「サルート・オブ・ザ・ジャガー」デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ監督 1989年

この映画は凄くいいです。なんというか魂に響く映画ですね。一部の人間には支持されているのですが、有名ではない作品です。

何が良いのかというと、最後のせりふが最高にいいのです。ジョアン・チェン(A)もすごくいいですよ。なんと言っても使い古されたルトガー・ハウアー(B)も最高にかっこいいです。闘士たちの話なんですが、いつの時代でも結局はいいのです。近未来というだけで、別にローマ帝国でも同じような話はあったと思います。

この闘士たちは賭け勝負をして賞金で渡り歩くのです。その一座が東洋系のAがどうも気になるのです。ここはなぜだか判らないのですが、このゲームは魅力的なゲームなので、好きだからでいいと思います。

そしてBの率いる一座はどう見ても弱い。女もいるし、けが人もいるようなどさ回りの一座です。しかしBは強い。昔の国の代表選手です。今はどさ回り。敵にAが加わります。Aはアジアの代表みたいな役でアジアの強さ、存在感を示しているのです。まあこの時代2200年くらいだったか、このころに国境も何もないと思いますが、人種的な問題はあると思います。Aの強さと闘争心は凄いのですがBにやられてしまいます。そして負け。これが彼女最後の負けです。この映画でジョアン・チェン好きになりましたが、この映画以上の映画はないし、のちにレズビアンと知ったときはちょっとショックが大きかった。映画監督もやってますよね。まあアジアの役者のはしり、みたいな存在でしたから。

強さの階級はあるのです。権力の階級も存在して、この両者は密接な関係です。Bは昔、この密接な関係を壊したから除名されたのです。しかし強さは本物。たぶん俳優は各大陸の象徴なんでしょうがいろいろな人種で一座は構成されております。Aが仲間に入りたくてついて回りますがフォワード役のやつは大怪我はしてますがBは仲間だとまったくAを相手にしません。仲間は見捨てない、これが戦いの基本です。しかし立てなくなったとき、その仲間から外れることになります。そしてAを仕方なく指名。この一座は弱そうですが、実は仲間意識が強く、信頼しあってます。そして何よりBがセレクションしたメンバーなので基本的には強いはず。Aの初戦は先制パンチを食らいますが相手のフォーワードを捕まえて耳を食いちぎり、立てなくしてそのままひとり戦力を減らします。このフォワードだけは手も使えるし、何でもできるのです。というより、手しか使えないのですがその分密着した攻防があります。今思うと「ハンニバル」(これ結構好きです)よりもずっと前に(多分「羊たちの沈黙」よりも前ですよね、この映画)こういうシーンあったんですね。

途中のどさ回りの試合でBは片目を失います。これは致命傷。しかしAは選抜チームと戦いたいという願望をBに打ち明けます。Bは却下するのですがいつしか自分も戦ってみたいと思うようになります。

そして階級と力の象徴のレッドシティに。そこは砂漠の下深く、核などのシェルターだったんでしょう。

挑戦資格があるかどうか、審査されるのですが、今までの戦歴は充分、しかしBが元代表だとばれてしまいます。そして拒否されるどころか、徹底的に抹殺せよ、と指令が代表チームに伝わります。本当に権力の階級のほうは嫌なやつらばかりです。しかし観客は興味がない試合になります。結果がわかっていると思っていたのです。Bたちの負け。大方の予想を覆し粘ります。チームの信頼がBの復讐というところでまとまったのです。Bがつかまりますが(ここで必要以上に痛めるために捕まえさせた)ほかの4人がぎりぎりのところで殺されそうになっても相手を逃さないので、Bのところに殺しに行くメンバーができないのです。そのうちに試合は長引き、観衆も集まってくるし、捨て身の挑戦者に対して惜しみない応援が続きます。最高にかっこいいシーンです。しかしBのところに向うのエースを行かせないようにBの仲間の女は捨て身で怪我などかえりみずに体を張って止めましたが怪我でそうしようもなくなってしまいます。そこでマネージャー役の年寄りが代わって出場するのです。それでなくても弱いチームのメンバーに年寄りが?しかし成り上がる魂と一旗あげようという魂、勝負にかける魂が奇跡を生みます。相手は怪我したら交代してべストの状態で戦うのですから判官びいきに観客がなってもなんらおかしくないですよね。もう興奮のるつぼと化します。Bを凄い。押さえつけてBを殺しに来させようとした抑えた男の兵隊をこの老人の仲間の兵士に逆に抑えてくれと頼みます。完全仕返しですよ。「目には目を」戦いが始まります。老人がひとり抑えていれば、4人対4人ですから老人だなんて関係ないんです。そしてBは相手のエースめがけて戦いに行きます。そして打ちのめす。そうなると3人対4人。3人が相手3人を抑えていればフォワードは一人残ります。ゆっくりとゴールできるわけです。

そしてまだ若い3人が代表にスカウトされます。Bはいずれ死ぬだろうと相手にされません。あの傷ついた女と老人とまた新しいどさ回りのチームを作ります。

 

「三文役者(さんもんやくしゃ)」 新藤兼人監督 2000年

殿山泰司さんの話ですが、まあ映画になるのかな。新藤監督が自分自身を省みるにもいい題材だと思います。先日この監督の娘さんの映画も「LOVEJUICE」も見たばかりですしいい機会だと思います。しかしはじめに後半の人生を付き合う人との結婚の場面ですが

何かうまくいくというのは、自信があるんでしょう。前半の人と別れるときずいぶん簡単です。戸籍入れてなかったので簡単なんですが女の人も未練はあるんでしょうが簡単に許してくれました。年が16歳違うんですがこれも問題なし。そして両親の許可も「河内音頭」歌ってOK.なんか現代の独身比率がうそみたいな映画です。途中、乙羽さんのインタビューが入るのですがそれも意外と事実だということを示していておかしいですよ。

さらに深い愛情で結ばれているし、女の方もここというところでは芝居打っていて面白い人たちです。恋愛というのはこういうものかもしれません。似ているものは引き合いますね。そしてもと妻も強い。すぐさま籍を入れて養子までもらってしまったんです。それに返すあと妻。ではその養子を子供として私が育てます。女は惚れたらおしまいですね。

しかし魅力的な人でしょう。そうでなければあんなに愛されません。本当に愛されてます。

しかし「裸の島」の前に肝硬変で倒れていたんですね。そのエピソードあたりはこの監督自分の作品ですから詳しいでしょう。あのつらそうな顔は本当につらかったんですね。この映画も地味な映画です。しかし「裸の島」で肝硬変が治ったというのは確かこの映画のときに聴いた記憶がありますが、今こうしてみて見ると運の強い人だと思いました。確かこの頃新藤監督はロケ隊が現地で店と張って自炊で映画作っていたんです。そしてこの映画孤島が舞台ですので酒が飲めなかったのが良かったですね。

続く「母」あたりで映画のせりふですが「男と女の性は人間の根源だ」と言い始めたらしい。みんな観ている映画なので思わず懐かしく見てしまううまさがあります。そして竹中と荻野目の二人が息があっていていいですね。吉田さんは独自にいいです。

「鬼婆」のシーンが出てきますが懐かしいですね。いい映画ですよ。そしてこの映画に戻ると側妻が強い。本妻も強い。これは意地の張り合いと男の優しさでしょうね。

次の「悪党」もいい映画です。最後自害するんですが、なんと言うか哀れさとともに可憐な感じが残る秀作です。といっても最後に見たの何年前か覚えておりません。

まあ殿山さんはお金の使い方がきれいというか、女に好かれる使い方かもしれません。今は男はお金を使わないのが一番いいみたいですが。

68歳くらいからなにか哀愁が出てきて、人生ってなんだろうか?という疑問が浮かんできます。確実に次の世代になっているんですが現役なんですね。その寂しさというか現役だから感じる寂しさがこちらまで伝わってきてつらいですね。癌になって余命半年というときに仕事が立て続けに入ってきます。これは監督の中で周知になったのではないでしょうか?

そしていよいよとなったとき本妻は行かないというのです。強い女ですね。人間もこの意地というものがなくなったら終わりのような感じがします。

冒頭の36歳と17歳の結婚の口説き方が何か思い出されて、臨終というときになにか私も身内のような気持ちにさせられる良い映画でした。途中の新藤監督の全盛期の映画も懐かしかったです。恋愛ドラマとしては上質の話だと思います。

「四月物語」 岩井俊二監督 1998年

この時期になるとこの映画とか篠原監督の「はつ恋」などをどうしても見るのですがまずはこの映画行きましょう。

本当に桜の始まりですね。あの景色は意外とどこにでもあるのでしょうが、すごく旅立ちを考えさせられます。桜=転機なんですね。嫁いでいく花嫁もうまい具合にクロスするし、新入生も通るし、どんな学生生活が待っているのでしょう。いまでは不景気から引越し風景は珍しくないのですが、どんな人が来たのだろうと見ている夫婦がいるのが何かほほえましいですよ。たしか、拓銀、山一、日債銀、三洋証券まとめてつぶれたのこの年でなかったでしたっけ?あのころはどうなるんのかと思いました。しかし今のほうがもっと危ないと思います。政策的に銀行をつぶしに行かないのが今の政府の考えみたいですけど、まあつぶれてもおかしくない所いくらでもありますよね。さらにあの金融政策、かなり頭にきております。話がそれてしまいますが、そんな時期だったんですね。本当に映画が好きな人はこのはじめのシーンでこんなこと考えないでしょうね。私はいろいろと考えてしまった方です。

そしてあいさつ回りに向う三軒両隣りを回るのですが、これも今はしないんですよね。よく近所で、引っ越してきた人挨拶がないケースが増えてきて、「あの人挨拶あった?」と近所の人たちで言い合うのが多くなってます。そして挨拶しない人がマナー守らなかったりするんですよね。この映画ははじめの段階で、どんどん私の気持ちを揺さぶります。感情もですが常識、都会生活の孤独というものをすでに語ってくれているように思えて仕方ないのです。またキャンパスの様子が昔とまったく変わっていなくて、特に北海道から出てきた主人公の女の子(A)は息が詰まるような馴れ馴れしさと、どこか距離がある、深い孤独を無意識に感じていたのではないでしょうか。自転車のシーンがすごく開放的に映ります。しかし映画館にはじめての日曜日に行くか?とも思うのですが見ている映画は多分、この監督のオリジナルの時代劇。大学一年生の女の子が時代劇というのもねえ。さらにこの時代劇、めちゃくちゃな内容でまるで「角川映画」です。

あとは映画なのか現実のこのような女の子がいるのかわからなくなるくらいに等身大の生活を映し出します。でもカレー作ったとき隣が女性だからといって「一緒に食べませんか」は普通はないですね。さすが旭川と思ったなあ。その旭川から「武蔵野」へ、先輩を介して進学するのですが、思いは強いだけに、この思い裏切るような形になってほしくないな、と思ってしまいます。何か親心みたいなものを感じてしまう。

そして「雨」がきっかけでいろいろと思い切って話ができましたね。きっかけというのは必用ですね。Aの場合はきっかけというより、必然です。あれだけ努力しているんですからね。後はうまくいくと良いですけど、大学は長いしねえ。

 

あまけに劇中映画がついているのですが、見る気にはなれませんでした。意外と良いところで終わったので、もう少しどうなるか見ていたかったのですが、充分です。こういう終わり方はうまいと思いました、

 

「時代屋の女房」 森崎東監督 1983年

これ観たとき、松竹で「蒲田行進曲」のリバイバルと2本立てだったような記憶があります。それでどうでもいいほうがこちらでした。でもこれってたかだか20年前の映画なんですが、こんな商店街や商店主の付き合いとかなくなりつつありますよね。懐かしい感じがすぐにしましたよ、喫茶店も出てくるんです。マスターが津川さん。大井町のあたりみたいなんですが新幹線が走っているので少し内陸側でしょう。雰囲気ですけど。この辺から川崎にかけて下町なんです。

あと私は夏目雅子のファンでもなんでもないのですが、この映画では結構かわいいと思いました。しかしなんといってもクリーニング屋の親父でしょう。駆け落ちをした時の思い出の切符がひょんなことで見つかってからは昔を思い出して明るく元気になるのです。いい思い出はいくつあってもいいですよね。あとは途中挿入されるイメージの世界の映像がとてつもなく映画的で良いです。この良さには今回はじめて気がつきました。映画全体の良さとも言えるのでしょう、今回この映画が良い映画だと初めて気がつきました。このようにある年齢を経てわかる映画というのもあるでしょうし、今観た映画が20年後に観るとまた違って見えるのでしょうし、面白いものですね。これは絶対に買わないタイプの映画なんですが、BOXについていたので仕方なく購入しましたし、20年前も仕方なく観た映画でした。もしかしたらよくやるのですが、ロビーで休憩していたかもしれません。映画との出会いもこう考えると、縁ですね。この映画では当時はまだいったことのない東北のシーンがあるのですが素朴でいいシーンです。いまではかなり飛行機や車で行くようになったのですが当時なぜ行かなかったかというと、目が海外に向いていたのです。時間あれば外国にばかりいってました。ですから途中、ちあきなおみだと思うんですが演歌が入るんですが、こういうつくりの映画は毛嫌いしていたと思います。いまではいい感じだなあ、と思うのですけど。

最後に「あぶさん」がいて歩道橋に姿が見えたとき、良かったねえ、と思ったのでした。

 

そういえば盛岡でおばあちゃんが記憶が曖昧になり主人公の気分を奈落のそこに落とすのですが、この記憶違い本当にあるみたいです。ちょうどおととい、介護の面接を受けたのですが、家族の状態ということで私も立ち会いました。そこで「本日の昼ごはん食べた?」という質問があったんです。私が「何食べたかでしょう?」と聞き返すと、食べた事実を覚えているかということらしい、これを忘れてしまう人もいるらしいんです。この記憶違いで主人公は本当に愛している自分に気がつくんですけどね。人間というのは面白いですよね。

 

「自殺サークル」 園 子温監督 2002年

この映画は小説と漫画があります。漫画のほうで興味を覚えました。この漫画自体はネットの中で誰かが評価していたのを興味本位で読んでみたのです。漫画は読むのに時間がかかるんですが、この漫画は1週間くらいで読めた気がします。どうも漫画の絵を何コマか見ると休憩という読み方しかできないので早く読めません。私とすると「富江」に続いて現代ホラーを見るということも今年の傾向です。ちょっと前というより昨年以前はほとんどホラーは見ませんでした。あとSFね、見ないですねえ。しかしこの脚本は映画版は評価低いみたいです。なぜかなあ。漫画は古屋兎丸とか言う人だったと思います。

かなり有名だと思うんですが、女子高校生の集団自殺(これは大迷惑だろうなあ)から始まって(実際見た人は一生忘れない景色でしょう)看護婦が次々と窓から飛び降りるシーンへ脈絡なくつながります。問題はfaxとスポーツバック。このバックの中には人間の皮膚が縫い合わせてありました。

事件の糸口が見える前に次から次に自殺者が増えます。ある高校生なんか、自殺しようなんて冗談の会話から本当に飛び降りてしまいました。そのときみんなでどんな死に方がいい、なんて冗談で言い合っていたのですが、覚せい剤中毒で死んで生きたいとか、乱交が先とか信じられない言葉がぽんぽん出てきます。本当ですかね?

ひとつ、面白いきっかけがあり、ある匿名の子が自殺サークルのサイトを見つけるのです。単に死んだ人の数が記載されるだけなのですが、逆に言うと、記載されたら、近いうちに自殺者が出るということです。漫画では学校の先生が見つけるんですが、ちょっと映画は社会問題として扱っているところがあります。そして犯罪なのです。この主犯者たちといわれる連中が出てくると急にこの映画の質が落ちます。漫画のようにしたほうがよかったのに。そしてあまりに自殺が多すぎます。見ていても自殺者ばかりじゃないか、というあきれた気持ちにもなるくらいに多いのです。そしてついに主人公の刑事の子供まで自殺して、その後かかってきた電話に刑事が出たら、実存についての問いかけがあり、自分自身に実存を認知できないから死んでも良いという論旨のことを子供に言われます。そこにヒントがあるのですが、簡単に実存を他者との関係性において電話の主も説明するのです。これで人間は社会的動物として十分だということに気がつかないのです。そして拳銃で頭ぶち抜き。ここもそうなんですが、他人の脳が割れる瞬間を見たものは一生覚えているんでしょうね。私は親戚以外では葬式のほかに死体は一度も見たことはありません。そこに死体があると知っていてカバーかぶせてある状況はシカゴで一度あります。

とにかく主謀者たちは捕まります。喜んで捕まっていったのです。現代の日本のチャールズマンソンだと言って。

しかしそれで終わりません。アイドルがこの自殺クラブに関係しているみたいなのです。そして自殺はとまりません。そんな時このアイドルグループのコンサートに集合となるのです。場所は「リリィシュシュ」と同じ代々木。ここ撮影しやすいんでしょうかね?

