「長靴をはいた猫」 矢吹公郎演出 昭和44年

新年は愉快に行きたいと思い、久しぶりにこの映画観ました。いやー、また実に楽しい時間をすごせました。笑っちゃいけないですが「ペロー、貴様はねずみを助けた」といって猫の世界から追われるんですが、いまどきの猫でねずみをご馳走と思う猫はうちの近くにはいないですよ。人間がえさを与えすぎてます。もう人間が近づくときの3つ指をついたお願いポーズ(えさをくださいというポーズ)には参ります。ですからえさをくれそうな家の近くはテリトリー争いがすごいみたいです。この冬でも喧嘩してました。猫の喧嘩はすごい鳴き声ですよ。そういう時は私は仲裁に入ってどちらも消えるようにします。なぜならば、猫の鳴き声は意外と眠れないものです。まあ映画に戻って、猫の世界から追われると刺客がついてまわります。逃げたペローは人間の世界で兄弟に虐げられたピエールに出会います。そこでピエールは猫のペローにも優しくして友達になります。「いつでも一緒さ、いつも離れない友達さ」なんて一緒に歌うんですよ。

またペローは前向きで、街でお姫様がお婿様を募集しているのをかぎつけ、強敵魔王ルシファーを倒して婿になれと薦めるのです。すごい強気の猫ですね。そのとき言う言葉が参ります。「人生楽しく生きなければ」ですもの。たまたまねずみの親子も助けるのですが、このねずみの親子もピエールに恩義を感じ最後まで助けてくれるのです。なんとなく社会から虐げられたものが幸せになるという本質が平等精神というアニメですね。

王女ローザとピエールを結びつけるシーン、ローザがどうしてもルシファーと一緒になりたくないとバルコニーで泣いていて、ふと落とした白いバラを拾って返そうとしたピエールがなんと切り出して話しかけていいものかわからないときに、このペローは代わりにロマンティックなせりふを語るのです。またさらにねずみの親子は王様にカラバ公爵の密使として連絡を取ります。カラバ公爵は実在せずにピエールを公爵に見立てたのです。さらにネズミたちは姫にもピエールのことをカラバ公爵と耳打ちしてくれます。まあ、人間がねずみの話を聞いて理解するとか、猫が人間と話をするとか、考えて疑問に思ったならこの映画はまったく面白くない荒唐無稽の映画でしょうが、なんというかかわいくて仕方ないですよ。本当に打算なく忠義の精神を持っているんですよ。また、本当におかしいシーンがありまして、カラバ公爵の領地を見せるときに、農民に猫がお願いしてカラバ様万歳といってくれとお願いするんですが、当然人間が猫の言うことなんか聞きません。するとねずみが農作物を食べるぞと脅すんですよ、そして人間も言うことを聞かざるをえなくなり王様と姫が通るときにみんな手を振って大歓迎するんです。そして川の中に裸でピエールを泳がしておき、みんなが通りかかると猫がご主人様が災難にあわれて泳いでいるときに身包みすべて盗まれたというと、農民の大歓迎で気を良くした王様は城に連れて行き服装をあつらえてくれます。そして、うまく城に入りこんだピエールはお姫様と散歩します。そこでのBGMは猫が指揮してねずみが歌うというかわいい最高のシーンです。しかしピエールは本当のことを打ち明けます。そこでも猫とねずみは一緒に音楽を奏で美しいシーンが続きます。なんというか人間と動物の調和がとれた美しい正直な素晴らしいシーンです。

しかしルシファーがこの様子を見てしまいます。そして姫をさらってしまいます。あとはみんなで姫を助けに行くだけですが、もう楽しい反面、はらはらどきどきしていろいろなことが起こるのですが、ルシファーの欠点はどくろのペンダントがお日さまにあたると魔力がなくなってしまうことでした。最後まで絶体絶命のシーンの連続ですが、どうにか朝日まで逃げ切ると、最後に塔から落ちていくときにどくろに朝日があたって落ちていく二人(姫とピエール)をからすが鳩に変わって助けるというオチがついてめでたし、めでたし、二人は結ばれるのです。

しかしこのままではなく最後のシーンで、ペローはいつでも一緒と、ピエールと一緒に歌ったくせに、城をあとにするシーンで終わるのです。まあなんというか風来坊なんでしょうね。シェーンみたいにかっこいいきざな猫です。だから題名がこの猫のかっこうを表現したものとなったのでしょう。長靴を履いている猫なんて実はふざけた題名ですよね。でも面白い映画です。というよりかなりの人がその面白さを知っている映画ですね。新年早々すがすがしい気分になりました。

 

「流されて」リナ・ウェルトミューラー監督 1978年 イタリア

「ムーンリットナイト」の監督ですね。この作品が代表作でしょう。どうでもいいですが主役になる女が女優として魅力ないですね。これでは映画自体の魅力がなくなります。

イタリアの北部と南部の所得格差と資本主義と共産主義という安易な二元論をまずは地中海バカンスのヨットの上で再現します。

しかし主人公の男Aと女BとしてAのいう「女を甘やかすから」勝手にされるというのはあってます。本当に気ままに我侭三昧です。この中の悪い二人がヨットからボートで洞窟を見に出かけますかね。なにかBの方にAを意識する動機があるんです。またボートのエンジンが故障してしまう。普通はオール(予備用として)あるでしょう。でも使えないというのです。風が強いし、ゴムボートなので意味ないのでしょう。そんな中2日くらい漂流して岩の島にたどり着きます。ここまでふたりの言い争いというかBの愚痴ばかり聞いてます。映画とするとさすがに下手な作りでないか。そしてこの映画で一番おかしいのは、女のほうがこの環境でこのような仕打ちをされたなら自活するでしょう。それだけのインフラというか自然はありそうなんですが、火の作り方も知らないのかもしれません。学校の自然教室は重要なんですね。こういうときに役に立ちます。

しかし、男女の仲が自然と近づいていくのではなく、強引にBを力でねじ伏せます。対等なら結びついてもいいのでしょうが、身分というか財産が違うのです。まあ、ここでもお金の論理がついてきますね。まだ権力の論理(中世貴族の統治の意味)よりはましですがどうもしっくり来ない展開です。それにふたりだけなら真っ裸になればいいのにズボンはいているのはこの時代の倫理観なんでしょうか。まあかわいいです。なぜかわいいのか、梶上等兵を見ているからでしょう。あのときは野蛮さはもっと強く、ヒューマニズムはもっと深い描かれておりました。

Bは意外とうぶで、Aと良い仲になって行きますが、描写が甘い。抱き合うときはお互いに裸です。しかし映画では服着たまま。さらに共産主義とブルジョワ階級の比較ですがそんなのどうでも良い。すべてが中途半端になるのです。Bは財産とブルジョワ階級というベールをきたうぶな女だったというのですが、ちょっとだめですね。Bがヨットを見かけたとき助けを求めないでAのことを好き、と言ってからは内容的にはよくわかりますが、結論がわかります。Bがブルジョワの階級にいて教育を受けているからこんな愛になっただけで、Aが同級生と来ていたらこんな風にならないのです。頭で考えないですぐに一緒になったでしょう。逆にBが友人とこの状況になったなら同じく意外とあっさりした感じになったんじゃないかと思います。結局万人が同じような欲求を持っていてそれをどう隠しているか抑圧しているかということの違いを言いたいのでしょう。それと気がついた点、監督が女なので女に合うような感じで撮ってます。男優は魅力的なのもその一因かも。最後の電話でこれは発揮されます。現実的かロマン的か?私が作るなら前のほうでしょう。Aも馬鹿なんだ、また島に行くなら戻ってこなければいいのに。焼けぼっくりに火がつくかどうか、の電話です。幸い子供がいるのが男の方なのは話をロマン的にしやすい。しかし「椿姫」同様に身を引きます。お互いの今ある家族を大事にしたいということでしょう。Aがロマンティクになっただけでした。男をロマンティストにしやがって、と思いますがね。この監督はこの映画で最後でしょう。出ている俳優が「ムーンリットナイト」もいいのですが生かしきれてませんもんね。

