「怪談かさねが淵」中川信夫監督 1957年

この監督は本当に息の長い監督です。そして主演の丹波哲郎。「大霊界」見たばかりなので

この映画はおかしささえあるのですが、俳優生活も本当に長いですね。新東宝のマークも今では珍しくなってしまいました。古い映画ですが怖さはありますよ。

「累ヶ淵」って千葉が舞台でしたっけ。舞台の場所は意外と覚えていないものですね。下総です。年月を経て見ると違った発見があるものですね。武士があんまから金借りているので江戸の中期以降でしょうし、飲んでいる酒が清酒なので武士階級は清酒を飲めたのでしょうか。この映画が正しいというわけではありませんが、なにせ「人間の条件」ではないおですが終戦から干支で一回りしかしていないときの映画ですからちょっと感慨深いものがあります。

とにかく、借金しているのに清酒飲めているので、怪談の主人公になってしまうのでしょう。武士階級の矛盾ですね。一番階級が高いのに金はなし。あんまを手打ちにしてしまうなんざ私でもできません。基本的にハンディキャップのある人はいじめたりできないものです。この武士はおかしいのでしょう。妻にもつらく当たるし、奉公人に死体の処理をさせます。妻が葬式に行くといったら怒って肩をもませるなんざ、普通の人間はできません。わざとしているなら別ですが、おかしい行動ですし発言です。ここで告白しますと、夜ひとりでこの映画観ていたのですが、ここで観るのやめました。背中がぞっとしてきました。ここからあとのことは後に観たのだと思ってください。語り口から気持ち悪くなりました。

次の日です。笑い

結局、武士も気がおかしくなり、妻を切り、そこいら中にあんまの顔が浮かぶ上がり自分で塁ヶ淵に落ちて行きます。そして残った子供は羽生屋にもらわれていきます。(拾われていきます)

そして20年。今ではまともな従順な奉公人になりました。そしてその家のお嬢さんのお稽古事についていくと三味線の先生はあんまの子供なのです。

そして奉公人のことを三味線の先生は好きでたまらない、関係です。しかし三味線の先生を好きな武士がもうひとりいます。そして奉公人が好きなお嬢様。おかしくなりそうですね。しかし役者の質がいい。無名というか知らないだけかもしれないがいい俳優いましたね。お嬢様には金持ちのいいなずけがいるので母はこの奉公人を追い出したくて仕方ないのです。愛に生きられたらたまらないと思うのでしょう。形式でも金持ちと一緒になってほしいと思うのは仕方ないことです。

しかし先生は三味線の撥で、お手伝いが奉公人が先生の父の仇と聞いた日に、父親がはじめに切られたところと同じところを怪我します。何かの因果でしょうか?

そして武士はお嬢様と奉公人の間を取り持つ親切な振りをして先生の嫉妬を買うように仕向けます。怖くなりそうですね。当然先生は追ってきます。そしてほんの弾みで階段からおちてしまいます。2代続く悲劇です。

そのあとお手伝いから父の仇と聞かされ逆上して恨みを晴らすべく直系の人間と悪巧みをした人間すべてを呪い殺して終わります。最後にあんまと武士の所の使用人が供養して終わり。怖いですよ。

「カオス」 中田秀夫監督 2000年

この辺の映画はアメリカなどを調べてみると意外なことに商品化されているんですよね。怖いくらいに日野日出志とかもパッケージになっています。リメイクが流行っているからでしょうか。萩原くんは「CURE」以来です。

冒頭のレストラン、なんですかあのオープンな雰囲気に変にトラディショナル、そして壁にはカシニョール、もうおかしい。(外観が写った瞬間、あそこだ、と見当ついてしまいました)すごい違和感が襲います。女に肉を切らせる男も凄い。(手に怪我をしているんですけどね)女はAとしておきます。すぐに誘拐されます。萩原君(B)とします。また犯人役。ポイントはAが誘拐される前、鏡を意味ありげに見ていたこと。

そして夫に脅迫したと見せて、バックアップ体制の方の妹を脅します。警察はここはノーケアでした。しかし「今、家にある金すべてもってこい」といわれて「はいそうですか」といえる身分になりたいです。というより誘拐とか強盗には縁がなさそうな自分が少し寂しい感じもします。お金ないところにはこういう事件おきませんもんね。というよりこれはAの狂言なんですがABに手付金も払って誘拐を演じてもらうのです。何かお金が飛び交ってます。出てくる人がみんな若いので何でこんなにもっているんだろうと、不思議でなりません。この映画観ている人でこんなこと悩んでいる人はいないでしょう。若い人はすんなり見ていると思います。Bの女優は中谷美紀というのでしょうか、ずっと見ていてどこにでもいる普通の女の子だけに気味が悪い感じがします。本当に、ファンの方には失礼ですが、平凡な女の子でこの映画がどこででも起きるという感じを醸し出します。友人の部屋に隠れるのですが「ここにいたという存在証明を残さないこと」とBに言われますが、友人に頼まれた金魚にえさをあげていれば、すなわち、金魚が生きていればBの存在は友人にはばれますよね。これも禁止されます。そして手首を縛る練習。解放されたときに縛り傷がなければ疑われますよね。この練習をしているうちにAはだんだん恍惚的になっていきます。Bはここぞとばかりに犯します。なにかこのシーン、お互いに心の底で合意しているような変な関係ですよ。しかし戻ってみるとAは殺されてます。手足縛って殺されているんじゃ、いくらBが依頼受けたといっても信用されないでしょう。そこに電話、Bも動揺しているのでしょう、電話に出てしまいます。相手は殺したらしき人、なんとなく夫が関与してそうなんですがね。もうBは言われたままに死体の処理をさせられます。しかし子供を送る途中に街でAを見かけます。死体の確認はしたなら、違う人のはず。死体の確認が中途半端ならありえます。しかし狂言誘拐として警察は捜しているはずなので自由に街を歩くことはできないはずですが。当然、Bは掘り返しに行って死体の確認をします。腐乱してきてますけどね。何回も私なら行かない。どんな辺鄙なところでも電気は目立ちます。車も目立ちます。Bはそれを犯しているのです。

まあ、結局は「恋のもつれ」なんですが、後は詳しく書いても仕方ないでしょう。

まあBがだまされたことに気がつき、警察ぬきで金銭の要求をします。そこで夫とBの間に立つA(愛人)がどちらに転ぶかですね。BAに指示する関係です。夫はAが立てた計画を忠実に守るタイプです。Aの愛情は本当にあるのか?そこがポイントですよ。

最後にゲームの終わり方のABの考え方の違いが鮮明になります。

ぜんぜん怖くない映画なんですね。カオス、考えてみれば怖いわけないですよね。しかしもっと混沌としたテーマでも良かったと思います。出てくる人間がほとんど私利私欲の行動なんですよ。ひとり愛のためというのがいますが「人間の条件」の途中に見るには「お前ら、しょうがないなあ」と思ってしまいます。中谷さん有名な女優みたいですね。知りませんでした。

 

「価格破壊(かかくはかい)」和田勉演出 1981年 

この当時わくわくしてみた記憶があります。「ザ・商社(夏目雅子さんのすごいシーンがある)」とか「けものみち」はそれほどと思ったのですがこれはつぼにはまりました。基本的に政界財界をテーマにした話は好きです。最近では拓銀とか山一の倒産廃業の前数週間を追ったドラマできるといいと思います。実はかなり知り合いがいていろいろと話を聞いております。まあ作れないと思いますけど。

薬の安売りの話です。まあちょっと前までは薬は定価で買うものでしたので、安くすれば商品に差がないだけに定価の店はたまりません。たとえば、「うちは資生堂の商品に、何がしの付加価値をつけてます」なんて売り方はできないのです。いまでは定着してますし、このような小売店が付加価値をつけられない商売はたとえば、DVDなどは安売りの対象になってますね。これなんで再販商品にしなかったのでしょう?CDは逆に安売りがないですもん。多分、ここで出てくるメーカーが圧力をかけるのではなく、価格コントロールしたかったのでしょう。特にメジャー系。

ここではすぐに問屋、メーカーから圧力はかかるし、近所の薬屋は廃業するしでかなり外部環境が悪いです。まあファーストランナーなんで仕方ないでしょう。すごい圧力ですよ。しかし「戦争から生きて帰ったんだ」と言い聞かせてがんばります。一連の戦争映画はここを主張してましたよね。「戦争を生き抜いたものこそ戦争を真実欲しない」まさにこのことです。そして戦争で飢えを経験しているから、食にも貪欲ですし、すべて地獄(戦場)よりはまともに見えたのでしょう。しかし経験していないものが増えてくると通用はしないでしょう。日本の戦後の原動力は多かれ少なかれこのようなことにも起因していたと思います。

「消費者がついてきてくれる限り努力する」という言葉は良いですねえ。メーカー批判はすごいものがあります。それを仕入れて売るだけの小売を維持するというのも難しい話ではあるんですけど。今の日本はこの先に来ちゃっているので、現状しか知らない人はつまらないのかもしれません。あるたとえ話があるんですがメーカーが価格維持に躍起になってあまり安く卸さない商品の原価が5円(定価180円)とのこと。まあこれくらいでないと儲からないわけですがね。何せ人件費が高い。

話は戻して、薬局時代につぶされた薬局の娘がこのスーパーに就職するのですが「はじめはどんな商売しているのか見てやろうと」という気持ちでしたが、いつのまにか「商売の鬼」になって行きます。この時点で会社が大きくなって妻の役割が仕事上では減って行きます。大きくなっていくときというのはそんなものです。しかし気になることがあるのですが、出店ラッシュの時に「規模の経済の享受、日銭が上がる、そして土地価格の上昇」という言葉、かつ「銀行は金を貸すのが商売で、利子くらい返せなくてやっていられるか」ということです。実際にはご存知のようにこれで危なくなったし、銀行まで巻き込んで危ないわけですからね。

この映画では常にお好み焼きやが比較で出てくるんですが、「合理化ではなく、話題づくりと客寄せでっせ」と言われます。そういった時代になってきたとのこと、スーパーでも店頭販売を始めます。現実にこういうことをやっている人は、現役なのでこのような話は過去のものでしょうが、確かに変遷はわかります。配送センターの設置が画期的だったときです。今では当たり前ですけど、当たり前になると本当に利用しているかどうかが疑問にもなるんですけどね。最近、私事ですが、DVDとか購入して運送事故かなりあります。あと注文して在庫がないとか意味がわからないんですけどね。管理が難しいのでしょう。実際店でも、作るのは意外と簡単ですが、維持管理は難しいです。

するとメーカーから休戦の話が持ちかけられます。内容は再販維持価格を守ることで、バックマージンをメーカーが負担するということです。これに戦いを挑みます。メーカーは製造番号から仕入れルートを洗い出しするつもりです。製造番号を消して安売りをやっていた時代があるのは私も知りませんでした。このころはまだメーカーも小売り重視してくれていたんですね。いまでは切り捨てられてます。笑い。

ここで、このスーパーの進出でつぶれるべきところはつぶれた、そのあとの戦いが始まります。スーパーにはスーパーで対抗。そのために薬局から入った娘を引き抜きに来ます。

この彼女は仲間を引き抜こうとしますが、多分この女に恋心を持っている男が一人だけついていきます。まあ人望があったんですよ創業者に。引き抜きでうまくいくのでしょうか。

ここからすさまじい迫力が出てきますよ。

問屋は付き合いがある以上新しいところへはより高い卸値しか出せないといわれます。そして盗品を卸すところから仕入れることにします。

スーパーの社長はこの新たな敵を歓迎しているんですよ。流通経路が闇に包まれるか、逆に一緒に突破口が開けるか見極めたいというのです。前向きな男です。そしてばかげた値下げには静観して様子見を決めます。というより私はこの主人公に肩入れして観てしまってます。前回、23年前ですか、そのときもそうでした。たまたま見たんですけどね。

また、例のお好み焼屋もビルにしてきれいにした分だけ、客足が遠のいてしまいました。どうするべきか?聞かれて社長は「撤退だね」戦争で負けたなら退く。おっしゃるとおりです。私の商売の話は置いておいて、ずっと見てきた戦争映画で失敗しても攻撃して行った日本軍、あの戦艦大和などの悲惨さ、とアメリカ軍がフィリピンから撤退して軍を立て直してミッドウェイで勝利して流れをつかんだ様子身にしみて感じているのでしょう。

そして新しいスーパーは、実は計画倒産だったのです。何の利益があるのか?手形切って仕入れする時点でおかしいと思わなければいけないのですが、そこは任してしまい鵜呑みにして、現業ということでスカウトの連中をすべて役員にして代表権や利益相反取引に引っかからない立場に自分たちを置いておいて、逃げたのです。残った連中はたまりません。

強力なライバル出現とよりがんばった社長も悲しんでます。結局は元の状況に戻って孤軍奮闘しなければならないわけですから。

つぶれたスーパーの親子も法人ですから、役員としての義務しかないと父が言い聞かせます。そして「すみません」と経営責任だけを謝れというのですが、日本はそうは行かないんですよ。結局はお金がなくなるまで追われます。

そして昔いたスーパーに本店と支店の売却(債務込み)での打診をします。ここで女は終わり。しかし本店だけを買い取ることにして、電気製品を始める方針です。この電気製品もダイエーなどの大型スーパーの不振の原因であったはず。先が危ないですね。日常のものを買うところで、数年に一回のものをついでに買わないのです。消費習俗の違いはスーパーの消費提案でも変えることはできないですし、新製品のサイクルが早すぎるのです。食品はその価値、味のよしあしは普遍的なものですけどね。

しかし最後にかけて、今まで締め付けていた連中がすべてスーパーの社長を頼りにしてきます。男一本で戦場から這い上がった男に負けたわけです。所詮サラリーマンなんですよ。

結局、薬局の娘は平凡な男と結婚して普通の生活に戻ってしまいました。そして主人公はまだ戦い続けるのです。というところで終わり。

本当にいい映画です。絶対のお勧めです。音楽は今とはまったく局長が違う加古隆さん。

「ガキ帝国」 井筒和幸監督 1981年

まず面白いのがキタとミナミに勢力が別れていることです。

キタは梅田地下街が映るのですが、私もどこまでがキタなのかは知りません。ミナミは道頓堀が出てきます。同じくどこまでかはわかりません。キタの北神同盟とミナミの半端3人組プラスホープ会という構図みたい。

共通して感じることが、教師にまだある程度権威があった時代です。そして授業をボイコットするのも学校に行ったから出来ることで、とりあえず、みんな学校へ行っていた時代です。こんなこと書くのも本当に時代が変わったのだと思います。あと、思ったことは半端3人組がサッカー部です。部活動やっているんですね。ですから今の基準ではかなりまじめだともいえます(サッカーとかJリーグが出来てからの人気、かつワールドカップが日本で開催されるなんてこの時代にサッカーやっていた人は誰も考えなかったと思います)。そして私たちの時代もサッカー、ラグビー部は不良というか成績が悪いやつの溜まり場でした。意外と野球部の連中は成績が優秀な奴が多かったです。そのため、この映画はかなり笑ってみてました。年末にふさわしい、ふんわかした感じで良かったですよ。昨日の「アンナプブロワ」とまったく違いますが、私も似たような環境でしたので、よく内容がわかります。

主人公Aは少年院から帰ったばかりで、何をしたらわからない存在で、かといって人生このままではいけないと心の中で思っているんです。そういえば、バイトで喫茶店のボーイやるんですが、やたら喫茶店が出てきます。たしかに昔はかなり喫茶店に行ったんですが、最近は高校生の溜まり場はマックになったみたいです。あのデフレ価格で昔の喫茶店の役割を果たしているので、かなり大変みたいです。掃除とか。今マクドナルドが閉店している店舗は意外とこのように高校生に占領される空間を持つ店舗が多いみたいです(何の根拠もないですが、さらにマックの批判ではないです)。

そして三人組にからむ女の子に紗貴めぐみが扮するのですがこの俳優、「道頓堀川」(深作監督)でも良い味出てました。Aは島田紳助です。役者にない不良の雰囲気が出てますよ。中途半端な感じが出ていて良いです。

キタの北神同盟(以下、同盟とする)はやくざと関係していて、やくざの下働きみたいなこともします。そして新しく入った「あしたのじょー」が曽根崎支部の代表になりますが一番初めのダンスパーティーで3人組とニアミスがあり、決着つけるために3人組は南港に来いというのです。

個人的な環境ですが、Aの父は小さな町の工場を経営しているのです。その父は半分不良の息子にも殴ることが出来ます。父の威厳があるんです。この工場の近くで朝鮮系のアパッチ族にチャボ(Aの友達、松本竜介)がナンパの最中にやられるのですが、逆に仕返しに父も賛成して応援するくらいの関係です。何かが今と違うのは、まずこのような工場は平成不況でなくなりつつあるのと、このような喧嘩に対しても威厳を持つような父親は精神的余裕がなくなっているのでしょう。さらに喧嘩は基本的に素手です。このなにかわからない変わった雰囲気は20数年前の映画ということでこの年月の間に若者も変わったということでしょうか。半端者は将来、やくざ、事業家、芸能人しか道がないと考えているんです。しかし関係ない話ですが岡本喜八監督の「青葉茂れる」という映画があるんですが、ここでも(仙台が舞台なのですが)威厳のある先生が出てくるんです。すごい良い先生なんですよ。いつごろから学校は崩壊してきたんでしょう。家庭の崩壊が影響しているんでしょうか。そのどちらも(父の威厳、先生の注意を守ること)この映画でさえあるのです。たかだか、22年前の映画ですが、逆に考えるとこの映画に出てきた人たちが22歳のときに生んだ子供が今は大学生から社会人ということなんですね。こう考えると悪循環してます。親が悪いから子供が悪くなる。しかしその悪い子も子供を作る、さらに悪くなる。すべてがそうだとはいえませんが、(逆にスポーツや音楽では才能が開くケースも増えていますので良い循環もあるのでしょうが)、悪くなるケースはこのようなパターンが多いのではないでしょうか。

ここで一つ触れなければならない問題をこの映画は抱えてます。それは朝鮮の問題です。あしたのじょー(以下C)は在日でした。いわゆる、自分ひとりで誰も信じないというパターンの人間として描かれます。同盟の中でも浮いてしまい、幹部を殴ってしまいます。その場に3人組の一人もデートで来ているのですが、そんなにとんがっちゃ生きていけないよ、と抑えるのですが、言葉を母国語でしゃべってしまうんです。Cの彼女は同じく在日でしたので問題ないのですが、3人組の一人(以下、Dとする)のほうは彼女がDが日本人でないとわかった時点で男から離れていくのです。3人組としてアウトサイダーの学生生活を送っていたにもかかわらず、ここで何かを感じたことでしょう。しかしこのデートの舞台が映画館なんですが、多分、舟木一夫と内藤洋子の出ている映画がかかっていますがタイトルは何なのでしょうね。あとで最後にネットで調べてみます。ということで3人組は実は半端者でありながら、差別のない関係だったのです。それは、アパッチとの関係でもわかるんですよ。殴ったりするけど、差別はないのです。しかしDは「朝鮮という奴らと遊んでいる」「奴らの腹の中はわかるか」「みんな同じだ」と言われます。でも3人はあくまで徒党を組まずに3人だけなんです。

ところが同盟は東京から来たゴキブリという男とともにミナミに殴りこみに来ます。結局Dは自主退学になりミナミをまとめるのがAになってしまいます。ホープ会も中途半端になってしまっているのです。しかし結局最後のほうでチャボは同盟との喧嘩で死んでしまいますし、Dも別の生き方になってしまっているのです。私もこの若者の団体の関係が映画を見ただけではわからないのです。この監督の編集は下手なんじゃないかなあ。しかし言いたいことは伝わるのですがどうも説明が中途半端というか場面の転換のカットが多すぎて前後関係がつながらないのです、さらにいろいろと関係を複雑にしすぎてます。出てこないで切ってしまってもかまわない人物もいると思うのですがねえ。

まあ、仁義を通し切れないで中途半端に終わる連中の話です(この映画のキャッチフレーズは自分の生き方を貫いたとあるのですが、それにしてはAはあれでいいのかな)。またはやくざの世界に入っていく極端な青春でした。もうちょっと朝鮮問題をはっきり描いてほしかったと思います。それと3人組のツッパリを貫いてほしかった。もう一歩で面白くなり損ねた映画です。

たぶん劇中の映画は「君に幸せを(センチメンタルボーイ)」だと思います。

「カドリーユ」 ヴァレリー・ルメルシュ監督 1997年 フランス

本当に面白い比較ができると思いますが、「天国と地獄」のAの室内と同様に、ここでの舞台となるホテルの部屋も一目でセットとわかるものですね。置いてある家具備品も安っぽい作りで、色が派手なんです。そういう意味で、この映画はフランス的な映画なんでしょう。「シェルブールの雨傘」もそうですが壁紙とか色がぶっ飛んでいますね。そして出てくる人物の衣装もいいですよ。さらに監督以外は意外と美人、美男子が多く目の保養になる映画ですごく気楽ですよ。

誰が主役ということはないんですが、ほとんど、4人の男女2組の恋の駆け引きがテーマです。違うカップルの男と女がジャーナリストである流行監督(チェコ出身の父(緻密さの記号)とブラジル出身の母(情熱の記号)、の取材に来ているんですが女のほうの友人がこのもう一人のジャーナリストの恋人なんです。ここで二人は待っている間に恋人の話とかしているんですが、女記者のほうはうまく、誘いをかわしているんです。あとから思うとこの美人記者が恋人がいなかったから今回の話は完結するのです、しかしこんな美人がいないなんてと思います。しかし監督がその取材現場のホテルの自室に来るまでに気になる女性が一人いるんです。理由がみんなサインを求めるけど、この女性だけサイン欲しいといわないから監督のほうがサインもらったというんですよ。それをインタビューでいうとインタビューしている女の(役者、サンドリーヌ・キベルラン、私は知りませんでしたが、すごく美人の女優ですよ、この映画ではファッションもいいのですごく引き立ってます。以下Cとします)友達で一緒にインタビューしている男の恋人だったんです。このインタビューも傑作で、監督の才能は2流映画ほど大きい、とか、2部屋予約しているのはなにが起こるかわからないし、もし起こっても自分はベットで一人でないと眠れないという性格だからといいます。かなりいい加減な奴です。パリは演劇がいいから舞台を見たいというと男の恋人の舞台を紹介します。そしてその人気者の自分のサインをもらわなかった女性がその役者だと知るのです。(この映画の女性監督、Bとします)

人気の映画監督(以下Dとします)と舞台が引けたあとデートする約束をしてしまうんですよ。Bは監督にぞっこんになり(ロマンティックなところにですね)恋人の男(以下Aとします)は不倫したと怒りますし、実力派の俳優の自分自身も一目ぼれして、自分が普通の女だと始めて気づくのです。(まさか簡単に恋に落ちるなんて思っていなかったんです。恋人とも長く付き合って結婚していなかったし)

CAのことを言葉より実際にあなた(B)を幸せにしているのよ、と説得します。まあロマンテックよりも現実重視ですね。

しかし、一晩でDはロンドンに行ってしまいます。まさにBは残されたんです。いわゆる行きずりの恋ですね。それでなければ2部屋同時に予約なんてしません。しかし、その数時間のロマンティックなときを忘れられないでいるのです。そして、ずるいことに恋人とDにラブレターを出します。二股ということです。それを女友達のCが預かりAには渡します。ADにもどんな内容を送ったか知りたくてたまりません。これはすごくわかる心理です、はい。ほかの男にどんな手紙だしたか知りたいですよね。Cは女友達ですので同姓に不利なことはいたしません。こんなやり取りをしていて気がつく点があります。映画のはじめからCAが一緒のシーンが多いのです。またBDの一緒のシーンが多いのです。整理するとABが恋人同士、BCが女友達同士。そこにDが現われただけです。しかし一緒のシーンが違いますね。だんだん見えてきました。やはりBのラブレターを渡したときにCAは会話が弾みます。そこでAは男としてCについて女は恋人を取り合ったかと思うと、都合が悪くなると女同士は同盟を組むと文句言いますがそのとおりです。しかしCは他人の恋人を横取りにしたりはしません。ここでCに彼氏がいないことが効いてきます。すぐに恋人の彼氏と一緒にはなれません。しかし映画上、話が弾むというか見ていて安定した関係なんです。でもABの恋人同士は結婚することになり、家を購入します。この家庭でDは一時の不倫だったとBもどこかあきらめがついたしAも長年の恋人関係を清算して結婚しようとします。そして結婚式当日。どんでん返し。

Cと抜け出して公園に逃げようとやはり土壇場で踏ん切り悪くなります。

しかし音楽とともにDが登場してBをアメリカに連れ去ります。Bも喜んでついていったんですよ。それを知らずに仕方なしの結婚になりそうなABがいなくなった経過をCが話すと納得して改めてCに求婚します。CB=友人を裏切らなくなる状況の下、女友達の元彼氏の求婚を受けて2組めでたしめでたし、となるのです。Cが美人で偉い。彼女がじっと動かなかったのでこの2組はあるべき形に収まったのです。

意外とメルヘンチックな面白い映画ですよ。

 

「家宝(かほう)」 マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2002年 ポルトガル

 

パガニーニの「24の奇想曲」が印象的な映画です。そういえばこの局もパガニーニが悪魔に魂を売り渡して演奏することが出来たなんていわれましたね。私はこの最後の曲にヒントを得て出来たラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ピアノと管弦、とくにベルリンフィル、アバド指揮、プレトニエフのピアノがいいですね)ということで曲と映画のテーマが一致しているとあとで気づくんです。まあよくあるパターンですね。

 

雨の教会からスタート。何を意味するのかわからなかったですが、見終わると意味がわかります。

そして唐突に世間話のシーンが入り、固有名詞がどんどん出てきます。こんなの聞いたことあるはずがないので、まずここで躓きます。まあ見ていると意味がほぐれてくるんですが。これは監督のセンスがかなり疑わしい感じがします。ここまで観客を置いていってしまって良いのでしょうか?

