「タイタニック」ジェームズ・キャメロン監督 1997年

はじめてみます。まあ2枚で1480円という映画館殺しの値段なんで買ってみました。ケイト(A)の年とっておばあちゃんになって生きているというのは知りませんでした。見ていないのですから当たり前なんですが、そのおばあちゃんが述懐していくというのは良いですね。ディカプリオ(B)とはじめからカップルではないというのも知りませんでしたから、なにか今頃になって新鮮な目で見ております。

社交界のパーティーとアイリッシュパーティーが映るくらいで特記することはありません。ケイトはわがままな自由奔放な女の子を演じているのがちょっと違和感あるくらいかな。しかしBは男の子、これくらいの押しの強さが必要です。

船の中ということで上流階級と下層階級がそれほど距離を置かないで生活するということにポイント置いている点うまいと思います。

そして極め付けのうまいシーン。ABの誘いを断った後気持ちが変わり(子供が窮屈そうに育っているのを見て)Bの元に行くシーンですが、空が夕暮れの乳白色、場所は船首、そして音楽は主題歌、すべてそろっているシーンです。ヒットするわけです。さめてみていても、決まっているなあ、と思いますもん。

あとは乗組員のかったるさ、どうしてこんなことわからないのだろうか、という点です。これはハラハラします。こういうのがヒットする原因なんでしょう。

そしてね、氷山にぶつかったとき、泥棒騒動をする登場人物たち、なにかさめて「お前ら馬鹿か」と言う目で見ることが出来ます。そういう映画なんですかね。あとは迫力で押し切る映画ですね。ポイントは生きていた(約束を守った)Aの述懐とそれによって真相を知った宝探しの連中に反省を促すと共に、Bの魂の鎮魂と変わらぬ愛情を持ち続けたピュアな女性がいたということでしょうか。写真でもわかるように約束どおり生き抜いて、活発な人生を送ってきたみたいですね。この気持ちを入れ替えるということが一番のBへの思いやりですし、いつまでも忘れないということ、それが鎮魂です。そしてひょんなことからまた再会できましたもんね。

「丹波哲郎の大霊界、死んだらどうなる」  石田照監督 1989年

まさか自分がこの映画観るとは思いませんでした。周りでも見た人は聞いたことないですし、うわさになっていたのは知っていましたし、馬鹿にしておりました。そしてそのとおりなんでしょう。しかし結果を見るとこの年の興行成績の邦画ベスト10に入っているんですよ。とりあえず、役者は特別出演でかなりの人が出てますし、余興ということで観ます。これBOX買っているんですよ、やはり買う人なんかいないと見えて投売りしてました。

すごく気が楽に見ることができそうです。

はじめから宇宙の概念と霊界をごっちゃにしている。地球の自転によって霊的エネルギーを放出といわれてもねえ。楽しみますよ。とにかくバブルのときの画像と思ってみております。しかし画面はもう昔の感じが出ているんですよ。バブル絶頂のときですよね、記憶にはすぐ思い出せるのに、映像とか景色は昔の感じがあります。最近、お客様も年金のこととかの老後の心配事の話題が多いのですが、そんなこと考えてもいなかったときですし、少なくても90年ごろまではまたすぐに良くなると思っていた部分ありますよね。

説明はすごい「生きとし生けるものでいずれ死ぬと知っているのは人間だけ、そして視に対する恐怖を感じているのも人間だけ、なぜか?死んだ後を知らないから」やはり楽しい映画です。こういう突き抜けた人は楽しいですよ。中途半端に悩んでいる人の映画はつまらないし、観ていてつらいところがあります。そして私自身が魂と肉体の分離は当然あると思うので、なにか見ていて説得力はないのですが、わかる感じはします。しかし人間の条件の途中にこの映画観ている自分がおかしい。バスの転落事故で死んだ人たちを例に挙げてますが、これ経験あるんです。がけから車で落ちたことあるんです。下に雪があって助かったのですが、これは本当に長い時間のように思えましたよ。あとこの映画、魂が人間のかたちをしているのは愛嬌というものでしょう。あとは製作する国によって共通の言語が母国語になるんでしょう。映画として成り立たせるためです。お客さんは生きている人間ですから。本当かな。

自己保存欲、食欲、性欲のうち前者の2つはなくなるかほとんどなくなるため、無法地帯になるということらしい。まあ反発しないでおきましょう。突然、山が割れてその谷間を通ると海がありそこで禊をして三途の川に着きます。ここから霊界。ちょっと「コンタクト」の宇宙とのつながりみたいですよ。ここからがいけません。趣味思考が集まるコミューンができているというのですが、映像的には音楽もちょっと無理があるかな。ロケは多分五箇山。「一段上に行くためには人間界の修行が大切なんです」このせりふうけてしまった。まさに「人間の条件」のAの状況です。「地球は魂の流刑地」というのもほかに魂の行くところがないということですね。すごい。「死は束縛から自由への瞬間」という説得性。

言葉ではなくイメージの世界でしたが、わかりやすい。この映画今は、このあとに出てくる新興宗教の犯罪などであまりテレビでは放映され難いでしょうし、レンタルもされにくい感じはします。しかしそれなりに楽しめた私はおかしいのでしょうか。わかりやすいし、説得力はある。特典のインタビューも面白い。と思いました。ネットで検索してもこの映画の評価悪いんですよね。

 

「中国の鳥人」 三池崇史監督 1998年

笑う。はじめからいい加減な映画だ。会社の隠れた不正の尻拭いの役を知らずに中国へ派遣された男Aがだまされた、やくざもどきに脅されて始まります。中国に出張に行ってから事実を知っても、うらむべく上司同僚は日本だしね。

中国を馬鹿にするのもいい加減にしろというか、ありそうなシチュエーションというか運転手の運転はめちゃくちゃです。ガイドの日本語もめちゃくちゃです。このガイド「ひどい田舎だから、毛沢東知らない爺さんもいるくらいだから」うーん、センスあるせりふだなあ。やはりこの監督はいいですね。変な旅行者もいます。「雲南のあたりって、日本の源流といわれて、羽衣伝説なんかもあるから、日本で見つかった遺跡にある、羽の生えた人間を探しに来た」ということらしい。筋は通っているんです。

またね、役者に過酷な演技を要求してますね。それに本木さんと石橋さんは見事に応えて、楽しいコンビになってます。すべてのシーンが楽しい。スパイスがガイドのぼけ、です。

しかしきのこ食べた時(このシーン良いですね)ガイドが倒れたときはちょっと驚きましたね。置いてきぼり食ったか、と思いましもん。

そして目的地について(景色がすごくいい)鳥人の学校を見つけ、やくざのほうが真剣になります。ここで出てくる村民の役、日本人が何人くらいいるんでしょうか?日本人の源流といいますが、この辺とバイカル湖周辺は本当にあの人に似ていると思い当たる人にいくらでも出会います。そして景色が少し耶馬渓とか高千穂に似ているのは気のせいでしょうか?

やくざのほうが率先して地元とくに飛ぶ鳥学校に馴染んでいきます。そこで先生のおじいさんがイギリス空軍の兵隊だったこと、航空機が落ちたときここで骨をうずめたこと、そして英語で秘伝書を残して行ったこと、などを知ります。おじいさんはここで秘伝書の原典を見つけてどうにか解釈をしていたんです。その翻訳を始めます。そして孫が歌っている歌は恋愛の郷愁の歌ということがわかります。

そのあたりから彼らの順風が吹き始め、すべてがうまくいくのですが、やくざは土地の自然に魅了されたのか同化を始めます。日本が小さく見えてきたんでしょう。あと近代化を阻止したと思っちゃったんです。笑い

そして二人は、あの羽で飛べるかどうか、信じているかを自ら試し、飛ぶことにします。それが出来たなら村の人々に人神として祭られ言うことは詔となることでしょう。これにチャレンジします。まあ失敗しますがヤクザは居残り、土地のものというか土地のもの移譲に自然を愛するアドバイザーとして生活していつの間にか飛べるようになりましたとさ。

いい映画だなあ。この監督の作品とは思えない。ずば抜けて良いですね。

「チャタレイ夫人の恋人1」 ケン・ラッセル監督 1993年 英国

テレビ用に作られたみたいですね。この映画は良いです。長いので1から4というまとめ方します。もともとこの監督好きです。「チャイコフスキー」で出会い「トミー」で熱狂し、この映画もいい。

主役の2人はかなり良いです。ジュエリー・リチャードソン(A)と野蛮な門番(B、ショーン・ビーン)ともにすばらしい、美人、美男子ぶり。英国の風景も最高です。愛情も最高の映画です。

1は「ざわめく心」

「欲望の歯止めは?」と聞かれたらなんて答えますかね。「欲望は自由にさせたい」とは答えないと思いますがAはこう答えます。夢のシーンでそのまま「黒い馬(欲望の象徴)が夫と彼がクロスして放たれる夢」見ます。この辺は監督のよさ、そして下半身が麻痺している夫を笑うかのように顔をベールで隠して裸のダンスをして夫の呼び出しに答えます。夫はラグビーの地主なので名門ですよ。かなり良いシーンですよ。「身体は顔より人格全体を表現する」というのですよ。かなり真実ですし、すごいせりふですよ。そうです、私の人格を見て、ということなんです。それが、顔の上品さと違ってかなり魅力的な情熱のある体つきをしてます。多分、監督もキャスティングで体つきまではいって選んだのでしょう。とにかくAの姉がBに看護婦を雇いAを自由にさせようと提言します。このことが自由に羽ばたく、きっかけとなるのです。しかし衣装からアクセントからすべていいですね。

2「禁断の森で」

看護婦と夫はうまが合い、面白い話をしてます。「若い子はお金がほしい、そしてお金が入るとすぐに使う」「今は不景気だからみんな不平ばかり」なんて話してます。Aは森の美しさや鳥を育てることの楽しさに興味が引かれていきます。しかしBの方から接近したときに胸を触りに行きますと、なんとAは「抱いてほしい」と言ってしまいます。その場はすぐに自制して屋敷に戻ります。しかしAのベクトルは屋敷を出るようになってから外に森に向けられてしまいます。自由な空間です。そしてとうとう一線を越えたときのよそよそしさ、お互いに恥ずかしいのです、それとAの衣装のピンクいわゆる初々しさが見事なコントラストです。もうABもかなりお互いを意識してます。そして夫までが子供ができたなら、そして健康な正常な子供ならこの家を継がせる、とまで言うのです。そして、Bを真剣に愛したら、そのまま落ちていく恐怖と戦うAがいるのです。自制の効かない愛情だと自分でよく知っているのでしょう。

あとは第3部へと続き。

 

「チャタレイ夫人の恋人2」 ケン・ラッセル監督 1993年 英国

第3部「愛の歓び」

だんだん、身分の差がいらだたしさを演出します。まあどちらも夫、妻がいる身なのでダブル不倫ですし。でも「森の中では俺のものと」誓わせるのです。その誓い。釘を打って一人ずつ折り、二人でクロスさせるのです。こういう誓いの方法は良いですね。日本じゃ、丑三つ時の呪いですが。そこで侍女も「子供たちは去るけど、一度男に抱かれた感触は永遠に忘れない」と23年前に死んだ夫の話しなんかするのでもう焼けぼっくりに火がついた感じです。愛の形というのはこうなんですよね、という見本みたいです。たとえば、使用人の森の小屋でも満足する。使用人が用意した食事をA(レディチャタレイ)が食べないと自分も要らないという配慮。会った瞬間に抱き合う。愛というのはこういうものです。ここで疑問ですがAは夫となぜ結婚したのでしょう?政略結婚だったのでしょうか?とにかく常に感じるのですが、Aがダイアナ妃と重なって見えることです。そしてとうとう一晩を一緒に過ごしてしまいました。この後はもう検討つくところまで行くしかないですね。このAはバネッサ・レッドグループの娘が演じてます。この人からは想像できないくらい肉感的な体をしてます。雨宿りで一晩過ごした森の小屋で、雨の中二人が裸で森の中走り回るとき、愛の楽しさが満ち溢れています。出会うべくして出会った二人なのですが、あとはお互い無理を承知で困難を乗り切るだけの覚悟があるかどうかです。当然、夫は夜帰ってこなかったので心配して怒ります。しかし侍従はいいこと言います。「人の心は貧富の差とは関係ない」。姉は「生活のつながりが必要だわ」といいます。ある程度財産が必要だということでしょう。あれだけ自由奔放な姉も結局は相手を制限しているんです。しかし妹は子供ができ覚悟はできているんです。愛が一番なんていいですねえ。

第4部「愛に燃えて」

バカンスでシュールレアリズムの話をしてます。管ね。表面化の下の見えない現実、今はもう明らかな表現ができるけど、まだ必要なんでしょうか。確かに隠しているときはこの議論は必要ですが、オープンになりすぎるとかえってまともに議論しているよ、この人たち、となってしまいます。ここでも姉は止めます。愛は重要ですが、「生活が根本的に違う」「命令される側とする側」ということです。確かに日本でもある程度意識されることです。私などはもうお客様商売ですので、何もないのですが、やはり生活が安定していないとだめというのはあるみたいですよ。Bはラグビー邸を辞めるといいます。隠れる気ですね。自ら身を引く。いいことです。

しかし愛が続くきっかけは女性の愛情の深さです。それが今回はあるのです。ここで男は判断できなければ、愛情は得られないでしょう。しかしBが村でつまはじきになり、隣村の炭鉱に仕事を探しに行ったと聞いて追いかけていくAはもう「嵐が丘」のキャサリンなみです。映画では夫が侍従に「ジェーン・エア」を読んでもらうシーンがあるのですが意味あるのでしょうか。プルーストについては夫とAは意見が分かれて、Aは精神的な人で肉体的直情的でないというような批判をします。夫に少しマゾがこのあたりから入ってきます。そしてABの間には信じあう「愛」しかないのです。これだけがあれば十分かもしれませんが、不安ですよね。結果突っ走るのですが、お互いに不倫だったことが一番の問題だったんではないでしょうか?「嵐が丘」の愛にはヒースクリフの無償の愛がありました。キャサリンが結婚していてもキャサリン目当てにヒースクリフはその娘で補うこともできました。この小説はどの映画もだめなのでこうやって書くしかないですね。この映画では子供ができたとき、現代のマリアだ、私は現代のヨゼフだと喜ぶ夫がいるのです。性格的にいい人ですがどうしても合わないのでしょう。

結局、周りの人すべてが丸く治めようと努力するのにもかかわらず、「好きな人がいる、出て行く」と言ってしまいます。そのとき、夫はモーツァルトのピアノコンチェルトのピアノのさびの部分を弾いているところが良いですね。優しい人なんですよ。そして不倫の相手を知ると、驚きます。妻が気が狂ったのかという態度。お金と地位がかなり人をわけている時代ですね。そして「離婚はしない」と。たぶん名誉のため、離婚しない家系というのを守りたいためでしょう。ここで笑っているのは侍従の女。かなり支配に口を出せるようになってます。ここでも思うんですが、英国の例のロイヤルファミリーにどうしても似ている感じがするのです。これは監督の意図でしょう。しかしこの恋愛が小説に映画になったのは身分を捨てて、お金を捨ててというところがあるからでしょうか。身分のある家系はそれを守りたい、ないものは平等だと考えるのが自然です。