 

「謎の戦艦陸奥」 小森白監督 1960年

邦画を続けることは避けようと思うんですが続いてしまいました。

昭和18年6月8日瀬戸内海、柱島沖で謎の大爆発をした、ということは事実とのことです。この映画も魂の鎮魂を含んでいるとのこと。そういえば松本監督のほかの作品も見ないといけないですね。「十六歳の戦争」はよかったけど「薔薇の葬列」がいまいちでしたので先に進めません。多分私が幼いのだとは思います。それはこの映画でも痛烈に感じます。というのは、兵隊の言葉がわからない。これ一回見ただけではたぶん理解できないでしょう。まともな軍事用語をしゃべられるとわかりません。ミッドウェイでの戦略の変更を山本長官が言って来たということ。この連合艦隊司令長官も4月11日ガダルカナルの近くで戦死。なんとうちの開店記念日ですね。

このミッドウェイで空母を失っても陸奥は引き返せと指示を受けていたのです。何ででしょう?陸奥が日本海軍の象徴的存在だからです。この陸奥と大和は結局は時代遅れになってしまったのですが。それはアメリカ軍が空母を撃沈させたことでもわかります。

その陸奥を沈没させて戦意喪失を狙うスパイたちがいます。とりあえずこのスパイは東洋系です。乗組員の国に対する憤りを利用して爆破させようとするのですが、それ以前に、国への忠誠のほうが上で失敗します。次なる手は、今アメリカで警戒している、靴に爆弾を仕込む方法です。結局スパイはドイツ人で爆薬庫に爆薬と一緒に積み込まれた爆弾が1つだけ見つからずに爆発してしまい大爆発になってしまいました。こうしてみるともったいないですね。先日の大和といい、意味のない沈没の仕方をしております。うちのお客様で60歳以上くらいの方に何気なく聞いてますが、戦艦陸奥は男女問わず、大体の方知っていました。私は存在自体も知りませんでした。

「人間の條件」小林正樹監督 1959年

第一部 純愛篇

なんというか昔、学生のころめちゃくちゃ感動しました。安くなってしまいましたね。

まず役者からして良いです。

そしてはじめのせりふからして良いです。「好きな人と一緒になれないのなら幸せではない」最高。素晴らしいスタート。才能が違います。最高です。

「もしもあなたに召集令状がきたならば、私あなたの子供を生みたいと思っていたの」こういうせりふを素直に言える時代、映画は良いです。

炭鉱会社に在籍して民間人(A,仲代)として彼女(B,新珠)と生活を始めます。そこで特殊坑人として軍の捕虜を引き受けます。だんだん日本全体が軍と民間の垣根がなくなってくるのです。捕虜は抗戦地域の住民です。まるっきりシンドラーのリストです。陳という若者のせりふが良い。「私のお袋は私を日本に反抗しないように育てました」「抗戦地域だとお前は官官として半殺しにされるな」と。

捕虜たちを面倒見て元気にさせると、日本人の悪口を言うようになります。もともと抗戦地域にいた人たちなので当然です。なにが善意かわからなくなってきます。

また女を檻に入れると能率が上がる「人間とはどんな動物だ」という問いに答えることができません。結局娼婦館に行って頼むと、「いやなら断っても良いんだ」と言っても「仕方ない、仕事なんだから」と軽く受けるのに驚きもあるのです。Aは28歳。労務担当でこの娼婦たちも担当です。一人反対する娼婦がいます。この娼婦役有馬稲子さんなんで(Zとしておきます)

「大きな目的(戦争)達成には小さな過失(殺人)くらい見逃せ」そういう風潮にAは耐えられないのです。これは見ているのは簡単ですし、今の世の中で考えるのも簡単です。当時戦争中にこういうAのような態度を取れるかということです。しかし中国人もAが正義感が強いと知ると「なぜ裁判をしないのか」などと言ってきますし、「やはりお前も同じ日本人ではないか」と言われます。権力のない正義というのも難しいです。答えはわかりません。そんな中国人も大半は娼婦が来ると和みます。

ここで初めて知るのですが、この時点でイタリアが降伏しております。もう戦争末期だったんですね。昔といっても20年位前に1度しか見ていないので、原作も読んでいないし、勘違いしておりました。これから戦争が始まるものと思っておりました。

故郷とは。陳があることを言われます。それは「お前は中国人の精を受けて中国人の女から生まれたんだよ」日本人と一緒にいる陳を皮肉っている言葉です。これ、考えるのですが、やはり自分の属する国というのはあるべきではないかと思います。Aはその上の理想でものを考えているのですが、それは万人に通用するでしょうか?さらに上の階層に宗教がある国も多いのです。宗教は多分何千年もかけての考えた集大成でしょうから、この2000年くらいでは崩れないでしょう。2000年といってもイエスキリストを基準に話しているだけです。揺らぎが1000年単位では起こってますね。プロテスタントの存在が証明の基礎になると思います。

さて映画に。陳は先ほどの言葉で気持ちが揺らいでます。自分は中国人なんだ、と思おうとしているのです。それは中国人の犯罪や脱獄に手を貸すたびに中国人がどんどん仲間だと思ってくれることで、中国人のアイデンティティーを確立しようとしているだけなのです。そして脱獄の手助けをします。

娼婦のケースもそうですが、女の存在というものが男に与える影響、女とは、いろいろな問題提起がなされますね。Bのせりふで「四角張ってばかりいられないときが女にはあるは」という言葉もそうです。Aが硬すぎる。

「暴力に意味があるのは抑圧された人間が支配を覆すときだけだ」この言葉は普通はいえません。素晴らしい。「もっと話し合うのだ」とまで言います。逆は期待しないで言うのでしょうね。犬死しなければ良いのですが。

そして陳がもう一度裏切るかどうか、陳を中国人と話し合いで解決しようとした人の気持ちを無駄にするのか、というところで第一部は終わります。

「人間の條件」小林正樹監督 1959年

第二部 激怒篇

ここでも冒頭のBの休暇での楽しそうな姿、素晴らしい表現力です。こんなに楽しそうな気持ちを体いっぱいに表現している演技はそうはないと思います。

逃亡してしまいました。陳は裏切ったのでしょうか。Aは戻るときにBに「たったこれだけのことで、なぜそんなに怒るのか」と言ってしまいます。やばい、と思いましたがBの反応も同じです。

そして今回の脱獄でAの友人も離れます。「根本的な矛盾の上に立って(戦争なのに)」正論はないだろう、ということですね。この友人の言うには「生まれつき粗暴なんだ」といういい訳を頭にきてやけになったときに言うのです。ここに主題があります。人間性(ヒューマニズム)は後天的に学習するものなのか?ア・プリオリに人間に備わっているものなのか?そして後天的としても生まれつき動物的なくらいに粗暴なものなのか?という大きな主題が隠されているのです

戦争ということでは、迫害されるほうにはそれをエネルギーとして燃える恋愛もあります。娼婦Zと中の囚人との一目ぼれの恋。このふたりがどういう形で関係してくるのか見ものです。侵攻している側には意外と燃える愛はないのです。攻める苦しみがどこかにあるのでしょう。苦しいから燃える力が出るのです。