あと景色の挿入がはいります。しかしこの景色の俯瞰の構図の挿入は映画全体で一定してます。さらに移動の汽車、バスの窓からの風景。これは画面展開とそのシーンがどこで行われたかの簡単な説明ですね。すごく気づくと単純なことがわかります。

次にまた意味わからず、お手伝いの女が「マリア様の絵」にお祈りしているシーンです。これは深い意味を持って映画の終盤で同じ構図が出てくるんです。また、たまたま、そのお祈りしている絵とまったく同じ構図で赤ちゃんを抱えた現実のシーンがダブります。その抱えた人はお手伝いの言うマリアのような人なんです。こういう意味もあるのでしょう。

するとこのお手伝いは司祭に相談に行くのです。まったくわからない展開ですが本当に後半まで我慢すると意味が開けます。また思うのですがこのような展開は見ているものに我慢を強いるものだと思うのです。あまりよくないと思うのですが・・・。

家の若い主Aとお手伝いの子供Bといかがわしい女Cさらに純朴な少女Dがとりあえず出てきます。こうするとAに悪影響をBCが与えていると司祭に相談に来ているのです。そしてAは体も心も弱い、Bは青い雄牛と呼ばれるくらいの体力だけで頭が悪いやつです。Cが旧家に入ってきてよくないという関係です。実際は犯罪にまで手を出すようになるのですが。

そこで司祭の提案どおりに食事会を開いてBCの陰謀を暴こうとするのです。Aに気をつけてもらう意味(注意を促す)が強かったのでしょう。ここでDも参加するのですが、事前に純朴なこの女性を推薦したのがお手伝いなんです。(このことはすごく深い意味があります、要注意。)しかし、Dは事前にBの求婚を受けていたにもかかわらず、さらにBを好きなのにもかかわらず断ります。このこと(Dの気持ちの中で、貧しさからの脱出、大穴をしとめた=結婚)は一貫していて、途中結婚後も、離婚しておかしくないときに「善人でお金持ちの人となぜ離婚しなければならないのか?」とまでいうのです。冷静に考えると、私がDを純朴といったのはお手伝いの言葉を信じただけです。

実際に聖母教会で結婚式を挙げます。Dの父親は娘がいなくなる悲しみをカジノで過ごします。この父親はギャンブルで破産同然になっているのです。娘の安定志向もこの辺に起因すると思います。このあとの親族だけの食事会はかなり危ないシーンで、すでにDが魔女のように見えてきます。Dの母が一番Dのこの後の行動をしめすような的確なことを言ってます。ここでCDが張り合うのですが、Cは慈善の仮面をつけただけの問題指輪のみの女、Dは人生がギャンブルのつもりと言い合います。まあどちらが正しいのかは最後までわかりません。しかしDは大穴という表現からギャンブルと同じだったでしょう。ちなみのこの二人の女役の女優は当然美人です。「金の馬具でも馬は調教できぬ」ということですが、お金は状況を変化させる効果があることも事実です。この辺(お金とお金に執着するD)にしか物語のテーマは離れていかないのですが、ここに気づくのはかなりあとのほうでです。実際私もかなり後までDは素直でやさしい女だと思っておりました。

そして、この4人がイタリア旅行に行ってしまうので話がわかりにくくなります。この旅行は実はブラックボックスで映画のあとにかなり自由に考えることが出来る余地のある時間となります。私はのちにBをしてAの子供をCが身ごもったのか?というせりふから考えてここでACは肉体関係があると思います。ここでもDは一人先に帰ってくるのです。

「病気そのものは治療が出来るが置かれた状況により不治の病になる」ような状態に4人の関係がなっていきます。犯罪に手を出していきます。そんな中、母が死んで葬式。

それと同時期に警察の手入れ。Dはものすごく怒ります。良家に嫁いできたはずなんですから。そこで昔から知り合いで好きあっていたBDにあまりかかわりを持つなと、忠告に来てくれます。Bはもう覚悟を決めたのでしょう。もしこの家に残ったら君の負けだと教えてくれるのです。まさに人生はルーレットですね。心は優しいのだから、と思うのですがなんとDは「やさしさ」なんて「単なる礼儀の問題」というのです。礼儀を守っていれば傍目にはやさしく見えるといういのです。いやー、パガニーニの音楽がこんなところで効いてくるとは。それはDの本質の恐ろしさを表現した音楽だったのです。

A,B,Cはどんどん落ちていき、心の弱いAは自殺、Bは自首、Cは国外でどうにか生活しています。このAの葬式のときにDAすなわち自分の夫だったひとがお手伝いの子供だったと知ります。すなわちABは兄弟だったのです。それでAはこの家の正当な当主ではなかったのです。それをマリア様の前でお祈りしているお手伝いの姿を見てその告白を聞いてしまったのです。

そして最後の弁護士とのシーンでBについて「女性の奴隷、快楽と豊かさの中にしか居場所を見つけられなかった」といい、Aについて「うそとみせかけと裏切りに囲まれていた」というのです。そして弁護士の求婚に笑って終わるのです。この笑いの恐ろしさはパガニーニの音楽にも負けません。ぞーーとしました。

「仮面の中のアリア」 ジェラール・コルビオ監督 1988年 ベルギー

引退リサイタルのアンコールのシーンからスタート。結局はここから戦いの第2幕が始まっていたのでした。バリトン歌手(ホセ・ヴァン・ダム)がアリア合戦を繰り広げるという事前の知識から、これはないよな、と思って拍子抜けはしました。それを見ていた、昔アリア合戦で負けた実業界の金持ちは溜飲が下がるのですが次なる戦いにまさか負けるとは思ってもいなかったという始まりです。

そう、「神曲」なんか見たあとはこういう単純なのが良いです。もう結論書き終わりましたモン。まあ一人の女の生徒について教えるのですが、その生徒は先生に淡い恋をしているのです。(美しい生徒役はソフィーの役でアンヌ・ルーセル、最後の椿姫のアリアは演技がなっていないです。笑い、あの声はあの体勢からは出ません。)当然先生も美人だと思っているのですよ。しかし先生は拒んでいて、ソフィーにもそのやさしさが通じるのです。そんななかたまたま街で一見ですが気に入る男を拾ってきて(これはピンと来るものがあったのでしょう)教えはじめるのです。簡単な話、男も生活に困らないので教えてもらうのです。

その教えは「音楽に惹かれて、身を任せるのだ」というもので周りのものが見えなくなるくらい音楽の中に入り込めということです。特訓とか練習風景は90分ちょっとの映画なのであまりでてきません。でも数年はかかってますよ。その中で「正しい判断」をできるような適切なアドバイスがなされたのです。さらに、愛のもつ力を教えてもらったはずです。そして、愛が音楽にいかに彩り、深みを与えるかを教えられたのです。

で、弟子の一騎打ちの日がきます。たいした緊張感はないんです、愛しあったりしている余裕があったのですが相手の歌を聞かされるという策略に引っかかり(なぜか?それは声が似ていたという単なる事実からです)自分を失いかけるのですが、練習ばかりではない情感の経験もつまされた2人は見事相手に勝ってしまうのです。単純な話です。あとから思うと、人前で歌わないということも音楽に浸った環境ということで良かったのだと思います。さらに対戦相手はすべて、テノールにしてもその金持ちが一緒についていましたし、ソプラノにしてもまわりは女に囲まれていたということで、愛を知らない環境だったともいえます。愛の勝利というパターンの映画ですね。

全編を流れるマーラーの音楽、特に交響曲第4番の方はすごくいい印象を映像に与えております。「大地の歌」の方も良いのですが。ちなみに仮面をつけた戦いの曲は、ベルリーニの「ア・タント・ドゥオル」から「多くの悲しみに」だったと思ったけど、ちょっと自信なし。ソプラノの方はベルディの「椿姫」の「花から花へ」です。ここでテノール部分をカーテンから隠れて歌って観客を驚かせると共に愛を確かめ合ったのです。

 

「カルメン」 映像監督ブライアン・ラージ、ジェイムズ・レヴァイン指揮 MET アグネス・バルツァ、ホセ・カレーラス  1987年

 

あまりに有名なオペラですね。映画ではないのでかなり詳しくソリスト書きました。まあ一言、映画と違って舞台は観客は自分の好きなところを舞台の上で見ることができるのです。しかしDVDのようなパッケージになると映像監督が編集した部分しか舞台上での出来事は見ることはできません。これははっきりいってよくないことです。舞台上が映画でいうスクリーンなんです。

まあそんなことはおいておいて、簡単なストーリーと感想を。

セビリアのタバコ工場の前。ミカエラという娘がドン・ホセを探しに来る。しかし、ホセが来ない間にカルメンが休憩で出てきて、たまたま目が合ったホセを一目ぼれする。(本当はこれが大事だったんです)ホセもまんざらではない。しかし、ホセはミカエラと結婚するつもりでいる。それを知ってカルメンが騒動を起こす。(カルメンはホセが同じ故郷のナバーラ人と知ってまた好きになる)しかし騒動の始末をカルメンはしなければならない。ホセに逃げられるように頼んで逃げる。逃がしたホセは1ヶ月営倉に謹慎させられる。

その間カルメンは酒場で踊って歌って楽しく過ごす。本当にいい場面ですよ。(「踊りと歌は一体」という場面、このプロダクションはそんなに盛り上がらないが。しかしこのシーンを最高に表現できるプロダクションがあるのだろうか?すべての人材がそろっていなければならない)そんなところに闘牛士のエスカミ―ユョが現われ、カルメンに一目ぼれする。カルメンの気持ちはホセなので、そっけない態度。さてホセが帰ってくるとカルメンは待ち望んでいて愛の最高のシーン。しかしカルメンは「仕事より愛」すべてを捨ててまでも愛を優先、ホセは「仕事は仕事」愛への思いが違うのだ。変な男のプライドがあるのだ。カルメンは好きならどこまでも一緒に逃げようという。ここで食い違い別れようとする。しかし将校が来てしまい、カルメンが好きなのでホセにはもったいないと決闘になりそうになるがカルメンと密輸仲間が止める。そして、ホセも密輸仲間と逃げなくてはならない運命になる。ホセもあきらめてカルメンと一緒に逃げる。ここまでの第二幕はいい曲の連続で最高です。

密輸団が逃げているとき、監視員がいて隠れているがここはホセの実家の近くである。母のことを思い出しているのだ。それをみてカルメンはうまくいかない運命を悟る。実際にミカエラはホセを追ってここまで来ているし、エスカミーユョもカルメンを追ってきている。たまたま出会ったホセとエスカミーユョは決闘しようとするがとめられる。このころから気持ちがエスカミーユョに少しずつ向かっている。さらにホセは母が危篤と聞いて母のところに行ってしまう。

闘牛場の場面、もうカルメンはエスカミーユョと一緒になっている。ホセは影から見てどうしてもカルメンとよりを戻したい。もうこのときのホセはプライドもないし、カルメンも気持ちが変わっていた。しかしホセは自分の気持ちが癒されないとしてカルメンを刺して終わる。

こんな話ですが愛は具体的にはアリアとしてはカルメンとホセの二人にしかないのです。

話とするとホセの優柔不断さがすごく気になるのです。もっと受け止めろよ、と思うのですが、よく考えると、ホセには愛とともに母やいいなずけがいるのですね。それを壊したのはカルメンなんです。カルメンは根無し草なので気楽なんでしょう、しかしどこかに寂しさがありその裏腹に強い愛情を相手にもとめるのです。後から出てくる闘牛士はまさにうってつけです。しかし運命はいたずらをしますね。その男と女の縁の皮肉さが歯がゆいんですが、だから面白いのでしょう。

この舞台についてはバルツァは好きなメゾでこの役は適役だと思います。もう少し若い方がよかったと思います。ホセはまさに適役。ほかの二人はちょっとイメージが崩れるくらい。しかし、よくこの舞台見ればわかることですが、上演できるオペラハウスは少ないでしょう(「アイ―ダ」なみに大掛かりです)。まずトスカみたいに絶対的にメゾに魅力とテクニックがなければ成り立ちませんし、かなり踊れなければ務まりません。またダンサーや子役もたくさん出てくるので大きなオペラハウスしかできないでしょう。その点METは問題なくこなしてます。しかし、衣装も含めて何かが違うんです。私自身このオペラは実際に見たことがないですし見る機会も多くないです。そのため、あまり大きなことは言えないのですがもっと踊りを多くして、舞台全体に躍動感がほしいです。しかし一度は見てみたいオペラですね。今だったらどこのオペラハウスができるかな。カルメン役はバルトリがよさそうですね。

 

「奇跡の海」ラース・フォン・トリアー監督 1996年 デンマーク

この監督、やはりやばい監督だと思う。ウドキアーとか使っているし、内容もきつい映画が多いです。この作品だけ、廉価版が出てしまって処分できなくて持っております。しかしもう一度見てみることにします。私のエミリーワトソンへの印象もこの映画で変わってしまったのです。

「べスの結婚」

すでに最後まで見る自信がない。人物がもうハイランド特有の顔をしてます。そして寒さからの貧困。寒村の中の結婚です。しかしべスのあの笑顔で考えは変わりました。本当にうれしそう。結婚が幸せだと思っているのです。そして夫婦がひとつの生活単位だと思っているのです。そのためにずっと神への信仰を怠ることなく続けていたのです。素直だ。

「ヤンとの生活」結婚式のときに処女を捨て夫婦生活に入ります。前の結婚式のときにふと思ったんですが日本の田舎とそっくりな部分あると思います。欧州はすこし歴史が古く、国が分かれて民族が入り乱れている分、部落ごとに定住生活をしている日本と似ているのかもしれません。慣習に縛られるところも。横浜なんてNYよりも歴史が新しい町ですからねえ。べス(若草物語みたいですね)は「赤い糸」を信じています。運命の出会いですね。ヤンは女と結婚したくらいの気持ちです。このずれは大きいですよ。

「ひとりの生活」

夫が収入を得るために北海油田に出稼ぎに行きますがその間はべスは一人で生活をします。

しかし一生のい伴侶を神様からいただいた気持ちが強い、べス寂しくて仕方ありません。ここで感じるのですが、スコットランドのような人口が少ないところは電話線よりも携帯電話の電波のほうが能率が良いですよね。そして寒いのですから北欧で携帯電話を中心に競争力をつけてきたのはわかる気がします。しかしべスの愛情は無償のかけがえのないものですね。これはすさまじい。こういう愛は成功します。本当の愛情は一途なものです。

この辺で気がついたのですが、意外とこの監督描写がストレートなのです。性行為なんかもごまかしても良いはずなのに描くし、油田の雰囲気、厳しさも描くし、自己でヤンが倒れた病院先での看護の時もエグイし、不思議でしたが、だんだん、人と人のつながりの意味、孤独ではない、そして生まれたからにはなにか足跡を残す、魂が人間にはあるということ、人間の社会性などをうまく描いてます。なんというのか人間は人間として生まれてきたからにはそれだけで義務と責任が生じる、その根源的な部分を描いているのです。

「ヤンの病気」

前の章で、最後のほうのべスの信じる気持ちに感動して泣けてきます。前回はこんなことなかったので、何かが私の中でも変わったのかもしれません。これでこの監督のDVDBOX買う心構えができました。実はDVDは意外と見ないのです。オリベイラもビスコンティもまだ1作品ずつ未見のタイトルがあるくらいです。

しかし病室でのお見舞いの会話はそのひと言ひと言が素晴らしい会話です。人を個人を大事にしながら相手も大事にする、そして愛する人には愛するゆえに体を抱きしめる代わりのことを要求する。

「疑惑」

ここまでは良いですね。実はここまでも前回は良いと思わなかったんです。何かが変わったんでしょう。べスを抱くかわりに誰かに抱かれる話をしてくれ、という要求に無理にこたえようとべスはがんばります。この要求は判る気はしますが、相手のベスは結婚まで処女だったんですよ。無理ですよ。それに答えるべきか教会で悩んでいる姿は実に見ていて悲しい。しかし今回はまことに爽快に大笑いさせてもらいましたが、べスがバスに乗って男の人の隣に移り、またに手をやり、ズボンを開き、陰茎をしこしこと手でこするのをべスは顔を見ることなく行い、かつ男の人もやられるままにさせておくというシーン、いやあーーー疲れが吹っ飛ぶくらいに私には受けました。前回はまったく笑った記憶がないのですが。それを報告するとき、あなたに触れたというのです。バスを降りた瞬間に吐き気をもようしたくせに。信じる、すごいことです。

「信仰」

ここですごい会話が。それは兄貴の未亡人の義理の姉との会話ですが、ヤンとのほかの男と寝て来いという会話を聞かれてしまったのです。べスはヤンしか愛せないので抵抗があるのですが、やるというと、姉は馬鹿なことをするなと止めます。べスはなんと神が彼を信じれば助かると言ったというのです。土地の神を徹頭徹尾信じているんですよ。神父というだけですよ。よそから嫁に来た姉にはこの信仰はわからないと。そして姉は自分の意思で生きるのよ、と近代自我の確立みたいな事を言います。意思と信仰の対比です。

「べスの犠牲」

実はこの前の章の最後にヤンは事実上の離婚調停に賛成していたんです。というのはべスを精神病棟に移してヤンともう会えなくする書類にサインをしたのです。医者からはヤンはもう直らないといわれて、生きている限りべスは犠牲を追い続けるから危険だというのが理由です。もうべスは神の言葉なんて抽象的なものを信仰の対象にできなくなってしまいます。現実には愛が、愛し合うことが精神の救済に一番だと知ったからです。しかし閉鎖的な村は、教会を中心に神の言葉をひたすら読んで信じるものだけが教会員として村で認められるのです。よってべスは村はじきにされ、母親も助けると同様に村八分になるので黙ってます。教会に捨てられ(神に捨てられ)自分自身の中に存在している神と対話しながら、ヤンにも会えなくて、変人のいる船に売春に行きます。前回はそこでひどい目にあっているのに、なぜ行くのでしょうか?試練を乗り越えれば活路が見出せるとでも思っているのでしょうか。まったく無意味です。しかし向かうときに最後に神と自分と対話して何かを見出したのです。それは犠牲。もしくはヤンとの永遠の生。当然今度はめっためったに切り刻まれます。

「葬式」

とにかく、べスは死んだ。しかし彼女は自分の中の神と常に対話していたのです。そして、愛することに忠実に相手を思いやり、回りを気にせずに生きたのです。それも悩みに悩んで。人間なんて、小さな存在ですし、せめて伴侶と添い遂げたいですよね。男と女がペアというのが人間の最小単位です。葬式は行わず埋葬だけ許可されましたが、ヤンは死体を持ち運び油田に投げ込みます。これからそこで仕事を再開するので守り神になるでしょう。

そのとおり、しばらくしたら天から村の教会にはない鐘の音が油田の人々を祝福するかのごとく鳴り響くのです。まじめに信じあっている限り油田の人々は安全でしょう。

素晴らしい映画でした。まったく私の勘違いで、理解不足を反省いたします。

 

「機動警察パトレイバー1」押井守監督 1989年

この映画、当時はまったく存在自体知らないで、まあアニメなんて見ていなかった時代ですから、昨年、ひょんなことから見たいと思った映画です。

今はアニメも見境なく良いものは良いと評価するようになってます。いやーー、のっけから良い。音がいい。リズムがいい。これからどうなるのかわくわくしました。

そして木更津と川崎を結んでのバビロン計画(東京湾埋め立て)です。まさにバブルの発想です。この場面になったら一気にトーンダウンしました。しかし世界で認められている日本のアニメというのは嫌でも実感しました。海外の人はDVDは高くても買うので、日本人は恵まれているはずなのですが一昨年くらいからしかアニメは見ていません。食わず嫌いでした。反省。大音量で爆発的に楽しみました。あと音の定位はいいです。しかしアニメに特徴のギャグにはさすがについていけませんでした。

ロボット(レイバー)が日常的に労働力の担い手として利用されている時代の話、といっても想定1999年ですが、警察も対抗して取り締まりのためにレイバーを持ってます。しかし警察、労働者のレイバーともに暴走する気配がでてきます。事件の延長にあるプログラマーが浮かび上がってきますが、その男は自殺してしまったばかりです。まあ技術屋の言葉として「人間が(作る、使う、保守するやつ)が悪さしなければ機械は正常に動く」ということです。

なにかがきっかけで暴走するんですが、プログラムされているのか、自然でそうなるのか、どっちなのでしょう、という楽しみはあります。まあコンピューターウィルスです。あとはつぼの場面の大音量と音楽を楽しみながら最後まで一気でした。

面白いかといわれれば、面白いけど、期待以上ということはなかった。劇場版とテレビ版でどちらが面白いのでしょうねえ。捜査二課の一番長い日、とかいうのが見たかったのでもしかしたら劇場版ははずれかも。しかしテンポのよさと音楽の盛り上げ方、ロックのリズムとか塚本監督とか三池監督のノリはあります。終わり方もすぱっっとしていて気持ちいいですよ。

 

「機動警察パトレイバー2」押井守監督 1993年

こちらの方が評判は高いみたいですね。

一気に観ました。面白かったです。しかし動機があいまいな点、それが現代日本なのですが、そこの詰めが甘い感じがしますね。社会の緊張感を作り出すだけでは何もおこらないのです。アニメですからそれでいいのかもしれませんが、彼らが仕掛けたことは無意味なことでしかないですね。また、自衛隊と警察、政府の動きはみんな中途半端で見ていてじりじりしました。自衛隊はあのような動きは今の日本では出来ないでしょう。まあこんなことする犯人もいないでしょうが。さらに警察もあのようなモラルはないと思います。これも警察にあのようなロボットがいること自体が茶番ですけどね。それをいい始めたらこのアニメ見なければ良かったという自己矛盾に陥ります。

まあ「皇帝のいない8月」の延長で知りえたアニメで内容もそれに近いものでしたので満足します。犯人の一人の言葉「また日本は米軍が介入してきて、戦後のやり直し」という言葉は印象に残りました。すぐ、もう一度観ることと思います。私とするととりあえずお勧めの映画です。

「君が若者なら」深作欣二監督1970年 松竹

この映画はこの監督には珍しいタイプの映画です。予告編がめちゃくちゃ面白そうでしたので観てみました。脚本が3人の連名(中島さん深作さん松本孝二さん)なので話をうまくまとめ上げたのでしょう。中卒のレッテルが最後まで付きまとう映画です。

始まり方は本当にすがすがしい。良い感じがするんですがね。まず、独立したその日からスタート。前向き日本という感じです。ダンプカーを買って仕事を請け負い自営していくその日からスタートです。ダンプの名前は「独立第1号」いいです。ふたりが協力し合い(本当はもっといるのですが)ここまでたどり着いたのです。しかしお祝いを言う社長なども本当に人がよさそうで見ていてこっちまで心が洗われる気持ちです。そして都内を走るロケ。30数年前の日本です。いまだに残っているビルがたくさんあります。本当に良いスタートです。1970年は万博とか三島事件があった年だったと思いますが(調べてません)前向きです。彼らは九州の炭鉱育ちです。懐かしい風景が出てきます。そういえば、炭鉱の労働争議なんてありましたよね。国鉄と日教組、自動車総連なんか強かったですよね。トヨタなんてつぶれかかったのが今では優良企業です。逆に助けた銀行が跡形もないですよ。住友に持っていかれてしまってます。昨年の好決算でも賃上げ要求しないトヨタの組合もおかしいですが、こういう経験がものを言っているのでしょうか?日産なんてつぶしたのは組合みたいなものですよ。とにかく、炭鉱はなくなってしまった日本です。その貧しさの中で集団就職させられて上京して這い上がってきたふたりです。

就職した工場は倒産で、仲間の一人がボクシングをやっていたので、その応援に行ったときにかっとなって喧嘩を起こすのです。そしてなにかやらなければ、という問題意識が芽生えます。ダンプを結束して買おう(5人組)。このときの石立鉄男の話し方まったく「鎌田行進曲」の銀ちゃんの風間さんと同じ感じです。ボクサー役はまたまた峰岸さん。最近この人ばかり見てます。ここから5人組がひとり減り、ふたり減りで2人になる話が続きます。まあ、うまく行かないときはあるもんです。ひとりは積み立ててダンプを買う約束を5人でしてましたが、その積み立てが遅れていたので、犯罪に手を出してしまったのです。「あせっちゃったんだよ」この言葉、一言ですべて語りますね。もうひとりは仕事先で妊娠して結婚を迫られて脱退。もうひとりはバイトで「スト破り」をしてそのときの怪我で死亡(ボクサーです)

監獄に入っている奴の家族が上京して生活を始めますがそのとき友達ということで仲良くしてくれるのです。その妹と2人組が一緒にダンプに乗って海へ向かって走って波際で遊ぶ姿青春のきらめきですよ。いいシーンです。そういえば音楽もいい(いずみたく)。そのときに母親の話になるんですが2人組の一人が狂ったようになります。父親が炭鉱で落盤事故で死んでからは生活をするために娼婦になっていたのです。その姿が子供心に嫌で仕方なかったのでしょう。考えてみれば今の時代は面白いですよね。プータローがダンボール丸めて、下手すればテントで堂々と道や公園の脇で生活しているんですからねえ。なにかこれでもわかるようにプライドがなくなってます。

