「ハード・デイズ・ナイト」リチャード・レスター監督 1964年 イギリス

この映画何回観たことでしょう。楽しい時間です。ビートルズは人気あったんですよね。「ヘルプ」とともにファンの会の自主上映会によく行ったものでした。「レットイットビー」もそうでした。この映画昔、私の場合30年近くしか前ではないですが、映画でもかなり行列したんですよ。有楽町の日劇の前の映画館とか九段会館によく行ったものです。あとファンレター書くシーンがあるんですがファンレターって本当にあったんですよね。映画俳優になら出したことあります。昔スクリーンとかに俳優のファンレターのアドレスが書いてあって海外便で送ったものでした。返事って意外と来るんですよ。今ではインターネットで、意味ないのかもしれません。でも彼らの映画を追うと成長の度合いの速さに驚きますね。ストーンズは逆に変わらない方を選択したんですが、ビートルズの変わり方はすごい。

「キャントバイミーラヴ」、スタジオを出た瞬間、この曲だと思ったらすぐに流れてきて、忘れていないんですよ、歌詞も映画も。そして今この歌詞を読むと深いなあ。愛は金で買えない、というのいいですね。今の日本はお金で買えそうですが。笑い。

映画とすると、今の感想は、ビートルズより年上で出てくるせりふのある役者みんな魅力的ですね。かなり良い俳優使ったんじゃないかな?調べる気はないですけど。

「アンドアイラブハー」のスタジオテイクもいいですねえ。若返った気分です。

結局ノスタルジックな時間はあっという間に終わってしまいました。ビートルズはいいなあ。最後のお辞儀も丁寧でいいですね。何でこんなに良いバンドが生まれたのだろう?

「白痴(はくち)」黒澤明監督 1951年

カミングアウトしますと以前見たときは途中で退屈しました。

第一部「愛と苦悩」

舞台は北海道。

はじめから「癲癇性痴呆」白痴(はくち)だという告白から始まります。面白い。戦犯として死刑宣告をうけて気が狂ったのだという。「この世の中で真に善良であることは馬鹿に等しい」それゆえ小市民的善良な人間を主人公にしたということは考えさせられます。でもうまいですね。この善良な主人公Aが世の中に対して真摯に生きていくことで負け犬になるという話という前書きです。話の流れを言葉で飛ばすのできっとどこかを集中的に描きたかったのでしょう。とにかくこの帰国の途中に出会った青年Bとうまが合い友人となる。そのBは、ある美しい女性(私の大好きな、原節子様)Cを見初めて(映画では、Aの鬱積した欲望が爆発した、となっている)ダイヤを贈って勘当させられたが、その父親も死んでしまったので遺産も入るので札幌に帰るという。Aも友人を頼って札幌に行くという。このAも死んだものとして財産を処分されていたのです。それが帰ってきたのでちょっと後ろめたい輩は気が気でないでしょう。この連中の中にCを引き取ろうとするものDがいます。しかしDはほかの女Eが好きなんですね。まあいい加減なやつらです。人の隙に付け込むタイプです。EもまたAと同様に潔癖症なんですね。(精神的な潔癖症ですよ)今回は人がたくさん記号で当てはめてますが決してわかりにくいものではなくこれだけの人物がうまく交差し関係するのです。

Dの家族はCとの結婚に反対なんですね。まあお金かけて引き取るわけですから、いい訳ないし、それまでまっとうな人生を歩んでいなさそうですからね。しかしそれだけDは家族の中で弱い立場でもあるということです。

そこにCがたずねて来ます。さらにBが追ってきてCに対して払い下げた60万円プラスいくらで手を打つか取り合いをします。ここでCの感情は無視されるし、Cもまたお金でけりがついたあと、何かたくらんでいるような感じなんですね。この女は人生をまだあきらめてませんよ。しかしですACの目を見たことがある、そしてCDの家族が言うほどの悪女ではないという本質を見抜きます。人目で見抜きます。Cも見抜かれたそのAの眼識に興味がわきます。そしてパーティーに招待するのですが、Aはそこで「私と一緒に死刑台に立たされた男の目だと」言うのです。これはうまい表現ですがCがどちらに転んでも幸せな結婚ができない現状の運命とその先行きに希望が持てない状況を一言で表しました。「長い間昼も夜も苦しんできた、何故自分がこんなに苦しまなければいけないのか、とその目がそう叫んでいたのです」とCに言います。そのときのCの目がいいですね。結局Cを魂から揺さぶることがいえたのはAだけですね。お金じゃないんです。まあお金はあったほうがいいですが。このことはCの結婚の判断をAにゆだねる信頼を得ます。いやーーすごいシナリオ。さすがです。「結婚はよくない」Aのアドバイスです。すべておじゃん。そんな中Bがお金を持ってこの会場に来ます。これすごいですよ、貴族社会みたいなプライドと情熱をかけたパーティーのシーンです。白眉といっていいでしょう。「安城家の舞踏会」という映画があるのですがあの舞踏会のシーンみたいにプライドが満ちてます。こちらのほうは偽善も満ちてますけど。しかしACを引取とるというのです。「こんな私を」とC.どんな私なのかわからないけど、目で顔でその人の人格を判断したAは本当に見る目を持った人間です。何回も言いますがこのパーティーのシーンはすべての言葉が素晴らしい。ここでのACの愛の言葉、優しい言葉の数々、心の交流とはこういうことでしょう。このことが懺悔につながります。Aが死んだと思って財産をとったものがAが実は「財産の持ち主であること」を告白するのです。しかしCBと一緒になるというのです。なぜならば「Aは純粋すぎる、生きていくのはできない」ということです。そしてCを奪い合ったお金をCは火の中に投げ込みます。まさにAの財産を奪ったことが判明したばかりですのでDはお金がほしいはず、しかしプライドが邪魔をします。ここでプライドを投げ捨てて当座のお金を確保するほうがよいのです。いちど社会の上層に這い上がったものはその地位保全をしてしまうものですね。地位なんかないのですが嘘のプライドだけが残ります。

そして時間は過ぎますが、BCは結婚をしません。その間、ABをたずねて、「君とCは結婚をしないほうがよい、それは君にとってもCにとっても破滅だよ」と忠告するのです。ACを「かわいそうだから好きだ」というのですが、BCを「好きだけど憎いんだ」というのです。どちらも違うんですよ。恋愛は愛情は好きでたまらなくなるんです。

しかしAを見ているうちにBは前から思っていたことが強く心の中で浮かびます。CAのことが好きだということ、しかしAと一緒になるとAを堕落させるからBを選んだということ、です。そしてAと話しているうちにやはりBCをあきらめAに譲ります。しかしAはだからといって行動にでることができるのでしょうか? 最後にAを刺そうとするBがいますがこれは幻でしょうか?

第二部

「恋と憎悪」

Aは権利があるからといって金貸しからお金を借りて生活してました。牧場をAが帰ってくるまで中心に管理していたDの上司Eの妻はしっかり者で借金取りを寄せ付けないのですが、Dの娘Fに気があるのかどうか気にしてます。実際に美人ですが、親たちの狙いは財産でしょう。その親とFがスケートショー(雪祭り)を見物に出かけます。ここでAと出会いますがFのつっけんどんな態度といったらすごい剣幕です。それはなにに起因するのか?それはFの心を読まれていると思っているからです。そしてDと一緒に歩いているとCが突然出てきてDに対してあなたはお金を騙し取ってなにをしようとしたのか忘れてはならないと、仮面をつけたまま言って立ち去ります。かっこいい原節子です。ここでBがでてきてAに言います。「やはりお前を好きなんだ、お前を幸せにしたがっているんだ」ということです。

そして次の日、待ち合わせをしてAFは会います。そこでまったく態度が違うのです。「時々こっけいなしぐさをするけど、あなたは人間の中で一番大切な知恵を持ってます」とほめるのです。隠していたんですね。恋心を。これに一番早く気がついたのはCでしょう。だから身を引いてます。

実際にこの日にACに対する理解は本当に確信をついてますし、CAの想いはFへの手紙に書いてありました。それは「FAと結婚するように」というAの幸せを祈る手紙です。Fも馬鹿じゃないので気がつきます。

Fの言葉にもあるのですが場所が北海道というのは吹雪の激しさ、動的動きとAの人生を達観したかのような静的な動きと対に、さらに雪や風の荒々しさがACの精神的な情動の強さにあらわされるといった感じです。またBFも内面は激しいのです。ロシアが違いという位置的な意味も当然あるでしょう。

AFを毎日尋ねていくシーンが日替わりではいるのですが日々の移り変わりが、リズムをなし、本当によい夫婦みたいなんですね。生活と精神的にリズムが出るというのは波長があっているのです。Aは知らずに「赤いカーネーション」を持っていくのです。大体よく言われるのですが、女性から見て赤く見える男の人、または赤を連想する男の人は愛している人と言われます。これ自分もよく聞いて見たりしてます。しかしAFに赤いカーネーションの話題につけこんで(両親も願ったり、の振りをAにしますが)結婚を申し込むシーンは白眉でしょう。黒澤監督の映画でこれだけ愛情が前面に出たのも、女が中心に描かれたのも珍しいです。「しーーん」と一同起立。その思いの強さが感じられるシーンです。

AFともにふたりの間にCがいるのを知っていて知らない振りをしているのです。とくにAは致命的な感じです。どこかでこの精神的破綻は大きく出るでしょう。

吹雪の中FCに会いに向かいます。ここはすごくポイント高いですよ。最大の見せ場。その前にCAFと幸せになることを確認して去っているのです。それを待っているCB,そこにイワノビッチの「ドナウの小波」がオルゴールで奏でられ、Cの独白が「Aは私の夢の塊です。見るのが怖い(幸せになっている姿は見たくない、しかし幸せになってもらいたい)」この構図、音楽が良いでしょう、中央にステンドグラスをバックにマントの原節子、手前に画面を横切る形で三船敏郎が寝てます。顔を上げているので右下に男の顔、中央に女の顔とバランスがすごくいいのです。「あの人私にとって理想なの」。

AFFが行く気になっていてAは止めてます。BCBは知らない不利、Cは恐ろしい思いで待ってます。そして時間が静かに流れていきます。会ってからの原節子と久我美子のにらみ合いでCAに対する愛情が残っていることがわかります。なんだかんだ言っていても忘れられないのでしょう。久我美子が「あなたもちろんご存知でしょうね、私があなたに会いたいわけを」というのですがCは知らないと、実は私もわからなかったのです。何で会いたいのか、それは「相手の女に勝つためでしょう」としか思えなかったのです。

違いましたね。「何故傷つけたのか、何故捨てたのか」と問うのです。それでまだAを判っていないというのです。犠牲の押し売りはたくさん、とCを批判します。

Cも勝負をします。Aに対してCFどちらを選ぶのか問います。これはこういう聞き方をするとAが答えられないのでAの精神的破綻の予備線でしょう。私ならこの状況なら久我美子を選んで原節子を心の中に永遠に忘れないでしょう。でも永遠に忘れないなら今これが最後のチャンスなんですよね。判断は?選ばない暴力もあったんですね。CFともに傷つきます。Fとの婚約は破談になり、Cの様子を見に行きます。Bと一緒に歩くシーンは冒頭にありましたが、希望も若さもなくなった感じがします。映画自体は、堂々としたリズムで刻々と時を刻んでいきます。緩やかなテンポで、降り積もり雪がおもりのような感じさえするようなテンポで堂々と描ききってます、本当に見事です。まったくリズムが狂わない。そしてBCを殺していることを知るのです。それは思いやりからなのですが、Bはその罪の重さと愛する理想の人を手にかけた苦しみで発狂します。冷静に見ると最後まで自分のペースを崩さなかったのはAだけです。そのまま「白痴」のままです。度が進みましたけど、そしてFは気づきます、「人を愛し続けるだけで憎むことをしなければよかった、はくちだったのは私のほうだ」と。誰も幸せにならないのです。すごい袋小路に投げ出されたまま終わってしまいました。しかしすごく充実したときでした。面白かった。

 

すごいことに気がつきました、この映画は「羅生門」と「生きる」の間の映画なのですね。悪いわけないですよ。また蒸し返しますが、ABCは誰かを常に愛し続けたのです。

 

「白痴(はくち)」手塚眞監督 1998

最近、黒澤監督の同じタイトル見たばかりなのでどうでしょうか?原作が違います。黒澤監督のほうがドストエフスキーですから、日本の坂口安吾とは違いますよね。

あらまあ、また原爆からスタート。廃墟のイメージであとは下町、それも汚い下町の下宿です。道がコンクリートならちょっと前までの東京に会った景色なんですが、数年前にみた大阪の岸和田のほうの景色に似ております。そして町の中の人間模様は、確かにあるだろう、しかし役者の物腰が違う、という感想です。あと極端ですね。

テレビ局の内容は、手塚監督らしいものでやはりこの路線のほうがいいんじゃないか、と思います。「銀河」というアイドルを売っているテレビ局です。彼女のステージに出ていた連中は俳優なんでしょうか。それとクレジットはないですがかなり有名な人(俳優と限らない)が出てきます。私もすべて追いきれませんでした。テレビ局の中のシーンは「鎌田行進曲」のパロディですよね。きっと。

そこで「銀河」にからかわれて、落ち込んでいるときにみる夢のシーンは音がいいですね。この男をA,隣の夫婦の気がおかしいほうの奥さんをB、旦那のほうをCとします。BCが良い味出てます。BCのことが映画を作るAからするとテレビ局の仕事よりもリアリティあるんですよ。もともとテレビ局のシーンは現実性ないんですよ。長屋というか汚い下町に超現実があるという感じの設定なんです。

しかし銀河がAに体調が悪いときにオフにして話しかけるモノローグはかなり哲学しているんです。そして、母性の象徴のような内容を両性具有的な体つきの銀河が話し続けるのです、まさにパラドックス。しかし銀河は結局は欲望の象徴でしょう。この辺でこの映画はいいと思いました。こうなると残りみるときは安心してみることが出来ます。

そして自分の部屋に戻ってみると、BCが近いんですよ。良い味出るんですよ。環境からね。笑い。へこんで帰ってきた自宅の押入れに隣の奥さんがいると普通でもあせりますが、この奥さん普通でないから、尋常じゃない状態になります。この辺おかしくて、笑い転げてます。このBは四国のお遍路さんで途中Cに見初められて連れてこられたと思ったのですが、やはり、何か悩みがあったはずで、この時代の精神状態を表現しているのだと思います。テレビ局は実は参謀本部を揶揄する意味あるのかもしれない。この戦争を顧みるとどうみても、参謀本部がハイになっているとしか思えないんですよ。

Bのこの家での悩みは愛情がないことですけど、Aも常識人で愛情を表現できないし、Bが「嫌われているのですか、私、来なければ良かった」といって迫って初めて意味がわかる人です。ここで判りました。Cがかなり頭の中で飛んでしまっていると、常識的な愛情表現が出来ないのです。Aも映画ということで言葉先にありき、な性分だったのです。ここから同棲が始まるのですが、Aは浅野(「殺し屋一」など)で若いイメージなんですが、Bは甲田(dip In The pool,でキャリア長いので中年のイメージがあるので)役者としてBのほうが遠慮している感じの距離感が二人かわいいです。これ私の感想ですけど。

外に出るとテレビ局と戦争ですが「戦争というものが健忘症にさせてくれる」というせりふがあったと思うけど、これ現代のことも言っているんですよ。現代の戦争は武器を使わないだけに変な戦争ですよね。株価、為替などが影響する資本市場と資金の調達かつ、情報社会というなかで利益を上げていくということはまあ戦争です。

だからこの戦争はいつの戦争でもいいのかもしれない。「世界の果てまで一緒に言って、聖なる山で、精神と肉体の分離を見る」という映像というか、感覚が生まれる時代が舞台です。「世界の果てまでつれてって」とは話が違うんですけどね。懐かしいですね、この本、初版で持っているとなかなか読めないです。京都大学の生田先生の初めてにちかい翻訳本だったと思います。ABの世界の果ては、ひとつになれる瞬間です。まあ、端的に言って深い愛です。はい。しかし大爆撃のときABが般若みたいになる顔を見てしまうのです。般若とは悲しみにくれた果ての顔です。何故にBが?時代の代表なのか?その前にCが嵐の中家の屋根に上がって仕舞を舞うのです。Cは嵐がきっかけでこの世に戻ってきて、その霊を呼び起こすきっかけの現在霊がBなのでしょうか。とにかくBCは終わってみれば存在しないも同然の人たちです。狂っているんではなく、存在していないんです。

しかし戦争という愛情の場がAを変えます。「天井桟敷の人々」のシーンさながら「風と共に去りぬ」の炎上のシーンのような爆撃の中、与えられた場(爆撃された場所)のなかで愛を欲し、そして真実の愛を知る瞬間です。思いっきり引き寄せたぜBAの元に。そして一緒に生きるんだ。死んでからも一緒だよ。実はBAの母親です。Bの想いとは残した息子に会いに来たのです。そして最後に成仏して、菩薩となりかえっていくのです。

「銀河」役は橋本麗華という女の子。キュートです。そしてメイキングは素晴らしい出来。

映画自体もいい出来なのでそのメイキングが悪いわけないのですが手塚監督はいい監督です。ナレーションでわかります。いい映画だった。

 

 

「はつ恋」 篠原哲雄監督 2000年

本当に恋ってタイミングなんです。主人公の女の子が勝手に失恋と思い込んで出せなかったラブレターを破るシーンから始まります。この映画は何の予備知識なしで観たほうが良いんですよ。はじめてみたとき、どうしようもない映画館だったんですが、どんな作品かも知らないで見ていたんですが、どんどん引き込まれました。自分がこの手の作品を好きなんだと思い直した一作です。主人公の高校生の女の子Aとその母BCとします。Bの入院中にちょっとABの秘密を知ります。昔のラブレターを見つけるのです。それは父に出したものではなかったのです。何でとってあるのでしょう、私ももらったものでは何通かすごく記憶に残っているものはあります(実は持っていたり)。出したのは記憶にないですね。何かいていたんでしょう?