ここの楽屋で本質が見えます。肌を切り裂きそれをつなげることで肌、すなわち自分のものを他者と共有して別の次元でひとつになるのです。肉体を離れるということですね。ですから、肉体はどうでも良くなるという安心感が生まれます。それが安易に自殺できる理由となるのです。

そして刑事の娘の肌もひとつの皮膚のつながりに見つけ、刑事の部下が娘を探してプラットホームで引き止めます。しかしいってしまいますけど。そしてコンサートのほうは「勝手に生きようよ」という言葉で解散ということになります。このアイドル「デザート」というのですが本当にあるんでしょうか?ですから終わり方は永遠に暗い。

音楽はスカーフェイスみたいでいい音楽でした。この映画、私は好きですね。世間の評判は悪いだろうね。若い監督です。今ネット見ましたが評判悪いですね。実存とかの定義があいまいとのこと。あと結末があいまいという指摘が多い。まあそうですね。しかし評価できるレベルだと思いますけど。

「シェルタリングスカイを書いた男ポール・ボウルズの告白」ジェニファー・バイチウォル監督 1998年 カナダ

意外とカナダ映画が多いですね。「月の瞳」もそうですし「翼をください」とかも確かそうだと思います。うん、みんなレズの映画ですね。この映画は冒頭から小説の中の性器切断の場面の引用から入って「私の小説はサディスティックな描写が多い」と告白。そのあと肉屋の調理場、床全面に血が流れてます。そしてヤギの頭、それをきれいに切りそぎます。あの嫌な映画「カルネ」(ギャスパー・ノエ監督)を思い出しますね。「アレックス」の時に一緒に観てしまいました。これは私も暴力だと思いましたよ、「カルネ」「カノン」「アレックス」3本ですから。同じく脳みそは出てくるは、で大変気持ち悪いですね。

「なぜ人は運命に従うのか」といわれてもねえ。でもはじめから良い問題提起です。さてどうなることやら。作曲家だったときの曲については誰が書いたのか、なんてとぼけているけど作曲では補えない何かが作家に転向した理由なんでしょう。さらに詩について奥さんにいさめられるところの記述があり「うそからは感動的なものは作れない」「またそんなことまでして作る意味はあるのか」というようなことを(ちょっとニュアンス違うかもしれません)言われました、とのこと、自分の意識というのは嘘なんでしょうか?笑い

まあ作曲家としてパリにいたときからこの人は何か重大な意思決定から逃げる癖がついていたみたいです。いつも逃げ続けているようにしか聞こえません。しかし妻との恋愛はかなり強いものだったらしいです。気持ちが強いけど態度は紳士という感じですね。見つめあう恋は本物です。話し方はいつも初対面みたいというのも笑えますが、お互い尊重しているのでしょう。でもレズとホモなんですよね。

あとはなぜ、砂漠にいたったかです。「アメリカでの価値基準である、成功が第一という考え方についていけなかった」ことや順調にことが運ぶことを書けないこと、さらにはタンジールに恋人がいる画家が彼らをスパイさせるためにタンジール行きを勧めたということらしい。ともあれ、砂漠との出会いですね。そこで距離を保ち冷静に自分の生活を守るスタンスが見えています。日本にいる外人もそうですよね。「いちげんさん」では逆にそれが壁のように映ったのでしょう。「郷に入れば郷に従う」という考え方はしないと明言してます。しかしところどころで出てくる仮装パーティーの様子はかなり遊び人だったことを示しますね。私ももっと遊ばなくてはと思うのですが、最近はまじめです。

移住当初は外国人はモロッコでは特権階級だったんですね。逆に地元の人は貧困で仕方なく売春をやっていたり、男同士が寝ていたりするのです。男同士が寝ることも今では、はやらないとしてやらないみたいです。そしていろいろな作家が遊びに来て交流していることも描かれてます。まずは自分が自活を出来れば、ほかの人と交流も出来ますよね。その友人の作家たちとの距離がいいのです。近すぎず、遠くすぎず。ほかの作家(バロウズたち「ビート」系の作家)たちと違って文法を変えることなく表現した。すべての小説は探偵小説だと至極当たり前のことを言いのけます。もちろん探偵は読者であって、どう作者の都合で物事が進行するかを解き明かすだけですもの。そして映画「シェルタリングスカイ」についてめちゃくちゃ、だと言ってます。最後が特にひどい、これはバロウズが最後はどうやって表現した?という質問にたいする答えです。「はやくローマに帰りたかったんだろう」とまで言われてますね。これは原作、原文で読んでみようと思います。確かに途中に中だるみあるんですが、私は名作(映画「シェルタリングスカイ」)だと思っているのです。

人は「やったことで判断」ただの「分類」は無意味。なにがいいたいかというとホモというレッテルを貼られるのは嫌だ。このホモというレッテルが「分類」なんです。この分類の評価は「劣っている、むかつく、変わっている」です。なにか一時は文化人は興味がなくても一度は味わっておかなければならないものと考えていた節があるんですが、まあボウルズは本当らしい。妻の方はそれをみてレズに走ったとか、会う前からレスだったとか言われてますが、まさに昨日の映画(リービング・ラスベガス)のように酒におぼれていきます。「酒をやめろ」とボウルズが言っても(これを昨日の映画では言うな、と約束して一緒になったのですよね)「言うは易し」「やめたくないからやめられない」と。さらにすごいこといいます。「人は誰かを愛せるか、そうは思わない、誰かを愛するということは異常なことだ」わかる気がします。ですから普通の人は愛する人と結婚しないんでしょう。逆説的に正論。そして「人間というのは球体で、触れ合うとしてもほんの一点のみ、あとは漂っているだけ」とまで言います。あと、「死んでいる」ということと「死」は対極にあるといいます。ここはわからないです。多分、死は生の判断の基準点で死んでいる状態は死のあとの状態ということ。死の前の状態は「生きている」ということを言っていると思います。しかし若い元気で才気ある姿と今の年とってよぼよぼのボウルズとバロウズを見ているとなんとなく判る気がします。「生とは死ぬまでの間」、これはいいのですが、次に人の存在証明を表現するときその人の環境を言いあらわすと良い、というようなことを言うのですが、いい言葉です。環境は少なからず、その人が選択してきた道です。そして環境への反応度を見ろというのですがまさにそのとおり。

映画の裏側を(シェルタリングスカイ)見た感じです。映画の評価は変わりました。こういう映画はあまりないのですがドキュメンタリーはやはり迫力あります。

 

「ショーシャンクの空に」 フランク・ダラボン監督 1994年

この映画良いらしいですね。ちょうどまったく映画を見なかったときに、(お店オープンする準備で忙しかった頃です)、公開されて観ないままでした。まったく内容を知りません。刑務所の話だとは知っているのですが、「カッコーの巣の上で」みたいなものですかね。

ある男の冤罪の話です。罪状は妻と浮気の相手殺し。無期懲役なんていわれたら、どんな気持ちでしょうか(Aとします)。1947年の設定です。とにかく入所からホモの連中に目をつけられておかま掘られる寸前の毎日です。このことを黒人の男(B)のナレーションで淡々と語られます。Aは元銀行マンで税知識にも詳しく、看守の遺産相続の面倒も見ます。

そして趣味の鉱石について没頭しようとする毎日です。しかし聖書が身分証明にはなってます。聖書の一節を暗記していて意味が言えること、これは日常的に聖書に親しんでいるということです。Aにはこれがありました。最高の身分証明になってます。さらに金融の専門的知識で、図書係という名目で図書室に隔離して看守たちの相談相手になってます。信託財産の作り方とか相続とか。おかしい。税金の申告時期にわざとこの刑務所で野球大会が開かれることがあるとのこと、こういうエピソードや、50年入所していた人が仮釈放といわれどうしていいのかわからない寂しさを覚えたこと、など楽しく、つらい話が少しずつ起こります。多分時間はかなりゆっくり経過しているので、少しずつ起こっているのでしょう。映画では次のシーンとなりますがねえ。

「心の豊かさを失ってはだめだ」というせりふにすべてがあるんでしょうが、心の豊かさを失わせるような状況が起こっているんですよね。そして図書館を作る過程は面白かったですね。しかし刑務所の人員を使って民間と入札を競って取ってしまうことで民間業者が「俺には養う家族がいる」というせりふは実感します。公共でいろいろとやることはいいのでしょうが、数字を追わない人と生活がかかった人は違います。私は近くに洋館とかあるのですが、あの設備にはかなうわけないですし、そこでコンサートやられると確かに安いです。私のところでコンサートやると手取り赤字になりますから、やりたくないですし洋館のコンサートと同じ気分では決して出来ないことですよ。このせりふはすごく実感しました。

しかしトリックスターが登場して俄然面白くなるのです。ロックンローラーが入ってきます。それを高卒程度に教育しているのですが、ひょんなことから犯人と同じ監獄にいたときにやった犯罪がAの無実を証明するというものでした。この告白というか説明のシーンは熱くなりましたね。体をこみ上げてくるものがありました。しかしその彼が殺されたときは呆然としてしまいました。タバコが落ちた瞬間、仲間が見てくれていたと思った私は甘かった。あいた口がしばらく閉まらなかった。

そして脱獄した瞬間、なんか観ているこちらまで開放感がみなぎります。その後の仕返し。

そして友人の仮釈放。そのときのせりふ「罪を犯したときから、後悔しない日はない。更正なんて言葉は作られた言葉である」いいせりふです。

仮釈放のあと、約束の地に行った時の手紙の内容は秀逸、元気であるといいが、と書いてあるけど、元気でなくてもこんな手紙読んだら元気が出てしまう内容です。

 

あとは仮釈放が決定してからみんなが思っているシーンに向かうだけです。「ザ・プレイヤー」とこの映画とこの頃いい感じでしたね。「ザ・プレイヤー」は大好きな映画です。

 

「ジョン・レノンの僕の戦争」 リチャード・レスター監督 1967年 イギリス

この原題は「How I Won The War」です。何でジョンレノンがついているのかわかりません。まあジョンのファンを取り込まなければ興行が危ないと読んだのでしょう。正解です。1945年ドイツのライン川まで攻めあがった英国部隊の話です。中尉の回想録(中尉をA)という形で進行します。1939年に軍隊を志願して士官候補になるところから始まります。最近この戦争関係かなり見ているので、こういうときは一気に見たほうが良いのです。

Aの書記がジョンレノン(B)。

まあまったく、映像として流れる話には興味がなく、いいかげんで、自分のことでもほかのことでも考えてみていたのですが、それでも英国は勝ったんです。それと同じようなことを若干皮肉を込めて描いていると思うのです。ホモ、不倫、女などの話をしながら自分たちは大丈夫と思っていると大丈夫なわけはないんですが、相手も同じような人間なので義があるほうが勝ったのでしょう。そんな内容が全編に流れるだけです。このことは「人間の条件」もかなり割いて描いていたので(軍隊の矛盾ですが)まあ風刺なんだろうなと冷めてみておりました。北アフリカのシーンは「アラビアのロレンス」のパロディです。あと「戦場にかかる橋」のパロディも出てくるんですが、この映画事態がパロディで実際に映画の中でも冗句をしょっちゅう言っているんですが、私にするとまったく受けないものでした。基本的には事実というより、冗句の利いた反戦メッセージと考えたほうがいいです。簡単な話、戦争に向かない連中が戦場で関係ないことばかりやっていること自体がパロディでそれでも勝ってしまった事が最大のジョークです。出てくる人たちがみんな平和を愛しているのですが戦争しているのもジョークでしょう。

最後にジョン・レノンはほとんど出ないと思っていて間違いないですよ。

 

「昭和枯れすすき」野村芳太郎監督 1975年

この映画知っていると聞くと、大体馬鹿にされます。しかしね、いい映画なんですよ。

まずは青森から上京してきた兄と妹(ABとします)Aは刑事、Bは学生。父親が出稼ぎに行っていたときに母親は男と夜逃げをして、お金だけは父親が仕送りしていたけど、結局は工事現場で死んでしまった、二人だけの身寄りの兄弟です。

この映画はふんだんに使われる30年前のロケが利いてます。そのくらい景色は変わるので風景も主役のひとつです。たとえば、三井銀行があります。映画館で「燃えよドラゴン」「ゴットファーザー」がかかってます。

Bの外泊の後、Aは町で家出してきた女をたぶらかそうとしている男を尋問して女を交番に連れてくるのですが、そこでBが男と歩いているのを見ます。そういえば家出って多かったんですよね。私はこの世代も信用していないんですが(団塊の世代、今の50歳代)この映画でもいい加減な感じが出てます。秋吉久美子のほうですけど。日本人は70以上でなければ信用できません。教育が違うんですよ。教育勅語を叩き込まれた世代が私は好きですね。全共闘世代は論外です。まあ世代における私の単なる好みですが。

Bは学校も辞めてチンピラと付き合っています。それが映画館で隣に座って手を握ったらついてきたという関係らしい。チンピラには風俗嬢の女がいます。

Bは別れたはずの男と付き合っていたところ、ホテルに入るのを見られて、Aがその部屋に押し入ります。まあ刑事だからできる無作法ですし、知らなければ、Bも良い妹の振りができたのですが知られたら関係がこじれます。

Bが殺人の容疑がかかります。それはチンピラが殺されたからですけど、まあ映画を見ていれば、風俗の愛人が殺して罪を着せようとしたというのはなんとなくわかると思いますけどね。

しかし妹を疑ってからのAの行動せりふのテンションの高さはすごいものがあります。これって、愛情をかけすぎた待ち続ける自分がかわいそうと思う「岸壁の母シンドローム」に近いものがあるような気がします。異常な環境でしたからなんともないのでしょうがAは深い愛情でBを見ていたんです。そして逮捕したときのシーンはかなりまともな判断で良いシーンです。

 

で題名なんですが、チンピラたちも博多から出てきた貧乏人、その連中が金持ちのぼんぼんを通じて知り合い、恐喝などの関係になり、お互いを疑心案疑で見ていたところから複雑に絡まるだけの、底辺の人たちの話だったのです。刑事が底辺か?この映画では育った環境が悪かったということです。炭鉱がなくなったときなんですよね。この時代。

「醜聞スキャンダル」黒澤明監督 1950年

「芸術は人まねなんかではない」と絵を描いているときに見物人から、雲取山の色が違うといわれて若い画家(A)が言った言葉です。昨日の「ディンゴ」の中でもマイルス・デイビスが言ってました。それよりも冒頭のバイクで突っ走るところ「大脱走」のスティーブ・マックイーンみたいでかっこいいですよ。「オートバイが傍若無人なところが好きな理由らしい」。そこに自然に見せられたのか歌を歌いながら女性がひとりBとします。声楽家だとのこと。ABともに有名な人たちです。そのふたりが出会って仲良くしているところを追ってきたカメラマンに撮られてしまいます。

「記事なんて少しいい加減でも、活字を入れさえすれば世間は信用するよ」現代の偶像は写真板と活字だとのこと。ライターがびびっているのに「男女関係のいきさつはひとつしかないよ、細かいところは違ってもいい」と編集長です。さらに「上品ぶっている連中はプライドが高くて告訴なんてしないよ、気概の高い軽蔑で済ませてしまうよ」とまで言います。そしてAが編集部に乗り込んで編集長を殴ってしまったからこじれてしまいました。

編集長にも理が出来てしまいました。そのことについてAはまったく抗議しますが、Bは沈黙のまま。Bをたずねると「相手にしないほうがいい」という母親。さらにはAの「僕たちが正しいことがわかっていて何で戦わないのです」ということばに目の演技。Bがひそかに好感を持ってしまったことは事実ということらしい。

「時々無分別になるのは人間らしくていい」「いつも分別ついているようなやつは安っぽくていかん」と訪ねてきた弁護士が言います。この弁護士の娘役かわいいですよ。あとAのモデルやっている人も。当然、Bも。黒澤監督の映画でこれだけ美しい人が出てくる映画は少ないですよ。モデルとAが作品「雲取山」とスキャンダルの話でからかい半分でカフェで盛り上がるシーンはめちゃくちゃいいシーンです。

しかし弁護士が編集長に買収されてしまいます。Bが裁判に裁判に加わらないし、どうなるのか一応、観客を心配させます。

ABに好意はあります。なぜなら「雲取山」を誰にも売らないのです。Bは個展をたずねてこの絵を売ってほしいといいます。Bにもいい思い出なんですね。

弁護士は買収されているので法廷で機能しません。それで世間、法曹界から非難が集まるのですがAだけはヒューマニズムの塊で最後まで信じた人を信じきります。それはあのかわいい娘が父親を信じられなくなったときも信じてやってくれというような言葉で象徴されます。黒澤監督は常にこのヒューマニズムを持った監督です。そしてそれを踏みにじるものを憎むというスタンスを持ち続けた監督です。

しかしここというところで、弁護士は弱みがあるので黙ってしまい、不利に展開します。そんな中最終弁論を待たずに娘が死にます。さて弁護士は?まあ結果はわかるでしょう?