しかし独立して今度はダンプの運転手がストをしているとき、2人組はストを破って仕事をしてしまいます。2人組をABにします。Aはかなり素直、Bは母親の娼婦になる姿をみてトラウマになっております。そのBは生真面目でストを破ったことに引け目感じて、注意散漫で自損事故を起こしてしまいます。やけになって飲み歩いてもバーのホステスが母親とダブります。結局死んだボクサーの姉貴と寝てしまいます。とにかくトラウマが強すぎて、こういう知り合いの性格知っている年上の女しかたぶん、Bを理解できないでしょう。Aは監獄に入っている男(Cとします)の妹と出来ます。しかしCが脱獄してしまい、またうまくことが運びません。Cもまた自分の弱さを隠して嘘を言う性格で、ABもだまされます。人を殺してしまったのです。こうなるとAはみんなが大きな重荷となって肩にのしかかってきますね。人の生き様ですから仕方ないのですが。友情を裏切り、自首すると嘘をいい、ダンプに乗せろとまでいいます。これは単なる恐怖でしかないのです。この恐怖から逃れるにはこのCはもう死ぬしかないでしょう。しかし最後に故郷の海が見たいとCがいうとBが連れて行こうというのです。Aは止めます。しかしCの妹はAが兄をかばわなかったとして、友情の薄い奴だと印象を受けるのです。妹も頭にきてますが、結局は兄貴を警察に売ることは出来ないのです。BCと佐渡に向かいますが、そこでBは5人がまとまってがんばっていたあの頃の自分から、やり直しをしたいというのです。リlセット。いつまでも5人という気持ちではやっていけないことを肌で感じていたんですね。

結局、途中でダンプは横転してCは死にます。まるで「マイアミに向かったアルパチーノみたい」。そしてBは犯罪者で、Cの妹が面会に。Aもなんだか焼けてよかったと、笑顔になって再出発を決めて終わり。高い授業料でした。

「キャット・ピープル」ポール・シュレッダー監督 1982年 アメリカ

なんというか、何にも感想のない映画なんですね。では何で観るのかというとナスターシャ・キンスキーなんです。美人というわけではないと思うんですが、大体の作品見ています。今回も映画がつまらないにもかかわらず、最後まで一気に見られたのも、この女優がきれいに撮れているからでしょう。

黒ひょうに捧げられた人間の女の映像が出てきますが、あとでひょうのえさになるのは人間の女ばかりなんです。その局部を食いちぎる食べ方をするらしい。この黒ひょう一族が現代のニューオリンズに人間の形をして生きているらしいのです。

たまたま両親をなくして兄のもとにやってきたナスターシャは兄がひょうに化けることを知ります。しかしたまたま動物園で化けて人間の女をえさに取ろうとしたときにつかまった兄のひょうを見つけるのです。そこで何かを感じるのです。しかしナスターシャは人間で、ひょう一族ではないと言い張り喧嘩にもなりますし、動物園の園長の誘惑にも誘われるままに出かけます。しかし一線は本能的に拒否します。その晩、彼女は自然に眼が覚め外に出ると服を脱ぎ捨て動いている動物が良く見えるようになり、そのなかでおいしそうなものを狙い捕まえて食べます。しかし園長の愛は変わらないものになっていました。彼女自身も兄と同じ運命なのか良くわからないで恐怖を感じているのです。

こういう、想像だけでもやもやした映像を具体的に見せられるとこれが映画なんだ、とも思います。変な作品のようなんですが、逆にすごく映画的な作品かもしれません。第一、私がなぜか最後まで続けてみてました。この種族は(黒ひょう)兄弟同士で愛し合い種の保存を図っているみたいなんです。しかしナスターシャは人間であると拒絶しました。そして兄のひょうは撃たれて死にます。解剖すると人間の手が腹から出てきて消えてしまうのです。

この種族は昔人間の子供をいけにえにしていたので、その魂が宿り、人間の形をするようになった神の種族とのこと、なんでもいいから、適当にやってくれ、というかここまで行くと面白いし、美人、美男子が出てくるので飽きないです。最後は園長に抱かれること(神と人間の交わりでもあり、動物と人間の交わりでもある)を選択してそのまま動物園でひょうとして生きていくのです。仕方ないです、人間と関係してはいけない種族らしいですから。意外と面白いなあ。

 

「ギャラクシー・クエスト」ディーン・パリソット監督 1999年 ドリームワークス

この映画、数あるドリームワークスの中で私は一番良い映画のひとつだと思います。宇宙を舞台にシガニー・ウィーバーを起用するし、あの素晴らしい「ウィンター・ゲスト」の監督アラン・リックマンを起用するしそれも被り物の役で、かなり笑えれるんですが、内容も途中から加速度的に面白くなります。

クエストネリアンズの集まるファンの集い、まあオタクなんですが面白いですね。今見るとはじめから面白さ爆発してます。初めてのときはこのあたりは、この映画見ていて大丈夫なのか?まともな映画なのか?とびくびくしてみていた記憶があります。この映画のタイトルのテレビドラマのファンの集いです。日本で言うと「ウルトラセブン」が人気があって「アンヌ隊員」とかがいまだに人気あるのと同じです。脱線しますがこのアンヌ隊員というの覚えている人いますでしょうか?いまだに人気あるみたいで写真集までいまも出ると言うのは不思議でなりません。この映画もまあ、オタク映画です。実際、内容知らないで、このあとにサーミアン星人が人間に化けてきている様子も見た人は途中退席もありえるかもしれません。事実、繰り返しますがはじめてみたとき、唖然としてました。安っぽいつくりの映画でねえ。でも途中から本気モードでSFしてますよ。しかしねえ、あのまじめなオタクたち続いて出てきたときは逃げたくなりました。最後には彼らに助けてもらうんですが、、、この辺に来ると面白くてたまらなくなります。

初の航海で敵に負けてしまい運行不能になって、エンジンの動力源のベリリウム球を取りに惑星に向かいそこで現地の宇宙人と出会うんですが、面白いです。艦長がひとり取り残されて、また船に戻るまでかなり手に汗握る展開です。こういう映画作る人もオタクなんでしょうね。でてくる宇宙人がかわいいけど、獰猛だったり、何かのパロディみたいな人物も出てきたりで飽きない展開です。オタクのセンス爆発している感じです。

それから敵が宇宙船に乗り込んで自爆させられそうになるときや、「嘘」という概念を知らないで信じている様子を見て真剣になる転換点。さまざまに手を変え品を変え面白くしてます。内容はともあれ、こういう楽しい時間が映画の本当の姿かもしれません。何回見ても楽しいです。

 

「魚影の群れ」相米慎二監督 1983年

この映画は、なんといっても見るきっかけが2つありました。ひとつは女優が美しいとかではなく、この監督を最近注目していること(仏門に入られてしまいましたが)。もうひとつは青森でまぐろが捕れることを先日真っ向から否定してしまったことです。すなわちまぐろをとる作業を見たかったのです。恥ずかしい話、まぐろは黒潮系の魚だと思っておりました。しかし実はこの辺で取れるマグロは最高級のものと聞かされて否定してしまったのです。そして今一番行きたいところが下北半島なのです。

さらに主人公の男Aは喫茶店を引き継いでいたのに、漁師になりたいという設定。私のつぼにはまってしまいました。公開されたときはつまらない印象しかなかったのですが、当時はタルコフスキーだとか言ってましたからね。

それで漁師の娘Bと結婚したがってもいるので、Bの親に漁師の教育をしてください、というのですが普通はだめですよね。きついからね。しかし結局喫茶店をやめて猟師町に引っ越してきて、挨拶に行くのですが、そのときBAのお尻をたたいて挨拶させるんです。なんというか男を立たせる女の愛情みたいなものを感じていいですね。

しかし漁につれて出た時の事故はAの自業自得です。あれは確かに邪魔。職人って言うのは後ろにも目があったりするんですよ。空間の感覚が鋭敏なので、邪魔でしょう。そしてけが人の処置も間違っていないし、マグロがまだかかっていたので漁を続けるのも仕方ないことだと思います。

北海道の「いぶ」と青森の「おおま」の漁港同士は提携がなくて喧嘩しあっているんですが、おいしい時期のマグロということで「いぶ」のほうに隠れて入港して卸します。マージンはかなりとられたんですが。ということは「夏祭り」の時期のこの辺のマグロはおいしいということみたい、でも高いから仕方なく「いぶ」も寄港を許可して業者の言うことを聞いたので、私が食べられる値段ではなさそうなことも事実です。今回はこの視点があるので、やたらこの映画が面白くて仕方ないです。

話が分かれます。

ここからはこの北海道でたまたまBの母親に再会するのです。そして向こうは場末のバーをやっているんですが、ちょっと焼けぼっくりに火がつく感じ。両親の話になります。

青森に戻ってくるとBが籍を入れて店を売って船買ってます。やはり漁師するんですかね。

ちょうどBの父親は力がなくなって引退しようというときです。

最初に釣ったマグロが最後になってしまうとはねえ。こんなシーンまったく覚えてませんでした。これ二本立てだったんでしょうか、記憶がないのです。最後にAは死んでしまうとは、なんというか寂しいですねえ。Bの父親がしっかりしているだけにねえ。

大間(おおま)はほとんど目の前は函館のほうなんですね。仏が浦の北海道側の先端みたいです。

「吸血鬼ゴケミドロ」佐藤肇監督 1968年

この映画良いらしいですね。噂には聞いてました。はじめから気になる点がいくつもあります。まず飛行機の操縦室から見る空のダサさ、飛行機の中でのタバコ(これは禁煙ではなかったかも)ステュワーデスのコップの持ち方(普通接客業に従事しているものはお客が口をつけるあたりは絶対に持ちません)もろもろ。でも髑髏船も途中から加速度的に面白くなりましたからねえ。

墜落してからまたぶっ飛んでまして、宇宙生物学の研究者も乗ってます。今思うにこの当時かなりマイナーな映画ですよね。安保闘争とかもまだ学生レベルではやってましたからね。ビートルズも解散していないんですよまだ。そんなときにこの映画はかなりのオタクたちが作ったんでしょう。

そして宇宙船を見てしまうのですが、狙撃犯人が犠牲になります。その間もどこか判らないところに不時着して待機しているんですが夫婦は抱き合っているし、何か可笑しいですよね、この映画。でも冷静に考えると「エイリアン」みたいな密室劇で宇宙人により吸血鬼化した人間が襲うのですから怖いです。劇場で見たらやはり怖いでしょうね。血と肉を切るところ脳みそとかは根本的に怖いです(あたしはホラーだめですから)。

「宇宙生物実在論」とかいう先生も乗っているんですが、いまでは普通に宇宙人はいるでしょう、と考えてますけど、宇宙人が侵略に来たらしい。それで吸血鬼というのもちょっと可笑しいです。基本はエイリアンですが、怖さの元は人間です。人間が一番怖いというのが「世界残酷物語」にありましたが実際にそうです。宇宙人が地球侵略に来ているのでしょうがずいぶん時間かけすぎてますよ。これじゃ何年かかっても無理。「信じられるのは人間の心だけではないですか」というテーマも逆に生きてきます。どう終わるんでしょう?笑い

自分だけが助かりたいと思う人間はみんな死んでいきます、というより自分だけが犠牲になっても良いと思っていても雑踏の中にいるとほかの人の反応で先に死んでいってしまいます。きっと主人公たちみたいに人里はなれたところで信仰心のある人は生きていると思いますがとりあえず人類滅亡して終わるという珍しいパターンです。こういう終わり方は好きですね。しかしダサい映像です。脚本は何か魅力があるんですがねえ。35年前ですから仕方ないと思いますけど。主役の人シャンソンの歌手なんですね。役者としても有名みたい。高英男さんです。勲章もらっている人ですので相当な人でしょう。その人がこんな役というのもすごいのでしょう。

苔寺とみどろが池を合わせて割った名前らしいです。京都の撮影だということです。

 

「吸血髑髏船(きゅうけつどくろせん)」松野宏軌監督 1968年

これは笑える映画です。はじめから模型とわかる船で殺し。それも皆殺しです。どういう意味があるのかわかりませんが、気持ちがいい始まり方ではあります。なぜか、脅すだけでなく実際は殺されるでしょう。なのに映画ってなぜか死ななかったりしませんか、それがどうもすっきりしないのです。また悪が逃げ切る映画とか少ないのも反対的に三池監督の映画に気持ちよさを感じる一面でもあります。善良そうなやつが実は悪いやつだったりするんですがね。そういうのを見たいのです。この冒頭のシーンはいきさつがわかりませんが、まあ現実的だなとは思います。

神父に拾われた女の子(A)と彼氏(B)、一見して私には江ノ島と思えたところでボートに乗ってランデブーです。しかし海の中にもぐると骸骨を見ます。Aは一卵性双生児の姉がいて冒頭の事件で殺されたと思うのですが、台風にあって遭難したと聞かされてます。そしてなにか双生児にしかわからない相手の気持ちが伝わってくるのです。なにか生きているかのように。ここまで一気に持ってきてしまうテンポのよさがありますね。テンポがよすぎて、ちょっと待て、と思うくらい。船に行きたいと急に言ったかと思うと、ボートで嵐の中出て行くし、Bが泳ぎきれないのに、ボートが転覆したあと船に乗り込んでいるし、その船はがいこつだらけのあの冒頭の船です。大体3年間漂流しているんですかね。もうそういうこと考えると前に進めないので無視して楽しむしかないのです。

そこで航海日誌を見て冒頭の事件は積荷の金塊を盗む計画の実行だったのです。そしてAは船内を回りますが泣き声とか聞こえてきて気持ち悪い。実はカミングアウトですが、夜見ていたのですがここでやめました。ここからは違う日です。気持ち悪くなってきた。しかし一気に気持ち悪くさせる展開はすごいですよね。怖い映画は弱いんでまたにします。

泣き声の後を追っていくと姉がいるのです。そして気絶するA.

そのあと嵐の中で教会に戻ってきたAもどき。確実に嵐の中に教会にいるというのは裏があります。そして翌日消えていて、海岸では自殺者が。まあ考えさせられますが、その時間を与えないまま、ストリップショーもどきのショーに。この辺はうまいと言うべきでしょう。最近よく見ているペドロ・アルモドバルより上です。このキャバレーを犯人一味が経営しているんです。そして一味の中から踊り子が死体に、そしてほかの一味はAの姉を見たと連絡が入ります。これで鎮魂の為の仕返し劇と思いますね。しかしまさか姉の霊に呼ばれて仕返しをしていくという話ですか。そして最後に正気に戻って結婚、なんていったら私は怒ります。仕返しする姿は「さそり」の梶さんみたいでいい雰囲気は出てます。松岡キッコさん。

予想と違ったのは仕返しが終わる前にBと神父(牧師という人もいるのでごっちゃごちゃになっているに会ってしまったことです。そのためBに別れてくれといいます。そして牧師に懺悔してすべてを話します。その上で最後まで復讐をするというのです。

この夜がいいのです。神父が殺しに来ます。神父が大ボスだったのです。そして生き残った二人がAの死体の前で大体の出来事の確認をします。そうなるとAが殺したというのは理解できても航海日誌をどうやって手にしたのかがわかりません。すると汽笛が2人を呼んでおります。船に行くとAの姉の夫が生きていてAの姉をミイラとして維持しておりました。しかしボスに殺されてしまいますがAが最後の復讐をするために来ます。ABに助けられたのです。Bに虫の知らせをしたのはAの姿ですので少なくてもAの姉の亡霊はいたと思います。そしてAはボスを殺してそこにBが来ます。最後のお別れのキスをしてBを海に落として船は沈んでいきます。なんというか話は見えていて、ひねりも入っているのですが、なんといっても3人の怪演はすごい。松岡きっこ、岡田真澄、西村晃です。それだけでも見る価値あるというものです。

CURE」黒沢清監督 1997年

1997年といえばついこの間の感じですが、やはり数えてみると7年かなり前の映画の雰囲気があります。なんというか出ている俳優が違うというか今生き残っていても若いとか、かなり違います。さて昨日に引き続き売春婦ですが、あっけなく殺されます。前振りとして「青髭」の話を読ませるカウンセラーもどきの人と患者の女が出てくるのですが、何か意味があるのでしょうか。あとから出てきますが、この事件の担当の刑事の妻です。そして裸で隠れている男が捕まります。殺され方、かなり残虐で、日本の映画もかなりえぐいなあ、という印象。アメリカの映画はかなり世論がうるさくてここまで出来ないのですよ。韓国なんて恋愛物が多いし。日本は最近かなり特色のある映画が多いです。アニメとこの手の映画が海外では評価されているのですが。3ヶ月の間に首に十の字の切り刻む傷を負わせて殺した犯人が3人挙がります。CUREですよね。嫌な予感がしました。

4人目の殺人をしたまじめな高校教師が殺人の前にある男(以下Aとする)と会っていました。この男が発酵の種なんですかね。そのあとの被害者が警察官なんです。この人に話しかけられるとこのAはライターの火でなにか催眠暗示みたいなのをかけたかもしれません。それで(暗示で)人が殺せるようになるのでしょうか?いや、暗示といっても切る、という暗示なんでしょう。切るという行為は私も職業柄しょっちゅうしてます。当然警察官も殺人をします。そしてAは記憶喪失の身元不明人として病院に連れて行かれます。今度は女医です。すべてのケースにここまではタバコを吸います。今回は「前にAの中にあったものが今はすべて外にある。だからAは空っぽ。しかしまわりにそれらを持っている人はわかる」というのです。今度は水を使います。しかし確実の暗示をかけてます。「女と見くびられてきただろう」「初めての死体解剖の実験、男だっただろ、それを切り刻んだとき胸がすっとしただろう」などです。そしてXの文字を書いて去ります。殺し方は暗示をかけた人の職業や技術に関係します。女医は死体解剖のような殺し方をします。しかしあの警官が連れて行った身元不明人にスポットが当たり、担当刑事が今度は暗示かけられるのでしょうか。しかし、今までの殺人犯人からこのAの指紋が検出されてます。かなりの証拠なんですが、まだ記憶喪失のふり?ですね。私が刑事ならかなり、頭に来るでしょう。

メスマーという学者の考え方に傾注しているらしい。催眠法を研究していた学者らしい。たぶん医大の学生ですね。そのとき刑事はAの部屋を見て何かにピンと来て家に戻ってみたら妻が首吊り自殺してました。という幻覚をみます。いや、何かわからないものです。こういう精神病の関係する犯罪の映画は観ていて気味が悪いですね。この映画もついでに付いていたのですが、1年くらい無視してました。処分しようと思って観たのですがさすがに気味が悪い。尋問していてもAのペースになってしまう。いらいらしますね。このいらいら感は刑事のほうが強いからペースを乱されるのでしょう。「社会が悪い」とか刑事も言い出すようになります。危ないです。このとき、私が見てあの女医がかかった水の暗示が成立したように見えるのですがいかがでしょう。刑事も妻に対して自信がもてなくなったからでしょうか、妻をとりあえず病院に預けます。すごいお金がかかりますよ。払えるのだろうか?多分刑事の月給分は毎月かかってきます。預金がなければ破綻です。それは置いておいて、そのとき精神病の先生に刑事のほうが奥さんより病気が重そうに見えるといわれます。しかしAの部屋を見た刑事の友人で精神科医は逆に暗示にかかってしまいます。部屋にXの文字が。そして刑事のAの正体は?の問いに対して「何かの伝道師」ではないかと言うのです。当然その精神科医は自殺します。自分で暗示にかかったことがわかったのでしょう。そしてAは逃がされ、メスマーの秘密の部屋にやってきます。Aを逃がしたのは刑事らしい。そうなるとAにあったとき、「思い出したか」といって撃ち殺すのもわかります。最後にAXの文字を切ろうとするとその暗示が終わらないうちにまた容赦なく弾を撃ちます。メスマーの秘密の部屋というのは昔、そこで実験が行われた廃墟です。Aを殺したあと(正当防衛かなあ)そのときの録音テープを聴いてしまいます。そのあと、なぜだか病院では刑事の妻がXの字に切り刻まれて死んでました。そして刑事はあれだけ食べられなかった(妻が肉を料理しないで生のまま出していたんです)肉をおいしそうに食べてます。肉料理を片付けているウェイトレスの前で刑事タバコに火をつけます。あとは知らない。そのウェイトレスは当然、Xの文字を。

この監督の映画で初めて最後まで飽きることなく見ることが出来ました。「ニンゲン合格」よりは面白いかな。チャプターに監督自身が変なタイトルつけているのでこの監督自体がおかしいのかもしれません。そこまで深くないぞこの映画、という感じですがね。

 

「偶然(ぐうぜん)」キエシロフスキ監督 1981年

不思議な映画です。出てくる人物が、魅力的な外見ではないのですが見入らされてしまうような人ばかりです。そして、カットの角度が良いし、画面の色が良いです。さらには作ることのできない社会主義の時代の風景。さらにデンマークとの距離。この監督の映画にはスウェーデンやデンマークとポーランドとの距離の近いことを感じます。ドイツとは近いようで遠いのでしょうが。とにかく、ソビエト、東欧の映画にはこの人今何をしているのだろうか?と役者のドラマを考えさせられる構造が必然的に備わってしまいますね。映画でもマルクスの授業をしている教授、現実には今どんなことを教えているのでしょう?逆に日本の大学ではまだマルクスを教えている人もいるのです。

医学部を途中で休学して共産党に入るのですが、その動機はあまりはっきりしません。その男(A)は共産党の政策の失敗のつけを清算しにある病院に出向きます。そこで共産党でも悩みます。初恋の女に再会して恋愛に落ちるんですがこの恋でも悩みます。なにか、人生は偶然の重なりであってその状況に応じて悩み判断していくといいたいかのようにAは悩み続けます。あるときその恋人が捕まります。Aはそれで嫌気が差して党を距離を置いてみるようになります。恋人も尋問の後はAに対して冷たくあしらうようになります。Aが党幹部の娘と婚約するようなこと聞かされたのでしょう。権威主義のA、さらに上昇志向のために恋人も恋愛も関係ないA。そしてなかば減熱してフランスへ行こうとするとストで足止めを食います。

しかし、そこでもう一度党のメンバーに会う前のワルシャワ行きの列車のシーン。この列車に前は飛び乗り、党員として病院で活躍したり悩んだりしました。今回は乗り遅れます。どんな人生になるのでしょう。なんと,教会側のメンバーになります。まるで正反対。マザーテレサの話の引用などを聞かされます。そしてあの病院で反体制派がやっていたような集会に参加する側になっています。そして出会う友人はデンマークにいたときの男の友人です。今度もまた仲間だと思った連中に疎まれ、またもフランス行くときにストでいけなくなります。

するとまたあのワルシャワ行きの列車に乗るシーンに戻ります。また乗れませんでした。しかし同じ大学の女の子が見送りに来てました。そして大学に復学して付き合っていると妊娠してできちゃった結婚。卒業のときも大学に残ってくれと。「最近やけについている」と笑いながら言うAの顔が印象的です。このときは党も信仰も信じないAがいます。ただまじめな医者です。しかし当然同じ時間を違う角度で生きているのでほかのメンバーは同じです。ただ、立場が違うので接し方は違うのです。人生、運命、偶然、意外と同義かもしれません。幸せそうでしたが最後の場合もたまたま偶然に外国の航空会社の旅行券だったのでストは回避できたのですが、悲劇もまた出会ってしまったのです。

実に静かですがとてもよい作品ですよ。音楽は「戦場のピアニスト」と同じ人。

 

「金環蝕(きんかんしょく)」 山本薩夫監督 1975年

また、仲代さんと三國さんという感じですので、かなりいい役者なんですね。実際私もそう思います。しかし仲代さんに関しては最近観た邦画ほとんどに出ている印象です。

そして政治家周辺の風景はまったく変わってしまった感があります。赤坂の料亭なんて今ではほとんどないです。兜町から日本橋の景色も変わりました。

「リベートの財源は国民の血税だよ」というせりふにはちょっと笑いましたが、いい思いしていたやつらがいたんですよね。彼らは決して返そうとはしないでしょう。これからいい思いができなくなるだけです。だから現役組は今の若者の年金に対してと同じような不満があるのかもしれません。年金も破綻しそうだというけど、ここまでほっといたのは誰なんでしょうか。一方で補助金はあるんです。補助金はカットしてでも年金基金の積み立て取り崩しはしないほうがいいと思いますけどね。素人の考えとは違うのでしょう。

ダムを作るのに、部下の見積もりでは足りないという、なぜならば、作業には石材が足りないから近くの山から切り出す必要がある、その運搬のために橋を作らなければならないし、道路も整備するだろう、というのです。落札させて見返りを多くもらうのは工事費用が高くなければいけません。だから、こんな見積もりになるのでしょう。いざ入札価格が高いとほかのゼネコンがディスカウントしすぎで落選します。そして賄賂を渡すときに、一介の成り上がり老人の金貸しに脅しを内閣の官房長官がかけられます。老人は調べ上げておりました。