C以外に付き合ったのいないの?」と聞かれると痛いですね。「バウンスKOギャル」ではどちらもだめだね、といわれてましたが、確かに母を見ると結果を知っているだけに娘のほうが強いこと言えそうですね。実際に伊那に行ってみることにします。「高遠」は伊那なんですね。この地名確か武田勝頼の居城の地名、この名前はとことん嫌いなやつです。黒澤監督もうますぎたのでしょうが「影武者」であの馬鹿ぶり、本当に頭にきますね。今は伊那食品かな、元気な企業として有名ですね。これも関係ないですが諏訪湖から流れる天竜川沿いは本当にいいところですよ。諏訪湖に関しては今年「御柱祭り」です7年目に一回、さるとらの年に行われます。すごい脱線しますがこの天竜川に沿って三河に向かいますと、海の手前に織田と武田の戦った馬鹿な戦の跡があります。まさに家康の地元です。

この映画に戻って、Bの昔の恋人Dの居場所をAは見つけました。多分大森海岸あたりでパチンコは蒲田あたりでしょう。落ちぶれてます。Aは桜の下で再会させたがっているのですぐに会いに行くというDをとめます。「今はだめなの、夢が壊れる」。縁というのはそんなものじゃないんです。どんな状態でも結ばれるものは結ばれるんです。強引に結ばれたのがCBです。Cの情熱があればDもうまくいったのにね。若すぎたということは縁がなかったということです。

Aのすごいところは理想を求めてDを変身させます。たとえばスポーツジムに通ったり、スーツを買ったりして、そして途中喫茶店に行きますが、そこでビールの注文を断りトマトジュースに変更。両方ともうちにないメニューですどうしよう、作ろうかな。しかしこんなカップルまずいなくなりました。ちょっと前まではいたのですがね。ここで最高の田中による「シェー」のポーズです。こういうかわいらしいシーンは良いですねえ。このADのコンビは最高です。田中の作品で一番良いんじゃないかなこの作品が。このコンビはお互いに成長する次の一歩のための必然でした。ふたりとも幸せになれたのはこのコンビがあったからです。Aはこの行動力でコンビを作ったのですから幸せになれる権利があるでしょう。

そしてAも洋服買うのですがこの洋服決まっているな、萌黄色と青がかったグリーンです。

しかしDと楽しくって時間が過ぎていくの忘れて帰りが遅くなり、Cに怒られて喧嘩します。ここがすべてこの映画のテーマになるんですが、Aが病院に喧嘩して逃げている間にCは壊れたオルゴールを直しているのです。BDはうまくいかなかったんですが、BCはうまくいったというところがこういうところにあるのです。Cの一途な愛なのでしょうが最終的にはそれがBにも安定をもたらせた、そしてAが生まれたということでしょう。実際の生活とはそんなものでしょう。死ぬときにそばにいる人が伴侶なのです。そう簡単に築きあげたものは壊れないのです。家庭もそうですよ。

Aが作る舞台は終わった二人には必要ないもので、続いている二人に、いや三人に必用なものです。その前の日にDの部屋掃除してくれるんですが、女が男の部屋掃除するということは心許してますね。母への信頼が厚いので母の愛した人は大丈夫ということです。そこから入り込んでDを信頼できる人だと思ったんですね。この信頼されたことがDを大きく変えます。また自分たちの信頼を取り戻そうとするのです。自らの行動に出ます、自分たちの家庭の再構築に。ADを通じて愛するということを知ります。愛する人と一緒にいることの楽しさですよ。これはそのあとの恋愛に大きく関係します。

「あの手紙なぜBは出さなかったんだと思うy」「おれはもらいたかった」とDがいいながら「何故いまさら俺たちをあわせようと思うのか」と質問します。答えは簡単、Bが出さなかったのは時が違うから、縁がないからです。思い切りが二人になかったことです。そしてAの行動は「愛するということ」をBDを通じて結果的にCも通じて知るためです。

本当に良いプロットです。4人の愛情の表現が違うのですがABDは似ていてAはそこに共鳴するのです。Cは少し引っ込んでいるけど最後にぱっとすべてをさらけ出す、タイプです。ですからいいところを持っていけるのです。まじめでなければできないですけどね。Aは最後の日Dの家をあとにするとき、愛する人と一緒になるのにはなにが必要なのか、知らされて自分にかけていたものを知ります。雨のシーンですね。次の日にCに家族旅行を提案するのもそのせいです。

「憧れではなくお互い本当に好きになった初めての恋だった」「いつかAが恋をしたときも恐れず一歩一歩前に進めていってほしい」という気持ちでとっておいた手紙だということです。桜の下で母の気持ちを知ります。そしてDの思いやりも伝わります。だってそこにCが来るんだから。私からするとちょっとの出演でおいしいところみんな持っていってしまった感じです。平田とか竹中とかの役者は本当においしいところもって行きますね。

「あの瞬間があるから今があるんだ」

はい、チーズとみんなで写真を撮って終わります。恋人もできたしBの最後の遺言でした。最高のときをAは自分のために演出したんです。

 

「花嫁吸血魔(はなよめきゅうけつ魔)」並木鏡太郎監督 1960年 

日本の映画って上映やテレビで放映されにくい作品があって、この作品も若干その傾向があります。なんというか差別用語とか身体の不自由な人をよく扱わないケースなどが昔の映画には意外と多いのです。

なにか吸血魔の一族がいて誰か仲間が来るのを待っているのです。それは闇の世界の話。

そして現実の話では、バレエ教室に通う美しい生徒(A)がある映画のスターに抜擢されるのですが、その家庭は破産して家の抵当権を執行されるところです。これは映画を撮るということでどうにか成りそうなめどは立ちます。

しかしバレエ教室では男をめぐって熾烈な女の戦いもあるのです。これはAはあまり関知しないのですが周りはAに持っていかれるのを悔しく眺めているのです。しかし女優の美しさは変わらないんですけどね。このころの女優はみんな美しいですよ。

Aをものにするために無理やり分かれさせられた女は当然Aを憎みます。冷静に考えると女と分かれてきれいな身になってから次の女にアタックするというのでやけにいい男ではありますよね(C)。実際はかなり二股かけるやつが多いですよ。

Aに求婚する男(B)はバレエ教室で妹がAと一緒で知り合ったみたいなんです。BCは別の男で知り合い同士なんです。CBがぞっこんなのを知っているのですが、Cも遊んでみたいという気持ちがあるのです。たまんないのは周りの女。みんな男をAに持っていかれてしまいます。そしてハイキングのときに上から突き落とします。男と女Aはどちらに不幸にされるかと見ていたんですがやはり女でしたね。顔に傷を負います。

そのため、スターの座はだめ、ということは抵当権執行で家をなくし、母は自殺します。遺言で「おことさま」を訪ねろと、その人は唯一の血族だというのですが、この辺からなだれのように変な映画になっていきます。この変化はすごいですよ。この家系は平安時代からの陰陽師の家系とのこと。たぶん南朝について野に下ったんでしょう。それ以降祈りの悲報まで習得して代々引き継いできたらしい。まあなんでもありです。たとえば、自殺するんですがこの「おことさま」の血を飲むと傷もなくなり生き返り、復讐魔になるのです。しかしやさしいところもあり、昔の彼の婚約者については彼が新たに真剣に愛しているのを見て、かつ女が自分のしたことを心から後悔しているのを見て許します。愛する人が幸せになることを願うのです。しかし復讐の血がそうはさせてくれないですし、襲った後、鉄砲で撃たれて怪我をします。何か愛らしい生き物ですよ。いや化け物か。

最後は死ぬと昔の美貌を取り戻し、昔の恋人に見つけられ、多分安らかな死を迎えたのでしょう。こういうのは面白い映画だと思うんですけどね。

「ファム・ファタール」 ブライアン・デ・パルマ監督 2002年

この監督の昔の作品、良いと思うんですが投売りされてますね。これは最近では昔のテイスト復活と言われた作品です。

冒頭の黒人の話す宝石泥棒の仕方すごいですね。あれくらいの覚悟がなければだめですね。そして「蛇女」の宝石とカメラマンの冒頭の女、BGMは坂本龍一さんの音楽。会場は「イースト・ウェスト」の試写会場。この映画が何か意味あるんでしょうね。

とにかく略奪のシーンの素晴らしさ、なんともいえない。あの黒人が失敗するところもいいですね。あのモデルはレズなんでしょうか。とにかく一応は進行できました。まる。

 しかし今回の映画はこの監督にしては美人は出てくるし、映像もきれいだし、音楽もいいしずいぶんと映画がきれいになりました。本当にきれいな映画です。どちらかというとこの監督女優はあまり美人ではない人が多かったと思います。

冒頭の女(A)とします、Aが報復としてホテルの内部バルコニーで投げられたとき下にクッションがあり助かったのがひとつの転換期でしょう。あの目、「フューリー」みたいですよ。だいたい教会で母親に会うのが、ちょっと待てよ、逃がしてやれよ、と応援している自分に気がつくのです。それが裏切られるのですがね。楽しいですよ。裏切られ方。

7年後の人生、再会。普通の人生のほうが良かったのにねえ。3つの糸が錯綜しますねえ。

7年間で復帰した裏切られた男。またパリです。

今回の映画で感じているのは「ヒント」の数がすごく多いということです。ですから楽しみながら監督の作った話を楽しむという趣向になっているのです。ですから深く考えないで何でもあり、と思っているとよいでしょう。

私はフランス語はほとんど知らないのですが「SEX SHOP」とかは英語そのままの看板でいいのでしょうか?日本でも日本語あるのでフランスでもフランス語があると思うのですが。まあいいか。

しかしAはかなりいかれた女ですね。パパラッチ(B)もたじたじです。夫なんてチョろいものでしょう。Aの目的はどこにあるのか。とにかく途中1本の糸は切れたままというのが怖い。そう冒頭の犯罪で裏切られて刑務所に行った男たちです。Bを利用してこいつらを殺そうとしているのでしょう。ではBは?

逆にやられてしまうシナリオが完成。そしてセーヌ川に落ちていく。

さて本筋。

身代わりになった女が自殺しようとしております。今度は水槽の水もこぼれてません。何かが違う今回のシーン。現実なんでしょう。

いい女ジャン。と思うようなことをしてくれてますね。その徳の分だけハッピーになれました。パパラッチは相手しないほうが賢明でしょう。

いろいろな別テイクのエンディングがありそうな映画でした。面白いけど、なにかすっきりしない感じもするのです。

 

「バウンス・KOギャル」 原田眞人監督 1997年

このときに高校卒業した女の子バイトで雇ったことあります。98年に大学一年生でしたので間違いないですよね。そう考えると意外と身近で怖い感じはします。あと場所柄毎日店の前を高校生が通学しているので複雑な感じもします。

産婦人科で高校生がずうずうしく待っていると男に付き添われた女がぶりっ子しています。そこに痛烈なひと言「だったらやるな」正論です。そのあとも爆弾発言が連続。「年に何回エッチしているかわからないですよ、うちの両親なんか」「遊び方とか教えてあげようと思うのです」「貯金なんかも私のほうがあるみたいだし」なにか涙出てくるような笑えるシーンです。親の立場ない。私も感じるのですが、最近男が妙に家庭に入り込んで気持ち悪いです。有休使って幼稚園の運動会はないだろう、と思いますけど。こういう親は馬鹿にされます。

この映画私には大うけ。爆発しますね発言。「援助交際の売り、とかは心とか体が余裕あるうちにやっておいたほうがいいよ」と女友達を誘っているシーンなんかぶっ飛んでます。論理を超越した説得力があるのがおかしい。この世代は今20台半ばくらい、怖いですね。

風俗の経営者に役所が扮するのですがまずは高校生を買います。そしてホテルに連れ込んで値段聞きます。「下なしで10万円」役所のせりふ私と同じこと考えてます。「世の中なめているのか」瞬間私も呆然としました。役所は自分の商売が落ち込んでいて自由に援助交際されているのが気に入らないらしい。しかしその高校生、その日に子供おろして来たばかり。「今までにやり逃げ,3回、怖いのは今回が初めて」こう聞いているほうが怖くなってきます。体が痛くなってきます。現実にあるんですかね。

次のショック。渋谷でナンパを振り切ったまじめな学生(これナンパも大変だなあと思ってみていたんですが)後つけられるんですよ、これで階段あがっていってばれちゃうじゃん、と思っていたら下着売りに来ているんです。もうだめだ、唖然としてきた。店員が桃井かおりなんですがいくらつける、といわれると高校生のほうがあせっているんです。そして次に生脱ぎしてみる?といわれてそこで脱いでみて、それ売るから、といわれます。買う人いるんですよね。お金の使い方間違っていると思う。すごいお金になってしまいました。そのまま泥沼に入りそうです。痛い映画ですね。気持ちが痛い。

そして先ほど脅された生徒が仲間のところに戻ってきて会話に加わるのですが、私もなに言っているか判らなくなってしまってます。いちいち意味追っていたら疲れます。

あとはあのナンパやろうが年相応でいい恋人になる、風俗営業はそれ相応の人間が勤める、高校生は勉強、というくらいになるんじゃないでしょうかね。この路線にならないことだけを書いて見ます。すべてが危なっかしくて見ていて疲れます。

役所が風俗経営者として「なぜカラオケ付き合うだけで10万円になるんだよ」と訊きます。「常識ある大人が少なくなったからじゃないですか」「若いことお友達になりたい男が多いです」と答えになっていないんですが、できるだけお金とりたいのでいくらなら取れそうか考えていくうちに10万になったという意味でしょう。でも本当に10万払う人いたんですかね。10万円ですよ。うちのお客様で来てくれないですかね。年間飲み放題でもいいです。でも背景に「日債銀」があるので金融小恐慌の前ですね。それで相場が高いんだ。納得。

風俗経営者と先ほど脅された女の友人がお金取り返しに来て信頼関係ができ、情報をもらうということになりました。しかしカラオケはつき合わせていただきます。と仁義はわきまえてます。歌う歌は「インターナショナル」この歌知っている人には若い子はわからないですよ。

OK.予想どうりに大体なりました。うまく恋愛はめどがつくし、親友関係はできるし、風俗営業も仁義をわきまえたものになった。救いがここにありました。頭にきたといってこうならなければ許さない、といったとおりにほぼなったのにはおどろきましたがそうなるでしょう。日本人はまだ大丈夫だと思います。これからまtが物作り、働き蜂でかつ独創性を持って盛り立てましょう。友情は一番重要なものです。そして信頼は金では買えません。

最後にうまく完結するので面白かったです。ちょっと言葉足りないのですが、観てみる価値はあると思います。

「八月の狂詩曲」黒澤明監督 1991年

今回改めて感じたのは、黒澤監督の映画というのは、面白いつまらない、という問題よりも、まじめな真摯な態度が画面いっぱいに広がっている映画だということです。ちょっとの揺らぎもなく、遊びというか、変な下心のあるような映画ではないということです。

舞台は長崎、良い町です。旅をした気分で見てました。

浦上天主堂、懐かしい思い出があります。この辺の町並みもちょっと狭い路地が多いのですが歩くと楽しいですよね。子供たちに原爆のあとを学習させるように歩かせるというのもまじめな態度が出ております。子役に「おばあちゃん、アメリカに行かないよ。原爆落としておじいちゃん殺された国に行かない」というようなせりふがあるんですね。逆に見ているこちらがどきっ、とする言葉です。

