夫もいるし模範的な先生なんですが、どこがいいのかわからない。いつも見つめていたり、先生に接近するときに肌を接したりしているうちにお互いに意識し始めます。接近し始めたときのお互いの初々しい態度は新鮮ですし、見ているこちらが少年は次にどのような行動に出るのだろうか?と興味が出てきます。とうとう、教師の家に行くのですが、やはり場所柄家具はいいですね。夫がいるときに合図も教えるので、かなりの確信犯です。なぜか?

いわゆる「性の実習」になってしまいますね。しかし、夫とも少年は何回も接していくんです。その中で、夫から音楽のこととか人生のことを学んでいくんですね。この2人のシーンが一番落ち着いて見えるのは多分監督が意図して造っていると思います。先生とのシーンは見ているこちらがどきどきします。途中、夫の趣味のベートーベン弦楽四重奏、チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、マーラー「交響曲第5番」「亡き子を偲ぶ歌」バッハのメサイアなどが流れますが、そのマーラーの音楽の歌詞とヒットラーの演説が同じ言葉なんです。このことと工業製品ができる元はみんな生き物だ、という夫のせりふは(夫は簡単な技術屋でそれを商品化して売っているみたい)技術の変化と人間の本質の変化が不一致な点を指摘しているとともに人間は変わりたくても変われないんだということでしょう。技術に人間の変化は基本的についていけないんですよ。というより人間は2000年の間にほとんど変わっていないんですよ。技術革新としてはそしてアメリカでナイロンが発明されて普及されているニュースはこの夫を暗くさせます。彼は毛皮とか毛糸などを扱っているのです。生活も乱れ大人のだらしなさも少年は目の前に見て、哀れむ気持ちが芽生えてきて、教師にももっと夫婦間で優しくというのです。しかし教師は性的関係を望むのです。また教師から夫との結婚の理由を聞かせれます。それは、政策的なもので、彼女の財産目的で近寄る男たち、中身のない格好だけの男たちを遠ざけるのに格好の相手だったのです。結婚してしまえばそんな連中も手が出なくなるからです。夫のほうはそういう約束を暗黙に交わしていたのでしょう。だから夫婦間で慰めあうこともないのですね。こういう駆け引きもAは少年でよく理解できずに正論で突っぱねます。そして、夫が目の前でだらしなく飲んでくだを巻いて寝ている前で少年をベットに誘うのです。正義の人少年Aはそんな誘惑には応じません。すると教師のほうから誘惑がひどくなります。それを避けるように前に相手しなかったAのことを好きな女の子のところに行きます。もう女の子のうれしそうな顔といったらないですよ。Aはこういう正直な子とぴったり合うんですが、変な道にそれてしまいましたね。

しかし、途中、戦争に行った兄の死も大きく心の傷になるのですが、(教師のほうはその傷に癒しを与えてくれないですよ)教師はどんどん、無視されていった自分自身が悔しくてAの前で醜い姿をさらします。昔は自分で言っていたように周りの憧れだったのにねえ、女は旬を逃すとつらいですね。しかし積極的に抱かれにいって映画館で抱き合う姿を彼女の女の子に見られてしまいます。もう女の子はAも信用しないし、先生にも愛想が尽きるでしょう。先生は見られたことで自分の保身に走ります。結局彼女は、自分がいつでも逃げられるところを持ったままAと遊んでいたのです。Aはすべてを失ってもいいとのめりこんだのですが。大人と子供の違いだと思います。これは見る人の人生の経験の差で何とでも捉えることができると思いますが、私は大人は保身するのは当たり前で、そんなことは子供から大人になるにしたがって覚えていくことだと思うのです。Aが知らないのは仕方ないことであって、一歩成長していくのです。結局、女教師に落第させられます。(顔を見るのがつらいといわれてもねえ、かわいそうですが)。この落第や兄の死の辺りから母との会話が増えます。結局は家族ですからね。そして最後、多分、成績発表か何かの席で遅れて堂々とみんなの前でAは女教師の前に向かって進み出ていき、目の前でズボンを脱ごうとします。結局、無視されたので、そのまま立ち去り、思い出の辞書を持って学校を出るところで終わるのです。

この映画を見ていて、私はAの純粋な気持ちにいらいらするのです。若さってもっとずるくてもいいのに、と思うんですね。あとは女教師の中途半端な欲望がわからない。夫の欲望のなさも解せないんです。しかし、純粋さとエゴ、大人のずるさをうまく描いた作品だと思います。もう少し大人のバージョンの映画が「ピアニスト」に近い感じもします。見るたびに感情移入する映画の中の登場人物が変わるような映画でした。地味ですがいい作品です。私はどちらかというと欧州では北のほうの国の映画のほうが好きみたいです。

「アマチュア」 1979年 キェシロフスキ監督 ポーランド

これは思いかけずに、いい作品でした。ちょっと暗いのかと思って見はじめましたが、勢いよく映画の中に引き込まれました。まず、本当の冒頭、鷹が獲物をつついているシーンは権力の象徴なんでしょう。最終的にこの映画でも関係しますから。では冒頭に戻ると、子供が生まれるところから始まるのです。それは相当な親ばかで、うれしくて仕方ない様子が描かれます。それで8ミリのカメラを買って映像で成長記録を残そうとするのです。このスタートのポーランドの景色がもうたまらないです、日本でいうと戦後という感じの何もない状態。これは、かなり私の中では説得力のある映像でした。

そのカメラを買った延長で、工場の記録映像を撮ることを頼まれるのですが、動いたものすべてを撮っていくのですね。途中、撮ってはいけないシーンとか、写ってはいけない人物も収録されて、工場長と少しづつ溝ができるようになります。しかし、撮った作品がコンテストに出ることになり、そこで賞を取ってしまうのです。その賞を取る時の評価のコメントがすごく、べた誉めですね。(「すごい洞察力」など)1人批判するのですがその人はあとからわかるようにまともに本音を言っただけなんです。そのとおり終わったあとで、個人的にみんな駄作だと聞かされ、形だけの賞を続けていると言われるんですね。しかし、ではなぜ、賞をくれたのか?にたいして「撮りつづけて欲しいから」と審査員の一人は答えてくれます。なぜか、主人公の才能を見抜いている、人でした。

このあたりから、夫婦間はうまくいかず、映画にはまっている夫に苛立ちを見せ始める妻。結局妻は出て行くのですが、最後に言い残した言葉は「あなたが求めているのは平穏な生活だと思った」ということです。話が前後しますが隣人の母の死もありますが、ここで生前たまたま息子と母を同時に撮った映像があり、それを見せてくれといわれるのですが、そこにはあの「パリ・テキサス」と同じような今はもうないその人の魂に触れるような映像が残されているのです。(この場合は母親と一緒に写っているというだけですが、それで充分でしょう)

次に「カモフラージュ」という映画の上映会のシーンですがなんとまじめな議論をしているんだろうか、と思いますし、実際に監督の友人の実在の監督を使ったみたいです。このあたりから、主人公の映像に対するのめりこみが加速して、見ていて楽しそうなんですよ。またどんどん、映画の方に道が開けていくんですね。夫婦の溝は深まるばかりですが、結局先ほどのように別居にいたるわけです。別居する際も3ヶ月5ヶ月という単位で過去のことを思い出すんですよ。もうまったく興味の外なんです。フォーカスは映画に向けられていきます。

そして撮った作品が障害者をテーマにした工場での日々、の半分ドキュメンタリーです。しかし出来栄えはそのナレーションとギターの音楽ときれいに決まっていて、障害者本人も感動のあまり、美しいといってじっとしていられないほどでした。しかし、工場長が障害者をテーマに映画を撮るなといったのに、撮って発表してしまったことで波紋は広がり、仲間みたいに信頼しあえた上司も首や左遷されることになります。このあたり、人間の本質を問うのに、共産主義のベールはあとから思うと本当にいい役割を果たしているのですね。工場長の言葉「風景は美しい、自然は開かれているから」「何故君は灰色にしかものを見ないのか」などは本当に含蓄のある言葉です。もしかして工場長の方が理解が深いのかもしれません。左遷された上司も「君の才能を伸ばせ」と言って去っていきます。そして主人公は、悶々とした中、カメラで自分を見つめ、そのまま撮影しながら終っていくのです。たぶん、自分を見つめることからまた再スタートができると思います。

上で書いたように平凡ですよね、しかしパワーのある映画だと思います。地味なんですがいい映画です。

 

「アリゲーター」ルイス・ティーク監督 1981年 アメリカ

この手の映画は普通は見なかったんですが、「羊たちの沈黙」以来機会があれば避けないで見るようにしております。これもたまたま見ることになったんですがどうでしょうかね。

ワニショーでのハプニング。とにかくもう夢中になります。「あっ」と声を上げたら監督のセンスのよさですよ。観客のひきつけ方がうまい。このまま突っ走れれば最高なんですが。

画面に古さは感じます。80年がもう古い時代なんですね。何もない意外と空白の時代のような感じです。確かCDへの本格的な移行もこの頃です。ですから風景にLPはあるし、車は古いし、携帯はないインターネットもない時代です。ドン・ビト・コルレオーネの友人の役の俳優が出てます。懐かしい感じですよ。

映画に戻ると、アリゲーター(A)とします。これは子供のとき女の子に飼われていたのを父親が勝手にトイレに流してしまったのです。その後下水道で生きていて食べ物があるので大きく成長してしまった状態ですね。ここで疑問ですがAは人間を喜んで食べるのでしょうか?ちょうど動物実験の死体を製薬会社が経費削減で下水道に流していたのですがそのしたいではだめなのでしょうかね。まあ生きているものの方がおいしい感じはします。人間の肉は人間の食べるものから推測しておいしいでしょうしね。絶対的モラルで食べようとなどは微塵もおもいませんが。

まあ下水道ではAが有利でしたが捜索の手が入りマンホールを壊して地上に出てしまいました。大丈夫かな。すぐに殺されそうですが。これでおしまい、なんてなると思うけど、意外と引っ張るんですよ。

水があるところに逃げられるのが強い。ですから川とか下水道にすぐに逃げ込んでつかまらない。そして地上に出てきては人間ばかり食べる。そんなに食べられるものかと思うんですが、飲み込んでしまう。実際に人間ばかり被害に遭うから映画になるんですけどね。ペットばかり襲われていたらこんな恐怖心は生まれないでしょう。しかし映画観ていてなんで人間ばかり、それも短時間にあんなに食べられるのかと疑問に思った人はいないのでしょうか?私は楽しみながらそんなことばかり考えてました。

最後に始末したあと、また小さなアリゲーターが捨てられるのですが、これも大きくなるのでしょうか。

まあ一気に見てしまって時間がたつのが感じられなかったのであまり感想はないですがある意味楽しい映画です。怖くはないです。

 

「アンナ・パブロワ」 エミーリ・ロチャヌー監督 1984年 ソビエト、イギリス合作


有楽町マリオンのオープニングの作品でしたね。
バレエ教室を覗いてバレエに憧れを持つシーンで始まります。このように子供時代の憧れは大事にしていきたいですね。映画でも子ども自身が興味を示した自分の興味を大事に育てていくのです。
プティバに面接を受けるんですね。
そしてバレエ教室が良いですね。「自然から学ぶんだ」といって森にも行きます。
そしてミハイル・フォーキンに出会います。理解してくれるんですね。厳しく見てくれるんですよ。これがいい助言になるんです。いい出会いも必要ですね。こういうことが積み重なって芸は磨かれるのでしょう。
大人のパブロワ役はカリーナ・ペリャ−エワですが美人です。本当に美しい。セルゲイ・ディアギレフと出会います。プティバと当然対立しますね。振り付けが違いますもん。ディアギレフが正しいとフォーキンとパブロワは思います。しかしパブロワはマリインスキーに残ります。新しいのは自分で作りたいのでしょう。そして「ジゼル」でデビューするんです。プティバの振り付けです。カメラワーク最高です。舞台後ろからも撮ってます。(ジゼルの)墓場でのシーンは照明、衣装すべて秀逸です。
ディアギレフは黒いバラをマリウス・イワノビッチ(プティバ)に捧げます。(プティバの演出に感動したからです。)ここで(夫になる)ダンドレに連れられてネバ川に来ます。この川は先日も「フリークスも人間も」に出てきた川ですね。
次にメイクしているシーンから映る演目はわかりませんがクレオパトラの役みたいです。すごくきれいですよ。そして生活の充実と特訓の生活がうまく日常生活の楽しさの中で表現されます。たとえば、雪の上でのパーティー。そこでかかる歌はいい歌ですよ。ロシアの民謡ですが名前はわかりません。
そのあと名声が出たあとで、あえて猛特訓やるシーンがあるのですが、この教師は誰でしょう?この段階で練習すると名声は確実になりますね。教師は「死んでもいい、踊り続けるんだ」とよく言えますね。厳しいですよ。チュケッティとかいう講師です。この講師も一生忘れないきづなが出来るんです
ロシア革命を迎える前、公演がなくなり、くつろいでいるのですが、そこでサモワールで紅茶を飲みながらサンサーンスの「白鳥」をピアノで弾いてもらうのです。フォーキンが少しずつ振りを作っていくのですが、この映画の核となるシーンです。音楽、俳優、照明すべて込みでこれより美しいシーンはそんなに簡単にはないです。
そして舞台のこの曲のシーンになります。最高に美しい。トップレベルの美しさとはこのことです。
ディアギレフのパリ進出、ニジンスキー、フォーキンなどを連れてのシャトレ座の公演です。一度は見たかったですね。しかしあの練習風景からすると、伝説は本当にすごいものだったのかもしれません。ミハイル・モードキンも出てきます。ボリショイも参加していたのです。いや、それでパブロワがパリに行ったときに紹介されて、ストラヴィンスキーの「火の鳥」に出ます。モードキンではなくニジンスキーと踊りたいという。ニジンスキーが「レ・シルフィード」「イーゴリ公」「眠れる森の美女」の「青い鳥」などで成功して、モードキンとパブロワがペアを組むこととなるのです。そんなシーンは出てこないですが。そして舞台で一人練習するとピアノを弾いてくれる人がいます、これは出来すぎな話なんですが。カミーユ・サンサーンスが引いてくれているのを知らないで楽譜にけちつけるという話です。
映画では、すぐに「ジャラシー」のタンゴを踊るシーン。パブロワとフォーキンのダンス。本物を見てみたいですね。音楽、風景、俳優と揃ってますね。ここでディアギレフと縁が切れます。冷静に見ていくとこの映画はストーリーがおもしろい逸話だけで構成されている感じもします。
そしてディアギレフと離れて一座をやろうとしても、邪魔が入るし、名声を利用しようとするものはいます。パリのミュージックホールのシーンはそれだけでもいいシーンですがここではオッフェンバックの「天国と地獄」が強調され馬鹿馬鹿しいシーンになってしまいます。確かに下町のモーツァルトですから仕方ないですかね。
夫がロシア革命の関係でしょうが、監獄に入れられるのですが、パブロワは家財すべてを売って夫をロンドンに呼び寄せます。そこでまたドストエフスキーが「美は世の救済」と言う言葉を引用します。本当に最近見た映画はドストエフスキーばかりですね。そして庭師にあそこにチューリップを8100本植えてと言うのです。そういう性格なのでしょう。
良いですよねこういう性格。
次のニューヨークのシーンもいいんですよね。「リゴレット」の「女心の歌」がかかるなかオペラが好きな劇場主にオペラのあと演じることを命じられるのです。最高のシーンですね。「白鳥の湖」。本当にきれいです。これ以上の映画があるでしょうか?パブロワの象徴は「チューリップと孤独」ですよね。イギリスでのチューリップの話が効いてます。本当に思うんですが、ソビエトとかロシアはいい映画できちゃうときがあるんですね。これも良い映画です。ここで書くのもなんですが、マイケル・パウエルが監修で参加してます。その独特の色調が随所に出てきてます。あの「ホフマン物語」の共同監督ですね。
祖国に帰って、外国で踊りたいという(今で言う亡命)意思を伝え公演旅行に出かけますが、ここで大きなミスをします。これはストラヴンスキーも何回も言っていることなのですが、バレエの振り付けをする過程で音楽が変えられてしまうのです。それをパブロワはやり始めました。しかし映画ではこの振り付けについて旺盛な創作活動と描かれてました。
そして第一次世界大戦が始まります。逃避生活に入りますが、メキシコでの逸話は本当でしょうかねえ。知りませんでしたが、軍隊が動いたのです。バレリーナのために。
そしてパブロワはどこでも自然を感じながら自由にバレエをします。精神的に自由にと言う意味ですが。それは屋外での薪バレエ(薪能にちなんで)にもあらわれます。ここでも素晴らしいシーンがあります。この映画は本当に私の宝物です。この逃避生活の時の顔がまた美しい。これは映画のスタッフが狙っているので、作品の評価にもつながります。
今度はロシア革命ですね。当然ロシアに戻ります。かなり郷愁も強くなってます。ここで何があったかは映画では描かれませんがこのあとツアーで世界中を回るようになります。横浜にも来たと映画の中で都市の名前が出るのは良いですね。
ラビールの「ナイチンゲール」の衣装もよければ、表情もいいんです。本当に美人ですよ。
「バラのアダージョ」「トンボ」シベリウスの「悲しきワルツ」次から次にバレエシーンが出てきます。最後はいつも「瀕死の白鳥」サンサーンス。10年続けることになるツアーです。ソビエトには帰れないんでしょうね。
その頃ロンドンの庭師は8100本のチューリップを植えていたんです。さらに久しぶりにフォーキンとニューヨークで出会いますが、フォーキンはバレエスクールの校長、しかし昔の友達としてすぐに仲良くなります。離れていても結婚しなくても忘れられない人というのはいるんですよね。パブロワは一緒にツアーに行かないかと誘います。もう第二の人生のステージが始まっていると断り、しかしとてつもなくいい言葉を言います。「パブロワは劇場の中だけに真実の姿がある」(写真や映画ではうそ)「伝統を滅ぼしてはいけない」「その伝統を守るのは私たち」ディアギレフは終わった、ニジンスキーは狂う。
今度はロンドンの自宅でディアギレフに久しぶりに会ってパリに来ないかと誘われたときに彼も良い言葉を言います。「パリは晩餐に天才を食べる」「食べられた天才はどうなるのか。のみこまれて下水でおぼれている」。
リファールがパブロワを訪ねてきたときも良いシーンがあります「大衆にはバレエがわからない」「それなのにあなたはどこにでも踊りに行く」「もっと自分自身を大切にしなさい」「もっと個性的でいてほしい」。しかし、パブロワは違う答えを持ってますね。テクニックではない、ハートだという。たまたまマリインスキーから手紙が来ていて戻ってほしいと。
しかしその年、風邪をこじらせ結局このまま踊ることなく終わるのです。手術を拒否したのです。病の最後の床で叫んだのはフォーキンの名前です。まさに「ワンダフルライフ」と同じですね。一緒に生活する人と一生忘れない人は違うんですね。死ぬ間際に「瀕死の白鳥」がダブって終わります。良い映画かどうかはわかりませんが私は大好きな映画です。最終カットが川を流れる筏をこぐ少女というのも、「フリークスも人間も」と同じで何か不思議な気がします。