あとは最終的には無難に終わるのですが、

途中は面白くはなります。でも限界が見えたあたりから、やはりつまらない、と思えましたが、いい作品であることは確かです。この老人に一肌脱がせたかったなあ。

しかしこのような邦画を見てしまうと、洋画は見にくくなってしまいます。たぶん気のせいでしょうけど。役者が日本人で日本語話してくれたほうが日本人が観るにはいいとは思います。最近字幕を読むのがめんどくさくなっただけだとは思いますけどねえ。

「熊座の淡き星影」ルキーノ・ビスコンティ監督 イタリア  1965年

 

もう、素晴らしいの一言です。賞賛するシーン、構成、俳優いくらでも出てきます。

まずはクラウディア・カルディナーレの扮する旧家のお嬢様をAその弟をCその夫をBとします。もうAの視線とその眼光はひとつのテーマです。素晴らしい。この監督はロミー・シュナイダーといいシルバーナ・マンガーノといいなんと美しい撮りかたが出来るのでしょう。もともと美人の俳優ばかりですが、この監督にかかると、もう存在自体が輝けるようになってしまうのです。本当にすごいセンスの持ち主だと思います。

結婚式のパーティのシーンのフランクのピアノ曲を使ったメリハリ、そのあとの疲れた様子でのメリハリのつけ方、本当にうまいです。さらには車での移動のショットが続いてピアノ曲がフォルテを迎えたときにハイウェイも通りすぎ、ちょうど田園地帯のなか、乗っている車が映し出されますが2シーターのスポーツカー(BMW)、カッコいいし背景が大空と田園風景でばっちり決まってます。程なく故郷のボルチェリに着いて、聖フランチェスコ門など自分の故郷について説明します。家に着いたときの門の大きさと車がマッチして違和感なしに、絵になってます。さらに、自分の家のドアを無造作にたたくしぐさが一瞬出るのですがこの先の運命を予見したかのようにきれいです。そのときの顔は獣のように鋭い顔ですよ。家に入って電気のスイッチをつけた瞬間に広がる、豪華な居間、すばらしい、奥行きのある映像です。これは本当の奥行きですね。本物を使った豪華さです。これと対になるシーンが母親の部屋にABCを外に意図的に追い出して、入るときにあるのですが、まったく同じです。入ってその瞬間の顔の凄み(獲物を追うような)そしてスイッチをひねったときに出てくる部屋の豪華さ、一段と上の部屋です。ですから豪華さの重ね塗りです。

自分の部屋で簡単に下着になるときの軽いしぐさ(自分の家ですから当然です)と体の線のアンバランスな魅力。かなりウェストが締まって魅力的です。そしてくつろぐ様子。さらにははじめの食事のシーンでの、「英語の歌を(ラジオから)」バックに「これからここにずっと住むの」というときの顔と目、やはり迫力があります。どこにこの魅力があるのか、これからわかってくると思います。英語の歌でアメリカのメロドラマぽく、バルコニーに出ると、お手伝いが窓から様子を伺っており、その先に人影があるのです。もうまるで「ロメオとジュリエット」の1シーンみたいです。その影を追っていくと、(これぞ構図の勝利)長まわしの中、銅像に抱きつくとCが始めて登場します。あの影はCだったのです。追加ですが食事中、鼻の下に手を置いて笑うAはまたこれからを示唆するかのような魅力があります。素晴らしい写真ですよ。

Cが小遣いのために家財を売ったことが判明し、Aは独りになりたいといい、CBと一緒に出て行ってくれと頼みます。BCをボルチェリの街を案内するのですが、大自然の中にいる小さな人間のようです。そのあとのサンジェスト教会の階段でのシーンもきれいな構図です。そこでBすなわち夫はAの過去の話を聞きたがります。Bは逆にAがアウシュビッツの話をしたときに急に人が変わったかのように溶け込んできたというのです。何かのきっかけです。そしてBCはバーに着きます。このバーでイタリアのカンツォーネとはまた違う歌謡曲が流れてます。そしてそこにいたAの初恋の相手を紹介します(だましているんですよ)。この時点でBC,と初恋の相手Dの3人で一番かっこ悪いのBなんですが、意味あるんでしょうか?笑い。この日、BCが家に帰ってきてもAは部屋に鍵をかけて入れません。このときAのゴージャスな下着を堪能できます。そしてバックに流れているのは「好きにならずにいられない」のイタリア語バージョン。Aの目はここでもきれいです。抱かれるのを待っている目ではないんです。そして母親(義理の母)に会いに行くのですが母親はピアノを狂ったかのように弾いて、Aを相手にせず、夫すなわちAの父親の秘密をAに語ります。それは父親がユダヤ人であったこと。そのユダヤの血(ここでは臆病、卑怯、悪党といわれます、明らかに義理の母は偏見を持ってますね、さらに実の夫に対して言っているんですよ、どういう夫婦関係だったんでしょうね)がAにも流れていることです。先ほどのCが語った知り合ったときのきっかけがここで生きてきます。しかし母親には何で帰ってきたとののしられたままです。

次の日のABの夫婦の会話、Aのバストを隠したバスタオル姿を堪能できます。しかしその姿とは裏腹に話す内容とその声は下品なものです(このバスタオルシーンはどきどきします。わざと入れたな、という感じですね)。監督はこのギャップ狙ってますよ。

この前に、町の役場でCが勝手に町に提案した庭を一般に開放するという契約書に無理やり、事前に知らされることなしにAはサインさせられます。このサインのときのAの目は鋭く光ったままです。そしてABに母親が、父親が死んだあと、ジラルディニという恋人と別れたこと。これは夫の死を新しい恋人を作り忘れようとしていたこと。しかし結局結婚してAが嫌うジラルディニ(以下Eとします)が家長になり、兄弟別々の学校に文句言わせないように入れてしまったこと。これに反抗してCが自殺してみたこと。このジラルディニが弟Cの狂言自殺に対してしつこく言い寄るのでACは手紙でやり取りをするようになった経過などを話して、実際に手紙に秘密の隠し場所などをBに教えて行きます。すると実際に手紙があったのです。Aは昔のものと思いますがどうなんでしょうか。

父親をユダヤと告発したものが関係していそうですね。Aは母(義理の母ですから)をあまり好意的に思っていないんですよ。ですから財産権は兄弟にあるのです。それでAの実家(育った家=父親)に対する思いは強いんですよ。すべてのシーンが物語ってます。

 メモにあった待ち合わせ場所に行くと(従朴なる下僕、夫にはDと言うのですが)Cがいます。DACEの目を盗んで通信しあったときの連絡係やっていたと言うんですよ。そのままCの部屋に行き、この映画のタイトルの戯曲を読まされます。夫BEの話を聞いていて、どうにかAEの間を取り持つようにしようとしているんです。

戯曲の内容は兄弟が昔、愛し合っていたことです。Cは姉への思いを断ち切るようにほかの人を愛したのですが、出来ないでおかしくなりそうなところでした。姉の結婚がおかしさに追い討ちをかけます。

このような状況の下、ABCDEが一緒に会食をします。提案は当然Bです。終始、Aの表情はすごいですよ。しかしBEから話を聞いてACの近親相姦を知っているんですよ。それでこの会食でどうにか整理しようとしているんです。弟のCを殴る夫B,CBをいままではアメリカ人と馬鹿にしていたんですがもう反論できません。殴られ逃げるだけです。多分姉に会えない怖さがあるんでしょう。またACを擁護します。このシーンは迫力満点。いいシーンです。ABを捨てかねないんですから。かと言ってCと一緒に離れないしねえ。

結局Cと別れられないAを捨ててBはアメリカに帰ります。ACへの愛を父親への愛情とか、不幸の娘という仮面の下に隠していただけで自分を偽っていたんです、いまだにCを愛しているし、Cもすごく愛しているんです。この感情はどうしようもないものです。もう愛情の深淵に入り込んでいきますよ。使う言葉が素晴らしい。そういえば「熊座の淡き星影」のヒントとなったレオパルディの詩は次のようなものです。「熊座の美しい星 ふたたびここに戻ろうとは

家の庭を照らす光 ふたたび夜空を見上げる 子供の頃のように 幸せを失った頃のように」なんです。まさにこの再び照らす光が戻ってきたんですよ。しかしAは夫の下に帰っていきます。それを察知するかのごとくCは死んで終わるのです。近親相姦の気持ちはあるのですが社会の規範が許さないのです。それで社会で生きようとするにはこうするしかないし、弟のほうは愛情が強すぎたのです。

この映画、全編にわたって本当にセザール・フランクのピアノの曲が時には盛り上げ、静かに愛の形を導いていくのです。それが近親相姦であっても深い愛は愛で、崇高なものだと思います。じっくりとした本当にいい映画です。姉のほうは弟をそれほど思っていないかというと、そんなことはないと思います。ではなぜ、夫の下に戻るのか?それはこれからは兄弟とも年を取っていくからです。そして情熱だけではどうしようもないお互いの理解が必要となるのです。それを冷静なBに求めたのです。

「クルーエル インテンションズ」 ロジャー・カンプル監督 1999年

 

はじめから、お馬鹿な内容で見るのやめようかと思うほどでしたが、昔、バイトの女の子が面白いと教えてくれたのが気になって最後まで見ると、うん、面白いです。ほとんど頭を使わずに気楽に見ることができる、元気回復タイプの映画です。笑いもありましたし気分的に楽になりました。

もともと、最近は不景気のせいでお馬鹿な映画ばかり見るようになってしまったのですが最近欧州の監督のBOXが続いて到着してちょっと離れてました。

まずは感想。あまりに舞台が豪邸過ぎるのは出ている役者が不釣合いでした。あとファションセンスは良くないと思いました。さすがに高校生が中心の話ですので、感情移入はできませんが異性が気になるとか性欲が旺盛、または性に興味がある青春の一ページをありえないような話でまとめてます。

義理の姉とプレイボーイの弟が二人していろいろと、周りを茶化していく話で、最後に因果応報で罪が自分に帰ってきてしまうという話なんです。どんな展開かというと、ある新入生(キューティブロンドの主役、あれと同じようなキャラクター)を口説き落としたら弟の勝ち、だめなら姉の勝ちという賭けをやるんですがどうやっても拒まれます。理由は「自分を失いたくないだけなの」実に女心ついてます。正論ですよ。それをどう口説くか?

結局、本当に好きになったときに相手にも気持ちが伝わったのです。ミイラ取りがミイラになってしまったわけです。となると賭けはどっちの勝ちでしょう。本気になったので姉の勝ちなんです。しかし意地悪いというより、寂しいのに強がりを言っている姉は弟が本当に恋してしまったことに焦り、二人の関係を壊そうとします。壊れかかったのですが、姉は弟を無視します。ここで弟は昔と違って自分の気持ちを偽って姉の策略にのっているのですがまだ愛していることを悟られ、また姉のいじめが始まります。しかしその新入生の女の子は本当に愛してくれていることを知っているのですね。最後に決めては日記とラブレター。さらには事故で自分は死んでも身代わりで助けてくれた気持ちが一生忘れられないものになったのです。姉のほうは、この転校生に仕返しをされて裏のたくらみがみんなばれてしまい、周りからの人望はなくなります。本当の愛を知った転校生は優等生気取りをやめて自由に自分の道を歩いていくのでしょう。サングラスをかけて彼の車に乗っているところで終わります。

しかしこの映画、やたらとレズのようなシーンやホモのシーンが出ているし、何かにつけて、みんなキスがディープなんですよ。その描写は本当か、と疑ったらこの映画は楽しみが半減します。でも人にはやたら薦めることが出来ない作品でもあります。

 

「黒い罠」オーソン・ウェルズ監督 1957年

意外と有名な作品ではないですよね。この監督は少し斜に構えたところがあるとおもうのです。この映画も何が正しいのか考えさせられる映画です。ちょっと「第三の男」に似た感じもします。

音楽担当、ヘンリーマンシーニ、俳優、チャールトンヘストン、ジャネットリー、私の好きなマレーネデートリッヒ、これだけで映画史的にお宝映画ですね。

音楽はいいですよ。舞台がメキシコとアメリカの国境付近ですので、ラテン系とロックのビートとともに入る良い音楽です。オーソンウェルズ(A)は良い味出てます。本当にこの警官は悪いのかどうか、考えさせられます。まあ悪いんですが。チャールトンヘストン(B)は少しさわやか過ぎて、面白くないですが、ジャネットリー(C)については「サイコ」でもそうですが襲われる役専門だったのでしょうか?今なら確実に裸になるタイプの女優です。最後にマレーネデートリッヒ(D)、まだ味がある、見た目すごくエキゾチックな良い役です。ちょっとしか出てませんが逆に印象にはすごく残ります。

話は簡単です。BとCは新婚で遊び気分のときに事件が起こります。多分、Bは麻薬捜査官かなにかでメキシコ政府の高官で一応正義感の強い男です。その事件は車が爆破されたのですが、図ったかのように刑事Aの言うとおりに事件は解決の方向に進みます。しかし、麻薬捜査のBは少し厄介なことに確証ある人間が死んでしまったのです。さらに、この事件の間に妻のCが隙を狙われます。このCを狙う麻薬などを扱っている人間と刑事Aは裏では意外とつながっているのです。それで、Cを嵌め込み、麻薬中毒で逮捕させようとします。この時点で、もしかしたらAは死を覚悟したのかもしれません。そう考えると、最後のほうのシーンが辻褄合わない感じもしますが意外とすっきり理解出来るような気がします。Bは事件が事件だけに事件現場を調べなければなりません。新婚旅行気分だったのに仕事です。そのため妻は近くのホテルに泊まるのですが、メキシコでは嫌がらせをされたので、アメリカ側のホテルに泊まります。しかしここはトレイラーが部屋のメキシコと変わらない、誰も来ないような砂漠にある安宿でした。ここでCは襲われて、麻薬中毒の一味のような感じにされてしまいます。捜査のほうはたまたまBが確信を持って自分自身が証言に立てるような犯人の捏造現場に居合わせてしまいます。そしてAに対して疑惑を持ちます。Aはほかの連中と長年、捏造をしてきたので周りの人間もAを擁護します。共犯です。そんな中、Cが麻薬を刺されて倒れている部屋に麻薬を仕切る人間を呼び出し、Aは殺します。しかしこの殺された人間はCに対して麻薬を強要した人間なのです。いわゆる、状況証拠を作らせた人間を殺すのです。そしてCの犯罪のよう見せかけるのです。ここでAは自分の持ち物を落としてしまい最終的に追い込まれるのですが、その前にもう先が見えていたんだと思います。AはBが優秀なのを見抜いていますね。ここですごく重要なことですがAも実は優秀なんです。しかしたたき上げで人生は楽ではないんですね。事件を捏造ばかりで逮捕してきましたが、日本で言う「必殺仕置き人」のような感じで確実にクロと思われる人間のみを捏造逮捕して自供させていたのです。今回の爆破犯人に対しても捏造して逮捕しましたが結局のところ、ほかの事件をこの犯人は自供したんです。それはAの長年の勘なんですね、しかしこういう細かい事実は他人にいちいち説明するタイプではないんです。もしそうしたなら、もっと出世したでしょう。Bは逆で出世している若者ですから、理屈の正義なんです。(まあここまでは言いすぎですね)。結局、Cの事件の真相もBの知るところになり、Aの捏造の仲間に協力を願いAの盗聴を行います。そのときにAは勘がよく盗聴に気づくのですが、あと一歩でBも殺されるところでした。いや実は殺されていたのです。しかしAは撃たなかった。そして仲間だった警官に死ぬ間際に(Aが殺したのですが、虫の息がありその力で仲間も道連れにしよう、今までの償いをしようとする)銃声に撃たれて、そのままどぶ川で死んでいくのです。Aの死に場所にはこんなどぶ川が合います。BはCの容疑も晴れ、めでたしめでたし、ですが、場末のバーのマダムDはAのことを好きなんですね。男の魅力がありますし、Aの本質を見抜いている、苦労しているマダムなんですよ。このDの存在感は映画に良いアクセントを与えてますし「第三の男」と同じで女が一人残されてしまうのです、悲しみを伴ってね。

どうなんでしょう、Bが絡んでこなかったら、Aは麻薬の方も捏造して逮捕したでしょうか?多分そうしたと思います。(しかし、そうなると題名が意味が違うのですが)

たまたまBがそこにいてしまった、ということがAの計算を狂わせたのです。そしてDもこれでAの運が尽きたと思います。AとDはまったく愛人関係でもないんですよ。お互いに心の中で敬意を持っている関係というだけです。ここがテーマなんですよ。BとCの恋愛はストレートですが、どこにでもある恋愛なんです。AとDのは人生紆余曲折しないと起こりえない敬意みたいなものです。Aの独自の正義感とそれをわかっているD、そこに変動要因として登場するB、人生はどうなるか本当にわからないですね。しかしAは死に場所は知っていたと思います。またその死に方は間違っていなかったと思います。あと、違った見方ですが、AはBに対して人種的偏見があったのかもしれません。それがCを陥れた動機なのかもしれません。ジャケットの説明にはそのようなことが書いてあるのですが、どうもちょっとピントが外れてしまいそうな感じもします。しかし良い映画です。

 

「グロリアの憂鬱」ペドロ・アルモドバル監督 1984年 スペイン

のっけから「剣道」ですか。いやな予感。日本の武道まともに外国映画で描かれたことないもんね。スペインで剣道?柔道でないのかな?剣道は意外とお金がかかるから?まあ道場でうさぎ跳びは日本はやらないですね。外でやるよ。

そして練習の後シャワールームで掃除のお姉さんとセックスしないよなあ。また洋服濡らしてまでもシャワーの下で抱き合う情熱があるのかな。

家庭では宿題教えてよという、中学生くらいの男の子の質問に母が「学校出ていないんだから、父親に聞きなさい」というの良いなあ。そしておばあちゃんに聞くんですが、次の作家ロマン派か写実主義か答えよ、というのひとつしか当たっていない。イプセン、バルザック、ゲーテ、あとだれだったっけな、まあ外国の作家なんて知らない、という感じ。こういうの良いですね。

そして父親はおばあちゃんとご飯の取り合いや交換、そして足りないとお金払ってもらっている、妻はローンで金がないと、良いなあ、こういうの好きです。そしてテレビを見ると冗談のような番組をやっているし、食後に炭酸水で乾杯。これ傍で見ていると笑えますが実際にそうだといらいらするのです。私も店が暇だと本とか読んでますが傍で見ると楽しそうですがお客様がいたほうが実は楽しいです。だからなんかこの映画の家族、わが身見ているみたいで笑い転げてます。この妻は先ほど剣道の道場であれ、やってきた女ですよ、好きものですね。まあ、いらいらしているんでしょう。隣に風俗嬢が住んでいるのですがそのお客が、奥さんが掃除やってくれないか、聞いてくれとなり、まあ仕事を増やします。この出会い大きいですよね、きっと。この妻がグロリアというのですが(以下A)本当に旦那の財布をこっそり見たときお金がまったくないのにで掃除婦になる決心をして「心中よりはまし」というのです。ここまでくると良い人生が待ってますよ。女はここまでならないとだめ。これができない人が多いから独身の女が増えているのです

しかしこの家族面白いのはおばあちゃんとグルで長男が貯金ばかりしているんです。きっと役に立つな。ふたりして両親から取っては銀行の窓口もあきれるくらい小口に貯金しに行きます。次男のほうはかかりつけの歯医者に養子にもらわれます。どうも男の子が好きな趣味があるみたい。このあとこの子が出てくるか楽しみですね。

孫とおばあちゃんは「草原の輝き」を見ながら、田舎で牧場やるのなんてどう?「いいね」と話をしているんです。まあ先が見えてきているんですが、夫婦は毎日の生活でたいへん。これからの人ともう終わった人は良いですね。コンビ組んじゃって、意見が合うみたいです。

しかし旦那がドイツの友人を迎えに会社を休んで、おしゃれして出かけようとしてアイロンかけろといわれてさすがにAは切れました。そして肉の棒でちょうど剣道の面、みたいに殴るのですが転ぶときに打ち所が悪く死んでしまいます。その前にAは安定剤が切れていらいらしていたんですよ。それでも料理始めていたんですが、こういう環境はお互いが我慢すれば成り立つのであって、それを裏切るとだめですよ。一応Aは友人のところに行ってアリバイを作り殺されたことにします。安定剤が切れたのが運のつきでしたね。まさに憂鬱。子供とおばあちゃんは田舎に行くことにしました。Aも誘われたのですが残ります。

近所のお友達が女の子を預かってときます、このお友達はアリバイの重要な証人ですし、その子供が好かれていないのを知っていて養子に行きたい、もらいたいという関係です。そして預かっている間にこの子供に超能力があることがわかります。仕事が速くできるのです。

安定剤が切れた時期と家族がみんないなくなった時期がほぼ同じで、Aは何か拍子抜けした感じで憂鬱状態に入っていくのです。実は今までがハイな状態だったんですよ。あと一歩でべランダから身を投げるときに養子にやった息子が帰ってきます。そうですね、ここに一人いたんですよ。それで孤独にならずに、憂鬱にならずに済んだのです。多分、この息子はあの子と結婚するんでしょう。何か意外とまともな結末でちょっと面白くなくなっちゃった。もっとハチャめちゃになるかと思ったんですがね。

 

「毛皮のヴィーナス」 イアン・ケルコフが製作に加わっているのですが監督の名前忘れました。1994年

静かな始まりです。過去のことを回想する展開ですね。呆然自失とあの時を思い出している感じです。あの時とは毛皮を着た美人と過ごした時間です。

たしかに内容も悪くないのですが、まずは主役のこの女性に魅力がないのがこの映画の一番の欠点です。確かに見ようによってはかわいいのですが、もう少しノーブルな感じがほしいですね。

内容は別にないのです。単に男がこの女を気に入って、愛するようになるのですがあまりに大事にすることの裏返しでどんなことをされてもうれしくなります(快感という感じではないですねえ)。しかし、多分この監督のこだわりなんでしょうが、毛皮を着たままムチでも打たれるほうが良いと言う男です。この男もなんか擦れた感じで主役としてはちょっと映画の質が落ちる感じです。というより、マゾッホの小説は映像化難しいですね。「クイルズ」という映画がありましたが、あれはジェフリー・ラッシュが台無しにしてました。あの俳優は下世話な役しか似合わないでしょう。このように私が思うだけですが、テーマがかなりアブノーマルなものなら、出演者は無名でもいいからピタ、と決まる役がいいですね。今回は女は、少しやさしい、ヤンキー娘という感じです。男はソビエトあたり出身の昔良かったけど最近疲れた感じになった男です。バレエでいうとルジマートフの現在という感じですよ。別に今のルジマートフが悪いとはいいませんし、昔、「海賊」「ドンキホーテ」などは素晴らしいバレエを披露してくれました。まあ映画に戻りましょう。

「愛ではなく肉体の中毒」らしい。マーラーの交響曲やチャイコフスキーの交響曲からのメロディーがいたるところに抜粋されて流れます。ロマン派なんですね、こういう情熱は。

主人公の男の毛皮に対する執着は12歳のときの叔母によって強姦させられたときに始まるのです。手足を縛られてね。そのとき毛皮を着て美しく見えたというのです。映像は黒人3人の女性に囲まれて乱暴させられるシーンです。

しかしここでの主人公の女のほうは多分、普通の愛を求めているのだと思います。男は愛しているといっても、鞭打ちなどの手段を介しての愛が中心ですが。最後に女は気移りして去って行きます。残された主人公はこの女とのひと時を忘れられずにたたずむだけです。

イメージの世界なので、あとせりふがほとんどないのでイメージの世界を映像で表現しているのです。まあまあこんなものかな。言葉のほうが刺激的かもしれないですね。

「ゴースト・ワールド」テリー・ツワイゴフ監督 2001年 アメリカ

この映画いいです。レトロな番組を見ながら音楽にあわせてひとり部屋で踊るような内的に爆発している子(Aとする)がでてきます。彼女と親友のBはいつも一緒。しかし高校の卒業式。さめてはいても進路の決定を迫られます。お決まりのプロム。何にもないパーティーでした。

さてと、新聞の出会いの欄の記事の投書の相手をからかい始めます。ここまででAはユダヤというのがわかります。そしていろいろなマイノリティーが出てきます。手っ取り早い社会の縮図。相手の男が来て、すっぽかされたと知って帰っていきますが後を追います。すると、フリーマーケットでレコードを売っているのです。Aは逆に「イモっぽいので、逆にイケテイル」と思うのです。ビデオ屋の店員は「体制を壊したいならビジネススクールへ行け」「既存の価値概念を内側から壊すんだ」と良いこといいます。

そしてこのイモ(C、レコードコレクター)に興味を持ちます。それはAも社会から浮いている自分を感じていて、自分の世界を持っているCを何か憎めないんですね。そして親密になっていきますがBは反対ですし、CにもAが応援するので彼女が出来てしまうんです。そうするとAは一人残された気分になってしまう。さらに美術の補講での自分の作品が反社会的と認められなかった点もあり、自分の居場所がなくなってしまいます。父親も相手が出来るし、やりきれない気持ちから街を後にするのです。

そのAが新しい決心がつくまでの話ですが、なんというか周りに人間が、素直に枠に入っていくのにAはどうしても入りきれなくて出ていくのです。変わる事を拒絶しているのですよ。しかし人間も変われば、街の景色も、どんどん、ファミレスができてコンビニが出来て変わっていくように古い町並みは壊されていきます。それを不思議と思わないで今の街にあわせる人々。そのようなことが出来ないA.。きっと次の街ではなにか見つけるのか、じぶんがあわせていくのかどちらかでしょうが、一人で出て行くという判断が出来ればもう大丈夫でしょう。