「雷が落ちて心中した二本の杉の木」の話を聞かせれても子供たちは都会っ子、ましてや生活スタイルは欧米様式、夜の怖さ、自然の恐怖は知りません。基本はこの自然の恐怖にあると思うのです。そして人間のいろいろな意識の衝突や出会いをさまざまな人でいろいろな角度から描写することで夏の彼岸前後の出来事をまとめて見た感じの映画なんですね。それも原爆でアメリカと縁ができた(良いことも悪いこともありますが)老人の女性の一生の思い出がつづられる感じで関係ないようでひとりの日本人の戦後の生き方、さらに戦後を問わず日本人の女性の感じ方をうまく子供たちを使って描いております。

子供たちはアメリカに行っても原爆のことなど言わなかったんですが、孫たちは数日おばあちゃんと一緒に生活して少しずつ田舎ののどかな自然と密着した暮らしがわかってきたのです。すると外国と交流なんかないところでアメリカに対する印象は意外と原爆だけなのにいつの間にか意識に刷り込まれるようになっているのです。孫たちの「今日の晩御飯ご馳走だったのに楽しくなかったね」「大人の話が面白くなかったのさ」という孫たちの会話は、最高のシーンですよ。そして親たちの会話のシーンがあるのですが、黒澤監督には珍しい、冗談のシーンですね。私は始めてみるような気がします。

そして子供たちが良い気になっているときにおばあちゃんも孫も原爆を忘れないというのです。この映画の最大のテーマだと思う世代間の良識の伝達です。さらに人種間の伝達もうまくいくでしょう。それは生き方を人は見ているのです。おばあちゃんにはしっかりとした生き方がありました。いや、本当に良い映画ですよ。黒澤監督は「乱」以降一切見ておりませんでした。これも付録の感じで一番つまんなそうなので(ほかのタイトル「白痴」「醜聞」なので、どちらも女優がいいから内容もさることながら楽しみでした)先に見たのですが、良い映画ですね。小泉監督が「阿弥陀堂だより」作るのわかる気持ちがします。

多分原作がいいのでしょうが、アメリカ人と孫たちが原爆の落ちた学校で会うシーンは最高ですね。こんな展開考えても見なかった。

「あの世であって一緒になりましょう」まるで「大霊界」の展開です。おばあちゃんと縁側のシーンとかわざとらしいとは思うのですが、ほのぼのしております。滝のシーンも良いし、そこで父の訃報を聞くという展開。そして帰ってきたら夕日さす居間でおばあちゃんが兄貴にわびている様子。年月を経ての再会ができなかった無念さ。すべて良いですよ。思いが入っているので無念さが増すのです。

「幽体分離」するシーンを象徴的に描いてますがこの辺は監督うまい。孫たちが間に合うかどうか、とはらはらしながらシューベルトが流れます。なぜシューベルトか、わからないのですが、それは薔薇がおばあちゃんだからでしょう。「野中のバラ」これはおばあちゃん。これで8月9日の日に孫が見たようにおばあちゃんはあの世でおじいちゃんに出会えるでしょう。

 

うん、この映画は孫が一番早く人間の本質をわかったというのが本当にいい。

「はるかな旅・日本人1」NHK 2002年

マンモスハンター、シベリアからの旅立ち

これ良い特集です。私はテレビを持っていないのでDVDで初めて知りました。

いきなりモデルの人の顔のタイプから、日本人の顔のタイプが北方からオセアニア、澪波中国まだ広がることがわかった、と始まるのです。昔アメリカ人のお客様と議論していたのですが、優秀なる人材は混血の中から生まれるということで終わりました。そのときアメリカ人が日本人も混血だと言ったのが鮮明に思い出されます。

とにかくブリヤート人の映像を見ただけで唖然とします。似ている。2万3千年前のマリタ遺跡。グレートジャーニーの亜流でシベリアを目指した人々。その理由は夏の間に出来るオアシスのような環境。その環境を好むマンモス、マンモスを捕まえ生活する狩猟民族。

そして氷河時代の最寒冷時代に今までの環境と同じ環境に移動、すなわち緯度の低い地帯への移動。その中の流れに樺太から北海道の流れがある。といわれると頷くしかない。

そして津軽平野も凍って渡れるようになる。そして本州に移る。ということで2万年以前前には日本には人類は存在しなかったらしい。このころは針葉樹でマンモスなどの獣が散在。狩猟民族。

しかしその後すぐに始まる温暖化。広葉樹林に変化。さらには水面の上昇により大陸と切り離される。この草原から森林化の変化は大型獣の狩りつくし、食糧不足を生む。ここで土器の発明と木の実の料理(火を使い食べやすくする)の可能性。ドラマが出来てから500年くらいとしましょう。映画が出来てから100年、そんなのかわいいよ、と言わんばかりのドラマがありましたね。生きていくということはこういうことなんでしょう。この煮炊きする土器の発明によって定住生活、すなわち縄文時代が1万年続く。素晴らしい。

「薔薇の葬列」松本俊夫監督
これは期待してみたんですが(一度観てみたかった映画でした)はっきり駄作です。
すべてが中途半端。もともと「ゲイ」の映画ですのでゲイが美男子でなければ見るに耐えないのですが、ピーター(すごい美男子という触れ込みですが)ブスですね。
そして中途半端な権力への抵抗を描くのですが、これも時代を感じますが今ではもっと過激な映像があるので「おまえこんなことしていていいのか」と私は監督に言いたくなるくらい、初歩的なテクニックばかりです。
エディプスコンプレックスの表現で家族写真の父親のところを焼くなんてストレートすぎるし、映画を劇中で作っているのですが彼らがマリファナとか言っているのですが、存在自体がドラッグではないんです。今では逆に薬はやっていない品行方正な子がやっていたりする時代でしょう。
時代を割り引いても、ちょっとダサい。
しかし街の風景は良いですね。懐かしい風景というか日本はこんなに変わったんだ、と思うくらいに違います。そして人と触れ合うこと、外に出ることが時間つぶしになっていた時代ですね。オタク、文化というより外で仲間と出会っていた(どんな仲間でのいいのですが)時代だと思います。
今は活発な人もインターネットはやっているし(インターネットというだけで本当はオタクだと思ってます)DVDで映画を家で見ているしまさに日本人、世界の先進各国総オタク状態ですよ。私は商売柄、この流れをどうにか変えたいのですが、もう無理みたいです。
また快適に引き込もる商品が売れてますからね。液晶テレビ、CS,DVD,PC、インターネット、ADSLなどなどです。そして外に出るときは車。世間を見ていて思うのですが、車を買って乗っている人くらいしか消費していない感じがしております。いわゆる、クルマを買える人は勝ち組み、この人たちが車でいける駐車場のある施設で歩かずに雨に濡れずに買い物食事をして、その中ですれ違う人々との関係のみでまた家に帰ってDVD,インターネットというライフスタイルです。
その点、この映画の人たちはお金の使い方も派手ですし、無駄な使い方です。こういうのは大好きですね。そして、外に出て実際に人と会う、または出会う、という人間の出会いふれあいの基本を確実に行なっております。
しかしポスターになっているシーンはさすがに良いですね。あのイメージで観るとひどい目に会うことは間違いなし。あとは何も言うことなし、という程度。

「バレット・バレエ」塚本晋也監督 1998年

「晴れ、ときどき殺人」の井筒つながりで観てます。この監督、あのチャカ売ったやくざの役ですよね。太ったのかなあ。ほかに井筒監督の昔の面影がある人がいないので多分そうでしょう。かなりの脇役です。

しかし感じたのは、時代がぜんぜん違うということ。たかだか14年しかこの2本の映画は製作年が違わないのですが、中で出てくる人間は100年くらい違うような印象を受けます。あと、感じたのは角川映画は渡辺典子を主役に持ってくるシステムでしたが、この映画なんて主役のイメージがあってそのイメージに合う女優を探しているんですよ。真野きりな、ですね。演技はしゃべらせないのでばれないのですが、その存在感は断然違います。井筒監督は昔の人ですね、表現がかわいいですもの。塚本監督は今の監督で、ばっさばっさと暴力シーンが出てきます。

まず主人公の付き合っていた女が自殺します。死ぬ前に「このまま、子供作っても、その子供が私たちの絆ねえ」といって子供がいなければどこかに飛んで行きそうというのです。まあ愛していないんです。しかし主人公Aは彼女がどうやって自殺用のけん銃を手に入れたか不思議でなりません。実際にけん銃を買おうとしますがどこにも売っていないんです。やくざや黒人など風俗の立ちんぼなどに聞いても知らないというばかり。誰かわからない人ですし(サラリーマン風なので相手にされない)実際に売るほど銃を持っている人は少ないのでしょう。そしてエンジニアの特性を生かして銃を作る努力を始めます。銃専門のインターネットのフォーラムに顔を出すようになり、部品を街の工場に行って小口で作ってもらいます。仕事が多分大会社のSEなので給料はいいでしょうし、自分自身もやけになっているので、銃を手に入れることに関しては予算制約がないのでしょう。出来たものをもって不良の溜まり場に行きますが、それはその不良たちの中で、決まっている女を抱きたいからです。ですからその女の行動がどうも気になるんですよ。そして女にけん銃を向けて抱こうとしますが、なにかAは話のほうがいいみたいで話していると女の仲間が助けに来てその仲間にAは作った銃を撃つのですが、さすがに球は飛び出ますが威力なくぼこぼこに殴られます。これで2回目のぼこぼこに殴られるシーンです。この女は刹那的でいつ死んでもいいような死に場所を探しているんですよ。そしてこの不良のボスで溜まり場のバーのマスターの女でもあるんです。

この不良グループは最近のしてきたZ不良グループに対抗してZをぶっ潰す計画を立てます。そして決闘のとき、不意打ちをかけて優勢に進めますが、女は追い込まれてもただ立ち尽くすだけで殺してくれ、といわんばかりで、Aも心配で銃を結婚を条件に中国人からもらって駆けつけます。ここでもこの女を助けるのです。この喧嘩はAのけん銃でかなり助かったはずです。Aはこの女(Bとする)が死にたいと前日FAXが来て知るのです。ですから会社も休んで駆けつけるという入れ込み方です。すでにこの辺で話はどうでも良くなるくらいにごちゃごちゃしてきますね。でも簡単なことは、東京という街を表現しているんだと思うとぜんぜん苦にならないしわかりやすいんです。「高速の下の浮浪者、殺して来いよ、くさくてたまらない」というせりふもわかりやすい。けん銃とられているんですよん。彼らに。出入りで最終的に倒れて、しかし味方してくれたし、家まで送ってくれてけん銃だけ取られたんですね。そこにBから電話でけん銃を使う現場をAに教えます。Bも気があるのです。Aはけん銃を取り返しに向かいますが、近くにいたBAが出かけたときにAの家に入り込みます。しかしけん銃は使われました。それはボクサーに対して撃たれたのです。その撃った奴は以前、そのボクサーをかつあげしようとしてぼこぼこにされて友達になったのでした。そいつを撃ったのです。部屋に帰ってみるとBは消えていて、その香りだけが残っています。本当にこの映画簡単なんですよ、東京という街を知っていればそのカオスそのものなんです。人種が入り乱れ、デザインのちんぷんかんぷんな街の景観、他人のことに興味のない振りをする通行者、時間が足りない人間たち、急ぎすぎて人間関係を忘れた人々、本当にこの映画そのものです。

そこで何者かが逆に、この不良グループのものを殺して行きます。アジトを攻められるのも時間の問題というときに女Bはけん銃をAに返しに来て、「筋違いだけど、助けてくれるか」と頼みます。頼まれて断れないでしょう。とにかく死んでもいいと思っているやつは味方につけるべきですもん。誰かに殺してもらいたいという奴ほど生き残って、街のリズム、東京とは違うリズムを持ってしまいます。ほとんどの人は忙しい振りしているだけで死にたくないのですから当然ですね。

今度の相手はやくざの刺客ですね。どんどん仲間が死んでいきます。ボスも死に、Bともうひとりボクサーを撃った男が残るのですが、ここでもAはわき腹を撃たれても助けに行きます。刺客を撃ち、ともに弾がなくなるまで撃ち合います。そのためBたちは殴られてすんでしまい、また生きてしまいます。ボクサーを撃った男はもう反省しきり泣きつくすだけで前へ進むことが出来ません。しかしABはお互いに死ねなかったので、別れてお互いの生活に戻ります。一緒になってもいいのでしょうがお互いに殺してもらうだけの人生ですから別れるのでしょう。しかし街の静かな様子とは裏腹に歩き出すとだんだん元気になってしまいには走り出すのです。死ぬ覚悟が出来ているから生きているときが充実してしまうんですね。死ぬことを恐れて、事件などにかかわりを持ちたくない避けてばかりの人生ですと死と隣り合わせの充実感は味わえないのでしょう。結局これが彼らの麻薬だったのです。Aの妻は先ほどのように先が見えている人生を嘆いていたくらいですので自殺しかなかったのです。もっと燃えた人生を、危険に飛び込み生きている実感を、そうすれば死なないものだ。人間そんなに弱く出来ていない、というメッセージが聞こえてきそうな映画でした。私は好きだな、こういう映画。しかし男女関係はもっと描いてもいいのでは?たとえば性の陶酔感とかね。

 

「はるかな旅・日本人2」NHK 2002年

巨大噴火に消えた黒潮の民

鹿児島の上野原遺跡の9500年前の様子。鬼界カルデラから出てきたつぼ型土器、定住集落のあと。時代が早いです。実はこの遺跡知りませんでした。食べ物は、炉で蒸したり燻製を作ったり。おいしそうですね。基本的に土地の所有権なんてないからおいしいところに人はあつまります。また紋様が貝殻なので海とつながりが深いこと。それは北から来た人々がマンモスとつながりが強かったことと同じです。

そして沖縄(ここも日本というのは良いですね)で見つかった港川人(日本最古の人骨、氷河期末期)の頭蓋骨の形状が南方(インドネシアのジャワ島)のワジャク人と似ていて中国大陸系の形でないこと。なぜここに住んでいたのか?それは氷河期住みやすかったから。そして氷河期はジャワ島付近は島が連なる大陸だったのです。(スンダランド)

しかしご多分に漏れず、氷河期が終わるとまた島々に戻ります。そして人口密度が高いので海に出ていかなければならないのです。必要性アプローチの結果人類で一番最初に航海術を取得しました。ユーラシア大陸の人々は自分の大陸がなくなってしまうという必要性アプローチがなかったのです。その一部はフィリピンにたどり着いて、いまでもある種族のDNAを検査するとホモサピエンスに近い値が出てきます。そのフィリピンから5000キロにわたって流れる黒潮がこのような人類を沖縄まで運んだということ。この黒潮は世界最大級の海流ということです。日本は恵まれた条件がそろってますね。かつおなどもこの海流で運ばれます。そして12000年前黒潮の流れがより日本列島沿いに北上します。そして九州にたどり着きます。そしてそれに伴い照葉樹の森が広がります。そこからはマテバシイやヤマモモなどあく抜きしないで食料となるものがたくさん取れたのです。そのことが定住生活につながります。

しかし鬼界カルデラの噴火。俊寛が流されたところあたりですね。やはり意味があるのですね。6300年前の噴火で全滅しましたがその前に黒潮の流れに沿うように文化や人の移動が行われていたのです。それは高知、和歌山そして東京まで及びます。そして混ざり合い、縄文人の土台が出来上がっていくのです。そうですね、マンモスハンターすなわち北の人々と、黒潮の民が混ざり合い縄文人が形成されていくのです。大きな混血です。

 

「はるかな旅・日本人3」NHK 2002年

海が育てた森の王国

縄文時代13000年前から2300年前まで、詳しくは覚えていなかったです。きっかけが始まりと終わりにあるのでしょう。キーワードは「森、定住、集落生活」です。ここに日本人のルーツがあるらしいです。落葉広葉樹における移動生活から定住生活へ。それは8000年前くらいの黒潮の流れの分流が「対馬暖流」が日本海に流れ込んだから、(温暖性)広葉樹、照葉樹において定住可能性が広がったのです。しかし黒潮と対馬暖流の流れているところルートで追うと魚がおいしいところが多いですね。逆に親潮が降りてくるところに寒いところの魚が多いです。ちょうど大洗沖で黒潮が向きを変えるのですがそこには親潮の影響のアンコウ鍋などがありますものね。シベリアからの寒波とぶつかり上昇気流の発生、山岳地帯での雪。太平洋側での雨という水分豊かな国の誕生。四季の季節感の誕生です。磨製石斧が鉄のかわりに斧の役割をします。そして定住の住まいもまた森の木から作ることとなります。定住生活が長くなると分業などの生産性の向上を図ります。5500年前の三内丸山の大規模集落などです。ぶななどの伐採とともに栗の栽培を行い食生活の安定を図ったのです。この栽培ということは必用なものをいつでも手に入れることができるということで漆なども栽培すれば装飾として利用できるのです。そして交易の実施(海の近くの集落、港の意味がある)。日本海中心に糸魚川、佐渡、十勝などです。大規模集落も日本海中心に点在。これは対馬暖流が今よりも勢いがあったから交易の移動手段で迅速に交易できたため。気温が高かったというのは青森に行ったときに聞きましたがそのため海水面が高く海の部分が大きいため、海流の勢いが強かったのでしょう。太平洋側は?親潮があるから移動のハイウェイはフィリピンから日本には早かったのですが、日本国内ではうまく利用されなかったのでしょう。しかし4000年前に気温に低下とともにこの大規模集落は衰退。根拠は繁栄の元は栗の栽培でしたのでその交易手段たる栗ができなくなったからです。そしてこの寒冷化によって日本は平野ができます。地図を見るとわかりますが、今よりも海面が高いと日本は平野はほとんどなく、海と山しかないですよね。平野は最後の温度低下で今の温度になったときに最終的に形成されたんですね。そして山を背景に平野で共同生活を営むようになって今の生活の原型ができてくるのです。