ここではっきりするのですがこの会社は南満州鉄鋼会社でした。表彰式の夜の宴会は日本の宴会で楽しそうですよ。今の宴会とちょっと違う。ここでは「ソーラン節」でした。

そしてAは陳に食糧の配給券をあげるのです。部下はこうしなければついてこないですよ。この裏で陳も参加している脱走計画が進行しております。しかしこの脱走計画も実は会社側の罠なんです。陳は引っかかったことに気づきますが、そこで女に打ち明けると、(この女が実は曲者なんです)、Zに彼が逃げるよと嘘を教えます。そうするとZは夢中で真っ暗な中彼を探しに出かけます。結局偵察に行かせたのです。誰もいないと戻ってきて言いますと。日本人を殺して電流をとめなければならない、などと吹聴します。実はこの時点で陳は本当の状況を誰にも言っていなかったのです。電流はとめていないけど、中国人の逃亡は予定通り周りも疑わないような状況を作ってはあるのです。そして日本人も逃亡したなら殺す準備はしていたのですが、電流で死んでしまいそれを見ていた陳は自殺します。この件についてAの論理すごい。「自分が日本人であるということは俺の罪ではない、しかも俺の一番罪が深いのは俺が日本人だということなんだ」どうしようもないことなんですよ。このあとも日本人がけしかけるシーンは出てくるのですが、そこで抵抗をすると逃亡とみなす、ということになっていきます。まあ狙っていたのでしょうが憲兵が来ている時に逃亡に見せかけます。すると憲兵は、軍の指揮命令系統にしたがって「軍が逃亡と認めたならA貴様がなんと言おうと逃亡なんだ、処刑、その方法は一任」という指示が出ます。この辺の日本軍の態度は多分事実でしょう。それがこの時代の映画であることの貴重性を物語っております。なんと言っても戦争からこの映画までの期間はバブルの始まりから今くらいの期間的同一性があるのです。バブルの初めのころなんて覚えてますもんね。

そして処刑の立会人をAは任命されます。まあ嫌がらせですね。この処刑者にZの彼氏が含まれているんですよ。

そして中国人の獄中の指導者にAは「小さな過失や誤謬は許されても、決定的な時の過失はあなた自身の立場、考え方に矛盾してあなたを暴力の仲間とするでしょう」というようなことを言われます。「ヒューマニズムで生きるか殺人者に加担するか今まさに判断のときです、ほかの日本人も反対だという人がいるでしょう、その人たちを集めて運動して自分の信念を守ってください」といわれます。Aもそのとおりだと思ってます。しかし言っている中国人も今まで何回となく裏切ってきたんですからね。Aは自分を責めすぎています。

そして処刑の場でもZの彼氏が殺されたあと我慢できなくなってAは「やめてくれ」と言ってしまいます。Bはそんなこと言わないで、とお願いしていたのですが。

そして今にも憲兵に切られそうになると中国人の指導者を中心に反暴力もシュプレヒコールが上がります。そして処刑は中止になります。中国人とAの気持ちが通じた瞬間でした。

しかし憲兵にAは連れて行かれて、中国人(八路軍)と通じていたと自白するように拷問されます。まあ軍だから、民間人があんな風にしゃしゃり出て八路人たちの暴動を引き起こしたので軍のプライドからもそうせざるをえないでしょう。

あの時、中国の指導者(王といいます)も扇動したのですが彼もひどい目にあっていると聞かされてます。まあAは日本人なのでしばらくしたら釈放されます。工場に戻ってみると「召集令状」が届いてます。軍が仕組んだ嫌がらせですよ。とうとう、戦地に行くことになっちゃいましたね。王は実は仲間30人と逃亡したのでした。それを聞いたAは気持ちよく笑います。Aがいたときは逃亡しなかったし、Aが処刑場で殺すなといったときは扇動して憲兵に歩み寄った男です。その彼がAがひどい目にあっている、Aがいないという状況なら逃げる、暴力から逃げるということです。すぐにその気持ちAに対する気持ちがわかったのです。

そして今度はB.久しぶりに会うシーン、すごく動きがあり、その動きが愛情の深さを素直に表現していて見ていてすがすがしいです。そして戦地へ向かうのです。

 

「人間の條件」小林正樹監督 1959年

第三部 望郷篇

ここでもAは同じ日本人からにらまれます。できるやつ、なんですね。そして美人の妻、優秀な頭、能力そしてそれをいたぶることができる軍隊という序列社会、当然、優秀でないか少しねたんでいるやつは権力を使っていじめます。

「もう一度どこか誰も知っている人のいないところで一からやり直したい」と友人になった古参の兵隊はAに言います。誰もが一度は思うことでしょう。宴会はおかま役がいるんですね。男ばかりですもんね。ここで第一部と第二部の抗人は工人の間違えでした。

言葉に慣れていないので簡単に間違えます。「けいほう」というのがあるんですが漢字が浮かびません。陸軍の法律みたいです。しかし上下関係ははすごく非能率ですね。実は上等兵と軍曹の違い、1年兵との違いなどまったくわかりません。これは経験してみないことにはわからないでしょう。そしてあんな非能率な戦況の拡大、負けるのに決まってますね。誰も気づかなかったわけではないと思います。この映画と同じように、口に出すことさえできなかったのでしょう。

このような中、Bがの兵舎に訪ねてきます。そして信じられないことに次の日の朝5時まで一緒にいることを許されます。ここでの会話で思い出しましたが、純愛篇の冒頭ですがふたりは熱烈な純愛で結ばれたのです。愛はつよしですね。引き合うものが本当にあるみたいです。素晴らしい夜なのですがBは直感でAが戦地に行くような気がします。あたりますね、こういう勘は。

いじめも見ていくし、それを助けると自分がおかしくなる、という世界です。「ちょいと兄さん、寄って行って」と無理やり言わせておかまにさせて、そのあと体罰。精神と肉体両面からやられるのです。このいじめられた兵隊は普段はうまく立ち回れないのですが、うまくいい訳して逃げて自殺します。そのとき銃の使い方うまかった。この家族は母親と嫁が不仲でいちいちその不満を嫁が手紙で書いてくるのです。それを検閲されておりました。

「銃後が健全でないからだ、健全な家庭からしか健全な兵隊は出ない」すごい論理です。今ではまったく通らない論理でしょう。上司とすごい議論を展開します。「自殺に追い込んだ上等兵の暴力の糾弾」と「軍の秩序」の戦い。どちらも説得力があります。しかしAは個別に自殺した人間を追い込んだ男を糾弾しようとしますが、その暴力に訴えようとする時の目でいじめたやつは恐怖を感じます。真剣に生きているということは相手にもわかるんですね。冗談でいじめたやつを震え上がらせます。そうした中、友人となった男が脱走をしないまでも地元民の罪の捏造を見逃したとして逆に罪をきせられます。この辺のことはいくらかいてもわからないでしょう。

実際ぼやに乗じて逃げます、それをふたりが追うのですがAはもう一人の邪魔をしてこの男を逃がします。もう一人の男は都合が良いのですが、あの自殺に追い込んだいじめをした男です。そして泥の中で助けてやるから自分が殺したと告白しろというのですが、そこまで人間の告白に意味があるのかわからないです。実際この男告白以前に体力がなく死んでしまいます。このときのこのいじめた男の死は誰の責任でしょう?いじめたことと、そのいじめを認めさせるために救助を遅らせたことと違いはないのでしょうか?Aも昏睡状態に陥りますが目を覚ましたときに目の前にいる看護婦の美人なこと、なんと言う女優でしょうね。すごく印象深いかわいい子です。

「人間の隣には人間がいる」丹下一等兵が原隊復帰の時の会話の一部です。丹下一等兵とはかなり腰の据わったAのような男です。

そしてこのかわいいと思った子はAもお気に召していて女もAのことが気になります。それを怖い婦長が察しして今度も糾弾されます。そして前線行き。看護婦も違う前線に。別れ際に「会いたい人には会えるんだと、目くら滅法に信じる」と言って別れていきます。そして次へ。看護婦の女優の名前は岩崎加根子(俳優座の人みたいです)。

 

「人間の條件」小林正樹監督 1961年

第五部     死の脱出

第四部の最後「どんなことをしても生き抜いてうある、俺は鬼だ」というのは何人殺しても俺は生きる道を選ぶということでした。敵の中、味方は数人。ひとりの見張りを殺せば、突き抜けることも可能な状態。結局誰も行きませんし、Aが鬼になるといったくらいですので殺しに行きます。3人はどうにか逃げたもののつかまるのは時間の問題。

ところでこの5部から音がかなり良くなりました。戦後のこの2年間は大きかったのでしょう。あと追記ですが、この映画は俳優がかなり良いです。クレジット見ているだけで凄いと思ってしまう。

逃げる途中に民間人と出会います。その連中も一緒に連れ立つのですが、食料を持っていないので、すぐに食料がなくなります。そこで軍を罵倒するもの、一緒に生きようとする老齢のご夫婦など人間のいろいろな様子が描かれます。ここでもAは試練を与えられるわけです。

そして森の中をさまよい、荒野をさまよい、最後に賭けに出た日の前日に最後の食料をすべて食べて出かけます。ほとんどの人はついてこれない。そしてAも信念が揺らぎ始めます。しかしやっと人の気配が感じられて、ついたところは?