「怒りの日」 カール・テオドール・ドライヤー監督 デンマーク 1943年

 

1623年のころ、魔女狩りのときですね。私はよく知らないのですが魔女狩りはプロテスタントの台頭と関係するのでしょうか?ちょうどこの頃はプロテスタントの台頭の時期ですね。

とにかく魔女狩りの処刑の時の歌で始まります。

「怒りの日がこの世の終末を呼び太陽は暗闇に沈む

怒りの日硫黄と炎が降り注ぎこの世の美景が滅ぶ

怒りの日ラッパが眠りを破り苦しみの時を告げる

怒りの日トランペットが生者と死者を呼び墓を暴く

怒りの日主の法廷で悪魔のおそろしい罰が示される

怒りの日最後の審判が下り雷光が罪人たちを打つ

怒りの日主の御前で恥と罪の衣をまとう人々を見よ

怒りの日悪魔がロープで・・・」

このままの内容でした。

若い魅力的な女性をAとしましょう。このAは後妻で夫は牧師Cです。Cの前の妻の子供Bが引っ越してきます。ABは同じくらいの年。Cは明らかに若い後妻をもらったのです。これがお母さん(D)の怒りに触れてます。DAを家に入れるのを猛反対したのです。そんな、一発触発の環境の中、魔女狩りに追われた女が匿ってくれと家に逃げ込んできます。なぜなら、前の奥さんは、魔女と告発されたにもかかわらず(魔女として死んでいくものは誰かを告発するんですね、これでは魔女がいなくならないわけです)火あぶりにあいませんでした。なぜなら、早い話、牧師が手を回したのです。この魔女の認定者は捕まり、告白させられます(悪魔とどこで契約したかですよ、悪魔ですからね、信じられないところですが)。結局火あぶりになるのですが、死ぬ間際に牧師たちを「うそつき、偽善者」と言いながら死んでいくのです。

しかし、牧師は罪の意識を持ち始めます。実際にAの夫も母に「神に対してうそをついた」というのです。それに対して母は「Aの目を見たか」といい(実際に意志の強そうな目をしております)魔女になったかのような目であり、いつの日かAを取るか神を取るか決定しなければならないときが来るだろう、といいます。

Aの目は恋愛をした目なんですね。Bとの恋愛のシーンが続くんですがAの方が積極的です。そしてAは楽しそうにしていて、笑いもあります。この、Aが笑う様子は牧師である夫もその母も嫁いできてから一度も見たことがないらしいんです。そのくらいのめりこんでいて、最終的にはBはこんな恋愛いつまで続くのだろうか?といっても、Bが愛してくれる間は大丈夫、(私から好きでなくなることはない)というようなことをAはしゃあしゃあというのですよ。冷静に考えると、人妻であり、相手はその夫の元妻の子供なんですね。このような関係は血のつながりはないのですが(最近近親相姦とかの映画ばかりなので、笑い)、一般常識的にありえない、起こりがたい関係だと思うんです。その関係をなんでもなく続けることがこの映画では魔女的なのです。ということ、すなわち、法律上の関係を超えて愛を知ることは魔女の仕業なのです。Bは当然、この愛に終わりが来ることはわかっています。しかしAはその上でさらに、愛を楽しんでいるんです。Bは常識に縛られ、Aは恋愛は自由と今では言うのは簡単ですが1943年当時でさえ、難しいでしょうし、舞台は1623年です。BAにしばらくは別れていようというのです。

そうこうしているうちに、火あぶりになった女の言うように主の牧師は病で倒れ、Cがお見舞いに言っている間に嵐になります。そして「神からいただいた魂は神に」「この世からいただいた体はこの世に」返すといって死にます。嵐の晩に夫がいないときにABにしばらく別れていようといわれたのに、迫ります。しかしBAが父の妻である、と退けます。そしてACもうまくいかなくなります。というより感情がなかったことが表面化します。CもAの意思を確認せずに結婚してAの青春を奪ったと反省しています。Aは子供がほしかったのですがCにはもう体力、熱い情熱がなかったのです。ここでABのことを好きな気持ちを伝えると、Cを呼ぼうとして激怒して倒れ、そのまま、発作で死にます。そのことがこんどはBの罪の意識を高めます。Bは父が自分たちの恋愛のせいで死んだと思うようになるのです。Aはもう許されたというのですがそんなAに対してBは父の死を願ったであろう、というようになるのです。ABへの愛が唯一の罪というようになります。愛しさえしなければ、こんなことにならなかったはずなんですから。そして夫の葬式の場面、Bがこんどは牧師になりますが、おばあさんD(夫の母)がAが殺したというのに対して、Bはいかなるものも父の死に責任はないといいます。ここではAへの愛情というより好意または知人への情けなのでしょう。しかしおばあさんがAを魔女で告発すると、Aは素直に認めます。愛がもう終わったということです。Aは愛が生きがいだったのです。愛がなければ死んでも良いくらい愛していたんです。うーーん魔女なんですねえ。

「怒りの日主の御前で恥と罪の衣をまとう人たちを見よ」

「怒りの日悪魔がロープで罪人を吊り上げ天国へ運ぶ」

「怒りの日悲しく聖なる涙 主は血で我らを救いたまう」

まさにこの詩のとおりになって終わっていくのです。

たまたまクリスマスイブの聖夜午前0時のミサに近くの山手カトリック教会にいってきて、キリスト教についてちょっと考えたくなり、この映画を見ました。この映画「怒りの日」でも主は存在していました。沈黙してますが。構成はいい映画だと思いますよ。

 

「いちげんさん」森本功監督 1999年

正月に京都に行ったので、京都を舞台のこの映画を久しぶりに観ました。スイス人と盲目の女性の心の交流なのですが、テーマはいいけど、まとめ方は少しさすがにこちらが照れてしまうシーンもあり、京都の街もそれほど映っていないので肩透かしの感は否めません。

まず、竜安寺の庭園が映り、スイス人の大学生のモノローグで始まります。たしかに、テニスを一緒にやっている日本在住の外国人と同じようなしゃべり方なので、私にとってはまったく違和感ないのが、おかしい感じします。舞台は1989年の日本。ソビエトがあり、ドイツが2つあり、マンデラが獄中にあり、というのですが、バブル絶頂とは言いませんねえ。京都の町の感想として「町の奥のほうから、冷たいよそ者を見る視線を感じる」とあるのですが、それは私も同じく感じるので、この英国人に限ったことではないでしょう。さらに、「彼らは裏でつながっている」というのも確かです。言い方を変えれば、裏で連絡を密に取ってくれる、心づくしのサービス、をしてくれるのですが、その価値がある人間かどうか見きわめをされるんです。「まるで一冊の美しく装丁された古本のよう」というのは言いえて妙の表現でした。

盲目の女(顔は少女っぽい、普通の女の子、大学生くらい、以下Aとする)は文学が好きですが点字本に文学が少ないので小説を読んでもらうということで、二人は近づきます。この女の子の家、純和風で庭の松が見事です。松、続きですみませんが、そういえばこの女の子、松たかこさんが似合いそうです。この映画では女優は鈴木保奈美さんです。唇が印象的な女優さんです、あまり知らないんですよ。平凡な女の子です。そういえばこの映画の監督もこの映画まで知りませんでした。また知りたいとも思いません。途中この女優裸にさせられるのですが、なんかわざとらしい、いやなシーンです。京都の風景はどうしたんだ、このやろう、と思ってしまった感じがします。そういえばこの映画作成に京都市が参加しているんです。その点からもこの映画見て、京都へ行きたくなるのか?は無理でしょう。すなわち資本参加は失敗ですね。

はじめの読む小説は「舞姫」なにか先が暗示されますねえ。主人公の男の行動についてスイス人の留学生(Bとする)は「マザコンで官僚主義から自分自身を抜け出せないでいる人間」と言いますが、Aも似たようなことでもっとロマンティックに激しく女を愛せば良かったのに、というようなことを言います。しかし舞姫と同じような結論になるんですが。

話の途中、タバコをAが吸うのですがそのタバコの火をBが代わりにつけてあげたあたりと、そのタバコの煙をBの顔に吹きかけたあたりからAとBの距離は煙のごとく近づいていきます。

Bは大阪で英会話学校の教師をしているんですが、たしかに授業風景とか街での経験とか話されると、まわりでも思い当たる節がありますね。「いまわしい経験」というのはわかる気がします。それは英語で無神経に個人的なことを、仁義なく(股旅の影響です、挨拶なくということ)、話しかけられることです。日本人同士だと普通はないですね。

景色は、「つつじ」で2人で外出(ここで疑問に思うんですが、母親は二人を結びつけるつもりなのでしょうか?)して、喫茶店(こんな二人はうちの店はウェルカムです)でお茶して、映画(多分ダンアンクロイドとスプラッシュの人魚役の女優の出ている映画)観て、寺を散策(このお寺はわかりませんでした)そして哲学の道です。

次のカットのカラオケのシーンは木屋町と鴨川が出てきて、鴨川のほとりにJAPANESE DISTANCEという距離で点々といるカップルにBがひとりで割り込みをすると、彼らはいなくなる、という描写です。このお互いの距離は日本人は特に重要で、イタリア人なんかと話すときにすごく感じますね。彼らは会話の距離が近い。耳打ちに近い距離で話しますよね。しかしこのAは珍しくこの距離が近い女の子でした。

梅雨になるとド・ヴォルジュの官能小説を読んでくれとAはBにせがみます。この小説家日本語表記これでいいのかわかりませんが、このような名前です。知りませんでした。「そういうシーンをみんなと同じだけ読みたいの」という言葉には説得力があります。ひざまくらもせがみ、肉体関係がないのも不思議な距離です。Bが自制しているのでしょう。夏になり、ちょっと自分の中の欲望も感じたのか、「地球の歩き方」ふうのヒッチハイクに出かけます。このヒッチハイクのシーンなんか京都から離れるんで出資者たる京都市は怒りそうですがねえ。まあ要らないシーンです。

さて、とうとうのシーンですが、二人はカラオケに行ってその帰り、祇園から八坂神社を散策して雨にあいます。それでも「平気」というのは女のほう。雨の中のキス。まあ映画的ではありますが、そのあと雨にぬれた体を拭こうとして服を無造作に男の前で脱ぐのです。

そしてAは裸に。この裸、見るに耐えないというか、うまくだまされたのかというくらい大胆にカメラに撮られてしまって、多分、この女優を見るたびに思い出すであろう、くらい鮮明に脳裏に焼きついてしまいます。ここだけならいいのですが、そのあとも数回にわたって男女関係の描写があり、さすがに閉口します。(この女優自体は撮影が楽しかったとインタビューで言っているのでまあ問題ないのでしょう)何かおかしいですよ。京都市がお金出していると思うからおかしいだけなのか、わからないですが、少しエロドラマっぽいところがあるんです。

「京都は古い本のようだ。しかし最初のページより進めない」というのはわかるんですが(古い町はえてしてこういう傾向があると思います)、大学(同志社大学)の卒論の試験、あんな感じなのでしょうか。なにかがおかしいんです。ここで感じるのはこの話実話なのか?実話なら今出版して成功しているのに女のところに戻らないのか?フィクションなら日本に来てこんなことしか書けないのか?という疑問があるのです。書いた作者に対する生き方と日本に残した女のことがわからないのでしょう。私の感覚ですと、この本書いた時点で出版に成功したなら、女を迎えに行くでしょう。そこがわからないのです。ずっと友達でいようなんてことはないと思うのです。ここの問いかけを終われば、この映画はあとは枝葉末節の羅列なので、たいしたことはないのです。そして違和感はこの映画がテレビドラマみたいなことに気づいたときに自分の中ですっきりしました。

ここまで書けばあとは京都のシーンと出てくる小説の羅列くらいで問題ないでしょう。この女優が好きで裸が観たいならいいのでしょう、さらに愛欲の映画が観たいのでもかなりOKです。私は上のような疑問が途中で浮かび、真剣に見ることが出来なくなりました。

しかしひとつだけ理解できる場合があるのですが、それは、お互いにきっちりと別れて新たな道へ行こうと同時に思ったときです。映画では形上はそう見えるんですが、手紙をくれとか言っているうちは心の中に消えないで残るものです。それなら別れたことにはならないと思うんですがね。Aは生きる楽しさを教わっただけで満足して別れるんでしょうか?

知恩院で般若心経の写経をしているシーン、「社会の外に生きる男たち」(やくざの特集、フランス人の見たやくざ)、小説「暗夜行路」「砂の女」などが出てきました。

やくざは「セーラー服と機関銃」「股旅」と続いてます。次に「砂の女」見たいという気になりました。

(注。京都市のメセナ映画ということですが資本を出しているかどうかは確認しておりません)

 

「イノセント」ルキーノ・ビスコンティ監督 1975年

たまたま、「本陣殺人事件」と同じ年の製作ですね。そしてまた、妻の純潔の問題が出てきます。和洋を問わず、永遠のテーマですかね。特に女性は性ホルモンの分泌遅いので、夫とバランス取れないこともあるみたいです。

夫(Aとする)は愛人(Cとする)がいるのですが、CはAに全身で自分のほうを見てもらいたいという女性です。そこで隠れてAと妻(Bとする)が一緒のパーティーに参加するのですが、AとBが愛人を持つほど悪い関係ではないと察知して悪態ついて場の雰囲気を悪くします。AはBの元を去るわけにも行かず、どうしようもないのですが、何とか理由を言ってCを追います。実はCにはほかに求婚者がいるのです。その求婚者ともAは決闘をしてしまいます。Aの情熱は上がるばかりで、たまらなくなったこの気持ちをどうすればいいのか、と妻に相談するんですよ。そして「わがままを許してくれ」と言ってCの元に行くのです。Bは我慢強い性格なのですね。そしてこういう性格が安定した人間でないと正妻は務まらないとAもわかっているんですよ。ここまでは結婚からBを飼い殺しにしてました。

しかし流れが変わります。AがCのことで決闘をしている最中にもCはどこかに行ってしまうし、だんだん、Cにぞっこんでなくなりつつあるときに、Bの方はAの弟の友人の作家の前で睡眠薬を飲んだあとの酩酊して寂しいというみだらな姿をさらけ出してしまいます。その作家はBも気になるいい男でした(Dとする)。Dはそのみだらな姿でBの現状の不幸を察知して、積極的に誘います。夫に飼い殺しをされていたBは初めて愛を知るのです。そんなときに、妻がオークションに行くと出かけたうそが、妻を追って出かけたAが知るのです。その証人がCなのです。Cはこんなところまで私を追いかけてきてくれたと、その夜はうれしくて仕方ないのですが、Aが妻を捜しに来たのだ、というと状況を把握して、Bも愛人を作ったのでは?といいます。その言葉に動揺したAは家に立ち返ると、Bは出かけてます。

そしてAの実家(Aの母のところに滞在していた)まで追いかけていくと、いくらAが誠意を見せてもまったく興味を示しません。不倫でもここまでは、と思っていると、なんとなく妊娠したみたいです。ここでDという作家についてBもCもいいセンスしているといわれるとAも面白くないのです。まるっきり「本陣」の夫と同じで甘いのです。自分は好きにしていて、周りがあわせてくれると思ってもまわりも生きているのですからねえ。そういうことでAもDを意識し始めます。フェンシングもたまたま一緒になるのですが、そのときDの裸を見て若い奴には勝てないと悟ったのでしょうね。このあと、妻を実家に追いかけていくことになります。

ここからが良い所で、夫婦の対話がかなり入ってきます。Aは堕胎せよといいます。Bも申し訳ないといいながらも結局は母性で産みたいとなり、最悪別れてもいいといいます。このときBは「言い訳にならないけど、寂しくて、悲しくて、生きていけないと思ったのに、今こうして生きているのはDのおかげ」というのです。確かにそうでした。AはDの子供にAの名前をつけるのを嫌がったのですが、別れるという決心を見て育てていくことにします。ここでひとつ重要なことがあるのですが、Aは無心論者なんですね。すなわち天国も地獄もなく、今、この世にあるものがすべてでその人間などの交流、関係を大事にしていきたいと思っているのです。神のことを、想像上の人物といい、その抽象的なものに向かってお祈りするのはばかげているとまでいいます。ですから、子供が生まれてもまったく興味がないばかりか、洗礼などの行事にも欠席します。無心論者と他人の子供という二重の苦しみが多分無意識的にもAを追い詰めていきます。その追い詰められる様子を黙って見られるはずはなくBも自分自身精神的に追い詰めていくのではないでしょうか?