最後の二人の顔はそれほど魅力的ではなかったのは残念です。

途中この監督の作品のチャイコフスキーを扱った映画タイトルは「恋人たちの曲.・悲愴」でした。あとこの映画の奥様の姉に扮する俳優とかなり年齢違うと思うんですが、この映画の後結婚したそうです。監督自体もハッピーだったんですね。やけに良い映画ですもん。

「月の瞳」パトリシア・ロゼマ監督 1995年 カナダ

 

光の筋にチェロとバイオリン、パーカッション、ハープ、エレキギターがかぶさる。そこは氷に閉ざされた水の中。いわゆる、無意識の中の自我を表現。

すぐに学校での授業の様子。内容がいいですね。「近代文化は道徳律を基本としている、、、」(女に振られる男教師の言葉)「変身は神話のモチーフ」(あとで変身する女教師の言葉)このような授業の様子にバイオリンとチェロが不協和音で重なる。まあ結果としては使われる楽器とシーンに関連性はないのですが。

幻想サーカスの女とコインランドリーで知り合う。しかし女教師がコインランドリーに行くのだろうか?不思議でならない。そこで幻想サーカスの女は女教師に惹かれてわざと洋服を間違える。確かに女教師は魅力的ではある。多分、何かこの教師の本質を見抜いたんでしょう。この映画独特の同性愛的な感性がある人はその記号を読み取ることができると思う。私には今ひとつわからないのです。その間違えて入っていた派手な洋服を着てみると発言も大胆になってくる。彼氏の男教師には「今は個人主義の時代でしょう」他人の意見なんか気にしないで、と言うし、神父との面談では「ロック独特のリズム自体が性交渉と同じ」オーガズムの波動に一致という意見も堂々と引用してしまう。無意識的に変身が始まってますよ。

そして、サーカスを見に行く。サーカスのシーンはまあまあまとまってます。ちょっと雰囲気先行な感じはします。今までにもホドロフスキー、寺山修二と立て続けに見てしまってはそんなに驚くほどすごくいいというわけではない。多分このサーカスの雰囲気でこの映画にはまる人はいるんだろうなあと思えます。そのサーカスの女は影絵のマジックを担当していた。ここでパーカッションが派手にシンセとチェロにかぶってきます。なんで電気楽器を使うのだろうか?しかしここではホモ(女性同士はレズというのは狭義)関係に歯止めが利いて会わないように逃げ帰るが、翌日サーカスの女はキューピッドの格好で矢に手紙をつけて投げ込む。このキューピッドはあとからこの話が聖書から引用されているんです。ここのあたりでは珍しく電気ピアノ中心。お互いの感情が一致したのかキスをする。(聖書や神学から解き放たれたい欲求は少なからず持っていたはず。しかし解き放つ欲求はもう少し違う形でしたが)完全なる伏線となります。このあとの新しい学校付の神父になるための面接で、同性愛についてこの女教師は「神の人類創生では異端もOKでは?」などと無意識的に言ってしまう。そして彼氏と一緒のときもキューピッドは見ているし気になるのでサーカスに出かける。そこで「友達にならないか」と性的関係はなしでと声をかける。まだ神学とのバランスは取れているんですよ。サーカスの女はパラグライダーに誘い「恐れていては何もできない」と本能を開放するような意味が深い言葉で空を飛ぶことを経験させてしまう。この空のシーンもバイオリンとチェロですね。なにか女同士のシーンにこの2つの楽器は多用されてます。着地失敗して足をもんでもらっているときに「何か話して」といわれ、もんでもらっているお返しに「キューピッド」の話を聖書からする。そこはご存知のようにある快楽へと導くシーンがあるのですが、実際に揉んでもらっているうちにやけに肌がフィットする感覚を覚えてしまう。そんな間に彼氏との性交渉も激しさを増してくる。彼氏はびっくりします。ほかに考えることは女と一緒のことばかりになってきます。そしてとうとう教師のほうからサーカスの女に迫っていきます。サーカスのはちゃめちゃな雰囲気にも慣れてきて逆に「愛する人と抱き合って踊ることは尊厳」と教えられます。まあ愛を中心に尊厳を考えているんですね。ここでも映画特有のこの人はどんな収入源で生活をしているのだろう?なんていう現実的な話は除外して考えたほうがいいですね。

当然、彼氏の知るところとなり、「すべてのことを言葉で説明することは有益ではない」「神との対話のみが真実だ」「言葉で語ることを許されたと思うのは利己的な考え方だ」「言葉はその人そのものだ、慎重に選べ」みたいなことをいわれるんです。これじゃ好かれないですよ。しかし女教師のほうはどうしようもない、気づかなかった感情があふれ出てくるのです。最後に犬を埋めて自分もそのまま雪の中で寝てしまうが、パラグライダーの人たちに発見されてサーカスの女に連絡が入り二人は体をあわせて温めあった。すると救急車よりも早く意識を取り戻して二人の関係は完成され、女教師もサーカスについていくようになる。いわゆる氷に閉ざされた世界を破って外に出たのだ。この辺の展開は何か物足りないですが、そういう人生なんでしょう。まあ教師で神学教えているよりかはいい人生かもしれない。いや、客観的に良いというのではない、主観的に本人の気持ちのままに行動していることが良いのです。本当に見やすい、気軽な映画でした。ぜんぜん疲れません。サーカスのシーンも遊び感覚で気楽です。

 

「点子ちゃんとアントン」カロリーヌ・リンク監督 1999年

この作品も大好きです。この作品のスパイスはなんと言ってもお手伝いのおばあさんと家庭教師のフランス人でしょう。

点子ちゃんは、ちょっとお金持ちの家庭の女の子の愛称です。お転婆なんです。アントンは好きな男の子。アントンの両親は離婚しているんですが死んだことにしていて子供に父親に会わせないようにしております。それで女の手ひとつで育てているのですが途中で病気になり、代わりにアントンが小学生ながらアイスクリーム屋で働いているんです。それで学校では寝てばかり。

点子のお母さんはNPOみたいな海外支援活動ばかりしていていつも海外に出張ばかりしていて家にまったくいません。それで点子の話し相手はいつもお手伝いさんか家庭教師です。この家庭教師のフランスの女が馬鹿で遊んでばかりいるんですね。それはお手伝いのおばあちゃんもそうです。3人で楽しい毎日なんですが、お母さんがいないんですよ。でも楽しそうなんです。3人でフランスの歌を歌うところなんか最高に愉快なシーンですよ。

途中でこの3人の中で感じることは、「母親が海外援助に行っているけど、援助する人は国内にもいるし、自分の子供もかわいがらなくては」ということです。

アントンは母親思いで母は常に「夫は好きではないけど、夫がいたからこのアントンがいる」という優しい目で子供に接しています。しかしお金に困って夫に無心しているのを、アントンに聞かれます。そしてアントンはまだ見ぬ父親に会いに行きます。それは無謀なんですが、子供のさびしさには母親も気がつきました。

そして、点子はお金を稼ごうと街で歌を歌います。これも家庭教師の影響ですけどね。その歌が大ヒットしてしまいますけど、両親に見つかって中止。このあたりで母親も家族の大事さ、国内での援助を必要とする人の存在などに気がついていきます。

そんなときに、アントンは点子のうちに泥棒に入ろうとするのいち早くお手伝いに教えて、このおばあちゃんと二人の連絡で泥棒を捕まえます。

ここで、優しい心のもち主と知った点子の母親は(実は、アントンは出来心から点子のうちで盗みをしていたのです、これを点子の母親は許していなかったのです)アントンとアントンの母親を海に招待して(海で療養すると治ると言われていたんです、ここは深く突っ込まないこと)2つの家族が仲良くなったという、子供の心が大人を動かしたという話です。

監督は違うのですが「ふたりのロッテ」とペアでお勧めしたい作品です。楽しい映画ですよ。

「トリコロール」青の愛  キュシロフスキ監督 フランス 1993年

 

感動しました。私の宝物の映画です。これ以上言う言葉が必要なのでしょうか。

素晴らしい。まず、題名のごとく映像は青の色調です。車を一家で運転しているのですが、トンネルを越えるシーンで何かを越えたところに至ったのでしょう、事故を起こします。生き残ったのは妻だけで夫と娘は亡くなります。(目覚めたときに、夫よりも娘は?と看護婦に聞いたんですよ)そして夫の友人がビデオを持ってきてくれます。二人の葬儀のビデオです。ここから音楽はトランペットのテーマがかぶってきます。とにかく、いろいろなシーンで最終的に出来上がる音楽のモチーフの音楽が流れていくんです。本当にすばらしい展開ですよ。まだ、意識がはっきりしていないでぼんやりしていたときも青い光とともに「欧州統合のテーマ」の主題が流れます。まさに未完成の曲を作れという啓示のごとく、、、。

しかし、すべてを失った妻は夫の作った曲の内容は理解しているので楽譜は浮かぶのですが拒絶するがごとく夫の楽譜を写譜しているところに行ってそれを受け取り、廃棄してしまいます。過去を忘れたいのですね。夫のものはすべて捨てようとするのです。そして夫の友人を誘い抱き合います。彼女に好意を持っていることを知っていたのですね。「私だって普通の女よ」というせりふにはびっくりします。過去を捨てるとともに自分ひとりで生きる覚悟ができてきているんですよ。当然、旧姓に戻ります。この辺からメロディが少しずつ映像のバックに流れるようになります。

部屋を借りて、近くのカフェでアイスクリームとコーヒーを飲んでいると、近くで大道芸人がリコーダーを演奏しているんです。その曲知っているんですね。大道芸人には言いませんが夫の曲です。多分、楽譜をどこかで拾ったのでしょう。そしてこの大道芸人のおめがねにかなった曲だったのでしょう。

この引っ越したアパート生活の中でいろいろなことを経験します。たとえば、外がけんかでうるさいときに部屋の外に出てしまい、自動鍵が閉まってしまい、外にいる間に、同じアパートの住人同士の情事を目撃します。ここでも孤独のはずですがメロディがなります。(孤独と愛情がモチーフの部分です)。その後も生活の断面を切り取っているかのようですがすべて主人公の女の精神的な部分に作用していることが列挙されてきます。街でたたずんでいるとき、老婆が歩いている姿を見てリコーダーの曲の続きが聞こえます。また、なくした十字架のネックレスを持ってきてくれた少年がいました。事故の現場にいた少年です。事故直後の話を聞かせてくれます。やはりメロディが流れます。この辺のシーンは夫が作った曲が流れるのでしょう。なぜならば、このようないろいろなモチーフを欧州統合のテーマに含めていたからです。(孤独、愛情、博愛、やさしさなど)

このように、ちょっと、些細なことが夫を忘れられないものにしていくのです。本当はもう忘れないとつらい思い出なのですよ。さらにねずみが部屋に巣を作って子供をたくさん作ります。さすがに殺すことはできないのです。親ねずみは必死に子供をかばっています。しかしねずみの鳴き声が一晩中聞こえてくるんです。ねずみは何かの弱いものの象徴なのでしょうか?いや、子供への愛情の象徴なのです。何か失われた子供への愛情に苦しめられるのですよ。それで、無意識的に弱気になって母のところに会いに行きます。そこでのせりふには参りました「友人も愛も私を縛る罠」というのです。ねずみもです。自由に生きるしかないと思っているのですね。それで、猫を借りて、部屋の中に離します。強制的に動物の愛情なんか聞きたくもないのでしょう。その猫を貸してくれた同じアパートの住民の女は風俗産業で働いてます。この人がいうことがまたいい。「誰だってセックスは好きよ」。だんだん、一人で自由に住むつもりが愛情の必要性を無意識に植えつけられていきます。そこでテレビで自分が写っていることに気づきます。それは夫の友人の一度関係を持った男が夫の曲の続きを作るというインタビューでした。そこで夫が知らない女と写っている写真がもこの妻の写真とともに放送されます。続きを作れるはずはないので、写譜をした人のところにいってみると、やはりコピーしていたのです。この人いわく「こんなすばらしい曲は捨てるなんてできない」。あの大道芸人も演奏したくらいですからねえ。そして夫の友人のところに行くと好きな友人の未亡人の気持ちを挑発したかったと本音を言われます。そして友人のバージョンの曲を聴かされます。違う。合唱も入るはず、それもギリシャ語の韻を踏んだ詩と指摘(この詩がこの映画のテーマを見事に表現しているんですよ)。そして夫と一緒に写っていた女は夫の愛人だと知るのです。夫を忘れたいがために自由になったつもりが夫は愛情に関してとっくに自由だったのです。この夫が愛した女に会いに行くと(次の白の愛の主役のジュリー・デルピーがちょっと写るんですよ、このシリーズは出演者が次々と違う映画にも同時進行のたまたますれ違った違う人生を示しているということを強調するためにほかの主役や役者が違うストーリーの中で違う映画の中に登場してくるんですよ。いろいろな人生が同時にいろいろな角度からあるということですね)女は妊娠していたのです。ここで夫が愛していたのはこの女のほうだと知るのです。母のところに行っても母は彼女なりに年取って自分なりに自由に生活していたのです。会わないで立ち去り、夫の友人に手直しした曲を見せて少しずつ作曲に参加し始めるのです。そして、屋敷に戻り(アパートはもう要らないのです、なぜならば、新しい生活が始まろうとしているからです)夫の愛人と子供が屋敷を継ぐべきと渡して、作曲も並行して完成させます。同時に新しい「愛」の完成です。そうです、愛はすべてのことにも増して人生に必要なことなのです。ここに彼女も夫が自由だったのと同じように自由を得たのです。そうです、ギリシャ語の合唱の歌詞の中に「言葉はいつしか滅びる、知識もそうだ、愛は残る。信仰と希望と愛のなかで愛は尊い」とあるのです。夫が作った曲をここに実践できたのです。夫との生活はもう戻りません、それを忘れようとするのではなく、新しい愛の中に生き始めたのです。

本当に映像と音楽の一致、すばらしい。ずっと忘れないで生きていきたいですね。本当に良い作品です。ブラボー。 

 

「ディンゴ」ロルフ・デ・へール監督 1990年オーストラリア、フランス映画

マイルス・ディビスがミュージシャン(A)として出演してます。プーナ・フラットというオーストラリアの砂漠のところについて飛行機から降りるなりすぐに演奏を始めます。まあ画面に移るバンドの数と音が一致しないのですがね。変な始まり方をします。

そのときジャズに魅了された少年が(B)大きくなってしがないミュージシャン放浪生活(キャンピングカー)と汚い家で住みながらAにファンレターを書き続けているのです。昨日の「ショーシャンクの空に」も図書館を作るとき補助金の要請の手紙を書き続けていましたが、手紙はどんな手紙でも相手に意識させるものです。大事な手紙があるからすべて捨てるわけにも行きませんし、一応あて先は見るでしょう。今回はあきれた事務所に人がA本人に渡します。

オーストラリアの田舎では同じバンドの演奏者も下手ですし、聴くお客様もほとんどいない。そんな中レコードでAのライブを聞くのが楽しみです。家庭を持ってしまっているので都会に出ることが出来ないのでしょう。しかしチャレンジはしているんです。しかし人生をかけられない。

そんな時、サバンナでトランペットを吹いているとジャズバンドの幻影が見えます。その次の日電報が舞い込んできます。しかしBは信じません。前に電報でレコード会社から来たように見せかけていたずらされたのに、気分が大きくなってみんなにご馳走してしまったからです。それ以来、笑いものにされています。そんな中子供のときの親友が成功して帰ってきて、どうもBの妻(子供のときはBに譲ったのですが、今は成功して立場が変わってます)に近づいてものにしたいらしい。先ほどサバンナで曲を無意識に演奏したときと同じく、こんどは嫉妬という曲のモチベーションがあります。そういう時は常にBの頭の中にAが現れて演奏を補助してくれるんです。しかし大自然と嫉妬というかなりいいテーマを演奏できるようになりました。

そして親友に妻には会わないでくれ、とけじめをつけて内緒でフランスに向かいます。まあ招待状が本物とわかり、自信がついたのです。まあそして再会して一緒に演奏して終わりなんでしょう。あと変化球があるとしたらどんなことでしょうか。ありました。クラブに無理やりAを連れて行ったらBに演奏しろ、と言われてしまいます。即興でBAの前で演奏します。当然、クラブには行かないことで有名なAが来たことでクラブ全体が舞い上がっております。その中での演奏。一世一代の晴れ舞台ですね。うまいのでAもセッションに参加します。クラブは盛り上がること。そして大喝采。音楽の仕事はパリではとりあえずは見つかります。しかしABに帰れと。自分の音楽を追求しろ、オーストラリアの奥地の叫びのような音楽を、と指導してくれます。

そして当たり前の結末と思ったら、監督の前フリにやられました。もしかして、と思わせることが起こり、でも実は。という終わり方です。すごくいいですね。この映画はいいね。何で評価されないんだろうか?