また嫌になるくらい試練が待っております。「なぜ最後の突撃をしなかった」と言われます。「みんな玉砕したはずなのに、なぜ生きている」。

それで切れたA.。相手の考えが良くわかっているのです。それは食料欲しさ、そして逃げ道の模索でした。そのまま合流せずにまた分かれます。しかしあの3部で病院で一緒だった気骨のある人間に再会します。彼(E)はAの方について来ます。ここのシーンなんか、見ていて、「まだ生きていたんだ、良かった」とこっちが思ってしまうほど、うれしいシーンですよ。

しかし中国人に道を聞いたら革命軍に包囲されてしまいます。なんでみんな銃を持っているのか?という疑問がAに生まれるのですが、戦うしかない。そのときに戦法として中央突破を考えます。いつもこの映画ではそうでした。中央突破はリスクが大きい反面、相手も突破されたら体制が崩れる利点があります。逃げようとしたなら包囲されてしまいます。

「くだらない自由を高い金出して買っているのかもしれない」というEの言葉は信憑性があります。冷静に考えて、ロシアと中国が攻めてきているのでいつかは捕まるのです。逃げおおせる場所ではないのですし戦争が終わっているという確証らしき記号はあちらこちらにおちています。

そして衣食住という甘いえさを目の前にちらつかせて、罠にはまります。Aは逃げようというのですがねえ。

そして女は手りゅう弾をおなかに突っ込まれて死んでます。やるもやられるも紙一重。そしてどちらも本当は戦いたくないのです。最高の舞台を作ってます。それは戦争ではない、しかし殺しあわなければならないという状況です。

そして火であぶり出しされます。「ここで投降か」しかしあぶり出しの場合は殺すということです。参ったね。2人一組。

しかし中国では共産党の戦いが始まっていて、日本人、満州人関係なくやられていきます。とにかく「負けた国の女ほど惨めなものはない」という言葉に表現されております。「十六歳の戦争」にも出てくるテーマです。Aたちの理想の国家を作るはずの連中の暴力ということでかなりの衝撃を受けますが、道中は続き途中に日本人の女たちを拾ってまた一緒に行動します。ここで負った精神的傷もすごく大きいものです。実はこの映画民間から軍隊に入り戦争終結そして愛情の元への帰国への道中を精神修行になぞらえて作られているのです。修行というよりもうできた優秀な純粋な人格の変容と破壊の過程とも言えるものなのです。

敗残兵の部落があるのですが彼らは情報がないのです。負けたことも知らない。そして話題は満州がどうなるか。ソビエトは取らないで中国に帰すだろうとかいろいろな議論がなされます。実際にどうなるのかわからない人のほうが多かったでしょう。しかし同じ日本人同士で女と弟しかいない兄弟でお姉さんがロシア人に犯されるのを見ていて自閉症になった女を送っていくといって犯します。兵隊がです。女は希望がなくなるでしょう。

その兵隊が犯してすぐにAたちに合流したので問い詰めてみてわかった事実です。ここでこの章は、ばさっと終わります。希望はないんですよ。正義をどこまで保てるかです。きつい映画になってきました。しかし良い映画です。見ていてまったく飽きません。

 

「人間の條件」小林正樹監督 1961年

第六部     荒野の彷徨

題名自体が入力できません。すみません変換の仕方わかりません。

満州の問題で日本軍の兵隊との議論でソビエトは満州を中国に返すと思っているらしい。

蒋介石はほしがっているけど、八路が取るでしょう、という意見です。何も言わなくてもこの辺の事情お分かりですよね。わからない方はちょっと調べてください。私はこの辺までは日本人の常識だと思ってます。蒋介石にソビエトが返さないというのはアメリカの関係ですね。それが台湾と中国にもなってます。

さまよっている間に小山に篭城している連中に出会います。そこでは軍の規律がそのまま生きていて、一緒に逃げたいというものも脱走の罪で処罰されます。本当に無意味な殺し合いです。そしてよく考えてみればわかるのですが、ソビエトが下手に通すわけないですし、要所はすべて押さえられているでしょう。そのなかで可能性にかけているのです。主人公の場合は愛情にかけているのです。

ソ連兵とぶつかっても戦います。そしてソ連の兵器は捨てる。これは兵器略奪の罪の言い逃れができるからです。そしてポイントとなる一般人との接触の場面。開拓村へ乗り込みます。この人たちはもともと中国の人でしょうし、どう待遇されるか、まったく予測がつかないし、村によっても人によっても違いがあるのでしょう。この村は女ばかりでした。その長を笠智衆が演じてます。女たちははじめは怖かったけど日本兵より物をくれるだけまし、と売春をしてます。日本兵はただ乗り、食い物ねだるだけと厳しい評価。しかしこの人たちに頼まれたとはいえ、近くの畑に行って食べ物を盗んできます。そのときに見張り番も殺します。一体何人殺したでしょう。

高峰秀子にすごいこと言われます。「女はね一緒に逃げてくれる兵隊さんを待っているんです」「亭主もちは舌を噛み切ってしななければならないのですか」この言葉は梶の気持ちを揺さぶります。妻も同じだろうか?

一晩明けると女と残って避難民になろうというやつらが出てきます。これが普通ですよ。女と男が一緒。一番です。しかし梶は向かうべき女がいるのです。そこで各自の生きるべき道と思うように生きろ、となるのですが、そこにソビエト兵が来ます。ここで高峰秀子が飛び出します。なぜなら、後が怖いからです。ソビエト兵にばれてしまったので、仕方なく降伏いたします。このとき見ていてつらい。もうやるせない気持ちです。誰がわるいとは言いません、しかしこの胸のつかえは何なんだ、ということです。

ゴミ箱あらしを人に見つからないようにつけて配給食に混ぜて死なないようにぎりぎりの栄養を確保するのですが、その役をしている兵隊は「水洗いが冷たくて大変ですが、これで明日もみんな大丈夫だと思うと張り合いが出ます」というのです。生に意義を見出せる人、間は人間はまだ大丈夫ですね。しかしまた、日本人をいためるのは日本人でした。あの日本人を犯したやつは早く捕虜になった分、優位な立場になりました。そして主人公たちに復讐をするのです。将校たちも将校待遇をいいことに梶を押さえようとするのです。何故日本人同士でいじめあうのか?ソビエト兵もいじめに対して「やめないか」といい見ているやつを「お前らよく見ていられるな、とめないのか」とまで言います。

しかしまたまた日本人の通訳が言ってもいないソビエト兵の悪口を通訳します。もう心が苦しくなってきますよ。何で日本人はこうもお互いにいじめあうのか?外人にはへつらうのに。

重労働に出されますが、やっと光が。丹下(そういつか病院で一緒だった、そして途中まで一緒でこの章のはじめお山の大将のところで脱走兵を殺したやつを撃ってしまってあとでひとりソビエト兵に投降したやつです)に出会うのです。仲間がいるということはうれしいことですね。「階級的に捕虜のやつらは敵ではないはずだ、しかし感じるんだ、欠けているものを。それは唯我独尊」このせりふ、もしかしたら今の映画では通用しないようなせりふかもしれません。この映画全般に意外と難しい概念が普通の会話で出てくるのです。

撮影の宮島さん編集の浦岡さんはじめ素晴らしいスタッフの結集の賜物です。

 