 

「バチ当たり修道院の最後」ペドロ・アルモドバル監督 1989年 スペイン

また映画で欧州旅行の感があります。

この監督は最近の作風がまったく変わってきており、昔の作品に興味がありました。

まず断っておかなければならないことは、この作品でさえ私は良いと思います。なぜか、下層の困ってもがんばって生きていく人たちを描いているからではないでしょうか。音楽もはじめからゆっくりのテンポにリズムをベースで強く刻むラテン調ですし、場末の女もたくさん見ているので彼女たちの哀れみ(と周りは思うでしょうが、実はすごく元気)もかなりわかっているのですごくわかりやすい映画です。人生とか愛とか悩む前に食べて寝るということですからわかりにくいことはないのです。

途中、修道女が現れる前に映画の「陽は沈み、陽は昇る」の音楽が入るのですがそんな生活ですよ。これ本当。

とにかくちょっと怪しい修道院に、生活に疲れた水商売の女(A)がやってきます。とりあえず、有名人というきあ歌手みたいですが画面見ていると生活感がにじみ出てます。
この修道院をAとともに立て直す計画を立てているのです。それには遊びが必要なのでしょう。ビルヒニア(公爵の娘)の使っていた部屋に入れられて、ヘロインで落ち着かされます。起きてみると虎とか飼っているのに気づくのですが居心地が良い。なぜなら修道女はお金を寄付してもらうための仮面で生活さえできれば、エロ本は読むし酒、ヘロインとやり放題なんです。まあ魅力的に移りますよね。では寄付をどうするかです。

とにかく歌手が手に入ったことは間違いないのです。そして普通の生活でも歌を急に歌うようなミュージカル仕立ての映画になります。この歌も良いし、けばけばしい雰囲気も慣れているせいか、まったく違和感なく意外と楽しんでみております。こういう映画は楽しくて良いと思うけどなあ。

ミサも何かおかしいこというのです。「ブロンドのイブに始まる原罪」についてはここでも出てきます。この国も厳格なるカトリックの国でスモンね。しかし祭壇には黒いマリア様はいないのです。宗派が違うのか?

まあいろいろとあってマドレがふさぎこんでいるとAが慰めのために歌を歌うことになります。このころはもう静かな生活になじんでいるのですよ。環境が人を変えるとはこのことですね。楽しいショーでしたよ。修道女たちが演奏してサルサっぽい歌を歌いました。それが院長の怒りに触れ、この修道院を手放すことになるのです。しかしショーを伯爵夫人は気に入ってくれました。修道女の中に匿名で小説を書いていたものもいたのですが、その本当のことを打ち明けるとまたまた気に入ってくれるのです。そして院長に対してマドレは「ローマ法王には従います」と突っぱねて、麻薬の運び屋をやります。尼さんなら疑われないだろうと話が来ていたのです。そして行こうとした前の日Aにお礼を言いに行くとAは消えていました。そして、みんながまた悲しい孤独と直面しなくてはならなくなったのです。特にマドレ。ほかの人はマドレが救いの相手となるのですがマドレはAを頼りたかったのです。

「愛したいときには人はいない」ということですね。やっぱり修道院はつまらないのでしょう。しかし麻薬で入ったお金でどんな施設ができるか見てみたかったです。それは伯爵夫人のところで楽しいときが進行していることと思います。修道院の形にこだわった分小説家と歌手はいなくなったのです。

これ面白いですよ。

 

「パトリシアの夏」ジギ・ゲッツ監督 1977年 

昨日に続き70年代の青春物です。70年代はこの頃はベトナム戦争が終わり、まだ冷戦状態でドイツが二つあり、性に関してはエイズ元年(私が勝手にそう呼んでいるのですが、81年あたり)の前で性的にもかなり乱れております。明らかに80年代中ごろから性表現はエイズ抜きでは映画は出来てません。そしてどんな人でもインターネット、携帯電話を利用していない時代です。かつ、この時代はまだCDもないので複製可能性のパッケージ商品も少ないと思います。これだけでかなり映画自体が違うのです。ファショんが違う、車が違うといっても基本は同じです。コミュニケーションの範囲と手段が違うのです。

話はないようなものです。ギリシャからドイツに勉強に行く予定の女学生が親をだましてギリシャで奔放に遊びまくるという話です。「フリーセックス」信望者たちがエイズ以降かなり恐怖に陥ったと思うのです。特にドラッグ、ホモセクシュアルも関係していると60年後半からの性的解放はエイズへと向かうのです。ここでも「もっと性の解放を」なんていう主人公の話が出てきます。今のアメリカ映画の若者向けもこれないんですよね。

エーゲ海、ドラッグ、フリーセックス、ジプシーダンス、ロック、ディスコこんな感じの映画でしょうか。まあよくあったタイプの映画です。しかし、はじめてみましたが良くできている方だと思います。簡単に夏休み冒険旅行をして遊びほうけていろいろな男と知り合いになるけど、その中に本命がいたというわけです。しかし向こうは遊ばれていると思って離れていく、そうなると惜しい思いが募って追いかける。そして、お互いに本当の相手を見つける。それだけです。出ている俳優、女優も男優も意外とキュート、美男子なので見ている分には退屈しないかもしれません。しかし時代は感じます。上のような時代だったということです。裸が多いのは注意してください。嫌いな方は合わないかも。

「晴れ、ときどき殺人」 井筒和幸監督 1984年

この監督の映画最近続いてます。「がき帝国」は面白かったのですが、この映画はどうなんでしょう。角川映画と赤川次郎という組み合わせは実はほとんど見ていないのです。最近中古が安かったのでかなりまとめて買ってしまいました。それで先日の「時をかける少女」以来すぐに見ています。

今思ったのですが、渡辺典子は誰もがあの子に似ているなあ、と思い浮かべることが出来る女の子ではないでしょうか?実際に私も、ある人に似ていると思っていてその人は美人だったんだあ、なんて美的感覚のないことを思いながら見てました。さらに男の太川陽介も友人に似ていると思いました。そんな平凡な感じの中、せりふがたどたどしい、俳優がたくさん出てきますし、なんというか渡辺典子にいたっては間違えそうなところをわざと狙って撮っている感じもします。内容はかなり昔の人しかわからないようなせりふも多いので、今の若い人はわからないかもしれませんし、どっってことはない内容です。殺人事件が犯人は誰か、これがのほほんとして捜査も進み、誰も怖くなく、進行していくだけですね。しかしこの主役のふたりの魅力は今になって気づきました。かわいいし、男は素直でいいですよ。見ていてかわいいふたりです。あと意外といいテンポで、冗談ぽく進行するので本当に気楽に楽しめます。出ている役者は二世代前ですので今とはかなり違い人ばかりですね。そんなところも面白い比較です。この監督はかなり角川映画という枠で使える俳優もかなり選べて、自由に撮った印象があります。音楽は宇崎竜童ですがさすがにこの歌は聞いたことのある歌でした。角川映画は最近投売りに近い値段で売っているのでかなり買って観ているのですが、昔の俳優と今まだ活躍している人たちがごった煮で面白い位置づけですね。ちょうど邦画が停滞していたのかな。この数年後に塚本監督も出てきますよね。このころ「電信小僧」撮っていたのかなあと思うと面白いことです。のちにこの監督は俳優として塚本監督の「バレット・バレエ」に出ているんですよ。次にこれ観たくなったなあ。

最後に犯人は想像しませんでした。ミステリーだったんですね。面白かったなあ。ETのパクリも今となっては何も感じません。当時は批判受けてそうですね。しかしPCは20年前は古かったですね。あそこで道を間違えていなければ、日本企業はかなり支配力があったと思います。半導体でインテルに負けるなんてこのときは想像もしなかったです。時代を感じさせてくれました。

 

「ピラニア」ジョー・ダンテ監督 1978年 アメリカ

最近、まったく見なかったジャンルのホラー映画にはまってます。なんといっても短くて気軽なのがいいですね。このタイプの映画は間違っても2時間越えません。ジョーズとかエクソシストみたいな大作は超えているかもしれませんが、この映画も90分。

そしてなんといってもわかりやすい。キャンプに出かけてカップルが地図にない施設を見つけて入ってしまった。そうしたらプールがあって泳ごうとなる。そこに、この映画の題名の魚が。笑うくらいにわかりやすい。ここまで2分くらいです。

そして捜索の依頼、その探偵がまた女と来ているからわかりやすい。そして強引に男と出会う。笑っちゃいます。第二のカップル誕生。そして真相解明です。あの立ち入り禁止は軍の施設で今は使われていないものでした。入ってみるとやはり死んだ女の痕跡が。だってあの俳優ちょっとしか出ないのですが強引に脱いで泳いでいましたもん。何か落としてもおかしくないです。そして施設の中に入っていくと、驚きます。なにがってかわいい動くミニ恐竜がいるのです。特撮なんでしょうがCGではない時代ですよね。これは期待以上のかわいい動物です。そして怪しいので、プールの水を抜こうとすると怪しい男が襲い掛かってきます。てっきり怪しいやつがいたと思ったら、事実を知っている人間だったのです。しかし二人にやられて、失神している間にプールの水が抜かれます。死体とたくさんのピラニアが出てくると思ったら死体だけ。水は川に流れるようになっていたのです。期待を裏切ったと思ったら期待通りに戻ったり揺らぎがあって最終的な結論に向かう本当に楽しい映画です。見ているものは次にどうなるのか、と予想しながら見るんですよね。だから気軽なんでしょう。頭まるっきり使わない映画です。このタイプの映画というのは疲れたときにいいですね。川があって移動に筏というので「ハックルベリーフィン」と同じだと思っているとせりふでも期待通りに出てくるんですね。

しかし、どきどきしながら見ていたんですが、やはり子供も襲われました。実は子供が襲われそうな前フリはあったんですが子供が犠牲になる映画はよくないと思っていたのです。でもこの時代はまだよかったみたいですね。今じゃやばいでしょう。塩水でも生きていけるピラニアだったので海を目指して広がって行きます。まあもともと武器として作っているんで死なすことが難しいのです。まあ廃液を使って全滅させたということになってますが、海に出たピラニアもいるのでしょう、という暗示で終わります。なにかご都合主義的な感じもしますが、はじめにプールの水を抜いた女は自責の念はないのでしょうか?そこが知りたいです。

「HEAVEN」 トム・ティクヴァ監督 最近観た映画で一番良いです。何がって、ケイト・ブランシェットの存在感がすごいです。ポスターで気に入り、ジャケットで気に入り、内容も気に入るということはそれほど多くないのですがすべてを満たしてくれる私好みの映画でした。とにかく、冒頭の爆弾を持って街を闊歩するケイトの服装、雰囲気すべていいんですよ。「エリザベス」の時からかなり気に入りましたが、今回で私は好きな女優はケイトとはっきり断言できるようになりました。裏話があるのですが、「エリザベス」の時、英国人とテニスをしていて休憩のときに「エリザベス」見た?と聞いたことがあるのですが、そのとき「誰がエリザベス演じているの?」と聞かれたことがありました。「ケイト」と答えると「キュートだ」と返事されて、私は「そうかなあ、キュートかなあ?演技はうまいけどあんまり魅力ないような感じがする」と心の中で思っていました。しかし映画「エリザベス」はここ数年のベストの作品です。そして「vanity fair」の映画のスナップ特集でケイトの写真を見たのですが、なんと威風堂々としているのです。このころから私のケイトに対する見方が変わってきて今回打ちのめされました。内容は男の一目惚れと純愛、女の復讐と罪の償いと愛の芽生え、そして文字通りへブンで結ばれるのでしょう、という単純な内容です。ストーリー展開でちょっと強引なところがあるのですが、映画ですし、そんなところは目を瞑って二人の「愛」に浸りましょう。男の瞬間の一目惚れ、こういう状況がとても良いんですよ。本当に心の本質がうち響く瞬間というのがあるんです。それに対して女性のほうは「罪の意識」と「復讐の未完」とで気持ちがずたずたになるんですね。しかし男の愛情と信頼で二人して逃亡生活の賭けに出て復讐は達成されるのです。この時点で女は生きていく必要性はもうないのですが、男の愛情からうまく罪の償いができないのです。そして逃げているうちに、また愛するということを、思い出していくんですね。この辺の描写が、もうとってもいいんです。なんというか二人で逃げているシーンなんか青春真っ只中という感じで二人の距離感が素晴らしい。深く入り込んでいないんですがとても信頼しあっているんですよ。しかし二人とも瞬間に燃え上がった愛としても長く続かないことは承知なんですね。最後の方で女の友人の家に逃げ込んで、ちょっとしたつかの間に二人は結ばれるのですが、そのあとに永遠の旅立ちをして幕が閉じるのですが、終ってもしばらく呆然としておりました。燃え上がる恋の素晴らしさもそうですが、二人とも犯罪を犯しているのですが、表面では追っ手となるんですがもっと悪い奴らが出てくるんですね。それらの人に比べてこの二人は本当にピュアなんです。そこがこの作品を魅力的にしているんです。「この人と思ったら、突っ走る勇気」に乾杯したい気分です。本当に良い映画でした。

 

「北京バイオリン」 チェン・カイコー監督 2002年

予告編がよくって観てしまいました。

演技は下手です。話もありきたりで、わかっているような内容ですが、観てしまう魅力があるんです。父(A)はコック(職人というのはポイントが高い)で子供(B)が13歳のバイオリンの好きな男の子。

北京のコンクールに出ますが、寄付の額で優勝者が出るという始末。そして北京の市民でないと入学できないという状態でABに壁が襲いかかります。それにもめげずに入学させるという情熱のA.それに応えるB.ただそれだけの話です。あとは映像がきれいに決まるか、どんなエピソードを入れたかでしょう。教える教師がいい加減で、と本当にありきたりの展開で安心感があるのか落ち着いてみることが出来ます。あまりにもオーソドックスすぎる内容に拒絶感が生じる人もいるでしょう。ついでに、これは私の偏見かもしれませんが、この映画にも携帯電話が良く出てくるのですが、携帯電話はアジアの人間のほうが良く使うような気がします。うまく利用方法を確立すれば、北欧のような競争力がアジアにも付くと思うのですが。

あと近くに住んでいる女もアクセントにはなってます。物語の展開ではクレッセントですか。そして音楽を通してこの人も幸せになっていく。教師はアダージョみたいな感じです。この人も幸せになっていく。Aは転調かな。笑い。

Aは教師が教えることはないというのに、ほかの教師がいいと思うと変えようとするし、親ばかなんです。しかし田舎に出稼ぎに行くといったとき何か嫌なものは感じました。そして教師の「捨て子」仮説。言ってはいけない事だと、聞いていて背筋が寒くなったことを覚えております。しかしね、あの「5万元」をめぐってのAと女のやりとりは、なにかほっとする、実に涙が出てくるやり取りです。貧乏を経験するとわかる、思いやりをお互いに持っているのです。この辺の、捨て身の相手を思いやる考えは私は好きですね。

最後は予想しない展開になりましたが、商店街ということでは北京がすごく活気があるように映ったのは驚きました。そんなことはどうでもいいのですが、Bもまた捨て身になりましたね。正直に将来を捨てても自分を捨てなかった連中、女とはじめの教師がその場にいて親子の対面を祝福したのはすごくいいことです。

 