音楽はミッシェル・ルグラン。この人のジャズはあまり好きではないんですが、マイルス・デイビスの存在感は圧倒してました。

 

「帝都物語」 実相寺昭雄監督 1988年

この映画、もう15年も前の映画になるんですね。確かに今と俳優が違うことは事実ですが、ちょっとこの前、という印象しかないです。この手の映画は大好きです。

呪詛を土御門家が封印していたのですが、その封印が解かれてしまい、将門の怨念と共に蘇るかという話です。最近、陰陽道とか映画が流行っているのでまるっきり同じだと思ってもかまわないのでしょう。恋愛の片思いの女が鬼になって呪い人形に釘を打ち続けているのをその呪詛と解くと言う話もありますよね。ゆかりという女C(けいこ)の妹、が加藤(安倍の子孫と名乗るもの)に連れ去られて子供を身ごもります。ということは生まれた子供は加藤の子供(ゆきこ、といいます)なのです。何か違うオチが待っていそうですが。この、ゆかりとけいこが親友同士(DEDの妻がけいこ)の妻や妹なのですがたまたまなのか話の本筋に忘れた頃に出てきます。

ここで、ちょっと関係ないのですが、ある神社の宮司、Dの妻けいこ(B)の流れは相馬でその先祖は将門といういことらしい。それで平将門の血を絶やしてはならないという試練があるのです。加藤(A)の方は安倍氏につながるみたい。そしてBを使って将門を蘇らせようとしてさらったみたい(まあCを身ごもったので成功でしょう)加藤は土御門とも違うらしい。土御門と安倍は対立しているのでしょうか・この映画ではそうです。

とにかく土御門は「都市にも徳というものがあり」江戸は霊場だったのを吉相に変えることで抑えてきたことで栄えてきた、とのこと。都に徳を持たせようとする人たちと壊そうとする人たちの対決です。Aは大連に行ってしまうのですが数年たってその意味がわかります。東京に地震をもたらす音叉の原理で大連で揺らすと東京では同じ地層の上にあるというのでより大きく揺れるとのことです。同じ地層の上にあるのか知りません。そして地震が起きるが将門の霊は起きなかった。それはBが守っていたからです。そして加藤とBの戦いになる。

途中、地下鉄建設の話の時、「こうもり」の音楽が流れるのですが先日見たビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」でもあのビートルズの前のスタジオでこうもり収録中だったんですが引用されやすいのでしょうか?続けて関係ない映画で出てきたものですから驚いてます。

つまるところ加藤の行動の根源は帝都、江戸は霊地として霊験高らかな土地だったのに都市化で汚されてしまった。それを壊して、霊地として甦らせるというものです。しかし加藤は将門の子孫ではないんですよ。この辺に思い違いがあるんじゃないかな。まあこれからは土御門というよりBと加藤の対決です。

また市民はというと関東大地震のあと地下鉄に端を発し、地下に都市を求めます。そしてロボットを使おうとするのですが、そのロボット開発者に西村さん。この人黄門様より、「ゴケミドロ」みたいな狂気的な研究者のほうがあいますね。

この地下鉄建設と霊能者?の戦いが並列的に描かれるのですが、加藤との戦いは加藤にゆきこ(将門の子孫)が子供として味方した時点で有利になってしまいます。地下鉄建設はこの将門の墓の近くをうまく掘れないのでロボットを使うということで関係するのです。そして加藤が将門の魂を呼び起こそうとするときに、ロボットは出発して、かつ、けいこも戦いに行くのです。ロボットのシーン、地面師(風水学者)と四天王との戦い、将門の墓のシーンがすごく動的なのに対して、加藤とけいこの戦いはやけに落ち着いてます。それだけ、静と動の対比で静的な部分の重要性が強調されます。この辺はすごくいいですよ。ギーガーの作品もたくさん出てくるし、金、かけているな、さすがバブル期と思う瞬間です。ロボットが犠牲になって「地脈」を断ち、かつDCが人柱になって将門の墓に入り込み静まります。瞬間、将門の顔が映るんですがいい感じです。そして加藤は死ぬ。「憎め、その憎しみが私を大きくする」という憎しみの代表者なんですね。

人柱になった3人は将門により助かる。子孫ですから殺しはしません。最後付近に風水学者が「この街は怨霊だけでなくもっと恐ろしいものが巣くっている」という言葉、資本主義の元凶の利己主義、自分だけ儲かればよい、などの考えでしょう。しかし儲かる可能性があるので人々は集まる。

大団円、玉三郎の占い札が「観音」だったのに風に飛ばされて拾ってみると「悪魔」に変わってました。その横を加藤のような軍服を着た男が通る。すなわち右翼化です。そして戦争へと突入していくのですね。その戦争の中で日本は「満州国」という独立国家を作っていくのです。まさに他人の領地を侵して利己主義に走るのです。まあすごい時代です。

この映画、話がちょっと見えにくいですが愛すべき映画です。最後にまた、「こうもり」のワルツがかかって終わるところがいいなあ。オリジナルの楽曲も管弦中心で良い曲が多いですよ。サントラ意外といいと思います。

 

DEAD OR ALIVE 犯罪者」三池崇史監督 1999年

これは狙ってみているわけで、面白くないという人もいるでしょうが、私は好きですね。しかし冒頭で気がついたのですが最近、邦画ばかりというだけでなくやたらと大映作品ばかりです。しかし改めてみると、いいテンポですし、こんな描写は普通のまっとうな人生を歩んだ人ではできないだろうと思えるシーンの連続です。私も負け惜しみですが、このような世界と縁がないのでこういう映画が面白いのです。

途中「やくざはやくざですよ」というせりふがあるのですがやくざって何を持ってやくざというのでしょう?多分広域暴力団の指定を受けている団体と入所契約を交わした人たちみたいなものなんでしょうが、やっていることとすると、証券会社とかもやくざ的なところは十分にあります。最近はモラルハザードがひどいため誰がやくざかわからない面もあります。まじめそうな人が痴漢やってみたり、教師が教え子に手を出すとか訳がわからなすぎることが多すぎます。

まあ衝撃的なカットのつぎはぎですが、それなりにうまく編集しているのでなんとなく納得してみてしまうんですね。新興愚連隊と刑事の戦いです。前者が「三毛猫ホームズ」の竹内さん、後者が「黄泉がえり」の哀川さん。結局チャイナマフィアというのか?と歌舞伎町のやくざと刑事の三つ巴の話です。

横浜の中華街がロケで使われるんですが、知り合いの店の近くどんぴしゃで出てきました。びっくりした。うちから歩いて6分くらいのところです。

しかし刑事の娘が多分日本では非合法の生体移植が必要でそのために必要なお金が2000万円。やくざに借りにいくという矛盾が生じます。

あと関係ないのですが途中大学の経済学の講義の場面があるのですが、「自殺サークル」がハイデッガーの「存在と時間」をいい加減に引用したようなせりふがあるという批判にさらされているのは書きましたが、ここでもマルクスと共産主義について、大学の先生とは思えないユートピア発言をします。聞いてて馬鹿じゃないか、と思いましたもん。この講義アメリカでしたら笑われますよ。映画は変なアカデミズムは入れないほうが批判浴びなくていいと思うのですが。それより迫力ある銃撃戦のほうがいいなあ。容赦ないもん。殺すときに躊躇したら自分が殺されるという世界です。ここまで感情のない銃撃戦はこの監督の真骨頂だと思います。ほかの国も含めてこんな銃撃戦はないです。あの浣腸のシーンといい、ありそうでなさそうでやはりないだろう、という映像です。笑い。だから映画なんですけど。

刑事、チャイナマフィア(愚連隊)が、やられ、仕返ししつつ、最後の決闘に挑みます。あとは有名なシーンになるだけです。内容?そんなものはないです。何か音楽と映像に酔いしれて、暴力を楽しむ映画でしょう。あっという間の時間でした。こういう映画って映画館出たあと気分いいでしょう。

「天国と地獄」 黒澤明監督 1963年

今見ると、怪しい音楽でスタートするんですね。あと脇役に回る役者が豪華です。さすがという感じです。今なぜ見ようと思ったのかというと、市川監督の作品が続く予定ですので比較の意味とポルトガルのオリベイラ監督との比較したくて見ました。(なにか考え方が似ている感じがするんですが手法が違うと思うんです、その確認です)

本当に横浜港を中心の俯瞰がタイトルバックに流れるんですがさすがにどこがどこだかわからない感じがいたします。靴メーカーが出てくるんですが、しっかり丈夫な靴ばかりで売れずに業績低迷している状況です。しかし「おやじ」と呼ばれる社長が出てこないんですよ。高度経済成長に入っているので、大量生産の時代ですね。デザイン性で差別化が図られているんですよ。そこでポイントですが、なぜ、この重役たちは社長を追い出そうとするのか?業績を伸ばすということと目先の流行にとらわれるということは違うことだと思います。主役Aは別に理想の靴を作ろうと考えておりました。「歩きやすく、丈夫で、デザインのよい靴」を自分が作ろうとしてます。ここでこのメーカーは三派に分かれているんですね。持分比率の計算がなされますが、駆け引きがあります。Aもたたき上げですので性格は攻撃的で「やるか、やられるか」という性格です。勝負というのはばくちですので、家も抵当に入れて、株主総会を乗り切れば自分が代表権のある取締役に選任されて会社の方針を決定できると読んでいるんです。まあほかの重役連中がなっても先行き暗いのなら勝負し甲斐があるというものです。

そんなときに誘拐の電話が鳴ります。ここでポイントのことがあり、お金は交換可能性という性質を持っているんですね。作ればいいのです。子供は個性を持ってしまっているんです。生まれたときに見えない運命で子供と親は結ばれているんですね。また子供も作ればいいというものと最近では考えがちですが、次に生まれてくるのは兄弟であって違う個性を持っているんです。さらにひと間違え(誘拐する子供を間違える)がありますね。ここで犯人はAの良心を計るんです。「子供を見殺しにする度胸はあるのか」ここに犯罪の要求が変わります。運転手の子という身近なAにとっても個性のある子供です。ここで思うのですが、この映画で描写されている子供への愛情や運転手が「土下座」して頼む土下座の意味、妻の言葉、使用人への思いなど、現代日本ではちょっと通用しないかもしれないというところがあるのは寂しい感じがいたします。(さらに子供に正直なことを語らせる演出、「子供が大事と」、この辺のうまいですね)さらに警察ですが、優秀というか「デパートのトラックで来るし、事情も聞かずにてきぱきと対応する点、犯人からの電話にいちいち説明的な言葉を言うような点」さすがに出来すぎです。しかし画面いっぱいに家の中のシーンにもかかわらず、人が交差するようなシーンもカメラと役者が同時に動くのでこちらは全体が見えていないんですが全体をうまく捉えているようでうまいです。さらに目線がいいんです。この室内の風景は本当にいいですね。特にAがかばんに細工しているときに「見習い工のときの腕が役に立つとは思わなかった、また一から出直しだ」というときに刑事一同立ち上がる、真ん中にかばんを修理しているAという構図最高です。まあ結局、築いたものはまた作れるということでしょう。部下は裏切りますが、築いていないですから今の地位保全に動くんですね。ギャンブルもできいないやつです。客観的に子供の命を助けたほうがあとの人生で悔いが残らないだろうというのは簡単ですが、実際はできないことだと思います。警察もAに「生活を守る権利はある」そして「われわれはそれを守る義務がある」というようにこの後の動きもAの動きが関係してきます。

この映画のすごいのは次に事件が動きますが、やっと外に動いたと思ったら今度は列車の中という室内なんですよ、また。この列車の中で証拠写真をとるんですがあとで役に立つというのが映像ではなく、写真なんです。ここは監督は何かいいたかったのでしょうか?