「人間魚雷 回天(にんげんぎょらい かいてん)」松林宋恵監督 1955年

なんというか、事実なんですね。特攻隊とともにすごい攻撃の仕方です。たまらなくいい映画ですよ。特攻隊については少しは知っていてほしいし、回天についても知っていてほしいと思います。これはこの映画には出てくることですが、特攻隊は人間魚雷の場合は軍隊年数の少ない、学徒たちが割り当てられたみたいです。それは短期間に訓練は難しいから。本当かどうかはわかりませんが、海軍経験10年もの古兵はこの映画では特攻隊に行きません。この映画はどのシーンを切っても絵になる、すばらしい映画です。こういう映画は少ないのですが、どこを切っても大丈夫です。その瞬間すべてが何かを語っている映画ですよ。

「突撃する」このことはハッチを閉めた時点でこの世とのお別れを意味します。この講義を聞く兵隊の真剣な目つき、そして機会があったら彼らの日記とか読んでみるといいと思います。あとノート、きれいな字で書かれております。

この回天、速度計がついていないんですよ。自分がどのくらいのスピードを出しているのかわからない。設計者の考えはおおかた見当がついてますけどね。

あと練習中の兵隊の言葉に「俺たちは人間じゃない、生きていると思うな、生きていると思うから苦しくなるんだ」という言葉がありますが、そうでしょう。これは経験してみなければわからないことです。そして明日が出撃という日が来ます。場所は大津島というところ。失敗しそうだからあいつははずすか、とか、坊主の出身の兵隊が数珠を自分の乗る潜水艦(人間魚雷)につけて「地獄行きは覚悟しなければ」というくだりがあったり人それぞれ、身分相応に立場が違えば考えも違うんです。しかし、国のためというのは変わらないです。出撃の前の日の宴会は、なんというか華やかなもので、あきらめの後の人間にしかできない開き直りが楽しいものになるのでしょう。ということは、今の時代は、開き直りや、ぎりぎりに追い詰められた状態ではないということですね。

俳優の名前はわかりませんが朝倉少尉と役者名で殿山さんと加藤嘉さんの3人のシーンは涙がこみ上げますね。こういうことは実際にあったんでしょうね。もったいない人材を失ったものです。このようなシーンもこの監督はその効果を狙って作ったというより、実際にあった事を、なくなった戦友たちにささげるために作ったから、その失った友を思う、偲ぶ気持ちが弔いとなっていい映画となって結実したのでしょう。

カントの「そうだ、これでいい、なにもかもいい。もはや言うことはない」と死んでいったときの心境にまで昇華できたのでしょう。

唯一、笑えたのは「特攻隊の方々の前に出ると、軍神ですから」とおびえている給仕兵隊に対して「軍神か、早いこと化けの皮がはがれる前に、神になるか」という冗談を言うときです。極限まで行くとこういう冗談が言えるんです。冗談というのは中途半端な状態ではいえないことなんです。真の冗談というのは、貧乏など極限のときに出るもんです。

しかし仲間の潜水艦が空母など大物に出くわす前に撃沈してしまっており、人間魚雷は発射されずに死んでいきます。それを聞いて乗組員はあせります。駆逐艦が来て潜水艦を撃沈しようとしたとき、艦長は深く潜水しません。なぜなら、回天が壊れる危険があるからです。しかしこの潜水艦も人間魚雷未発射のまま撃沈してしまっては意味がない、そう思った回天乗組員は、たとえ駆逐艦相手でも私が行くといいます。艦長も仕方なく承知。

そのあと、艦隊に遭遇して2隻の空母を含む軍艦を映画の中では爆沈させました。

解説でもありますが、この回天は成功率が高く、戦後すぐに回天を搭乗した潜水艦を連合軍は調べたらしい。死がわかって、生の期限を切られても、相手艦隊にぶつかっていく精神力を持ち続けることは並大抵のことではありません。彼らの魂の鎮魂をするとともに、このような戦争を繰り返さないように努力することは必要なことだと思います。

NYの9.11のテロとは質が違います。中東の自爆テロとも次元がまったく違います。なぜか?わからない人はいないでしょう。

「ねらわれた学園」大林宣彦監督 1981年

この辺の角川映画は私にとっては誤差で、ほとんど違いがわかりません。ということではじめて見ます。

いきなりユーミンの「守ってあげたい」です。良い感じですね。なにか暖かい雰囲気で始まります。新学期(高校2年)のオリエンテーションから、なんというか「アンナ」みたいなミュージカルの乗りで展開します。受験ということにかなり熱が入る頃ですね。運動部と受験の狭間で揺れる青春があります。薬師丸が超能力に目覚めた女の子の役(Aとする)で酒屋のせがれ(Bとする)に家庭教師をしてあげるんですが、冗談みたいな展開です。普通、いまでは男と女が同じ部屋で勉強していると危ないんですが、この頃はまだ、純情なんですかね。そうしたら超能力を持つ女の子が派遣をかねて転校してきます。なにかガリ勉と組んでいるみたいですね。このガリ勉は昔いたなあ、というタイプで思わずあの子は今どうしているのだろうか?と思ってしまいました。この転向してきた女の子(Cとする)がどんどん、高校の規律を作っていきます。正しいことを言っているので反対の余地がないので採決されるし、超能力も使ってますね。学園統治に参加してくるんですね。こんな映画あったんだあ、まるで「ザ・ウォール」みたいです。同じ頃でスモンね。

そしてAが戦う決心をします。薬師丸ひろ子というキャラクターは「戦う」というだけでとんでもない事態なんだ、と思わせるだけの素直さがありますねえ。とうとう立ち上がったか、なんて応援してました。いい年してこのような映画に興奮しているんですから、私はもう子供です。「永遠の未完成、これ完成なり」けだし名言です。

このあとの決戦、峰岸さんと薬師丸さんの戦い、見ていて恥ずかしくなるような戦いですが演技している方も大変でしょう。しかし大林監督も直球勝負です。その直球の分だけこちらにもずっしりと届きます。最後にも「守ってあげたい」この歌を聞くとこの映画を思い出す人もいるのでしょうねえ。まったくこの映画は存在自体を知りませんでした。

 

「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」トーマス・ヤーン監督 1997年

 

キャバレー(実は売春宿)のオーディションからスタート。ハレの場と日常の閉店後の片付けの対比がおかしい。そしてジョークをいう。医者が変わった睾丸だ、木と金属でできている、というと患者は困る。医者がついでに子供は?と聞くと二人いると。ピノキオとターミネ―ターだと。こんなつまらないジョークに笑えというのも酷だ。

さて本題に、ギャングとある患者の話が平行で描写されます。ギャングは部下に車と鍵をあるところへ運んでほしいと命令。(実はトランクに金が隠してある)この部下は1人が白人、もう一人はアラブ人。へんてこなコンビです。途中、子供をはねて病院に寄る。

次の本当の主役は二人の患者。たまたま病院に向かう途中から病院の病室まで同室になるかなり正反対の男2人。Aは脳腫瘍であと数日の命。Bは骨肉腫でやはり先は長くない。お互いの病気の話で急に親しくなり、この際遊ぼうと、酒を飲みに行く。酔いながら「臓腑で自由を海の中で感じたい」「壮大な美しさ」「海の大きさを感じること」など詩人のように海のことを語り、色々と海の話ばかりするとBは海に行ったことがないという。では行こうか。となる。このノリが良いです。そしてギャングの車を盗む。そのあと、ガソリンスタンドで強盗するんですが、「狼たちの午後」みたいに強盗にいたっても二人で喧嘩してやめようとか言い合う。すると警官が来て疑うが、ありのまま本当のことを言うと、面白いギャグだと疑いも晴れる。本当のことを言うと顔が嘘でないという顔になるんですね。わかる気がします。そのあと、洋服を買いに高級ブテッィクに行くが金が足りなくて銀行強盗を。ここも段取りが悪いけど、成功。手伝った行員にギャラをあげる。全編通じて、この2人はお金の社会配分を金持ちから貧しい人にしていくんですね。憎めないやつらです。この銀行にあとからギャングたちも強盗に入るんですが、遅いし、彼らが去ったあと警察呼んでいるので警察とすごい銃撃戦です。そして逃げるギャング、追う警察。2人はのんびり歩いているんです。本当に間の悪いギャングですね。