音楽がしみじみとしていていい映画だと思うけど。逆にノー天気な「シーズオールザット」とともに好きな映画です。

「獄門島(ごくもんとう)」 市川昆監督 1977年

 

この映画もまったく原作の記憶が消えてます。獄門島のいわれが「藤原純友の一族が北の固めにした島、すなわち北門島、ごくもんとう、となまった」というひとつの説が冒頭に出てきますが、確かに瀬戸内海ははるか昔から利権の争いは絶えなかったでしょう。それはこの映画でも何回も島が重なる景色がでてきますがあれだけの島が数あれば隣の島に行くことも来ることも簡単ですし、支配権の範囲の限定は難しかったことと思います。平家の落ち方も、一の谷のあと屋島、壇ノ浦と瀬戸内海沿いです。

横溝氏ですが、岡山を舞台にした小説が多いですね。「八つ墓村」もそうですね。まあ、今回は出発点が岡山だというだけで、獄門島がどこの県に属するかはわかりません。また簡単に線引きできない慣習もあることでしょう。

この映画は、この瀬戸内海の美しさに尽きると思います。はじめ、獄門島に着いたときの船着場から見える瓦屋根の家々、その折なす風景が本当に美しいし、海もきれいです。

あとは、いつものように、これは映画なのか、テレビドラマとどこが違うのか、なんて思いながらリラックスしてみていれば終わるという安易な映画で本当に気が楽です。下手に感動しないし、怖くないし、驚きもなければ笑いもない。ではなぜ見るのでしょう、何か人間のつながり、関係などとともに失われた習慣などが出てきて、これらすべてが新鮮に映るからでしょう。しかし今見ると、笑えないほど、同じ役者が同じような演技をシリーズとはいえよくやるもんだと感心します。ではなんで一時期この作者とこの監督のシリーズが製作され人気を博したか、ということを考えざるを得ません。古い日本の慣習に、深く人間のおくに潜むはっきりと割り切れない人間関係が、ちょうどぴったりとマッチしたことが郷愁もこめて人間関係の民族の日本人に受け入れられたのではないでしょうか。

あとは別に感想らしきことは何も感じないで、のんびりと、考えもせずに最初から最後まで見ているだけでした。そういう気軽さが本当にありますね。まあ金田一がいつも事件が終わってから推理を披露するのでそれを見ていれば良いだけですし、犯人の予想をするほど複雑な内容ではありません。しかし今回も犯人の予想は外れました。それは途中で挿入されるカットで見当をつけるのですが、その一連の映画の中でのカットが犯人を示唆しないので考えても無駄なんですね。それよりも監督の術中にはまって楽しく見たほうが良いですね。

 

最後に今回も女優人はきれいでした。特に司葉子さん、大原麗子さんこの時期でもまだこんなに美しいとは思いませんでした。DVDは残り一作になりました。また気が楽になりたいときに見ることにしましょう。日本映画でシリーズ化される作品は気が楽になる内容の映画が多いですね。映画くらいのんびり見たいですよね。

 

「コンタクト」 ロバート・ゼメキス監督 1997年

この映画と「オーロラの彼方へ」は本当に夜、空を見上げさせてくれる良い映画です。

はじめに電波の混線から。宇宙についてズームアウト、そんなのできないですよね。しかし銀河系がいかに小さく、地球がいかに小さいかがわかります。

子供のときの経験はかなり刷り込みが入りますが、この女科学者Aも子供のときから望遠鏡を見ているのが好きな子でした。父も「宇宙人がいるの」という問いに対して「いなければ宇宙は広すぎるよ」と答えてくれます。

そのままの好奇心をもって科学者になって宇宙との交信を試みるのです。しかし予算カット。

しかしある財閥が助けます。これが頭の良いトップがいるんですよ。まあAも地道に年をとっていくのですが、執念の引きがあります。ちょうど、ちょっと知り合いになった神学者が「いまほど人類が孤独だったことはない」などといっているときに宇宙からの合図をキャッチします。メッセージが届きます。画像はヒットラーの演説。まあ価値判断は入らないで宇宙人の独自の判断ですから文句は言えません。この辺のキャッチしてからの動き映画として緊迫してすごく面白いですよ。

そしてその解読をいち早く行ったのが財閥のトップ、彼がAにその解読方法を教えます。この飛行機(財閥のトップBは飛行機で生活している)で解読方法を教えるときのABの対応と演技、素晴らしいです。かなり印象に残るシーンです。それは惑星間移動の機械の設計図でした。それも人間にわかりやすく、定義式まで入っています。

そして政府のプロジェクトがスタート。昔の上司が表に立って功績を持っていってしまいますが、たいしたことではないでしょう。

「単純な説明ほど正しいものである」こういう説があるらしいですが、証明するの難しそうですね。母集団に何を持ってくればよいのでしょう。Aと神学者Cとの会話、「神はすべてを創造した後に、自己証明をしなかった」「人間は存在しない神を作り上げ、神のせいにしている」基本的には神という母集団(この場合は人間)以外のものがあればすべては証明されることは不完全性定理で明らかですね。

乗組員1名の戦いですね。10名から選ばれます。「日本は候補者を出さない代わりに、総合下請契約を結んだ」とここまで馬鹿にされてます。

結局、神の存在を信じるかどうか、で選考は決定します。このように人類の代表を決定するときは神の存在が大きいようです。そして聖書を曲解しているテロリストにもこの計画は中断させられます。未来の黙示録というらしい。

そしてハイライトへ。ミールからの受信、そして北海道へと展開がきれいに決まってます。映画はこうでなければ。かっこいいなあ。

そして「ヴェガ」へ。地球時間で一瞬でしたので、Aにとっては長い時間だったのでしょう。相対性理論ってこれを示唆しているんですかね。実はよく知りません。格言「オッカムのカミソリ」も知りませんでした。最後の尋問のとき「われわれはより大きなもののひとつの変数に過ぎない」というの良いせりふですね。

そして静かにアリゾナの荒野で終わっていきます。宇宙人も仲間で人間は地球は孤独ではない、閉鎖体系ではない、答えも外の変数を使えば見つかるはず、という良いメッセージでした。

 

「攻殻機動隊こうがくきどうたい(GHOST IN  THE SHELL 」 押井守監督 1995年

パトレイバーがらみでこの作品も見ることにしました。しかしまったく知りません。実はパトレイバーも意外と期待したほどではないという印象なのですが、これはどうなんでしょう。アメリカではヒットしたらしいですね。テンポが良すぎてついていけないところはあるんですが、ハイテクが主導の割には人間が主役なんですよ、この近未来。なにかしっくり来ないんですが50年前からすると今もこういう風に物は進んだけど人間は相変わらずだな、といったところでしょうか。

何か説明がなくてはじめとまどいましたが、一連のタイトルバックの映像で説明があったんですね。あれで「電脳」のゴーストがいるらしい、ということを判れというのでしょう。全部、有機体からなる人間が珍しい世の中らしい。擬体も使いより機械的になっているのです。しかしそれを悪用もできる、ハッカーの存在がポイントになる世の中。生きていたくない様な世界です。結局、システム化されたものはそのシステムの限界があり、かつ志向性も同じなので変化がないのと同義になってしまう危険があります。そのシステム化された反応を操ろうとするのがハッカーなんです。はっきりいって途中で投げ出したくなるような映画です。しかしなにか音楽とか演出の魅力は感じます。

実はここで一度断念をして再トライです。今回が3回目くらい。まったく意味がわからないので途中で2度ほどやめてました。

とにかく少佐が女なんですが、頭の後ろで情報のやり取りをしているのか、スパイみたいな存在です。そして国家間の争いに口を挟むみたい。しかし、はじめの絵でやはり付いていけない。この少佐はなぜか任務をするときに裸になるんです。電脳迷彩というらしい。多分、人口の皮膚は隠せるけど物理的な洋服は隠せないからでしょう。

しかしこの映画がつまらないのはわかりました。それは新しい発想の物が出てくるので登場人物に説明させなければいけないのです。だからそのせりふがやけに冗長なものになるので聞いていて普通の会話とは思えない。この会話の非日常性が最大の欠点です。まあこれは置いておいて少佐のいる9課は情報犯罪を扱うところみたい。そして女であるということは電脳の過程を見ると裸になるんです、そのシークエンスを描きやすいからではないでしょうか。男だと突起物があるし、女の胸は意外と普遍的だからという感じがします。多分ぜんぜん違う意味なんでしょうけどね。

最後は続き物が出来るような終わり方です。最後に戦った二人というか2体は合成したみたいですね。壊され方とかかなり暴力的です。そして、脳の一部にしか元の形がないため、こういう壊され方をしても生きて(存在)し続けるのでしょう。

まあ、古いながら一時はやったアニメを経験したということが一番大きいですね。アニメは難しいです。

「コンセント」 中原俊監督 2001年

田口ランディさんの処女小説です。お亡くなりになった今となってはなにか感慨深いものがあります。まだ若いんですが。

とにかく映画のほうへ。

兄の死に方が普通ではない。葬儀屋もお盆に毎年お迎えするのに顔はいい顔で思い出してあげてください、といって見せません。便利屋が来て死体の腐乱した匂いの染み込んでいる部屋の清掃をしますが、大家が「このにおい消えるんでしょうね」と聞くと「消えます」「家族想いの死に方をした」というのです。前者は魂が永遠と反対の言葉で肉体は消え匂いも消えるということ。後者は死に方にメッセージがあったということ。

主人公の女はこの兄(B)の妹(A)でBの死に方により「匂い」に敏感になります。事実、病気の人の匂いは私もわかります。自分がおかしいときもわかります。そして大学時代の恩師にカウンセリングを依頼に行きます。多分心理学科だったんでしょう。このときの

ABのことを話す態度は毅然として論理的でかなり観察していたんだという事を充分に判らせるものです。そして恩師(C)に「肉親のカウンセリングはできない」ということで慰められます。ここポイント高いんです。ABをカウンセリングしたかったんです。また別の表現をすれば、映画のジャケットポスターと違って市川さん魅力的です。

このCとの間に学生時代、変な関係(不倫だと思う、Cが独身なら不倫ではないんですが、師弟の間の変なセックスパートナー)があったんです。それには「オチ」がついていてCAをいたぶっているようで実はインポなんですね。自分自身が精神的欠陥があるのです。しかしそれを乗り越えてAは相談に来たということ、私なら、関係修復と思いますがCは契約を結びカウンセリングを週一回行うことにします。その帰りAはひとり居酒屋で刺身を注文し見ているとそこに兄の死体にたかっていた「蛆虫」が見えてくるのです。実はこの映画を今回見た日に保健所の年一回のセミナーがあり出席したのですがそこでかなりBSEの話になりました。そこで話を聞いていると、私の中でイメージが膨らんできて、肉を食べるということは?と思ったのです。牛が食べている草をそのまま食べるわけには行かないのか?なぜ、草を食べた牛の肉が食べたいのか、また牛の脳、脊髄、目玉なんかにBSEの危険が高いのだがそれらを好んで食べている人たちを中心に人間にも死者が出ていると説明を受けたとき、英国でそういう習慣あったっけ?と考えながら、牛のそのような部位普通食べるかな?と変なことを考えてました。その別の説明で乳牛で年齢が高いものの方がBSEになる危険が高いということ、そしてそのような牛の肉を砕いて牛のえさに混ぜていたことから発生率が急に高まったことなどを聞いているうちに(内容は違うかもしれません、セミナーの講師ではなく私の聞き方が悪いのかもしれません)凄く浅ましい気持ち、肉を食べるということの贅沢性を感じました。肉というのは1頭から有限にしか取れませんよね、そのため高いはずなんです。しかし牛丼とか安いんですよ、何かがおかしい。なにか年末に贅沢にディナーに追加でステーキ注文したらそのステーキだけで1万円したんですよ。総額で一人当たり18000円。本当はそのくらいが普通なんじゃないかと思い始めた矢先で現代の食というものをすごく考えさせられてます。

しかしAは表面突っ張っているんですが、孤独なんです。実は誰かにずっとそばにいてもらいたいのですが言葉ではいえない、そんな女です。結婚しようと言われた男にも「見ていて苦しい」「何でそんなにバランス悪いんだ」と言われます。このように理解してくれる人の胸に飛び込むと正解ですが、そうなるならAみたいなアイデンティティーできないんですよね。

Bとの共同生活の中でBの観念的な生活をAがあこがれていた部分があるんですよ。そして一緒に見た「世界残酷物語」(これBOXほとんどまだ見ていないです)を思い出してみてみると一緒に見たシーンがないのです。事実そんなシーンはこの映画にはありません。もうこのコンセントのシーンそのものがBの精神的限界なのです。どこにでもいける電流のようなものを意識していると思うんです。人間の精神は何かにつながれて世界とつながり、そこで見たものを頭の中で咀嚼するそんな意識構造を考えているのではないでしょうか?ちょっと「攻殻機動隊」に似ている感じがします。

Aに関してはBと教授のふたりに男のトラウマが植え付けられております。どちらも愛してはいけない人なのに、という気持ちがどこかにあるのでしょうし、コンプレックスもあると思います。そして長い間かかってゆがんだ性格が形成されたのです。さらに教授のずるさもかなりのものです。それを知っていてなぜにAはカウンセリングを受けているのか?または最後に兄の死はあなたには永遠にわからない、といわれるまで信じていたのか?この辺は私にはわかりません。しかし一緒にカウンセリングを受けているという状態が気持ち悪いなら受けてはいないと思うのです。知り合いでカウンセリングが好きな人がいるのですが、この人はだめだと思う相手に対しては一回で行くのやめます。私はカウンセリングなんか止めたほうが良いよ、と言っても無駄ですけどね。

Aは自分自身で「幻覚と幻臭がでている」「精神分裂病の初期症状だよね」という自覚はあるんです。この自覚があってなぜに心理学のカウンセリングを受けるのか?マゾなのか?わからないなあ。そして大学時代の友人に会います。彼女は「シャーマニズム」の研究をしてます。この女(D)は少しAに憧れを持っていますね。とにかくここでまとめるわけではないのですが、出てくるものすべて不安定な精神状態過ぎますよ。しかし「乖離性障害」(かいりせいしょうがい)の人がいてその人の言葉に「トランス状態になるときコンセントが抜ける」というらしい。ここでまとまってきました。友人の「シャーマニズム」研究、そのDが引き合わせた医学部助手の専門が精神病のなかの乖離性障害、そしてその患者の言葉。実際にシャーマンのように幻覚が実際に起こる様子。なにとコンセントがつながっていて、どうなるとコンセントが外れるのか?そこです、ポイントは。

そして患者のケースではトランス状態に入れることを自発的にできることを優越感を持って普通の人と差別化した気持ちを持っているらしい。

ABの場合はきっかけが愛犬の死にあるらしい。それも犬がかんだといって父親が鎖につながれた愛犬をバットで殴り殺す瞬間をふたりは見ているのです。このときからふたりは父親からはなれ、愛犬に異常な愛情の思い出を形成したのではないでしょうか。愛犬、愛するものの死、それも生まれてはじめてみる死、自分を生んだ種を持つ父親への愛情とどちらが深いか、Bは中学生くらいなので愛犬への愛情が強かったかもしれませんが、Aは父親への愛情が強いはずです。変な問題提起ですが、親子の愛情にまさるペットへの愛情はありえない、というのが私の考えです。しかし最近のペットブームではそうではないらしい、というのもわかっております。この辺がトラウマの原因です。

沖縄のケース。かみだより(と聞こえたのですが)という精神かく乱状態を経て巫女として覚醒するという過程があるらしい、そしてAはその過程にいるのではないかと友人のアドバイスがあります。私はAがその過程にいるかどうかはどうでも良くて、実はこの友人はAとのコミュニケーションの手段として面白い実話を持ち出しているのではないでしょうか、それも無意識にね。なにか孤独感が感じられるんです。というより友人いわく「Aが私のコンセントなんだよ」そうだろうなあ、この友人は自分が薄情なの、愛情とか友情をもてあそぶせいかくなのを知っていて、自覚していて善意ぶる態度の中にある悪意に気がついているのです。というより、自分のことしか考えていないことに気がついているのです。そのために他人を治すことはできないのです。これがわかった時点でこの映画すごく気に入りました。いい映画です。

そしてこの友人の心のそこの闇が見えた瞬間にAはシャーマンに近づきます。事故で幽体分離する姿をはっきりと見るのです。そして友人も治し、教師も治します。すべてが見えるということ、そして何でもできると言うこと(教師の治療にはセックスをしなければなりませんでした)はシャーマンに近づいていることだと思うからです。そして兄にも会えるようになります。

追加、コンセントとはここでは性的に問題のある人間が多数出てくる関係で、女性の性器という意味の暗喩らしい。解説による。これは気がつかなかった。いわれてみればこの映画セックスでずいぶん癒される人間が出てきます。まさにヴァギナを治癒の手段として利用したのですね。しかしそうなるとちょっと次元が低くなると思うのは私だけでしょうか。性的シーンは性的コンプレックスからの欲望のはけ口、として解釈してはいけないのかな。

まあとにかく、昔見たときはまあ変な映画だな、と思っただけでしたが、今回は本当に良い映画だと思いました。

 

「昆虫大戦争(こんちゅうだいせんそう)」 二本松嘉瑞監督 1968年

虫ですね。あんまり言うことない感じがします。虫が異常発生して飛行機が墜落した。その墜落した飛行機から逃げた兵隊を殺した容疑がある男にかかる。その飛行機は米軍の飛行機なのでちょっと問題が生じるという程度。英語は吹き替えですし、昆虫の研究員がかなりの権力持っているという状況はほっときましょう。この場所は米軍が占領していたので自然がそのまま残った場所だとのこと。米軍はじつは意外とそのまま残しているんですよ。横浜もそうです。根岸森林公園なんか意外とそのまま残ってます。

しかし実は誰かが毒虫を飼って増やしていたのです。これ戦争になるんでしょうかね。それも大戦争ですからとんでもない展開が待っているのかもしれません。

ユダヤの女が(ナチスの拷問の仕返しに)世界滅亡毒虫で実現しようとしているのです。実はこの映画、今見ても、この白人の女がとてつもないビッチで「ファム・ファタール」に負けないくらいの映画ですよ。何でこんな映画が作れたんでしょうか。とにかく1968年の松竹はおかしい。何かがあったんですね。まったく判りません。

この毒虫の島を、水爆がばれないようについでに使ってしまって破壊しようという米軍です。何も書くことないですが面白いんですよ。そしてやけにまじめなんです。

そしてまたしても悲惨な終わり。よくこれできましたね。逆にまとめて同じ年にこういう映画作っちゃったんでしょう。最後水爆おちても昆虫は生き残り飛んでいってしまいます。

そして水爆の煙を見ながら海のうえで祈っている女。題名からじゃ判らないですね、よく作った。よくできました、という感想です。うそみたいな話ですが政府が輸出品に映画を指定して補助金が出るということで輸出仕様で外人がたくさん出ているんだそうです。うそだーー。爆笑。

「怪談(かいだん)」小林正樹監督 1965年

これ完全版なんです。一度も見たことはありません。

「黒髪」

主人が没落して職を失った武士が、仕官の道を求めて女を捨てて出かけます。入り婿という形で仕官するのです。当然婿をとるくらいですから、わがままなお嬢ちゃんです。それで昔の彼女が懐かしくてたまらなくなるのです。地方勤務なのです。武士が貴族の守り役のころですから平安だと思います。

そして任期を終えて帰ってみると彼女どころか都(京都)は荒れ果ててます。家に行ってみると荒れた中にも一人機織をしてたたずんでおります。そして「お帰りなさいませ」「悪かった、あの時はおかしかったのだ」と男。「貧乏がさせたのです」と女。そして仲むつまじい抱擁。しかし女は「しばしの間」と男は「ずっと」というのです。そして契りを結ぶのですが朝起きてみると、白骨の死体が。よく見ると白骨なのに黒髪が残っているのです。見覚えのある黒髪です。それを観て恐れおののき、一瞬にしてふけてしまった男にまだまとわり着く黒髪でした。狂うさまは圧巻ですよ。

「雪女」

二人の老若のきこりが山からの帰り道猛吹雪にあいます。笛の音色が吹雪にマッチしております。何かを呼び寄せているのですね。まさに霊(雪女)を呼び寄せる笛です。そして背景の美しさ、抽象性まさに映画的です。雪女は若い方を生かせて「このことを誰にもしゃべっちゃだめだよ」そして「しゃべったらお前を殺す」と言って立ち去ります。

この男も恐怖から立ち直って山仕事に戻るとそこで一人の美人と会います。ひょんなことからこの人の妻になって子供を作ります。すごくいい妻を演じるのです。当然あの雪女ですよ。それで気を許して、昔雪女にあった話しを妻にするのです。そうすると豹変して「私との永遠の約束を破った、さするに殺すのが筋だが子供がいる、大事にせよ」といって消えるのです。残った男は幸せな家庭を一挙に失ってしまいました。雪女が去るときの外の吹雪の景色と地平に見えるぱっくりと開いた目が印象的です。

「耳無し芳一の話」

冒頭の源平の「壇ノ浦の合戦」すごく絵巻物みたいで美しいし迫力がある映像です。そして赤間の供養寺に。赤間神社だと思うのですがその隣にお寺があったかと思います。

ある日、芳一が一人で留守番をしていると、平家の武士が尋ねてきます。そして平家琵琶をある高貴なお方にお聞かせしたいが来てくれるかといわれ、そのままついていきます。何せ目が見えないので何の疑いもなくついていくのです。しかしほかのものの知ることになり後をつけられます。しかし平家の一族は(この一族揃い踏みのシーンはいいなあ)、「壇ノ浦の合戦」のくだりを聞かせてくれというのです。実はこの演奏は安徳天皇の墓前で演奏していたんです。有名なシーンになるには次のようなロジックが必要でした。「死霊にとりつかれたからには死霊に殺される」だから「死霊を避けなければならない」というわけです。しかし、この平家一門の揃い踏みのシーンは素晴らしい。平家琵琶も美しい音色で本当の日本の美が描かれていると思います。おちは耳に般若信教を書き忘れてしまい平家の霊に見られて、もって行かれるということです。それで霊はこなくなりますが、その霊の気持ちというか霊に触れたことで一層平家琵琶の演奏に深みが出ましたし、その体験の哀れさから世間からのお布施は十分もらえたということです。美しすぎる映像です。

どの作品も、日本を代表する役者が揃ってます。本当に日本を代表する映画の一本といって過言ではないでしょう。

「茶碗の中」

回顧的な語り口です。

昔ある武士が茶碗の中に一人の男を見たのですが、実際にその男が屋敷に現れます。この藩のの江戸屋敷は騒然としますが、「音もなく壁に消えた」と聞くと回りのものは相手にしません。まあ男も気休めにゆっくり眠ろうとすると家に来客がある。出てみると先ほど主人が切られたので、養生が必要、それが終わったらこのご無念晴らしにくるというのです。

また気が狂ったようにこの男は刀を振りかざします。しかし殺したはずの3人の武士は何回も何回も現れてきます。

それから、ここで話は切れているとして、この昔のもガタリを解雇している男のモノローグが始まります。しかし本人が消えております。「魂を飲んだものはどうなるのか」と書き残して。

はい、今度は自分が飲まれる番です。

 

アイルランドとギリシャの混血の日本人と日本の名監督の素晴らしい作品だと思います。

「風花(かざばな)」相米慎二監督 2001年

男と女の出会い。酒の席だったので、男は目が覚めてみると忘れてます。しかしなんだかんだ言っても女が故郷の北海道(道東から北見のほうみたい)に帰るのに付き合います。

そして北海道のファーストシーン、喫茶店です。北海道は意外と喫茶店残っているんですよ。まあ大手資本系列のカフェの採算が合いそうなのは札幌くらいでしょう。

偶然、の旅行のようでしたが、女は自分の子供に会いに故郷に帰ってきたのですが、今の商売がホステスということで会わせてもらえません。旦那と何かあったのです。そして男は会社の不祥事を起こしていたのですがそれが大きくなってとりあえず形は任意退職ということになりました。北海道という土地で二人とも宙ぶらりんになったのです。

この二人が風に流されるように、本当に時流にも世間にも流されていく過程を描いたものです。特に女は生まれも家庭環境がよくなく、結婚しても旦那がよくなく(ここははっきりとは描かれていない)風俗嬢にまで身を落とします。それでやけくそで帰った故郷でうえのように仕打ちをされて生きる意味を失っていたのです。生とは偶然なものであるけれど生まれたなら必然となるのです。本当に風に飛ばされた花のように偶然、あるところある両親の元に花を開く、生まれるのです。しかしそんな花もしおれるのは、手入れの問題ですし、環境が大きく左右します。その花が自ら命を絶とうとしたときに、一緒の男は懸命に介護します。こんなに親切にされたのは久しぶりか、または初めてだったでしょう。

これで何か吹っ切れたのでしょう、前向きに生きていく決心が出来ました。そして子供に会いに行きます。当然血のつながりがあるので子供もわかります。この子供と会うなという反対を押し切ってあう自信がなかったのです。それがこの数日の放浪でつかめました。男も何か人を愛するという気持ち、人間代わりはないという気持ちを感じたのでしょう。新しい人生が始まるところで終わります。彼もまた一段と大きくなったのでしょう。

小泉今日子さんのなにかブスな表情がいたるところで見ることが出来る映画でした。ちょっと観念過ぎかな。

 