映像は情報が多すぎるんですよ。(あとで、録音でさえ何回も聞いているうちにやっとパンタグラフの音が録音されていることに気づくシーンもあります)がそこで映画についても情報が多いことを知った上で作っているということだと思います。子供が助かり、刑事たちが捜査スタートという場面4人の刑事が平行で後姿で歩き出すところで切れるんですが、動きがあっていいですね。このあとやっと外の操作風景や、犯人の行動が映し出されるんですがすごいいいアクセントです。ところがまた室内に。Aの屋敷です。背景が横浜の街で当然市民は生活しているんでバックに動きがあるんですよ。この辺の感覚もいいですね。そして、かなり本題に近いテーマである、債権債務関係の債務不履行の問題が起こります。この映画は根底に、人間の社会的契約の一部の社員契約と業務執行機関としての取締役会とその決議、会社の最高決定機関の株主総会について折に触れて話のポイントで出てきますが、そのときに比較にされるのが子供の命なんですね。どちらが大切なのか?という問いがなされているんです。子供の命のほうが重いのではないのか?そういう命をもてあそぶ、「誘拐」という犯罪を憎むという視点です。

次もまた室内で、捜査本部です。捜査過程が映し出され、その映像が広範囲に周りの景色を表現して必然的に広範囲のイメージが映画を見ていると出来上がるんですね。これは編集と進行のうまさです。構図もたくさんの人が画面に入るときはそのときの主役を中心に扇形に人が膨らむように配置されています。うまい配置ですね。あとは鎌倉の捜査のときに切通しを車が通るのですが、「西部劇」みたいに劇的な効果がありますね。この構図ということに関しては、Aの室内の様子が、玄関のドアから居間まで直線で見渡せるんですよ。これは撮影効果からそうしたのだと思います。

さて、捜査側は記者会見をして、(警察はストーリーの交通整理の役目みたいですね、ここでも説明的)マスコミに理由を話して協力してもらい、メーカーを(Aの反対側の役員で構成される)たたこうとするのです。ここでマスコミの本来の目的、機能を提示するわけです。監督の意思ですね。この効果で犯人はあせって、かばんを始末して有名なパートカラーのシーンになるのです。ここから、大体犯人を特定できてから面白くなるんですね。捜査陣が犯人を泳がせて、罪を重ねさせて「極刑に値するときに」捕まえるのです。この極刑、すなわと誘拐は極刑ということ、この罪を監督自身が憎んでいることは映画全体で主張されております。

この犯人が泳いで街に出るところがこの映画の動的部分で、いままでが室内で静的に抑えに抑えていただけにすごく鮮明な印象を観るものに与えてくれます。このシーンも山下公園から伊勢崎町にかけてが土台で、ダンスホールが本体の二重構造で盛り上げてくれます。本当にサングラスがかっこよく光りますよ。この光は後につながる光で、有名な私の最も好きな、犯人が検証に犯行現場に来たときのシーン、すなわち、画面の下から犯人の顔が上がってきて光る光と対なんです。このシーンは陰影の美しさの極致とも言える、次の格子戸から隙間をもれた光が縦じまになって犯人の顔に当たる、そしてそこでタバコをすうという本当にかっこいいシーンの前触れです。どこかでこの構図を絶対に使いたかったともいえるすばらしいシーンですよ。

動的に最高のダンスホールのシーンに続いて黄金町の旧青線地帯のシーンは、わざとらしいくらいにおどろおどろしいものです、まさに犯罪そのものの暗さです。この犯罪ということはこのすぐあとに刑事と犯人が接近してしまうときに追うほうと追われるほうの両者が同時に写るシーンで表現され、刑事たちはトンネルの光の中現場に向かうのです。この光を跳ね返すのが犯人のサングラスかのように。

最後ですがどんな教戒師も拒んでいるとのこと。この犯罪は動機がないんですよね。単にこの人がたまたま憎かったというだけなんです。ここに犯人から乞われてAが会いに来るのですが、Aはもう前向きに人生を再構築しているんですよ。それが犯人には悔しくってたまらなかったのでしょう。結局表題の「天国と地獄」は意思の差だけだったんです。未来を思う前向きの気持ちが同じ状況下でも「天国」になる人も「地獄」に思える人もいたのです。そして前向きになれなかったものの叫びが最後にこだまして映画は終わります。

久しぶりに観てさすがに、いい映画だと思いました。良いとか言う判断の上に位置する映画だと思います。タルコフスキーもあるインタビューで最高の映画10本のうちに黒澤監督も入れているのがわかる気がいたします。あとは溝口監督、ベルイマン、チャップリン、ベルッソンなどですね。すごいメンバーです。

 

「天国に一番近い島」大林宣彦監督 1984年

この年でこの映画をまた観るとは思いませんでした。しかし昔と違って素直な気持ちで見ることが出来ました。大林監督、原田知世路線は続いて見てますね。

父が言い残した「天国に一番近い島=ニューカレドニア」に旅行した少女の話。確かに日本人も南洋の海洋民族とも交流、結合しているのですが、父にお別れを言いに行った旅行で、父もなんとなく日本人のルーツから天国というイメージを持っていたのかもしれません。南の国で風景がきれいなところはいくらでもあるのです。しかしツアーのほかの観光客が意外と沖縄でも問題ないような旅行をしているのに対して、この主人公は父の御霊を探しているのです。有意義な旅行になりそうですよ。「自分の風景を自分で見つけること」が旅行と言う人も出てきますしね。この人は夕日を見せて「緑の光線(エリック・ロメールではないですよ)」の話をします。このガイドは少女の影響で純粋だった頃の恋愛を思い出します。ロマンティックにする影響が少女にはあるんですね。このガイドがカジノのディーラーに手を回してラッキーナンバーが当たるように事前に買収しているんです。そのためカジノのお金でほかの島に行くことがきるようになり、「信じていればね、夢は必ずかなうんだよ」なんてかっこいい言葉を言います。ニューカレドニアの風景もきれいですし、楽しい映画ですね。

 

次にめがねを壊した男の子を捜しに現地に市場に行って話をすると、ウベア島とのこと、一番早く夜が明ける島、らしい。夜が明けるといってもねえ、日付変更線の位置によって一番かどうかは変わるのですがねえ。その前に日本軍の慰霊碑にお参りしていることからもなにか父の魂が呼んでいるような気がしてきました、私までも。そしてこのとおり男の子とも出会えたし、条件は揃ってきましたね。しかしひとりになりがちです。そこで怪我をして寝込んでしまうのですがこれで地元の人々に溶け込んできました。しかし日本との関係は移民という関係もあったらしい。この移民が父とのつながりみたいです。そして現地で出会った男の子とのつながりも出来ます。この男の子は母に日本という国に小さいときから話しを刷り込まれていた、少女と対になる関係です。日本からニューカレドニアを父から聞かされていた少女、ニューカレドニアで母から日本のことを聞かされていた男の子。この移民と潜水艦の乗組員が少女の天国と関係あるのでしょうか。少なくても潜水艦に乗っていた兵隊の家族が慰問に来たときは場所は勘で(霊が呼んで)場所がわかりました。忘れない夫への愛について「愛って結局は自分のための物語」というのです。少女もだんだんわかってきました。そして、あのガイドのキューピッド役もこなしてしまい、あの男の子の紙芝居というか日本への思いは父のニューカレドニアへの思いと同じでした。結局は天国に一番近いので、自分のいるところとはちょっと違うところを例にしますが祖国だったのです。眼で見てわかるところは具体的にはつまらないですよね。最後に男の子はこの少女から日本というのを学んだというし、少女は眼にした紙芝居の島が天国に一番近い島だったのです。愛にはまだちょっと早いのかな。しかし深い友情がこの島で生まれました。この映画に感動してしまっていいのだろうか、とも思うのですが、きれいな島でした。きれいな映画でした。

「天使たちが見た夢」エリック・ゾンカ監督 1998年 フランス

今度は「青空」と少しダブるような話です。バックパッカーの流れ者の女20代前半(Aとする)が友人を訪ねてある田舎町に来ます。友人はいなく、カフェでいつもながらのあぶく銭を稼ごうと切り絵を売ろうとすると、「金がないのか、仕事を紹介するぞ」、という男に出会います。仕事は紡績工場でミシンを使う仕事です。そこで、休憩時間にたまたましばらく一緒に過ごすことになる同じ世代の女(B)と出会います。ここで、思うのですが、いい悪いはともかく、カフェに出かける、または街に、外に出なければ、どんな出会いのきっかけもないということです。最近はこもるのがはやりみたいで、「もっと外に出てほしいと思います、もちろん車の中は外ではないです」。

会話の中で「この街なんか陰気な町ね」というせりふがあるのですが、確かに街から街へ流れていると、旅をしていると、そういう雰囲気を敏感に感じることが出来ます。ゆえにAは多分、危険も敏感に感じるのでしょう。Bも「嫁いだらここを出るわ」といいます。これはアメリカの田舎、特に南部の人の考えですね。しかし地元で恋をしてしまうから出られなくなるというパターンです。

この二人見ていて思うのですが、生活のリズムが外に向いているんですよ。お金がない若い子のパターンなんでしょうが、工場から帰宅、ご飯を家で、そしてバーに出かける。踊りに行くのです。日本人なら、どうせ出かけるなら食事でも、と合理的判断をするでしょう。食事の部分にお金を使わないのはいいですねえ。そして帰ったあと、家にこもるんではないんです。家にいても誰とも知り合いになれませんから、出かけるんです。ついでにライブをただ見しようとすると、その受付のバイク乗りたちに断られます。しかし確実に彼らと知り合いになるのです。そうしてみんな相手を見つけていくのでしょう。実際に二人とも友達とも言えるバイク乗りが出来ます。Aは話すくらいですが、Bは寝てしまいます。Aはじっくり自分のしたいことを見つけるタイプで、Bはあせってしまうタイプですね。二人の住んでいる家は、Bの知り合いの家で、交通事故で入院している間、管理人として預かっているだけです。Bは破産した父親がいやで家をとっくに飛び出しているのです。実際に母親もお金をせがみに訪れます。

毎日良い男を見つけ歩いているようで、Aは生活を根付かせ始めます。そして、この家の交通事故にあった女の子の日記を読んでしまい、同じく悩んでいることに気づきます(「二十歳の原点」のような日記)。実際に、まったく関係ないのですがお見舞いに行ったりしてます。大家なんですからねえ。意識不明なので相手がわからないのですよ。Bは逆に同じようですが、ふわふわして万引きをするところを警備員に見つかり、さらに、ちょっと知っていたカフェのマネージャーにも見られ、警察に連れて行かれるところを、このマネージャー(Cとする)が代わりに支払ってくれました。CがBにどんどん親しくしてくるので、はじめは受け付けなかったのですが(万引きを見られた恥ずかしさもあるのでしょう)だんだんCのペースに嵌っていきます。当然Cは遊びのつもり、Bはもしかして、と夢見るのです。すぐに裏切られますが、体は許し続けます。というより、はじめのうちはCがプレイボーイだと気づかないのです。実際に、Bの女優は小奇麗な女優です。アルバイトに精を出してお金を稼ぐAとCに振り回されるB,さらに仕事先で友人が出来て世界が広がるAとあくまでCに固執してAにも相手にされなくなるB。その差はだんだん大きいものになります。ここで「青空」とかぶるというのは、このようなBの行動の理由となんとなく「青空」で最後に殺される女の子とが似ているような気がするのです。Bはお金持ちである程度カッコいい人と相手したい、「青空」の子はもっと刹那的で家庭から逃げ出したい、というものでした。もしかしたら世界の果てまで行ってみたい、くらいの気持ちもあったかもしれません。覚せい剤の売人の仲間を警察に売ったのはそんな理由で、そんな連中から、彼を引き離したいのかもしれませんしねえ。まあ深くない動機だと思います。日本もフランスも似ている気はします。

しかしBが忘れようとすると、Cが近づいてきます。そして、Bは寝てしまいます。ほのかな夢をまだ見たいのです。そのときAは再三忠告するのですが言うことを聞かないばかりか、Cと一緒になったときのような見下したしゃべり方になります。

さらにはバイク乗りの男友達(Bはこの男とも寝てしまっているよ)にも好きな人が出来たと別れ話を言います。実はバイク乗りのほうが誠実なんです。ぴったりの男なんですよ。いい言葉を言います。「会うと胸がときめくか?そういう恋なら絶対に逃すなよ」といい男ですよ。私には言えないなあ。Aの助言もいいんですよ。「Cがすべてなの?ほかにもやることあるでしょう?プライドはないの?」などです。しかしBは昔から惨めだったと告白します。かなり投げやりになってます。もう向かうところはひとつですね。何回も惨めな思いしながらも最後にかけるその気持ち、多分、本当に恋したんだと思います。それも初めての恋でしょう。Aはこの恋が実らないことを知っていたと思うんです。多分、このときはもうBは打算だけではないと思います。しかしCは別れの言葉も直接にBにいえないんです。Aに言ってくれと頼みます。AはCを当然ひっぱたきますが、Bはまだ望みを持っているんです。その姿を見ているAの方が辛い。でもよく考えればAが来た事で、Cとの出会いもあったのですし、バイク乗りとの出会いもあったのです。そういうかけがえのない友人だったはずなんですが、Bはどこかに脱線してしまいました。Aは家を出て行き、この家の持ち主も意識を取り戻しつつあり、すべてうまくいくのですが、Bはひとりあてもなく寝ているだけです。家は追い出されるし、仕事はないし友人を一挙に失ったのです。その様子をAは家に来て見て、寝ているBに手紙を書きます。「Bへ、寝ているから起こさないで書くね、この家の持ち主は治るわ また生きるのよ。あなたも望みどおりに生きてね。あなたが夢見る人生を。毎日どんなときもね。あなたの友達、Aより」書いて帰ろうとしたら物音がして見に行くと、Bが窓から飛び降り自殺します。友人に恥ずかしくて会えないのでしょう。こんな言い手紙が残されているのに。題名はちょっと違う感じはします。Aは生活を固めて再構築しようとしただけですので、「夢」なのかなあ。

 

「トーク・トゥー・ハー」ペトロ・アルモドバル監督 2002年

懐かしいです。ビナ・バウシュの舞踊「カフェ・ミューラー」から始まります。「ホワイトナイツ」みたいですね。

この舞踊の主題が映画に関係していると思います。

この舞台を見ていた隣り合わせたふたりの男A40代B30代を軸に二つの物語が進行していきます。Aは女闘牛士に興味を持ちインタビューしようとします。なぜならばこの闘牛士(C)は孤独の恐怖が顔に出ているからです。ビナバウシュの舞台も同じように風に飛ばされる女ふたりが迷っているところに男が現れて道を開いていくというものです。

そしてBは看護士で4年間眠り続けた女(D)の世話が特に好きな男です。かなり一方通行的な恋愛感情を持っているのでしょう。しかし「奇跡」は信じている男です。

きっかけの提示はひょんなことですがACは行動を共にするようになります。信頼関係は出来上がっているのです。しかし闘牛で牛に全身を突かれて意識不明の重態の陥ります。

CDともに同じような状況でABという優しい男がそばにいるという状況が生まれます。

同じ病院なのですれ違いの出会いがあり、お互いに接近していくのです。その前にAは夢の中で思い出として、Cと一緒にいたときを思い出すのですがそのときコンサートに行っていて歌手はカエターノ・ベローゾです。ギターにバブルベース、チェロというロマンティックな構成であのささやくような歌い方です。彼のコンサートの「フェリーニ」にささげるジュリェッタのコンサートはいいですよ。

「死から生が誕生する」その生、精霊を女のダンサーにやってほしい。新しい舞踊の構想。

こうのとおりに映画もなるでしょう。きっとね。

バレエ教室で踊っているDを窓越しに思い続けたストーカーであるBという存在が浮かび上がってきます。ストーカーくらいでないと結ばれないのか?「はつ恋」の平田もストーカーだったですよね。そしてDの親の経営する精神科の患者になり、家に侵入します。

しかし交通事故で植物人間に。病院でたまたまBを介護士に推薦されて今までずっと続きます。BDのことを好きだと、父親は知らないのです。しかしかなりスキンシップ、「女には自分が重要な存在だと思わせることが回復の第一歩」と信じて介護してます。

縮みいく人間という映画が出てきますが、彼氏が薬を飲んで解毒の薬が出来ないままどんどん小さくなって、途方にくれて母親のところに帰りますがその家をつきとめて迎えに行き、また一緒に生活をするうちに小さくなって体の上にのり、女の体内に陰部から入っていく、というシーンがあるのですが、胎内回帰願望と女を所有する願望を一致させる方法です。Bは女もそれを望んでいるというのです。