Aの比喩いわく「勝利より私たちは星が生まれるところを見たんだ、その感激に比べれば勝利なんて小さい」これが黒澤監督のスタンスです。

あらまあ、娘役桂木洋子だとのこと。若いときは美人ですね。ついでにモデルは千石則子です。

「傷跡」(BLIZNA) KIESLOWSKI監督 1976年作品主人公は工場を建設する担当の監督官でいわゆる役人です。工場を林野を切り開いて建設するということは環境破壊を伴い、市民の生活の場の破壊をも意味するのです。一方、市民の雇用の確保も重要でその狭間にさいなまれた男の苦悩をうまく描いております。「真実(環境破壊)と信念(雇用確保と共に快適な住空間の創造)が違ってしまった場合」の官僚からのプレッシャーと住民、市民の苛立ちや弾劾がこの主人公を追い込んでいくのですね。そして「自分をおろかな人間だと思う」と辞任を申し出るのですが認められず、最後まで責任を取れと言われます。この工場を作る過程や工員との折衝など、やけに生々しく、1976年だから再現できる東欧独特の雰囲気だな、今では再現するにもここまでリアルに出来ないだろうと思って、時代性を感じていたのですが、終って解説を見ると、この映画はドキュメンタリーと映画の結合だったのです。ドキュメンタリーはこの監督によるものではないのですが、そのドキュメンタリーに隠された、担当役人の(主人公の)気持ちの揺らぎ、部下の裏切りなどをドラマとして脚色して、つなぎ合わせていたのです。やけにワレサ議長のグズニスク造船所でしたっけ、「連帯」が組織されたころの雰囲気がそのまま画像として映し出されているのでドキュメンタリーの部分があると知って納得いたしました。ちょっとアンジェイ・ワイダ監督の映画のテイストも味わえます。「傷跡」というのは具体的に環境破壊もあるのですが、実は主人公は工場ができる前ののどかな景色、住民の生活が好きだったのです。ゆえにその生活を壊してしまった自分の判断と責任に対する心の傷でもあるのです。最後、解任されて一人犬とじゃれているシーンはこの主人公の気持ちが充分に表現されていてうまいドラマの方の幕がおりたと思いました。こういう書き方をするとつまらなそうですが、人間のエゴ、人間の判断の限界、官僚制の弊害などがうまく一人の男の心情を絡めて表現されていて観ているとあっという間に時間が過ぎていきますよ。

 

「女王蜂(じょうおうばち)」 市川昆監督 1978年

 

はじめに仲代達也氏のあまりにも無謀な若作りや、安っぽいセットなどで横溝映画は話題作ほどだめだなあ、と思って観ておりました。途中までもあまり迫力は感じないですし、話をじっくりと見ていたくらいです。ただ中井貴恵さんをきれいに撮ろうという意図はカットの随所に感じられました。あとは脇役が良いので、主役級なのに数分しか出ないんだなあ、とか関係ないことを考えてもいました。

ただ、さすがにロケの風景はきれいです。いつも思うのですが日本は変わりすぎているのでこのように20数年前の映画でも風景は貴重な資料となるのですね。

そして、能登のシーンが出てくるのですがこのころからぐっと深みを増して、さらに華族との関係について知らされるあたりで私もぐっと映画に引き込まれました。この辺は原作も脚本もいいのでしょう。そして最後の犯人の暴露についてみんなが集まったところが本当にいいですね。俳優がそろっているといえばそろってます。ここだけでも充分でしたが実はこのあとに犯人になった人の心情が手紙で明かされるのですが、このシーンは本当に愛情と優しさのこもった人の思いやりのある行動で一気に感動に導かれました。このときの俳優、演出、構図はすべてよいです。そして、結論として、どういう生き方を女王蜂が選択したか、については、あとで等々力警部も言っているようにあれでよかったのだと思いますし、まさか犯人解明のあとにこのようなドラマが待っているとは思わなかったので、実に感動したしました。

なんというか、全体とするとちょっと安っぽいのであまり書くことはないのですが、とにかく主役級の役者に質問するシーンはいい俳優たちですのでばっちりいい写真が取れていて役者やのう、と思わずにはいられません。

気楽に楽しめた2時間数十分でした。長いはずですが長さは感じないのでテンポがいいのでしょう。映画というのは気楽さも大事だと思います。

「神曲(しんきょく)」 マノエル・ド・オリヴェイラ監督 1991年 ポルトガル=フランス

はじめ、のっけから裸でてきて唖然としましたが、(何の前知識なくみました)アダムとイブらしいしぐさで少しわかったのですが、冒頭の「精神を病んだ人の家」とあったその家の中にシーンが移ります。上の裸って女の方は「アブラハム渓谷」(同監督)の主役でしたのでびっくりしましたよ。それで家の中で「ラスコーリニコフ」と呼ばれる人物がいたので、これやばそう「罪と罰」(ドストエフスキー、昔読んだだけだよ、どうしよう)も絡むのかと、少し引き気味。そして、食事のシーンがあってそれがまさに最後の晩餐な訳ですよ。構図がそうですが、食事もワインとパンで、キリストというかそういう役の若者がワインとパンを分け与えるというしぐさで個別にはまじめな話をしているんですよ。ポイントは食卓の両端にアダムとイヴの男女が別れて座る配置ですね。あとででてくるんですがイヴの方は原罪を蛇の性にして聖テレサと言い張るんです。原罪を償った人間であるとね。アダムは追う訳ですが。しかしそんなことよりも、映画の中でまじめな議論ばかりしているんです。それでどういう展開になるのかと思っていると、本当に「罪と罰」しちゃうんですよ。老婆を殺すんです。観た家政婦も。この殺しのシーンはセットぽくで演劇がかって、かつ照明がうまいので気に入りました。このまま話が続くのではなくて、場面転換してキリスト教信者と反キリスト教の者との議論が続きます。「善とは」「悪とは」「幸福とは」そんなような議論ばかりで、見る前にシリアスな気持ちになっていないとついていけないな、と思ってしまうわけです。しかしDVDはたまるばかりですし、最後まで観ようとがんばるのです。キリスト教信者の言い分は「第五の福音書」を読め、となるんです。反キリスト教の者はわかりやすい反論をするのです。しかしね、最後まで観るとどっちが正しいかわからなくなるんですよ。後で意味を書きます。次のシーンでは新約聖書の「ラザロの話」を引用させるんです。内容をそのまま、娼婦となっている女に読ませるので前もって知らなくても大丈夫です。「復活とイエスをユダヤ人が信じた逸話が内容です。私は知りませんでした。このラザロの話をさせる男(ラスコーリニコフ)と娼婦はまた違うペアで、何かも意味があると思います。というより「罪と罰」の派生ペアですね。見ていないと何いっているかわからないと思いますが、「罪と罰」にでてくる名前がついて殺された老婆の知人だったりするのです。結局、神は何もしてくれない、自分で道を切り開くということなんですが、娼婦たる女の方が神の存在を信じています。この辺で2人組でいろいろな展開を見せながら神の存在とキリストの存在、人間の原罪などを描いているとわかってくるのですが、さてとどうまとめるのか興味が出始めました。音楽はピアノで冒頭からベートーベン、ショパン、シューマンなどを映画の中で弾くシーンがでてくるのですがまずここで感想を書くとシューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」から第4、5楽章が引用されるんですが、いい曲です。曲の名前覚えていた方がいいですね。「道化」=「人間」ぽい意味がかなりあると思いますよ。そして映画に戻るとピアノを弾く様を人間の技術だという反キリスト教徒がいい、さらに霊を殺したのは文字であると言い切ります。まあそうですね、と私もうなずき、キリスト教徒は何につけても「神の存在」と立ちはだかります。イエスだけなのか、または人類すべて英知があるのか?ピアノを弾いている演奏を写しながらこんな議論をしているんですよ。まじめなんじゃなくて皮肉とわかってきました。次には「奇跡」の話が出てくるんですが、ここで出てくる名前もまたぶったまげる、アリューシャです。こういう映画はロシアに作らせればいいと思うんですが、またドストエフスキーですね。「カラマーゾフの兄弟」のなかで誰かが作品として書いた逸話のようなものが引用されるんです。ですから今までに述べたような小説とか哲学、キリスト教の知識ないと理解しにくいというか不可能かもしれない敷居が高い映画かも。。。そして主が7歳の子を生き返らせた話を作り友人に聞かせるという2人の別のペアができるんです。しかし主は捕まるんですね。そして審問官には何もいわないのです。審問官は処刑の前に至って何か言うと期待しているのですが何もいわず、審問官にキスをするのです。審問官はキリストに出て行けといってキリストは立ち去るのですが。。2人の会話で象徴的なことがあるんですよ。それは、「今ほど人々が自由なときはない」(たぶん監督のメッセージ)しかし「それを認識していない」、うーーん良くわかるなあ。この辺になるとはまってますね。監督の持っていき方がうまいですよ。さらに「罪と罰」ペアに戻ると自首させようとするのですが、当然(小説からするとそうですからね)「殺したのは金が動機ではない」と言い張るんですよ。なかなか認めないです。そして懺悔しようと司祭を訪れると司祭は自殺しているんです。司祭の自殺という罪も提示しながら、ラスコーリニコフはこういう状況なら大声で「罪を告白」するんですね。動転して思考が停止状態になるんですね。この辺が笑えるところです。まったく演出上おかしくないですよ。ただ、監督の考えていることが読めるのと、原作を知っているので笑えるんです。そんなことをしているうちに冒頭のアダムとイヴのシーンがあったバルコニーに登場人物がまた終結してくるんですね。終りが近いです。そして先ほどはバルコニーから裸のアダムとイブを見たのですが今回はひざをついて身長を一緒に歩く背の低い女に合わせて円を描いて終わりなく歩いている2人を見るのです。ですから議論に終りがなかった、隠喩です。そして人々はピアノを弾くシーン(現実的尊敬に値する人間の情熱と技法)を観ながら散らばっていくのです。そしてピアニストが一人でピアノを弾いていると「カット」と映画が終るのです。この映画って何の映画が終ったのでしょうね?映画の中で映画が終ったはずです。ということは、まとめると、今まで観てきたのは、映画だったのか?その前にこの映画自体が映画的ではなく見る本のような形式なのです。言葉が多いので字幕は大きくて助かりますし、本を読んでいる感覚です。しかし私が自分で人物のイメージをすることは許されないのです。映像として人物がキャスティングされて固定されてますし、風景も所与の本というイメージですね。さらに舞台の上でも充分なくらいの演劇的な演技で完結されてしまう程度の狭い空間での出来事というか話の流れなのです。ですから映像として映し出されるものは強制的に私は受け入れますが、それ以外は、以外と登場人物の視線は曖昧ですので、どこに向けて何を見ているのかは自由に想像できるのです。そういう構成だと気づいたら、この作品がいとおしくなりました。なかなかいい作品ですよ。難しいとは思いますよ。しかし、映画の展開としてはおもしろい試みです。本当に最後のまとめ。キリスト以降2000年の間の人々すべてを「精神を病んだ人」としたのでしょう。そしてアダムとイヴの原罪は人間の罪とその意識の外にありそれを説明する基本概念なんですよね。それでアダムとイブは、すべての事象を説明できる基礎となるのですがアダムとイブは説明できないのです。この辺はゲーデルの不完全性定理みたいですね。それですから、登場人物のキリスト教信者(階段通りの人々、同監督の作品、でぜんぜんキャラクターが違う役やっていた人)は教義を4つの福音書でまかなえない部分を白紙の5つ目の福音書という形で説明不可能な部分の論理的矛盾を指摘されないようにサポートしているんですよ。ここいらあたりが深い内容です。「罪と罰」の引用は人間の行動様式を象徴したみたいですね。最後に反キリスト教徒のことば、「、、結局、永遠の回帰をするのだろう」 と 「神は死んだ」 もう一度いいますが最後のシーン、回りつづける人々。今回ある程度わかったので次観るときはこの辺を楽しんでみることができると思います。この映画の構造と作る意欲はすごいものがあると思います。ブラボー。

 

「仁義の墓場」深作欣二監督 昭和50年 東映

水戸からやくざ志願で新宿に。深作監督も水戸の方ですしねえ。ちょうど戦争中です。ここで深作監督について、たしか麻布中学かなで同級生だった人が知り合いでいたのですが、本当にどうやって人を楽しませるか、ということばかり考えていた若者だったみたいです。

しかしタイトルバックの戦後の闇市は実写ですかね。はい、違いますけど、勢いのある映像です。最近戦争関係の映画よく見ますがこの風景を見ると日本が戦後すぐに変わったことがわかりますし、戦争の強さがまるっきりなくなっていますね。それでいいのだと思います。三国人の描写もそうです。あえて、この言葉が何を意味するのかは明言しませんが、わかる人にはわかります。横浜という場所もわかりやすい場所かもしれません。いまだにわかりやすいかも。笑い。おっと笑っちゃいけません。しかし久しぶりにこの監督のコアな映画見ると三池監督に似てますね。それがおかしくて笑ってみてました。

しかし公認の脱獄には笑いました。おかしい映画だな。でも雰囲気はわかるんですよ。

渡哲也ふんするチンピラの不始末で池袋と新宿が和解できなくなって全面戦争になるなんて素敵ですね。暴力は敵なんですが、チンピラでも面倒を最後まで見るという仁義は気に入ってます。しかしね、このチンピラ不完全燃焼なんです。もっとぶっ潰したいやつらがいるんですが、政治的にこの世界も解決するので、何か気に入らないところがあって親分を酒の勢いで切ってしまいます。自首するのですがやくざ社会では生きていけません。関東ところ払いが各組に回ってしまってます。そのところ払いの禁を破って東京に戻ってきた男をかばった少年院時代の仲間をも切りつけます。すでに薬中毒になってしまっていて、体も破滅に近いんですが。かといって一世一代の勝負に出ているわけでもないんです。何かが気に入らないんですね。私もこれが何かわからないんです。

まあ結局、次の日にも仲間の組に殴り込みをかけたので警察と破門になった組、殴り込みをかけた友人の組すべてに追われる立場になりました。もう彼には刑務所もないんです。

しかし彼は逃げもせずにしゃしゃあと破門になった組や仲間を殺してしまった組へ出向いていきます。この意味がわからない。そしてやはり追っ手が来るけど、たまたま死ななかった。そして自分で死んでいくのですが、彼の行動の源、考え方がわからない、まったく理解不能な映画でなにかしっくり来ないものでした。しかし、なにか実際の人物らしいんです。こんなわからない人物は実在するでしょう。なぜならドラマツルギーではこんな人物作りえないからです。あの三菱銀行の猟銃殺人強盗犯人とかもまったく想像を超えた存在でした。人間とは不思議であり、この主人公なりの仁義があったのでしょう。多分、常に死と隣り合わせにいなければ気がすまない、というより渡世とはそのくらい体を張ったものではなければならないものだと思っていたのではないでしょうか。しかし彼には才覚がないから事を起こせない、できることは一人で暴力を振るうことだけです。そこに彼の存在意義を見つけていたのかもしれません。

この映画は、あまり面白くはない。

 

「サンタ・サングレ」 アレハンドロ・ホドロフスキー監督 1989年 たぶんメキシコ映画

上で比較といってみたのですが、勘違いでした。テーマは同じですが、その作りと独創性規模がまったく違います。こちらの方が数段上です。しかし何回見てもすごい映像です。この作品は音楽もすごくいいのでたまらない映像を見る、独自の世界観を感じる快感があります。また、笑えるくらいに今まで見た映画の比較のシーンが出てきます。