演歌というと馬鹿にされがちですが、その演歌の魅力がある映画だと思います。ストレートに真実を描いて照れていない部分が好きですね。

2003 11/23「バーディ」(Birdy)   アラン・パーカー監督ひょんなことから生まれる友情が一生を左右するとは、ねえ。一人は現実逃避的で内向的な若者です。彼は生き物、特に鳥が好きで育て、鳥との交流を好む変わった嗜好がある男なんですね。なぜかというと鳥は離すと飛んでいく、その鳥(鳩)のようになりたい、自分も好きなところに行きたいと心のどこかで思っているんですよ。それで鳩のことには夢中で馬鹿みたいに飛んだり跳ねたりできるんですよ。もう一人はレスリングが好きな男で、たまたま野球のボールが上の男の家によく打ち込まれるから、気になっていたのと、弟がナイフを盗まれたと嘘を言うところから、謝り知り合いになっていくんですね。この小さなきっかけが人生を左右することになるんです。二人はそれほど仲が良いという訳ではないのですが、鳥を好きな男(マシュ・モディン)があまりに鳥に夢中になるあまり馬鹿げたことをしそれに付き合っているうちに、馬鹿げたことの楽しさみたいなことを覚えていくんです。体で覚えてますねきっと。この友人役をニコラス・ケイジが扮するのですが二人とも役者はいいです。バーディはいつのまにか夢の中で空を飛ぶようになり鳥の視点で物を見ることができるという感情と夢(人間としての意識を鳥の目の位置で見るということ)がリンクしてくるんです。ちょうどそのころ二人とも別々にベトナム戦争に巻き込まれていくのですが、その戦争では二人とも悲惨な目に会います。この映画が若干反戦としてのテーマがあるといえるのでしょうが(映画の中で、「昔の戦争は英雄がいた、おれ達はカモだったんだ」という台詞に象徴されます)、中心は人間の孤独と友情、社会性の意義です。戦争でバーディの方は前線で行方不明でかすかな記憶として空を飛ぶ人間が作った爆撃機によって鳥や人間が死んでいく様をまじまじと見せ付けられていくのですね。そして何も話さないかごの鳥となっていきます、あたかもいじめられて飼い主に裏切られた小鳥のように不信感いっぱいな態度ですね。ニコラスケイジのほうは体中負傷して顔は包帯だらけ、生きる望みもなくなりつつあるのです。そして、バ−ディの精神医学の治療として昔の友人として自らも傷ついたニコラスケイジは病院に呼ばれていくのです。そこで昔を思い出しつつ、楽しかった思い出、今の自分の自信のない状況などを独り言のようにバーディに聞かせるのです。聞かせるというか一人勝手にしゃべるんですね。自ら自分自身の治療も行なっている訳です。そうして、本音を言えるようになるあたりからバーディも少しづつ反応するようになるのです。ニコラスケイジも自らを解放して飛び立ったのです。そうするとバーディももう一度飛ぼうと思うのでしょう、意識がはっきりして病院から飛び出していくという感じの話です。いわゆる友情はかけがいのないものでした。そして、何かから自分をとき放つことも大事なことなんでしょう。音楽はピーター・ガブリエル。いい音楽です。この終りのシーンは昔みたときも確かに感動すると共に次のことを思い浮かべました。この監督の場合は「ミッドナイト・エキスプレス」も同じような終わり方ですね、(これも同時に購入してます)やミロス・フォアマンの「カッコーの巣の上で」など以外と近い時期に、いい映画がたくさん作られたような気がします。

 

「ヒポクラテスたち」 大森一樹監督 1980年

はじめからヒポクラテスの説明が入ってくれて助かりました。実はあまり知りませんでした。ソクラテスは知っているのですが、ソフォクレスも知っているんですが似て非なる方です。そして懐かしい「分裂病の少女の手記」を読んでいる学生。これはもしかしてまだもっているかもしれない。文章が実存について本当に語ってますよね。聞いていて懐かしさがこみ上げてきます。もうちょっと表面的なものが「十七歳のカルテ」ですね。

そして舞台は京都の医大。学生としてのモラトリアム期間の映画です。いろいろと悩んでいる姿だけですが、医者になる人間がこれではというシーンが多いですよ。そしてかなりのテーマが産婦人科。避妊がどうのとか、確かに女性に対してかなり憧れの部分が強い年頃ですがなんか寂しいです。最近実体験として良い医者がいないので、特に外科、脳外科には進んでもらいたいです。「近代医学が患者の犠牲の下発展してきた歴史に目をつぶってはいけないと思う」そのとおりです。それに度胸。血を見るのがいやな医学生がいたのですが(知り合い)血を見なくてすむのは耳鼻咽喉科か精神科といってました。どっちになったんでしょうね。

映画に戻って小児科の先生の役って手塚治虫さんのような気がします。私の見た感じですが。映画に出るわけないですよね。リハビリの患者は鈴木清順監督のような気がするし、何か知っている顔がそこいら中にに出てきます。

しかし産婦人科に戻って「女の一生」初潮に始まり閉経に終わる3期間に分けられる。うーーん、怖い言葉です。これじゃプレッシャーですよ。映画でも堕胎したいという若い子がでてくるんですが大きな病院では堕胎はしないのでしょうか。そんなせりふが出てきますが、まったく知りませんでした。

劇中劇は「勝手にしやがれ」みたいですし、時代祭りのバイトなどのシーンもあり、何か旅行している気分もあって良いですね。

そして実習もだんだん、実用的なところに入ってきます。彼らは若いので、そのもやもやしたものを持っているのですよ、それでも人の命のかかわることをしなければならないし、白衣着ているだけで医者と見られるんです。その責任は大きいですよ。どこかでその責任を無意識に感じていると思います。私などは手術のシーンを見て、今なら医者になれると思ったくらいですが、勉強がついていきません。

映画の中で言うことが良い「見ているだけであんなに疲れるんだから手術すると疲れるだろうなあ」と。こういうのが医者になるんですよ。また人間の病気の過半数は治療方法がわかっていないらしい。勉強だけではだめということ。

そして「森永ヒ素ミルク中毒事件」のディスカッションがでてきます。なんともいえない、水俣病と公害とともに企業責任の問われる問題です。

つぎに主人公の医大生の彼女が中絶手術の後遺症みたいになり同級生の親の病院に連れ込みます。そこでは個人病院のつらさを聞かされます。こうやって、矛盾とつらさをどんどん刷り込まれていくのです。そして医者になるのでしょうが、なれない人も出てきますよね。人間の命は貴賎なく重いのです。このことがわかるまで私もかなり時間がかかりました。そしてどんなときでも離れないでそばにいることができることが愛情だと本当に若いときはわかりませんでした。しかし彼女は田舎に戻って入院します。そして二度と京都に戻ってこなかったらしい。別れ際の手紙も、必死に何かを求めているのですが、主人公はそれを言えないのです。「愛している、一緒になろう」でいいんですがねえ。しかし、田舎に引っ込むということは田舎の生活に戻るということ、都会は異常だから都会から離れたらもう戻れない感じがするというのはわかります。私も田舎に引っ込むいのはやめようと思います。

CTスキャンの開発は英国のEMIと出てくるんですがあのレコード会社みたいです。最近もEMICDDVDいまだに買っていますからそこで儲かったお金をこういう風に再投資していたんですね。賢い。

そこで出てくる言葉「ヒポクラテスシンドローム」通称医学生落ち込み症候群。恋愛については「自分にないものを相手に求めて惹かれあうのではないく、自分にないものが相手にもないということで安心しあう関係」だそうです。白衣の下に若葉マークつけたい、これから先何人の死を見ていくのだろうか?参ったな、どれだけ助けられるかがんばりたいでしょう。と思ってみてました。

きっかけができます。それは彼女が中絶手術をした医者が無免許医だったのです。そして多分、産めない体になってしまったのです。そこへ連れて行ったのは主人公でした。そして彼女の実家に電話して「結婚することにした」と勝手に言うのです。これは主人公の感受性が優先していて現実を見ていない、そして主人公が倒れると、周りの学生たちは「医者を呼びましょうか」と反射的にいうのです。この反射的にいうこと自体が医者にはまだ早いということです。すこし狂ったようになるのですが、医者にはなれないと言うことだけでしょう。医者というのは、もっと大胆に患者を診るのです。患者を助けるのは基本的に本人の意思と家族です。そこから一線を引いて患者と接するのです。しかし事務的にではないところが難しいのでしょう。

伊藤蘭ふんする女学生、入学のときの家族との写真への責任を果たさずに、自殺とは甘い。そして主人公はこの監督自身みたいですね。この監督は「風の歌を聞け」とともにこの映画のように青春ものを扱うことができる年齢のときに燃え尽きている感じがします。

同じことは長谷川監督にも言えそうですが、それでもこのように良い作品が作れるのはすごい。若いころにしかできない映画と言うのは本当にあると思います。この作品は名作だと思いますけど。

「ファンドとリス」 アレハンドロ・ホドロフスキー監督 1968年 メキシコ

リスが花をむさぼり食べていたときに戦争が起こっているんです。いくつかの都市が存在していたが最終戦争で「タール」という都市以外は滅亡する。そこからスタート。なんか「風の谷のナウシカ」みたいですね。「水を飲む鳥を見て永遠を知る」「向こうへ行けば人生とは何かわかる」しかし「タール」という都市がこの戦争に積極的に参加しているのなら、勝者なのです。「タール」の存在証明は「タール」都市以外でなされなければならないのですが、「タール」はほかの都市の存在の証明に都市の集合の変数として用いることは可能ですよね。はじめの語りで「タールに踏み入れば、ワインと水を差し出されるだろう」などと流れるので資源は豊富で、ほかにも平等などの言葉が用いられるので、勝者の理想の統治がなされているものと考えられます。こんなこといいながら私は「タール」は抽象的存在だと思っているんですがねえ。その「タール」を目指す男と女の遍歴です。「未来に近づけば近づくほど増幅されるエクスタシー」があるらしいので出発ですね。蓄音機を持って出かけるのは、音楽が荒野(「タール」以外は荒地、すなわち最終戦争の残骸がある)では調達できないからでしょう。リス(女の方)は歩けずに引き車でファンド(男)の方に引っ張って行ってもらっております。

第一幕「葉っぱに逃げ込んだ木」タールを探せ、僕の世界を見せよう、誘惑、お葬式の歌

途中、バンドの連中がアナーキーな生活をしているところにぶつかるのですが、そこで、淫らな生活や統制の取れない楽曲などに翻弄されながらも(いつもファンドはリスをないがしろにして遊びに行き、または喧嘩して飛び出してそこでもてあそばれて傷ついてリスのもとに帰ってくるのです)ふたり仲を戻します。この街の芝居小屋は幼児をもてあそぶところです。荒廃した感じのところ。荒野の楽団の演奏する音楽はジャズみたいな感じの曲で、この映画がメキシコ映画なので仕方ないでしょう。楽団は燃え上がるピアノの最中に最後の演奏が始まり、燃え尽きて楽団も踊りも終わります。そこで二人を引き止める音楽の魅力も消えていき、また放浪となるのです。

次は「タールの街はファンドの頭の中に」というシーンです。自分を信じて、花は見えたか、女たち、リス

女神像が捨てられ、その捨てた沼からはぞくぞくと人間の男女が起き上がって(生き返って)くるのです。そこから逃げて、二人は花のことで喧嘩します。そして女陰の形をした砂漠の穴にリスを捨ててファンドは立ち去ります。そして、女の支配するアマゾネスに着きますが、私も常々思うのですが、女の性欲は年取ってから男と逆転するみたいです。トランプで男取り合うゲームや、ボウリングで男を倒すゲームのシーンが出てきますね。ですから男たちは人形で遊んでいるんです。女の恐怖と男のだらしなさを見てファンドは自分にはリスがいると思い出して戻る。情けないなあ。

第三章「孤独な男には常に伴侶がいる」男たち、ファンドとリス、お恵みを、母

今度は砂漠で大量のおかまちゃんたちに出会います。ファンドにおかまの格好をさせますが似合いますねえ。性格が女っぽいからなあ。リスは男の格好。逆です。そして女たちに父の棺おけのところに案内されて、父は生き返りそのまま女と消えます。逆に母にも会うのですが殺してくれといい、殺します。そして棺おけの中に入れたら鳥が出てきて魂が飛び立つように空に飛んでいきます。この父と母はファンドの独立を示唆してます。

第4章「彼女に別れ話を切り出したら、私たちは二つの頭を持つ一つの体といわれた」俺のフィアンセ、乱心の石、俺の太鼓、君のために歌う

しかし、うまくいきそうで、ファンドはリスに歌を歌ってあげようとするのですが、その太鼓をリスが壊したと思うのです。そして激怒してリスを拷問して死なせてしまうのです。

そのとき、「タールに着いたら君の頭上には黄金の王冠、そして君は迷宮の鍵を手にする」という声が聞こえてきます。そうすなわち、「タール」は愛情のこと、慈悲の心のことです。そしてリスの死体から物を剥ごうとする連中を押しのけリスを埋葬する。そして傍でリスのことをずっと思っていると夢か、リスとファンドは裸になって森の中にかけて行きました。「鏡に映った像が色あせたとき、自由への道が切り開かれた」

やはり「タール」は愛情でしたね。しかしファンドは実際の場所と思うのです。着けるわけないんですよ。ファンドはいろいろな経験をして、リスを失って初めて愛情に気がつくのです。そして「タール」はアダムとイブの新しい楽園のことでもあるのです。ふたりにアダムとイブになる可能性があったのですが、それも不可能になりました。しかし魂はふたりで楽園に向かったはずです。結局彼らは「タール」にたどり着いたのかもしれません。お金のこと生活のことを除き、「タール」を目指しているときに両親のこと、性欲、裏切り、やさしさなどを経験したのです。まあ「タール」なんてそんなに簡単にいくこと出来ないものね。今でもあるんですよ「タール」は。世界戦争は今も終わりつつある状況です。しかし今は貨幣や交易など街の間が密接に関係しているので「タール」は見えないのかもしれません。最後に「タール」はどうでもいいところかもしれない、というのはファンドが勝手に理想と思ったところだったからです。あまり深読みしない方がこの作品にはいいのかもしれません。

最終戦争なんてはじめのところに書きましたが、舞台は確かに砂漠の岩山ですが、すべて夢物語なので間違えないようにしましょう。この監督の想像です。創造でもあるんですが。

 

「復讐するは我にあり」 今村昌平監督

いい映画だと知ってみているんでなんとも思わないですが、はじめに捕まるところから始まるのですね。仔細は忘れています。そしてまず2つの殺人を動機の提示なく見せます。表面上は売上金強盗でしょうが、そんなことで出来る殺人ではないです。

五島でのキリシタンの差別も入るあたりから、面白くなるのですが、結局、戦前、親の代から犯罪が形成されたのでしょうか。いや、親の敗北を見てぐれたという事なのでしょうが、親元から離れたという感じです。そして、別府で旅館を構えます。嫁は愛媛の春川温泉で女中をして生活してますが、嫁を迎えに父親が行きます。そこで嫁と父が抜き差しならぬ関係になり別府に戻ります。この嫁と父、息子と母という関係がすべてをおかしくさせます。しかし、ここで注目すべきは家族の中で人間関係が完結していて、「家」というものが大きく影響をしているということです。いまではもし不平があったなら、友人とか下手するとインターネットとかに逃げることが出来るのです。人間が一番怖いのは自明ですし、腐れ縁というか壊れた人間関係の中で悪態を付かれるのが一番疲れるし大変なことでしょう。そんな中、もともと犯罪歴がある主人公が立ち直るきっかけを失ったままになります。

しかし旅館で生計が立っているのがいいですね。これだけ修羅場の家庭ですと仕事に身が入らないと思うのですが、これは私の職業病かもしれません。映画の画面以外の生活まで考えてしまうんです。

後半は主人公の逃亡生活ですが、口から出まかせばかりで旅して歩いているんですが、本人の心情はまったくといっていいほど描かれておりません。その反面、実家では嫁が父と出来てます。というより、嫁が愛情の深い女なんです。倍賞美津子さんは良く演じきりましたね。またね、主人公は主人公で旅先で良い女を見つけるんです。小川真由美が演じるのですが、「どこへでも連れてって」というせりふ言うまでの流れが本当にうまい。本当に犯罪旅行になってしまいますけどね。このせりふを聞いたとき、決まったなあ、と思いました。しかし、そこからがすごい。犯人とわかって家につれて戻ります。覚悟はできたわけですが、この女の母(殺人罪で15年服役)から「人並みの暮らし」できるようになったのに壊しに来たのか「出てってくれ」と言われます。「人並みの暮らし」と言える人は苦労はしてますね。しかし、この女を殺したとき、あきらめたのでしょうが寒気がしました。何かが狂っている。映画としてもラストシーンは狂っている。あんまりいい映画でもないですね。

「プッシーキャッツ」ハリー・エルフォント監督 

これ好きな映画です。今回も初めから楽しいスタート。まあアイドルグループを作ったけど言うこと聞かないし先がないと見込んで事故死させるんですね。プロデューサー(Dとします)が。

そしてプッシーキャッツのプロモみたいな映像でスタートです。

レイチェル・リー・クック(Aとします)ベースがBドラムがC。でも実はこの映像ボウリング場の余興で誰も見ていないんですよ。しかし成功するんだから人生、「偶然」と必然の積み重ねですね。流行の最前線の消費者が楽しいの何の。見事に消費させられていきます。しかし思い当たる点もあるんですよ、マーケティング。そこでプッシーキャッツが本物として認められるだろう、ということは簡単に予想できます。しかしそんなに単純でいいのかなあ。予想通りDがアイドルの穴埋めに見つけます。しかしこの映画っていろいろな脇役がたくさん出てきます。アイドルの中には「チャリーズエンジェル」の犯人役の男、プッシーキャッツのマネジャーの彼女は「ギャラクシークエスト」のエイリアンで地球人と恋に落ちた女宇宙人、などです。みんな楽しい役の連中ばかりです。「友情が第一、バンドは2番目」とかわいい誓いを立てて、プロ用に仕上げられます。プロのメイクすればかなり違って見えることは周知ですよね。落ち目の人がいいメイクがつかなくて(つけられなくて)見るも無残な姿さらすケースは現実にかなり見てきてます。