ACが倒れる日に前の彼女の結婚式を見てました。その彼女とは年が離れすぎていて、自ら身を引いたのです。愛情は消えていなかったのです。それはつらいですよ。そのつらさをCも見て知っているのです。そしてCは逆にその日に昔の彼氏とよりを戻したのです。まったく逆。なんというめぐり合わせか。Bはそのことをうすうす感じていたという。関係が何か希薄というのが傍目に判るらしい。そして自分はDとうまくやっていく、結婚したいという。その前に映画の話を聞かせていたときに、なにか強姦したみたいなのです。妊娠したらしい。そして投獄され、Cが死んだニュースを聞いたAが病院に電話してその事実を知ります。面会に向かうのですが、Bの部屋を借りることになります。Bの部屋からバレエ教室を見てみるとDがおなか大きいままいるのです。かなりの衝撃ですよね。友人としてAはなにをしてやれるのか?Aは実際に友人なのか?たまたま劇場でそして病院で出会っただけの男ではないのか。いろいろなことが頭をよぎります。

しかしBAを友人だと思ってすべてを話してくれたと思います。そして黙ってすべてを残して自殺。はじめてみたとき、Dが生き返っていたということと共に大ショックな展開です。完成したバレエの公演でADは出会いますがなんというかもう終わってしまったんですよ。意思は疎通してます。たぶん一緒になるんでしょう。

「時をかける少女」大林宣彦監督 1983年

「人が現実よりも理想の愛を知ったとき、それは人にとって幸せなことなのだろうか、不幸なことなのか」とかいう出だしですね。今回見て初めてこの一文に気づきました。

尾道の風景が出てきますが(あたりまえですね)こんなに出てくるのか、と思うほどきれいに映ってます。一度も行った事ないのです。広島のついでに行ってみようかと思います。

そしてはじめのスキーのシーンの音楽良いですね。スキーで深町(Bとする)がなんか原田知世(Aとする)の意識に上るんですね。そしてラベンダーの香りをかいで気絶。意外と覚えているようで覚えてません。このラベンダーは初恋なのかと思うのですが、確かもう一ひねりあるという記憶だけで、はっきりしませんでした。

時間が一日ずれることに気づいたAはBに相談して昨日あったことが実際に起こることを照明します。そのときBからテレポーテーションとかの説明をされている雰囲気はもう初恋ですね。いい感じです。その前にBの家の温室で「ももくり3年かき8年、、、」の歌をいつの間にかハーモニーしているんで、どこかに憧れがあるんでしょう。子供のときの傷に気づくのですがねえ。しかし、なんというやわらかいテンポなんでしょう。素晴らしい。今では考えられないようなテンポです。屋根の落盤事故のときに子供のときの記憶が元に戻ってから、Bの存在を無我夢中で追いかけてしまって、時空間を飛んでしまったらしいのですが、海の先端の岩肌の花を取りながら話している構図はきれいですよね。おかしくなったときに戻るときにいろいろな人生のページを見ていくのですがそこでBは死んでいたということを知るのです。この土曜日の実験室に戻るときの時と風景(尾道)のコラージュと音楽、良いですねえ。実はリアルタイムでは馬鹿にしていたんですが、今見ると良いです。監督も多分今よりもずっとロマンティックだったんでしょう。しかし、美しいです。そのあとの未来人とかいう説明はさすがについていけないですが、これSFなんですね。SFでない方が良いのに。最初のスキーのシーンが未来人がやってきた合図なんて、監督はSFと初恋をダブらせてかなり確信犯的に作ってますね。それで映画の前の文章になるわけです。しかし一目あったその日からの大恋愛という感じのスタートではないんですが、実験室では「私もついていく」と大恋愛に発展しましたね。ちょっとずるいなあ。監督手を抜いている感じもします。途中経過が大恋愛かあ、と思うのです。しかし最後に又出会いましたね。これで大恋愛完成です。そうしたら今までのシーンが、動く記念撮影みたいに楽しく、本当に走馬灯のように流れて行きますね。これはリアルタイムで観ていたら気に入る映画になっていたことでしょうし、この女優一作目からいい映画に出てますね。ユーミンの最後の曲も良いですね。今になって角川映画なんて観てますが、当時は5本くらいかなあ、ロードショーで見ていたの。

 

「ドクトル・ジバコ」デビット・リーン監督  1965年

よい映画ですね。しかしかなり入り組んだ構造なのでアカデミー賞も主な部門は取れなかったのでしょう。ラーラ(Z)の娘らしき人がみつかり、話しを聞いているうちに、中央アジアの平原の中でジバコ(A)の母親が埋葬されるシーンに移ります。魂は肉体を離れただけです。ここがポイントなんです。バラライカは弾けなくても、大きくなったら詩を好む医学生になります。ここでトーニャ(G、母が死んだあと母の友人の家にもらわれた、そこの娘同い年くらい)はどうしたのかというとパリにいます。

そしてラーラ(B)がモスクワで恋人(C)と一緒にいるのですがCはボルシェビキみたいな左翼系学生です。Aが見ている中Cはデモに参加して、Bは舞踏会に出かけます。4人がうまくクロスしてますよ。舞踏会は貴族特権階級、外は労働者階級でこのデモは弾圧されます。そしてBは叔父から迫られて、そのときに弾圧が始まり、その音を聞いて外に出てきたAは衝撃を受けます。Bは教会で「肉欲は結婚の契りによってのみ許されるのだ」と諭されますが、Cはこの弾圧でより過激的に変化していきます。AGはまさに良いカップルなんです。しかしBの叔父夫婦がちょっと変態じみていて危篤状態に陥ったときAの先生が呼ばれて、Aも一緒についていきます。ここでABの初対面が。しかしBは状況を知らせにきた叔父に抱きついてしまいます。やばい、見られた、という感じのシーンです。ここで重要なことが起きます。この叔父はAの父親を知っているというのです。Aはそんなことも知らずに、起こった2つの情事に放心状態。

そしてBCは結婚すると叔父に打ち明けます。まあ叔父との腐れ縁も解消したいんでしょう。叔父もそう簡単に納得はしません。Cが一途過ぎるのです。「不純同士の交歓」で逃げられてしまいます。このあたりBはこんな女だったっけと記憶が曖昧でした。まあ清算に出かけますが舞踏会に行ったとのこと、後を追いかけます。そしてその舞踏会にはAGが来ていて、かつ建物の前でCに会います。全員そろいました。殺すでしょう。失敗して取り囲まれたBを割り込んで救おうとするのはCです。ここで思い出しましたがこのCはまさに「人間の条件」の梶上等兵にそっくりです。悩み方まで似ているような気がする。

話はかなり対になるところあるので、続けてみることはお勧めはいたします。右翼的な勢力をうまく利用するというところはうまい。ドイツとロシアの戦争です。この時宮中にはエカテリーナ2世(ドイツ出身)がいたんですよね。「幸せな人間は兵役志願などせず、兵役免除を神に感謝する」まるっきり「人間の条件」と同じ。違うのは兵士が疲弊して(映画では自主的に)帰宅し始めたことです。確かに日露戦争もあったんですし、おかしいですよ。そして人間の条件と同じように帰る道ながら、いろいろなことを思ったんでしょう、革命の兵士と彼らは変貌するのです。アレックギネス扮する反抗分子を軍の中でまとめるスパイもいたのでしょう。そして革命の勝利に導くのです。ここまで革命軍は待ったらしい。しかしレーニンは前線をここまでは悲惨だとは思わなかった。戦場は経験したものにしか判らないでしょう。ここで国のため、戦って死んでいく命は無駄だというせりふにかなり監督の意思が入っていると思います。反戦のメッセージです。とにかく戦場の悲惨さは、当然私にはわからないのですが。この戦場の反抗分子をまとめるという、逆説的な発想ですが革命の発端となったところでABは再会します。Cは勇敢に戦い権力を物にしてます。この映画の描き方は、戦争がいかに無駄な死に方か、権力がいかにたわいもないものか、如実に語ってます。うまいと思いますよ。そして皇帝が殺されレーニンがモスクワに入ります。労働者の国家というのですが、すぐに別の権力が出来るのはご存知ですよね。

このときGはモスクワにいます。ということは2組とも別れ離れでABが一緒にいるということです。カーチャというこどもがBCに出来てます。そして子供とCのところに帰っていくのです。

サーシャという男の子がAGの間にいます。そしてモスクワは今度は公平、平等の名の下人民軍の統治が始まってます。統治とは言わないですね、分配でしょうか。

そして薪泥棒しているところをAはアレックギネスに見つかります。この人はAの兄でした(E)。Eはこのことでは党を裏切り、弟を許します。しかし入党しない弟に対して、「党に理念はわかっても入党しないやつはひ弱な賛同しかしない」という判断をしてます。まあすべてをかける人間と違う人間(リスクへッジ)の差です。そして言葉の端に「モスクワにいるな」という兄に従ってウラルに向かいます。屋敷も取られているので問題ないでしょう。途中でまた人間の業がでてきます。それは、Cの評価もまた低いものです。あれだけロシアから馬鹿にされてきたのに、今度は自分が馬鹿にされてもいいのでしょうか。

第二部

途中Aはひょんなことから、Cに捕まってしまいます。CAたちの舞踏会を良く思っていないので手加減はしないでしょう。Bがいてくれたらまた話は別ですが。「個人の時代は終わった、愛とかはいらない」というような言葉、Cも変わったのです。BがいなくてもBと会ったという話で助かります。そしてBはユリアティンにいると知るのです。期待を持たせる情報を得ました。そして、そんなたたないうちにCが失脚したというニュースまで。Cは土台を作るまで必要なタイプの理想を追う理念家でしたから体制をある一部の人のためにする段階では要らなくなる人間です。そして満州に逃げてます。何故満州か?別に意味ないのですがソビエトの人間が逃げるときの果て、なのでしょう。そしてロシア皇帝は殺されます。見せしめですね。このときのロシア皇帝の内部の話も面白い話がありそうですね。

ユリアティンで再会するAG。静かですが、内面では激しい情動がうまく表現されてます。会うべき人には会えるのです。また会いたいと念じていれば会えるのです。

そして二股の生活。Gはまた身篭ってます。そして薬を取りに行き、関係をすっきりさせておいて帰る途中にパルチザンに襲われて仲間にさせられます。まあ医者がほしかったのです。しかしこの時点でどちらがパルチザンかまったくわからない感じですけどね。「人間の条件」とまったく同じ展開ですよ。白軍は皇帝が殺されているのでよく抵抗はしていると思うのですが。日本軍もそうでしたからね。

ある程度パルチザンも目的達成したあと、逃げても追われない時に、郷愁から家庭に帰りたくなります。そしてひとり原野を彷徨うのです。動機は「人間の条件」とまったく同じ。シーンも見ているかのごとく同じです。この映画には先があって、家族はいない状態になってしまったことです。梶上等兵も帰っても同じだったと思いますけどね。Bが心づくしの準備をしてくれてます。BGAを探しにきたときに会っていて、手紙を言付けていたのです。その手紙にはBのことをある程度知っていること、そして子供のこと、これから行くところなどが託されてました。Aは家庭に戻るべきでしょう。しかしこれほどまでにABと燃え上がらなかった映画だったっけ?まあモスクワでBの叔父ということで姦通していた男が助けてやると来ますが、逆に居場所が判っているということは危険なことでもあるのです。まあどうせ捕まるならと、昔家族で住んでいたところに行ってぎりぎりまで一緒にいようと覚悟を決めます。そこは妻の愛情が感じられるほど、そのままに残してありました。そこで久しぶりに詩情が沸いてきます。そして「ラーラのテーマ」が心地よく流れます。生活も静かな良い時間の流れで、ほんとに久しぶりの人間らしい生活です。

しかしCが死んで追っ手が翌日来ると叔父が知らせに来ました。「この大悪党の保護を受けてくれ」とくるのです。ここで尊厳を取るか、逃げるか、Aとすると不倫ですから、自分の立場というより感情、愛情で動いているのです。しかしGへの愛がないのではないのです。家庭は大事ですが好きな人が出来てしまうことは男も女も仕方ないのでしょう。Aは両方を選択します。すなわちBを叔父と先に行かせて後から行くといい、自分は永遠に近い別れを心の中でするのです。まあ家庭外での愛はこれで終わりでしょう。しかしAには待っている人もいるから、そこに戻らないと。ここで重要なことはBが最終的になぜ、行ったのか?母親の義務、愛情の証を守るということです。その子供がこの映画の冒頭の子供です。

終始ABの愛が変わることはないのですが、子供は両親がいないことをうらんでいます。愛と両親の問題、政治の問題、そして受け継がれるべき血統を見事にまとめております。少し判りにくいかもしれませんがそれは、血の流れ、を表現するためでしょう。愛情の表現だけならもっと簡単なんですがね。

「トリコロール」白の愛 キェシロフスキ監督  1994年

 

男が歩いていると鳩の糞が落ちる。いやな予感。まさに離婚調停の始まり。理由は性的不能。夫は愛しているというが妻は愛してもいないという。実際に電話をしても店に(美容院やっている、夫のほうは腕もよく、お客様がついている)訪ねてもだめ。実際に離婚成立の後、いちど試してみてもうまくいかない。夫はここで結婚式の日を思い出してみるのだが、今まで愛のメッセージを妻から受け取っていたのかもしれない。それに気づいていないのかもしれなかった。当然、妻のほうは夫をまったく忘れたい存在ですね。

住む場所を失った夫は街で大道芸みたいなことでどうにか生きている、この世にいるという存在だけになってしまったのです。愛の喪失です。そこで祖国ポーランド人と出会う。なぜ、彼が立ち止まったかというとポーランドの曲を紙笛で演奏していたからだ。彼はブリッジでパリで勝負して生活をしていたがある仕事をする人間を探しているというのだ。仕事とはポーランドで殺しをしてほしいということ。その相手の素性を聞くが妻と子供もいて金もあるという。この夫にないものばかり持っている人が、何で死にたいのかわからない。しかし、妻の様子を見に行って電話すると妻は男と寝ていてその様子を電話で聞かされる。あてつけですが、その電話代の最後のお金で残った2フラン硬貨をとりあえず、フランスの思い出として持って帰る。これを後に自分の葬式の身代わりの死体に投げ込んだんで、そこでフランスとは切れたんでしょう。すなわち、妻とも切れたのかもしれません。そして、仕方なく仕事を受けるがポーランドは祖国なのに帰ることができない。パスポートをなくしているのです。妻が捨てたのだろう。その男のトランクケースに隠されてポーランドに戻るが途中トランクケースが盗まれてしまう。そのままお金を持っていないので捨てられる。とりあえず、仕事(殺し)はできないがポーランドのどこかに着いたわけだ。ここで流れる音楽は最高、ピアノから展開する曲でポーランド編の映像のテーマ曲のような感じでしょう。とりあえず兄の実家を訪れると優しく出迎えてくれ、お客様も、ついてくれる。腕がよいのでお客様も喜ぶんですね。(パリとポーランドを結ぶこの移動も自由化の恩恵な訳です)しかし両替商に勤め、役に立ちそうもない善人そうな顔から用心棒の役目をもらう。まあ捨て駒ですね。しかし、仕事のときに盗み聞いた土地開発の話で土地の買収を始める。人がよいので相手に信用してもらえるしうまく買収は進む。そんななかパリの殺しを依頼した男がたずねてきていて探して会うことができる。そして夫のほうから仕事を引き受けたいという。ここまで彼は裁判からいやな人間の一面しか見ていなく、違うのはポーランドという祖国と兄だけだった。殺しでもやってもいいという気持ちだったのだろう(しかし、後から思うと事業資金を貯めて何かにささげたい気持ちが強かったはず、だいたい、このころ遺言状を書いていて遺産は一括、教会か何かに寄付するつもりだったはず)。しかし「殺し」はその依頼人自体を殺すことだった。実際に現場で銃を撃つ。空砲だったが相手にも人生をやり直すくらいの後悔は与えた。依頼人は依頼を取りやめ、(人を助けた)酒を飲んで意気投合する。ここで多かれ少なかれ、生まれ変わったのだ。多分夫のほうはポーランドに来た時点で生まれ変わっていたと思う。この依頼者はここで生まれ変わった。この最悪のどん底の気持ちからの精神的開放がテーマでもある。第二のテーマである