「風の谷のナウシカ」宮崎駿監督 

この映画はちゃんと観るのは初めてです。昔はあまり意味がわかりませんでした。アニメ自体ほとんど観なかったので、どこか斜に構えたところがありました。

世界最終戦争あと、ということです。原作はここまでの経緯もわかると思うのですが、どうでもいいでしょう。まずナウシカが散歩の途中「オーム」という昆虫の抜け殻を見つけるところから始まります。目玉の抜け殻のレンズを持って帰ろうとすると空から、ある植物の胞子が飛んできます。レンズと胞子、それにオルゴールみたいな音楽、きれいなシーンです。とにかくおてんばとやさしさが同居しているようなかわいい娘です、仕事が「風使い」とかいうもの。それは、良くはわからないのですが仲裁者みたいな感じです。それにすんでいるところは風が常に吹いているところですので、風の谷のナウシカです。なにかこの風は、浄化作用のある、常に誰かのチェックが入っている監査のような意味合いがあるみたい。その逆の意味で「腐った海、と書いてふかい」と読むらしいのですが、そこは地面の中のどろどろした部分、自然で言うと地中、(そこに住むオームは格好の金属元を市民に提供しているし、)または犯罪や談合の象徴なんでしょう。そしてその談合や争いに巻き込まれた市民たちは戦争に明け暮れてしまう。この風の谷はいわゆるユートピアなんですね。

そして少しキリスト教みたいな信仰のある国です。そこにトルメキアという軍事国家が、きょしん兵、という過去の軍事に使う生き物を発掘して持ち込んでしまったのです。この「虚臣兵」は「きょしん=虚心」という意味もあるのかもしれません。そのトルメキアの飛行機も敵国の襲撃で撃沈され、ナウシカたちはふかい、に落ちていくのです。ここでオームという虫が邪魔者を排除しようとするのですが、そのとき敵かどうかを判断するのです。そのときにオームとナウシカの中でDNA遺伝子の中にある昔、人間の時代の思い出が蘇るのです。それは人間と虫が共存していた時代。まあこの映画ではナウシカとオームの関係ですけど。ナウシカがオームの幼生を助けて隠していたという事実があるんです。しかし人間と置き換えてもいいのではないでしょうか。しかし、人助けに深入りしすぎて、流砂に落ちていきます。

そして森のやさしさに触れるのです。

あとは戦争をしたがる大人たち、国家間の争いが描かれ犠牲になる人間や昆虫、自然を守ろうというようなことがメッセージとして語られます。それにしても最後にオームに助けられたナウシカの奇跡は良かったですね。終わり方もきれいです。

音楽もいいし、私はこの監督の作品では「ルパン」と猫バスの出てくる映画、名前忘れました(トトロとか言う題名)、とともに気に入ってます。

「神々の深き欲望」今村昌平監督 1968年

本当に神の話です。「にっぽん昆虫記」でも山の神とか出てきたようにこの監督は素晴らしい日本の伝統の表現をいたします。私は好きな監督です。

まずは舞台は幻想集落。ありそうで実際はない集落です。縄文式のような、弥生的な集落であるし、しかし沖縄みたいな景色です。そういった感じでは、神代の時代に近いかもしれないというところです。しかし神代の時代は意識され実際にあるといわれるのが、応神天皇くらいだといわれているのでそれほど古くはないですよ。10代天皇くらいからは追跡できるといわれてましたっけ。この辺は定かではありません。しかし現代なんでしょう。この辺の曖昧さが話に内在している神の存在に焦点を当てるのです。今でも通用する話であるし、千数百年前の話でもあるというような具合です。この舞台となっている島自体が「古事記」などの大八島創生の話になぞられており、大神伝説のごとき「蛇」がご神体の意味もあるのでしょう、登場してきます。すごい面白い映画ですよ。

男(陽)と女(陰)一体でひとつ、お互いの足りない、多すぎるものを補充しあう関係ということで「性」の問題がクローズアップされます。

現代の内容としては、沖縄に砂糖工場を作ろうとする会社が調査に来ます。この辺は資本主義ですね。しかし砂糖で思い出すんですが、沖縄のお土産といえば、「砂糖きび」だったときもありましたね。あと西表などの工場で直接砂糖買うとやすかったです。私が行ったときはまだこの島には信号も舗装路もなかったときでしたけど、砂糖工場はありました。

そして沖縄はシャーマン、巫女の存在する世界です。ですから意外と仏教寺院は少ないのですよ。シャーマニズムも古代のようで現代劇で古代を象徴するよい材料です。

砂糖工場を作るのに水源確保が必要なんですがなかなかない、しかし神の森の中によそ者なので入っていくと、シャーマンが管理している神の水があります。それを使いたいというけど、巫女はなんと答えるやら。決まってます。「おたき信仰」(水場の名前)が島に行き渡っているのです。そして、慣習は「迷信」と言い張る若い者も破ることはできないのです。共同幻想です。そこに砂糖工場の下見役の都会人が入っていったので、とうとう切れてしまいます。性習慣はおおらかですし、「おたき信仰」はありますし、神の存在をそこいらじゅうに感じなければ生活できないのですから仕方ないことです。都会人にはその神を感じられないのです。しかし、一人反抗しても熱帯の熱さは容赦がない。むき出しの本能に溺れます。女に落ちて、自然のままに生きるという感じ。

そのまま、現地になじんでいきます。

そうこうしても自然は変わらず、日照りは続いたままです。途中からストーリーは、わかりにくくなります。それはいろいろなエピソードが入ってくるからです。葬式もあるし、シャーマンも出てきます。すべてをひとつのドラマツルギーで示すことは無理です。総論と根源論を示す形をとるのです。

だって、砂糖工場建設やら、飛行場誘致などの資本主義原理がこの映画には入り込んでます。資本を神まぜこぜにするから話がわかりにくいのです。そして「おたき」神の森を移動して空港を建設するという話で巫女も納得しているという前提で話が進んでいきます。ひとりだけ、神の田んぼのための水道を良くするために邪魔な大きな岩をどけることを何十年もかけてやっていたのですが、その岩がとうとう崩れます。その前に、空港建設に前向きな態度を村のみんなが取り始めたら、恵みの雨が降るようになりました。この辺は、このままの生活を守れということなのです。しかし降ってわいた「観光」化の誘惑にみんな負けて土地を手放し、開発が進みます。一人の反抗者は逆に土地価格が吊り上りみんなから疎まれるし、巫女を買収して(体の魔力で、笑い)このものを裏切り者として神のお告げのレッテルを貼るようにさせるのです。巫女はどうするのでしょう?さて「祭り」です。このようは慣習は捨てられません。巫女はいない。祭りは騒然として形さえ整わなくなります。舟をこぐような動きは祭りとして行いますけどね。

逆に、反抗していた農民のほうは、島を女と抜け出して「西の神島」に向かいます。二人だけの楽園です。しかし祭りの船は追ってきます。途中でお神酒を飲んで、仮面をかぶって神の御心という形で抹殺します。海に落とせばそこは鮫の世界、自然界の掟が支配します。そして巫女だった女を連れて戻りますが、そのラストシーンの海と夕日の美しさは「太陽がいっぱい」と同じでしょう。きれいです。こうして近代化は慣習のみのを使って島に浸透していきます。あの反対していた男を殺そうとした、空港建設賛成の人間は巫女を性的に喜ばせていたときに腹上死したのでした。その罪の償いを神が下したことでめでたしめでたし、ということになったのです。崇高なる魂は滅んでいくのでした。

さて後日談。空港ができました。そして飛行機で砂糖工場を作ろうとした男も役員と一緒にやってきます。あの死んだ男を、神としてみるという地元民の言葉とそれを否定する空港関係者、恋人を待ち続けて岩になったという女の像を説明すると、地元の人はついこの前あったこと、砂糖工場の男を待っていて死んだ女のことを示唆するのです。この男が乗った列車を待っているかのように女は現れて、消えていきます。待っていた人が来たのですから、待った甲斐があったのです。そして消えて、海ではあの男の船が漂っているのでした。

こんな映画もう二度とできないと思います。よく作れたとさえ思いますし、才能、努力すべてがなければできない映画です。日本を代表する映画だといっても過言ではないでしょう。素晴らしいです。

 

「カタクリ家の幸福」 三池崇史監督 2000年

観てからかなり経ってから書いていますのであいまいな点があるかもしれません。まず、総論はすごく楽しい元気の出る映画だということです。これも人それぞれなんでしょうが、私は、すごく落ち込んでいるときに観たのですが、途中から晴れ晴れしい気分になりましたよ。

多分、出ている俳優がすべて好きなのと、嫌いな俳優が助演に回っていることあたりがまたまた良いです。「女はバス停で服を着替えた」ではないですが、遠藤さんあたりはこういう変な助演が似合うのであって主役をやるべきではないです。これは竹中さんにもいえます。ジュリーとか松坂慶子さんが主役には向いてます。ですから映画の骨格がこの監督の映画にしてはしっかりとしているんです。丹波さんまで出てますしね。

丹波さんといえば、おじいちゃん役なんですが、カラスを、薪の木を投げて打ち落とすのが得意な才能を持っております。2回だと思いましたが、この薪木投げのシーンは素晴らしい。あんな素朴なシーンですが、こんなに楽しい気分になるなんて、監督の才能ですし、役者のセンスでもあると思います。

話は脱サラしてペンションを始めたけど、お客様は来ないし、子供たちも中途半端だし、とどこにでもある話です。本当にどこにでもありますよ。

このペンション、本当にたまに来るお客様は変なのばかりで、なぜか、みんなこの家族が悪いのではないですが死にます。ここで「地獄モーテル」だったっけなあ、こんな題名の映画思い出しました。これは確信犯で殺しては死体を穴に埋めるんです。そんな悪いことはしていないのに、死人が出たという評判が立つとお客様が来なくなると心配して、すべての死体を穴に埋めて処理してました。そんな中、娘が詐欺師に引っかかったり、犯罪者が来て、めちゃくちゃになったところに近くの火山が爆発して、家が流されるのですがみんな一致団結して家を守ったら周りの景色もきれいになって、最高のロケーションにペンションは生まれ変わった、というような話です。

途中、この映画はミュージカルコメディで、歌あり、ダンスありで最高に楽しいですし、歌もロックから演歌まで、踊りもまともなミュージカルから丹波さんが参加する冗談ダンスまで、レパートリーが広くて飽きないです。

また人形アニメがはじめと途中に入るのですが、これも効果的ですし、途中なんて忌野さんと丹波さんの戦いのシーンは二人ともアニメに変化します。

 

何を書いてもこの映画の魅力は語れないと思いますし、観ていない方はぜひご覧ください。きっと楽しいと思います。こんな映画を邦画で作れるなんて考えてもいませんでした。本当にすばらしい。

 

「カンゾー先生」 今村昌平監督 1998年

最近は今村監督の映画が多いです。多分この後すぐに「神々の」を観ようと思います。

「復習するは」はあまり好きではないのですが昔の映画はいいのが多いですよ。

しかしまたこの映画は時代が戦争中です。主人公は医者(A)ですが、やはり現代の俳優を使っているので、戦争の兵隊の雰囲気は1950年代の戦争映画と比較して格段の差があります。実に兵隊らしくないのです。これは、日本人といってももう今の人と戦時中の人は人種が違うといっても良いくらい違います。

日比の紫雲閣も出てきます。いい名前ですね。ナチスの無条件降伏の後ですから45年6月くらいです。このころは日本の攻撃もめちゃくちゃでした。特攻隊だけでしたね。沖縄は当然陥落してます。原作は坂口安吾「白痴」以来です。

医者が主人公ですので「静かなる決闘」とほぼ同時期の医者です。それにしてはまじめさが違うし雰囲気が違うのは監督の違いもあるでしょうが、作品のとられた時代によるものです。もう今の日本で戦争中の景色人物を撮ろうとしてもできません。70年くらいまでではないでしょうか、それが可能だったのは。この景色は今の景色でしょうが、瀬戸内海の静かな波と町並みはいい感じで映ってますよ。

淫売の女が、医者の看護婦になって正しさを感じていく流れがあるのですが、それでもおおらかな性生活というのはすごく感じます。日本はそういう区にうだったんですけど、今の都会的個人主義のなかでは消えてしまいましたね。昔の日本は子供が多かったですもんね。なにが変わったのか、母性がなくなったのか、脂ぎる男が減ったのかわかりません。笑い

そして、学会ではやはり肝臓病がはやっているというコンセンサスを受けた次の日、故郷に帰ってみると捕虜が逃げておりました。その捕虜を、淫売出身の看護婦は、こともなげに入院させます。先生は仕方なく往診するのですが、体中傷だらけ。この捕虜はカメラ技師で顕微鏡のセッティングをしてくれます。そして死にそうな患者がいると、遺言ですぐに埋めて腹を冷やしておいてくれ、と書いてくれるように懇願するのです。そして土葬の後すぐに掘り出して肝臓を取り出し、顕微鏡で研究します。肝臓を取り出すとき、満州で日本軍がやっている細菌研究の話を友人がするので変な想像と罪の意識で少しおかしくなります。しかし肝臓をすりつぶして顕微鏡で見ると、まあ映画ですね。ここに軍隊が押し寄せて、この捕虜を連れ去るとともに、医者やこの件にかかわるものをすべて連れ去ります。観ていて寂しくなりましたよ。この瞬間。

まあ日本人はすぐに釈放されますが、捕虜は虐待されます。このころから終戦を象徴するようにめちゃくちゃな行動をとる人間が増えます。役場の会計係は使い込みして出家、モルヒネ中毒の外科医はモルヒネを盗みに軍の施設に乱入、軍医部長は権威で料亭の女将を抱く、など、など。人間がやけになっています。

しかし主人公の医者は開業医で研究医ではないことを思い出します。そして

治療に専念する。と島への往診の帰りに鯨に出会います。瀬戸内海に迷い込むことがあるのでしょうか?エノラゲイという鯨みたいです。8月6日のことでした。淫売女は鯨を捕獲に向かいます。逃がしてしまったところに鯨と原爆が重なります。そのきのこ雲は肝臓のようだと、。二人は結ばれ、戦後を平和に生きていくのでしょう。

「寒椿(かんつばき)」降旗康男監督 

昭和初期の祇園からスタート。何か復習みたいですね。最近この時代の映画ばかり観ております。すぐに高知。何でこの映画観ているかというと、高知に行きたいな、と思っているからなんです。しかし主役、西田さん、始めてみる感じ。「釣り馬鹿」を観ないので意外と縁のない俳優です。

うん、西日本一といわれる「ようき楼(すみません当て字にしておきます)」に芸妓を紹介していた(Aとします)男の話みたいです。面白そう。小奴(Bとします)は松崎という桶屋に預けられます。この町並みきれいです。高知ではないのかもしれませんがいいところです。セットも多用されてますけどね。

Aと離婚したく実家に帰っている妻と子供を追いかけて妻の実家に行って子供(Zとします)だけ連れ戻します。これ男の子なんで跡取りなんですよ。

まあ、話が進むとすると東京から金持ちが来て(金貸し)毎日毎晩宴会してどうしようにも手がつけられない状態になっているんですが、静かにしてくれと行くと拳銃突きつけられるけどひるまないでいると、こいつらは出て行きます。

次の問題は、役人が借金して娘を形に差し出してきたんで、それをAが受けるのです。この娘Dはバスの車掌をしていたのですが父親の借金で売られるわけです。まあこのようにエピソードが列挙されているわけですが登場人物の紹介を兼ねているのです。結局、「ようき楼」がDを受けてくれたので、かなり安心できるのです。そのときAの過去の話をDは聞かされるのですが、Aは昔はどうしようもないばくち打ちだったんですが、ほれた女ができてきれいに足を洗ったらしい。こういう話って私は好きなんです。それでDは芸子の修行をさせられるのです。その練習風景は「女はバス停で服を着替えた」のサルサよりぜんぜんうまいですよ。これは良いです。しかしDの俳優の立ち位置が高いのでひょんな印象を受けてしまうのが欠点ですね。小さくまとめるといい踊りができます。

まあ時代は公職選挙法が選挙権者を一挙に増やして、選挙の行方が見えなくなっており、そこに二つの陣営にやくざが絡んでくるのです。ひとつはAとつながりの深い「どめき」親分。もうひとつは先ほど「ようき楼」で馬鹿騒ぎしていた金貸し(Fとします)。

水面下では選挙に向けて動いているのですが、映像は郷土相撲です。このシーンはいいですよ。とにもかくにもFの元に世話になっている元相撲取りがDをとにかく好きでいろいろな事件や、シーンとなるのですが、なかなかDは気がつきません。DはそれよりAのことが好きみたいで、そのために公職選挙に立候補した二人から同時に身請けの話があってもどちらかに決めかねているのです。Fの肩入れしているほうでないほうにDの身請けが決定しました。Fも選挙運動しているといいながら何もしていないんですがね。勝ったらがんばりました、というタイプです。このFの元にいてDを好きな男(G)は金を借りてでも身請けしたいと言い出します。選挙結果は大体見えているんですが、どうなるんでしょう。政党の名前で実はわかるんです。これは現実の歴史なんで。はい。

まあ二つの政党の立候補者の影でお土産を盗みそれを自分の支持者や相手方の支持者に配るということは行われます。

その裏で「ようき楼」に近い政党の息子というか立候補者は不祥事をしてカツGDを持っていかれます。Gの単独行動なんですが、Fはそれをも利用します。関係ないと言い張り、両陣営がGDを探し回ります。ここで関係ないのですがGのことを好きな女がいるのですがこれは裏切られた形ですけどかわいい俳優なんですよ。Dより良いかもしれないなあ。

先にFGDを抑えるところがいい。そしてAが引き取りに来るのですが「Dの不心でご迷惑をかけ」といってGを説得してDを引き受けに向かいます。このことはひとつ示唆に富んでいてこういう相手の気持ちで納得できる理由を考えて説得に向かうということが重要ですし効果があるということを示してます。私も商売上いい勉強になりました。

そしてこのFは不祥事の資料を自分の立候補者ではなく相手方に返します。Fはからす、になってます。どっちでもいいように、そして自分は裏の世界で長く生きていけるように策略してます。そして息子にDなんて田舎娘じゃ、大きくなると邪魔になる(その通りです)と指導すると自分のところに来ないでGが連れて行ったとはいえ夜逃げした女だし、と捨てる気持ちになります。そうなるとライバルのほうも要らない、女の売り方を失った形です。そうしてAのところにきて愛を告白するのですがAは常識を持って良き道を検討します。そうして議員になった息子のところへ引かされるんですがFが策略してそのまま満州の女郎にDを売り飛ばします。このころ満州が建国ラッシュで女郎を売るといい商売になったらしい。これは逆に言うと戦争映画で満州が出てきて女郎がいることでもわかります。それを国内のこんな小さな幸せも知らない女の子を中心に描くとこういう話になるのです。ということで結構好きな映画です。満州にDが売り飛ばされると知ったAはどうにか女郎の仲買人のつてで途中で引き渡してもらいます。「価格破壊」でも出てきましたが商人同士の絆は意外と固いものです。便宜図ってもらえますからね。お客様はお金の関係でしょうが取引はお金では買えないものがあります。連れ戻して、多分、いろいろと犯されひどい目にあったんでしょう、Dの変わった姿を見たAは(高倉健さん並みに殴りこみでしょうか?と思ったんですが本当にそうなります)殴りこんで、警察までぐるなのを暴くのですが殺しはしない。これ後で致命的になると思うんですがね。

ここで都合よくGは出所して、Fのお金をすべて持ってDのところにいきます。当然Fの追っ手は来るわけで(まったくGはトリックスターですよ、出てくると話がこんがらがるような存在)、ここでGの一世一代の大勝負になるんでしょう。Aの残ります。しかしそれを観てDも逃げるのやめるんですよ。観ていていらいらします。何のために戦ってんだよ、と。しかしGに刺さりそうな刀を手で止めてしまうのです。Dの手は当然切れて落ちてしまう。そのまま逃げても最後にFが追いかけてきます。(いままでの追っ手はどうしたんだよ、とも思えるんですが)Fの撃つ拳銃にあたってAの息子は危篤に。当然、逃げるよりとめて勝負したほうがいいです。刺し違えるんですが、Aは一応生きてます。後はごたごた話しが続くんですがどうでもいいでしょう。

しかしこの話の中でも、ことあるごとに、ここには住めない、大阪、東京に逃げようという話が出るんです。ここなんですよ、田舎で生活するには「筋」の通った生活しかできないのです。都会はいろいろな人がいるから、ごまかしが利くけど。田舎の風景というのはそのような節度はあると思います。そういう景色が出てくる映画が好きですね。いまでも田舎で変な事件が起こると、変な人間が入り込める場所かどうか確認するくらい、日本の田舎は生活は(慣習的にも)硬いと思います。役者が悪いとか、あまり有名な人が出ていないとかあるかもしれませんが、みんないい演技でいい映画でした。こういうのいいなあ。

ロケで近江八幡とあったんですが、なるほどわかる気がしました。

 

「鬼一法眼(きいちほうがん)」勝新太郎ほか監督 1973年

テレビのドラマですが、今は差別用語が出てくるので放映が難しいみたいです。長いので少しずつ書いていきます。今回は1,2話。

まず主人公の名前がドラマの題名ですが、彼は異人(オランダ人でしょう)に長崎で江戸時代に、両親を殺され、いいなずけは辱めにあい、自分はのどを切られて言葉がしゃべれなくなったという背景があります。その異人に仕返しをするためにも諸国を放浪するという話。

第一話はその辺と、「卍」という男との初対面などが描かれていて、とりあえず基本を抑えている話です。まあ主人公の職業は賞金稼ぎ。卍も悪党なんですが憎めない奴で勝新太郎自身が演じてます。この二人が強いの何の、格好良いし、殺陣もすごく迫力あります。結局リアリズムではないのです、かっこよければいい。魅せるものには欠かすことの出来ない要素が詰まってますね。

第二話

これは卍と主人公のかけあいが見事。異人を退治するのですが、話が実にいい。奉行と異人が密貿易で儲けているのを抜け出したい下っ端がいて、殺されるときに主人公に子供を預けていってしまいます。ここで縁が出来て最後まで付き合うのですが、途中、卍がもしかしてそんなに悪いやつではないかも、と知るのです。この話は見ておくべき内容がかなりあると思います。

あとで出てくるのですが、馬は第一話で手に入れて、拳銃はこの話で手に入れます。

余談ですが、主人公はいつも犬を連れています。当然この犬も優秀。

最後に助けてあげた子供と女を残して、金まで置いて去ってゆく主人公にダンディズムを感じました。

「鬼一法眼(きいちほうがん)」2 勝新太郎ほか監督 1973年

ここでは第三話。

ある農村での話なんですが、なにかいい味出ている映画です。悪い女頭に浜木綿子さん、農村の主に加藤嘉さん、いい味出てます。監督がこの回は三隅研次さん、悪いわけないです。日照り続きの村の悲鳴を水源を抑えている女主のいる寺に殴りこみに行って勧善懲悪をするという話ですが、なかなかどうしていいのです。

村人は農夫ですので保守的で排他的な人間です。それで今まで侍にだまされているので、主人公を信用しません。(荒野の七人、みたいです)しかし主人公の本質を見抜く女の子がひとりいてその女の子が強引なのと、主人公のいいなずけに似ていたのでこの殴り込みが実現するのです。雰囲気まるで、「七人の侍」の物語に似ております。

 

第四話

安田公義監督

賞金の相手が薩摩藩関係。場所は堺。見事にすべての人が一度は敵になります。その中で主人公の人物の大きさを見抜いたものが助かるという筋。主人公は賞金の相手が異人関係というだけで選択したのですが、変な人間関係に巻き込まれます。

この賞金の相手の女には見張りが常についてます。いわゆる、公儀と薩摩の関係に巻き込まれたのです。この女、意外と美人なんです。泉昌子という人みたい。

 

そんなことより、賞金の相手が薩摩の密売の秘密を知っているから薩摩が消すという筋、しかし主人公は密売で異人とつながりがあるこの男を助けてもっと詳しく知りたいということ。そこで薩摩を敵に回します。しかし薩摩をやっつけますが、頼みの男も死んでしまいます。また新たな旅立ちが始まるという仕掛。この回も面白いです。

「鬼一法眼(きいちほうがん)」3 勝新太郎ほか監督 1973年

第五話 若山富三郎監督

主人公自身の監督です。この映画から勝新太郎の主題歌が登場します。しかし内容はさすがに監督が俳優だけあってどこかまとまりがないもの。

下田奉行所に、尊皇攘夷を歌うカルト集団が立ちはだかり、人質をとってはどんどん殺していきます。そしてどうしようもなくなったときに主人公。まあ傷つきながらも成功しますがそれでも途中10人くらいの子供がどんどん殺されていきます。差別用語といい、この殺しといいやはり今では放送できないタイプのものでしょう。映画自体は今までで最低の出来です。

第六話 大洲斉監督

浜木綿子さん再登場です。あれで足を洗って堅気になろうと田舎に帰ってきたら、妹が偉人屋敷に売られるところだったという展開。あの時よく農民に殺されなかったと思います。

さらに信州のある藩の重大事を主人公は聞きます。その件とこの妹が連れ去られる件が同じ異人の仕業と聞いて主人公も動きます。

まあいつものパターン、すべてやっつけて、妹を助け出して姉の元に返して、また一人ゴンザレスを探して旅に出る。

前の作品よりはまともですが、さすがにこの辺でマンネリ化し始めました。もっとドラマテッィクな展開がほしい。いつも同じことの繰り返しになってきています。

1,2,3、作品目くらいまでは良かったんですが。

 