Aは「子供を通してDを愛しているのだろう」というし、Bは「流産も願ったのよ、Dが恋しいのではない、(自分の子供が愛しい、私の推測)」というのです。ある日、ミサに家族みんなで出かけると、子供の子守だけが召し使えで家に残ってます。Aは無心論者でミサに行かないので、この召使も行って来い、と追い出して子供の部屋の窓(冬の雪の降っている日)あけてじっと見てます。Bは教会に子守が来たことに衝撃を受けますが、Aの判断にゆだねたのでしょう。Aは赤ちゃんを冷たい外に置きます。なぜ、離婚に応じなかったのでしょう。そのときに「子供を父なし子にしていいのか」とBに離婚ををとめたのです。ということはBを欲していたのです。世間体ではないのでしょう。たぶん、自分で気づかないくらいに愛していたのです。自分の子供がほしかったのです。そのことに今回Cとの浮気を経て、初めて気づいたのです。Bも今回のことでAは精神的にBの元に戻ってきてくれました。かなり「本陣」と重なるテーマですが、「家、旧家」の伝統の重みをAは背負っているのと、何不自由ない生活のために自由を恋愛にもあてはめて自由に恋しすぎたのです。そして相手には純潔であれ、という根底の願望があるのです。この2本の映画は違うテーマですが、そのポイントはかなり重なるものだと思います。

子供を殺したあと、妻は本音を、Dを愛していたと、子供がかわいくて仕方なかったといいます。そして二人は離れて、Bは自殺でしょう。結局Aも自殺して終わるのです。最後まで認めなかったのですがCもわかっていたとおりAが愛したのはBだけだったのです。こうしてみると「本陣」とともにいい映画です。

 

「今のままでいて」アルベルト・ラトゥアーダ監督 1978年イタリア、スペイン

この映画を見るときはナスターシャ・キンスキーを見ることとマルチェロ・マストロヤンニの演技、モリコーネの音楽です。それしかないと思ったのですが意外と丁寧なつくりの映画です。メロドラマ風ですけどね。

まずは出会い。大胆な若い子のアプローチ。いいなあ。すっと他人の心に入っていける人は特殊な才能の持ち主です。しかもそれが昔の恋人の子供だなんてねえ。意外とありがちな話だとは思います。それも自分の子供の可能性あり、ときた。これ異常ではなく、自分の子供だから意外とありそうな感じです。

また、映画の中でマルチェロマストロヤンニ(Aとする)の子供も未婚のまま妊娠してしまいます。妻はなにやっているのかわからなくらい気ままに遊んでますし(でも実は夫への愛の裏返しなんですが)、ナスターシャ(Bとする)の友人は乱交がお好きです。このように乱れた環境の中、Aはたまたまであった魅力あるBを自分の子供の可能性があるということでまったく手を出しません。Bは何で手を出してくれないのか、じりじりするのですが、だめ。(結局昔の恋人とAの目の色がBの目の色と違うということで自分の子供ではないと言い聞かせるのです)そして本当の気持ちをAはBに伝えます。しかしBはAは父親の可能性があっても影響を受けたのは育ての親という方便を使います。一目ぼれしたのが本当の父といううれしさと、意外さで一日悩むのですが、一気に突っ走る方を選択します。愛に関してはどうしてもとまらない感情というのはあると思います。愛というのは本当に、なんでもないようなときに同時に選択不可能な状況で重なるものです。そこで選択できる人間が愛には勝てるんでしょうが、人生それで幸せとは限らないし難しいものです。さらにBは本当にAと一緒で楽しそうです。演技であそこまで出来るのは素晴らしい。この映画のときマルチェロとナスターシャうわさになりましたもんね。そのくらい、無邪気で楽しそうな演技。観ていて恋愛とはこういうものかと思えるような演技です。これだけの楽しそうな恋愛のシーンそう簡単にはないですよ。そしてBは今でお別れというのです。というのはBは最高のときに別れた方が良い、永遠なんて信じない、という考えなのです。最高の瞬間で止まることは思い出は美しすぎて、すごく人生のプラスになると思います。心の糧となることでしょう。また、Aを奥さんの元に返すという優しい気持ちもあったのだと思います。

正直ここまで良い映画だと思いませんでした。実際私の中ではかなり心の、また感情の琴線にぴんぴん引っかかりました。風景もフィレンチェ、ローマ、多分マドリッドが舞台でしっとりとした背景が情感を盛り上げてくれます。しかしあまり保存状態が良くないせいか画像はかなり劣化しているのが残念です。ハリウッド映画みたいに修復されないでしょうから今回以上の画像は望めないかもしれません。しかし実に良い映画です。俳優の演技も最高。こういうラブロマンスはイブ・モンタンとかマルチェロ・マストロヤンニ、アラン・ドロンがいいなあ。

 

「インディペンデンス・デイ」ローランド・エメリッヒ監督 

この映画なぜか観ないままでした。多分、「ディープ・インパクト」とかも面白いのですが印象が弱いせいだと思います。でも大音量で観て見ましょう。こんなことは休みの日にしか出来ません。

しかしここにジョディ・フォスターがいればなあ、というようなメキシコの宇宙レーダー探索ステーションで始まります。まあ宇宙人らしきものが月にいるとのこと。考えてみれば災難が地球に降りかかったとして一番慌てるのは今はアメリカ人かもしれません。

話が散漫になってますが、まあ隕石の大きいのが降ってくるということ。これはもう運ですね。地球の軌道が変わって人類滅亡でも仕方ないし、たまたま生き残るのも運。米国大統領も残って、臨時の閣僚を組ませるみたいですよね。何かこの映画プロパガンダはいっているような気がします。どこの?さあアメリカ政府ではないでしょうか?隕石が3つアメリカには向かっていてそれはLANYとワシントンというのはいくらなんでも確率が良すぎるか、恣意的なものでしょう。ということで破壊目的なんですが、その攻撃が宇宙船艦ヤマトの「波動砲」に似ているのには笑わされます。というよりこの映画基本的にどこか間違っていると思う。何も言わずに攻撃するというシーンを作るほうがおかしい。なぜならば有無を言わせず破壊できるなら、一気に突然それこそ地震のように破壊します。映画的な時間が流れてますよね。攻撃というところまでかなり時間かかってくだらない各方面のリアクションなんかをスケッチ風にまとめてます。動機は地球が欲しい、それだけ。酸素を吸って生きていて寒暖の差に弱いからです。それなら人間と同じ発達をすると思うのですが、同じ発達の経路をとったとしてもスタートのときが数億年違えば結果も違いますよね。

しかしあの無線屋と黒人パイロットはかっこいいですね。あと大統領も最後に戦場に出て行くところはいい男です。

ということで最後のほうは一気に観てしまった感じで、わくわくしたというしか表現が当てはまるだけの時間でした。こういう映画って考えないで心地よい気分にさせられますね。ちょっと爆破の余波は小さすぎるかな、とか余計なことは考えるのはやめましょう。映画館では叫ぶ人間はいると思う。

 

「イングリッシュ・ぺイシェント」 アンソニー・ミンゲラ監督 1996年

「プライベート・ソルジャー」に続いて1944年の11月です。イタリアですので解放後。戦争初期北アフリカで地図を作っていた男(A)が被爆して全身やけどを負います。その後現地の仲間が現地の方法で応急手当をしてくれて助かるのですが付き添いの看護婦がイタリアの丘の上の教会に一時、自分も安静を求めてこの患者とふたりで生活を始めます。目的はあまり明確ではないのですが。

ギブリ、チェニスで吹く砂嵐、そしてアジェジェ、南モロッコのつむじ風。ハルマタン。サイムーン。

Aが怪我をする前を少しずつ思い出していきます。砂漠のランデブーがあったんです。思い出すのは熱い恋愛のことばかり。「砂漠の狂熱」というタイトルだったかバルザックの短編にあったと思いますが似ております。あの短編は「砂の女」のほうが似ているかな。

Aが人妻と恋におちてしまうのですが、それが激しい大恋愛。なにがきっかけか?結局一目ぼれ同士なんですよ。そして男のほうの真摯な態度に惹かれている自分に女のほうは人妻なんですが気がつく。そして燃え上がっちゃうんです。しかしその女が旦那の元にもどります。Aは悪態ばかりつくようになりました。しかし苦しんでいるのは女のほうもなんですね。恋愛の度合いで、相手の苦しみはわかります。ちょっと前に見た「私たちの好きなこと」もあのふたりはいい感じだったんですよ。ということは別れてあげたあの岸谷の懐の大きさが目立ちますね。あれは普通は出来ないですね。あと少し話が飛びますが、看護婦とインド人のラブシーンも秀逸ですね。この監督どこかで聴いた記憶があるのですがほかにどんな映画撮っているのでしょうか?すごくいい監督ですよ。

そして知り合いと終戦まじかのイタリアで再会するのです。その男はナチスに捕まってカナダのスパイとわかり、仲間の名前を白状しなければ指を落とすといわれて切られたのです。Aがスパイだと思っているのです。そして事情がわかり人間性を取り戻していくのです。

しかしAの不倫相手の夫は当然、妻の不倫に気がついていて、なかば自殺をします。妻も道ずれだったんですが不倫の相手同士は生きてしまう。そこでいろいろと裏切られたり、裏切ったりしますがそんなことはどうでもいい。愛なのです。出会ってしまったということは「縁」なんですが不可避的な問題なんですよ。愛の映画としていい映画でした。

ラルフ・ファインズは「ことの終わり」でも同じような、素晴らしい愛を演じてますね。「レッド・ドラゴン」なんて出なければいいのに。

「海辺の家」アーウィン・ウィンクラー監督 2001年

いやらしい世の中ですね。模型作りがリストラにあって退職するとき、記念に自分の作品をいくつか持って行っていいか、と聞くとひとつだけ許可するとのこと。顧客にはCGで足りるけど、オフィスのなかにはCGを置けないですから本物が気分転換にはいいのです。しかしリストラとはね。だいたい、映画だけではなく本当の人生もそうですが悪いことは重なります。癌です。私も回りにいくらでもこの程度の人はいるので、あっそうなのという程度になってしまいました。なにがやりたい?その前にテーゼを、「あと何月しか生きられない」というのは大体違います。もうだめだというところから数年生きている人もいます。きっちり死んだらうそ。まこの主人公Aは「家を建てたい」となります。「家」は大変なんですよ。3回立てたら寿命はないというくらい。それを離婚した妻が持っていった息子と作るというのですが息子はグラムロックにいかれてます。しかし結局手伝うというのは、これはDNAなんではないでしょうか。家族親子というのはどうしても切り離すことができないものなのでしょう。これはすごくよくわかることです。愛情と生活の安定も相容れないようで実は両立できる感じもします。この親子はそれで別れたし、今でも感傷は残っているのです。また息子Bは近くにかわいい女の子がいることもなんとなく去りにくい理由のひとつとなってます。原子的な生活ができないBなんですがAは意図的にか何かをこの息子に残そうとしてます。動物としての人間、感情のある人間ということの再認識、家族の素晴らしさ、友情の大切さなどでしょう。再婚した妻のほうはなんというか恵まれているのですが家事があまり得意でないようで、料理もあまりしなければ、飲み物も缶のドリンクです。映画でよく缶ジュースやビール、ペットボトルが出てくるのですが、普通は何か飲み物を作りますよね。それができなければまず基本失格だと思うんです。そういう女でいいという男もまあ気にしないんでしょうが、Aはそういうところも少しは気になったのかもしれません。しかし妻が気持ちの上でAに戻ってきてしまうのです。お金で買えないものがありますから。はい。

映画ですからね、建てているところのシーンめちゃくちゃいいですよ。実際家というのは建ち始めればすぐなんですよ。基礎が問題。そしてその前の土地の購入や許可が一番の問題なんです。Aと元妻が仲良く踊るシーンを見てBは自分のルーツを知ります。なにか妻も戻ってきそうな雰囲気ですよ。「来ないほうが良い」と断りますがこの判断は正しい。旦那のほうも実はあきれているのです。妻は「いてもいないのと同じと言いますが、実は影で思っているんですよ」(なにか「はつ恋」の平田満みたいですが)。「愛だけでは何も成立しない」しかし「愛があれば」という感じもするのですが、Aは死んでいく身ですからね。

しかし旦那のほうもダサい、気がついていて、「ベットで待っているでは」だめですよ。Aなんて旦那が出て行ったと元妻から聞かされたとき思いっきり抱きしめているんですから。この差は大きい。結構前から思っていたんですが、どんぴしゃの描写を映画でしてしまいますね。監督は言わなくても判ることですが丁寧な作り方をしてます。

もっと言いたいことはあるのですが、なにかいい映画でした。役者もみんないい。ただそれだけでも十分でしょう。

 

「運命の女」エイドリアン・ライン監督 2003年

久しぶりにダイアン・レイン観ます。というよりショックを受けました。おばさんですね。

もともとずば抜けて美人ではないので、平凡な白人の中年です。また映画の始まり方が、ダサい。風で若い男と出会う。ここで観るのやめようと思いましたもん。リチャード・ギアはそれなりにかっこいいです。

どうでもいいけど、何か中身がなさそうな気楽な映画みたいです。しかしこの男の初めての抱きしめ方、そのタイミングはGOOD.つぼを得てます。このままなら、なるようにしかならないという感じですよね。

実際、愛というかセックスにのめりこみます。まあ女性は30後半から40くらいが性ホルモンが盛んですから、ありえる話でしょう。女のほうは頭から若い男が離れなくなっていきます。夫も疑い始めるのですが、妻の体が若い男を欲しているのですからどうしようもないでしょう。あとは時間が解決ですね。無理に夫が動くとこじれます。しかし動くんだなあ。架空出張を作って家を空けて、その間に妻の素行調査を依頼します。まあ妻はそのまま出かけて楽しむのですが。。。ちょっとつまらないので続きは後日、観ます。

この映画つまらないというより、こんな恋愛身近に多くありすぎるので、平凡なんでしょう。特に私にとってはね。これがロマンティックと思えるのは、周りに恵まれていないか、本当に平凡な人たちだけでしょう。結論は男が握っているんです。この映画ではどうなるか、身近のなんとかさんのケースとどう違うのか、あの人とは同じかとか、そういう興味しか残ってません。しかし、まあ時代が変わるもので、リチャード・ギアが情けないですね。

大体は、夫が黙っていると、戻っていくものなんですが、下手に調査しないほうがいいし、相手の男に会わないほうがいいですね。知らない振りをしているのが一番成功しているみたいです。一番だめなケースは、騒ぎ立てるケース。まあこれも周りの経験者を見た結論ですけどね。しかし殺すとは思わなかったですね。これですべては破綻します。だから馬鹿なんだよね、と言う感じがします。監督の性格でしょうが殺された男も実は結婚していたんです。それで別居中の妻から捜索願が出されてしまった。これじゃ、ABの夫婦ともに馬鹿見てますよ。不幸が突然襲ってくるというやつですね。

あと追加、子供がいるから話が変な方向に行くのですね。または子供がいるから元に戻るともいえるのですが、大体周りで見ているとともに子供がないもの同士がうまく行くみたいです。すごいのは男女ともに離婚して結婚というケースもありますね。この辺なんかこの映画を超えているような気がします。日本人もおかしくなってきたかもしれません。

映画では愛再発見で終わるんですが、そんなに甘くないよ。ちょっとかったるい映画です。その辺の町にいくらでも転がっている話ですよ。

「大いなる遺産」 アルフォンソ・キュウアソン監督 

この小説は大好きで、高校時代に原典読んでいた記憶があります。この映画はディフォルメされてます。

しかし色の使い方が意味によって分けていてきれいです。そして音楽雰囲気すべてがロマンティックにまとまってます。しかしストーリーが19世紀ロマン小説の面影がないのです。「目ではなく手に人格のすべてが出る」事実です。良いことを教えてもらったんですよ、そして命を助けてあげるんですね、脱獄囚の。これが最後まで影響するなんて、本当にわくわくして読んだ記憶があります。この映画もそのあたりのつぼがはずしておりません。

ダンスを踊りに行くといって絵を描くようになるのは最後まで影響しますよ。ひとつの冒険心、見た目ではない脱獄囚を助ける優しい心が人生を変えるのです。このダンスの音楽が「べサメムーチョ」というのがメキシコ湾岸に舞台を移しているだけにこの映画の雰囲気作りに貢献してます。

しかし子供のときの幼なじみというのはかなり人生の中で大きな役割も果たすのですね。今は近所づきあいも少ないし、マンションが多いし、習い事などで本当の近所づきあいのできる幼友達が少ないような気がします。ですから良い友人のできるような学校に通わせたがるのでしょう。この子供のときの経験が本当にすべて主人公の人生に影響してくるんですね。ここにポイントがほとんどあると思います。素直な気持ち、子供の純粋さ、子供の夢などです。

それが「きっかけ」をくれたんですね。そして若者になった(A)は成り上がって、昔のダンスを踊ったエステラ(B)をものにしようとがんばるんです。そしてNYの街を描きはじめます。なにか昨日の「恋愛写真」と同じようなパターンですね。自分でもおかしいくらい。同じく故郷の存在は大きいですよ。やはり生まれ育って利害関係のない間柄というのは一生忘れられない思い出ができるものです。お互いに語りはしないですが、その思い出は大事に持っているのです。

そしてAは才能を発揮して個展を開けるようになります。ここでミスをします。Bが求婚されていると告白するとAは「おめでとう」と言って、心の中でなぜそんなこと俺に言うのだ、と言ってしまう。これが素直でなくなってきている成り上がりの気持ちのすれなんです。ここで「俺と一緒になれ」で良いんですよ。子供のときは言えたのにね。都会に出てきてしまうと何かいろいろなしがらみが絡まっておかしくなってしまいますね。「ヒポクラテスたち」のあのカップルみたいです。しかし突撃開始。婚約者がいるのにディナーの席に行って踊ってくれないか、と誘い、昔一緒に踊った踊りを踊るのです。それは息はぴったしでしょう。NYの連中は頭でっかちが多いからこういう踊り得意ではないんです。

そして個展に故郷から見に来てくれるんですが都会と勝手が違います。その人に冷たくしても故郷はルーツなんですけどね。そこに戻ることになるところですよ。故郷を切ってBを迎えに行くとそこには上流階級の冷たい仕打ちが待ってます。Aを利用して同じ上流階級同士で結婚させたのです。まあ振られたというか、一人になりましたね。ところがですよ、この小説は。