その後、元手を土地取引と殺人(未遂)で作って事業に乗り出すのですが、これが成功します。なぜかって、これは私の推測ですが、金持ちからお金を取り、恵まれない人に都合がいいような事業に専念した結果、その施しの気持ちから態度に自信があったのでしょう。また、いやな人生だったのでだまされないすべ、またはだます奴を本質的に見抜けるようになっていたのでしょう。これは殺人を依頼したやつを共同経営者にしたことでもわかると思います。二人ともいちどは死ぬような思いをしていたんです。成功してきても妻を忘れることができないので、あることを思いつきます。それは妻の反応を見ることです。本当に私は嫌われているのか、わからなかったんですね。そして死んでしまったような見せ掛けを作り上げます。自分は引退しても問題ないでしょうし、ここで遺産の相続人を妻に

変更します。そして、妻に電話してみるのですが切られてしまう状態なんですがね。しかし死んだこととするとなんと葬式には彼女は来るのです。ここは来るかどうかもわかりませんし、映画を見ていて来ないような流れなのは事実です。可能性は新婚のころの感情がどのようなものだったかでしょう。夫のほうは離婚したときに思い出します。妻のほうは葬式に列席してもみて、感情としての悲しさは覚えるのです。この葬式の様子を影で見ていて、あとで妻の泊まっているホテルに先回りして部屋に隠れているんです。ここで、妻のほうは夫が死んだと思ってはじめて気づく感情や思いがあったのでしょう。手をとり、膝枕なんかをしてこのときは離婚の原因となったようなことは起きませんでした。しかし妻が起きる前に部屋を出て行ってしまうのです。ここの意味がよくわからないのですが、感情の確認だけだったんでしょうか。このまま一緒にならなかったということは、意外とロマンティックなことばかりではないでしょう。一度の確認をしたかっただけだと思います。しかし一度に遺産として大金が入った妻は警察に疑われ、かつ死体の状態が当然のごとくおかしいので、まあ容疑者になっていくわけです。そして、妻の中では夫は生きているのですから、精神的におかしくなっていくのです。そして最後のシーン、夫が会いにいけたので警察ではないと思いますが、精神病院かな、の窓越しに妻が手話で話しかけているのが見えます。その言葉で愛情が再確認できたのです。ちなみに妻があの結婚式の様子を思い出したのは夫がホテルから隠れてしまったときです。葬式の後ですね。つまり白の愛は愛情の復活だったわけです。最後に会いに行く前に弁護士が言った「トンネルの先に光が見える」という言葉がテーマです。蘇生。すべてはいい状態に収まる。がんばりたいと思います。

 

「トリコロール  赤の恋」  キェシロフスキ監督  1994年

 

電話がポイントなんですね。昔電話の伝達性という議論がありましたが、電話は相手にかからなくてもその時間そこにいないかまたはわざとでないという可能性のメッセージを相手に伝えるという一面があるというのを思い出しました。しかし昨今の携帯電話の発達はその伝達性も変えてしまい、電話に出る前に大体誰からかかってきたのか、わかるようになっております。ずいぶんと変わったものですが、この映画では携帯電話の出てくる前のフランスが舞台です。

どちらかというと活発的な女性Aを中心に話は進んでいきます。ファッションモデルで仕事に余暇に充実しているように見える人物です。その子がたまたま車を運転中にオーディオの調子がおかしくてよそ見をしていた時に犬を轢いてしまいます。犬の首輪をたどって飼い主のところに謝りに行くと初老の飼い主にいらないといわれ、自分で獣医に連れて行くのですが、軽い怪我だとわかり、かつ、妊娠していることがわかります。そのことで愛着が沸いてくるんですが、足が治ったか確認のために首輪をはずすと走っていって、教会の中とか入った末に見失います。Aが飼い主のところに行ってみるとちゃんと戻っています。しかしいらないからもって行けというのですが室内に戻ったときに出てこないので、探しに入るとホモの会話が聞こえてきます。それは実は盗聴でした。隣の家の電話を盗聴していたのです。女の子なのでAは盗聴はやめてほしいと、というのですが、やめないといわれ、もし本当にそう思うなら、隣の家に忠告に言ったらどうですか、とまでいわれます。当然、活発な女性Aは行ってみますとやさしそうな奥さんとかわいい娘がいるんです。いわゆる傍目で幸せそうな一家ですね。何もいえないで出てきてしまい、また初老の人の家に戻り、盗聴をやめてほしいといいます。そこでこの男が判事だとわかります。

しかしいろいろな人の盗聴を聞いているうちに、ある覚せい剤のバイヤーがいたんですが

彼に対しては電話をかけたくなります。なぜなら、事前にいつか殺される運命だと教えてあげるためです。実際に「殺される」と一言、言っただけでその男は家の中に閉じこもります。このちょうどこの言葉を電話でしゃべる前にAに後光がさすのですがそういう博愛の精神が宿ったと解釈できると思います。

そして彼との電話、行き違いになります。電話は意思相通を円滑に、かつ空間の超越をなしえることができましたが、つながらないということで不安を増長させることもあるのです。

気分が悪いのでたまたま写真家の友人が誘ってくれたボーリングに行きます。このシーンがまたすごくいいのです。落ち着いた中にゆとりの時間を感じさせてくれます。いやな気分が吹っ切れていく感じが伝わってくるんですよ。

実は判事はこのときにすでにAに惚れていたのです。判事は昔、恋人に裏切られて、追い求めたが逃げられるばかりでその結果事故に巻き込み死なせてしまったのです。そのため、女を信用もせずに、出会いもなかった数十年を過ごしていましたが犬がきっかけで女性に出会ったのです。この久しぶりに出会った女性Aが自分まさに判事が裁判されている記事を読んでどんな反応をするか試してみたくなって、自分自身を警察に盗聴の件で密告します。当然Aは新聞を読んですぐに判事の家に行きます。判事の予想通りに動いてくれたんですね。Aにいろいろと話して聞かせるのですがAも黙って聞くのです。このときの時間の流れが赤のテーマ曲がハープで奏でられ本当に幸せそうな時間でした。そこで「Aの夢を見た」というのです。Aも当然意識していていい友達になれると確信してます。そのため、次の仕事のファションショーに招待券を送ります。劇場で終わったあと嵐の中、二人だけで話をするのですが、だんだん核心に近づいていきます。それはやさしさです。

映画の途中に判事が盗聴していた恋人たちは判事の密告(女のほうがほかの男に手を出していること)で男のほうが彼女に執着したために異常な行動に出て恋は終わります。(まさに若いときの判事の再現をここでやっているんですよ)。また、もうひとつ伏線があるんですが同じく判事の若いときを実際に再現する法学生がいます。たまたま道で落としてしまったテキストの重要論点が司法試験に出たんです。彼もまた人生でいろいろな裁きをしていく過程で悩んでいくんでしょう。こういう人たちがたまたまお互いを知らない中ですれ違っていくんです。これが世の中なんでしょうね。お互いを認識しあったならそれは「縁」なんでしょう。

そして、Aは判事と劇場で別れたあと、「やさしい」気持ちになっているんです。ポストに郵便物を入れられないお年寄りも助けてあげたりして、以前の活発でバレエのレッスンのあと水をがぶ飲みする時とは若干世の中に対する感性が変わってきてます。ここがテーマです。「博愛」です。

それは最後に船に乗って恋人に会いに行くとき、ドーバー海峡で船が遭難します。何人かの救助された人がいますが、「青の恋」「白の恋」の恋が重なり合い、その主人公たちが偶然そこに居合わせてすべてが救助されます。そしてAも救助されます。遭難のニュースを今度は新聞で知った判事はテレビを(テレビはAからもらったもの)子犬たちと見ていますが(子犬はAに分けてあげる約束したもの)最後のほうで見つかり、判事はほっとします。今度は心の恋人を死なせずにすんだのです。すなわち、相手を追い詰めないで理解してあげる余裕ができたことを実感できた瞬間でした。ここで終わるだろう、という瞬間にさすがに終わりました。一連の3部作も終わってしまい大事に見てきた楽しいときも一旦は終わりますが、本当に私の中ではこの3部作はすごく大事な映画です。

 

「どうぶつ宝島」池田宏監督 昭和46年3月

「怪しい船乗り」が来たら教えろと怪しいやつに言われてもねえ。とにかくこの映画もねずみがかわいいのです。ねずみっていつもかわいい役やりますね。たまに人間が出てくるんですが男の子(A)と女の子(B)という風に考えましょう。この怪しいやつから箱を預かり宝島の地図を入手。

一度宝島を目指して航海に出ますが、途中海賊に捕まります。これもみんな動物。そして海賊島に連れて行かれて、奴隷商人に売られ、かつ宝島の地図もとられます。バーブーはどうするのでしょうか?(小さな赤ちゃん、人間も一緒に船出してしまったのです)Bはフリント船長の孫です。

しかし海賊にまた地図を取られ、海賊の中で抜け駆けするものも出てきて海賊同士の争いの中、どうにか海賊同士の仲間割れを利用して海賊をやっつけます。あとはABのロマンティックな船旅。しかしそうはうまくいきません。嵐に巻き込まれて船はばらばらに。そしてABともに離れ離れになってしまいます。

まあなんだかんだ言ってもABとともに海賊も宝島に来てしまいます。そこでまた一波乱あるのですが、ABともに少年少女のはずですが今のアニメと違って、笑いが少ないのです。どこか大人びているのです。これが時代というものでしょう。しっかりしていますよ。

そして最終的にAが人質になりBもあきらめて宝の案内図を渡すのですが、そこにか隠した手段があるのです。まるでカリオストロと同じようにスイッチがあり、海賊たちはそのスイッチを押して爆破で吹き飛んでしまいます。その爆破とは隠してある、財宝をつんだ船が湖の中から出てくるのですが、その湖の水の水門を開ける役目をします。それでABと優しい船乗りたちはめでたし、めでたし、ですぐに終わります。まああっけないのですが子供が動物の喧嘩を見て楽しむように作ってあるのです。ドタバタですが。かわいい映画ですよ。

 

「富江(とみえ)」 及川中監督 1998年

邦画が続きますが、これはホラーとはいえ気楽です。漫画が原作なんで、少しいい加減なところは感じるのですが、すごく傲慢な女が出てきてその女Aが思った相手のすべてを取ってしまうという設定です。この人物は漫画の原作者の特典映像にあるのですが「昔女性恐怖症だった」ことから作り上げられた人物像らしい。その人物の名前がこの映画の題名です。しかしほとんど顔は出てこないで、嫌がらせをされる女のほうが中心で進行します。ですからこの女性Bが主役でしょう。中村麻美です。まずはこのBの近くに男の子Cが引っ越してきます。そしてCは何かを育てているのです。なにかこの泣き声が気持ち悪いのですが、「憎悪」とも呼べるような抽象的なものでしょう。映画では生き物ですけど。

Bは楽しそうな外見ですが、友人関係もギクシャクしているし精神科の睡眠療法にかかるくらい気の小さな女の子です。専門学校(写真だと思う、関西から一人上京、彼氏と同棲)くらいなのでしょうか。3年前の事故で記憶障害にはかかっております。何の事故かということですが。

ともあれ、このころから嫌がらせが多くなります。自転車壊されたり、真夜中の泣き声や無言電話など。

そして刑事が来て、事の真相というか事実関係がわかってきます。3年前Aがある学校に転校してきてクラスが崩壊したとのこと。そして逃げるようにAが失踪した。その先がBのいるクラスで仲良しになったんですが、Bの彼氏に殺されたらしい。しかし遺体がない。この理由を求めてはこの映画はだめなんです。Bが彼氏をAに奪われそうになり、最後まで理由を探していましたが、理由がないところがホラーだということ。ただ、何回も生まれ変わったり、寄生虫のように乗り移ったりするのか、Aは何回も殺されている記録があるのです。今回は冒頭に出てきた変な生き物を男が飼っていましたがそれがいつの間に大きくなって「富江」になったのです。菅野さんかなり、気持ち悪いです。でもかわいい子らしいですね。まわりで好きだという人結構います。初め「えっ」と思いましたけど、かわいいのでしょう、と思うことにしました。そして、かなりの驚きはあるんですが、この男はABと同級生だったんです。そして精神病院から脱走したらしい。彼自身も自虐の性格があるんですが(それが「富江」の命令かもしれませんが)。彼が言うのは学校のみんなでAを殺してばらばらにしたんですが、Aの首が土の中で生きていたとのこと。これは実写で見たかったです。今モラルの問題があるのか、ばらばらにするシーンとか少ないですよね。昔ホラー映画を見ていなかったので、昔規制される前の映像というのは見てみたい気もします。ホラーはここ最近見るようになってしまいました、だって怖くないからね。怖いのは怪談系。特にうらみとかで死んだ霊の話。確かに生首とか出てくるんですが、作り物とすぐにわかるし、結局、怖さというのは不条理の中にも存在しますが、自分の罪悪感と対になっていると思います。悪いことをしていないので、怖くないんじゃないかと思います。人をだましたり、早い話、殺したりしているとこういう映像でも怖いんでしょうが、私はまったく怖くないですね。しかしかなりいいつくりの映画だと思うんです。そして監督のセンスもいいと思うんですけど、なにかホラーオタクではないでしょうかね。

そして映画はだんだん、この場所でもABの周りの人がいなくなっていきます。死んでいくのです。中でレストランの従業員が惨殺されるケースがあるのですが、このレストラン自体がはじめから胡散臭くて、なんというか店の大きさにしては従業員が多すぎるし、店長が遊んでいるし、プロが誰もいないという店なんです。でも厨房にたかなし、ショーケースがあったので神奈川近郊でしょうか。町の遠景も映るんですが町田っぽい(小金井の近くみたい)。どうでもいいことです。飲食店なので気になったことでした。