また盗んだ車でドライブ再開。この辺から二人は精神的に開放感が味わえるようになります。「本当に、雲に乗って海の話をするのかなあ」というせりふいいですねえ。しかしAは発作の回数が増えます。たまたまトランクをあけると大金がはいっているので驚くが死を前にしているので怖くない。使っちゃうんですよ。派手に遊んで。ボーイの少年にはチップに札束。(多分少年はこれで仕事やめたので、店開くと思います。夢のある店をね)しかし警察はAの自宅やホテルまで追ってきた。Aというのは銀行強盗を一人でやったからです。ホテルでは絶体絶命ですが、Bを人質にして警官の洋服を奪い、逃げます。警官の格好をしているときにギャングたちに会うのですが、ギャングたちは自分たちが盗まれた車を指してこれは私たちの車です、とかれらに言うのです。すると鍵を渡して気をつけろよ、と去っていくのですが、この辺の展開は最高です。制服を奪った警官たちを男と女ほぼ裸にして重ねるようにしておくのですが決して交わらないように締め付けて縛るのですよ。しかし同僚の裸見て欲情する距離で。大笑い。このいうギャグは面白い。さて警官の格好でパトカーで逃走すると車が故障。仕方ないので、一般人の車とめて、尋問し、秘密任務を依頼する。そして自分たちはこの人の車で逃げていくのですが、展開のスピードさえまくってますね。死ぬ前なら何でもできるし、楽しいですよ彼ら。街でばれそうなので、また洋服を買いますが、そこでまた発作しますがもう薬はないんです。薬局に行くけど処方箋はないし、仕方なくBは薬局強盗します。またまた警官が集まってくるんですね。ここでもABを人質ということでトルコカフェに隠れます。(「明日に向かって撃て」みたいに警官に囲まれます)しかしトルコ人に飲食のお金をたくさん払うと、人質のまま一台の車に乗って逃げます。警官は人命尊重ということで踏み出せません。ヘルシンキ・シンドローム(人質が長く監禁されているうちに犯人に同情的になる)の状態と警察は判断しているんです。当然、ギャングもテレビで彼らを見ているので、増員して追います。警官とギャングに追われるのですが、たまたま警官とギャングに挟み撃ちにあいます。当然ギャングと警官が仲良いわけないのでお互いに打ち合いになり、その間に真ん中をとうもろこし畑のほうに逃げていきます。この撃ち合いギャングのほうが勝つんです。笑い。

どうにか逃げ切り、中古車でピンクキャディラックを買います。プレスリーが大好きな母親へのプレゼントです。しかし当然実家は警察が張り込んでおり、親に会ったのもつかの間、また警官に囲まれます。そんななか、Aは発作で倒れます。Bは捕まえようとする警官を抑え、早く、救急車を、と病状の説明をします。当然、救急車で運ばれますが、Bが付き添っているときに、多分、何か未練があったのでしょう、Aが意識を取り戻します。そうなると猪突猛進する二人は救急車を奪いそのままオランダへ。途中、冒頭のキャバレーによってしまいます。そこで女を抱いているときに当然、つかまります。相手の懐に入ってしまったのです。つかまってもそのときまでに二人は新聞などで寄付を募集している人たちにお金を配ってしまったのです。もうないというと、ボスが出てきて、逃がします。ボスは彼らの行動の爽快さ、正しさ、かつ殺そうとしても怖がらないこと知っているんですね。さらに彼らが見たがっている海と夕日の美しさ、それらがさいごに溶け合う美しさが心の中に永遠に残るということを知っているんです。どうせ戻らない金なんですから、夢見させてあげるんですよ。さて、海に着くと、お互い顔を見合わせます。そう、ここが彼らの死に場所ですね。海への一本道を歩いて見た海。初めての海。その砂浜で酒を飲みタバコを吸って二人座って海を見続ける間に死んでいくのです。さいごの場面でボブ・ディランの「天国への階段」のカバーがかかるんです。実にいい映画です。大のお勧め。

 

「ノボ」 ジャン=ピエール・リモザン監督 2002年 フランス

役者と監督が楽しんでいる映画があると思います。これがそういうタイプの映画ではないでしょうか。うまくいえないんですが、見ていて心洗われるとか考えさせられるとかないのです。日本も最近この手の映画が増えているのですが、役者は楽ですしイメージが崩れないしこういう映画は好きでしょう。監督も作りやすいと思います。しかし観客が楽しくないといけないのです。見ていて、君たち楽しんでいちゃいけないよ、と思います。「ガタカ」もそうなんですが、モデルとかスタイリッシュという言葉を変に勘違いするとこういう映画に仕上がります。「ガダカ」も魅力的なはずなんですがなぜかまた見たいという気にさせられない映画です。この映画はその前の段階、この映画にお金出した人がいたのか、という疑問ですね。しかしつまらないかというとそうでもないんです。多分私が年を取って愚痴っぽくなったんでしょう。さらに最近邦画のいい作品を見ているので、かつ洋画も美人ばかり見ているので、この映画の俳優たちが目立たないということもあります。世間ではこの女優はシャネルのミューズという言い方しますが、??モデルというだけです。男優もそれほど良い男という感じではないです。

記憶がないから新鮮であり続けることはできるけど、記憶がないから感動の積み重ねもできないんですよね。記憶の共有ができないということは意外と深い関係になれないということのような気がします。そんなこと考えてみる映画でもない感じがしますけど。事実女のほうは感情が記憶として積み重ねられないのでいらいらします。それまでは記憶喪失の男と欲望だけで関係が成り立っていたのですが欲望もまた、記憶がその高揚に大きく関係するのです。映画自体はこの欲望について中心的に描かれますが、男が記憶が戻ったとき妻とこの女と3人の関係が本当にスタートするのでしょうか?体は記憶がなくてもこの女のことを覚えているのでしょうか。この記憶喪失、無意識の状態での欲望の深さと男と女の結びつきについて、それはありえるという回答が用意されております。まあ愛と夫婦は作り上げるもの。欲望は人間本来のリビドーと私は思うのですが、そうなると妻のほうが不倫を認めなければ成り立たないのです。ですからそこまではこの映画は描いておりません。その一歩前でとまります。そう欲望の関係が頭でなく肌で直感的に覚えているかという問題提起なのでしょう。面白いと思う人もいるかもしれませんがちょっと軽く作りすぎているな、という感想です。

「ナチュラルウーマン」佐々木浩久監督 1994年

この映画実は気に入っているんです。原作も読まなくてはいけないんでしょうが、とにかく映画が先でした。

ABという二人の女の子が同居しているんですが、主人公のAはあるとき夢でほかの女の子のことを想像して燃えてしまいます。この夢の女の子をCとします。

ABは漫画家志望。Aは夕べの夢を漫画にしてみるとBは意外と興味を示します。ここで思うんですがABの関係が本当に女の子の間柄でくっつかず離れず楽しいみたいな感覚ですごく観ていてほつとするのです。さらにACの女の同姓への憧れというのはよく聞きます。

私自身が男の同姓に憧れを持ったことがないのでよくわからないのですが、女性の場合はいろいろと打ち明け話は聞いてます。私が異性だから話してくれるのでしょうけど。

ACの出会い。それはCの才能がうらやましくて、ACの所属する漫画研究会のようなサークルに応募したことです。そのとき才能があるはずのCAを気に留めてしまったのです。Cだって普通の感情はあります。好きになって何がいけない?何もいけないことはないという具合。ACの出会いは大学時代。ABの同居の時点ではACの関係は終わっているのです。それを過去形ですが、今起こっているかのように描いていくのです。どういうことかというとCAの才能を見抜いていて友情を超えた愛情を築きたいと思ってAを旅行に誘ったりしてCだけのものに囲い込もうとするのです。まあ女同士の相思相愛です。これがこの映画ではわかる気がするので、俳優が意外と適材適所なのでしょう。Cいわく「男とならいろいろと我慢しなければならない」というのです。ですからCの方が積極的でACに対する憧れの部分が大きいのです。