ディケンズの才能は素晴らしい。振られ傷ついた心をABの母から受け継がせるのです。次に愛の復讐に燃えるのはAになるという構図。それまではBの母が裏切られた婚約者による心のトラウマから愛に対する復習を誓っていたのですが、その復習をBが上流社会の中でかっこたっる地位を築くために利用してAを壊すことで達成したのです。

しかし個展の後、わかっていてもAとあの脱走犯の出会いの場面は良いですね。すごく映画、、というのを感じさせてくれます。すごい良いシーンです。内容がわかっているからかもしれませんが、「大いなる」といわれる「遺産」とはなにか?それが伝わってきます。デ・ニーロの話し方も良いですね。そしてお絵かき帳が出てくるときにはもう感動で体がいっぱいになります。本当にあの助けられたことがうれしかったんですね。そして子供の素質を見抜いていた脱獄犯、すごい執念の素晴らしい影響をAに与えていたのです。女と男の異常な執念に翻弄された奇異な人生をすべて知ることとなったAは本当に人間がわかってくるでしょう。孤独の意味がわかるでしょう。素晴らしい経験をしたのです。その後のことはどうでも良いでしょう。うまくいくに決まってます。なぜなら?こんな素晴らしい遺産をもらっているのですから。故郷で良い出会い。そして永遠の愛。初めからわかっていたことですがと遠回りしただけです。

 

L.A.コンフィデンシャル」カーティス・ハンソン監督 1997年

時代は「めぐり逢う大地」が大陸横断鉄道ができるときなら、こちらはハイウェイができるときです。まあ街が完成するときには裏の人たちも必要でしょうから、犯罪も起こるんでしょう。「仁義の墓場」の戦後の闇市もそうでした。

まあいい映画でしたね。ロードショー以来ですからもう6年近くになるんですね。誰と観にいったか覚えているので具体的な数字が言えました。昨年かな、この映画の原作の翻訳で商売している方がお客様でいらっしゃいました。この映画の話で盛り上がったことは言うまでもないのですが、その方は本のほうなんです。意外と調べれば誰かわかることなので調べてみてください。はい。

タブロイド新聞の記者が面白くおかしく記事を書くのですが、実際は脚色しなくても面白いことばかりあるというようなことです。

まずは「ブラディークリスマス」仲間の警官がやられたのですが、その犯人が捕まりました。その仕返しを警察内でしているところを写真に撮られてしまいます。これは一般紙。タブロイドのほうはちょっと警察とつるんで面白いようなできレースを書いているのです。

そこにまじめな警官が親譲りで刑事職希望でやってきます。この警官がまじめなやり方で最後を飾るという簡単な話です。あとは面白くなるような話が付け加わっただけですけどね。この映画やけに評価は高いです。実際にいい映画だとは思いますけどね。ちょっと変な話なんですがケビンスペイシーが出ているんですが彼を見ると「アメリカンビューティー」で朝からいけないことをシャワー室でしている姿をどうしても思い出してしまうことは付け加えておきますね。いけないこととは言えないんですが。あの印象は強いなあ。

このクリスマス事件でまじめな警官Aはすべて犯罪を明らかにして市民に信頼してもらわなくてはならないというのです。このため警察内部に敵ができます。当然ケビンではないです。かれをBとします。ちょっといい加減な刑事。彼がテレビの刑事ドラマの顧問やタブロイド新聞などの世話をしてます。それを利用してそれらの仕事を下ろすといい証人にさせます。まあ改革の始まりです。

逆に言うと汚職の最後の仕上げです。まあ上司が絡んでいるから仕方なしです。使えそうな刑事を部下に荒稼ぎして引退でしょう。

Bは風紀担当にまわされてポルノなどのチェック。これである娼婦とコンタクトとります。

しかしAがいくらがんばっても内部に先回りして、かつ行く手をさえぎり証拠を処分するやつがいるのでどうしようもないのです。さらに現場でいやいやついていった刑事がAのいうことを守り殉死してしまいます。この辺でおかしいと思ったでしょう。行くのがばれているんでね。だけど、悪いやつの手下にした刑事もだんだん悪いやつらの正体がわかってきます。そしてちょっと久しぶりに愛の味を思い出すとまっとうに生きてみるか、と思うんですね。この刑事の動きをAが気がつくのです。この刑事のほうが先回りしているんですよ。そしてこの刑事を飼いならしたはずの男は気がついていない。そしてABが組んでこの刑事とともに?解決の方向に導きます。しかしラナ・ターナー事件は笑ったなあ。「ロロ・トマシ」の暗号には感動しました。「グッバイモロッコ」の「ヒィーディアス・キンキ」も楽しかったですが子供の暗号は聞いているだけでもかわいいなごみがありますね。最後の銃撃戦は迫力ありました。まあいい映画です。

「エレメント・オブ・クライム」ラース・フォン・トリアー監督 1984年 デンマーク

「奇跡の海」以降の感じとまったく違う映画です。まず男が精神科にかかるところから始まるのですが、治療メソッドが後に出てくる捜査メソッドと同じなのです。人間の思考と現実の行動の一致なのです。まあどうでもいいことですが、欧州(ドイツだと思う、それに英国の感じも、しゃべる言葉が英語だから、これらをミックスして欧州全体を表現したかったのかも)に滞在して何かにとりつかれたという男が出てきます(A)。欧州は昔と変わったというのですが、それは容易に「安定性がなくなった」ことだと推測できます。これの答えが主題です。監督の答えは私にはわかりません。Aは13年ぶりにカイロから欧州に出かけます。刑事で殺人事件の捜査協力(少女のばらばら死体、この死体は毎月4体の死体があがる一環の一人、連続殺人事件です)のために戻ります。Aの恩師が書いた本が「犯罪の原典、エレメントオブクライム」です。

同期の嫌なやつがいつの間にか警察署長になっていた。

宝くじ売りの女が殺されたんですが、現場のシーンに馬が殺されて海に落ちて拾い上げられるという映像が散りばめられております。馬は男根、男の象徴ですけどねえ。しかしここで決定的な挿入が。子守唄のようにこの事件の結末に関係することが流れるのです。そのなかで死体は収容されます。これはまずは結末の提示、そこから派生パターンですね。

死体には犯人の残した後があるのですが、検死官は美しいというのです。それはすべて窒息死させてから同じ切り口で切り刻まれているのです。ちなみに残虐なシーンはありません。馬といえば「カルネ」をどうしても思い出してしまう。ノエ監督ですね。こちらは馬は象徴というだけでしょう。

まあ戻って、恩師は誰かをかばって自分の著書の書いた犯罪理論を曲げているのです。人間、元気なとき頭で考えるときと、体がついていかなくなってから頭で考えることは変わってきます。そして結婚についても嘘があり、年を取ってから結婚して奥さんが逃げ出したのを死別したというのです。この恩師の異常性が明らかになり、必用書類を焼くことといい何か関係があると思わせるのです。恩師の担当した連続殺人と今回が関係あるのです。それは表題の著書に犯罪者と警官の精神的同一性をもって犯罪者心理をつかむ、という原則を持って犯罪のあとをトレースしていくメソッドなのです。Aも同じ道を歩んでみます。連続殺人の犯人と恩師のたどった道。途中、たしか「犯罪は必ず、ルールがあるのですか?」というようなインタビューの挿入があるんですが、Aも正しいルートを歩いているという前フリです。

第一の現場はアジア的で場末もいいところ、アヘン窟みたいな感じの売春宿。第二の現場の向かうときこのアジア人の(私には中国の南のほうの人種にみえる、名前はキムというけど)売春婦が一緒についてきます。そして、Aの自己分析の補助をするかのような言葉をどんどんと言ってゆきます。「人は変わるわ、生きていくために」どんぴしゃ、の言葉です。その裏づけの映像はAが思考するとき水に浮かんで流れていくのです。そういうシーンが随所で出てきます。そうすると、一箇所殺人が起こっていない場所が浮かび上がってきて行ってみるとやはり殺人が発見されないだけでした。

何かおかしいでしょう。そうです、Aが恩師、そして恩師がトレースした犯人の動きに自分も束縛されて、かつその束縛から無意識にどう考えるべきかという強迫観念が植え付けられて、神経症的になってきているのです。これは本人は気がついていない。映画を見ている観客はナレーションがかなりいろいろと入るので、ちょっとややこしいでしょうがはじめに、あの子守唄に気がついてしまったので。あとカイロでの治療の先生の言葉に反応したので意外と楽に見ることは出来てました。

ひとつ気がついたことがAにはありました。殺人現場を地図においてみるとHの文字が浮かび上がります。そうなると、これが完成していないところでまだ殺人が起こる可能性があると読むのです。このへん、「羊たちの沈黙」のレクター博士みたいです。

それがわかっても犯人の子供を生んだとキムに自白されて半分おかしくなりそうになって、少し妄想が出てます。なぜならば、犯人に接するのとまったく同じようにキムは行動していたからです。それだけならばいいものを、Aも同じようにさらに正確に犯人の行動をトレースしていたのです。ですから犯人の狂気が乗り移らんばかりですよ。

警察署長は、「アナーキーだ、自由ではない」といいます。まあ私と同じような意見です。とにかく欧州に行っておかしくなるなら安定性がないのです。カイロのほうがいい訳はない。これは私の考えです。どういう安定性かというと、すべてです。人間性、政治、国家、さらには人間の精神構造までも含めて安定ではない。カイロはどこかハイテクを受け入れない部分、気候の性で人間が怠惰に出来ている分、安定しております。多分ね。カイロ行った時私も暑くて動かなかったですもん。夜に出かけて食事くらい、そうなると楽しみは食事と寝ることくらいなので、悩みなんて考えるより楽しみを作っていく、人間の会話のほうが大事です。引きこもっちゃ、生活できないですからね。さらにカイロは宗教的にも安定してます。

恩師は計画の完成のために自殺します。ここで死ななければいけないという場所があるんです。そしてAも犯罪に加担しそうになるのです。完成の前の殺人を危うくしそうになる。しかし恩師はAを嵌めて先に殺人を行っていたのです。なのに、なぜAを呼び出したのか?そうです、恩師は犯人になってしまったのです。そして恩師によって完成してしまった殺人なので、Aはどうすることも出来なくて気が狂う、精神的浮揚感しか残らない半分狂人になってしまいました。精神の深遠なんてないと、人間は起きて食事して寝る、これが基本。食べ物を捕獲するか栽培するか、自然と共に生きること。これが欧州に欠けているということみたい。ひとつ気になったことは完成前の殺人はAが行ったかもしれない。しかしそれならば、倒れた男の映像の挿入はなにを意味するのだろうか?

どちらにしろAも恩師も狂っている。そしてカイロの精神科の声も聞こえなくなっている。思い出す過程で発狂しましたね。もともと犯人と同じなんですから危ない存在にはなっていたんです。しかし続けて坂口安吾の発狂とこの映画の発狂と狂った映画が続くとさすがにおかしくなりそう。しかしいい映画ですよ。

「オー・ド・ヴイ」 篠原哲雄監督 2001

浜辺に裸で打ち寄せられている女からスタートする。場所は函館。景色がやけに横浜に似ている。市電が走っているのと、函館の方は幕末の幕府の最後の砦となったことくらいの違いか。しかし夜景などの明るさはほどよく、横浜みたいに絶対的に明るくはない。その浜辺も沖にイカ釣り漁船の明かりが灯っていてその明かりが揺れているのが魂の揺らぎみたいで良いですね。

舞台がバンドネオンとピアノの生演奏つきの程よい大きさのバー。内装はレトロではないのですが、雰囲気がなんとなくたるんでいる。その原因は後でわかることになるのだが。しかし、おいしいお酒を飲みたいという空間があることにとりあえず驚く。特に香が良いお酒を飲ませるみたいで、専門が「オー・ド・ヴイ」という蒸留酒とのこと。私は酒はあまり詳しくはないのですが、日本酒もお米からなのでおいしい酒があるのでしょう。お酒の飲みながら踊るのですがそれがすごくセクシーなんですね。直情的なんですよ。しかしここで出てくる人間が中年ばかりなことに気づく。中年の恋と性がテーマなのか?

確かに中年というのは、年月を生きただけで、寂しさが増しているともいえる。頭は回るけど、体がついていかないところがあるし、その分脂肪が体につきやすい。ここで対比的にフランス料理屋が出てくるのですが、すごい内装(アールデコ、あのステンドガラスだけでも高いよこの店、という感じの店)で馬鹿げたくらい大きな厨房、中でのやり取りがフランス語、馬鹿にするのもいいかげんにしろというくらいですね。この空間は食事にきた、岸谷と鰐淵が浮いてしまうくらいに決まっている。デザインに入り込む余地がない決まり方です。ですからこのフランス料理屋での食事のシーンすべてがアンバランスなんです。

そして外観はいいかげんですが中にすごいお酒が置いてある酒屋。バーテンダーの実家みたいです。そこでは実際に蒸留酒を作っているんです。「外は古くても中は粋だ」これが中年なのか、と思わせる瞬間です。ただこれだけではないんですよ。蒸留酒を作っている父なのか中年の親父曰く「おれはもう酒になっている」という言葉、中年=オー・ド・ヴイなのか?ここで冒頭の裸で死んでいく女が100%アルコールに近い酒を幸せそうに飲んでいるということがわかる。たぶん酒作りの夢なんでしょう、こういう幸せな気分にさせる酒を作ることは。

さてフランス料理屋ですがシェフも見習いも若いから直情的でかつ、作っているものが料理なので脂ぎっていて、かつ若さという油(エネルギー)もあるので(中年の脂と違うんですよ)性交渉も直球勝負です。しかしこの女の見習とバーの見習のオカマが街で出会うんですよ。(出会いの場が街角というのが悔しい)当然、バーに連れてこられてオー・ド・ヴイを味わう。(いつもはシェフの存在のような安ワインを飲んでいるらしい、そのくらいシェフは軽い存在なんですね)バーというのは酒だけの世界、しかしオー・ド・ヴイはいろいろなものから出来ている(蒸留する対象は何でもできるくらいらしい)のだ。フレンチは調理をするのである。調理と蒸留の違いが何かあるのだ。酔いつぶれて見習いコックは裸で海に寝そべる、その周りを女の性器を描く、バーテンダー。いつも中年の女に抱かれていたバーテンダーは若い女の体(きれいなライン)に魅力を感じてくる。この二人はいつもやられる生活に飽きていた。コック見習はシェフにやられるばかりの生活で、バーテンダーも中年のひもみたいでいつもやられるばかりの生活だったので、もしかしてうまくいっちゃうのか、と期待する。

閑話休題。人間の裸というのは、上の海辺でのバーテンダーとシェフ見習のからみとか、また、そのあとの朝日まじかの青の光線の世界の中また裸で寝ている女の死体を発見するのだが、若いシェフといいこの女といい裸は自然の中で何故こんなにも浮いた存在になるのだろうか?たぶん体毛がないせいもあるのだろう。そこに着ること、隠すことすなわちファッションの必要性があり、オシャレの遊び心が存在しているのだろう。そのオシャレ感覚が中年=オー・ド・ヴイなのかもしれない。

フレンチの厨房では上の考えに呼応するごとく、ウサギの料理をさばくシーンが出てくる。こちらは体毛がついた皮ごとをはぎ裸にして、内臓をえぐる。いわゆる直接攻めるんですよ。原型から調理するので出来た料理は原材料が変形するだけです(ここでコンソメを何で出さないのかはこの対比の問題だと思う)。対してオー・ド・ヴイは原型からエキスを抽出して水の形に変形させるんですよ。この対比は人間で言えば年を重ねることのよさ(蒸留酒)と絶対的な若さのよさ(フレンチ)の両立の願望なんでしょう。実際にバーテンダーとシェフは「焼きハマグリ」を食べる。これは自然そのもので単に焼いているだけなんですよ。いわゆる自然を食べるんです。対してフレンチは文化であり、人間の創造的なものなんです。

オー・ド・ヴイは実はピュアな若いものが感じられるものなんですね。味がわかるのは中年なんでしょうが。

この二人が束縛から逃れるためにバーテンダーは中年女(母だとやっとわかる、ということは近親相姦だったのかよ、となるんです)から離れようとする。しかし母からはすべてを与えられていて離れることが出来ない。酒屋の親父は父親ではないみたいですね。もしかして母が再婚したのかも。そして見習いシェフの方は妊娠がわかった後束縛を解くためにシェフを焼き殺そうとする。ここでずるいのですが、中年女が笑顔を持って裸で死んでしまうんですよ。たぶん、自立のときだと見たのでしょう。ですからバーテンダーの方はいっそう束縛にあい、もう若い見習シェフの方を見ることが出来ない。見ることができるのは中年女だけなんですよ。

さて最後の謎解きですが、見習のバーテンのオカマが「考えすぎると死んでしまうよ」といって酒を置いていってくれそれを飲むと、少年時代の自分がいるんですよ。もう束縛だらけの自分です。夢の中で(市電に乗っているという形)で冒頭一緒にダンスした女も出てくるんですがやはり消えていき、母が現れるんです。そして、その母を蒸留したオー・ド・ヴイを飲むと安心した眠りにつく。そして母が旅立っていくのですが追いかけるとそこは海(女性の象徴ですね)で、彼方に消えていくと、そこに覆い被さるようにイカ(男根ポイ)ものをくわえたシェフの見習の女がでてくるんです。ここで母からの旅立ちを余儀なくされるんですが、起きてみると裸で海岸に横たわっている自分がいます。現実に引き戻されるとそこには何気なくシェフ見習の女がいるのです。朝ご飯食べに市場に行くとイカを食べるんですよ。「このイカの耳のところおいしいのよね」と性的イメージを発するのです。二人は別れ別れになるのですがシェフ見習は全身やけどのシェフと同居して、完全に従属させているんですね。子供のが出来たためと完全に男を束縛することに成功したからです。バーテンダーの方はバーに戻り、父と見習と酒を飲んで、楽しそうにしている二人を見て一人隠れて酒を飲むのですが、酔えない自分がいるのです。いままでは酔った風にしか現実を見なかったのですから母からの束縛が切れたあとは急には酔えません。まあ、すぐにこの人にぴったりの女性が入ってくることを示唆して終るのですが。この映画はちょっと「サンタ・サングレ」に似ているところがあったのでした。しかし、途中からオー・ド・ヴイの見方が変わったのは私が未熟だったせいでしょう。自立の物語だったとはねえ。フランス料理と蒸留酒の関係はもしかしたらぜんぜん違うのかもしれません。なにか続けて「サンタ・サングレ」を観ようと思います。そこで比較してみたいですね。