最後にABの面会になるのですが、今回の「富江」は前のときの記憶があって、仲良しだった女の子を忘れられないのです。だから仲良く縛ってかわいがるのです。サディスティックですよね。ゴキブリを食べさせようとするし。

それは人間の持っている嫌な一面なんです。そしてABもこのような人間の表と裏の関係にあったとかいうおちがつくんです。もう少し予算かけると豪華な物になったでしょう。しかしこれでも十分にいい映画だと思います。最近の日本映画はホラーも大きな特徴ですよね。

「丹下左膳余話百万両の壷」 山中貞夫監督 1935年

欲の張り合いが面白いです。はじめに壷に百万両の在り処が書いてあるというのが胡散臭くないでしょうか?笑い。100万両ということは1両金貨100万枚ですよ。普通じゃ考えられない。あとこの殿様、柳生の守。これも胡散臭いですよね。城がすごい立派です。

この殿様いらないものと持って弟にあげてしまった。ところで取り返しに行くとき「兄上様がお家大事のお宝が」なんて使者のものが言うから弟も返してくれない。壷の名前が「こけ猿の壷」これわざとらしい名前です。はい。弟もこけ猿なんで馬鹿にされたと思ってくずやに売ってしまう。

的や(遊技場)にこのくずやの住んでいる長屋のものが出入りして遊びほうけているのですが、その的やでの弓や遊びの場面で丹下が登場するのですが、そこの女将さんに歌を歌わせようとするまでの音楽の流れはもう映像が踊ってます。素晴らしいですよ。これはよくこの監督が天才だと言われますがそうでもあるのでしょうが、このころまでの日本の遊び場の雰囲気がすごく良かったからではないでしょうか?粋ですよ。弓が曲がっているという、いちゃもんには用心棒の丹下が「やろう」と出てきます。

まあ「壷」については弟も妻にせかされて探しますし、兄貴の方も弟のところにないとわかったら日雇い雇って探してます。

弟の方は前の日に的やの前を通って女将の歌声聞いていたので遊びによってみます。すると女中は歌を聴いていたのを覚えていて、話が弾みます。まあ弟もろくでもないやつですね。

丹下は女将と一緒に長屋の男を捜しに出かけます。こいつは大店の主人と偽ったことを言っているのですが、たまたま件のくずや、に会って道を聞きます。しかしこの男が死んだことを伝えなければならないので行って見ると小さな男の子一人で「こけ猿の壷」で遊んでいるのです。お父さんが死んだとはいえなくて、女将のところで食事をさせていると、丹下の方が子供にまいってここで育ててやることはできないのかと女将に聞きます。それはできないというのですが、件の壷がここにあることがポイント。あの弟も妻に急き立てられ壷を探すと出てはこの的やで休憩ばかりしているのです。そこに小僧として壷の持ち主がお茶を入れたりしております。

冗談だろうけど、望遠鏡で弟の手代がおみくじの方向を探っていると見つけます。そして弟の妻の方を呼び寄せると妻はそこで一緒に魚釣りをしている夫を見つけ職務怠慢を発見してしまいます。そこからはだましあい。弟をくずやが見つかったと案内しますがそこで丹下とこの子供の関係がわかります。しかし妻は遊んでいたとわかり表に出してくれません。

兄貴の方は広告戦で壷をすべて買うという戦略、丹下が売ろうと前金を受け取ってくると子供はめんこがほしいと、金を上げるとそれをめんこにして両替屋の子供から大金を勝ってしまいますし、売ろうとした壷は子供が大事にしていると女将に言われて売るのをやめます。金を返しに行きますがあとをつけられます。

両替屋に子供がお金を返しに行くときこのあとをつけてきた男に大金を盗まれます。問題は親同士というか女将と丹下にもかかってくるわけです。

その問題で女将と丹下が喧嘩していると子供は詫び状を書いて家出します。そんなことをさせてしまったのか、と今度は丹下が博打で勝負します。余裕がないときは負けるでしょう。次の日は道場破り。まずは弟の方が経営している道場に向かいます。すべての門弟は負けます。ここの拳闘のシーンは素晴らしいですよ。役者の基礎が違うという感じがいたします。そして妻に急かされて主人たる弟が。しかし丹下とは的やで知り合いです。影で「負けてくれ、いくらほしい」と「60両」「それはちと高い」「しかしまけられない」というやり取りの末、負けます。丹下も弟の方も面子立ちました。おかしい。百万両の思いやりですね。

しかし男の子は壷を売りに行きます。助けようとしてです。(もう童話ですよね)。しかしぎりぎり間に合います。この辺は活動写真です。そして弟たる道場の主は表立って壷を探しに出かけます。そして丹下に預けておき、見つからないといいながら浮気を続けます。もうこうなると教育の問題ですよ。何でこの時代の日本人が優秀なのか、山中貞夫監督だけでなく、たくさんの優秀な人材が出ております。これは教育以外には考えられないことだと思います。

 

しかし見事な作品です。70年前ですよ。実はこの人のシナリオ集も持っているんです。久しぶりに読んでみましょうかね。もう一度、近いうちに幻の場面ありのバージョンを見てみたいと思います。「人情紙風船」が入っていないのが残念です。

 

「他人の顔」勅使河原宏監督 1966年

この監督の作品久しぶりです。そして実にいい映画だとまた再認識いたしました。でも今この宗家、映画作るとしたらまったく違うタイプの映画になりそうな感じもします。

しかし、若さあふれる映画です。そして京マチ子さんが老けてしまったという悲しい現実にこのころから直面します。しかしはっきり言ってこの映画はオールスターキャスト。さらに美術良し、原作良し、音楽良しと悪いところがありません。本当に素晴らしい日本を代表する映画の一本でしょう。

まあ顔の形の疑問。これって根源的な問題です。皮膚と配列という表層的なものでしょうが、持っている問題は根源的。

美意識とはなにか?を問われます。その前に常識とはなにか?

「覆面の心理」人間は匿名では違う人格が出てくるのか?答えは戦争でもわかります。それに呼応するごとく精神病院が出てきます。なかに戦争の被害者がたくさんいるのです。そして美しい顔に傷のある女の子も。

このほかにも素晴らしいシーンの連続で、いちいち切り取ることはしませんが、仮面の人格とそれまでの人格と怪我をしたあとの人格の3つが並存していたのです。というより怪我をしたから仮面の人格を楽しめるようになったのでしょう。

精神薄弱の女がその本質を見抜いたのは、顔などの外見にかかわらず、人を識別しているからです。

ということは一般の人は何を持って人を識別しているのか?という問いかけが残ります。

とにかく実存の問題、さらには人間の内面の問いかけを提示しております。私はそのスタッフの豪華さに唖然としてみました。いい人材が使われてます。それも才能でしょう。あとは多くは語りたくないとても良い映画です。

「ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャー」マイク・ニューウェル監督 1984年

WOULD  YOU  DANCE WITH A STRANGER.

この映画は実はロードショーのとき観たかったんですが見れなかった思い出があります。

1954年のロンドン。いい景色が出てきますよ。

ナイトクラブの歌手に恋した青年。しかしこの女には子供がいてその子供を学校に入れるのを経済的に援助してくれる男がいます。

青年のほうはルマンレースに遠征に行きますが結果は優勝できず。こちらも婚約者はいるのです。ですから盛り上がるとしても、犠牲になる人はお互いにいるというわけ。

青年は良家のお坊ちゃんで、実際に実家を見に行ったときに女はあきらめました。何せ子持ちの水商売の女ですから。しかしお互いの感情は深く交流しているのです。ですが女は子供を学校にやることにします。平凡な中年を選ぶのです。ここで面白いのは男は二人ともトラッドを着てますが青年のほうが粋な服装です。この辺は日本でも昔流行した形で懐かしい感じもしますよ。

そしてお互いが勝手な部分があるので周りに迷惑をかけてもう一緒にはなれない関係になってしまいます。しかし想いはお互いに持ったままなので話がややこしい。しかし引き合う気持ちは止められないのです。でもってお互いに責任を持ち合う関係にはなれなくて子供も中途半端になってしまいます。それで女に好意を持っている中年の男は心配で二人がけんかをすると仲裁をするのですが気持ちが自分に向かない苛立ちがあるのです。でもこの愛する感情だけはどうしようもないものなので自分のほう向くのを待っているのですがなかなか自分のほうに向かないのです。それをいらいらしながらもじっと耐えているのです。まあ日本だったらこのような男のほうが勝つのでしょう。しかしこの映画ではどうなんでしょう。まあ予想を超えた最後でした。

とにかく感情のもつれ合いの映画だけではなく景色、女の化粧などがすごく印象に残る映画です。

 

「チャオ、マンハッタン」ジョン・パーマー、デビット・ワイズマン両監督 1972年

ずばり来ますよ、心の中に、この映画は。

久しぶりに観ます。「17歳のカルテ」とかを超えて、「GIA」などとともに重いテーマです。

一人のトップモデルの転落の様子が間接的に描かれてます。どういう風に?それは一時消息を絶って精神的にどん底のこのモデルを映画に出演させることで転落前の映像とともに転落後の映像を重ねて観る者に何が起こったのか間接的に想像させるというものです。

実際監督たちもその数年間のモデルの行動は知らないらしい。

その数年の間に豊胸手術もして胸は大きくなって、その胸を隠すこともなく常に顕にしてほとんど隠すということをしません。さらにメイクもあまりしないので美人の素顔に近い顔に接することが出来ます。このあたりになると、いかに精神的なものが外見的なものよりも強いのかということが逆にわかるという、強い逆説的な説得力があります。

さらに美人の素顔という覗き見的な視点、まだ現役人気モデルだったときの周りの環境の異常性などもこの映画にアクセントをつけております。ここでも出てくるのですが、ウォーホルという人物は私は嫌いなのですが、何でこうも周りを不幸にするのだろうか?と思わざるを得ない部分を再認識しますね。

さらにモデルのときとそれほど変わらない素顔。それはいかにモデルという職業が虚構の中にあるものかということを浮かび上がらせます。この素顔はやはり人間なので呼吸をする生きたものです。それゆえ、汚い部分もある、当然の結末なんです。しかしモデルのときの写真ではその汚い部分はきれいに化粧をされて隠されます。

そのギャップは観客に対してのアピールとなります。実際後半の精神的に不安定なときの顔は少し、こちらがお化粧でもしてくれよ、というもの。GIAと違って死因はエイズではないのかもしれませんが、この映画撮影の後、3ヵ月後になくなってます。

失踪した後は、結婚して一般人として暮らしをスタートさせようというときでした。その結婚式の様子は映画の中でも出てくるのですが、平凡かもしれない、その辺にいるちょっといい女という感じでしょうか?

幸せは作られた虚像の世界では得られない、ということ。

苦しい映画です。

 

「血を吸う宇宙」 佐々木浩久監督 2001年

久しぶりにこの監督の映画観ます。めちゃくちゃなんですよね。

今回は生まれてもいない娘がさらわれたと騒ぐ主婦。あきれる警察。そこに霊能者が現れるという展開。この霊能者で前作を思い出しました。でも一貫して前作とこの作品で感じるのは俳優って大変だなあ、ということです。やりたくて仕方なくてこの役やっているのでしょうか?途中馬鹿らしくならないのでしょうかねえ。まあいいか。

しかし、めちゃくちゃな展開とはいえ、何となく説得力があるのは監督の才能でしょう。ゲストに黒沢監督(CUREの方の監督)が出ていたりします。

そして、宇宙人とインディアンとの戦いをベースに妄想に取り付かれた主婦の話を中心に進んでいきます。

その中でこれはまずいだろう、という表現がいくつかあり、もしかしてこの映画は意外と上映される機会が少ないかもしれない、と思いました。実際のパロディだと思うのですが、あまりに度が過ぎると大丈夫か心配になります。

まあ話は置いておいて、奇想天外な映画ですが、観ていて飽きはしません。ただそれだけしか言うことがないのですが、前作「発狂する唇」よりはまとまりはあると思います。

「デモンズ」 ランベルト・バーヴァ監督 1985年

山中監督の「丹下左膳」の次にこれを観るというのもおかしい話ですが、三池監督にしようか迷った末、ホラーが良いかなと思いました。この映画にはまったく関係ないことですがイタリアって日本と3国同盟結んでいたんですよね。この映画もそうですがそんな面影まったくないというか、戦うタイプの人たちではないですね。そういえば、サッカーで戦っているのか。イタリアでナショナリズムが盛り上がったというのはイタリア統一の流れなんでしょうか?ちょっと前に統一したばかりですもんね。フランスがシチリアから攻めてきたんですよね。まあ関係ない話です。そういえば大戦でイタリアはどこに進駐したのでしょう?アフリカはわかるんですがあとはたとえばナチスと相手を挟み撃ちにするとかという戦略があっても良いと思いますがねえ。すみません、最近戦争映画ばかりなもので。

まずは主人公の女学生Aが地下鉄で不気味な仮面の男を見ます。地下鉄を降りてもその顔の残像が頭から消えません。すると近寄ってきて恐怖の絶頂なのですがグランギニョル系の映画か舞台のチラシを配っていたのです。それで安心して友人も誘って見に行こうとします。会場はオブジェがロビーディスプレイされており、映画自体はノストラダムスの予言の碑を見つけたりして若いカップルが興味本位で楽しんでます。しかし映画自体は劇中劇の感じで、アキロンの大王が来るようなことをしてしまいます。デモンズのお面をかぶってしまうのです。その瞬間、映画を見ていた観客にも何人か頬に傷ができます。映画と現実の境がなくなるのです。映画の中ではお面をはずすときに同じ傷ができているのです。そして映画と同じくゾンビというかデモンズ(悪の手先)になって映画館の観客を少しずつ襲います。映画館の中が映画と現実とで混乱します。私はまったく怖くなかったですし、混乱もしませんでした。

とにかくハイテンポで襲ってくる。多分当時は見ていて飽きなかったでしょう。私は最近三池監督のでこんなの慣れてしまっていて何馬鹿な演技しているんだと思うようなひねくれた見方しかしませんでした。

後は劇場内での惨劇、そして観客は劇場から逃げようとして四苦八苦する様子、それにも変わらずデモンズの犠牲者が増えていく様子が描かれてます。しかしたまたま外から侵入した若者たちがいます。彼らがトリックスターになるのかもしれません。

しかしどんどんやられます。でも大事なことは一貫して友人が被害に会うと助けようという姿勢があるということです。置いてけぼりにはしないという勇敢な態度があります。

あとどんなひねりがあるのか、と見ていたのですが、ただそれだけ。2人だけ劇場の外に逃げたのですがそこもまたデモンズにやられてました。まだ普通の人間たちが逃げるのに拾ってもらって逃げるのですが、女のほうはデモンズになり彼氏ではなく乗せた連中が容赦なく殺します。そして彼らは果てしのない旅へ。まるっきり「28日後」みたいな映画です。なにが面白いのか、なにが怖いのかまったくわかりませんでした。

つまんない。

 