スタートは「バーディ」のように病院の独房に裸で鳥のごとく止まって引きこもっている男が映し出されます。そこに「鷹」の映像がダブります。まさに鳥のマネは鷹のマネだったのですね。(映画の始めに「鷹」が写るのは昨日見た「アマチュア」もそうです。力と権力の象徴でスモンね、たぶん何かそのようなことがでてくるのでしょう)そしてメヒコ(メキシコシティ、好きな街なので、どこだとは映画の中では出てきませんが、わかります)の俯瞰。ここで流れるマンボ最高に良いんです。さらにはミクロ(ズームイン)に迫ってサーカスの広場に場面が変わります。そのなかでこびとと紳士的なマジシャンの格好をした子供が象に乗って通過するシーンに。この二人は実は親友なんです。(こびと、といえば、またまた「アマチュア」で工場作業員を撮影したその対象人物もこびと、でした。何でこんなに見たばかりの映画とダブるんでしょうか、縁ですねえ)二人して新しく入った女の子が綱渡りの練習をしているところを見に行くのですが、ここで子供同士一目惚れをするんです。教えているのが全身刺青の女で子供の父親と出来ているんです。この刺青クモの巣女がガウンをぱっと取ったところなんか良いですねえ。そして父親がこの女を的にナイフ投げをするんです。これがもう最高で、本当に見世物になってます。(ルコントの「橋の上の娘」なんて目じゃないというところ、本当に気持ち良いです。)女はナイフが近くに飛んで来るたびに快感にしびれる様子、何もいえません。エクスタシーとはこういうことを言うのでしょう。その近くでは子供と少女が手話で話をしてます。そして励ますと少女は綱渡りができるようになるのです(愛情が伝わったのでしょうか)。綱渡りをしている最中に少年が音楽のエールを送るのですが、この情感もいいし贈る音楽もいいです。確かに今まで述べた役者は見た目がそんなによくはないので好き嫌いはあると思いますが、映画の流れは本当に最高です。こういうのがいいねえ、という感じです。最後まで良いんですよ、この映画。

そして次のシーンでこの子供の母親が新興宗教の教祖で。その宗教は、男に乱暴されて両手を切られた少女を祭っているのです。その少女の聖なる血が教壇の前にあってそこで体を清めると救われるというものです。通常ならこんなの壊される訳で、実際にそのように映画も進行しますが、ここでも新興宗教の歌とか、教会内でのシーンで流れるギターの音色最高にいいんですよ。

そんな時でもいつでもといったほうがいいかな、旦那の方はクモの巣女(クモは女性性あります)とじゃれているんです。こういう不倫の現場を見ても妻のほうは頭にきますが夫との性交渉でそんなことも忘れるのです。すごく父系家族ですね。しかしこの父系が崩れるんですよ。それは象(男根的)が死んでいくシーンが次に流れるんですが、ここにも象徴されるし、死んだ象はすぐに食用になるんですね。食べられて消えていくというシーンに父系が消えることが示されてます。しかしすぐにえさとなるというのも、人間社会の中に自然の摂理が入り込んでます。この象の葬列を仕切る父のバックに流れる音楽もいいし、葬列のマンボのような曲もいいです。このような危うい父が、子供に最後にしてやれたのは結果的に胸に鷹の刺青を彫ってやることです。この刺青は彫ったあとすぐに外で待っていた少女の手でどこかに魂が飛んでいってしまいます。

さて本業のサーカス。子供や妻ががんばっているのに、影で父はクモ女といちゃついてますね。サーカスの演技の途中見かけてしまった母はさあ大変とばかりに修羅場に向かっていきます。その修羅場になる前のクモ女と父の愛撫はまるで動物でも見ているように壮絶です。そこに割り込み、妻(たる母)は仕返しに硫酸を夫の男根にかけます。夫は妻に逆上してナイフで両腕を切ります。まるで教団で祭られている聖少女のようになってしまうのです。そのあとすぐに夫も首を切り自殺します。この死体や切れた両腕はすぐに犬や鳥のえさになるのですね。それを閉じ込められたまますべて見た少年は感情を表に出さない「バーディ」のような冒頭の生活に入るのです。かなり時が過ぎているはずですね。ちなみに少女はクモ女が連れ去り逃げてしまったのでこの子供の元には誰もいません。

時は過ぎ、精神病院の収容所で仲間と映画を見に行くシーンがあるんですが、ここで映画でなくて悪い商売するやつがいて、売春宿に連れて行くんです。すごいテーマですよね。養護が必要な人の性を扱ってます。ここで、かつてのサーカスの雰囲気、父とクモ女のことを思い出すんです。匂いでしょう。そんな中、母が現れて息子を支配し始めます。(オー・ド・ヴイに似てきました)  では、かつてクモ女と逃げた少女は?というと売春させられていたんです。そんな中、客がスキを見せた瞬間に逃げていくんですね。ここがすごいのですが、たまたまいないときに少年はクモ女に仕返しに来るのです(父と母の仇ですね)。もうメッタ刺し。「サイコ」もびっくりの殺し方ですね。そして、あの友人であったこびとに会いに行くんです。そして母とこびとを中心に一座が組まれドサまわりが始まります。見世物は「母の後ろから母の手の代わりに手を出して一心同体で演技をするのです。もう母からの束縛からは逃れられないというか、同化してしまうんですね。見世物の主題も人間の原罪について、蛇に責任があるという、またヘンな説得性を劇的に見せます。(ここでも「神曲」のテーマが出てきてしまいました)さて少年の方は一座の女に手を出してコンビを組もうとするのです。その出し物はナイフ投げ。父親と同じです。まったく同じことを繰り返すんですね。人生ってそんなものかもしれません。そのナイフが飛んで突き刺さる音がまた良いんですよ。しかし母が許す訳がありません。手となれと命令すると同時に女にめがけてナイフを投げろとなるのです。当然、少年は実行するのです。ここでいい話が一つあるのですが、いつも死体はすぐにえさになっていましたがここでは墓まで運んでペンキを塗るのです、ペンキがかかるとえさにはならない訳で、埋めると白鳥となって魂が飛んでいくんですよ。この辺はセンスいいですよ。そうこうしているうちに一座は成功して劇場と家をもてるようになると満ち足りた生活に入るのです。ピアノを弾くのも一緒。ピアノを演奏する手に後ろからなる訳ですからもう性交渉の体位と同じです。やばい。という構図ですね。そんな自分の存在が嫌で消えていなくなりたいのですよ。それで透明人間になろうと実験する材料を買いに行くとき街で「世界最強の女が来る」という宣伝カーに出会うんですね。その瞬間男根は蛇に変身する幻想にとらわれるので性的な抑圧は相当ですね。当然そのショーを見に行きます。そしてレスラーの楽屋にバラを差し入れに行き、自宅まで招待するのです。このレスラーはおっぱいはあるけど、どうみても男なんですよ。肝心の股はぼかしが入っているので事実はわからないのですが、男でしょう。そして自分の劇場で仕込んであるマジックをやろうとしても母が出てきてしまうんですね。そして「殺せ」と命令するのです。ですから殺せというからにはやはり女なのでしょうか、あのレスラー。少年はこのレスラーを呼んだのは、強さにあこがれていたのではなく、戦うことで自分の腕を折ってもらいたかったのです。当然形成不利ですが、やはり「ナイフを使えと」命令されてぶった切るのです。このときはさすがに少年も絶望感があったでしょうね。やはり墓まで運びペンキを塗っていると、今まで殺した女の亡霊がすべて墓からでてくるんですよ。かなり殺してますね。(これ監督のインタビューでは実際にあった事件を脚色したらしい、その犯人は更正して社会復帰しているとのこと、メキシコらしいですね)もうみんな裸なんでぼかしが画面を被い尽くします。その亡霊に謝るんです。当然、一緒になってもいいと思った人たちですから、ただ、母の命令で殺しただけですものね。

亡霊から逃げて家に帰ると、劇場で聞いてきた少女が家に侵入していて、昔サーカスにいたころの化粧をして待っているのです。(すごくかわいい子なんですがね、化粧するとピエロです) 当然二人は愛し合うのですが、母の邪魔が当然のごとくはいります。「腕を切れ」と。このときに近所の人が遊びに来て、死体とか見て尋常じゃないと警察を呼ぶのです。少年は少女を殺す一歩手前まで行くのですが、少女は無抵抗です。そしてやっとのことで母を刺したのです。

ここからがすごいんですが、母を刺したら、母の化身が「私は殺せない、なぜならば、おまえの中に私がいるからだ」と言って消えていくのです。そうなんです、私もまたまただまされました。少年が操っていたのは母の人形だったのです。少女は少年の境遇を知っているし、すべて昔の思い出となるようなものを焼き尽くすんですよ。すごいやさしい愛情ですよ。すると座員はすべて喜んで祝福してくれるんですが、こびとは去っていくんです。きっと友人が欲しいという夢から、存在させていた幻影だったんでしょう。少女の深い愛は、父の形見の刺青の束縛も「鷹」を飛ばすことで取り去ってくれることでも示されます。そして警察に罪の償いに行けと。たぶんいつまでも帰ってくるのを待っていてくれるんでしょう。すべてのトラウマから開放され警察に逮捕されるところで映画が、きれいな音楽と共に終わります。なんという、素晴らしい、映像と独自の世界を構築したのでしょうか、この監督はかなり面白い監督です。人には薦められませんが、印象に残る映画です。

 

「スリーピング・ディクショナリー」ガイ・ジェンキン監督 2002年

ダークエンジェルのアイドルらしいんですがこのテレビ番組自体知りません。

しかしまさに満州事変1936年のインドネシアでの英国人と現地人の交流です。すぐに日本が関係する時期ですね。

イヴァン族というのは英国人を受け入れるとき、言葉がしゃべれるように英国人に一人女の閨の女房役を置くとのこと、そうすれば男Aも女Bもお互いの言葉をすぐに覚えられるという付き合い方をしてきたらしい。ゆえにお互いが閨での辞書、すなわち映画のタイトルということです。Bがダークエンジェルの人でしょう。Aは拒絶するのですがそうすると現地の人に馬鹿にされますし、今度は変わりにホモの男を連れてきます。趣向が違うと思ったのでしょう。

そしてBの積極性と慣習に負けて受け入れます。このときにAは童貞。ですから女にはまっていきます。お見合いの相手を連れてきても愛は普遍だ、見たいな純なところがあるのです。このまま愛を貫いて終わりとかいうと久しぶりに見た洋画迫力なく簡単すぎてつまらない。

展開は川の上流から違う部族の遺体が流れてくる。そのため調査に行くと原住民には受け入れられるけどオランダ領から逃げて銀山の採掘をして一儲けしようとするやつらに出くわす。これらをこの近くの原住民に知らせて森を壊すやつらがいるというととりあえず退治してはくれるんですよ。この辺で一生の愛を誓ってどこかで生きていこうと思い始めるんですが、このように何かが起こっても愛の方向に進むだけで何も変化なし。さらに英国のベースの模様が映るんですが、ここもあいも変わらず、娘がどうしたとか、ここは住むところではないとか、そんなことばかりで行ったり来たりの内容です。そして障害は英国人も現地人もともにどちらも英国の女、現地の男から相手を探せというのです。

そしてお互いにあきらめて、英国の娘とロンドンで結婚します。「しきたり」ということですが、Bも日本が攻めていったとき生きていたのでしょうかね。この映画には戦争の影があまり反映されておりません。ここで映画的なのですが、結婚後もまた以前の仕事を完遂させたいとインドネシアに戻ります。本当に新しい生活を始めるのなら違うところに行くべきです。この辺はいらいらしました。予想通り、Bを探してばかりいて、子供抱いた姿を見つけると回りに僕の子供か?と聞いて歩きます。そして、また会いたいと。馬鹿か。

そのため、Bの今の夫が嫉妬で襲ってきます。そのためAを襲った罪で死刑にしなければなりません。ここでひとつの事実が明らかになるのですが、BAの上司のやはり「スリーピング・ディクショナリー」との間の子供だったのです。ということはAの上司とAの子供は血がつながっているのです。そして死刑の判決は出しましたが、犯人を逃がします。そのときBと一緒に逃げようと。人生捨てました。

しかしAの英国の妻との間にも子供ができてますし、お互い約束の時間に間に合わないようなことが起こるのです。すれ違い。そして追っ手。一緒になったと思ったら、捕まりそうになる、そこを原住民が助けてくれる。多分そのあともずっと彼らと一緒の生活という終わりです。さすがに見え見えの話なんで退屈はします。しかし良い話ですよね。

「切腹」 小林正樹監督 1962年

「人間の条件」以来の小林監督です。あの映画は良かったからなあ。この映画も評価はすごく高いです。

芸州の福島家の藩士だった男が、主家の没落と共に江戸に出てきたが埒が明かず、切腹をしようと思い井伊家の軒先を貸して欲しいと願い出るところから始まります。この映画はこの当時でもそんなに若い人をターゲットにした映画ではないと思いますが、はじめからこんな説明でわかる人は今では少ないと思います。いわゆる、「たかり」です。切腹させるわけにはいかないので何がしかの金品をあげるか、または仕官させる前例が出来てから流行ってしまったのです。しかし井伊家は違いました。切腹させてあげようと言うのです。すると浪人もあせる。しかし追い込む井伊家、仕方なく切腹しますが、もって来た刀が切れない、それで時間がかかってしまう。最後には歯で舌を噛み切る。これは自分のまいた種ですから恨みは出来ないでしょう。しかし井伊家の罪もあるかと思います。ちょっとの逃げる隙を作るだけでも井伊家の家名は安泰すると思うのですが、甘いですかね。とにかく琵琶の音色が映像にぴったりとはまってます。音楽は黛さん。カメラは宮島さん。

次に来たAにはこの話を聞かせて帰そうとするのです。しかし切腹をすると。そして介錯を馬回り役にお願いします。その指南頭がいないので迎えに行く間に戯れ話。それは先の浪人はAの知り合いだとのこと。そして福島正則の流れとその没落の話を言って聞かせる。周りの井伊家の連中もこれが理不尽だと知っているので、なんとなく聴いてしまいます。そして先の切腹した人間は自分の同僚の子供だというのです。この辺は普通には聴いて入られません。井伊家は徳川譜代ですが福島家は豊臣の譜代ですから、感覚が違うといえば違うのです。しかし介錯の指名する武士がみんないないのです。それらはみんな先日のAの同僚の息子の切腹を進めた男です。ここでAが命を賭けて仕返しに来たとわかるのです。

「もともと罪科の切腹にあらず、介錯人は私が選んで当然」と井伊家やり込められました。前回は親切を義に切腹させたのですが、今回は親切を前に出すなら、この言葉が利いてきます。「かくなるうえは問答無用じゃ」と言わせたらAの勝ち。戦う義が出来ます。しかしまた戯言を始めます。今度は話が終わったら切腹、抵抗しないとの約束。かなり覚悟が出来てます。

この戯れ話ですべてが明らかになるのですが、武士階級のうわべだけのプライドを痛烈に批判します。A自体もちょっと前までは気がつかなかったことです。

3人の髷をとって井伊家のみんなに見せ付けて、3人のいい訳を明らかにしたところ、まさに千両役者、かっこいい、というか素晴らしい出来。実践が剣法より強いことは「プライベート・ソルジャー」でも明らかでした。

そして、井伊家の中での立会い。無理に切ろうとするから、切腹したいというものの望みをかなえてやれずに抵抗の理を与えます。その結果、ここで死んだものは病死、Aは切腹で片がつき、体面を整えました。後半の1時間近く、心臓がパクパクした緊張感のあるシーンの連続で興奮がなかなかさめやらぬままでした。

映画というのを超えて感動しました。

 

「戦艦大和(せんかんやまと)」安部豊監督 1953年

「回天」もそうでしたが学徒出陣があったのでかなり、哲学書を持って兵役についていたみたいです。回天ではエマニュエル・カント、この映画ではスピノザです。逆に今の学生はどれだけ読んでいるのでしょうか?馬鹿にしたもんではないと思います、かなり読んでいるみたいです。この映画は助言に大和の副長が入っているので、かなり忠実なんでしょう。

それからすると、大和の出撃は時すでに遅し、本土で活用すべし、だったみたいです。さらに燃料も片道分しかなく、沖縄援護に単体に近い形で出撃したみたいです。戦争はなんでもそうですが、後から見ると馬鹿げたことはいくらでも出てきますね。

船員の言葉は涙が出てきます。「大和は沖縄の真っ只中に出て、敵の標的となって、その間に特攻隊が攻撃をする」理にかなっておりますが、みんな犠牲になりますよね。絶句。特攻隊は援護機ではないのです。そして制空権はアメリカにあり、空からの攻撃には弱い軍艦に過ぎない大和、せめて空母なら、空対空の戦いができます。なんで出て行ったんでしょうね。しかし一条の光はあります。出撃前に予備兵を降ろすのです。これはもう艦長はじめかなりの人のコンセンサスだと思いますが、(映画では明記はしませんが)、将来の日本を担うものを囮に使って無駄に死なせたくなかったのでしょう。