実際にACの作品に出版の話が持ち上がります。Cは一貫して拒否。しかしAの漫画が出版されてからCの態度が急に冷たく変わります。サイン会の話とかでも切れてしまいます。それはCAを好きで所有したいからなんです。所有というよりもずっと一緒にいるということを優先したいからなのです。しかしAは出版とかサイン会とかでCから離れていってしまう。これを敏感に感じているのはC.Aは普通の生活と思っているのです。結局Cは甘えん坊で依存性が強いのです。そしてCの方から「キスしてくれないの」と強引に奪うあたりからAの気持ちも冷めていきます。深入りしすぎた感じ。Aは基本的に普通の生活を普通の男とできるタイプです。Cはできないタイプなのです。

「私たちって腐った果物みたい」とCが言うのが印象的。食べたくても食べられない、つかみたくてもつかめない、みたいな感覚でしょうか。そしてAが無言のままCを無視したときCAに戻ってくるような合図を出して戻ってくるときに飛び降り自殺をします。実にAに見せているのです。Aは拒否した自分のせいかもしれない、と思うことでしょうし、実際にそう思わせるのがCの目的。Cは死んでAの頭に一生残るのです。呪縛。

並行するABの後日談ですが、BAACに抱いたような同じような気持ちになるのですが、Aは拒否します。Cとの関係が尾を引いてます。Bは健康すぎて相手にはならないと思うのでしょう。Cはその点不健康そのまま、異常性ありでしたから。

ABは最後にCの自殺した場所に向かいます。ここでCの霊と出会いAの本当の気持ちを伝えました。「好きだ」ということ。Cは「私が死んだのはあなたが別れようと言ったからじゃないの、それはあなたが考えて」といって消えます。最後にすべての思い出を焼こうとするAに対して「これはとっておいたら、つらい思いでも思い出だから」といって捨てるのをやめさせます。そうですよ、思い出は大事だモンね。

「にっぽん昆虫記」今村昌平監督 1963年

まずは、妊娠のシーンから。家で出産してますね。人間だけ人の手を借りなければ出産できないというのも実はおかしいことですもん。大正7年のことです。

次は大正13年、すでに子供が2人います。みんな親が違うという話です。山の神様に献上するこけしを夫は作っていますが、妻はほかの男とまだ子供作りをしております。多分、この夫との子供は一人もいないと思います。しかし子供戸籍上で育ての親になついています。これって戸籍が入っていれば実の親なんでしょうかね。出生届も本人が出してますから。

昭和17年、戦争中。子供も大きくなって工場で働いてます。一番初めの子供は女の子でしたがその子が地主のところに嫁(実質奉公)に行くことが急に決まりました(女の子をA)。

ここの家は「出雲系の神」を信じているみたいです。地主の三男坊ですので家の中でも地位は低いです。そして奉公のみということで嫁いできたのですがそんなわけにはいきません。実際このAは嫁ぐ前の日まで父と寝てました。近親相姦かどうかは定かではないのですが、多分父はあまり性に興味がなく山と子供を育てることに興味があるタイプだったのでしょう。しかし奉公のみのAが子供ができたので実家に帰されます。実家では地主に食い込むためのAが返されて予定が狂ったというし、子供は増えるしでめちゃくちゃな人間関係です。生まれた女の子を生かすか殺すかというところでAは生かしてほしいといいます。今の少子化とはまったく違う世界です。昭和18年生まれ。子供をBとします。この子がお乳を飲まないので乳が張って痛くなるので父親が代わりに乳を飲みます。すごいですね。まったく羞恥心がないというか自然なんですよ。

そして昭和20年8月。アメリカの主導の「農地改革」地主の没落。Aは工場で知り合った上司とできてしまいます。

しかし労働組合運動を激しくまじめにこの上司とやっている姿を見て上司は引いてしまいます。Aはまじめに尽くしているんです8が、その情熱が強すぎるのです。そして別れ話。昭和24年のことです。

その後も男と転々として幸せになりきれません。Aは男好きのする顔なので、かつ情熱的ですので男がいつもできるのですが、その激しさで離れてもしまうのです。その挙句、新興宗教の門をたたきます。なんか仏教系。昭和26年のことです。赤線で働いているんです。そんなこんなで昭和30年になってしまいました。新興宗教にはまだ入ってます。そして旦那を見つけたら売春宿の女将を警察に売ります。そして顧客名簿を持って独立しようとします。この時点で最後にAは殺されそうな予感。前に見たんですが内容は忘れてました。

そして現天皇の結婚式パレード。観てみたいですね。そして裏切った売春宿は売りに出てます。旦那は買おうというのですがAが少し躊躇します。「賭けに勝った、お前の勝ち」といわれたのが気になったのでしょうか?とにかくAの人生はいろいろな勝ち負けの人間を見てきた人生です。しかし大事な取引に体を提供する女の役をAに押し付けられ、賄賂も立て替えさせられます。実際にここに愛情があるのか、疑問に思い始めます。

そして整形までさせてかわいい顔にして商売させます。でもね、因果応報。自分がしたことは自分もやられます。若い子に裏切られて裏で商売をされます。それがわかったとき、顔を壊してやるというときの迫力はすごい。確かに整形手術をする金をだしたのはAです。

そこに田舎にいた娘が尋ねてきます。開拓農場を始めたいので金を貸してくれと、そして今までなにをして暮らしてきたのかと聞かれます。そんな中父親が倒れたという知らせが入ります。昭和35年、60年安保の年。

東京に帰ると、みんなに裏切られてます。そして警察に。自分のやったことそのままに、逆にやられました。そして娘にまで手を出されます。娘が上京してきたときAは刑務所でいないので旦那のところに行くと週何回かで20万円になるというのです。ようは愛人になれと。Aの怒りはかなり頂点になり(Aは旦那にかなりお金を用立ててあげている)怒鳴り込みますが、逆に縁の切れ目に。旦那は今度は娘のほうに交換条件を出します。このまま東京に残れば店を出させてやる。しかし愛人関係はそのままと。娘はOKします。そしてお金をもらって渡してくるといってそのままアパートの敷金も抜いてもって帰ってしまいます。旦那も娘にやられました。娘はAがひっぱたいたことが効いているのでしょう。

娘は自分たちの生活を。そしてAはそこに向かうところで終わり。なんというか、たくましい映画です。難しいというかいやな一面を見ますけど、人間ですからね。左幸子一世一代の演技でしょう。なんというか実生活でも妹に持っていかれたんですよね、あまり触れないでおきましょう。

 

「ニーナ、または恋狂い」チェザーレ・リエヴィ演出 2002年

チューリッヒ歌劇場合唱団、管弦楽団、アダム・フィッシャー指揮、チェチーリア・バルトリ。

古い時代のオペラなので、よくある結婚の話です。まあ家柄が違うとかの話ですけど、メゾとテノールの見せ場は十分にありますよ。そして人物描写をアリアでうまく表現している作曲家です。パイジェッロです。またモーツァルトのアリアも劇中に出てくるのです。そういう意味では楽しい気楽で簡単なオペラです。こういう素朴で楽しいオペラが良いですよね。ワーグナーみたいに重厚長大でもいいのですが普通に楽しめるほうが楽で良いです。

伯爵の父とちょっともめている娘のニーナ。その彼女が彼氏を待ち焦がれて歌うアリアは魅力いっぱいの曲です。こういういい曲が何気なく使われるとうれしくなっちゃいますね。

この後の村の娘たちとのやり取りはハイライトに近いくらいに素晴らしい時間です。本当に素晴らしい。

そこに彼とは違う男がが帰ってくるのですが、そのテノールもいい。Bがこの男の歌を心で感じていると言って返す歌もいい。返し歌ですよね。すごい対の構造です。確かこの曲がモーツァルトの曲、「フィガロの結婚」だったと思いますが四重奏くらいの歌だったと思います(度忘れしております)