「デモンズ2」ランベルト・ハーヴァ監督 1986年

この映画シネフィルなんですよ。意外ですよね。

欧州の悪魔信仰はどんなものなのか、計りかねますが、とにかく「悪魔」を信じて楽しもうとする若者が、逆に泥沼にはまっていくのです。そして映画自体は入れ子構造でこのような暴走する若者たちがテレビで映し出されているのを少女が見ていたり、こちらの世界でいろいろなことが起こったりするのです。そして視聴者はデモンズが生き返る過程を知っているのです。そして若者たちが死んだ後、デモンズは画面の視聴者のほうを観て終わるのです。まさにテレビを通じて多くの人に乗り移ったかのように。それである女性に乗り移るのです。その女性は誕生日のパーティーの主役。まさにテレビのこちらの世界もはしゃいでいるのですが、そこにデモンズ。まあ皆殺しなんですが、体が崩れていく描写を執拗に映すのですけど、まったく怖くないというか、がんばって作ったんだ、観てあげるね、というような感じですかね。本当にがんばったという努力は認めます。このデモンズはその体液が「エイリアン」張りに何でも溶かしてしまい、このパーティーをやっていた人たちのいるビル全体の電気系統を破壊してしまいます。ですから原初的な「暗闇」という恐怖が今度は人間を襲います。実はこれが一番怖い。だから神とか信仰が生まれたのです(自論)。

そしてデモンズは皆殺しした人間に移り住んで増殖を始めるのです。この辺は面白いです。いろいろな工夫がなされて画面ができているな、とすごく感心させられます。

さらに、これもエイリアンそっくりなのですが、小さな男の子が一人残され、逃惑います。ほかの人はビルの外へ出ようと正攻法でドアを壊そうとしているのです。いわゆるインテリジェントビルなので、ドアもロックされてしまうし、防犯のためガラスも割れにくいようにできているのです。

さらにエイリアンと同じで人間に寄生してその中から生まれてくるのですが、まず逃げるのです。これがいけない。生まれてすぐは人間でもわかるようにはっきりした意識がないのでここで叩きのめすはずなのですが。映画だなあ、と思ってみてます。そのあと、この女の彼氏が助けに来ますが、私の思った通りの殺し方をします。男と女はこんなに違うものでしょうかねえ。

とにかくここで出てくるデモンズはみんな弱いのです。人間に怪我生えた程度ですので何かしぐさ自体も笑えるような内容です。最終的にはみんなやっつけて終わるのですが、始まり方も強引ならば、終わり方も強引です。これくらい出なければこんな映画できないのかもしれない。私の評価は最低ランクです。

 

「点子ちゃんとアントン」カロリーヌ・リンク監督 1999年

ケストナーの原作ですね。「二人のロッテ」もそうです。どちらも甲乙つけがたい素晴らしい作品です。映画もいいのですよ。たぶん前にも書いていると思います。

点子はパパが医者で母は海外友好大使、それで豪邸に住んでいて、お手伝いさんと家庭教師までいます。実はこの二人の家族以外の人が陽気で、結果的にこの映画の話を円滑に進めてくれるのです。両親はエリートにありがちな自分中心主義。

アントンは点子の彼氏なんですが、家は貧しく、両親は別居(離婚)状態。さらに母の健康が優れずに代わりにアイスクリーム屋で働いてます。またこのアイスクリーム屋が陽気なところで、こんな商売日本でも受けるのかな?と思うようなところです。そしてこの映画の登場人物はかなりの人間がこのアイスクリーム屋に出入りしております。ですから二人の家族以外の人間たちが意外と陽気な連中なんです。アイスクリーム屋の店員で悪い奴が一人いますけど。

まあ、最終的には、家族愛、隣人愛が一番、そしてお金は回る、うまくまわそう、ということです。なんというか投資とかの世界ではなくて、愛情の世界というのが良いです。

何回も同じものですみません。

 

「ドールズ DOLLS」北野武監督 2002年

実は始めてこの監督の映画を観ます。漫才は観にいきたいのですが、映画は避けておりました。

冒頭の文楽はよく観にいっているので懐かしい感じがします。吉田蓑太郎師ですね。昨年かな、襲名公演には出かけました。しかし映像で観ると文楽は迫力がないですね。太夫の声の音量を調整しているせいかもしれません。この話とダブるように、こじきになってもいつまでも一緒にというカップルが居たのです(男をA,女をB)。Aは逆たまに乗ってほしいという両親の説得で結婚しようとしますがBは捨てられた悲しさで自殺します。その知らせを結婚式場で聞いてBの元に駆けつけて、そのまま駆け落ちします。こういうの見ていると頭にきます。なぜはじめから出来ないのか?Aの勝手な行動で、純愛になるかもしれないけれど、犠牲になった迷惑はどうなるのか、こういう感覚が大嫌いです。何でこんな展開にするのだろうか?

まあ映画的なずるさ、こうして彷徨しているうちにはじめのこじきのような二人になって行ったのです。そしてやくざの親分と出会う。この親分とABは何の関係もないのです。あるとしたら、貧乏で幸せになれなかった二人。Aの場合は貧乏というより親の薦める逆玉に乗れなかったことです。普通親は金持ちなら越したことはないとは思いますが、薦めたりはしないと思うのだけど。この親たちはAの行動で貧乏になって行きます。

親分の逸話は、昔の恋人とのこと、友人の裏切りなどで、結局は愛に帰っていくということ。今のABを間接的に表現しております。

あと、どうでもいいようですが、あるアイドルの追っかけ(男の子)とあの親分の昔の恋人(いまだに公園で男が来ると信じて待っている)おばさんがあるアパートで隣同士なんです。かなえられない想いを持つもの同士が貧乏な暮らしをしているなかで汚いアパートの同じ屋根の下ということです。

アイドルの場合も親分の場合も男と女が待っているということで話が対になっているのです。大きな伏線ですよね。そしてこの男、究極まで突っ走ります。「ベティブルー」のパターン。自分の目を刺して見えなくして、事故で引退したアイドルに会いに行くのです。当然、仲介の人は会わせてくれますし、アイドルのほうも古くからの追っかけですので顔と名前は覚えております。アイドルもその心意気に打たれます。何かを感じたでしょう。

さらに同時におばさんも親分が毎週行くようになるとどうでもいいと言うようになります。実は彼が来ているんですよね。男と女の想いと言うのが真剣なだけに通じたのです。その瞬間でさえもABは一緒に彷徨ってます。まあしかしアイドルの追っかけも、親分も死んでいきます。やはり一緒になれない運命なのです。そして、たまたま死ぬことが念願かなった時に起こっただけです。親分も追っかけもこの後生きていてもいいことないでしょうし、幸せな死に方だと思う。二人とも相手と別れてすぐの死ですから、余韻の中に死んでいったのです。そしてABもまた意識を取り戻したかに見えた瞬間、そう愛がまた通じ合えた瞬間、図らずも心中のような形で死んでいくのです。そしてそれが最後。愛というのは追っても成就しないものなのです。それが運命さ。幸せそうでも実は、、なんて夫婦のほうが多い世の中です。ここに出てきた人たちはその意味では幸せの中に死んでいったのです。「冥土の飛脚」が来たのですよん。

 

「トスカの接吻」 ダニエル・シュミット監督 1984年

懐かしい映画です。昔はこんな映画ばかり観ていました。

ヴェルディの家に集う、往年のオペラ歌手を中心にドキュメンタリータッチで話は進みます。そして老いて歌うソプラノの「椿姫」には本当の「あわれ、不幸の女」の気持ちがわかるかのような雰囲気が出ております。なんといっても若いうちには、この不幸の気持ちはわからないで歌っていたことでしょう。

しかしテノールにしてもとにかく発声は素晴らしいものがあります。さすがに引退しても衰えることのない音感と美声。

そしてシミオナートの「歌手が観客から離れる」という言葉はいいですねえ。印象を残して消えるということです。

ここで役者論をひとつ。役者というのも人間ですので、生まれは普通の人間です。しかし目指すものが演技というのです。しかしここに登場する人たちは、舞台を中心にひとつの世界を作り上げた人たちです。そういう意味では自分の中に確固たる基準を持った人たちでそれを変えることはなかなかできないのですが、その通りに演技をさせると実に役者を超える演技をするのです。それがこの映画ですね。その意味では最高の演技の映画です。

そして歌う歌がすべて「愛」の歌ばかりで人生いつまでも愛を忘れないという世界。

バリトンは「リゴレット」の思い出に、現役ではない昔を懐かしく思う「哀れさ」が漂います。こうしてオペラ、特にヴェルディのこれらのオペラは社会的にあまり恵まれた立場ではない人を扱っているだけに、老齢の元スターの哀愁にうまくはまり込みます。

そして思い出に浸りこむときの、その役へのはまり方はさすがに素晴らしい。一級の役者たちです。

 

「囚われの美女」アラン・ロブ=グリエ監督 1983年

ルネ・マグリットの「囚われの美女」の作品を実にうまく使った、まさにだまし絵のような作品です。観客は常にマグリットの作品のモチーフや「囚われの美女」の構図、絵そのものが出てくるのでその意味に固執しますが実は、それは巧妙な監督の観客の意識をそらせる手段だったのです。なにかそこに意味を求めますが、そこにあるのは、主人公たる男の固執した女というだけなのです。まあ片思いの愛なんでしょう。またはあこがれ。

その対象たる女を固定するために、監督はこの「絵」を手段として使うのです。

その背景の風景たる海で戯れる女の映像もその意味で実は引っ掛け。事実、7,8年も前に死んだはずの女ということで、どういう死に方をしたのか、提示してくれたとの解釈をするのですが、それももしかしたら主人公の頭の中での想像に過ぎないのかもしれません。

そしてこの絵のモチーフとモチーフの対象たる「囚われた女」の周辺を主人公はさまよいますが迷宮の中に入り込んだ形になります。

そして迷宮を出るためには「死」しかない、深い迷宮に入り込みました。まさに死の間際の甘美な夢が映像となってここに結実したのです。

なんというのでしょうか、私はすごく好きな映画です。本当に美女は出てくるのか?まあ少し活発的な美女(ぼかしはたぶんマスターにも入っていると思う)は出てきますよ。もう少し神秘性があっても良かったかも。

最後にシューベルトの弦楽四重奏はまさにこのような迷宮にぴったりの音楽だと思いました。逆に言わせていただきますと、シューベルトの弦楽四重奏を観るという感覚もこの映画の表現として合うのかもしれません。決して難しい映画ではありません。イメージの世界、描写の映画です。記号の意味がわかると簡単です。「街を歩いている半分は死者だ」なんて言葉にも注意かな。ボス=妻=死の使い。ボスからの電話がきっかけで、託された手紙が迷宮への切符です。その迷宮が好きな女の謎の死を探求するという意味と自分の死という両面があるのです。観ている人が少ないだけで話題にあがらないだけかと思います。

 

「東京ゴミ女」広木隆一監督 2000年

監督の字が違います、申し訳ございません。なんといっても最近の女優でいい感じの子がたくさん出ているので思わず観てしまいました。

これは面白い設定なんです。ある女がいて、この女は憧れの人が近所に住んでいてその男の捨てるゴミを拾ってきては中をチェックして保存できるものは保存しているのです。

ところがバイト先のカフェレストランではこの女目当てのお客様がかなりいるのですが、そんなお客様には目もかけない、という態度。いまどきの女の子です。それとかわいい女の子を雇うとお客様が増えるのかもと、勉強になりました。

しかしこの男には彼女がいるのです。それで男に電話をかけて「あなたが連れ込んでいる女は淋病、クラミジア、エイズの三冠王です」と言おうとするのですが、言い出せない。結果ただの無言のいたずら電話になってしまうのです。この辺おかしくって。

しかしこの男は毎週のように女を取り替えているような不安定な男です。そんな男にかげながら話しかけている主人公の女の子はかわいくって仕方ないですよ。そしてこの女の子にもカフェの常連のファンがストーカーまがいに家まで訪ねて来ました。そこで散歩に出かけるのですが、意外とこのシーンが良かったりするのは、主人公の女の子の優しさとかわいらしさがあるからでしょうか。逆に一番いいシーンかもしれません。

最後、思い切ってライブハウスに行くと演奏を終えた彼は一人でギターを弾いてます。そのまま、相手になって、ベットに。このときは思いっきり女の子はうれしいのです。しかしゴミを漁っているということをとっくに知っていたと聞かされて大ショック。

自分の恥ずかしさとそれを知っていて黙っている男への吹っ切れた気持ちが共存して、すべてのゴミを捨てる気になります。当然もう会わない。そのゴミを自分で捨てに行くところ、さらに男の昔の彼女をだまして男に会わせなかったことへの後悔から言い訳をしに会いに行くと一応気持ちが吹っ切れたということを聞かされて、一安心するところ、など最後、自分の気持ちの整理の仕方はうまい。しかし捨てることが出来なかったひとつのものはなんでしょう?タバコの習慣でしょう、マルボロ。

意外にもとてつもなくいい映画でした。

 

「トレインスポッティング」 ダニー・ボイル監督 1996年

人生みんな選択することばかり、ヘロインを選択するのも理由がある。

そんな若者の話で、モノローグで話が進行します。あとは映像ですが、あまり気持ちのいいものではありません。汚いトイレのシーンなんか見ていて気持ち悪くなりました。

というよりこの映画途中で何回止めたか、そのくらい見るのがつらい。映画館で見ていたら途中退場でしょう。むかつく若者の身勝手な話ばかりでイライラのし通しでした。

 

このモノローグ形式、つまらない挿話、まったく下手な構図、馬鹿みたいな映画です。

またやたら、ほかの映画の批判や意見を述べるのですが、そういう映画に対するオマージュと批判は映画の中では見たくもないのです。私は「アメリカの夜」でさえ嫌いです。トリュフォーの名作という評判が高いのですが嫌いですね。ほかの映画を超えたところにオリジナリティを作れるような映画を評価したいです。この監督は「28日後」でも中途半端な作風だったのでまだ若造なんでしょう。少なくても「ファイトクラブ」のフィンチャー監督のほうに才気を感じます。

まあ観ていてもつまらないから長いこと。途中ヘロイン中毒のリハビリ時に幻想を見るのですがこれがまたセンスないんです。

もうどうでもいい感じもしますね。

まあ更正した後はロンドンで働くのですが、営業なんて張ったりきかせればある程度成功するので、それなりに成功した生活を送るようになります。そして高校生のガールフレンドも離れずにお互いに暗黙に付き合っているような状態。

変な友達が押しかけてきて、仕事もオジャン。そんなこんなで別の友人は惨めな死に方をするし、やることないから、ヘロインかっぱらって、それを売りに行きます。

めちゃくちゃな人生もそれを選択したのは自分。ロンドンで着いた場所は笑ってしまいますが、泊ったことのあるホテルでした。中はずいぶんと違うみたいですが、周りの景色ですぐにわかりました。そこでとりあえず取引には成功します、濡れでの泡。

4人は有頂点になりますが、これから先がないことはみんなの性格からわかります。

一人主人公は金を持ち逃げして新たなまっとうな人生を送ろうと決心するのでした。

一度おちた人生は修正が難しいということです。最後がやけにいいですね。すごく救われた気がしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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