この映画とすると、出撃してから、内地の恋人とか妻の回想がいくつも入り、映画のテンポが急に悪くなります。後は沈没するだけですからね。しかし潜水艦にも弱いのは致命的でした。しかし死ぬ気なので、どんなに水が入ろうと、どんなに被爆されようと、誰もひるまないで最後まで魚雷の位置などを確認する様は見ていて言葉では表現できません。まったく無駄な戦いなのですが、ここまで命を捨てた戦いはないでしょう。まるっきり織田軍に挑んだ武田軍みたいに無駄な突進です。しかしこの様子は心には刻み付けておこうと思いました。役者もまだ、特攻隊会館で見た写真のように目がきらきらと輝いているんです。あの目のきらめきを見た人たちは取り組みがたい相手とは思ったでしょう。今の日本人にあるかどうかという議論はおいておいて。

最後に傾斜復元の見込みがなくなったとき「総員を甲板にあげます」、言葉がなくてもこの総員の気持ちがひしひしと伝わってきますよ。さらに逆もあったのでしょうが、沈没した後、浮き木にもたれて漂流している兵隊に機銃を浴びせてきます。これには、事実とはいえ参った。やはり現実のほうが映画より怖い。自分が映画を作ったらこんなシーンまで用意はしないと思いますし、最後の言葉「戦争を生き抜いたものこそ、真実次の戦争を欲しない」も事実だと思います。戦場の怖さは多分味わって見なければわからないと思います。

「戦国自衛隊(せんごくじえいたい)」  斉藤光正監督 1979年

実は一度も見ていないのです。信じられないのですが事実です。話はちょっと見えにくいのですが自衛隊がクーデターを起こそうとして結集したときにタイムスリップしたらしい。「時をかける少女」といいこの時代はこういう映画がはやったのですね。当然この時代はエイリアンは見ても(このエイリアンも馬鹿にしていた)この手の映画はまったく見てません。そこで上杉謙信に出会うのですが、越後の守の部下だったときです。そのときたまたま自衛隊の協力で敵将を殺します。そして下克上で、自衛隊の長(A)に一緒に天下をとらないかと話しかけます。この男だけは自衛隊を怖いものだと思わない男です。

しかし一人殺すごとに現代でその子孫がどんどん消えていくはずですが大丈夫なんでしょうか。さらに自衛隊の中が2分して勝手に船で逃げて好き勝手に海賊みたいに振舞う連中も出てきます。なにやっているんだ、としか思えないのですが、自衛隊長と上杉謙信がうまが合うのです。友情で結ばれてしまった。そして進路を二つに自衛隊が武田信玄に、上杉が浅井朝倉軍に攻めて京都で会う約束します。しかし夜這いして性欲満たすとか意外と昭和の次代でできないことが許されていて、実行するとやる気というか生きる気力生まれてくるし、考えてみれば小隊で武田信玄と戦うときに敵に不足はなし、というところです。ところがすごい強い。武田軍。命かえりみないで突っ込んできます。どんどん武器を失いますがAが一対一で武田信玄に勝ちます。銃使いましたから。大将が倒れると総崩れ。なんというかお金かかってます。薬師丸ひろ子ちょいやくですがかわいいです。知っている俳優ばかりで勝頼は真田がやります。

しかし最後に上杉謙信に裏切られてみんな死んでいきます。その前の晩、「Aに対してもと来たところに戻ろう」という提案がされるのですが、みんなにAが戦いのあるこの戦国時代が好きだというのがばれてしまいます。そこでみんなが戻れば、もしかして現代に帰れたのかもしれませんが、最後はかなり潔く、みんな死んでいきます。なんといういい映画なんでしょう。私好みのいい映画でした。途中、歌が流れるのですが、それはもっと弦楽とかで時代に普遍性を持たせればいつまでも残る作品のような気がします。役者がまだ個性的なころでしたね。ぎりぎりなんでしょう。そのハザマを角川映画は駆け抜けたのでしょうか。まさしくこの映画のような感じなのでしょう。

 

「草迷宮(そうめいきゅう)」  寺山修二監督 1979年

 

またか、というテーマです。最近見た映画のほとんどはこのテーマのような感じがするほど映画にあうテーマなのか、母の呪縛を逃れられない少年の話です。(「サンタ・サングレ」「オー・ド・ヴイ」もそうでしたね)

砂丘の中、女が一人手毬歌とともに現れると、少年が手毬歌の歌詞を知りたいという旅を続けていることがわかる。男と女が絡み合うシーン。この二人にも手毬歌の歌詞聞いてみたらしい。当然母から聞いていた手毬歌の話なので母に聞きたいが死んでしまったし、おばは発狂してしまっている。(「満員電車」じゃあるまいし、こうも続けて狂った人が出てくる映画ばかりなのかと自分でも不思議です)母の先生のところにも聞きにいくが知らないという。

では、「なぜ探しているのでしょう」。ここで母との思い出が走馬灯のように流れます。少年の思い出として土蔵の女に誘惑されたことがあった。そのまま、関係させられているのですが、この無垢の少年がこの魔性から逃れる道は母の作っている帯に沿って砂丘を逃げることであった。その砂丘は海に通じておりそこに母はいる。これはイメージですが、現実のときの流れでは少年は犯された後、風呂から上がって母からあの魔性に近づくなといわれる。この女は二十歳のときから男を待ち続けているという。「女が二十歳になると、丑年の丑の月の丑の日に、髪を洗い、身を清めて、紅を薄く塗り、戸を締め切って壁に女の魂を掛け丑の童子に一心に念じていると前世から定められたいにしえの人が写るという」これを実行していたのだがこの女は何も写らなかった。だから男を待ち続けているということです。この女には母がついているから大丈夫といわれ、近づくなと言われたのです。しかし少年はまたこの女を覗いてしまうと、母に折檻され、女が近づけないようなおまじないをかけられる。それは手毬歌の歌詞を体中に書くというものです。そうですね、なぜ手毬歌の歌詞にとりつかれて旅をしていたのか?それは母から離れられないからです。少年がかくれんぼしている相手も脱走兵と消えてしまい心中してしまう。そして女は死体として波打ち際に打ち上げられる。少年は女に近づくことができないのです。

では手毬歌の歌詞はなんの役に立つのか?なぜ旅をしているのか?遊郭のやり手婆にいろいろな歌を聞いたり遊技に聞いたりする。一人の遊技は知っていたがわざと間違えた。客として相手したいからだ。教えては女を避けられてしまう。そしていつも遊郭では川の向こうから母が見ている。からくり人形が歌えるのはからくり人形は避けられないからだ。

次の瞬間、その手毬が川を流れてしまう。土蔵の女が拾い土蔵へ誘おうとする。女が土蔵に入ったらそこから先生が出てくる。先生に話を聞くと、近くに子産み石があることを教えられる。石をなぜると子供ができない人にも子供ができるようになる効能があるという。すると夢の中で母と関係している少年が頭の中で浮かぶ、しかしそばで手毬をついた女がいるのだ。夢から覚めても夢の中のように、手毬をついた女はいる、追いかけても近づけない。それを妨げている川の向こうの母にも近づけない。こんな中途半端な様子を夢の中の世間の人は笑うのですが、どんな風に挑発されても(相撲取りのかっこうした姿はさすがに唖然としますが)そのまえで母の首が手毬歌で大丈夫というのです。しかし母の首が持っていかれると、少年は追いかけ、世間と戦う。もうイメージの世界ですよ。その夢の中の夢の中で、母が少年に向かって「お前をもう一度妊娠してやったのだ」と、ほかの兄弟たちを引き連れて言う。そして母との強引な結婚式が行われそうになると、あせってどうしようもなくなると目が覚めて子産み石の部屋で寝ている自分に気がつく。女の入っていった土蔵、そのあとにもう一度訪れた土蔵には子産み石があり、そのなかで母の印象が堂々巡りをして、現実かうつつかわからないまま砂丘(母なる大地)に来ると今度は先ほどの兄弟たちが堂々巡りをして遊んでいるのだ。生まれ変わった自分もまたその次の自分もあのように回り続けるのだ。これは「神曲」の最後にそっくり。母なる大地から生まれた人間は狭い環境の中で回り続けるだけです。そして、そう人生は繰り返す。そして魂は消えないのである。次にどの肉体を選択するかが問題なだけなのである。

面白い映画ですよ。母からの自立という単純ではないと思います。輪廻転生する魂がまた同じことを繰り返すということです。イメージがつかめないとそのまま不思議な映像だと思って終わってしまうタイプの映画ですね。最近ニューマスターが出たらしいのですが劇場ではぼかしなしでしょうか?このテーマはもう飽きましたので次に娯楽映画でも観たいですね。しかし気が楽な映画ではありました。わかりやすいし、イメージが非日常的で映画的だと思いました。

 

「世界残酷物語」グァルティエロ・ヤコペッティ監督 1962年 イタリア

この映画BOXで入手しました。まあ実は見たことないのです。「モンド」系「ジャーロ」系は一応毛嫌いしているんですが、とりあえず見ておこうと思いました。主題歌最高に良い曲ですしね。

まあ「やらせ」というのは今では定説ですし、楽しもうと思います。しかし40年前の景色、人となり、は嘘はないと思います。またジャケットが良いセンスしてます。

内容は、こんな映画だったのか、という程度。ぜんぜんショッキングではない、というものです。実際に今の犯罪の方が異常すぎると思います。

すごく感じたのは人種がいろいろといて東西南北に広がり、さらに貧困の差があるとこんなにも面白い違いが出るものか、ということです。問題は貧しい人が貧しいと感じているかで、それが富裕層の犠牲になっているのなら仕方ないのですが、違うなら彼らの生活はそのままにしておきたい、と思うのです。富裕層の犠牲では原爆実験のシーンでしょうか。

あとはBGMがまったくうまくかぶせてあり、雰囲気の強調がうまいです。そして良い音楽がかかりすぎていることかな。

世界残酷物語という感じの映像ではないです。残酷な話はもっとあるような気がするのですが時代が変わったのでしょうか。今は大企業、国際優良企業の犠牲になっている残酷物語とかいくらでもありそうですが。まあ次元が違うのでしょう。日本の場合は金融物語とか作れそうです。実際昨今UFJの危機と言われてますが、つぶすなら早く、ですね。みずほ、りそなは大丈夫なのか、という感じもしますし、変な時代です。すくなくてもこの映画の頃は残酷そうでも生活で必要な残酷な映像のような感じはします。ナチスの映像がないのは決定的におかしい。しかしこの映画で出てくるアジア、オセアニア、アフリカの映像は良い感じです。日本を含めて、本当にあるのなら行ってみたいですね。しかしさすがに地元だけあってイタリアに関しては良い感じです。さらに最後のポート・モレスビでの飛行機神話を作り上げた現地人の話はなんか夢がある感じさえします。

主題歌は流れてこないのですね。主旋律しか流れてこなかった。つまらない。

「セーラー服と機関銃」 相米慎二監督 1981年

静かなタイトルバックで良いです。

機関銃をぶっ放すシーンも無音で静かな感じをうまく利用して激しさを強調しておりますね。この映画自体アイドルを作る目的とそのアイドルをスター化する路線ですが映画自体もすごくよく出来ていると思います。たとえば、ボスの死んだあと、組長に高校生を迎えるとき、雑踏(高校のグラウンド)のなかで中心にひとり前に進み出るのが薬師丸さんです。本年の最初に映画をこれにしたのも正月に薬師寺に行った関係でしょうか。まあ関係ないのですが、とにかくこの映画、アイドル映画なのですが、意外ときわどい言葉ややり取りが出てきて観ているこちらがびっくりいたします。実はリアルタイムでは観ておりません。今だからこの映画の面白さがわかったのかもしれません。

赤川次郎の原作を読んでいないので、詳しくはわかりませんが、この映画、一人の高校生が、組長というか自分の判断で善悪の区別をつけられるまでになります。最後に裏切りをしている組に殴りこみに行くのですが、この殴りこみに行くまでの過程がうまく表現されていると思います。そして殴りこみのシーンの素晴らしさ、部下のふたりのエレベーターでのやり取り、降りてから、踊りながら殴り込みをかける余裕、待っている相手組長が組長室で観ている映画(劇中映画)その音楽とシーンの重なり具合、そして極めつけの機関銃ぶっ放したときの無音とスローモーション、そのなかで動かないスターと動きのある部下の対比、ここにすべてがあるような気がします。部下が向いている方向が実に絵になっております。一高校生がここまで出来るようになるのには何人もの死体が必要でしたが、その一つ一つが話としてすべて高校生を精神的に育てる効果があり、その結実の最高のシーンでした。

まず、かたきをとろうと思い始めたのは「ひこ」という暴走族あがりの部下が殺されたときでした。このシーンも上に同じく素晴らしいシーンがあり、暴走族の連中の束の中からこのセーラー服組長(以下Aとする)を乗せたバイク一台が画面の中央をこちらに向かって走ってくるのです。そして会話はとてもロマンティックなものです。すごくきれいなすがすがしいシーンですよ。ほかにも部下がAを守ろうとして死ぬときには母性に目覚めますし、相手の麻薬を扱っている組長をその娘が殺して助けてくれたときは、正義を感じたのでしょう。本当にスター制度みたいに周りの犠牲がAを際立たせるようにしていき、その答えとして殴りこみになるのです。そのAの心情はほとんど表現されておらず、客観的な事件としてこのことを示す手法をとっているみたいです。

快感という言葉には、途中新興宗教みたいな団体が麻薬を扱っているのですが、その組長が「快感は死と隣り合わせにある」という言葉が極めつけのシーンに効いてきます。死ぬ覚悟が出来ていたということですよ。

そして、殴りこみのあと組が解散し、それぞれの人生を送りますが、この短い間の経験は普通の高校生とは違うわけで、普通の人間になれそうもない、というような言葉で映画が終わります。強い人間になれるのでしょう。きっと。

最後に主題歌が流れて、銀座のロケで終わるのはなんとも楽しい終わり方です。まる。

 

1/4

「津軽じょんがら節」斉藤耕一監督 1973年

逃げるとしたら、土地勘のある土地に。これが捜査の鉄則みたいですが、まさに絵に描いたように自分の故郷に逃げてきた女とひも。故郷といってもかつて、そこを別の男と駆け落ちしているので誰も歓迎する人もなく、さらに父と兄弟が海のしけの中で遭難した場所が眼の前なんです。その津軽の寒々しい海と荒い波が人間を小さく見せてくれます。実際に大波の前に人間が一人立つ構図がはじめのほうに出てくるのですが、どうしようもなく人間の存在が小さいですね。

ひもの方が悪いことして逃げてきたんですが、先に飽きるんですよ、田舎の生活に。女のほうは(Aとする)自分の家族の墓を立ててやるという強い意思があるんです。ですから生活に意欲的でひもを食べさせてやるという気持ちすらあるんです(ひもをBとする)。生活を立て直そうとするのは映画の端端でよく描かれてます。しかしBは途方もないところに来てびっくりしているとともに、何かしたいと変な欲求があります(やりたいことが不純なことばかり)。それがAに体を売らせて脅す、という馬鹿な提案になるんですね。しかし生活しようとするAはそんなことにお構いなく前向きです。いつも思うんですが、この二人に限らず、離れられない関係というのは存在するんでしょうね。男と女の不思議さです。この不思議さが関係ない盲目の少女(以下Cとする)にも影響を及ぼし、この映画の冒頭のシーンになるんです。冒頭のシーンがすべてが終わったあとの、愛の、生の問いかけです。では、どんな成り行きだったのでしょう。