「鬼一法眼(きいちほうがん)」4 勝新太郎ほか監督 1973年

第七話 森一生監督

佐渡の手前出雲崎あたりが舞台ですが、まあ金山の金が絡んでくるだけで

これもあまり異人とは関係ないので、普通のドラマでしょう。金山の親分の娘と出会い

助けてやるが、主人公が死んだと思って自害してしまった。その弔いをしながらやるせなさを感じる主人公という感じか。なんかマンネリ化してます。

 

第八話 黒田義之監督

追われる女剣士たち、その逃げ場に主人公がいる。そこに追っ手、わらの中に隠して、自分でその女をはずしていないことを証明すると追っ手も去っていく。久しぶりに爽快なスタートです。

そして絶体絶命になるし、隠密を敵に回して裏切られっぱなしです。久々に面白い展開。

しかし異人は出てきません。この辺は「水戸黄門」的な映画としてみるしかないでしょう。その面ではドラマ的に面白いのが救い。それとミステリー仕立てで最後まで私もだまされましたし主人公さえもだまされました。ドラマ的にはかなり面白いです。

「鬼一法眼(きいちほうがん)」5 勝新太郎ほか監督 1973年

第九話 三隅研次監督

いやあ、この映画もマンネリ化の一本です。なんのとりえもないどうでもいい感じの話。

問題は異人の子供が純な気持ちを持っていた、人間はみな同じだということを主人公もこの中で出てくるものも皆知ることになるという点です。この監督にしては切れはない、挿話ですね。本当に中途半端です。

単にドラマとしてみてもいまいち。

 

第十話 斉藤武市監督

この辺になると「水戸黄門」パターンが出来てきます。ただこちらの主人公は賞金稼ぎと復讐が目的。状況は同じような、言いようのない弱いものをたまたま賞金稼ぎにかこつけて助けるという流れです。今回はお金を受け取りながら、悪人を裏切り正義に加担するという一見正しいようで、裏切るという行為をしている映画です。

とにかく、自分の目的まで勧善懲悪の旅路は続くのでしょう。

 

「鬼一法眼(きいちほうがん)」6 勝新太郎ほか監督 1973年

第十一話 黒田義之監督

この映画はとりあえず、このシリーズの中締め的な作品です。舞台は横浜。異人もたくさんいます。その中で尊皇攘夷の運動に巻き込まれて、異人の仲間に捕まり拷問を受けます。ここまで弱い主人公を見るのも初めて。しかし卍が助けてくれます。それは権力を使って助けるのです。彼は実は盗人の格好をしておりますが、外国関係の担当の幕府の役人でした。そして長崎奉行の子供だったのです。養子先が神奈川奉行の役人になりそのまま役人として裏の世界を自分の目で確かめるべく盗人稼業を行っていたのです。ということは主人公と実の兄弟ということが卍にはわかりました。俳優としても実の兄弟ですしね。主人公は外国に渡りたいというのですが、卍は立場上鎖国政策をしているので何も言うことは出来ません。卍としてある仲介者を紹介するのです。

作品としてどうのこうのというより、やっとシリーズにメリハリと展望が開けた作品でした。良かったです。

 

第十二話 斉藤武市監督

舞台は泉州の堺。

ここで公金横領事件が起き、犯人が主人公の幼馴染でした。その幼馴染も賞金がかかっているので切り、過去を捨て「修羅の道を行く」とつぶやく主人公。前回あたりから流れがまた良くなってきました。とにかく卍が出てくるというのはいいですねえ。

最後に紹介された、商人のところに行くとスペインまでの渡航料は1000両といわれます。それに応じて1000両を差し出す主人公。値引きなんてしません。次回から楽しみになりました。

 

「鬼一法眼(きいちほうがん)」7 勝新太郎ほか監督 1973年

第十三話 山下耕作監督

切り札が登場します。あの異人に犯された元許嫁が主人公を探して和尚と旅をしているのです。前にも旅の途中で会っているのですが、そのとき女のほうはわかったみたいなんですが、主人公は知らない振りをしたのか、そのままになっていたのです。

そしてこの回で初めて、事件の後の二人の話が登場するのです。さらに、和尚と身を寄せているうちの娘が異人に無理やり結婚させられると聞いて自分が身代わりになっていくのです。ここで主人公との別れを決心したのですよ。

しかし因果な流れで二人は再会します。それを振り切りまた旅を始める主人公。

なにかここまでの総括的な物語でした。

当然この監督ですので、ダンディズムたっぷり。

 

第十四話 三隅研次監督

いい監督が続きますね。

そして舞台は横浜。また卍が出てきますね。さらに昔助けた娘が再登場してきます。だんだん話が収斂してきますね。

この娘が旅芸人一座にいるのですがそこの道化が今度の悪人です。しかし道化で身をごまかして、口が利けない振りをして善人ぶりをしてうまくごまかしてきたのですが、主人公の目はごまかされなかった。さらに善人というのがあだで、一座の身代わりに犠牲になってくれといわれるのです。うまく逃げてきた犯人からするととんでもないことで、これでは意味がありません。

しかし実はこの一座自体が麻薬の密売の隠れ蓑になっていたのです。そして役人がバックについていた。そうなると取り締まるものがいないのですが、場所は横浜。奉行に卍がいます。卍はすべて解決、犯人もたいした罪はないので娘と一緒に賞金稼ぎを忘れて巡業できるよう自由の身にしてあげます。なんと後味の良い終わり方。

続けていい感じのドラマが続きました。この回は後半への布石にもなるような内容でした。

 

「鬼一法眼(きいちほうがん)」8 勝新太郎ほか監督 1973年

第十五話 小林正雄監督

ちょっと間があきました。ちょうど一週間待ったという感じでしょうか?

そしてドラマもパワーアップしました。もう漫画みたいで面白いです。丹波の国の山鹿(多分この字)の殿暗殺のため老中から賞金稼ぎ8名が雇われ、主人公もその一人です。しかしこの殿様評判がいいのです。そして賞金稼ぎも疑問に思うし、殿様も大江山に逃げます。酒天童子がいるからです。笑い

その通り一人ずつ賞金稼ぎが殺されていきます。見えない敵に対する恐怖が、強いはずの賞金稼ぎの中に充満してきます。

挙句の果て主人公まで罠に嵌ります。これは悪い戦なんで、どうしようもない。しかし賞金がどうしてもほしい主人公です。しかし山の者は強い。それを前に助けた女の子が介抱してくれるのです。

そしてこの女の子の父親が山の者の頭領なのです。その勝負に勝ったが、殿様のところに行くとこの女の子、さらには殿様の潔い覚悟、部下のものの覚悟の前に賞金稼ぎが出来ませんでした。そして山を降りると幕府のものが待ってます。それをぶった切る主人公。

 

これ、どうしたのかと思うくらい、今までと路線が変わり、面白い内容です。多分、主人公の出自に関係のない回、と卍がでてこない回の除くと一番良いのではないでしょうか。

 

「鬼一法眼(きいちほうがん)」9 勝新太郎ほか監督 1973年

第十七話 大州斉監督

この辺はもう西部劇のノリの良さ。卍に紹介された賞金稼ぎの相手は邪宗の宗徒とその頭。

その砦に向かうまでも一波乱あるのですが、行ってからも、その女かしらに誘惑されたり大変です。当然そんな誘いにはのらないですよ。その邪宗の仏様がなにやらどこかの宗教と似ている気がしないでもないのですが気のせいでしょうか。

そしてその行動は革命と同じです。反逆というべきか。まさにこの時代の全共闘の影響でしょうか?対象は幕府というのだから卍が伝えたのもわかります。

しかしその団結はいい加減なもので反社会的な人間が集まっただけです。中には代官もいたのですが、結局主人公に壊滅させられてしまい、主人公はまた新たな異人への復讐の旅に出るのです。この辺のシリーズはちょっと突拍子もない、娯楽に傾聴したテイストのあるものでもう一歩進めば映画としても十分通用すると思います。

第十八話 三隅研次監督

ここで主人公は長年連れ添った馬を売ります。そして賞金を求めて悪党を追っていくと逆に先に殺されていました。そこは百姓の村です。ここで正体不明のものに襲われてかなりの恐怖を感じます。山の者もそうですが地理に精通しているものは強い。野党の襲撃に備えて村を守っていたのです。それで野党の一味と間違えられて捕まった。ここで狙いは野党のかしらに変わります。しかしこのかしらの妹が村にいて、当然村人から村八分にされております。このことから主人公と行動を共にするのです。

しかし村のほうからの依頼にこたえてかしらと野党一味殺しを請け負うのですが、村の人が総がかりで手伝ってくれます。この辺は「荒野の七人」みたいです。そして罠を作って追い込み、広場に誘導するとそこにいるのは主人公。この辺のカットはうまいです。短い時間なのにまとめる力量は素晴らしい。わかりやすくまとめ上げてますね。

しかし隠し財産はなかったのです。しかし野党の馬をもらい、その馬とはじめに売った馬を交換してまた旅に出る。

村を出るときはシェーンみたいです。まあ西部劇の影響の強い映画でしょう。しかしかなり良い物語です。

 

「鬼一法眼(きいちほうがん)」10 勝新太郎ほか監督 1973年

第十九話 若山富三郎監督 

主人公自身の監督ですね。内容はちょっと要領の悪い男が出てくるのですが最後まで正直に生きた様子がなにか主人公も私も感動的でした。

しかしさすがに役者だけのことはあり、監督としての力量は若干編集などに冴えがないという感じはします。

結局、賞金稼ぎを死んでいく侍の手柄にして自分は取り分なしで終わるのです。ですから話としては本筋からは関係ない亜流の話です。しかし、その真摯な態度を見せる貧乏侍には心を打たれました。

 

第二十話 大洲斎監督

なにか終盤へのつなぎの意味合いが少しずつ出てきました。医学を志しスペインに渡ろうとした男の後を追ってきた女と遭遇します。この人はスペイン語も勉強していて、主人公に大いに興味を抱かせます。そして哀れな境遇から先にスペインに密航をさせてあげようとするのです。

しかし事態は深刻な方向に。追っていこうとした恋人は密航の前に殺されていたのです。そして何も目標がなくなった女はまた自分の家に帰ることとなる。

この辺からスペインとスペイン語もちらつかせてかなり主人公が本当にスペインに行くのだろうか?と思わせる展開になります。

「鬼一法眼(きいちほうがん)」11 勝新太郎ほか監督 1973年

第二十一話 黒田義之監督

今回の主人公は賞金稼ぎというより、弱者の願いを達成させることでお礼をもらうという形。ちょっと仕置人的な感じです。

しかし請求する金額は半端じゃないので、すごい割りきりが必要でしょう。またこれだけ請求できるからにはどんな状況でも達成する(助ける)自信がなければ出来ません。

そして今回は本当に好きあったもの同士が一緒になれないで、ほかの人と結婚したとき、その旦那はどんな仕打ちをするのか、また好きという感情はどうしようもないものなのか、を主人公に問いかけます。もちろん、そんなことで微動だにしない素振りはしますが、また主人公の心のひだが深くなったことでしょう。

 

第二十二話 小林正雄監督

この回は弟子に剣の道を教えるという特殊パターンです。偶然、賞金稼ぎをするところを見られ、自分は仇を討ちたいから剣の道を教えてくれという若者。あまりに真剣なので刀も買ってやります。この時の刀屋に「八幡大菩薩」を祀ってあるのです。この八幡大神は刀鍛冶とおおきなつながりがあるといわれてますね。このとき一番いい刀を買ってあげるのですが、はじめから良い物を使えということみたいです。

しかし上達するにつけて人間も試し切りするようになるし、仇の正体を明らかにします。それは主人公でした。主人公に殺された賞金首のせがれだったのです。また生き地獄を経験する主人公でした。

だんだん精神的につらい場面が多くなってきております。最後に救いはあるのでしょうか?

 

前回の木村功さん、今回の加藤武さんといい、 良い演技も続いてますし、内容もいいです。主人公が人生のむなしさばかり見るという展開でしょうか。

 

「鬼一法眼(きいちほうがん)」11 勝新太郎ほか監督 1973年

第二十三話 安田公義監督

よくあるパターンですが、商人がだまされて没落して、その娘が仇を討とうと志しているところに主人公との出会いがあります。それを止めて、主人公自身がその裏幕を調べます。すると、何人も悪い奴らが出てくるのですが、大元の一番汚いやつを突き止めます。そして代わりに仕返し。というか、最後に仇討ちの相手の前で拳銃を構えて仇討ちをさせます。

うーん、ここに来てもまだ、自分の仇討ちはどうなるのか見えてこない、本流から離れた話でした。

 

「キル・ビルvol1」クェンティン・タランティーノ監督 2003年

この監督は実は嫌いです。つまらない。それでもやはりこの映画の登場人物には興味があり、観ることにしました。

しかし結果は自分のつぼにはまりました、というしか表現がないほど面白かった。元ネタの映画がわかると面白いらしいのですが、「恨み節」とかが映画で流れるだけで十分違和感がありました。

 

しかしここまで日本を写されると、海外でこんな映画観る人いるのかね?と思ってしまう。そのくらい、わざとらしい、日本とマカロニウェスタンの影響の下にあります。でも製作現場の監督を見ているとかなり楽しそうなんで、こちらも楽しく受け入れるべきだよね、と思ったらめちゃくちゃ楽しめました。しかし、観るまで実は気がつきませんでしたが、続編があり、話が続いているのでそこまで観ないとなんともいえないでしょう。

「キス・オブ・ザ・ドラゴン」クリス・ナオン監督 2001年

アクション映画は一度はまると抜けられません。この映画は最高にいいですよ。リュック・ベッソンの名前が大きく取り上げられますが監督は違います。

娼婦街の中のえびせんべい屋が中国のスパイ(ここでの主人公をAとします)の隠れ蓑になってます。これよくあるんですが、急に町が変化して周りが風俗になってしまうということは町の変化の一形態でもあるんです。

また捜査協力をするフランスの警察の刑事(Bとします)がめちゃくちゃなやつで「L.Aコンフィデンシャル」の所長みたいなやつです。はじめからAは罠にはまりますが、Bは冒頭から先日の「スカーフェイス」のラストシーンのような切れかたをします。時代が違うんですよ。10数年であの暴力描写が当たり前になっているんです。

ホテルでのシーンの冷静さ、なんでも武器にする応用力、見ていて飽きない。

Aに逃げられたBは中国政府に対してAの乱心で事件がおきたと偽りの報告をします。

そして、Bは娼婦を手なずけており、娼婦の子供をえさに犯罪に巻き込みます。しかし、今回は失敗してしまいました。Aが強かったからです。それで無理やりやめた麻薬(コカインとヘロインってどう違うのでしょうね、実は知らなかったりして)を注射されて裏切らないようにします。(ここでいつも思うんですが、鼻から白い粉を吸うしぐさがあると思いますが、今の映画では当たり前に出てきますが、これはそれほど昔ではないと思います、それこそスカーフェイスあたりがその走りかと。)そして傷ついた娼婦を娼婦街の隠れアジトからAが見てやさしくしてあげるのです。そのうちに恋が芽生えるのですけどね。出会いってこんなものかもしれない。

この娼婦は証人になることもわかりました。しかし娼婦は娘を助けてくれなければ安心して証人にはなれません。Aは頼もしい強い男です。すべてを解決して負傷しながらもBを殺して(この殺し方がこの映画の題名)娼婦の元に子供をつれてくるのです。映画はここで終わるけれど、一緒になるでしょうかねえ。難しいところです。

しかしBを殺すとき、急所を避ける自信があるなら撃たれても攻め込んで相手の急所を捉えれば勝ちますね。強い男です。観ていて気分がすっきりしました。

 

「ギャング・オブ・ニューヨーク」 マーティン・スコセッシ監督 2002年

聖ミカエルが悪魔を天国から追い払った、という子供への教育から始まります。今度は悪魔関係が続くんでしょうか。

移民対ネイティブの戦い、といってもネイティブの皆様方も昔は移民なんですけど。この戦いぶりは「サルートオブザジャガー」並みに面白いです。アイリッシュカトリック対WASPみたいな構図です。まるっきりケネディ大統領暗殺の構図です。1846年のNYです。嘘だろう、という気持ちでいっぱいです。この数年後ペリーは日本に来ているんです。こんな国内状況だったんですかね。それから16年、南北戦争のとき?のNY.

ペリーの外交とはなんだったんでしょうか?ちょっと勉強しなおさなければなりません。

しかしアイルランド移民の話はアイルランドに行くとよくわかります。ジャガイモしか取れないのに不作だったんですよ。数十万単位で移民してました。

とにかく冒頭の争いで負けたアイルランド系の司祭の子供が監獄から出てくるのです。

そして昔の町に戻ってみると、荒れていて、いろいろな派閥ができています。しかし基本的には荒くれものたちですね。そしてあるボスの元に入り込みます。この司祭の子供(青年になったけど、をAとします)。この親分は肉屋でその派生でナイフを使うのがうまくなってボスになっているだけのチンピラあがりです。スリの女(Bとします)がいるのですがこの女はとりあえず一匹狼ですが、ボスの褒美をもらったものからは確実にスリます。そしてAと知り合いになり、ダンスパーティーで相手を選ぶときにAを指名します。しかしBが娼婦をかねているのでAは避けます。まあ仕事というか生きていければいいのでしょう。その間にもアイルランド人の移住は続きますが、賃金は黒人よりも下(ここは注目)でも仕事をします。そしてソサエティを作っていったんでしょう。カトリックで司祭を中心にまとまりますから。情報網もできやすいですよね。そしてAはこの司祭の子供だったんですが、ボスはアイルランド人を非難するほう。なぜなら司祭はバチカンの言うとおりで自由の国アメリカにはふさわしくないという趣旨です。このボスの父親が自由を勝ち取るために英国群と戦って戦死しているからです。そんな反対ばかりしているとアイルランド系から狙われて狙撃されます。それを最小の傷に食い止めたのがA.

まあ下層階級のほうのアイルランドと黒人の音楽と踊りを足すとタップダンスみたいになりますけど、これがアメリカのオリジナルとはよく言ったものです。アメリカで出会ったのですからその通りです。この飲み屋の中の女の一人がBでキャメロンディアスなんですがまったく目立たない感じです。いいのか悪いのかわかりませんが、アメリカが混沌としていた様子はこの酒場のシーンなどでよくわかります。酒場と港のシーンかな。

ボスはあに司祭との戦いのあらましを説明して記憶に値する相手はこの司祭だけだったといいます。Aはその息子なんですが。

当然Aはボスの命を狙うために潜入しているわけです。しかしそのことをいち早くボスに忠告する男がいました。それまでは命を助けてもらったことでAを信頼していたんですが、隙を見せなくなります。そして政治をかねた見世物ショーの始まり。この映画の最高の見せ場です。こういうの大好き。

Aの狙撃は当然失敗します。そして切り刻まれる状況に。そのときの観客の盛り上がり方は人間の野蛮な欲望を表現していていいですよ。この映画はこのシーンだけで愛すべき映画なんですが。しかし切り刻まないで。町を歩けないように顔にパテでやけどを負わせ、多分片目を失明させます。たぶん映画だからでしょうがこのような状況でつける傷とすると小さいものです。もっとエレファントマンみたいになると面白いのですが。

そのあとアイルランド系で組織してギャング団を作っていきます。最終的には選挙に勝ちたい。アイルランド系の議員を出したいということです。まるで「寒椿」と同じなんです。まああれは昭和初期の議院内閣制が開かれたときで、これはアメリカの公民権(当然、黒人には選挙権がない)の初期なんでしょう。というか移民の影響を馬鹿にできない時代です。

Aもまたボスのやり方を真似て、恐怖の暴力を行います。それは悪いやつらや自分たちの主義にあわないやつらを殺して死体を大衆の見せしめに大きく掲げるのです。そしてお互いがにらみ合うことになります。ではなぜ、ボスは生かしたのでしょう。戦うにふさわしい相手だからでしょうか?ここはよくわからない。多分、自分がAの父親に助けられたからでしょう。そのときのAの素性をボスに教えたやつはその後Aに誤りに行っても相手にされないですし(本当は死が妥当)ボスのところに戻っても、伸してきたアイルランド系への見せしめに瀕死の状態で掲げられます。そして「信仰」の名の元に力を結集させようとします。同じ英語圏でカトリックなのはアイルランドだけです。そしてアメリカの公用語は英語です。フランス語はカナダです。スペイン語はメキシコですし(これも問題はあるんですが)この同じ英語圏であるということが争いの激化の元なんです。

さて、選挙。WASPとほかの団体と対決です。選挙自体は金持ち層と貧乏人層に二分するんですが、主人公には父親の復讐という使命があります。そして相手もそれを待っているのです。いわゆる西部劇そのもの。

そして当日は朝から不満分子が荒れに荒れて暴徒と化します。そして主人公たちはその合間に対決へ。戦いには勝つのですが、途中で暴徒を鎮圧するための政府の軍隊が市民を無差別に殺していくのを見ます。実は敵はもっと大きいものだったのです。復讐というのは実は街での小競り合いに過ぎないものでした。それを現実に知らされながら戦い合うのも滑稽なんですが、復讐ですから仕方ない。受けてたつ方も逃げません。というより殺される感じさえします。

それはNYがまだ整備されていないときの話です。それから中心都市になっていったのです。すごく面白いいい映画ですよ。

でもなぜか黒人の描写はあってもユダヤ人の描写はなかったですね。

 

「クィーン、ライブAT WEMBLEY」1986年

この年のライブです。当然フレディー・マーキュリーも参加しているのです。

観客は思ったより男が多くて、ステージから見る迫力は半端じゃありません。さらにクィーンのライブなんか聴いたこともないので、そのうまさに脱帽いたします。そしてカリスマ的ボーカルはバンドには必要だなあ、と思いました。そしてこのライブを通して流れるバンドの連携の輪の良さとそのことに起因するショーのまとまりは素晴らしい。どんなバンドもショーも本当はこれくらいでなければならないと思う。しかし現実にはここまでできる人は少ないし、バンドとなるとほとんどないと思う。意外とミュージカルやオペラにはこのくらいできる人はいるのですが、ロックバンドは甘えがあるのかあまりいないと思います。そのくらい演奏をとめることなくすべてを一致させて進行する土台のしっかりしたコンサートです。追記事項ですがいつ見てもセンターライン(フレディーとロジャー)がしっかりしてますね。ブライアンもうまいし。

最近見たライブではローリングストーンズの「ハイドパーク」以来のできです。動き回るということでは及川ミッチーもすごかったですけどね。椎名林檎にいたっては動きがないのと、声が出ていない、そしてバンドが不細工な男が多いという欠点がありました。まあ一番の欠点は人の曲のほうがいい曲だということでしょう。懐メロ路線でしたモン、昨年のコンサート。

コンサートはブライアンのギターソロがギンギンに入った後、ロックンロール。そのあとにアコースティックで静かに歌い上げるフレディー。このときの観客の扱い方がうまい。ここでも観客が画面いっぱいに圧倒してます。これに立ち向かうエネルギーはかなりのものでしょう。このあとバンドの4人がステージの前に集まってコーラスとアコースティックで、プレスリーの好きそうな歌をうたうのですが、この歌の曲名知らない。いい曲です。

そして「ボヘミアンラプソディー」につながるのですがこの曲での会場の一体感はすごい。実際、こういう良いコンサートは経験してみなければわからないです。好きなアーティストがいてたまたまコンサートを観ることができて、そのコンサートの出来が良いというのは幸せですよ。滅多にないことなんです。サザンなんかも曲はいいのですがバンドに体力がない。桑田さんもフレディーを見習ってほしい、そのくらいにかっこいいです。

CRAZY  LITTLE THING CALLED LOVE」(すみません曲名忘れてしまいました)で一段落つくのですが、となるとアンコールはどんな曲かこれからどう盛り上がるかはおのずと見えてきます。

RADIO GA GA」(これも曲名忘れました)がライブでこんなに盛り上がる曲なんて思いませんでしたねえ。この曲に入る前、オールディーズの曲をさわり歌うのですがこれがまたいい導入になるんです。まだまだいい曲が残っているからなあ。アンコールが終わりと見せかけてロジャーテイラーだけ残っているんです。もう曲はわかりますよね。「WE WILL ROCK  YOU」というやつです。これも曲名忘れた。最近ロックなんか聴いていないモンで。そして「キラークィーン(違うかも)」「伝説のチャンピオン」と続きもう興奮してきますよ。ここで気がついたのはこのコンサート観たことありました。

しかし素晴らしいコンサートで素晴らしいバンドだと思います。「他人を興奮させる場」を作るというのは簡単なことではありません。それができるのですからアーティストなんでしょう。実際こんなに素晴らしいバンドは少ないのです。ローリングストーンズ、レッドツェッペリン、ピンクフロイド、ビートルズ、そのくらいではないでしょうかねえ。

 