さらに女(メゾ、B)の「愛の気持ちを歌う」アリアのときオーケストラからクラリネットが舞台に上がって一緒に愛を奏でます。そしてこれらの歌からは伯爵が憎いらしいのです。

何か彼を盗ってしまったと思っているらしい。男も同情をします。そしてBの愛の不安を歌い上げた四重奏(B、お手伝い、男、伯爵)はきれいに決まって、Bは退場します。

すると彼(A)が生きていたというのです。見た人がいると侍従が駆けつけました。そしてAの登場。そして伯爵からAを待ち焦がれて毎日ここで花束を作って待っていたけど今は平常心ではないといわれます。そうです、この狂うような愛の様子を先ほどまで歌で語り聞かせていたバルトリはうまかったですよ。一人舞台の様相でした。

愛を尽くしていたのを知っているので村のものも大喜びの中再会です。真実の人は周りからも祝福されますね。しかし彼を識別できません。でもずっとそばにいてくれる、と聞きOKとなり、事のいきさつを聞いているうちに「安堵の歌」になります。Bの幸せの瞬間ですね。しかし幸せになるということは実感できないのですが、周りが祝福してくれて伯爵もAも状況を説明してくれるうちにBも有頂天になってきます。愛の成就ですね。最後はもう少し盛り上がってほしかったです。歌の内容は盛り上がるのですがオペラ自体は盛り上がりがかけるというか、ロマン派以前という感じはいたします。

 

「日本黒社会(にほんくろしゃかい)LEY LINES」三池崇史監督 1999年

帰国者センターの若者で保護観察中のかなり、根っからの悪党を北村君が演じてます。いい味出てます。またこいつらがバイク盗んできては売るところもあったりして社会の裏の面がかなり出てます。そういえば先日の「豚と軍艦」に似ている。当然でしょうが、師弟関係はこんなところにも現れるのでしょうか。

まあ悪い連中同士で、田舎から東京に出て一旗あげようとするんですが、出かける直前に辞めるやつらが出てきて、拍子抜け。二人になってしまいます。まあ見送ってくれるところに救いがあるのでしょうが、先が読めてしまう寂しさがありますよ。みんなどこか突っ走ることができない、中途半端な気持ちなんです。踏ん切りがついている北村君とは違う。

また友人が田口君。トモロウくんですよ。北村君の弟は勉強家で中国から日本に来た家族、すなわち両親を背負って立っていくのでしょう。結局出てきて兄貴と一緒に生活してしまうんですけどね。

そして新宿で、シンナーのようなものを作って売る仕事を始めます。まあ闇の商売ですね。

そしてたまたま食事していた中華料理店は売春宿も兼ねていて、食事中に娼婦と知り合います。縁とは不思議なものです。それがスリだったのです。部屋に閉じ込めて追いかけられないようにしてその前に財布なんかを抜き取っていたのです。北村君(A)田口君(B)は田舎から出てきたので都会の厳しさがこれで身に染みる事でしょう。

その後も暴力的なシーンや犯罪シーンが出てくるくらい、底辺の生活の荒海の中の描写が続きます。具体的に書けないようなシーンばかりです。しかしそんなに画面から目をそむけなく観ることができるのは、ABが飛び込んだこんな混沌とした無秩序な世界でどう生きていくのかが興味あるからです。

この世界の中で、チャイナ系と日本人のチンピラの間をどうでもいいような軽い乗りで行ったりきたりしています。そして外国に逃げたいと思って、チャイナの扱っている裏金融の金勘定の場所に乗り込んで、金を奪って逃げます。これ、ってもうばればれの犯罪ですよ。逃げられるわけがない。だけどやってしまう安易さ。

日本のチンピラもそれに乗じて奪おうとするのですが墓穴を掘ります。その前にBは撃たれてしまい、途中「俺の取り分は母親に送りたい」と言って死んでいくのです。はじめはAも故郷につれて戻るだけで、取り分を渡すつもりはなかったのですが、弟が反対するのといままでAの心の支えになったのを思い出し、弟に渡しに行かせるのです。しかし殺し屋が待っていて殺されるし、女と海外に逃亡しようとするとチャイナの親分が待っているし踏んだりけったりですが、最後まで突っ張った人生です。

海に飛び込んだときお札が浮かび上がってくるなんざ、「地下室のメロディー」みたいです。そして最後のシーンなんかまるで「パピヨン」。あの突っ張りが最後まであるのです。そしてかぶさる音楽がバンドネオン。

 

なかなかいい映画です。このシリーズはいいですよ。「カタクリ家の幸福」の方が好きですけどね。

「ねじ式」石井輝男監督 1998年

これ、原作まったく知りませんし、つげさんという漫画家は名前は知っていますけど作風は知りません。そんな状態で見ると、冒頭からショックを受けます。「やめようかな」とか思いますよ。どこまで行っても画面いっぱいに「貧乏くささ」が蔓延してます。本当に見ている自分が情けなるくらいです。

まず主人公の漫画家(A)が女と同棲しているんですが生活を維持できないのと、女の浮気で少しナーバスになってます。見ている限り、どうでも良いようなことなんですけどね。

とにかくこのAのモノローグで進んでいきますが、なにか妄想をよくみるのです。その妄想のシーンがいろいろと映像で出てくるのですが、なんというのか、まあいい加減な世界です。演技するほうも大変だろうなと思うようなシーンが多いです。それでいてみていて面白いというわけでもないので、ゲテモノ趣味みたいな感じです。それでもスケベ専門の俳優とそうでもない俳優の境界はどこにあるのかわからなくなります。ジュリアンムーアのいう「ついているものはみんな同じだから裸になるのはいとわない」ということを実践しているかのような映画です。その中で印象深いシーンがありまして、房総の食堂で泊めてもらったとき、そこの女の子に手を出します。そして1年後同じ店を訪ねても店員になっているときの女の子は気がつきません。これは意外とわかるんです。できるだけ覚えているようにはするのですが、あんまり行かなくなったから行きにくいとか、覚えているだろうかとかお客様は考えるのですが、私の場合は意外と何にも考えていないですし、先日3年ぶりくらいのお客様に久しぶりです、と言ったとき、あとから「久しぶり」というのを通り過ぎているよな、と思ったモンです。やはり飲食とかは提供するものを作るのが精一杯なのです。これはなんとなくわかる気がしました。この女の子の役、きれいな人なんですが、また変なシーンがあるのです。はい。そんなことの羅列ですよ。「無量庵」だったかな、とか「天狗堂」とかおかしなところばかりです。何でこんなに変な人ばかりいるんだろうか、なにを描きたいのか、途中でわからなくなります。しかし途中、「母親探し」の主題が出てきます。傷をぱっくりと開けてまま金太郎を作っている母親に出会うのです。いいたい事はわかりますけど、ちょっとここまでが長すぎた。映画館で見た人飽きるんじゃないかな。この傷を止めるのが「ねじ」なんです。女医にとめてもらうんですが、女ということで良いんではないでしょうか。しかし女といえばはじめの同棲していた女はどうしたんでしょう?

最初と最後は人間の中の小宇宙の中の欲望の楽園でしょうが(ソドムとゴモラみたい)この欲望の吹き出しをとめたのがねじなんでしょう。ということで考えるとねじでとめるまで、欲望の中を彷徨していたことになりますね。そう思うとわかりやすい映画です。しかしちょっと人には薦められません。日本映画ってかなり変なぶっ飛んでいる映画がありますね。うちに秘めた欲望があるんでしょうか。

この映画は題名とジャケットからは想像できないだけに要注意。あまり気分のいい映画ではありません。「自殺サークル」とかは題名から狙ってみているんですけど、もっとメルヘンかな(いやこれもメルヘンなんで)、もっとうぶな映画だと思っておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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