 

「サンタ・サングレ」 アレハンドロ・ホドロフスキー監督 1989年 たぶんメキシコ映画

上で比較といってみたのですが、勘違いでした。テーマは同じですが、その作りと独創性規模がまったく違います。こちらの方が数段上です。しかし何回見てもすごい映像です。この作品は音楽もすごくいいのでたまらない映像を見る、感じる快感があります。また、笑えるくらいに今まで見た映画の比較のシーンが出てきます。

スタートは「バーディ」のように病院の独房に裸で鳥のごとく止まって引きこもっている男が映し出されます。そこに「鷹」の映像がダブります。まさに鳥のマネは鷹のマネだったのですね。(映画の始めに「鷹」が写るのは昨日見た「アマチュア」もそうです。力と権力の象徴でスモンね、たぶん何かそのようなことがでてくるのでしょう)そしてメヒコ(メキシコシティ、好きな街なので、そうと映画の中では出てきませんが、わかります)の俯瞰。ここで流れるマンボ最高に良いんです。さらにはミクロに迫ってサーカスの広場にズームイン。そのなかでこびとと紳士的なマジシャンの格好をした子供が象に乗って通過するシーンに。この二人実は親友なんです。(こびと、といえば、またまた「アマチュア」で工場作業員を撮影したその対象人物もこびと、でした。何でこんなに見たばかりの映画とダブるんでしょうか、縁ですねえ)二人して新しく入った女の子が綱渡りの練習をしているところを見に行くのですが、ここで子供同士一目惚れをするんです。教えているのが全身刺青の女で子供の父親と出来ているんです。もうガウンをぱっと取ったところなんか良いですねえ。そして父親がこの女を的にナイフ投げをするんです。これがもう最高で、本当に見世物になってます。(ルコントの「橋の上の女」なんて目じゃないというところ、本当に気持ち良いです。)女の方のナイフが近くに飛んで来るたびに快感にしびれる様子、何もいえません。エクスタシーとはこういうことを言うのでしょう。その近くでは子供と少女が手話で話をしてます。そして励ますと少女は綱渡りができるようになるのです。綱渡りをしている最中に子供が音楽のエールを送るのですが、この情感もいい。確かに今まで述べた役者は見た目がそんなによくはないので好き嫌いはあると思いますが、映画の流れは本当に最高です。こういうのがいいねえ、という感じです。最後まで良いんですよ、この映画。

 

「ウィンタースリーパー」 トム・ティクヴァ監督

人物が錯綜しますので記号を与えます。まず4つの大きな流れがあります。1は女同士の関係をA1とA2とします。前者は映画からドイツ語への翻訳家、後者は看護婦。2は恋人同士。A1と男のA3で男はスキー教室のインストラクター。3は男。Bで後にA2と知り合いになります。4番目の関係はある家族でCとします。中でも3人兄弟の一人の女の子をC2、その父親をC1とします。A1と2が同居しているところにA3が新車で遊びに来て、恋人同士、愛を確かめ合います。そのとき新車の鍵をかけたままで家の中に入っていくのですね。すごくわかりにくいと思いますが、同じころBは酔いつぶれて歩いて帰ります。その途中で鍵のかかった車を見つけ盗みます。また、同じころ、C1は病気の馬を獣医に見せに行こうとします。そのときC2は「もう会えないから」行かないで、と止めるのです。直感が働いてますね。でもどうしても行くといったら、隠れて馬のいる馬車の方に乗ってしまいます。すると兄弟が女の子がいないことに気づくと父親に電話するんです。携帯をうまく取れない父親は拾おうとしてよそ見をした瞬間にBの車と接触事故で横転します。そのときにC2は大怪我をするのです。Bはそのまま崖から落ちますが、雪があったので助かります。そのまま歩いて逃げていきますがそのときにC1はこのBの存在に気づき、割れた窓ガラスと重なってある模様を頭に刷り込まれます。彼はあとから来た車に助けられますが、馬はあきらめて殺そうとすると、娘が倒れているのに気づき、呆然として馬に銃を向けて撃ちます。その銃を撃つ瞬間にすべての人の歯車が狂ったかのようになります。Bは倒れて眠り込みますし、A3は急に起きて車を盗まれたことに気づきます。ここまでで誰も良い目にあっていないのです。手術後C2は昏睡状態。C1は記憶障害になります。C2の手術の担当看護婦にA2がいます。彼女は手術の担当のあと、自分が参加している劇団の初日を迎えるのです。その初日に友人としてガンマは観にくるのですが、Bもお客様でいるのです。彼は映写技師。それで初日のあとの2次会に参加してBとA2は知り合いになります。演技がへたなA2は緊張の糸が解けて(初日に向けて緊張しているし演技がへたなのはわかりますが)倒れこみ、Bが送っていく事になります。おかしいんですが車を盗んだ家に送っていくのです。Bはヘンな趣味を持っており、いつも録音機とカメラを持ち歩き記録を撮っているんです。車を盗んだ日はA1と3の寝ている姿を撮ってますし、この送っていった時はA2の寝姿を撮っています。たぶん、わかりやすく説明的にここまでのシーンをつないだのでしょうがかなりわかりにくいですよ。本題。A1と2の会話。A1は本当にA3を愛しているのかわからなくなっているのです。そしてA2にも彼を観察して意見聞かせてというんです。そして実際にA1、3の不信感が募ると関係がギクシャクするのですが、ベットを共にするとなにか忘れてしまうんですね。しかし、ある日翻訳していた内容に男の記述があるのですが、それが彼のことを言っているようなんです。そこで客観的にもう一度見つめなおすんですよ。A2はBにもらった映画の券で映画を見に行き、Bとデート?するのです。当然、Bはすべて記録してますよ。なぜ、Bは記録しているのかというと、記憶が健忘してしまうのです。その自覚があるから起こったことをすべて記録しているのです。そのことをしばらくしてA2に打ち明けるのですがそのあたりから二人は急に親密になっていきます。その前にA2はBを家に連れて来るのですが(実はA1,2の共同で住んでいる家はA2の持ち物なのです)A3も一緒に住みたいと押しかけているのです。そして、A1が踏ん切りがつかなくて、「どうして勝手に住み込もうとするの?」みたいなことで喧嘩になっているときにA2とBが帰ってきます。裸で喧嘩している二人に唖然としながらも落ち着いて話をしているのですが、A1はA3と一緒に住んでいいか、A2に聞いてくるのです。しかし所有欲が強いA3はそういう許可を受けるという行為自体が、俺を愛していない、と機嫌が悪くなるしA1も気が強いのでまた喧嘩になります。この二人は気が強いもの同士、性的な結びつきはあるものの実は精神的には結びついていないのです。女の方も性欲があるから離れられないし、男も女が美人だから離れられないというお互いの利害が一致しているきわどい関係なのです。逆にA2とBは良い雰囲気になっていきます。そんな中、C1は頭に浮かぶものが「傷跡」(キュェシロフスキ監督の映画の題名でもありますね、偶然です)だと思い出します。実際Bの頭の後ろには傷跡があるのです。だからBは記憶障害を持っているのでしょう。しかし警察は相手にせず、C1は自分の力で犯人を見つけようとします。そうして事故現場にいって何か残っていないか調べると車が見つかります。当然、中にはA3の持ち物があり、免許証から犯人だと思われます。そのころA3は彼女としっくりいっていなくてスクールの生徒に手を出します。二人で山頂から滑走しているときにスクール生は小さな谷に落ちて見失います。結局助かるのですが、A3は捜した挙句にみつからなくて下山しようとしたときにC1の追跡によってみつかります。しかし当然A3はどういう意味か知りません。しかし襲ってくるので、おかしいんじゃないといいながらも逃げます。そして間違って大きな谷に落ちていくのです。A1は当然彼が死んだので(もしかして、生活をやっていけないという判断もあるのでしょうが)実家に帰ります。その帰る電車の中でスクール生と同席になるのです。たまたま一人の男を共有した二人ですね。そしてA2とBは子供を授かり幸せになっていくのです。いい映画ですよ。子供というのは親を選ぶといいますが、今回の映画でも、どの親の下に生まれようか選んでいたんですね。そして運命は子供を持つにふさわしい二人をいろいろな人間関係の錯綜の中から見つけ出したのです。別にA1と3でもいいはずですが、ふさわしくないから一人は死んで一人は孤独の中で映画は終るのです。親になるのにふさわしい夫婦の愛情があること、お互いが信頼しあえる関係であること、お互いが自分達に責任をもてること、などが些細な事件や出来事を通してA2とBが一番ふさわしいという結論になる過程を見せることで映画が成立しているのです。人生なんてそんな、見えない糸で結ばれていると思うし縁というのはそんなものです。題名の意味は冬の間に起こった事件ですし、その間にはぐくまれた新しい命が動き出したことと、なくなっていった命が眠りについたこと冬眠を意味すると思います。すなわちあの世(冬の間)での魂の遍歴を示すのです。冒頭で狂った歯車がA3の死で元に戻るのです。記号を使ったくらいちょっとわかりにくいですが雰囲気だけ観ていてもなんとなくわかるような映画でした。お勧めはしにくいかな。

 

「お熱いのがお好き」 ビリー・ワイルダー監督 1959年

 

マリリン・モンローを好きになったのは実は最近のことです。彼女の写真集を買ってその素顔を見たときにびっくりしました。

彼女はマリリンになっていたのです。実は本当に美人でした。なんというかグレース・ケリーとイングリッド・バーグマンを足して割ったようなすごくチャーミングなんです。この写真集は本当にお勧めです。長年彼女の写真をとり続けていた写真家が版権が切れた昨年世界2万部限定で出したのです。素顔はびっくりしますよ。いやーーキュートですーー。

映画ですが、禁酒法の時代の映画です。この禁酒法というのは楽しい法律ですね。葬儀屋の裏が隠れバーになっていてビックバンドも踊り子も入っているんです。人間って変な制限が入ると抜け道作るんですね。でも人生楽しもうという方向はいいことだと思います。しかし警察の手入れが入るんですね。バンドマンのうち主役の2人はうまく逃げたのですがギャングの裏切り者を始末するところを見てしまい、ギャングに追われるのです。隠れバーもなくなり、職も失ったばかりですので、フロリダの女だけのバンドに女装して紛れ込むのです。そこでマリリンの登場。しかし女装の彼らも「本物のレディーが来たな」といわれるんですよ。男が思っている女性像がいかにいい加減かというシーンですね。この辺から大笑いの連続です。しかし本当にこの映画はストレス解消になりました。マイアミに向かう列車の中で、マリリンと2人は仲良くなってしまうのです。トイレで隠れてお酒飲んだり、バンドの練習するのですがその途中マリリンは隠していたお酒を落とすのですがそのときも女装した男が身代わりになるし、それで演奏中もマリリンのこの男に対しての信用は高くなり見つめて練習すると男ですから張り切るし、するとマリリンは歌を歌うのです。まさにショーを見ているみたい。イヤーーいい映画ですね。女装男は「最高なバンドだな」というけどそれはそうだよ。まったく違和感なく溶け込むと、夜マリリンがベットに遊びに来るのです。 女装しても男でしょう、良い女が横に寝て、もう緊張しちゃって面白い。でも、隠れて酒を飲もうとするとみんなに知れてバンドのメンバーみんな集まってくるんですよ。すごいシーンですよ。男のベットに12人の女が押し込まれて押し倉饅頭ですよ。こんなに楽しい思いの中、フロリダにつきます。するとホテルの入るときにこの女装の男は金持ちの男に一目ぼれされるんです。

またね、オフのときバンドのメンバーで海に泳ぎに行くんですがこのシーンもいいですよ。開放感があって若さがあっていいですよ。こういうストレートな表現最近減ってますよ。さてコンサート、マリリンの「I wanna be loved by you」いやーーたまらない展開。もう監督のセンス爆発してます。いい映画ですねえ。

この後のオフで女装の二人は別々に金持ちに好かれた男のほうは女装したまま女として金持ちを連れ出して一緒にタンゴ踊るんです。もう一人の女装は連れ出してくれた金持ちのヨットに金持ちに成りすましてマリリンを誘惑するんです。この女装の二人のシーン、抱き合う二人とタンゴを踊る二人のシーンが交互に挿入され本当に笑えます。特にタンゴは最高です。結局婚約してしまうんです。マリリンのほうは帰ってきて女装した女友達(笑い)のほうに恋の悩み打ち明けるんjんです。この辺、ずるいんですが女装しているだけに女のストレートな気持ちもわかってしまうんですよ。そんなときに前に出てきたギャングが会合でこのホテルに来てしまいます。すぐにばれて追われるんですが、結局このギャングもそのボスを裏切っているので殺されます。こんな物騒なところは逃げようと最後にマリリンに別れのキスして逃げるのですが、どうやって?、金持ちと婚約しているので駆け落ちするんですよ、大笑い。それに付き添いとしてもう一人の男もついて逃げようとすると、マリリンは先ほどのキスで実は愛してくれた金持ちはすぐ近くで女装をしていた男と知って追いかけて4人で逃げていくところで終わるのです。本当に楽しいですよ。金持ちのほうは男だといってもそれでいいというし、4人で案外うまく言っちゃうかもしれませんね。そんな気になってしまうくらい楽しい終わり方です。マリリンとプレスリーはやはりスターですね。「sweet sue's」(バンドの名前)最高です。本当にお勧めです。

 

「終わりなし」 キェシロフスキ監督 1984年

タイトルのところからブレイスネルのコンサートで聞いたことのある曲からスタート。この監督については知識ばかりが先に入って、実際の映画はここにいたって始めてみるものが多いという逆の付き合い方をしております。

死んだ人間(中年の男、Aとする)の魂がモノローグで現実の世界について語ってます。Aは弁護士で相談の途中に死んでしまったわけで、その引継ぎはなかなか難航します。しかし引継ぎの弁護士(B)が定年させられることなり、最後と引き受けることにします。スト関係の案件で敵が多いみたいですね。

一方、未亡人は呆然としたまま、(愛していたんですね)夫の遺品を整理しているとポルノが出てきます。少し寂しかったみたいです。妻はそのことに気がつき、友人に相談します。まあ後の祭りというやつですが、死も突然やってくるケースは心の準備ができないので、いろいろと後悔しますよね。ポルノは妻のバイトだったんです。顔のところを切ってあります。

そして裁判の日誌には引き継いでもらった相談者の秘密の手紙が入っておりました。彼は「連帯」ではないということ、あくまでストを主張手段として採用しただけとのこと、家族が心配なこと、などが書いてありました。これを友人はBが引き受けるわけない、というのでBはかなり体制寄りの弁護士でしょう。それが引く受ける?何かあるのです。そして同じ資料のところにBの名前の欄に?がついております。本当に何かあるのでしょう。

このあたりから飼い犬はとっくに気がついているのですが、Aの魂がまだ地上にあることをが明示されます。妻が事故を起こしそうになると車が自然に止まる。このあたりから?を魂がつけたと思い、引継ぎの家族のところに行って説明します。「Bはやめろ、と主人が言っているのかもしれない」と。暗号も伝えます「娘を父親に渡すな」、妻は意味がわからないのですが、伝えると、よくわかるといいます。

そして友人などの出会いを通じてAが死んでから初めてAを理解し始めましたし、妻も自分を理解し始めるのです。しかしなぜ、英米人に体を売ったのか?それがわからない。寂しいからではないはず、なぜならばAの友人がいたから、そしてその友人が「好きだ」ということをほのめかしていたから。映画とすると、ショックな展開です。いや、妻はAが自分とあっていないという事に気づいたということでしょう。「かかえていた」という言葉に象徴されます。では誰となら合うのでしょう?難しい問いですよ。しかし、彼のことを忘れられなくて「Aと手の感触が似ていた男」と寝たのです。Aと寝ているつもりになりたかったのでしょう。孤独だといっているのと同義です。かかえていたから、愛を素直に表現できなかったけど、実は本能では忘れられないほど愛していたということでしょう。

Bに夫の釈放を依頼している妻をCとします。CAの妻はなにか親近感を覚えるようになっています。孤独と性みたい。暗示でAの面影を消してくれと頼んでも実際に消えてしまうと戻してくれと頼むのです。しかし戻してくれと頼みに行ってももともと暗示では死者はできないとうそついていたといわれます。ということは自然に消えてきているのです。喪失感はさらに自慰をしながらもAの名前を叫ぶシーンでもわかります。面影が消えてほしくないのです。

この映画はポイント間違えましたがAの妻をZとしなければ話が進みません。Zは子供にAとの性交渉の見られたのですが、そのことについてあれが「愛の形」と教え、子供を抱きながら「こうしてお前を抱くのも愛」と教えるのです。愛の形についていろいろありますね。

そしてBは釈放させようとしているものが、拒んでいるということに疑問を感じてます。すなわち、ストの主張を曲げて釈放されることはいやなのです。Bも彼が無罪だと知っているのです。体制の問題だと知っているのです。だから、釈放するということで成功だと思うのですが答えはノー。人間の生き方考え方もいろいろとあります。

最後に対比。生きていれば釈放されれば、また出会える。死んでしまったならもう会えない。会いに行くZ,それで終わり。子供は好きなAのママの元に預けて。良いのかな?