「グッバイ・モロッコ」ギリーズ・マッキノン監督 1998年

最後に「HIDEOUS KINKY」と子供たちが言うのですがそのシーンはいいですよ。

1973年かな、ロンドンから女の子2人を連れて逃げ出してモロッコのマラケシュに言った女の話です。ご主人はロンドンに置いたまま。

結局「子はかすがい」のパターンです。

子供たちが先に大道芸のピエロと友達になってついでお母さんもというパターンです。旦那は詩人で浮気あり。そして現地の人と恋愛してみたいのでしょう。

とにかく子供が無邪気にはしゃいでいる映画です。そしてこのピエロの故郷に行くと恋人が予期せずにいます。たぶん子供も生まれたばかりなんでしょう。

ですから男は居心地が悪くて、出て行こうとするのです。しかし英国の女は、居場所が見つかった感じでほっとしているのです。そして犯罪者なのです。それで自分のほうから身を引くのです。そのため、一家はマラケシュにまた戻ります。そこで金持ちの英国人に会い拾われる感じでいろいろと諭されるのです。その家でかかっているオペラは「リゴレット」。上の女の子が6歳くらいなんですがもう分別があり、母親よりよく物事を判断しているのです。そのことを英国人のご夫妻に話したら、ロンドンに戻るべきだと、といわれる。シタノ子供は4才くらいかな、どちらかというと遊びたい盛り。この二人の女の子の考え方の相違も面白いですよ。

あとは風景がいい。「シェルタリンスカイ」に負けないくらいにいい景色です。それにジェファーソンスターシップなどをはじめとするこの頃の音楽。「SOMEBODY TO LOVE」とか大好きでした。

しかし上の子供が病気になり帰国するしか方法がなくなります。しかしお金がない。そのときピエロだった男が仕事に使う制服を金に換えて航空券を買ってくれます。しかし当然、逃げなければならない身になったので3人に会えません。しかし最後に例のおまじないをお互いに言うシーンが用意されているのです。なんというか異国のやさしさが感じられる良い映画であるとともに、愛情の深さを感じます。子供たちも一生忘れない出来事だったと思います。

この映画はお勧めですよ。

「暗くなるまでこの恋を」フランシス。トリュフォー監督 1969年

文通で出会い結婚したカップルの話です。はじめから結婚式なのでその後、の話。

場所は高級バニラで有名なレユニオン島(ちなみに私も使ってます)。

しかしどうもこの奥さん隠し事しているんですね。それでこの映画はこの女がどんな人間化について興味を持たせる形で進みます。案の定、銀行口座を妻と共有にしてからすぐにいなくなります。そして同じころ、この女の姉から手紙でなんで妹から返事がないのか、と問い詰められます。こうなるとあの女は偽物とやっとわかる夫。美人には気をつけましょう。ということなんですが映画ではいかにもこの女胡散臭く見えるのです。しかし主人公の夫はまったく信じてしまい、美人なんで有頂天に立ちます。

今度の問題は、とりあえず、文通相手が金持ちとどうして知るようになったか、本物の文通相手の女は殺されたのか?というドラマツルギーになってます。

しかし簡単に女は見つかります。ここは強引な展開。すると殺したけど、その殺された女も同じこと考えていた、というのです。そして共同の犯人の相方の男がお金をすべて持って逃げたという話。

また信じてしまう。そして身の上を聞いているうちによりを戻してしまうのです。ということは、ほかにこの女の捜査を警察と探偵にお願いしてあるので、二人で逃避行をします。まあいつかは事実を話すのでしょうが。

さらに犯人の男はほかにも事件を起こしていて、警察にいるのです。

ここで探偵と逃げている二人の緊張感に焦点が移ります。ここで決定的な事件が。それは探偵と男が出会ってしまい、大体お見通しの探偵は、この女を捕まえるというのです。何となら殺された女の姉も捜査依頼しているため、そちらのほうの正義も追わなければならないとの事。正しい。それゆえ、探偵を殺さざるをえなくなります。この女のために、財産を失い、殺しまでやる男。こうなると結末にしか興味がなくなりますが、それはこの監督の勝利でしょう。

最後までお金に固執して夫を殺そうとする妻に対して、殺してくれと、でもお前が好きだといってくる夫。ここでこの馬鹿妻もはじめて愛を知るというお話です。夫の立場からすると高い恋愛のようですが、なくなったお金はすべて遺産だったわけで、愛を勝ち取るほうが大きいのです。

懐かしいし、やはりいい映画ですね。

「県警対組織暴力(けんけいたいそしきぼうりょく)」深作欣二監督 昭和50年

昭和38年倉島市とあるんですが、冒頭に事実を下のフィクションとあるので、倉敷市でしょう。なぜか「バージンブルース」についですぐですね。何か不思議な縁だなあ。

警官がチンピラを捕まえたら殴りこみの前ということで、殴りこみに行かせる。そのほうが処分が早いという論理です。しかし無銭飲食だけは許さない、というところはいいですね。うちでさえ一度やられてます。携帯がいけない。携帯で電話出ている振りして出て行かれてしまった。

とりあえずこの映画おかしい。どうおかしいのか?それは警察と暴力団が仲良すぎる。たまに喧嘩するけど、警察に暴力団が出入り自由というのはどうみてもおかしい。常に警察にたてつくシーンがあります。それは警察官が金銭的便宜を受けているの知っているからです。あと刑事部長が以前、暴力団の抗争を報告しなかったのでそのことがばれるといけないので現場主義で刑事と暴力団が話をつけてます。だからやりとりがギクシャクしておかしささえあります。このおかしさは面白さですけど、これ事実に近いんでしょうかね?

地元系の暴力団が警察に、大阪から流れてきた外様が大きな態度で市会議員も寝返ってこいつらの仲間になっているので調べてほしいと依頼するのです。すると警察は外様のところに行って一人捕まえて、一切面会謝絶、暴力団から何の差し入れもないというウソの状況を作り、孤独に追い込み、自分の組織に疑心を持たせすべてを白状させるんです。それを捜査に使うのでなく、地元の暴力団に持っていくのです。それは競売物件の落札を無効にするべく、警察が新興の暴力団のほうを検挙して、入札無効にして競売無効の申し立てを競売物件所有者にさせて、その仲介を地元暴力団が買って出るというわけです。これじゃ、地元びいきの警察です。しかしねえ、男と男の情というのはひしひしとにじみ出ているんです。新興の連中はそれがないのです。現代的といえば現代的。しかし警察のほうが浪花節なんでそれが胡散臭くてたまらないし、地元のやつに花を持たせたいのです。

この警察と暴力団の関係は男の友情と賭けです。ある一介の刑事があるチンピラに花を持たせて大きくさせるという気持ちで殺人(敵対暴力団組長殺人)を見逃してやり、男もそれに応えて組を大きくするというものです。ですから刑事も積極的に新興の敵対する暴力団の探りを入れるわけです。ですから警察みんなが悪いのではなく、一介の刑事の話なんですよ。それもあくも方便というところもあるのです。悪はなくならないとしたらその悪は掌握できたほうがいいという考えもできるわけです。さてとこの二つが火花散るときがきました。警察がチンピラを護送していたときにダンプ(新興やくざのチンピラ運転)が突っ込んできて衝突しそうになりました。このがわざとかどうかは定かではありません。どうでもいいことです。しかし警察に反抗していたとき護送されていたチンピラが手助けをして殺してしまうのです。まあ新興やくざにはいいきっかけができました。殴りこみです。会えば殴り合い、殺し合い、一般市民にも影響が出ます。そこで県警が乗り込んできます。その長は理想主義者で倉敷の警察署とはまったく違います。就任演説が法に忠実たれ、組織に忠実たれ、暴力団との私的交際は絶てですから。そして見逃したやくざのことを聞いてきます。そんな時に組長が出所してきます。しかし完全に骨抜きになり、おかまのダチを連れてくるし、毎日、読経を一時間は欠かせない人間になっています。そんなときに県警の刑事部長が組に来ます。根掘り葉掘り聞きに来たのでしょう。この組長から落とします。組長に部下が裏切り行為をしていると吹聴するのです。そして今度の刑事部長は警察と暴力団の癒着を暴くためでもあるのですから昔ながらの暴力団のほうに厳しい制裁を加えていきます。組長が組を解散します。そして組員は新興の暴力団の組長に進退を預けるべきとまでいうのです。ここまでいくと今度は警察は新興暴力団とグルと思いますね。そんなことしそうもない刑事部長ですけど。

しかし癒着刑事は捜査からはずされるしやくざは最後の抵抗に出ます。その前に逮捕状が出ているので散り際を飾るのです。篭城して街中でもぼんぼん、発砲します。この篭城をとく説得役にあの捜査からはずされた刑事が選ばれます。そして警察に暴力団の幹部を引き渡すから、刑を10年以下にしろ、新興暴力団の解散、これからも自分流儀の操作の継続を認めることを条件で出します。もし飲めないなら、今までの不正の事実すべてをマスコミに公表する、かつ暴力団の幹部をこのまま篭城作戦に戻れるようにするというカードも用意します。まあ刑事も人生を賭けました。

しかし最後に目をかけたやくざはこの条件でも裏切ります。それを見てすぐさま撃ち殺したのは癒着刑事。

そのあと、まじめな刑事部長は新興暴力団が絡んだ用地買収の跡にできた石油会社で役職もちで転職、ほかの癒着刑事や元の警察署の刑事たちは閑職や左遷。そして例の癒着刑事は多分、敵を討つというチンピラの手にかかって死んでいくのです。

最後が寂しいですが、意外と作りこみが良い面白い映画です。

 

「ケンパーク」ラリー・クラーク監督  2002年

この手の映画は弱いです。アメリカの日常ほど絵にならない景色もないと思うほど、いやな景色です。「アメリカンビューティー」もそうでした。この映画もそうです。さらに現代の嫌な部分も描かれており、モラルハザード、冷蔵庫にビンやかんなどの一人分の飲み物が入ってます。よく映画では出てくるのですが、そんなに冷蔵庫

一人で飲みきるような飲み物を入れておくものでしょうか?

何人かの高校生の生活が、一人一人交互に映し出されるのですが、なにか、自分のことは置いておいて、他人に求めたり、不満ぶつけたりしているだけです。何かを与えているような人物はほとんど出てきません。

性交渉や自慰などのシーンなどが出てきますが、結局はアメリカで生活していることが、世界的に見れば自慰行為なんでしょう。ですから、日常といえばこんなシーンばかりになるのだと思います。このようにこの映画にはドラマツルギーがないのです。最近こういう映画が増えてますよね。あと、やたら裸が出てくるんですが(ぼかしははいってます)これも欲望の国ということでしょう。生存欲求が満たされているから、もうひとつ上の欲求が出てきます。

優等生の女の子が彼氏をベットに縛り付けて愛撫しているのを親に見つかったり、みんな欲望の塊なんです。監督はインタビューで言ってましたが実話に近い親子は監督の友人で2組いるらしい。当然俳優が演技しているんですけど。とにかくこの映画での俳優はかなり、特に男のほうはさらけ出さなければなりません。だから見ていて楽しいという感じでもなければ、何でこんな実話を見せられるのか、という気持ちにさえなるのです。しかし見終わると何か懐かしい連中なんですよ。そういった意味ではこの映画は成功しているかもしれない。上で書いた優等生の女の子の両親は敬虔なキリスト教信者です(どの流派かまではわからないのですけど。この両親の言っていることはよくわかるんです。しかし、優等生の女の子が刺激を求めているというのもなんとなくわかります。時代の変化なんですよ。退化ではないと思います。

まあ、俳優は普通の俳優ではなく、ポルノ系の俳優だと思うんですが、みんな相当きわどいシーンがあります。どうなんだろう。このこととは関係なく、「痛い」映画です。つらい青春と逃げ場のない生活があり、その中で自分たちの世界をつく7って精神的浄化を行っているのです。いつかはみんな別れてしまうのですが。正式にはKEN PARKと英語のまま日本でも上映されました。

 

「河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)」山中貞夫監督 1936年

主人公の名前です。遊び場の主人(坊主)で、賭けに強く気風がいい。人の面倒もよくみるいい男です。イカサマ師に勝った後の豪勢な振る舞いなんか良いですね。こういう気前のいい人減ってしまいました。周りのものに「何でも買っちゃえ」とか「博打で負けただと、金やるよ、とっておけ」なんていえないですよ。うちの店でもたまに「おつり要らないよ」という人いるんですよ。いいねえこういう派手な人、楽しくなっちゃう。

映画はまずは江戸の市井を映し出します。いろいろな商売があるし(蝦蟇の油売り、居合、抜きなどもあるんです)商人の活気があります。しかし商人の元締めがいて寺銭出させるんです。その親分(Bとします)をもちょろまかすいい加減な集金人(C)。この監督の映画を観るたびに思うのですがこの映画のころはちょうど現在と江戸無血開城のど真ん中の時代なんですね。ということは私たちが山中貞夫という監督を思い浮かべるのと同じ感じで山中貞夫も江時代のことを思い浮かべることでしょう。そんな冒頭の町並みです。彼だったらおじいさんくらいから話は聞いていてもおかしくないでスモンね。私はおじいさんとかから大正時代から昭和にかけて聞いていました。特に戦前。これは父親からも聞いているので意外と忘れないで今でも覚えています。

ある武士の小柄が盗まれます。それを闇というか街角オークションで販売するやつがいるのです。また馬鹿な武士がこの入札価格を吊り上げて高い買い物になります。するとこの武士に出会うのですがこの金束をいかがでしょうかというと、買値の3倍で売れます。この辺のいい加減な、商人と武士の関係は面白いですよ。

もうひとつの流れが、弟(D)が遊んでばかりいると姉(F)が心配して弟の常連の場所に毎日のように迎えに行きますがそこの人は知らないというのです。この常連の場所はAの店です。それで毎日来るもんだからAと街中でFは出会うのです。Fは甘酒屋(のりを売りながら酒を出す)をやっていてそこで飲んでいると人の中傷を耳にすると信じて、Aの妻は嫉妬してFに冷たく当たります。弟も冷たくされて行き場所がなく、花魁と心中してしまうのですが。この弟はある武士の小柄も盗んでオークションに出品しているんです。しかし弟だけ生き残って家に帰ってくると姉は暖かく迎えてくれます。そこに花魁の親分(Aがいかさま賭け将棋博打で勝ったときのいかさま師の親分)が乗り込んできて弟はいるかと詮索します。まあ花魁を失うことは、いわば商品を失うことですから大問題です。とくに売れれ筋だったらしい。身請けは300両。Fに作れないなら俺に相談しな、といって帰ります。女郎になれということです。Fは原節子さんなのでこういうこと言われるんですよ。しかしこのDが帰ってきたときのFの態度、そして涙、そこに降り始める雪、有名なシーンです。Dが起きたときには姉はいません。そう身受けに行ったのです、その悲しみの心情に降り注ぐ雪なんですね。そのFが去った後の長屋の風景は単純な風景なんですが感動するものです。

まあ、次の日親分は、300両の金を請求に子分(C)をやるのですがその子分はFによい感情を持っているので、親分にたてつくしFを探します。そのFは河内山の家の近くに身売りしたらしい。

河内山の近所の女衒に買われたF、この女衒は親分ともめます。まさか親分は身売りするとは思わなかったらしい。探すのです。結局高く売れるからほしいのです。「寒椿」もそうでしたが美しく生まれて不幸だと、売春させられますね。美しさというのは顔の微妙な配置なんですけどね。笑い。

しかし河内山はいち早く察知して自分の店にかくまいます。このときの河内山の奥さんの気持ちは複雑でしょう。実際、演技でそのことが出ております。このようにFをめぐって3方の男たちが入り乱れるし、小柄を盗まれた武士も絡みます。

この武士は、やはり、あるところでオークションで同じ小柄を手にしたものから、本物かどうかの確認の意味で現物を出せといわれます。それほど大事なものだったのです。それをFの弟は何気なく盗ったので複雑な絡み方をするのですよ。この小柄が偽物と来るのは実は河内山の大芝居なんです。この藩の殿様や家老をだまして300両奪うつもりなんですね。一世一代の大博打。すぐに江戸から出るつもりなんです。まあ妻が許すわけないですよね。女のためですから。妻のためではないんです。人に任せたつもりということで、Fを連れ出してもらいます。

しかし身内同士言い争いしていても仕方ない、やくざの連中は襲い掛かってきます。まずは妻が犠牲に、死に際にFの居場所を教えるのです。次は河内山の相棒が防波堤になって河内山とFの弟を逃がします。

「人間潮時が肝心、ここいらあたりが俺の潮時だ」と死に向かっていくのです。つぎは河内山、弟は金を持ってFの元へ。この兄弟幸せになると良いですね。

 

「高校大パニック」石井聡互監督 1978年

なにか、スピード感があり、意外と面白かったです。しかし今の時代には通用しない映画でしょう。というのはこの映画はバイオレンスものでしょうが、それでもこの映画の時代には教師に威厳がありました。今は教師が犯罪はするし、生徒は引きこもり、殺人はするという世の中なので、まだほのぼのした動機ですしまじめな生徒の暴走に過ぎません。

内容は進学校で落ちこぼれた生徒が差別に逢い、教師を撃ち殺すところから始まります。この銃は銃砲店で店番の隙を狙って盗んできたものでした。なぜ殺したのか?それは受験の模試で成績を上げられなかった同級生が自殺するところから、受験重視の教育に疑問を持っていたからです。この映画はこのように受験で人間性まで決定するかのような風潮を批判もしているのだと思います。

そのあと警察が来るから、仕方なく校舎の中を逃惑っていたら、何人かが犠牲になっていくのです。

この警察は射撃隊まで出動させ、まるで「明日に向かって撃て」のような状況になります。

そのなかで最後に残った女の子の人質とある程度、意思疎通が出来るのですが、その女の子は射撃隊が間違って殺してしまいます。これで逆に人がいなくなったので警察は一斉に踏み込んで逮捕するという結末になるのですが、警察の不手際がかなり描かれている映画なのであまり上映される機会は少ないような気がします。

しかしある程度テンションは高く、ひきつけられる映画でもあることは事実ですよ。

浅野温子さんが初々しいですねえ。

 

「恋におちたシェイクスピア」ジョン・マッデン監督 1998年

かなり古い映画になってしまうのですね。この映画はもう最高です。こういうのが一番好きなタイプの映画です。・ちなみに同じ監督の「娼婦ベロニカ」も好きですがこの映画は評判悪いみたい。というより、この映画さえも今年あたり大学生になったばかりの人には受けていないらしいです。信じられない。

とにかく、スランプのシェイクスピアが本当の愛を経験して立ち直る、という話です。そして実際の恋愛進行形で出来上がる作品は「ロミオとジュリエット」。出来すぎのようですが一歩間違うとダサい題材をうまく作りきっております。

そして音楽がまたいい。ロマンティックでダイナミックな音楽です。いわゆる現代版の音楽ですよね。途中、舞踏会のシーンで古楽が出てくるのですが「エリザベス」みたいな迫力はありません。

ですから劇中劇は「ロミオとジュリエット」で映画の進行はシェイクスピアの恋愛。アンハザウェイとの後の話です。映画って、意外と製作監督は作りこんでいるので、背景がわかればより面白いというのがあるのですが、この映画もシェイクスピアやエリザベス時代を知っているとより深く理解できます。あと、原作が有名な映画も原作に負けるという意見を良く聞くのですが、原作の時点で良い物は、それを映画化することでひとつの解釈にしかならないという点を忘れてはいけません。小説からのイメージの世界は読者それぞれが違うものなのです。そのひとつの切り口を監督は提示するだけなのです。ですから自分の感じ方と違うということは当然でしょうし、それは違うというケースが出てくると思います。

そしてこの映画はシェイクスピアの存在自体にロマンティック・ダイナミズムを付与しているという点で勝利している映画だと思います。

あまり内容に触れないのですが、これで十分にわかっていただけると思います。とにかく素晴らしい恋愛ドラマですよ。そして「ロミオとジュリエット」の素晴らしさを再認識することでしょう。作り手は作成途中ですごく楽しい思いをしたことでしょう。その雰囲気がそのまま映画に出た作品です。

そういえば、「ゴースト」も役者たちが楽しんでいたという監督のコメントがありましたが、役者も人間、相性はあるでしょうね。

 

「ゴースト、ニューヨークの幻」ジェリー・ザッカー監督 

この映画って忘れていたりしたんですが、ウィーピー(霊媒師)のところに死んだ霊が直接たずねて行くんでしたね。そうしたらこの霊媒師のほうが犯人より胡散臭いことがわかるなんて、この映画はすごくいいです。先日も「ギャラクシー・クエスト」を観たのですが一度で気に入った映画は何回見てもいいですね。

この映画ははじめから今回も面白いのです、映画館で見たときは感動したでしょう。かなり前のことで記憶はあるのですが、感動の大きさは忘れました。

そして銀行の現金引き出しのシーンは秀逸ですね。その後の一言「天国より私は現金が良い」というひと言は笑いますね。あの寄付をする瞬間もいいなあ。

そして、死んだ彼氏は彼女の愛の深さと愛の重要性を知って二人で最後幸せを分かち合って天国へ旅立つのです。

日本は輪廻転生を信じている人が多いので受け入れやすいと思いますが、だめな国もあるんでしょう。しかし本当に良い映画です。こんな後味の良い映画も少ないし、主演の二人はこういう映画を役者のキャリアで持っていると幸せでしょう。

「極道記者(ごくどうきしゃ)」望月六郎監督 1993年

題名がいい加減ですね。記者とか弁護士、医者の悪いやつは手に負えない感じ。

しかし頭いいというか、世渡りがうまい。こちらの世界に精通していない私とすると見ていてこの監督、脚本家よく知っているな、と思うのです。

博打打ちなのでドライな部分もあるのですが、その中でウェットな部分がこの映画をなぜか忘れがたいものにしております。

こんな映画で、飽きずに観られるのか?そう思ってみはじめましたが、なんのその、一気に観てしまうパワーがありました。音楽もいいし、出てくるキャラクターがなんとなくいいです。この監督は「皆月」の監督ですがあの映画でも最後にかけて弟がやさしい笑顔を見せる、そんな瞬間を語りたい、そういうやさしさを持った監督のような気がします。

どちらの映画も設定は決してほめられたものではありませんし、ちょっと過激な面もあるのですが、兄弟や姉妹、友情などの微妙なバランスをうまく描いているような気がしてならないのです。しかし最後には人間は孤独ということを強調しながら、助け合っているよね、という部分も小出しにしてそこに妙に魅力を感じる作り方をすると思いますよ。

多分ともに低予算ですが、丁寧な映画の作り方をする監督だと思いました。決してテレビドラマには見えない映画独特の雰囲気にこだわるというか、映画を作れる監督です。ともにちょっと古めの作品になりましたが、今も活躍しているのでしょうか。もし近作を観る機会があったら観てみたい監督です。この映画も人には薦めにくい映画ですが、なにか観ていて感じるものはありました。「酒と女と博打」こんな世界でも生き抜くたくましさと不器用さを感じたのかもしれません。

 

「ことの終わり」二−ル・ジョーダン監督 1999年

この映画はいい映画です。世間での評価は高くはありませんが、私は好きな映画です。

不倫の映画なんですが、不倫したもの同士にもわからない女の気持ちがあったのです。それはそれを思う女自身にもわかりえないものでした。ですから第三の人という書き方になるのです。男は不倫をされたと思い、嫉妬する。しかしこの男も他人の妻と不倫しているのです。しかし自分からの浮気は許さないという勝手な男で、不倫相手に探偵をつけます。すると男が浮上してくる。これが第三の男?違います。しかしそうだとだまされることでしょう。そして第三の男がいると勘違いしたら、すぐに本当の旦那のところに知らせに行きます。まさに汚い男。旦那のほうは観て見ぬ振りをすることにします。では第三の男はどうやってこの妻たる女の気持ちに入り込んだのか?それは男が爆撃を間接的に浴びて、死んだと思った瞬間、どんなことをしてもいいからこの男を生かしてくれと祈ったからです。男も「すごく幸せな瞬間だった」というようなことを言っているのです。では誰に祈ったのか?彼女の中に存在する神に対して祈ったのです。そして命が救われた、そのため、彼女はそれ以降、その祈りの代償を行うのです。それが男をして不倫と間違わせた原因でした。第三の男は神です。では彼女が祈らなければ男が死んでいたのか?それは観客に答えをゆだねます。しかし描写は女が信仰心を持つきっかけとして描いております。「奇跡」が起きたとするのです。

そして女は「愛」と「欲望、快感」の違いを認識するのです。普通は出来ない。しかし状況からしてそれが出来てしまったのです。いわゆる、マリアの誕生です。この祈りの言葉「生き返らせてくれたなら、もう二度と会わない」素晴らしい。そうです、この世の中に一緒に存在することを、死んでしまったときの喪失感を感じることによって得たのです。

ドラマツルギーとしては、このままでは前に進行しないので、探偵が女の日記を持ち出して男に渡し、男も女の心情を知るというつながりを見せます。そして焼けぼっくりに火がつく。さらに旦那の下からブライトンへの逃避行(懐かしい場所です)。ブライトンは懐かしい思い出のある場所で、この映画で本当に昔のことを思い出します。

キングスパレスの中でのバッハの無伴奏チェロソナタ。ここで旦那と出会ってしまいます。あとは3人がどう折り合いをつけるかです。難しいでしょう?ですから女が不治の病だとわかるということにして、最後を二人の男が看取るという手段をとります。まあ愛に囲まれて死んでいくのですが、そこで男はこの夫婦に永遠の愛を、と最後には願うようになります。しかし自分はどうでもいいと。それは神に翻弄されたためでもあるからでしょう。

最後に、この映画を見るたびに思うのですが、主人公の一人の女サラは、ダイアナ元皇太子妃に似ていると思います。

世間がなんと言おうと私はこの映画は大好きです。

 

 

 

 

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