Bが暇にまかせてCにちょっかいを出すんです。はじめ、このCは私もあまり美人ではないような気がしましたが、だんだん演技がうまく、少しずつ魅力が出てくるんですよ。俳優の名前は中川三穂子です。この人いいですよ。江波杏子とともにこの映画にいいあくせんとをつけてます。Cは生まれつき眼が見えないのですが当然普通の人と同じ情感、愛情は持っています。多分かなり早い時期からBのことに好意を見せているんです。伏線としてめくらは「いたこ」にさせようという家の方針があるんですね。しかしせめて「ごぜ」になりたいというのです。女のめくらの芸人で村から村へ芸事をしてまわって生活を立てていた人たちですね。ここで三味線の音とお地蔵様が映し出され少なくても30数年前の日本の風景を映し出します。こういう映像は本当にいいですよ。日本は変わってしまってますから、少しでも昔の風景は残しておきたいものです。たしかに映画の中でも、現代化の象徴として東北新幹線の話が出てきます。現実にはまだ本州の北のはてまでも届いていないんですが、便利になるという会話に象徴されます。この会話のシーンのある居酒屋でAは働いているのですが、Aの気持ちを動揺させる出来事が立て続けに起こります。まずBとCの関係のうわさを耳にします。次に父と兄が遭難したと思ったら、偽装で逃げていたらしいという証言も耳にします(それで保険がおりません)。つぎに蓄えとして貯めていたお金を知人に預けたら持ち逃げされます。結局、まわりはすべてAを裏切っているのです。家族、知人、恋人、そうしたらどうなるでしょうか?ひとり、寂しく人間不信になるのでしょうね。

BはBでCに売春させようとするのです。Cは実は近親相姦の末に生まれた子供で、Cが眼が見えないと知ったときに父親は自分の目を刺して死んでいったそうです。まあ狂った家系です。それで眼が見えないというときに、このときもばあ様がCに憑き物がついているとたたいて追い出そうとするのです。こういう風景もBは慣れていないし、気持ちも移っているので助けようとします。この憑き物とかのことですが、Cは当然信じているのです。こういう状況のシーンを見るにつけて、フランス革命は本当に大きいなあと思います。

昔、知識は一部の人の特権でした。本を買える人=貴族が知識人だったのです。しかし、自由平等の精神は教育の自由を導き、万人に望む限り教育を受ける権利を与えたのです。すなわち貴族の特権が消滅しました。しかし、偏狭な地域やKKKのケースのように故意的に閉ざされた教育も脈々と続いておりました。その一例がこのCの家庭です。はじめからCがいらないものとして扱っているのでCもそれが当然と思っているのです。このような状況は今では、特に都市部では考えられないことです。そして、さらに時代の変化が描かれます。それは鉄道の開通です。すなわち空間の超克です。便利になると都会に行くことが簡単になり、出稼ぎが増え、お金を稼ぐということの反面、お金を使うことも覚えるのです。しかし昔と様変わりしたこの地方でも昔かたぎの人がいてBはその人の手伝いをしているうちに自分に合っていることに気づきます。どこにきっかけがあるかわかりませんね。そして好意を持つCと生活を始め、この地方に溶け込みます。A居場所がなくなりBに無言のうちに「故郷が出来てよかったね」と言い残して去っていきます。そしてBは文字通り幸せな日々を送りますが、ここに追っ手が来てしまいます。そしてBは殺されます。残されたCは感情を抑えきれないことでしょう。Bが希望の星のような存在でしたから。

では冒頭のシーン。「ごぜ」に対してCがいろいろと話します。Bとの出来事や、いまだに好きなこと。「ごぜ」は仕方ないことだから忘れなさいと。

このまま、Cも「ごぜ」になっていくことでしょう。しかしめくら、としては深い愛情を経験しているのでその芸事は深いものになり、一流の「ごぜ」になることでしょう。

Aはまた東京にでも戻るのでしょう。キネ旬報第一位らしいのですが当時にはマッチしたのでしょうが今の時代ではちょっとテーマがうまくまとまらない内容だと思います。

「サハラに舞う羽根」シェカール・カブール監督 2002年

「エリザベス」の監督というだけで観てしまいました。1884年の英国ですか。世界の四分の一を支配ということですが、欧州のこのような植民地支配については何もとがめられないのは、結局はいまだに欧州勢力が強いからでしょう。その英国で祖国のために戦わないものを示すものが「白い羽根」とのこと。はじめからラグビー、キルト、ティーと英国を示すものが出てきます。

はじめに若い二人の婚約発表があるんですが(女をA,男をB)そこでの席のダンスの場面ダンスの音楽を止めて映像だけ躍動的に音楽はピアノ一本というのはきれいです。

まあ彼らは軍隊なのですけど、その軍隊の練習風景を見ていると強そうもないです。英国の支配は産業革命を背景に他国にない武器で、技術優位性のもと実現しているので兵士の力は人口のままでしょう。人は石垣なんですがその人口がないのがやはり衰退の原因ともいえます。というよりもともと面積が小さいですからねえ。

案の定、アフリカで氾濫があり鎮定に向かいます。Bは結婚を前にしているし、怖さもあり除隊願いを出します。当然受け入れられません。そのくらい丁重な教育を彼らは受けているのです。上でも行ったように弱いだろうと観ていて思えるくらいの英才教育です。砂漠ではそういうのは通用しません。当然「臆病者」のレッテルは貼られます。Bの友人のCBを信じているのですが、Bはもともと帝国主義に反対なのでしょう。Aも軍隊に戻れといいます。結局破局してBは失意のうちに民間人として単身スーダンに向かいます。そこで砂漠を越えて英国軍の基地に向こうとするのですが、ガイドに裏切られ砂漠で置いてけぼりを食います。砂漠で一人はつらいでしょう。そんな中Cは英雄として本国に帰ってきます。Bはまるっきりシェルタリングスカイです。倒れたところ現地人に拾われた。

そして現地人とともに英国軍の荷物持ちに採用されます。しかし現地人もBをおかしいと思い(スパイの可能性もある)現地人も高級部族と低級部族がいるのです。その低級部族の一人Dと話すようになります。BDは行動をともにしますが高級部族中心の反乱軍が英国軍の要塞を占拠しているところに入っていくとBだけ連れて行かれます。そこでDは単独に英国軍にこれから襲ってくると知らせに向かいます。Dも高級部族を一掃したいのでしょう。信じない英国軍は四方から攻められます。角陣を組む英国軍に攻めるときの迫力は「アラビアのロレンス」を上回ります。味方の援軍が来たと思い逃げるアラブ軍に追い討ちをかけると砂の中に隠れた兵隊が飛び出してくるし、援軍は先ほどの要塞を占領したときに英国軍から奪ったものです。Bは見た目がアラブに見えないのでこの兵隊に属してました。そして敵だということをいち早く教えるために先に飛び出したのですが、まさに英国の兵隊、それも多分Bの親友でAの今の恋人に撃たれます。映画ですから馬が撃たれて落ちるのですが、英国軍はもうだめでしょう。しかし素晴らしい戦術です。Bは親友だけ助けますが親友が自分の許婚と結婚するつもりなのをもっていた手紙で知ります、そこで現実の厳しさを知るのですが、親友もまた戦場で怪我をして目が見えません。Bが助けなければ死んでいたでしょう。そして帰国しました。BDがある程度まで送ったんでしょう。ロンドンではAが待ってますが目が見えないというのをあってはじめて知ります。そこに戦友がきて戦場でBを見たというのです。そのあと仲間の戦友を助けに刑務所に行ったと言うのです。

その後は刑務所のシーンですが、「ミッドナイトエキスプレス」みたいなものです。Dがたまたま差し入れてくれた毒薬を戦友とBは二人して飲んで死のうとします。アラブ上流階級の司令部の人間の方がしっかりしてます。同じ日に英国人捕虜が死んだと聞いたらすぐに死体置き場に行きました。タッチの差でDが救出に成功します。この薬は「ゾンビ伝説」にも出てきた薬かもですね。あの映画もお勧めです。

しかし追っ手が来ます。そこで二手に分かれますが、玉が一発しかないのでどうしても不利。最後の命の叫びを思いっきりぶつけてどうにか追っ手を殺します。この叫びは生存本能なのでしょう。愛も失ってますから。そうしてDと別れて友人を連れて英国に戻ります。Aに会うのですが、Aは「白い羽根」を返してといいます。「これはずっと僕を守ってくれた」という言葉でわかりました、Dもほかの上級原住民もこの羽根の意味を知っているか、現地ではいい意味なのでしょう。

最後に助けたAの夫となりそうな親友の演説。「両隣にいる友人のために戦う、彼らとともに過ごしたよき思い出のために」という締めくくり。結局ABは一緒になるでしょう。神の思し召しです。笑い

まあ、とてもいい映画です。

 

「事件(じけん)」野村芳太郎監督 1978年

法廷劇なんでしょうが、はじめからすべて事件が解決する方向でスムーズに進みます。

事件は彼女の姉を殺害。何とならば、姉に妹との間に出来た子供をおろせといわれていたからです。主人公は19歳の青年Aです。未成年だから裁判官も早く片をつけなければならないと言うのです。未成年の保護を考えた判断です。最近ではこういうことも通用しない事件が増えてますけど。そして裁判検事も弁護士もみんな冒頭陳述がどうもおかしいと思っているのです。映像ではフラッシュバック的にどうも姉をかばっているのではないか、という映像が挿入されます。

とにかく舞台の初めのところはうちの近くばかり出てくるので、すごく親しみがあります。地裁や中華街が出てきます。事件も厚木ですし。

「金にならなくてもマスコミが集まる事件をやれ」これが弁護士商法の第一条だとのこと。弁護士がやたらがんばります。ほとんど動いていないんですが、それであてずっぽ言って本当ならそこから新しい糸口が見えてくるという戦術です。もともとAは殺意を認めているのです。ですから刑は軽くなれば成功ならなくて当たり前の事件です。

しかし証人の後ろめたい事実ばかりが裁判で浮かび上がってきます。そして決定的なことは殺された姉が家を飛び出していったのは、母の愛人が手を出してきたことによるという事実がわかってきたのです。母のいい加減な夫婦関係が娘まで変えてしまったのです。そしてホステスに身を落としてそこでチンピラと出会っていくのです。このチンピラがまた人生を狂わせていく。その中で妹とAは埒外の人間だったんですがいつの間にかこの人間関係に巻き込まれていくのです。さらにAは姉と関係していたのを妹に見られてしまったのです。そして姉の妹に対する言葉は「力で奪ってみろ」でした。それから妹は積極的になりAに接近していくのです。

さらに姉はチンピラと縁を切るために逆に手切れ金を払っていたのです。殺された姉はこのようにぼろぼろになっていったのです。そして妹が幸せそうにしているのをうらやましく思ったのでしょう。殺人の瞬間、この姉の顔は「般若」みたいになります。自分だけがいつも不幸、こんな人生は生きられない、そう思ったのでしょう。そして姉が居なくなって周りはうまくまとまったのです。この殺意の証明、出来ないのですよ。

地味だなあ。難しいテーマですよ。しかし神奈川の厚木、平塚あたりですが本当に田舎の風景の感じがしましたね。うーーん、田舎なんだなあ。

 

「ザ・商社」和田勉演出 1980年

とにかくあまり期待していなかったのですが、かなり面白いです。

第一回 愛する時と死する時

なんてったって、片岡仁左衛門さん、山崎努さん、夏目雅子さんがいいですね。

安宅産業のなんというか小さな商店経営的な部分なところが強調されていてすごくわかりやすい。そして、変な油田計画に乗り気になってしまうところが、今思うとすごくおかしいのですが、結果論です。さらに海外での日本人の人間関係も面白く描かれてますね。

 

第二回 江坂ファミリー

ここで思うのは、財閥がまだ直系の場合は(創業者が見えている場合)はなにか甘さが抜けていないということ。

そして夏目雅子役のピアニスト(A)が社主の人事の思惑を聞いてしまうことでドラマが生まれます。これは事実かどうかわかりませんがドラマツルギーそのままです。このAが慕うアメリカ子会社の社長を追い出そうとする話を聞いてしまうのです。

さらに取引先のレバノン系のアメリカ人に追加の無担保融資を条件につけられてしまう。

このことを稟議で承認を得ることがなかなか困難な直系の支配力が強い商社なのです。敵は身内にあり。しかしこの取引相手も然るもの。中東情勢を見越してオイルショックの可能性から条件を引き上げているのです。

次の回が楽しみになりました。

 

「ザ・商社」2 和田勉演出 1980年

第三回 「セント・ジョーンズの神話」

いやー参りました。せっかく石油代理店契約を、トリックを使ってうまく軌道に乗せようとするときに本国日本に帰れとの辞令。おいしいところは子飼いの新任の部下にやらせようとするのです。しかし相手はこの主人公を信じている部分があるので、ほかに急遽変わったら解約ははじめからやり直しでしょう。

そんな日本側を尻目にレバノン人は秘密事項を隠して商社の金だけを取るつもりになります。まさに主人公は嵌められました。

あのピアニストも精神的に参ってしまい、アメリカという国が二人を蝕んでいく様子が描かれます。それどころか、企業全体に影響をします。さらに第四次中東戦争で原油価格は7割上昇します。

しかしアメリカ、カナダは国内物価の安定のため、石油価格の調整に入ります。アメリカは国内備蓄の供給。カナダは国内価格の安定。

しかしこの商社が絡むカナダでの石油取引はもとの原油をBP(北海原油ですね)からカナダのガソリン国内価格以上の価格で国際商品市場の高騰のため仕入れていたのです。そのため売れば売るほど損が出るのです。カナダ政府はこの事態になる前に手を引いてます。それは国内政策の絡みでしょう。

そして主人公はこのカナダでの製油事業のパートナーが一発勝負屋の出自が貧しい男で、かつ地元にまったく溶け込んでいないという事実に気がつくのです。この時点で融資銀行もこの商社も現地をほとんど見ていないのです。現地主義からの逸脱の激しいことこの上ない。この時点でこの主人公は所属する商社の中で暴走してしまったといわざるをえない。

最終回 「日本の中の異邦人」

ここまで、描かれているのは、すべての人間が、小さな存在に過ぎず、大きな時代の流れ、政府の意向などからは遠い存在であること。さらにその小さな存在でも、みんな平等に愛する気持ち、楽しい気持ち、悲しい気持ちなどを持ち合わせその一時に気分が左右されてしまうという生き物であることには変わりないことが描かれております。さらに、自分の中で一番大切だと思ったことも、瞬間に消えてしまうという事実、しかしそのような悪夢の中でも変わらない感情を持ち合わせる人間、という両面をも描いていると思います。

この最終回ではそのようなことが、「負の連鎖」として悪循環した結果が描かれます。

しかし、日本政府は逆に一致団結の気配を見せます。それは債務移動の会社を作り、商社自体の簿外に持っていくということ。そして商社の決算では実情が表面化しないというような段取りを作るのです。しかしマスコミが動きます。そこでは安宅コレクションが槍玉にあげられます。今考えると笑えるのですが、安宅産業がつぶれると経済界に大打撃という環境として描かれてます。いまの若い世代は、大手銀行が次々に弱体化しているさまを見ているので不思議に思うでしょうし、商社自体ももっと悲惨な状態に現状あるのです。このときの安宅産業が足元にも及ばない商社がアップアップの状態でスモンね。

 

「ショウほど素敵な商売はない」ウォルター・ラング監督 1954年

まずはボードビルのドナヒュー一家のショー。子供が増えていくのが楽しいです。1919から1923年頃。

この映画は本当に楽しいです。マリリン・モンローは脇役ですけどね。

ミュージカルに変更後のドナヒュー一家のショーは楽しいですよ。「アレキサンダー・ラグタイム・バンド」です。

その打ち上げみたいのバーでマリリンと出会うのです。この映画のマリリンはそんなにきれいではないのです、しかしかわいいところは相変わらずですね。プロモーターが来てそこで売り出そうとして歌うシーンがまあこの映画では一番いいです。なんというかミッチィ・ゲイナーにいいところもって行かれている映画なのです。そのくらい周りも素晴らしいので、どちらかというと引き立て役に回っているような映画ですね。そしてフロリダでドナヒュー一家と同じ曲をやるということで、譲ってもらったやったショーが大当たり。このシーンもいいですよ。

そしてブロードウェイ、ここでドナヒューの子供たちと競演する舞台は最高です。この映画はここまでもいいシーンの連続ですがここから最後にかけてもノンストップのいいシーンばかりです。このブロードウェイのあたりからマリリンもすごくきれいになってきます。

ここではマリリンの引き立て役にドナヒュー一家がなっていくのですが、なんと言うか映画のリズムドナヒュー一家のリズムですので、そのアクセント付けにマリリンというのは間違いないと思います。転調という感じですね。しかし、「ショウほど素敵な商売はない」の歌に至っては家族みんな集まりますし、その間のごたごたも忘れて舞台に立つ母親(これがまた名演です。エセル・マーマン)の気持ちが歌詞になっていてうまく舞台と現実と混ざり合います。そしてエンディング。カラフルな色。舞台中、絵のような色です。