5/10

 

「永遠のマリア・カラス」フランコ・ゼフィレッリ監督 2002年

まったく知らなかったのですが、マリア・カラスは日本公演を恥じていたんですね。引退のきっかけになったみたいです。その前にオナシスと泥沼になっていたんでしょうか。精神的ダメージは晩年大きかったみたいです。

そしてこの映画は過大な期待をしなければ、人生の再生、みたいなヒーリング効果はあるでしょう。それ以上でも以下でもない映画だと思います。では嫌いかというと嫌いではなく好きな映画なんです。

ちょっと良いとこ取りの感じがするのですが演じてみたい役を「カルメン」というのがいいです。一度はみてみたいですよ。一度も現実の舞台を見たことがありません。そんなの上演の機会も多くないですし。メッゾ・ソプラノで良い人が少ないせいもあるのでしょう。今はバルトリで観てみたいですけど、チケットとか買えなそうですね。

映画の中で、ファニー・アルダンの方ですが、マリア・カラスの役を演じているのですが、そのカラスが若い俳優が楽屋に訪ねてきたときに思わずキスをしてしまうシーンは良いですねえ。ファニー・アルダンの演技は素晴らしいですよ。ここでね、カルメンと逆のことが起こるのです。この辺はこの映画のいいところで、ドン・ホセ役の男の俳優が先ほどの若い俳優です。

次は「椿姫」ヴィオレッタ役とこの映画でのカラスがそっくりなので問題ないでしょう。

その哀れな娼婦の雰囲気を打破したいと、「椿姫」はやめて「トスカ」(最高ですね)で間バックしたいと考え始めます。前向き思考になりました。よく考えると、カルメンとトスカですか、すごい情熱的な役ばかりですね。この2つは歌がうまいだけではなく、存在感すべてが演技に要求されます。本当に適任なんてそう簡単に出ない役ばかりですよね。さらにトスカに関しては彼女自身名演を残してます。大丈夫でしょうか?と私も思ったくらいですのでやめましたね。そして程なくの死。まあドラマとしては出来がいいと思います。

現実に観客は、どんな人生だったかは事実としては知っているので再構築は難しかったと思います。しかし、あまり書きたいと思うことはないのですが、観ていて時間がたつのが早かったことは事実です。難しい構成だと思いますが、うまい編集でした。

「アメリカングラフィティ」ジョージ・ルーカス監督 1973年

なんというか、中年以上の方には、自分の学生生活そのままという感じの人が多いのではないでしょうか?かく言う私もこんな高校生活を送ってました。それでこの映画はロードショーで観たのですが当時はまだヒットしたという感じでもなかったです。私もサントラはすぐに買いましたが映画を観て感動するという感じではなかったのです。

今観ると、逆に、自分の高校生活とダブらせてみることが出来るせいか、やけに懐かしく、いとおしいものに思えます。すべての登場人物が周りにいた人間にそっくりですし、たった一日でこれだけのことが起きるなんて、楽しいですよね

先輩がいて後輩の面倒をみたり、ナンパしたり、喧嘩、悪戯、映画のエピソードすべてがつぼにはまっていて面白い。

あとは映画のBGMで流れるロックンロールが絶妙のテイストで画面に躍動感がありますね。多分、携帯、インターネット、ビデオなどが手元に当然にある時代の若い子には理解できない部分があると思います。これらのものがまったくなくて、たとえば待ち合わせで相手が遅刻したとき、何時間待てるかは相手をどれだけ信用できるかということにかかっていた時代を知っている世代には懐かしさがあると思います。あと、優等生ではわからない部分はあるかな。なんというか、ねたみ、恨みのない純粋な青春の送れた時代のアメリカの一ページです。特典映像でも監督自身が言っておりますが、アメリカの良かった時代へのオマージュだということらしい。しかし恋愛に積極的というのはいいなあ。相手に感情をぶつけている点も最高に良いです。今になってこの映画の価値がわかりかけてきました。高校時代が楽しくて仕方ないという思い出のある方にお勧めです。昔観たという人も改めて見るとその良さがわかると思います。歌の歌詞も素直なんだ、これが。当たり前すぎますが、主役は「ビューティフルマインド」の監督でアカデミー賞も取りましたし、もうひとりは有名俳優になりました。この映画で端役の俳優はハリソンフォードですね。

「遊び」増村保造監督 1971年

この監督も好きな監督です。こうしてみると日本映画って素晴らしい監督が多いんですよ。世界でもまれに見る映画監督の宝庫でした。多分大衆芸能が江戸時代に普及発展した名残だと思います。

この映画の好きなところは、貧乏な中で、一抹の希望を持つところです。

主人公の10代の女の子(A,といってもこのころの人は老けて見えますけど)は工場のラインで組み立て工程を担当してます。そして会社の寮に住んでいるのですが、実家は火の車で毎月仕送りをしているのです。もうこれだけで私の好きな設定です。父親が事故を起こして損害賠償を負担しているのです。妹は病気だし、Aは遊んでいる暇がないのです。

ところがひょんなことから、チンピラに声をかけられて、喫茶店に付き合ってしまいます。ここもポイント高いんですが、まずは喫茶店に行きますよね。いまは車なんです、ドライブなんですよ。そして映画館に行きます。そこで男ということの安心感をはじめて感じるのです。相手は誰でも良かったんでしょうが、寂しさが紛れればよかったのでしょう。

しかしこの相手の男もまた悲惨な家庭の持ち主なんです。母親が屋台のおでんやをやっていて、身が崩れて酒ばかり飲んでいるのです。そんなときに母親がやくざに絡まれて助けようと身を挺したのをやくざに認められて一応した働きをしているのです。ですからチンピラのようで意外とまともな男です。

こんなときにAの父親がどざえもん、で死体が上がります。飲んで落ちたのでしょう。このときの母親のせりふ「やっぱり、女は男がいないと寂しい、もっと酒を飲ませてあげたかった」というのです。生きているときは喧嘩ばかりしているのですけど夫婦とはこういうものでしょう。

Aの家庭はめちゃくちゃです。それに加えて彼はAを売ります。映画を観ているとわかるんですが、(あたりまえか)、Aは完全に信頼しているし楽しい気持ちにさえなっているんです。それを裏切るなんて。

まあ踊りに行くのですが(このシーンすごくいいですよ)そこで昔の女が絡んできてしまって、Aは二股かけられていると誤解してしまうのです。実際はもっとひどい目に会うんですけど。この昔の彼女の役は松坂慶子さん、若いですよ。このあとまた大好きなシーンがあるのです。それはAふてくされてゴーゴー酒場(ディスコはまだなかったんですよね)を出たAを中年がナンパするんです。このシーン大好きです。なぜならば、中年、どう見てもおじ様が若い子(設定が18歳くらいだから今で言うとロリコンか。しかし関根恵子さんが大人の女に見えるから)をデートに誘うなんていまどきそう簡単に見られる光景ではないです。携帯の普及とかがあるといえばそうですが直接アタックしている姿は男を感じます。高度経済成長の石油ショック前あたりですからサラリーマンも元気があったんですよ。今街を歩いているサラリーマンと雰囲気がまったく違います。とってもいいですね。

そのあともデートは続くのですが、このサラリーマンから助けたのでまた信頼してもらった、そこで連れ込み旅館に行きます。何か横浜の野毛の雰囲気。しかしそこでAの処女を奪うのではなく、いままでチンピラの仲間としてやってきた女に対するひどい仕打ちを思い出して、Aにはそんな思いをさせたくはないと思うのです。またこの彼氏はインポみたい。それで逃げようとするのですが、チンピラの兄貴は旅館に向かってます。それで旅館の夫婦はぜったいにそとにだすなといわれているのです。そこでこの夫婦を殴り倒してお金を奪って逃避行。着いた先の旅館でのせりふはすべて良い。一瞬しかないような光り輝く時間でしょう。

そのあとは心中のような形で川の中に乗り出していく二人でした。唐突な終わり方ですが、どうでもいいのです。二人が永遠に一緒ならば。素晴らしい作品です。

「愛と死の天使」ジェームズ・トバック監督 1982年

ありがちな題名です。たぶんすぐにこの作品をこの題名から浮かぶ人はいないでしょう。

音楽はトリュフォーの映画で常連のジョージ・ドリリューです。そして冒頭のパリの俯瞰、ピエール・クレモンティ(A)の異様な様子と舞台は整っています。この俳優はやはり存在事態が異様ですね。

関係あるのか、カフェ爆発テロが起こります。

アメリカの片田舎が次のシーン。大学の文学の授業。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を主題に芸術と愛の必要性を現代社会に求めるべきだという授業です。受講生にナスターシャ・キンスキ(B)がいます。この映画の俳優と音楽担当はみんな名前を書きたくなるような人ばかりです。さらにシャネルズといったかなあ、50年代アメリカの音楽がかぶさります(アメグラで使われていたと思う曲)。この女学生がこの曲を好きでもいいんですが、パリは景色だけね、といった感じです。俳優がドイツフランスなのに、何でこうなるのでしょう?そしてなにが悪いのかに気がつきます。衣装です。センスないよ。そこでちょっと恋愛の破綻があってNYへ。

そこでまず「スリ」に会います。仕方なしに次の日にバイトを探します。まずはピアノ。ここで弾いているの、バッハですかね。曲調はそうです。あとは変な人ばかり絡んできて仕事にありつけません。結局ウェイトレスの仕事をするのですが、そこでお客に来ていたカメラマンに認められモデルにならないかとアプローチされます。しかし女優としてのBはこの映画はかなりブスなんですよ。もとは良いですけどね。結局モデルになるんですが、撮影場所にテロで崩壊した世界貿易センタービルがあります。それをバックにポーズをとるという観光客顔負けの構図です。実際できた写真も良いものがないんですよ。これは私の基準で判断してですが。映画では美しいだろ、という感じです。しかし衣装は洗練されてきました。(この辺の衣装はイヴサンローランが担当です、もしも田舎時代のもそうだったらどうしよう、馬鹿にしてしまいましたモンね)

次にまた急にパリのノートルダム寺院が映ります。舞台は再びパリに。撮影に来ているだけです。しかしそこで女の人(Xとしましょう)に見つめられていて、その女の人を写真にとっている男(Zとします)がいます。

またすぐにNyに戻って、ある絵画の展示会のパーティで男から美しいとBは声をかけられます。男はルドルフ・ヌレエフです(G)。一度だけ衰えたころ、まさにこの映画よりあとに日本公演で観たことがあります。彼は踊らないのですが、次のシーンでBが自分の部屋で踊ってます。笑い。ちょうど「フラッシュダンス」みたいな感じかな。この年ですよね、この映画。ちょうどこのころ毎年NYに遊びに行っていたモンで雰囲気はつかめてます。

この出会いのあと、GBに影絵のように付きまといます。またBGが気になるから付きまとわれても悲鳴をあげるでもないし、逃げるのでもないのです。正体を知りたいのです。「私はバレエダンサーだ」なんていわなかったですけどね。この映画で初めてこの二人のツーショットは決まった、と感じました。二人の距離感と関係の雰囲気がすごく良いです。ヌレエフはそれこそ美女の館にいるわけですし、慣れているんですよ。ヌレエフがBに付きまとう男(田舎での腐れ縁)を殴るシーンがあるんですが、もうまさに「ロメオとジュリエット」の一シーンみたいな映画離れした雰囲気が出てます。これはすごく良いです。はっきりいうとこの映画はこの二人のシーン観ているだけでいいのです。あとは何もないんです。BはなぜかGに惹かれる気持ちを意識してますし、Gももう積極的。すぐに部屋につれてきます。その部屋で一連のテロ組織の犯罪を聞かされます。パリで写真を撮られていた女もテロの一味でZがテロを追いかけているGの友人です。Zの父親はナチスにアウシュビッツで殺されたのです。そんなことはどうでもいいのですが、この二人の会話は聞いているだけでぞくぞくしてきます。私が二人とも好きなせいもあるのでしょうが

ヌレエフは良いですよね。彼を見ているだけでいろいろなバレエが頭に浮かびます。「海賊」とか「ドン・キホーテ」とかね。その点ミーシャは映画に出てもバレエシーンがある映画ですのでうまいですね。ヌレエフも「バレンチノ」があるんですが。

ここでバイオリンを出して(Gはバイオリニスト)演奏するのはバッハの「シャコンヌ」です。いい曲です。バッハ尽くしですね。そのあとの演奏はBの体の上で、となります。良いなあ。

すぐにパリに切り替わります。Gはリハーサルでパリに行ったということ。BGはともにこちらの町のほうが合います。Gなんか芸術監督してましたモンね。そこでGは告白します。「私が復讐魔だ」と。Bはおどろくとともにうそをつかれたことで怒ります。そして帰るのですが、今まで言われたことを思い出してBは一人でZに近づきます。この二人がおしゃべりするのがマクドナルド、これはがっかりしますよね。科学調味料の体臭が消えなくなりますよ。そしてGBをアジトに連れて行きます。そこでは次なる爆破計画が計画されてました。協力しろというのですが、まあ今回は間に合わないので、次回もしやる気ならとテロ組織と別れます。ここでテロの犯行前に計画知っている人間を逃がすのはおかしいでしょう?当然追跡がついてます。Bの向かう先は?当然Gです。リハーサル中でした。チャイコフスキーのバイオリンコンチェルト、「北京バイオリン」でかかっていた曲ですね。

さあ、テロの親分と復讐魔の対決です。まずはGの仲間が殺されます。これは外で見張っていたテロ一味に面が割れているからです。そして逃げようとするところをBGに見つかり二人は追いかけます。そして同士討ち。生き残ったのはBだけという悲惨な終わり方をします。

いい映画だと思います。詰めの甘さはあると思いますが、モデルは当時の一流のモデルを使ってますよ。かなり一流尽くしの映画です。もっとゴージャスにすればよかったのに。もったいない。しかしこの映画世間では評価低いです。よく世間で評価低い映画を私は良い映画だというのですが、主題とかドラマツルギーよりも「場」の雰囲気とか役者、景色に惹かれたりするからだと思います。

 

「悪魔のえじき」 メイル・ザルチ監督 1978年

これおもしろいんですかね、という感じで見始めたんですが、何かちょっと違うなあと思いました。単純にレイプされて復讐すると思ったんですが、もともとこの女主人公(A)は一人で旅行して、川に着くなり裸になって泳ぎます。もう無理がありますよ。

しかしAが小説家で一人バカンスに来て原稿を書くところは「SWIMMING POOL」に似ております。あれはサニエに影響を受けるランプリングすごかったですねえ。世間の評判は悪いですがすごく気に入っている作品です。むこうは受動的に男を受け入れるけど、こちらの映画はレイプです。若さが違いますけどね。しかしこの映画観て思うんですが、性交渉というのは合意であろうとこのように非合意であろうとなにか終わった後間が抜けますね。なんというか終わったあとだらだらと映像にするのは締まらない映像になってしまうと思います。しかし昔の牧歌的なところはいいですよ。

しかしすごい強い仮定がこの映画にはあります。それはまずはじめのレイプから逃げて裸で森を歩くと、森の中でまた男たちに出会います。当然裸の女が歩いてきたのですから、何か声をかけると思うのですが、彼らはすぐにまたレイプを始めます。男はみんな女を見たらレイプしたがる、というのはちょっと受け入れられない仮定です。それにあまりに悲惨すぎる。この時点でこの映画の「悪魔のえじき」の悪魔はオカルトの悪魔ではないことが判明。これじゃ、題名に負けているよ。

さらに悲惨なのは、森からやはり裸でロッジに帰ってくると先ほどのはじめのレイプをした男たちが待っているのです。レイプ第三弾。ちょっとあきれてきます。救いのない映画ですし、Aの立場になって考えたら、もう思考停止でしょう。やられるままがいいと思います。変に悔しいとか考えるとだめなような気がする。まあ私は男ですのでよくわからないのですけど。

それからがすごい。レイプした女を口封じのために殺しに行くのです。ここで転機。一人の弱弱しい男に行かせるのですが、行ってみるとAの無残な姿でどうしても刺せません。

生かしておくので、Aも仕返しする気になります。「悪魔のえじき」というタイトルでこういう話というのは許せません。Aに魅力がないとどうしようもない映画で、私の目で見た感じでは、この役をやってくれる女優で、こんなくだらない映画にも出てくれる人の中では美形の方でしょう。このことが最大のポイント。

そしてAの復讐が始まるのですがこの殺し方もちょっとスケベ心をくすぐるようなもので、この映画は恐怖というか、ポルノ系の映画ではないのかと思わせます。

観ていて飽きないで見ることは出来るのですが、なんというかよくもこんなくだらない映画を作ったという気持ちが常に頭から離れません。

結局当事者は全員殺して終わるのです。レイプされて復讐する映画がなんで「悪魔のえじきなんだろうか?絶対にお勧めいたしません。

 

ALIVE (アライブ)」 北村龍平監督 2002年

オリジナルロングバージョンの方。鉄男と同じで漫画っぽくて良いですよ。

死刑執行して生き残った男(A)を利用します。「生き延びるか、もう一度死刑執行してもらうかはAの選択によります」そして生きる方を選択。24時間監視つきの部屋でほかの男(B)と相部屋で生活をします。とりあえず殺人犯同士。Bが先にAに対してちょっかいを出します。さらに魔女という女(C)が現れ、Bが会いたいというとAを殺してから来てと言うのです。このCの中に宿っている異次物(D)は強いものがあらわれると移動するためAB争わせているのです。Aが殺したのは彼女なんですね。それで凶暴性は意外とないのです。BCを独り占めにしようとして抜け駆けをして魔女に殺されます。

この実験はこの魔女のDを兵器として利用できないかというエイリアンと同じような状況です。その実験だったのです。結構このほかにも概念がエイリアンと同じような部分あります。

Aの殺人は恋人が犯されて、遠ざけてしまうところを恋人に感じ取られて、「やさしくして」と近寄るのをなぜかナイフで刺してしまったのです。恋人の女も抱かれたいから、そして犯されたという劣等感から、強く相手を求めるように近づくのです、それで拒否してしまったのです。

そんなことを思い出させてくれた魔女の女(多分好意をAにいたいていたと思う)からDAの体に入ります。そうすると実験という名目は捨て去り、国家のエゴでこのDの威力を実験に入ります。そして攻撃隊は相手になりません。ここがこの映画の見せ場ですが面白いですよ。撃ってきたマシンガンの弾を素手でとり投げ返すとマシンガン撃つのと同じ威力で相手に命中。全滅します。このDは魔女の父親がアフリカで遭難したときに飢えをしのぐためにサルを食べてからかかったらしいとのこと。そのサルは未確認飛行物体が墜落したときにその中を荒らしたサルだとのこと。結局は宇宙のものらしい。

まあ、どうでもいいのですが、このDの力をAは使いこなせるんです。何が違うんでしょうか?