そしてロックの中にサブリミナル効果入れて消費拡大というのは笑えます。楽しいですよ、この映画。三人ともかなりきわどい衣装がんばりました。しかし、Bは黒人なのでバンドから離れるようにサブリミナルがかかってます。そしてレコード会社の本拠地に。そこでは社長は子供のようです。マーケティングはしっかりしているんですがね。

そしてBCが離れようとしたときにAが気がつき、仕返しをすると、レコード会社の連中はみんなコンプレックスの塊をどうにか克服して性格がその過程でゆがんでしまった連中でした。しかしプッシーキャッツのメンバーは素直です。レコード会社の政略なしに自分の本心の歌を、心から歌ったら、そしてなんとコンサート会場でずっと好きだった人から愛の告白を受け、それを舞台の上で受け入れたら、ファンも本当の心の叫びに本当の愛に納得すると思います。そして本当にプッシーキャッツは旅立つのです。本当に楽しい映画です。

 

「プライベート・ソルジャー」 ジョン・アーヴィン監督 1998年

久しぶりに第二次大戦のヨーロッパ戦線を観ます。最近極東戦線ばかりで新鮮味がありますね。ノルマンディの上陸作戦の後です。バルジ大作戦とどう違うのか良くわかりませんが、面白いです。本当のことを言うとドイツ、ナチス側から描いたほうがもっと面白いのです。私たちの時代は子供の頃、まだこのような本、絵本で読んだ記憶があるのです。

まあ連合軍のほうですが、小隊を率いたAが一人生き残りかえると、大隊が危ないのですぐに新たな小隊を編成して戦ってくれといわれます。まあ当然ですが、連合軍になんで余裕がないのかわかりません。まあナチスを甘く見ていたのでしょう。

戦車が違うんですよ。タイガー戦車なんです。冷静に考えると子供のときに、ミッキーではなくて戦車の形の絵本を読んでいた私たちはまだ戦争の余波があったのでしょうか?しかし戦争はいつの時代も大将の運、配置の運、天候などの運、本当に生きるも死ぬも紙一重です。そして裏切ったやつはその場ではヒーローですが必ずあとでしっぺ返しを食います。まるっきり関係ないことですが、新兵でこの戦場に配属になるなんて運が悪いですね。ノルマンディーなら良かったのにね。ノルマンディのあと休憩できて復帰したらベルリン陥落なんて運の強い兵隊もいるのです。

この映画の戦争は連合軍が歩兵のみで、ナチスが88ミリ砲と戦車(タイガー戦車ではない)の戦いで、橋の奪取と死守の場面です。

Aのリーダーシップの浸透もひとつのテーマになってます。リーダーシップとは、その人の行動が他人に与える影響の度合いで無意識的なものを言うような気がします。そのリーダーシップがはじめは信頼を受けないのですが、だんだん浸透していくんですね。修羅場を経てわかってくるんです。

小隊のみんなが「生き抜くこと」で意見が一致したときは強い。戦車を命令なく奇襲します。そしてはじめのシーンと同じシチュエーションが生まれるのですが今度は担いでいたやつが担がれて死ぬ寸前。担いでいるのは入隊したときはどうしようもないテンポの遅い兵隊でした。ほんの数日で一流の兵隊になってました。ヒュルトゲンの森の戦いで24000人の死傷者を連合軍は出したとのこと、そしてその後にバルジの戦いになるとのこと。

ナチスもかなりの抵抗をしたんですね。

 

「プリシラ」ステファン・エリオット監督 

ゲイがバーでショーをしてもゲイバーとかでなければ、お客さんの反応はいまいちですよね。いくら楽しんでもらおうと、性を超えた魅力をヘテロな方々にだすのは難しいのです。そんなゲイの挫折をはじめに見せられ、落ち込んで仲間に電話するとパートナーが死んだとの事、憂さ晴らしに旅行(地方公演)でもというのはいい考えです。シドニーから出発するのですが、自由を求めて西に向かうのです。何かおかしいなあ。日本で関東だと、厳しさを求めて北に行くとよく言うのですが、同じような方向でアメリカ、オーストラリアは西に向かうのでしょうか。まあ東が発展したどちらかというと都会ですから、そういう発想なんでしょうか。とにかくまっすぐの道を太陽が沈む方向をめがけて突き進む旅。

 しかし、ゲイは男も女もともに言えると思うのですが、ヘテロに恋したり、または片思いのケースが多いのではないでしょうか?恋に疲れた話がいくらでもゲイの映画では出てきます。この映画でもそうです。最終的には趣味が変わっているというだけで、素直ですからうまくいくケースが多いです。よって、私の考えでは「根性のひねくれたゲイほど扱いにくいものはない」です。しかし私は当然、誰も知人でいるわけでもないですよ。

まあ砂漠の中を走るのと同じ速度でゆっくりと移動します。しかし砂漠ですから、好きなこともしながら、街に寄るたび傷つきながら進みます。しかしここでも、うちに敵あり、ゲイ同士がうまく行っていないのです。またまた、車も故障します。砂漠の中でショーの練習をしていたときにヒッピーに出会います。(しかしショーはアバの曲なんですね、意味があるんでしょうか)さらに修理屋にあって、車は治るのですがメンテナンスということで同乗します。

砂漠を走っているときは、若いゲイは屋根で「椿姫」のアリアを楽しそうに聴いているのですが、やけに砂漠がこのゲイたちを成長させるというか変化させてもいるのです。そして「都会」という孤独の中でしか生きられないということを知るのです。「孤独」でないと、周りは無視してくれないのです。これがわかっただけで十分なんですが、映画はここからひどくなります。同乗した男とゲイの一人が仲良くなるんですが、この口説き方はさすがに気持ち悪い。これ多分、テレンス・スタンプでしょう。

そして、目的地についてショーをやる前に、ゲイの一人の子供に会います。一同ショック。この辺、私も映画を見ていて意味わかりませんでしたもん。当然でしょう。ゲイに子供がいるのはおかしいんですね。

それはさらにラスト、途中で乗せた修理屋とゲイが出てきてしまい、最後にシドニーに戻らないで残って一緒に暮らすというときに、仲間のゲイが「本当か」というようなこと聞くんです。この意味がわからないことと同じです。男とうまく行くのがいけないことなんでしょうか?というよりうまく続かないと思っているんでしょう。ゲイの仲間がそう思うくらいなら私みたいなのが、この映画見ていて気持ち悪いと思うのも仕方ないかもしれません。とにかくこういう、この映画のつぼの場面でまったく登場人物の心理が理解できないので、少しかったるい映画でしたけど。

「ベン・ハー」ウィリアム・ワイラー監督 1959年

この映画は「十戒」と違い、ユダヤとローマが出てきます。エルサレムに逃げてソロモンの神殿の元、信仰は捨てていないところから始まります。ナザレ(A)がベツレヘムに行くところ。当然ローマの統治下。ひとつの流れ星が救世主の誕生を祝うかのようです。今から思うとこの映画は「ローマの休日」より新しいんですね。クリスマスに見ればよかった感じがします。「処女受胎」のシーン。確かに馬小屋です。そしていきなりタイトルのあと紀元26年になるのです。ここではカルトの一神教がはやってます。メサイアが起こると、そし預言者の元、反ローマ運動が起こると信者は信じてます。大工の息子は神は心の中にいるというのです。また大多数のユダヤ人は心の中に信仰を持ち、ローマの兵隊は皇帝に誓いを立てているのです。ずいぶんと異なるわけです。「道を作って兵の移動」でローマは中心として流通でも栄えるのです。そして栄えるところに文化あり。花の都になっていきますね。

ジュダ・ベン・ハー(B)の旧友メッサラはローマの司令官(C)としてエルサレムに戻ってきます。しかしローマに反抗するものを密告せよ、ということでBCの友情は壊れます。そのときちょうどBの部下に当たるものが娘(E)の結婚の許しを受けに、まあお披露目です、Bのところに来ます。Bは愛される人柄、それを心のどこかで妬んでいるんでしょうCは圧力政治に出ます。アクシデントのBを捕まえて裁判をしないまま「ガレー船」漕ぎにします。高貴な人が落ちぶれていくさまは見るものをある種の覗き趣味にします。理由がある程度納得できるものなら、意外と起こりうる嫉妬だと思います。普通に力や知識でかなわないときに起こりがちなケースですよね。

ガレー船までの途中、ナザレの町で休憩のときにローマの兵士にいじめに遭っていたのをキリストが助けます。そしてガレー船の漕ぎ手を3年経過。ソルジャーに推薦されます。まあその前にローマ軍はマケドニア軍と戦うのですが。とりあえずこの海戦も見所のひとつです。そして指揮官を助けてローマの帝国内でどうにかソルジャー(騎士)の生活を得ることが出来ます。何故助けたのか?確かに疑問ですし、その後の人生を見ると取り入った感があるのですが、運命とはこんなものでしょう。

勝利の行進にも参加できますし、皇帝の判断も仰げるのでメリットは大きかったです。実際にトップはそんなにひどくなく、末端がひどいのです。元老院と長老の(ローマはこういうことでは機能している限り理想に近い政治体系でしたね)判断で長官(助けた指揮官、D)の自由の判断に任されました。そして騎士(ソルジャーという喧嘩武道みたいなもの)として優勝も5回しました。この騎士のシーンも見所のひとつです。

そしてローまでの素晴らしい生活をあとに母と妹のためにナザレに向かう途中にバルタザールというものに出会います。ご存知でしょうが、ブレッソンの映画の題名みたいです。何か意味があるのでしょう。「妻は神ではないんだ、ひとりではよくない」という族長の言葉は面白いし、ここで「生命の存在が奇跡なのだ、あとは神の天罰に任せなさい」バルタザールの言葉、本当にその通りです。「星の導きでベツレヘムに行った」そしてキリストの誕生を見たというあたり話が盛り上がってきますね。生家に戻るとEがいるのです。

Eも「愛は憎しみより強い」と憎悪の念を消すように言います。AEはうまくカップルになれましたね。待つということも大事です。母と妹はずっと牢屋の中で「業病」にかかって牢を追い出されます。そして実家に帰ってきて再会しないで病人の隔離された谷に向かいます。親子の情が深い良いシーンです。

そして族長が仲介で競馬が行われオッズはABで4対1、うまく乗せられて大金も賭けさせられます。ほかのものは誰もこの賭けに乗りません。相手はローマの中心で戦ったヒーローですからね。まあ勝利します。しかし死に際に、またBはくだらないことを言ってしまう。そういう性格なのでしょう。「母と妹は業病の谷にいる」と。

そして祖国のために立ち上がることにします。このことはローマの長官の養子の座も捨ててしまうことになるのです。安住はしない、戦い続ける決心をしたということ。ちょうどキリストも力を持ちつつ(教えが広がる)ある状態で、ローマの統治に変更の兆しが出ております。そのことはキリストの裁判にも出てきます。ちょうど母と妹をキリストに会わせたいと、Eが言うので連れて行くと裁判の最中でした。そこでAはガレー船に行く途中に水をくれた人を知るのです。そしてキリストが死ぬ間際「父よ、彼らを許したまえ」という言葉を聴いてAは「憎しみも拭い去られた」状態になり、母と妹は病気が治り、お互いに良い状態で再会します。すべてはキリストが罪をかぶって、愛を与えてくださったのです。最後は実は意外と忘れておりました。

「ボーイズ・オン・ザ・サイド」ハーバート・ロス監督  1995年

この映画良いんですよ。レズの映画ですが、面白いんです。

はじめにNYで売れなくて疲れた黒人女性歌手(A、ウィーピー。ゴールドバーグ、良いんですよ)気分一新旅に出るんです。そのとき、パートナー募集の広告見つけます。ロスへ行ってみようと思うのです。この募集した女が(B、メアリー=ルイーズ・パーカー)で不動産業がうまくいかないで、「思い切って変化しようと」出かけるのです。似たもの同士です。しかし彼女はエイズでした。「信じれば夢は実現するものよ」これは良い言葉です。

スタート。まずはAのピッツバーグの友人のところによります(C,ドリュー・バルモア、なんていったってこの映画でファンになりました)。

その前に一泊したとき一緒に「追憶」観たのですがBは感動、Aはしらけてます。そんな感性の違い、あと、違いは白人と黒人です。Cも恋人と喧嘩中で一緒にいくことになりました。一応、麻薬を売って貯めたお金を半分持って行きます。しかしそのお金のことでもめていたので最後にはバットで殴って出て行きます。仲裁に入ったBはAから見直されます。何で一緒に生活していたのとAが聞きますが、Cは問題は麻薬のことだけと答えます。レズのAにはわからないんでしょう。結局Cは戻るというのですが、死んでいると知って逆に殴っただけに戻れなくなります。そしてCは妊娠していると告白します。Aはレズ、Bは男に振られているので、何人も男を掛け持ちする女の気持ちがわかりません。

まあ珍道中ですよ。AがレズだとBは途中で知りますし、BがエイズとAは途中で知ります。気楽なようで隠している部分あるんですね。それをAは「罪深き省略」といいます。なんてやさしい言葉でしょう。そして私の好きなニューメキシコからアリゾナに入って、インディオの部落で写真を撮っているとBは遠い昔家族で来たことを思い出します。死が近いといろいろな思い出が蘇ってくるのですね。ツーソンです。ここでBの病気のこともあるししばらく滞在することになりました。そこでAもBも音楽できるし好きなのでライブバーで働くことにしました。そうこうしているうちにBを気に入る男が現われます。Cは相変わらず男ばかり作ってます。おなか大きくなってきてますよ。しかしここで3人とも人間性を取り戻した感じが出てきます。友人というのはこんなにも素晴らしいものなのですね。

そしてとうとうBと性交渉を望みます。しかしエイズであると告白するとその男はAから聞いていた、というのです。BはAのおせっかいがたまりません。(私なら、こういうおせっかいは大歓迎ですが)Aを家から追い出します。まあCは相変わらず、男といちゃついて今度の彼氏は警官です。このキャラクターが「チャーリーエンジェル」につながったと思います。本当にいいですね。警官ですからCの犯罪について捕まえて、あとにしこりが残らないようにします。正直というのはいいですねえ。「余計なことは話さなくて嘘にはならない」けだし名言です。こうやってCを励まします。今度は母親の番です。Bの母親は「愛と青春の旅立ち」を一緒に見たあと、悩んでいるBに対して「本当の伴侶とは、どんなことが会っても最後まで見放さない人のことよ、望みとは違う人でも」という助言をするのです。最高の言葉です。そしてCの裁判の証言に向かうのです。Aと仲直りして。多分私が思うにこの3人、貧乏ですよ。どんどんお金使いますもん。しかしいいお金の使い方ですよね。友人のための裁判の証言にすぐに向かうとかねえ。設定がエイズ、黒人、レズ、犯罪、淫乱とどうしようもないのは映画だからでしょう。生まれた子供は黒人の子供でした。そして出所してあのホームに戻ってきたら、3人が揃います。「愛はお金で買えない」。3人がみんな愛を見つけた出会いでしたね。

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「ホフマン物語」(The tales of Hoffmann) 1951年 マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーの共同監督