本当に素晴らしい。こういう映画を見たことない人もいると思うのですが、やはり馬鹿にしないで古くてもいい物はいいと思ってください。

「死国(しこく)」長崎俊二監督 2000年

最初見たときは面白かったのですが、今回は意外と平凡な映画のような気がしました。

まあ高知県が舞台なのですが、そこでシャーマン系の家系に育った娘があるときに死んでしまいます。しかしその霊を生き返らせようとする親たち。それは閉じ込めた悪の霊を呼び起こすみたいな目的を持っていると考えて問題ないでしょう。もっと複雑なんですが、簡単にはこんな感じです。

その娘の幼馴染の女友達と男友達が絡み合うドラマです。この男友達を死んだ娘は好きで、かつ男のほうも好きな相思相愛の関係なのですが、娘は死んでしまいった今となっては、女はこの女友達のほうになります。またこの女友達も美しく成長して、土地の相続の関係で離れていた故郷に帰ってくるのです。

そこでこの女と近づいていく男を霊界から牽制するがごとく、シャーマンの娘は登場します。この愛情の三角関係と、四国のお遍路の呪縛との関係があるひとつの家系を通じて、ひとつの地域で、石鎚山の近くで起こり、その霊も鎮魂され、無事解決するといった話なんです。

しかし男はこのシャーマンと心中する形で犠牲になることで解決するといった意外とロマンティックな解決方法が用意されております。この辺はあの世でもうまく行くのかなあ、と思えるようなきれいな終わり方ですし、役者の存在感は女優二人には特にあると思います。このことがこの映画のイメージを良くしているような気がいたします。夏川さんと栗山さん。特に栗山さんは、多分何も演技していないと思いますが、気持ち悪い雰囲気を持った女優さんでした。

 

「シー・オブ・ラブ」ハロルド・ベッカー監督 1989年

実に意外なことにはじめてみる作品です。

アルパチーノ、エレンバーキンなら観ていそうですが観ておりません。

刑事役です。しかし題名は映画の中で流れる「愛の海」というナツメロのタイトルですね。

シーは彼女ではなく「海」でした。

プレイボーイが連続して、事の最中に殺されます。彼らは共通して新聞の出会いの欄に甘い詩を掲載して女の気持ちを惹きつけるのです。しかし3人連続して殺されます。犯人は女らしいということで、おとり捜査に走ります。それはこのプレイボーイ役を刑事が行うということ。ちょっとおいしい仕事でもあるので上司の許可はなかなか下りないのですが、まあやるしかない。

しかしそこで出会う被疑者の女性の囮としてアルパチーノが近づいていくのですが、なにか魅力を感じるのです。しかし半分疑っているのです。その疑いも晴れて結婚しようとするときに最後に彼女の家で徹底的な証拠らしいものを見てしまうのです。そのため躊躇しますが、それは実は彼女のもと旦那が彼女をストーカーして元妻が寝た男を殺して歩いていたというおち。

この結末は意外とたいしたことはないのですが、何がいいのかって、二人のラブシーンがいいのです。これはなんというか恋愛している二人の距離感ってこういうものだよな、と一目でわかるような感じで、エレンバーキンの演技の勝利でしょう。

それだけでも最高ですが、内容も枝葉の部分が面白かったり、今は主役級が脇役で出ていたりで面白い映画でした。こういう風に期待しないで観て面白い映画に出会うとうれしいですね。

「沈みゆく女」リン・ストップケウィッチ監督 2000年

「キスト」が意外と好きな映画です。テーマは異常なんですが意外と見ていて気が楽な映画でした。同じモリーパーカー(A)主演です。

ここではモーテルの受付のバイトをしている、欲求不満の主婦を演じております。旦那がナルシストで自分の美しさなどを捨てることが出来ない男で性的関係も淡白です。これがこのAには満足できなくて、体を売ることをはじめます。すると口コミでそのうわさが広がり、お客は次から次に集まってきます。その中にやけにやさしい男がいるのですが、だんだんその男と深みにはまっていきます。ここが盲点で、この男はそれがテクニックでAを駆け落ち、すなわち熱愛と思わせてその気にさせて家を飛び出させて、娼婦にさせるのです。

そのことを知ったAはぎりぎりのところで逃げ出すのですが、帰るところはもうない。しかし、まあ女友達が今までの行為を知っていながら友情を示してくれるというやさしい終わり方をする映画ですね。

確かこの監督、カナダの女流監督だと思ったのですが、女の欲求不満とやさしい女同士にしかわからない友情、思いやりをうまく描いた話だと思います。しかし平凡なストーリーであることは間違いないですけど。

「しなの川」野村芳太郎監督 1973年

これは昔ポスターが有名だったのと、監督で外れていないだろうと思い見てみました。

大正時代に訳ありで生まれた女の子が大きく成長した昭和4年ころの話です。旧家の家柄ですがそこに奉公に若い男がやってきます。Bとしますが沖雅美さんです。人気ありましたよね。この人の歌結構好きでした。多分いまだにシングルは持っていると思います。お嬢様をAとします。由美かおるさんです。この人は興味ない女優です。でも人気あるんですよね。当然、この旧家はしなのがわのほとりです。

BAに身分が違うのですが「はつ恋」をするのです。もう初々しいのなんの。私ももう一度初恋なんかしてみたいですね。そしてAも当然Bに好意あるんです。わざと連れ出して川のほとりで裸になって水浴びをBに見せるようにするのです。このシーンが有名だったんですね。私はこのころは邦画はまったく見ないで洋画専門でした。

ひょんなことからAは自分の母親が生きていることを知ります。そしてそれを隠していた父親に対して軽蔑のまなざしを持って口もきかなくなるのです。そのために父親は長岡の寄宿舎に転向させることにします。なぜ母親は駆け落ちしたのか?それはこの父親(夫)が男色だったからです。

寄宿舎の生活ですぐに憧れの人ができます。国語の教師です。しかし学校にばれることとなり退学、教師はそのままAを引き取りたいと父親を説得しますが反対され、母親同様「駆け落ち」をします。東京に出るのですが世間の風は冷たくジリ貧の生活となるのです。

そしてこの教師は赤狩りにあって警察に捕まるし、実家からの捜索願により刑事がAを引き取りに来るしでAは実家に戻る、すなわち2番目の恋人とも別れなければならなくなるのです。

そして恋人の男が簡単に警察の前で女を裏切ったことを知るのです。さらにもうひとつ、母の居場所がわかりました。そしてここが若さだと思うのですが、電車から飛び降りて向かうは母の場所ではなく、男の場所なのです。男は未練がましく、抱きますが、本気ではないのでしょう。しかしAは恋愛を信じています。そして身をささげるのですが、ここで何か感じ取るものがあったのでしょう。別れる決心をします。この思い立つ気持ちというのは大事にするべきですし、後悔がなくて良いと思います。次に向かうところは、実家でした。実家は事業が傾きつつあり、あの初恋の男はやめさせられていて、周りの視線もどこか冷ややかなものとなってます。

しかしたまたま見つけた昔の男と焼けぼっくりに火がついちゃって、心中するのです。これじゃドラマが終わるので、Aは生き返る。男も大丈夫でしょう。

その男の母に、「お前は母親にそっくりだ」と言われたことから、母に会ってみたくなります。この母は佐渡にいます。佐渡の映像はまさに「砂の器」の映像のような景色で人間の運命を表現しているかのようなものですね。

この母親役、岩崎加根子さんでした。あの「人間の条件」に出てきた美人の人。もうちょっと面影しかないんですが。

ここで逆転ホームランのように母を理解し、父を理解し、自分を理解して何をすべきかがAにとってわかってくるのです。これはみんなが正直になったおかげです。そして縁談。金持ちとの縁談ですが、とってもいい話なんですよ。それを薦める人間が嫌いだからといって避けてばかりいては前に進めません。いまはそのような障害もなくなってめでたく結婚式。

「昭和残侠伝血染めの唐獅子」マキノ雅弘監督 昭和42年

昭和初期の浅草、とりあえずお決まりの満州事変の数年前です。みんなこういう発想がないんですよ。東京博覧会らしい。ここでひとつ大きな視野を持ちたいのですが、この映画に出てくる人たちが真に戦争を望んでいたか、というとこの映画の人たちでさえ望んでいなかったと思います。

鳶職人の頭は大喜びしますが、そこに博打畑の組の頭が建設業に(笑い)進出するということでこの大きな仕事を請け負いたいと懇願に来ます。浅草地域はこのとびの頭が江戸時代から任されていると断ります。元締めなんですよ。ここで鳶の話をしたいんですが、うちの店を作るときも優秀な鳶の人たちが入ったんですが、それは周りとか通行人も見物するすばらしい仕事でしたよ。仕事自体が人を惹きつけるんです。

とにかく、この新興は政治と組んで入札制度導入を考えてます。確かに入札制度は自由競争でしょうが、今でこそ、この制度は有用だと思いますけど、この時代は街の仕組みを変えてしまうものではないでしょうか。今残っているゼネコンの母体を見れば地域密着というよりある時期から金の勢いで急成長したという印象はぬぐいきれません。この自由競争という名の元、大事なものを失ったかもしれません。実際食えなければ、負けですし、撤退しかないのです。鳶なんていうのは職業を超えて文化だと思うんですけど。

そんなときに鳶のエースが帰ってきます。健さんです。(Aとしますなんていえないですよね)すぐに頭になってくれと周りの願いがきます。しかし「無理と断りますが」無理やりに頭の羽織を着せられると「受けます」。この受けるということは周りの懇願を(信頼を)受けるというすごく重いことなんです。それを承知でなるというのはなかなかできない。今は逆に周りから頼まれなくても自分が、俺がなりたいというやつのほうが多すぎます。

そこに良さんが来て「俺がいる限り俺の一家とお前のところを敵味方にはさせないつもりだ」とかっこよすぎる。良さんの妹が純子さん。健さんの家で待っているとのこと。結ばれます

そして入札。新興は白紙。結局、一番安い値段を読み上げてできレースにしようとするのです。それがばれて、鳶の連中に落ちます。しかし良さんは疑われるし、土建の仕事に口を出してはならないといわれます。絶対に「渡世の仁義」は守る男なのにもったいない。

そんな時新興の親分が良さんの妹を嫁にといいます。

しかし新興の親分の嫁に、と言われてた女がいます。当然断りますが、話はややこしい方向に。借金のかたなので、金を作らなければなりません。鳶の一人(B)が火消しの纏を質入して金を作ります。しかしそれが敵の手にいってしまいます。みんなでお金をかき集めます。小頭の母親も気風が良いですよ。また金を返すときの気風のよさ。集まったお金すべて、多い分は利息でつけてやれ、と。たった一日ですよ。この辺の一言一言がすごく勉強になります。しかし金を持っていくとそのBは殺されます。そして警察沙汰にされ、Bの一人芝居ということになります。纏は当然帰ってきません。しかしBの好きな女が新興のボスのところに行けば問題は解決です。行く決心をして、纏を火事現場に持ってきて「堪忍してください」という女、それを受け取る健さん。しかし女は自殺をします。その死体を持っていってお礼を言う姿は泣かせます。しかしこれにもめげずにどんどん業者を引き抜き、脅し、仕事ができないようにします。そこで良さんも新興土建や博徒を破門になります。これで良さん健さんが二人で殴り込みをかける準備はできました。その前の藤純子さんのせりふは女の気持ちそのままです。

最後に警察の捕まるとき、警察は個性喪失した役人で、中央に男と女。女が自分の作った着物の着崩れを直してあげて、いつまでも待つと無言の返事。良いですよ。

 

「十三人の刺客」 工藤栄一監督 昭和38年

老中の屋敷前にて播州の明石藩江戸家老が切腹をして自害します。明石藩の松平家はこのときの将軍の弟だったので重大問題に発展します。冷静に見ると播州は西の要衝でもあるので弟に任せていたのです。また次期の老中も決定しているのです。それなのに、播州国の中で百姓一揆やら参勤交代の際中仙道木曾の上松での婦女暴行事件やらで評判がよくないのです。現老中がこんな人間を老中にできないと判断暗黙に処理したく作戦を練ります。しかし相手は将軍の弟。

しかしお咎めなし。お殿様は当然というくらいのぼんぼん、ですが家老はおかしすぎると思うのです。その通り、裏で動き始めました。狙いはこの馬鹿殿暗殺。

しかし家老もスパイを送ると、大物が動いていることがわかります。スパイも殺されます。これで家老もどんな動きをしているのかわかります、よって準備万端整えます。

しかしこの老中方の追っ手の中の助太刀を買って出る、西村「黄門」晃さんかっこいいですよ。この人は役者ですねえ。以前「髑髏船」で見たときのあの狂ったような演技もできるんですから。

さあ、殿様は参勤交代から国許に帰るときがきました。帰るまでに奇襲が成功しなければ、相手の懐に入り込むのは容易ではありません。

その前に暗殺者の中心人物は(片岡千恵蔵さま)は三味線で仲間を増やします。この三味線の乱弾き良いですよう。

さてと次の日、馬鹿殿は出発。しかし家老がしっかりしております(ここで家老と書いたのですが今まで家老と書いていた人はもしかしてもう少し身分が低いかもしれません、ご勘弁を)、この家老は隙をまったく作りません。追っ手も手を焼きます。

最終的に博打で木曾の上松の近く落合宿です。2つの街道しか選択肢がないので来ると踏んだのです。待つといっても12人。大丈夫なんでしょうか?とにかく前に上松でもめたときにわりを食った尾張藩の協力を仰ぎ通行止めにさせて、尾張藩を通らないルートを探させるというのです。もう博打の世界。そして落合宿の家をとりあえず買い取ります。幕府が裏でやることなのでお金はあるのです。馬鹿殿退治も大変です。この馬鹿殿も「挨拶」の礼儀は欠かないのです。そこに博打があったのです。挨拶の礼儀を欠いて笑いものになるか、それを避けるかで博打を張ったのです。そして殿は博打のほうすなわち待ち構える方向に進み始めます。しかし敵も然るもの、伊那で姿が消えます。そこでどうするのか?動かないのです。初志貫徹。素晴らしい戦術哲学です。

やってきました、そして宿場ごとネズミ捕りのように作ってあるので狭い路地行ったり来たりしているうちに仲間が離散して馬鹿殿も一人になってしまいます。そこを討ち果たす。

名目は発病で御領内に戻りてすぐに死んだとされているとのこと。

 

最後は意外と敵も味方もわからない乱戦で本当に何が起こるかわからないような感じでした。それを追い込んだ策士の勝利です。評判ほどいい映画ではないですよ。

 

もっと痛快無比な映画だと思っておりました。

 

「死んでもいい」石井隆監督 1992年

これは観ておりません。評判は聞いていたんですが、やはり映画から遠ざかっていたときですね。

大月駅の改札出て商店街に出るところで男と女が出会います。男をA女をBとしましょう。出会いは夏ではない時期。夏だと肉体的に余裕ないので、また大月のあたりは暑いのでこんな感じにはなりません。Bは不動産屋の人妻。Aはこの女に一目ぼれ。そして不動産屋で働きたいというのです。まあ積極的ですね。

Aはどうにか仕事をはじめ、順調に不動産屋に入り込みます。そしてあるとき空き物件の中でBを待っていて来たら、そのまま体を奪ってしまうのです。何か、あまりに安易なんですがどうなるのでしょうか?題名からすると見当がつきますが。

そしてABは体がお互いちょうど合うのです。フィット感というかドンぴしゃり会う関係ってありますよね、そのような関係です。Bの役が大竹しのぶさんというところに無理があるのですがまあいいんじゃないでしょうか?田舎娘のイメージありますよね。

そして社員旅行があって旦那が酔っ払って朝までおきないと思い二人でお風呂に入ります。そこを見つかる。というより、普通はそこまではしないでしょう、と思うのですがねえ。

奥さん立場ないですよ、裸で一緒に風呂はいっているの見つかるんですから。私だったらなんて言いますかねえ?