最後に駄目押し。それはもう一体の完全兵器として培養した人間エイリアンが存在していました。この両者を戦わせるのです。しかし予想に反してAが勝ってしまう。

そしてAはこんな危ないものはいらないと自分自身自殺して抹殺するのです。

まるっきり漫画でした。せりふやしぐさ、構図どれをとっても漫画の映画でした。

 

「いつまでも二人で」マイケル・ウィンターボトム監督 2001年

U2の歌を主題歌に使ってます。この歌好きなんですよ。今では巨匠の雰囲気さえ漂う作風のこの監督の少し肩の力を抜いた映画です。舞台はベルファスト、ですからU2なんです。

そこで倦怠期の夫婦、結婚5年目その前に付き合って5年、がいます。その倦怠期を子供のせいにして子供つくりに励みます。そこに10年前まで文通していたフランス人が登場。

家に居座ります。まあちょっとの滞在のつもりだったんですが、妻は新鮮さを取り戻し、夫はあろうことか昔の仲間とゴルフに出かけます。しかし夫の今の仕事は妻の実家の手伝いなので夫は妻の実家と妻に縛られている感じですよ。

途中コンサートでシューベルトの弦楽五重奏を聞くシーンがあるのですが、この曲難しい曲ですよね。チェロが実質的に中心です。ですからロマンティックになる。このシーンはフランス人と妻のためのシーンですから。

しかしフランス人は別に帰ってもやることがないので、アイルランド(北アイルランド)に定住しようと考えます。ここまではいいとしてこのことを打ち明けると夫婦は曲解します。ずっと邪魔されるのかと。そしてそのうちにフランス人も邪魔なのかと気がつきますが、どうも妻のほうを好きになったのです。この二人と夫は夫で昔の女との方が気が合うみたいだし、別々にうまくいきそうなんですが、そうなならない。ここがテーマなんです。

 

相性だけではなく、作り上げるもの、それが夫婦。そんな感じのすごくまじめな内容が本質の映画です。バイオリン、クラリネット協奏曲が印象的な映画です。バイオリンが夫婦、クラリネットがフランス人みたいな感じかな。最後の終わり方は「終わりよければすべてよし」という戯曲的な大団円でこの映画の喜劇としての風格を作り上げてます。

「妹(いもうと)」 藤田敏八監督  

バージンブルースが思いのほかよかったんで期待してますが、見た記憶あるんですよ。覚えていないということはつまらないということなんですが、今見るとどうでしょうか?

兄役の林隆三さんはいいのですが、妹役の秋吉久美子さんはいまいちの感じです。しかし、出てくる俳優はすべて今と違う感じがするのです。なにが違うのか、服装だけなのか、よくわからないのですが、観ていてそう思うのです。これは何なんでしょう。まあはじめに早稲田の近くで懐かしいですし、「かぐや姫」の「妹」が流れてくると「懐かしいなあ」という気持ちでいっぱいになります。途中で気がつくんですが、この歌詞どおりに映画のシーンが進むところもあるんですよ。当時なら当然、そのつもりで見たんでしょうが、今となって「かぐや姫」とか忘れているとすごく懐かしいです。しかし良い曲ばかりありますよね。そういえば最近、「なごり雪」という映画もありました。

まあ妹の結婚相手?も妹がいて、兄と嫁が同時にいなくなったのでお姉さんの実家に来て見ると妹と兄しかいないんです。それで今度は早稲田のほうで兄と妹と妹(妹の嫁ぎ先の妹)の変な関係が出来上がります。こう書くと難しそうですが、単純なものです。

実家では行方不明の夫というか弟たちを探しているのですが見つかりません。なぜ別れたかが焦点ですね。

しかし実は別れたのか、夫が蒸発したのかわからないのです。とにかく鎌倉にブティックを持っているのですが、その店をほっぽらかしていなくなってしまった。その夫の兄弟はみんな秋吉のせいだというのです。このブティックは鎌倉の御成通りにあります。これ実際にある店だと思うけど、景色はまだ活気のあるときの鎌倉です。いま御成通りは死んでますよ。

ここで兄のほうは鎌倉の店に行って、妹を引き取って手伝わせてくれ、といいます。妹が中途半端になることを避けたいのと、相手方の妹にも興味があったんでしょう。 しかし行動の動機がみんな若くて、いまの私ではついていけないというか、若いなあ、と思ってしまいます。

心中は出てくるし、なにか登場人物は、不安定なんですよ。結局不安定なまま、年をとって小さくまとまっていくんでしょうけど。

妹は、夫を殺していたみたいで、兄が鎌倉に帰れといったときにその殺した崖の上の寺に入って尼になり、そこの若い寺の住職と駆け落ちしてしまいました。いつか兄とも再会できることでしょう。ほんのつかの間の兄弟水いらずでした。

よい映画とはいえないと思いますが、心に何かは引っかかります。

 

「オーディション」三池崇史監督 1999年

この映画は面白いです。一生の伴侶をオーディションで決めようというのです。

まあ連れ添ってきた妻に先立たれ、男の子(高校生くらい)と二人暮しが始まりますが、自分の子供に最近いけてない、といわれて、「結婚でもしたら」といわれるのです。それで、そうか、とその気になるほうもすごいですが、その件を友人に話すと「オーディション」で選んでみたらというのです。この映画の前提として、家庭が悪くない連中ばかりが出てくるということです。ですから、この男(A)にも生活力があるし、今度は手に技術がある女がいいというのです。それは「いざというときに、何にもできない女は頼ってばかりになる、手に職があるとそれが自信になるから女がりんとしていていいというのです」。この辺がキーワードなんですね。女は優しければ、子供と家庭のことを第一に考えてくれるようならいいと思うのですが、少しAは欲張って変な価値観を持ってます。

またAの友人が映画制作とかに関係していてしょっちゅう「オーディション」をやっているからこんな話になる。普通は映画制作している友人なんていないですよ。私はいません。

事前に履歴書であたりをつけておきます。そして面接に立ち合わせてくれるのです。履歴書ではわからないですもんね。しかしAの信念は変わりませんでした。

その人が(Bとします)面接に来ると、それまで黙っていたAが突然話し始めます。面接も並行して行っているのですが、Aは少し舞い上がり気味でBとコンタクトとろうとします。簡単なんですよ、連絡先もわかるし「製作のものですが」といえば会ってくれます。しかし友人の勘のほうが正しかったのです。「才色兼備でおしとやか、おまけにバレエまでやっている、独り者の女」なんていまどきいないよ、と止めるのです。実際に勤め先とかバレエ教室などを問い合わせてもすべて今は閉鎖されております。ということは連絡先は履歴書の電話番号だけなんです。そこにAは電話してアポイントとってデートに誘います。ここで、も一歩Aのミスがあるのですが、Bが積極的に個人的な付き合いでもいいから相談相手になってくれ、というのです。まあAは舞い上がる。しかしCはますます止めるのです。おかしいですよね。順調すぎる。裏があると。そして相手から連絡があるのを待て、と忠告するのです。実際Bも待っていて、こういう待っているときに連絡のある男しか相手にしないのです。この女はこうして連絡ある男を殺すというか半殺しにしていく趣味があるのです。なぜか?幼児期にうけた虐待が性格をゆがめて男に対する仕返しを精神的に植え付けられたのです。

そして深みにはまっていくB。何気ないようでCはチャンスを狙っているのです。ちょうど同居している息子が外泊のとき狙います。Bもこのときに下心が爆発するのです。笑い。

そしてCを招待します。そこで起こる事実は、麻酔で動けなくされて、針を体中さして痛みをなくすようにしてから少しずつからだの足とか手とかを切り刻んでいくのです。もう感情は持っていないんです。復讐の気持ちが無意識的に刷り込まれているのですよ。ここがこの映画の見せ場です。

たまたま、息子が彼女と会えなくて帰ってきてびっくりの現場に出会い、そのままCと格闘してCは階段から落ちて倒れます。

この映画はじめのうちはどうしたんだ、と思いながら観るのですが後から怖さ急増します。いい作品だと思います。Bは少なくても片足は切られてしまったんですけどね。失ったものは大きかったという話でした。女の怖さはずば抜けてますね。

 

「歌え、フィッシャーマン」クヌート・エーリク・イェンセン監督 2001年

ノルウェーの映画はなかなか観ていないので景色だけでも面白いですよ。景色は田舎そのもの、そして海は時化てます。さらに街に日本企業の看板があるのを見るとなにかうれしかったりもします。

何せ一番北の街らしい。もう北極海に面しているみたいです。そして町は水産業が下火で不景気。その中での合唱隊の話です。

しかし自然の厳しさと貧しさを知っている連中の歌は、それはうまくはないし、日常生活も豊かではないのですが、生活に愛着があるのです。何がいいのか?歌がいい、ということ。

そのことを延々と語る映画なのです。観ていて面白いのか?いいえ。

しかし誰かの発言になにかを感じることは出来るでしょうし、町並み、インテリアなどは参考になるような気がします。私はすごく参考になったというか、まったく私の感性と同じということを認識いたしました。店の照明は基本的に北欧の照明を参考にしているのです。しかし町並みに映る、白夜だけは幻想的ですね。すごく町並みを引き立ててます。

あとは合唱隊の素直な顔が主役なんでしょう。

これらのことはロシアに演奏会に行ったときにわかります。ロシアの国境の兵隊、町並みの貧そな建物。古い工場。これらがすべて対比として映し出されます。

しかし最後に公演でロシアの観客に受け入れられるところで終わります。人生捨てたモンじゃない、という感想。

「エイリアン」リドリー・スコット監督 1979年

懐かしいです。この映画、当時地味だといわれながら蓋を開けてみたら大ヒットしましたね。

そしてこの映画は、後から思うと、「エイリアン2」のアクションによって面白さが強調されそのオリジナルとして見直された部分もある映画です。このシリーズは「エイリアン3」も面白い。

その導入とすると、ある惑星に寄ることになって地上に降り立ってみようとする、このことだけでも、マザーシップから切り離されるということ、より孤独の世界に向かっていくということが暗示されます。そして、着陸時の故障もある時間の滞在を余儀なくされることになり、また閉ざされた空間が強く描写されていくのです。そこになぞの飛行物体の廃墟を見つけるのです。閉ざされた中での謎という、エイリアン独特の世界です。この映画とか「スターウォーズ」は新しい流れを作ったパイオニア的な映画だと思うのです。

その廃墟の中は何者かに襲われた跡があり、探すと何か卵みたいなものがあるのです。たくさんあるんですよ。今となると、近寄るなと思うんですが。

自分がこの立場で、わけのわからないものに近づくでしょうか?一回戻るんじゃないかな。

大きな卵で中が透けていて、生物が動いているのに、卵の上が開いたからといって覗き込みますかね?これが第一感染者。やはりばか者です。リプリー(A)は乗船拒否をするのです。本当に正しい判断です。だから最後まで生き残るのでしょう。しかしここでもばか者が現れて被害を大きくします。

さらに科学者がロボットだったときに恐怖はかなりのものになります。この辺は映画の中の人物の気持ちになってみてしまいますね。

そして最後、脱出船にもエイリアンが逃げ込んでいたのには参りました。これは今見ても参る。ここまで来ると観ていて疲れます。まったく気が抜けない敵ですよ。それに立ち向かうのに都合のよいものがありすぎるというのも感じるんですがこれくらいないと戦う気持ちにはなれないですよ。はじめてみたときは実は脱出成功で終わりだと思ったもんでした。実際、あんな化け物とであった時戦う気になるかどうか自信ないですよね。

 

「エイリアン2」ジェームズ・キャメロン監督 1986年

これはいいです。アクション編ですね。話がつながっているのですね。

エイリアンで最後リプリーが漂流するんですがそれがマザーシップに格納されるところから始まります。しかし57年間漂流して格納されて、リプリーの体からエイリアンが出てくるところは今回もだまされました。

そして嘘みたいですが、宇宙開拓者たちがあの星に移住してお宝探しをするのです。まあ先に見つけたものが所有権を得られるという構図。そしてあの飛行物体を見つけます。アーーあ、という感じ。通信がこの移住者たちと途絶えたから、もう一度行ってくれといわれてもねえ、いやだよね、あの怖いのに会うのは。実際あんな生き物と対面したら逃げることもできないかもしれません。私は大きい土蜘蛛でも怖いですもん。

しかし退治という名目で出かけます。今回は攻めて行くのですから兵器は十分です。だから面白いんですよ。エイリアンは不気味さですがこちらは面白さ。

女の子が一人見つかります。そしてエイリアンの標本もありますがほとんどの人は結局は殺されてしまったのでしょう。さらにエイリアンは大量に脱皮してしまいました。人間のエキスが必要なのか、たくさんの人間がいた分、エイリアンも増えましたね。

ここでも上官がだらしないので部下がやられていきます。ここでも一番ひどいのは人災なんですね。まず、移住許可の人たちへの許可、そしてこの上官など。すべて悪いほうに動く原動は判断の甘さです。そしてエイリアンをリプリーの寝ている部屋に投げ込むのはちょっとねえ、観ているこっちの心臓が止まりそうになったので実際にこんな立場なら恐怖で大変でしょう。私は今体調が悪いのですが、かなり後悔して何回か途中で止めました。動悸がすごい。それくらい観ていて精神的にきますね。でも救いがあって女の子が生き残っただけあって、通路に詳しいの何の、危機一髪を救います。そして「百聞は一見にしかず」実戦を経験しているリプリーが強いのなんの。そしてマザーエイリアンと遭遇するときの驚きはすごい。まずは逃げなんでしょうが、なぜならば核爆発させるので、それでも撃ち殺していきます。

しかしまだ続く恐怖。最後にロボットで素手の勝負です。このくらい強くないと人間ではないですよね。ここまで来ると元気を与えてくれます。私もがんばろうとね。最後の魂の勝利には映画とはいえ拍手喝采です。最近このくらい面白い映画減りました。改めて、すごい映画です。

 

「エイリアン3」 デイビッド・フィンチャー監督 1992年

この映画までは観ております。そして「エイリアン2」で限界と思ったにに、この映画もすばらしい出来でした。本当にすばらしいシリーズです。

とにかくこの映画では、冒頭の無言で映し出される映像が深い意味を持ってきます。映画館で気軽に見逃したりしたら大変ですよね。私は以外と途中から平気で入るほうなのでこういうケースはほかにもあったのでしょう。

そして、状況がまたいいんです。囚人の星に来て男ばかりのところに入ります。当然エイリアンもつれてきてしまいます。ところが男たちとの無言の障壁の中で、エイリアンに気がつかないのです。今回のエイリアンは寄生して出てきた段階でエイリアンの形をしていたのでもしかしてエイリアンクイーンなんですかね。続けてみているのでこんな細かいことまで想像しますよ。

そのとおり、エイリアンはリプリーのところに近づいても殺しません。仲間だからでしょう。この2ショットは参ります。すごい。

そして何か今回のエイリアンは少し頭がいいのです。人間が仕掛けることの逆にエイリアンが仕掛けてきます。まとまりはあるんですが、エイリアンが頭よすぎる。見た目も少しかわいい感じがするのは気のせいでしょうか。

そしてこの映画が違うのはいったん解決したかに見えるところです。今までもそうでしたが、解決したら人間同士の問題が浮かび上がってくるのです。そしてエイリアンを逃がしてしまい、かつリプリーがエイリアンに寄生されていることがわかるのです。

そして殺してくれというのですが、高尚なる魂を持ったものをそう簡単には殺せないです。

そして追い込み殺す作業に入りましたが、今回のエイリアンは一匹でなにか追い詰められやすいんですよ。鉛を浴びせてその上に水をかけて殺しました。しかしここでも人間が出てくるのです、人間のほうが恐ろしい。このことを監督は言いたかったのではないでしょうか?