ついでにまず美術衣装担当のハイン・ヘックロートを紹介したいと思います。本当に良い仕事してます。「天国への階段」「赤い靴」「黒水仙」担当もしてます。映画の初めから、踊りながらハンカチに「好きなホフマン」と書いて鍵を渡すシーンなんかさりげないスタートですがきれいなんですよ。そのあとバタフライのバレエシーンがつながり、蓮の花の上を飛ぶように踊るきれいなバレエが続くんですが、もうこれだけでドキドキしますね。そしてオペラも始まるのですが、冒頭のシーンの居酒屋の室内装飾が本当に良いです。なんとうか、酒屋が森で森=居酒屋にすむ妖精たちがおどけるんですよ。きれいで、テクニカラーの色のつけ方も本当に良いですね。絵画を描いているように塗り捲っている感じです。そして酒を飲みながら「3つの恋の物語」=「幻の夢」を見るわけです。夢1。まず始めの夢は「オランピア」です。悲しみを分かち合える女性に出会った、すなわち愛の誕生だと思ったのですが、相手は操り人形でしたって話ですが、人形を人間に見せる「眼鏡」がありそれをホフマンがかけると人形達は舞踏会を開催するんです。ホフマンも参加するんですがこの舞踏会はすべて美しい。もう拍手しかないです。この映画はオペラとバレエの融合と言われますし、英語独特の解釈もあるんですが(劇中の言葉はなぜか、英語)それをまざまざと見せ付けられる感じですね。またシャンゼリゼのモーツァルトといわれたジャック・オッフェンバックの音楽が本当に良いんです。悪いところがまったくないんですよ。オランピアが壊されるシーンは後に「血を吸うカメラ」でマイケル・パウエルが映画界から追放される際にここにもこの監督の怖い一面があると槍玉に上がったシーンですよね。ちなみにこの映画にもモイラは出演してますが、ちょっと面影がないかな(1960年の映画だったと思いますが)。夢2.「ジュリエッタの物語」リュミドラ・チュリーナ扮するジュリエッタが舟歌をバックに登場するシーンの美しさも類まれなるものがあります。もうエメラルド色が似合う女王のような存在感。ため息しか出ません。そして仮面舞踏会。らんちき騒ぎの楽しさ。ジュリエッタの心を宝石で釣ろうとするのですが、ろうそくが溶けて宝石になる発想がきれいです。宝石に意識を取られたジュリエッタがホフマンの影を盗もうとするのですが、それでホフマンに接近していき二人の間のやり取りはすごくロマンテックで、愛のシーンとしては映画の中でもトップレベルの水準です。最高です。しかしねえ、影を盗むのに失敗して、ホフマンに愛されるようになるとゴンドラで消えていくんですよね。ここでも失敗する訳ですよ、ホフマン。夢3.「アントニアの物語」舞台が夢の島です。一方を見るとセザンヌが描いた山のようなものが見え、逆のほうはクレタ島から見た海のような世界が拡がっています。そしてバルコニーにはチェンバロやリュートが置いてあり音楽の世界ですね。話は飛びますがアントニアが母に向かって舞台に向かうシーンのホールの雰囲気、舞台の上での「母」の輝き、すべて美しい芸術です。映画ではないのかもしれません。でもしかし、舞台は実は廃墟だったんですよ。結局は夢で、アントニアは死んでいくのです。死んだアントニアの霊?が踊るバレエのシーンも美しいですし、ホフマンと地平線に向かって続く無限の踊りも夢の世界ですね。さて、居酒屋に戻ると夢をさまようホフマンとは対照的にほかの連中は朝までワインを飲もうと楽しく騒いでおります。ホフマンは絶望して寝てしまっていて、冒頭のバレエのあとの待ち合わせも現実なんですが、すっぽかしてしまうという失態。3つの話はホフマン(作家として現実に存在した人)の「ドン・ジュアン」をベースにしているところもあり、この点で「カサノヴァ」などと重なるんです。そして夢見る映画の中でのホフマンは夢の3人の女性(実は同一人物)にあんなにすてきなハンカチを貰ったにもかかわらず酒場で寝てしまって、それをみられて捨てられていくんですよ。まあ夢の世界であった訳です。観ている私も夢のような時間を過ごしましたし、50年以上も前にこの作品ができているんですね。何故今の映画はこのクオリティを出せないんでしょうか?夢とか美しさ、が映画の中に少なくなりましたが、この映画は本当に美しさに溢れている素晴らしい作品です。

 

「病院坂の首繰りの家」 1979年 市川昆監督

ひょんなことから「金田一シリーズの東宝作品のDVDのBOX-金田一耕介の事件厘」を予約しておりまして忘れたころに届きました。中でも原作も読んでいないこの作品から見はじめました。とにかく、冒頭から横溝正史ご夫妻が出まくって、びっくりしますし、すぐに中井貴恵、草刈正雄、小沢栄太郎、などが登場して懐かしさいっぱいです。しばらくYしてタイトルが出るんですが、そこまでかなり間があり、タイトルにトランペット(ジャズ)がかぶり面白いスタートです。そして桜田淳子が出てくるあたりでもうはまってしまいました。次にあおい輝彦が出てくるんですがこのあたりで、登場人物に主題の音楽がついていることに気がつきました。基本的にシンセサイザーを使っているのですが(音楽担当は田辺信一)桜田淳子にはフルートとかあおい輝彦にはチェロとか佐久間良子にはガットギターのようにエレキギターを使ったりして人物特定を鮮明にしておりました。そしてはじまったばかりですが結婚の写真を撮るあたりでもう、メロメロになってしまいました。桜田淳子の視線の定まらない顔、最高ですね。この人演技うまかったんですね。もうこのあたりから観ていて気が楽というか楽しい気持ちになりました。写真が出来たあたりから金田一が絡むのですがだんだん、笑えるような展開で楽しいなあといい気持ちで観ることができるようになってきましたよ。これじゃ、大林監督の「金田一耕介の冒険」とそんなに変わらない、喜劇に近いかなと思えるような展開です。あそこまでひどくないですが、シリアスなんですが、楽しくはじまります。きめの台詞は加藤さんはじめ、皆さんはずしませんし、型にはまって観ているほうは気楽です。しかし横溝作品にありがちな人間関係の複雑さは一回ではまったくわからないで、私も大体大筋を理解しただけでした。ポイントをわかったので見終わっても気になりません。俳優として特記したいのは桜田淳子とピーター共に存在感がありました。まあいろいろな人物の入れ替えが起こるのですが感想として書いても仕方ないですし感じたことを書きますと、役者はあまり主役級、脇役もふくめて見た目、かっこいい、美人などが多いなあという感想です。映画としてこういう事はすごく大事なことだと思います。あとはセットを多用しておりますがロケのシーンが(一応舞台は吉野、ルーツ探しで南部藩の岩手の水沢、北上)美しいです。今の日本はすぐに風景が変わるのでこの映画25年位前ですがすでに貴重なシーンがあると思います。映画化はこれが一番最後らしいのですが、この手の映画は内容以外と忘れてしまいがちです。「女王蜂」なんかまったく覚えていないです。ですからまた観るのを楽しみにしておりますが、気楽に時間を感じないで観ることができる作品ですね。最後にかけてはかなりいい内容の展開がありますし、カット割はまだ市川監督冴えてます。実は市川監督は大映時代の方が好きなのですが。。。一番の収穫は桜田淳子ですね。これが一番つまらないといわれているのであとの作品を見るのが楽しみです。単品発売がないらしいので人には勧めにくいです。

 

「光る眼」 1995年 ジョン・カーペンター監督

ちょっと固い映画が続きましたので、別にやわらかくはないと思いますが、ホラーを観てみました。単独でこの映画を見ると怖いな、と思うのですが今回は、それまでの映画が映画でしたので、リラックスして楽しめました。「呪われた村」という本が原作で何度か映画化されております。原作を読むと映画が物足りなく感じることがあるのですが、その辺は90分ちょっとにまとめているし、仕方ないことでしょう。ただ、はっきり言えるのは、はじめの受胎の描写がわかりにくいということです。はじめに観たときはこの映画で充分でしたが、そのあと原作読んでみると何か違うんですよ。この映画の方が母の愛情と落ちこぼれの侵略者の描写にこだわった点、さらには少し宗教がかった部分があると思います。処女の女の子も懐妊しているので、前の「神曲」に関係しますがイヴの原罪は犯していないんですよ。ではなにがイブの代わりか?それが村全体をベールで覆われるのですがその感じが映画では表現されていないんですよ。そのベールの中で受胎しているんですよ。ですから侵略者は人間の神の代わりをなすんですよ、このことが深い底辺に原作では流れております。今の人間に対して、侵略者が神のごとくになって問題提起するんですよ。人間のほうでいろいろと考えてくれるんですね。まったくオリヴェイラの「神曲」そのものですね。この映画でも「神は言っている、我々に(神)に似せて人間を作ろう」と。そしてアダムとイブになるペアが子供の中でも出来ているんですね。私なら単独生殖できるように作りますが、移住する文明に合わせて支配するのが目的ですからこの方が怖さはありますね。まあ、気楽にこの映画に話を戻すと、なんと言ってもスーパーマンが出ているんですよ(クリストファー・リーヴですよ)、懐かしいですね。しかし、このキャスティングわざとらしいですね。神のごとくの侵略者に戦いを挑むのがスーパーマンだとは。そして確か記憶ではこの映画のあと事故にあったと思います。やはり呪われたのかなあ。この映画に関しては、あとはなんといってもテンポがいいということですね。もともと成長が早い子供達でしたから、この監督独特のテンポで成長していきます。その辺はもうグイグイと観客を引き込む力があります。あと私の感覚ですが、出ている子供達がいやに気持ち悪いんですね。演技とメイクなんでしょうが、よくもこのような子供集めたなあと思います。そしてリーダー格の子供が「マーラ」というんですよ。暗黒の帝王ですね。ではクリストファー・リーヴはスーパーマンではなくてブッダなのか。笑い全体とすると光る眼の子供達全員が行進したり、集団で行動するときの音楽は少し宗教音楽っぽく出来ていて充分「神曲」を意識できますし、眼が光るときの効果音が怖く出来ているのでこの辺がホラーたる要素かと思います。まあお口直しには成功でした。

 

「必殺仕掛人」渡邊祐介監督 1973年

はじめてみます。必殺シリーズは好きなのですが、この監督の名前も知りませんでした。凄い恥ずかしいことのような気がします。

梅安さん(A、田宮二郎、役者の名前を書くときは印象に残った場合の時のみです、大体がその俳優でなければだめというのが少ないから記号で済ませるのです。私くらい役者より脚本、監督をかっている人間も少ないでしょう)。が標的が女ということで担当。始まり方が良いですね。この音楽は普遍みたいです。かっこいいですね。

「仕掛人が自分の仕掛を普請するのは墓石の下だけですよ」というせりふ、「大霊界」のあと見るとおかしくなりますよね。しかしセットでの撮影とわかっていながらぐいぐい見せる力のある映画です。そして今回は左内とともにふたりとも「仕掛人」は続けたくはないと思っているところがあるのです。町方同心に佐内が口利き料30両でのるかどうか迷います。凄いですよ、お金あれば、町方同心になれるんですかね?この時代に行ってなってみたいですよ、一度は。そういえばこの映画で知ったんですが梅安さんは藤枝の出身なんですね。また藤枝に行く時期です。あそこは楽しいですよ。帰りに鞠子で自然薯食べて帰ってくるんです。その小さいときに生き別れた妹がいるという話です。

ここでまったく話が変わりますが、ある仕掛を頼んだといって弟分と長男だけに言って死んでいく主人がいます。その弟分は音羽屋に確認に行く際に弟分が思うもっと悪いやつまで仕掛けてほしいというのです。これは今の映画ではなかなかないシーンです。あの人のため、恩のために自分の目で見た悪いやつを故人のために恩義とは言え、身銭切って仕掛を依頼するということはもうなくなりました。とりあえず不景気の性になってますが、何か違う、自分だけを慮る精神が日本人の中に急速に広がっているように思うのです。なんてことはこの映画でもないのです。笑い。この弟分も裏切るのです。江戸から変わらない体質なんですね。あとで裏切るシーンを見たときなんだ現代と同じジャン、と思いました。ともあれ、これの仕掛の対象は実は梅安の友人を殺したやつなんですね。この辺はうまく完結するように話ができてます。それ以上に考えていなかったことが設定されてます。この仕掛の相手とつるんでいる女、すなわち仕掛を頼んで死んでいった主人の奥さんが梅安のあの妹なんです。そして相当な悪。その相方を今まさに狙っているのが梅安という構図。良いですねえ。あとこの映画が何で良いのか気がつきました。ギターの音色で現代的な雰囲気が出てますが、基本は三味線などが流れる歌舞伎みたいな映画なのです。せりふまわしも梅安は意外と歌舞伎調ですよ。歌舞伎では中村勘九郎さんがうまいんですよ。

そして実の妹も悪いやつですのでついでに殺してくれと依頼が入ります。そして梅安が。

しかし運悪くつかまります。「殺せ」と開き直るのですが依頼者は誰か?聞きたくて殺さない。今よりも仕掛人は強くないですね。こんなストーリー初めてです。妹が「銭持たないで女郎屋にあがったものは簀巻きにして川に投げ込むのが掟」と言ってそうします。こうされると助け甲斐があります。常にひとり梅安についているんですから。結局妹が命助けたようなもんです。

そして妹を殺すのですが、殺したときなにか妹のような気がするのです。

まあ殺し屋には平穏無事な人生なんてないんでしょう。最後にまた仕掛の依頼が入ってきます。忙しい、物騒な江戸時代です。まるで現代ですよ。しかし三味線の音とギターの音色が印象的な映画でした

「火まつり」 柳町光男監督 1986年

冒頭から「山の生活者」の生活描写です。いわゆる、山の神のもと、仕事をしているきこり達です。でもこの映画全体にですが西洋文化がこんな田舎にも浸透してきている様子がすぐに出てきます。ここでは青年がコロンをつけるシーンですね。(ほかにも鉄道のレール、これは勝浦と新宮がつながったの最近だったと思います。最近と言っても20から30年前ですが。これ記憶ですので信じないでください。また、はまちの養殖のシーンも西洋化というか、近代化の流れの象徴でしょう。さらに移動の生活雑貨販売車が来るんですが、漁師の奥さんが率先してフランスパンを買いに来るんですよ。このようにいたるところで西洋化近代化の象徴が出てきます)山の者は、普通はコロンではなくて、おこぜ、を持っていくんですよ。そうすると山の神様に好かれるんです。まあここでは街の女に好かれるためでしょうから仕方ないですね。(なぜ、オコゼか、これは映画とまったく関係ないですが、山の神様は女なので、自分より不細工なものを見ると喜ぶとか言われたりしてます。このことに関するシーンも実は後ででてきます。見ていて結構研究されているなあと驚きました)舞台となっているところはわかりにくいのですが、途中女が「新宮から船で来れば目と鼻の先なのに」という言葉がありましたので、那智から新宮にかけてのどこかでしょう。二木島らしいです。実際に那智とか行ってみるとわかると思いますが映画のように山のものと海のものが接近してます。那智の浜(きれいな浜ですよ)から那智の滝(飛瀧神社)まで歩くとわかりますが、かなり海から山へ変化します。そういえば途中、南方熊楠が研究していたいろりもありますよ。熊野古道の途中です。そうして、山のものの生活の中で獲物を取る仕掛けなんかあるんですよ。これはいいですね。榊使ってしまうんですが、おかしいと思ったらあとで、映画の中でも「山の神様に失礼なことをして、、、榊は神様の木だ」というようなシーンがあるのですがこのシーンは事実ですね。謝るために仕掛け作った若者は下半身を脱いで男根を山にさらすのです。これで女性たる山の神の気持ちが収まるというシーンです。わかりやすいシーンですが、まったく知らない人は何やっているのかわからないでしょうね。あと獲物の血を体に塗りつけるのもそうですね。できれば心臓をくりぬいて山の神にささげると良いのかもしれませんが、熊野ではそのような習慣はなかったのかもしれません。また山の仕事が暇な時はしし狩り、するのですが、犬(那智のいち)を使ってしし(いのしし)を追い込む狩の仕方は実は私も知りませんでした。その映像も出てくるので、貴重かと思います。酒をささげて、拍手を打って狩の豊漁を祈るシーンもあります。まあしし狩はいまでもやっていますし、以外と身近に鉄砲の音聞こえますよ。と言うと凄いようですが、実際熊野は近くにあって、まったく違う世界のような気がしてならないのです。本当に旅行するたびに思いますが大変なところです。映画の中でも随所に出てきますが、裸でいるということが自然なんですね。「オー・ド・ヴイ」で書いたように自然の中に人間の裸は溶け込めないのですが、自然と密接に関係している仕事をしている人は無意識に自然に同化しているんでしょう。さらに性のおおらかなところは、夜這いなどでも明らかですし。このおおらかさは共同体の中だけなんですよ。ですから海のものと山のものが交じることはないと思います。この映画のポイントとなるのは塞の神の位置でしょう、きっと。しかし映画で、すごく重要なことですが、山のものと海のものが親友なんですよ。そして山のものは昔かたぎ(「山の神様はおれの彼女だ」と言い切るのですよ)で、海のものは遊び好きですが仲がよく二人の距離感がたまらなくいいのです。親友というのはこういうものだよな、と思えますね。あと重要なことだと思うんですが、この二人を中心に稚児教育のような状況が生まれているのです。こういうことは重要なんですよね。人から人へ直接的に教え込まれることは忘れないんですよ。さらに男だけの世界ですので、山の神とも相性はいいのです。山の神のやきもちの様子は「森のざわめき」で映画の中では表現されてます。特に新宮から戻った女(山のもんの初恋の女)が現れてからひどくなるんですね。特に山のものの大将は自然を、神を、体で感じることができるので敏感になるのです。山のものは、この神=自然が海中公園で壊されるというのを無意識に感じているんだと思います。そんななか、養殖のハマチが油を撒かれて全滅するという事件が起こります。実際は、この映画の中で持ち上がっていた海中公園の建設の話と深く関係するのでしょうが、海と山の塞、境目が危なくなるんです。実際に目に見える道路などの境目ではないだけに事は重いですよ。その件の疑いが海中公園に反対していた山のものにかかるんです。しかし、本当は、山の気持ちよくわかるから反対していただけなんですよ。それで、うみのもんの親友と一緒に海神の神社の近くの聖域を泳いだり、裸になって男根を突き上げたりするのです。するとそのときから大漁続きになるんですよ。実際に映画の中で漁師の奥さん達が暇そうに余りもののイセエビばかり食べてました。おいしそうですよ。ここの辺の行動は、山のものは知っていて行なっているんですね。そして、山に仕事に行ったときに嵐になりそうになるんですそのとき仲間がみんな山から下りたのに、一人残るんですね。儀式に近いことをするのです。それは大木に抱かれて、男根をこすりあげるのです。これは実際に良くあることらしいですが、映像としても入っているので、ここでもかなり研究しているなあと思いました。そのなかで山からの水をいただき、奥深く入ろうとすると、山から入るな、という合図ももらえるんですね。危険ということです。ここのシーン、普通の人はわからないと思いますが、この嵐の中で山のものは、山=女とかなりの交流をしたのですよ。その山=女の気持ちを持って男の祭りである新宮のお灯祭りに参加します。大事なことが一つありまして、その前に初恋の女でバーの売春女がいるのですが、うまいこと金を作って新宮に戻ってスナック買い取っていたんですね。実家のあったところに逃げていたときには山のもんと肌の交流があったのですが、新宮では商売も絡んできて、山のものが遊びに行っても、女を所有できないんです。客として帰らなければ、次の日の仕事ができないので、山のものも帰るのですが、帰り際に「お灯祭りに来てね」と言われるんですね。ですから、山のものにとってお灯祭りは初恋の心に残る思い出と山の神の二人の女がかかっているのです。その女たちを背景に男として出て行っているんです。初恋の女に対しては純粋な気持ちと、山の神に対しては本当の恋人としてですね。ですからお灯祭りの参加者がもどかしくて仕方ないんです。そんな描写もでてきます。関係ないですが、新宮の神倉神社本当に良いところですのでぜひ一度はお出かけください。そういえば、映画の中で新宮のシーン、クリスマスでした。本当に似合わない風景でした。お灯祭りでけじめつけたんですが、海中公園の問題がとうとう家族で決定しなければならなくなったとき、季節は春、ということはお灯祭りから2ヶ月くらいですね、男は山の神が女でほかの家族もすべて女性だったのでいらないものとして海中公園にしようというのを無視して男に逆らうものとして全員殺します。子供まで殺したので(お灯祭りに参加したのにねえ、と思いましたが、直接の描写はないですよ)お家断絶ですね。最後に男としての責任をとるんですが、心臓を撃ちます。心臓を山の神にささげるのですね。自分が生贄で、山に神への捧げ者となったのです。心臓を切り抜いて捧げることは先ほども書きましたがそのとおり実行します。これはかなりいいシーンですよ。するとね、島に来ていた移動販売車とか金物師も去っていきます。いわゆるよそ者が去っていくということです。不吉な土地となったところで商売しても仕方ないですから。さらに人の影が映り(まあ写らなくても良いんですが)油がまた流れて魚が死ぬんですね。海のものたちはみんなで呆然とその油と魚の死骸を見つめます。そこに夕日が後光のように差し込んできて海に浮かぶ重油に光り、映画が終わります。まあこの島に魚は戻らないでしょう。守ってくれた人(山の神)の友達を殺したようなものですからねえ。まあ今ごろ気づいても遅かりし、、、この映画って普通の人は、わからないんじゃないでしょうか?私みたいに旅行ばかりしているとすぐにピンと来るんですが、結構難しいですね。しかしいい映像ではあることは間違いないです。映画としてはつまらないと思う人のほうが多いことでしょう。私はこの監督の山ノ神の考え方はわかりやすいと思います。そういえば、書き忘れましたが、境は山から海まで実はなかったんですね。ですから親友同士という二人が一番わかっていたんでしょう。自然を。