まあ夫は無視するようになってしまいますわ。それとは関係なく「赤い糸」的な出会いはBをして履歴書から元の職場を訪ねさせます。ABの再会。それも女のほうから。やばそう。

Bのせりふはいい言葉が続きますよ。「何で後ろめたいのかなあ」「出会うのが遅いだけでなで一緒になれないのかなあ」とかほとんど良いせりふです。

ここで重要なのはBAに会いに行かなければ何もなかったのですが、ここで会い話しているうちに女一人に男二人どちらかが死ねばいい、という話になるのです。その晩帰ると夫のほうも準備していて、都合よすぎるくらいに東京の会社を手伝いに行かせます。まるでABの逢引を幇助するようなことです。そしてABの後をつけてBに殺しの件を伝えます。やはり家庭に帰ると夫なので、いざ殺すとなると躊躇します。Aは独り者なので自分勝手に話を進めようとしますがBはそうは行きません。そこに夫が来てしまうのです。というより一応確認のために来たのでしょう。案の定男がいたということ。ここで夫は離婚しても良いと思います。「出てっても良いんだぞ」とは言いますけど、離婚するとは言わない。なぜだろうか?諭すのです。「あんな半端ものと一緒になって幸せになれると思うか」とね。Bも答えはわかっているので、反論できません。しかし夫はよくホステスと飲み歩いていると思うんですが、真剣にならなければ良いということでしょうかねえ。まあこの場合は夫が粋な計らいで「やり直そう」と新婚旅行気分でホテルの予約をしてくれました。そのサプライズに驚いていたときにBの頭の中でいやな予感がめぐります。このままやり直したほうが良いのに。

その予感どおりにその晩、Aから殺しの合図がかかってきます。この映画の特徴はこの緊張感にあります。なぜ緊張感がみなぎるのか?女性は意外とすべてを受け入れることができる存在なのですが男はそうは行きません。その優柔不断な女性が判断できないままに男が直感で動いてしまうのです。それに流されてしまう女。戸惑う女、そんなことから、あの時やめれば、とか言う後悔などとともにすごい緊張感が生まれます。次にこの女は何を選択するのだろうか?というような感じです。

 

結局、殺人はこのホテルで行われるのです。この後はどうなるかはわかりません。実話ですと二人とも捕まったそうです。映画の中でも夫が死んだときのBの反応はすごかったからねえ。遊ばなければよかったのかもしれないし、Aも極端に走らなければよかったと思う。ただそれだけ。でもいすごく面白い映画でした。この監督で一番良いのではないかなあ。

「新宿黒社会チャイナ・マフィア戦争」三池崇史監督 1995年

この映画は初期の作品ですが、逆に私は好きな方の作品です。「フルメタル極道」とともに良いですよ。しかしまったく人には薦められない映画です。麻薬、ホモ、殺し、何でもあります。目玉くりぬきもね。

まあはじめに歌舞伎町で中国人がらみの殺人事件が起こります。これが首を切られて死んでいるのです。まあ最近見る映画で首を切るシーンが多いこと。何か異常です。しかしこの映画ですでに9年前の作品なんですよ。この監督の作品を見るときいつも思うんですが、この監督は横浜の映画学校出身なので慣れているのでしょうが、これだけ中国人と日常的に接する町は日本でも少ないと思うのですが、日本の田舎とかでもこういう映画は受け入れられるんでしょうか?やはり旅行していて感じるのですが、外国人とかが少ない町の方が多いですよ。ましてや犯罪が絡む外国人がうちの近くには多いので、なんともなく見ることができるのですけどね。

それを追う刑事A(椎名)、逃げる謎のがきBの関係がまあ中心かも、という程度です。しかしまあ、タイトルが出るまでがすごければタイトルが出るところもすごい。女を椅子で叩きのめしますもん。こういう映画良く作れるなあ。この刑事が暴力団とつるんでいる。というか金を受け取っている。そして中国残留孤児で中国人に育てられたのです。よって両親は中国人。そして弟がいて弁護士。映画ではグレて兄貴に反発します。この辺のセンスは私は大嫌いなので観ていながら、兄弟協力しろよ、と心の中でいつも叫んでます。

さあ、簡単な流れ。日本の暴力団がいます。そして台湾から流れてきたチャイナ・マフィアというか愚連隊がいます。彼らは故郷に病院を作って臓器売買をしてます。そして刑事が中国系なのでわかりにくいと思いますけど、チャイナ・マフィアも王道とこの愚連隊とに別れること、さらに日本の暴力団もいくつか絡んでいることを除けば簡単なストーリーです。なんとなく中華街を浮かべると簡単にわかるんですけど。笑い。この暴力団から金もらっているからAは愚連隊を掃除したいという気持ちと弟をこいつらから放したいという気持ちで意地の捜査をします。

Aは台湾に不法滞在者の強制送還のために向かいますが、これは映画として面白くするためでしょう。まあ上司の情けで言外に調べてこいという事はあるんですが。そして実際に行くと周りの村は疲弊して薬物中毒患者ばかりです。それで子供の臓器を売ってしまうというモラルハザードが起こるのです。結構この監督このころは問題提起が多くて、この映画だけでも生体間臓器移植、中国残留孤児と天皇の戦争責任(Aと弟の名前、天皇の名前に近い)などをちらつかせております。答えは出さないところがずるいけどね。

映画に戻りますが愚連隊(映画では王一味)とAにかね出していた日本の暴力団の取引が成立してAはいらなくなってしまった。

あとはピンチも切り抜け、弟を両親の元に返し、愚連隊の大将を殺して終わり。この映画は上で書いた複雑な組織の関係は意外と単純なままに終わりました。日本の暴力団とチャイニーズしか出てこなかったですね。

そしてAもいつかは殺されてしまう。このように一作目は気持ちが入り込みすぎていて実にまとまりが良いです。しかし決してひとに薦めません。

 

「スカーレット・ディーバ」アーシア・アルジェント監督 2000年

この監督の父親の作品集を買ったついでに、先に観ることにしました。というより夜観るのに父親の作品は怖いから、こっちにしたというのが正論。

しかし、男女構わず、抱いたり抱かれたり、自分自身がするのを監督するというのはさすがに何か精神的に行き詰った感じでしょうか、とにかく裸の自分というのを見つめなおしている節もある映画です。あと映像が、かなり安いカメラ使っているので素人みたいな仕上がりですが、これはこの手の映画では成功していると思います。

自分がスターという設定もなかなか出来ないですが、その日常の普通性と異常性を交互にクローズアップすることで女としての一個人を感じさせてくれるような感じもする映画でした。孤独感と飢餓感が主人公を覆いつくしているのはわかるんですが、俳優としての欲望を監督として実現したのか、かなり自分自身もハードな演技をするとともに出演者にもそのような演技を求めます。ある有閑マダムの愛欲の世界という感じ。余裕があるから出来ることです。そしてその果てに精神的に崩れていくさまはなかなか観ていて迫力あります。この崩れ方は女性特有なので、よくわからないのですが、女には女の悩みがあるんですよ、きっと。

そして映画は途中でストーリーが破綻しますけど、これはこの映画を製作するときに思いついたアイデアでしょう。その製作の苦労が映画に挿入されてます。映画って儲けようとして作ると違った作品になるでしょうし、結果は予測できないものでしょう。かなり博打的な道楽商売だと思いますけどね。

最後には恋人にも裏切られて、どうしようもないときに、信仰心が芽生えて終わり。そのマリアの姿を自分自身に似せて作り、さらに王子(イエス)が光り輝く中登場して終わるのです。これは暗示に過ぎないのですが、まあ終わり方はいいですね。もう孤独を克服したのですから。

 

ちょっと「17歳のカルテ」みたいな部分もある内容でした。普通は観ないと思いますが偏見を持つほどひどい内容ではありません。こういうときジャケット、ポスターがいけないと思います。

「スカーフェイス」ブライアン・デ・パルマ監督 

これロードショーで見た人いますかね?結構リアルタイムの出来事でした。ですから冒頭のキューバからの避難民の映像の迫力、カーター大統領の演説など思い出すことができます。

非難キャンプでまず、殺しを引き受けます。そしてアメリカ国籍をとると(こんな形の国籍の大判振る舞い、もうないでしょうね)バイトをカフェで始めます。そこで見ているギャングに近づこうとします。その前にチンピラとの仕事をして実績を積みます。犯罪ですよ。この映画は当時は暴力描写がすごいということでしたが、今見るとたいしたことはないというか、今の映画はもっと切れるのが早いです。実際の人間も切れちゃうんで、時代を反映しているんでしょう。しかしこの映画の主人公Aは精神的に切れるのが早いです。何かに対しての飢餓が常にあります。それは出生から備わっているべき母親の愛情と安定した生活でしょう。これは後天的にどんなにもがいても手にできないのです。実際に母親や妹に会いに行っても母からは冷たくあしらわれ、妹は悪の道に少し足を突っ込んでしまいます。このことに対してはAは妹を守りたくて注意するのですがAが母の注意を聞かないのと同じで言うことを聞きません。

まあお近づきの仕事が罠だったんですが、切り刻まれるシーンとか出てこないですもんね。今の映画とか平気で出てきます。またちょっと矛盾があるんですが映画は楽しければ良いでしょう。はじめですから、成果はピンはねもしなくまじめに収めなければなりません。

そのボスの女に惹かれてしまいます。そしてますます、金=成功しなければならないと上昇志向が強まります。しかしAはチンピラですので、儲けるといっても仕事が限られるのです。

ボリビア、ゴチャバンバでコカインを栽培している組織と取引を始めるという使いに出されます。上司と行くのですが向こうのボスと商談をしているのはAです。そしてAの態度と度胸、知識を信頼して、その上司をアメリカのボスのところに送るといってAと切り離してその上司を殺します。ここからボリビアとAのパイプができ飛躍的にAは伸びます。

ここで重要なのは、相手は目を見ている、そして知識は会話のいたるところで本質を突いて出てくる、さらにやばい仕事に耐えられるだけの度胸があるかをすべてチェックされているのです。私たちも人を見たら、大体信用できる人かどうかはわかりますよね。それと同じです。その人の本質は隠しても隠し切れないものです。そして信用されるんですが自分のボスに話しても信用されません。大きな仕事をしようと子分が言っているのにねえ。その程度の人物なんです。そしてだんだんAはボスから離れて自分で仕事をするようになります。当然ボスは面白くない。しかしボスは気が小さいので、大きい仕事はできないので嫉妬するんですよ。そして暗殺を計画。これに失敗してすべてを失います。

The World Is Yours、まさに天下が来ます。なにやってもうまくいく。信頼関係で結ばれているので強い。裏切るものはいません。理想の女も手にしたし、妹にも良い思いさせた。これらが最終的に裏切るのです。感情的に自己統制ができなくなるという形で。

まさに敵は身内にあり。そして自分自身もヘロイン、コカインか考えてみればよくわからないのですが、それにはまっていきます。途中マネーロンダリングが出て銀行とやりあうんですが、いまいちぴんとこなかったことがわかりました。考えてみれば、彼らの売り上げは申告できないのです。犯罪ですから、それを預金として預かるには、それも正規の預金として預かるには、帳簿の科目の操作が必要です。その手数料を利子として銀行に払えというのです。ということは法人税がなくて、利益率のいい商売で、金がたまると、これならみんなやりたがる?ので新規参入できないようなコネクションが必要なのでしょう。金がありすぎて困る状態というのは一度で良いからなってみたいですよ。

しかし成功で有頂天になっていると落とし穴が。Aには犯罪は2種類あるので(脱税、麻薬)うまく切り抜けられません。警察に目をつけられてしまいました。さてと仮釈放は刑事犯罪はいいとしても脱税はいけません。このときボリビアの友人もコカイン撲滅運動のターゲットになっていてお互い助け合おうといわれるのですが。しかし、、、ここからがこの映画のいらいらするところでどうしてもAにはできないことがあったのです。友人が送り込んだ刺客をアメリカに不案内だから案内役をしてくれと頼まれるのですが、殺したい相手の車に爆弾を仕掛けるのですけど、その車にその男の妻と子供が乗るのです。この女と子供を巻き添えにしたくないということで友人の刺客を殺し手しまいます。変なところで善意が出てしまったのです。これが人間というものかもしれません。しかし悪の道に入ったものには徹底的に悪の道へ突き進んでもらいたい。そして成功してもらいたい。

このことから信頼関係で結ばれていた友人と敵対関係になり、お互い窮地に立つだけでなく友人は刺客をAに送ります。当然です。「裏切り者は殺せ」がルールですから。

そして麻薬中毒のらりった中、壮絶な死を迎えるのです。このあたりが一番気に入らない点ですけど、いい映画です。

妹も崩れた人生になりました。悪貨は良貨を駆逐するです。サプライズのある結婚をしたつもりが友人が遊びで妹に手を出したと思って殺してしまうのです。この友人を殺したことはすごくショックなのです。

そして最後散っていくのですが、この映画を見ると親分が一番強いんですよ。当然なんでしょうが、ここまで大きくなったらブレーンが必要ではないでしょうか。彼は兵隊のまま死んでいった感じです。

ある意味いい映画です。私はこの主人公の馬鹿さ加減がたまらなく嫌いなんですけど、世間では評価は高いです。

 

「砂の器」野村芳太郎監督 1974年

いまだに人気の高い作品ですね。名作です。しかし原作より映画のほうが情感が高く作られております。また「パピヨン」についでハンセン病の患者が出てきます。

この映画はなんといっても日本の景色がいい。四季折々、いろいろな地方の特色が本当に画面に変化を与えております。

それは状況を描写するだけで、どんな話をしているのかはすべてカットして、状況の様子をテロップで書いて提示するということ、そのことで、画面の情感とその意味の文字としての一致が図られ、かつ画面の景色などの描写から視聴者が個人の人生の歴史に応じていろいろと考える余地というものを作ったことで成功しております。

景色とすると、秋田、石川、出雲、伊勢、大阪、岡山、瀬戸内海などが印象的です。

さらに、ストーリーテラーとしての刑事。この役の丹波哲郎さんがすごく印象的な演技をしてますね。

あとはいろいろと時間的に矛盾はするのですが、それを超える叙情が映画には存在するという点においてすべての矛盾は忘却のかなたへと。

「宿命」生まれてくる、そして生きていくこと、そう人間は一人では生きていけないのです。とてもいい映画です。というよりみんなが知っている良い映画なんでしょう。

「洗濯機は俺にまかせろ」篠原哲雄監督 1999年

この監督としては古いほうですよね。題名からは印象が違う映画です。

関西から出てきた電気店で働く漫画化志望の若者Aを中心にその電気店の社長の娘で出戻りの女Bなどの日常の話だけなんですが、意外と面白い。

この映画でいつも出てくる洗濯機、壊れたらひどい目にあうんです。それはうちの場合は取り出しにくいところに置いてあって、もし壊れたら壊れたのを出すのも新しいのを入れるのも大変なんですよ。その事実をこの映画を観ている最中ずっと気にかけておりました。

Aの友人でコックCがいるのですが腕がいい。しかしレストランで仕事が長続きしない。こういうタイプは多いですよね。あとおいしいレストランなんですが客の入りが悪いとか、何でだろうと思うこともしばしばあります。

もうひとつの流れがAの電気店の前のパン屋でバイトしているAを好きな女の子Dです。これはうまくいきそうなんです。Bと違って晩熟。

あと個人的なことですがこの映画に出てくる食堂とかみんな大衆的でもうすでに汚いというか、あまり華やかな感じというより、タバコの煤や油で汚れた感じの店ばかりなんですが、そういうほうが落ち着くんでしょうかねえ。うちも方向転換しなければいけないのかもしれません。男が行く店なので仕方ないんでしょうが、本日もお客様と話していて、私のほうから男のお客様は少ないと言っておりました。どうにか男のお客様取り込みたいですねえ。なにか商店街の店が舞台なのでどうしてもそんな些細なことに気がついてしまいます。

しかしねえDとのデートのときにBを見かけたからといって変な言い訳をしてBを追いかけると嫌われますよ。ABを憧れを持って好きみたい。そのBからその夜、酒飲んだ後ベットに誘われます。当然Aは受けるし「キスしてもいいですか」だって。二股ですね。

しかしBのこの積極性は男と女の関係で成功するもとです。女が積極的でないと盛り上がらない。富田靖子いい役やってますよ。Bがあこがれていた、今はだめな中年Eと別れようと決別しようとAと一緒になろうと思って最後の抱擁をしていたところをADの二人に見られます。結局ABともにベットを一緒にしながらお互いに二股かけていたんですよ。しかしABは本当に惹かれあっているんです。これは心のそこからどうにようもできない感情なんです。これだけは事実。

そして日曜日、大売出しの日。先輩の持ってきた洗濯機が粗大ごみを拾ってきて使い物にならないということがわかったのです。この先輩はBの憧れの人でAも良き先輩と慕っていた人なんです。しかしこの電気屋辞めてからろくでもない生活が続き、Aに金は借りるし、偽の洗濯機を持ってくるし人生落ちるとこうなるというような見本です。

そかしBは仕事が決まりいなくなります。しかしその仕事の最中に(DJ)自分からもリクエストでAの好きな歌をかけます。当然Aもその番組を聴いてます。そして普通の生活に戻っていくところで終わり。

 

二人が結ばれることは言わないでもわかりますね。題名によらずいい映画でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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