 

しかしTHE ENDという形なんですが、「エイリアン4」よく作りましたね。

 

「エイリアン4」ジャン=ピエール・ジュネ監督 1997年

この映画のシリーズの4作目を作るのは勇気の必要なことだと思います。「アメリ」の監督がチャレンジしたんです7ね。実は観ておりません。なぜならば、前作でリプリーは死んでしまったからです。しかしなぜか助かり、エイリアンクイーンの幼生を手術で取り出され、命も助けられました。この映画共同制作者にシガニー・ウィ−バーの名前があるのでどうしてもいつになく目立つ感じです。いままでの目立ち方とはちょっと違う。しかし今回は魅力的な女性が一人居ます。エイリアンって女優が出てこない映画なんですよ。ウィノア・ライダー、実は好きなんですよ。この女性(Aとする)を含めて6人が乗った船が途中修理のためにエイリアンの居るマザーシップに寄ります。リプリーとエイリアンクイーンはクローン化されて生まれてきたのです。この途中に寄った船の連中が何かトラブルを起こすのは目に見えております。またリプリーもクローン化されて生き返ったといってもエイリアンの遺伝子の影響を受けているのです。またエイリアン研究では人間が犠牲になってエイリアンに寄生させてその繁殖具合まで実験してます。何か起こらないほうがおかしい環境です。

Aはリプリーの様子を見に来たのでした。リプリーはまたエイリアンの存在を体の中に感じるとまで言ってしまうのです。そして何かを感じるとき、エイリアンは仲間を犠牲にして凶暴的なときの体液を使って(多分より酸性が強い)床に穴を開け逃亡します。育てていただけに数が多くなります。12匹。なおかつ、待ち伏せまでして追い込み、そこで人間に寄生するということも行います。またエイリアンの泳ぐシーンも出てきて、なんか漫画っぽくなっちゃいました。やはりSFだったのは「エイリアン」だけであとはアクションやコメディの要素が増えますね。リプリーなんかまたエイリアンに寄生されそう。Aはロボットだったし、展開が少し意図的で面白いといえば面白いのですが、飽きてきた感じはします。エイリアンも人間みたいになるし、ゴジラがつまらなくなったあの末期症状が出てます。まあこれはこれで楽しめるのでしょう。人間みたいに子供を生むようになるのです。リプリーがエイリアンみたいな人間で、エイリアンクィーンは人間みたいなエイリアンになったのです。そしてここまで行かなければおわらないというところまで行きます。つまり生まれてきた新種のエイリアンはリプリーを母と思っているのです。エイリアンクイーンはすぐに子供に殺されます。なぜならば新種は少し人間的なのだからでしょう。母リプリート仲良くする姿はもうこの映画シリーズの終わりを意味しております。

最後に宇宙船の外に追い出されるときの母への想いがエイリアン新種にでてくるのはちょっとねえ。そしてこのシリーズ初めての地球のシーンは猿の惑星と同じでした。

 

「エクソシスト」ウィリアム・フリードキン監督 2000年

ディレクターズカットですので2000年の映画ということになるでしょう。公開当時は観にいっておりません。

はじめのイラクの遺跡のシーンは悪魔の降臨を意味して、神父と戦うことを暗示するのです。そしてその悪魔が降り立つところは子供。

はじめのうちは医学に頼っているのですが、悪魔の帰依とわかってから神父との戦いです。しかしこんなまじめな映画なのに怖いシーンをクローズアップさせて大ヒットしたのにはいまさらながら驚きます。神父の前に精神科医の登場ですが、そこで少し少女の中になにかがいるのがわかりますが、何がいるのかは不明です。そして神父はイラクでの悪魔の彫り物と対面したときになにか嫌なものを感じた通り悪魔と戦うことになります。

そこに至るまで、警察とこの子供の家族が出会うきっかけの殺人事件が起きてその捜査の過程でこの子供の周辺が浮かび上がるのです。

悪魔祓いをする神父はイエスズ会の神父で悪魔祓いをするには悪魔の帰依の証拠が必要だという手段を説明します。この辺は今回始めて気がついたこの映画のまじめな部分です。そして認可されるまでこの神父も懐疑的でした。しかしどうしようもない証拠が出てくるので、学長に悪魔祓いを申請して、冒頭のイラクにいた神父の登場となるのです。冒頭のイラクからここまで出てくる神父は別の若い神父なのです。ここで話が冒頭の悪魔との対峙とつながってくる。この悪魔祓いはキリストの御力を借りて悪魔を立ち去らせるというものです。

ではなんでこの少女に悪魔は宿るのか?子供でさえ悪魔の前に屈するということの間接的な証明だからです。

「オーロラの彼方へ」 グレゴリー・ホブリット監督 2000年

かなり前に観た記憶があるのですが、まだ2000年の映画なんですね。廉価版が出ました。ラッキー。

ナイチンゲール殺人事件、これだけなら面白くないので、オーロラを兼ねます。それは道具として過去と現在とつなぐ役割をします。そして父と息子をつなぎます。運命も変えるのですよね。何かてんこ盛りです。

1969年10月10日が「ヒートウェーブ」で始まります。この歌オリジナルは誰なんでしょう?声はリンダ・ロンシュタットみたいですけど。エルビスが好きな旦那は(Aとします)「サスピシャス・マインド」をLPでかけます。いい曲ばかりですよね。そしてハム無線(これも「コンタクト」以来2回目ですよね)で現在とか遠い地域と無線がつながってしまいます。

そして舞台は1999年10月10日。当然地上では30年の歳月がたってます。みんな年を取り息子(B)は30数歳。今離婚の危機です。物理学は宇宙の軸が10から11あるのではないか(まあ10次元の世界とかですね)、というストリングス理論が隆盛になってきてます。(実は知りませんでした、最近物理学チェックしていないです)それで第二の時間があるということです。そして30年ぶりにNYの下町(近所の人が子供のときから一緒に遊んで大人になっても交流があり、人のうちのどこに何があるか知っている)でもオーロラが見れるようになります。これで舞台は整いました。量子論で過去現在未来の時間の流れは取れるというのですが、今の量子論ではそうなんでしょうか?笑い。昔の量子論では、まあ哲学に近いわけですが、時間はゆがむ、でなかったでしょうか?

まあこの近所の友人の子供が勝手に無線機を出してしまったのですが、いつの間に無線を傍受します。ここで30年前とのコンタクト、それも父親とのコンタクトが可能になったわけです。初めのうちは気がつかないのですが、無線の向こうに子供が出てきます。その子供と無線の相手のやり取りが自分と父親のやり取りに似ていたのです。自分の声を聞いていたんですよ。ここが映画なんですが、死ぬ前の日に無線が通じたのです。ということは無線で死ぬ原因を教えてあげれば対処できるわけです。実際事故死なんで、違うルートを教えてあげるのです。それで助かってしまう。ということは現在において、父親の命日も変化するということです。助かった瞬間、いろいろな時間軸がクロスしたかのように、また新たに発生した父親との時間が突然、未来でもあり過去でもあるかのように頭をよぎります。ここで時間軸はずれました。みんなの記憶も変わります。今度は肺がんで10年前に死んだということになりました。ということはあのあと20年間生きていたわけです。逆に母親が先に死ぬという記憶が生まれました。今現在生きているのですよ。父親が生きてしまった関係で、他者に影響が及び、ナイチンゲール殺人事件の被害者になってしまったのです(Bの母親は看護婦)。ほかにも被害者が増えます。

そのため、あらかじめ事件が起こった日付がわかっている分には無線で父親に現場にいてもらい犯人を見てもらうことにしたんですが、犯人の気に障ることをしてしまい危なく殺されそうになります。そのとき財布を盗まれそうになるのですがそこに指紋がついているのです。現在にそれを送ると、指紋鑑定からは犯人が特定できました。元警官。

しかし盗まれた免許証から容疑は父親にかかってしまいます。現在では息子が犯人の元警官に詰め寄ります。現在と過去で同時にこの男に迫っているのですけど、もう一歩向こうのほうがやけになっていて、あとには引かないくらいに殺しに来ます。

 

まあ過去の方はとりあえず解決したのですが、そこで殺していれば現在の方で襲われることはないのですが、行方不明という状態にしてしまいました。現在の方の危険はいまだあるというとき、過去の方も襲われます。同時というのは考えもしなかったので、面白い展開ですよ。過去の方が犯人の手を撃ったとき現在では手がなくなりますが、そのとき過去と現在の融合が図られました、なぜならばこの事件は解決できる状態になったからです。そして過去から現在に来た父が犯人を撃って解決。事件も被害者は少なくて、家族そろって今でも生活しているとさ。こんな感じの寓話です。最後はNY郊外の善良な人々のささやかな(ヤフーで儲けた人を除くか)人の生活を映して終わります。本当にいい映画ですね。

 

「女はバス停で服を着替えた」 小沼勝監督 2003年

北海道の鹿追と地域合同の映画みたいです。北海道は今景気最悪状態が数年にわたって続いているので、景気浮揚策でもあるのでしょうか?笑い。映画で景気あがれば言うことないですよね。映画でも不景気さが満ち溢れております。出てくる映像に銀行があるか探すのがまずは基本ですが、銀行は今では不景気なところは採算が合わないから撤退してますからね、出てこないですね。

まあ東京から、鹿追に来て廃業した食堂を借りて「そばや」を始めたい男が出てきます(Aとします)。そして今のところはそば農園で働いてます。元手なしで飲食業を始めるというのは虫が良すぎますが、まあ映画でしょうし、友人も気前がいい。私もこんな人と出会いたいですよ。元手なしからですからねえ。大笑い。同じころ女が故郷?に帰ってきます(Bとします)。まあ田舎に二人も若い?層が増えたわけです。これは滅多にないことでしょう。これも映画だから良いでしょう。というようにこの映画はこの監督の往年のきれ、センスはないです。居酒屋の店主は客のコップの口をつけるところ持つし(ここは持っては絶対にいけない場所)、いい加減なんですよ。主役の二人に魅力がないのが一番の欠点ですけどね。二人ともその辺の居酒屋のお客さんという感じ、そういう意味では違和感はないのですが、きらめくような感じはないです。エロくもないし。多分わざとでしょう。実物は良いと思います。

ただし「そば粉」を水回しで丸めていくときの指導はあっていると思います。最近私は作らなくなりましたが、タルトの生地作りとまるっきり同じです。そばって同じジャン、と思いましたよ。爆笑。細かいことを言えば「そばの生地」を伸ばすときの力入れ具合が違います。一番違うのは「粉は生きている」と指導を受けながら、女が来たらそれをほっぽって話に出てしまうところ。それは違うだろう?プロ目指しているのだろう、と思いました。あと時期が同じなんですよね「すずらんの花」が出てきますし、セロリの味噌漬けも出てきます。セロリの味噌漬けはおいしそうですね。

「かんだにっしょう」という画家のふるさとみたいです。美術館があります。すごいすいてそうな美術館です。この画家も何か意味あるのでしょう。Aの子供のときの思い出の絵でもあるみたいです。そしてBAに「ここには帰ってきたの、それとも逃げてきたの」と聞きますが「わからない」。なんとなくこの気持ちはわかります。「東京では夕日なんて忘れて生活できたもん」という言葉のあとの答えです。

まあ昔この二人は何かの過ちがあったのでしょう。多分不倫。

まあしかしそれを忘れてサルサを友人の結婚式で踊ろうとABを誘います。このサルサ見ものです。コンクールで入賞しているのですごいものなんですが、それはすごいものです。場末のバーみたい。

BAに間接的に求婚しますがAはたぶん昔のことがあり、「そば」を打ち続けています。Bは相手にされません。そのとき、そばの厨房でそば粉をBがひっくり返して「そんなことやめて」と狂ったようになるのですが、本当に見境がなくなったのでしょう。この頭に来たときの動作というものがありますが、間違っても私は粉をひっくり返すようなことはしません。なぜならば、掃除が大変だからです。Bは飲食業に向いていないですね。同じことをBAに言われます。

ほかに並行して若いカップルが出てくるのですがこちらも、めんどくさい関係。2つとももっとはっきりしろよ、といいたい。いじいじしているな。

さて友人の結婚式です。祝辞もダサい、次の「てんとう虫のサンバ」はこれはサルサの踊りを引き立てるためにこんなにひどいものにしたのでしょう。Bは結局会場に来ました。

サルサを二人で踊るんですが、ここまで下手なら、瞬間きめのポーズのコマドリしてつぎはぎでよかったと思います。下手に長回しされるから見ているほうが恥ずかしくなってしまう。

しかし、最後に美術館でBの方からAに抱きついて「またいつか会えるよね」というせりふは妙にいいなあ。もしかしてここ狙っているのでしょうか?そうしたら大成功です。このシーンは秀逸ですもん。

さて大団円。床屋の娘の前を通ったら髪を切ることに。この娘は、若いカップルのほうです。また、俳優は中村麻美といいまして「富江」の嫌がらせをされる方の女の子の役をやった子です。一番輝いてました。そしてこの映画では田舎に残ることにしたのでしょう。この辺はあいまいですが、どっちでもいいですよ。

問題は、ABですがBはまた立ち去ることに。ここに来たことは意味があったのでしょうか?

もちろんあったのです。そして次のステップに進めばいいのです。思い出すかどうかは性格でしょうね。多分、ABともに思い出すタイプです。まじめな映画だなあ。

 

「王は踊る」ジェラール・コルビオ監督 2000年

カストラートの監督ですね。すべて観ております。この映画は「太陽王」の話で音楽はバロックとたまらない作品です。リュリはほとんど聴いたこともないのですが、ルイ14世といえば絶頂期ですね。イタリアオペラを馬鹿にして、というよりイタリアも初期のバロックオペラですけど、フランスはダンスだと。王はダンスは踊っても歌はうたわないと。楽しい会話です。

音楽と踊りのみを支配する王が映画のはじめのほうで金色の衣装で踊るところは鳥肌が立ちます。素晴らしい光景。こんな王は道楽の世界からしか生まれません。ある面、貴族社会のいいところです。

それから8年後、実権を握っていた宰相がなくなると王自身が親政を振るうと告知します。これで名実ともに王になったのです。反対貴族は踊りを通してその息子たちを友人として囲い込んであります。ということは息子の代になればより強固な政治が実現するのです。実際一番権力があった王ですから。

この国王になったときのダンスもいいです。「エリザベス」といいこの時代の権力者は粋ですよ。日本でもちょっと前の時代は織田信長の能や豊臣秀吉の茶の世界がありました。この時代のバロックのダンスの曲はチェロが低音のリズムのための楽器なので迫力が出るんです。そして勢いでベルサイユ宮殿を造ります。耽美的でもありますね。織田信長の安土城と似ているような気もいたします。

そして国王のためにモリエールの戯曲とリュリの音楽で舞台を作ります。これが映画でも出てくるのですが、贅沢なつくりです。モリエールってこれだけ国王に取り入っていたんですね。知らなかったです。でも考えてみれば、パーセルのオペラの内容のような戯曲がありますね。似たようなものだったんでしょう。とにかく権力者が芸能界の中心にいるので貴族の奥方の受けがいい、そのことは権力基盤が磐石だということです。

しかし教会との対立が残っておりました。一度はモリエールの「タルチョフ」も上演中止にしたくらいなのですが、どうにか教会の保守性は打破したいのでしょう。そこのところを気にかけつつ、唯一の保護者たる母が死にます。ここで保守勢力の台頭はなくなったのでしょう。この葬儀の音楽もレクイエムなのでしょうが荘厳な曲です。

この映画では王の影に常にリュリがいるのです。戦争のときは荘厳な音楽で興奮させ、その勢いで勝つ。性交渉のときは(影で見ているというのもすごいですが)ロマンティックな曲で雰囲気を作るという具合です。

しかしこの映画の宣伝で有名な太陽の神の踊りのとき、うまくいきません。年をとり始めているのです。それを認めて対応すればいいのですが無理をします。完璧を求めるのです。この辺から破綻を始めます。言葉の世界、すなわち芝居劇、オペラに傾注していきます。

リュリはそれが面白くないのです。そのときの花形ソプラノはリュリの妻の姪です。

そしてそれはモリエールとリュリの関係の清算まで及びます。結局リュリもオペラを書くけど唯一、一人の音楽監督として迎えてほしい、友として迎えてほしいと王に頼むのです。これが受け入れられて、変革を起こします。王の賛歌のオペラを作ります、当然姪が中心。内容は王の賛美ばかり。しかし音楽だけが空回りしてしまいます。王は政治をこなさなければなりません。ベルサイユも完成いたしました。これからが正念場です。

といういことでこの映画は主人公はリュリでした。彼の王に対する同性愛的尊敬と自分自身の上昇志向が一生を貫いた人生でした。残されたものは寂しい死だけ。がんばったのにね。

 

映画とすると少し中途半端な感じはしますが、シーンごとに見所は満載の映画です。お勧めです。しかしメイキング観るとがっかりします。全部セット撮影。

「堕ちてゆく人妻 犯された貞淑」 杉山太郎監督 2000年

題名すごいですね。そんなひどい内容ではないんです。しかしここに書くのはためらってしまうような感じです。でも意外と面白いので書きました。

内容は「パリ・テキサス」のパクリです。だから少し共感したんじゃないかな。あの映画好きですから。

まあ三浦半島で喫茶店かレストラン経営している夫婦が中心です。まあいい加減な描写が多いのです。たとえば暇そうな店なのに従業員が多いとか、多いなら料理作っているのかと思えば、妻が弁当作ってきたりするので飲食ではない喫茶店か?とかもう登場人物に個性を与えたいからいい加減になるのがよくわかります。またここのオーナーがいい加減。

飲食店経営してしょっちゅう外食ばかりしている。

税理士に出す資料遅れるなとか、得意先に連絡したか(仕入先ですよ)とかどうでもいいことで妻を怒るのです(税務署なら重要ですが税理士は重要ならすぐに飛んできますよ)。この辺でこのオーナーは嘘、と思うのです。だから馬鹿さ加減が観ていて面白いのでしょう。

映画の中で妻の役者のほうが圧倒的に美人なのに、ブスな愛人を作るオーナー。「お前ね、愛人作る余裕がいまどきの飲食店のオーナーにあるわけないだろう」と私は思う。

妻はじっと夫の不倫を見てみない振りをするのですが、なにか不満があるのです。それは「自分だけを見ていてほしい」という願望があるからです。

しかしこのことに気がつかずに不倫してはお金を浪費する馬鹿な夫。

当然妻は姿をくらまします。夫は愛人からも奥さんのことを聞かれ、奥さんは知っていて黙っているのかもよ、といわれて少し気になっていたのですが、妻の失踪とともに急に妻が恋しくなりました。

いろいろ探しても見つからないし、この馬鹿な夫は今度は真剣に探すために店をしばらく休業するのです。もう唖然というかありえない展開。よっぽど余裕があるんでしょうか?バイトをに休業を伝えるときに「給料の2か月分振り込む」という太っ腹。こいつ本当におかしい。

そんな時妻の友人から電話があって手紙が来たとのこと。消印を観ると「新宿」。そのため新宿にターゲットを絞ります。バイトの知り合いで新宿でバーをやっている人を訪ねるとバーのマスターに「こういうところにきたら、まずは飲み物を注文するのが礼儀」と言われ「質問するより、まずは飲みなさい」と言われます。私はこのマスターの言葉が大変気に入ってます。飲み物を提供しているところで食べ物をかねようというのは無理。何か今の世の中「ランチ、飲み物つき」の変な世界ですのでこういう余裕のあるせりふはすごい好きです。食べ物を食べ物の店に行く、飲み物は飲み物の店に行く、基本です。

しかし新宿で無理をするから空回りします。ところがある日、娼婦に「見つかった」という知らせを聞くのです。行ってみると個室的ストリップショーみたいな店。

まあ「パリ・テキサス」を浮かべていただければあの、ナスターシャ・キンスキがいたようなところです。そこで同じように電話で話をするのですがそこには、もう夫には未練のない妻がいたのです。ここではみんながこの女を見てくれているという世界。そんな屈折した世界で満足してしまうほどに孤独だったのです。

 

意外と面白かったですよ。題名から借りたり、人に薦められないのが欠点。つくりは、安っぽいビデオ作品だと思います。しかし何かポイントに人の情が描かれている気がしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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