「発狂する唇」 佐々木浩久監督 2000年

もう、なんでもありというきわめて映画的な映画です。しかしテーマがかなり危ない反社会性があるので書くのをためらいました。まず、舞台となった家が最低な条件で「息子が連続首切り通り魔殺人事件の容疑者で、2、かつ、昔、死刑になった」という環境設定です。そして母親と娘2人の構成で、事件の異様性からマスコミに囲まれて逃げ場がない状況で追い込まれた家族が主役です。結局ここに絡むのが霊媒師一味とその霊媒師を追うFBIと名乗る一味というだけです。霊媒師は商売にしようとたくみにこの一家に取り入り、性的な奴隷と母親と妹を仕立て上げます。そして実際のオカルトっぽい感じで殺された霊を呼んでみようとするのです。しかし、霊を呼ぶのは危険だった。それは死んでから49日たっていなかったからで、やはり、死体が首なしででてくる。霊媒師はそれらを「使い魔」として自分の首を捜しにいかせる。そして霊媒師一味は深く入り込むために、事務担当者を使って奥さんに取り入る。そして深い関係になるのだが、奥さんのほうが病み付きになっていく。その後、妹のほうも深入りしていく。結局、誰も寄り付かない非社会性が完成しているのです。とにかく映画の中で出てくる、この家に出入りする人たちがおかしすぎる。このどうしようもない関係で姉のほうはおかしくなって家を飛び出していくのだが、公園で刑事に捕まり、犯人を知っていると問われると不快感とともに念力で刑事を殺してしまう。そのとき、「使い魔」を手段として使い、念力で殺す。それを霊媒師一味をおかしいと思っていたFBIが事情を姉に話して捜査に協力しろと説得する。すると、あろうことか、「歌を歌いだす。(それは背景が横浜の山下公園から港に見える丘公園に渡って行われます)20世紀ノスタルジアみたいです」この辺で気づくのですがこの映画いろいろな映画のパロディが多いですね。このあとの事件担当の刑事のリアクションがすごく、そのまま、家に殴りこみ、姉を犯そうとするのです。死んだ刑事の仇らしい。どうしようもない展開。そうすると、刑事のほうは殺され、硫酸で溶かされる。(地獄の貴婦人みたいです。)もうなんでもありの展開で、刑事が家に入ったきり出てこないしおかしいと家を取り囲んでいたレポーターは家に飛び込み取材を開始するが、みんな殺されてしまう。この辺で普通の人は見ないと思いますが、この殺し方はフユーリーとかキャリーみたいなものです。そして霊媒師一家とこの家族は5人で出かけるのですが(だいたい、事件の現場がわかってきたから)そこには兄がいるのです。そして殺された女の子の家族も揃っているのです。実は霊媒師と兄が仕組んだもので、実は母親と姉たちが殺して首を切っていたというものでした。この家族の女たちは何かにとり付かれていたのです。そして、霊媒師一家はこの呪われた血が必要とここまで仕組んでいたのです。もうこの辺からさらになんでもありで、この被害者の家族はみんな殺されるのですが、最後に残った姉と兄の間には子供ができているのです。この子供どうなるのでしょう。なにか宇宙に連れ去られたみたいです。どうでもいい、という感じで書いていて嫌になってきました。まあ、何でもあり飛躍性は映画的で画面が笑えるというのは映画ですね。まったくお勧めしませんが、見ていて自分がまともに思えました。そういう効果はあるかもしれません。

「ふたりのロッテ」ヨゼフ・フィルスマイヤー監督 1994年 ドイツ

この映画はいい映画です。内容もよければ、音楽もいいし、風景もいいです。特に前半のスコットランドの景色はなんともいえないくらいきれいです。

映画のはじめは「離婚調停」の罵倒から。離婚から10年後、英語スクールで二つの家庭の子がスコットランドに出かけます。一人はやんちゃな女の子、もう一人はエレガントな女の子。この子たち仲が悪い上に同じ部屋になってしまいます。そこでいじめとしてお風呂に入っているときにシャワーをかけるのですが、格闘になってお互いに濡れてみると、姿がそっくりなんです。そうですね、離婚した夫婦が双子をひとりずつ引き受けて育てているのに、たまたま同じ英語スクールに通わせてしまったのです。子供たちはお互い、少しずつ、打ち解けあい、お互いの片親の話しなんかしながら、ほとんどまだ見ぬ片親を想像してます。そしてお別れのとき、スコットランドの灯台を背景に一緒に記念写真を撮るのですがきれいです。この知らない姉妹同士が触れ合うときの舞台としてスコットランドはとてもいい舞台です。

しかし別れ際に、ある作戦を立てて、別れます。それは別のうちに帰るのです。お互いのばれないために習慣とか教えあって、ママに育てられた子はパパのもとに。逆も。ふたりの名前はママのミドルネームからパパによってつけられているのです。

やんちゃ(A、パパに育てられたほう)は帰って母親の優しさに触れます。エレガント(Bママに育てられたほう)は父のだらしなさにびっくりの連続。行動も変化してます。Aは洗濯機を壊すし、散らかすし、母に「最近短期になったわね」といわれます。Bの方は掃除も洗濯も代わりにやって、ピアノも弾けるようになり、劇場(パパの仕事場)にも喜んでついていくし、「英語セミナーでよい子になったね」と言われます。

そのあと、逆の立場でぜんぜん違うことをやるのは本当に観ていて楽しいです。たとえば、ママの方に行ったAはお見合いを壊すし(そのママの相手の前での下品な食べっぷりは一見の価値あり)パパの方に行ったBはテストで満点を取るし、こんなシーンばかり見ていると世の中捨てたものじゃないと笑い飛ばすことが出来ます。本当に楽しいです。そして両親が気づかないうちにふたりが出会った時のような楽しい考えを取り戻させるのです。二人が愛し合ったときは確実に幸せだったんですからねえ。子供はかすがい、とはよく言ったものです。ママの担当するCMの(仕事が広告代理店勤務)音楽が決まらないのですが、パパの音楽を(劇団つきの作曲家)双子経由で上司に見せ面接のセッティングをするのです。そして作曲家に会いに行って帰ってきたママの前でパパのテープをかけるのです。

するともうさすがにだませません。ここのシーンは感動しますねえ。最高のシーンです。パパと行った子供の名前を呼ぶのです。子供は思わずやっと気づいてくれたと、抱きつくし「わが子」と抱きしめます。両親の再会もセッティングします。しかし大人はそうは行きません。そこでパパが折れて子供をすべてママに預けるというとどちらも個性的ですがかなり立派に成長しているので、ママも自信がないのです。お互いに見直しあい、またうまくやっていくのです。きっと。

となると思ったのです、しかし違いました。双子はスコットランドに逃げてました。夫婦で途方にくれていると、語学学校の先生がたまたま見かけて、電話してくれたのです。そして急遽、スコットランドに向かいました。一緒になるにはもうひとつ試練が必要だったと思ったのですが、違いました。どこにいるのかわからないで、記念写真を見せてここはどこですか、と聞くと灯台でそこに向かうと双子はいました。無事救出でめでたしめでたし。一緒になると思いました。しかし駅でお別れです。双子はママのもとにもらわれました。しかし別れ際に、手紙をパパに双子はあげてました。最後の賭けです。手紙にはパパの口癖の「人生には急停車が必要なときがある」と書いてあったんです。子供にいつも離婚の理由として話していた言葉でした。子供から今度はパパに送られたものでした。ママももう一歩プライドからか言い出せなかったのですが、パパは電車に乗った後その手紙を読んで、文字どうり急停車させて、3人のもとに向かうのです。最後の賭けは無事成功でした。パパのもとに育ったAはたくましい。素晴らしい。原作もいいですが映画も最高です。このような映画は馬鹿にされがちですが、絶対のお勧めです。観てください。最後までいい曲です。

 

「フリークスも人間も」 アレクセイ・バラバノフ監督 1998年 ロシア

 

テニスを再開してかなり疲れたなかで観たので最後まで見ることができるのだろうか?自分自身でも自信なく観たのですが、一気にあいた口がふさがらないまま見終わってしまいました。かなりすごいパワーがある映画です。異常な映画のようですが、それほどではないと思います。

はじめのタイトルバックで流れる音楽は、わかりませんでしたがいい音楽です。この映画の中ではプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」の曲とかすごく効果的に使われているので多分、ロシアの作曲家の曲だと思います。ほかにはワルツ調の曲があるのですがこれは本当にいい曲ですよ。この映画のサントラは出ていればかなり買いだと思います。前に書いた「サンタサングレ」も買いですね。あれもすごくいいです。

とにかく映画は尻たたきの瞬間から始まるのでちょっと唖然とします。どういう意味かわからないのですが西洋では尻たたきは何か意味がありそうです。私の知る限り日本で行われているとは聞かないので、なにか違う文化の何かの象徴だと思います。SM的らしいのですがよくわかりません。

とにかく二つの家庭が出てくるんですが、家政婦がともに尻たたきに協力的でモデルをやったりしています。これはお金稼ぎのためで必然からだと思うのです。しかし後から出てきますが、良家の奥様やお嬢様もそのモデルになるのです。よく考えるとこの動機は何なんでしょうね。(これが???)奥様のほうは医者の奥様ですが夫をまったく愛さず、その代わりにシャム双生児をもらいうけ、育てて、音楽教育をして満足しているという変わった性格の持ち主です。お嬢様のほうは父がやはりかなりかたぎの人なんですが尻たたきのモデルをやっていて、あとになってその写真を父親の体の体調が悪いときに見せられてそのまま父親がショックで息を引き取るのです。その死後、転機として父親から生前いい子だよと紹介された写真好きの男の子に裸で尻たたかれるシーンを撮影されます。お嬢様はなんでもないのですが、男の子はかなりショックでいつかこのような状態から助けてやると心に誓うのです。このお嬢様を好きになっていたんですよ。あとでこの二人まったく違う状態ですれ違うのですが気づかないままで終わります。

奥様とお嬢様はまったく違う家庭ですが奥様のほうは尻をたたかれる瞬間に初めて恋を覚えるのです。映像とするとこの初めて尻をたたかれるときの映像は奥様役は役者なんだと思っても、それまでつんとすました奥様だったのですごく違和感があります。最後には見世物小屋の連中に飼いなされその趣向(どんな趣向だか、よくわからないのですが、スケベな連中)のみんなが見ている前で裸で尻たたかれている映像を撮られているところを見世物として見られてもなんでもなくなります。

このような奥様やお嬢様が変化するのにキーとなる連中がいて、そのような事業を始めるのです。ちょうど写真が普及しはじめ映画ができ始めたときの時代です。媒体として欲望の表現を現実ち近い感じで一般に広めることができるのです。彼らは商売としてショーを始めます。そのショーはシャム双生児が歌を歌うものです。あとは上のような奥様の姿を見世物にするのです。そのシャム双生児の歌う歌がいいんです。ウリエフという人の「リンリンリン」という曲ですが、「月光を浴びて雪は銀色に輝く、トロイカは道を飛ぶように走る、リンリンリン鈴音が響く、この音この響きが私に語りかける、月の光の中まだ早い春に、覚えているか友よあの出会いの日を、君の若い声は鈴のように響いた、リンリンリン甘く愛を歌っていた」

そして、事業主はシャム双生児を引き止めるように、アルコール付けにしていくんです。少なくても片方の子が何かに依存性ができればもう一人も束縛できる関係にあるんですね。一人はアルコール中毒になり、ひとりはお嬢様と恋に落ちます。最終的には別れ離れになるんですがいい関係になります。その横でもう一人のシャム双生児のほうはアルコール飲みながら寝ているんです。こんな関係がいくつか形成されながら奥様は最後には奴隷のようになりますし、シャム双生児は片方がアルコールで酔い、倒れて打ち所が悪く死んでしまいます。お嬢様はどこかに出て行くのですが(子供のときからずっと見ていた蒸気機関車に乗りたかったのです)、そこでも、かつての恋人になりそうな男の子が映画監督として成功して街を闊歩しているのに、お嬢様は本当に近くで、ムチで打たれることを選びます。もうやめられないみたいですね。このムチ打ちとかシャム双生児のショーを企画していた男はすべてが崩れて、(シャム双生児も死んでしまったし)一人、レニングラードの川の上を流れる氷の上に立ちながら漂流していくところで映画が終わります。この映画は欲望の深淵をのぞかせてくれる映画だともいえます。内容は予想とは違いかなりまともです。一度は見てもいい映画だとは思います。とにかく映像のドキドキ感とクラシック音楽の調和さらに画面がセピア色で統一された感じが一体となって作品に格調高ささえ与えていると思います。

 

 

「本陣殺人事件」 高林陽一監督 1975年

最近、横溝作品と市川監督作品が続いて、かつ邦画ばかりです。しかしこの映画は気が楽に観ることが出来ました。映画ってこの気軽さも必要ですね。「いちげんさん」が変に映画っぽくなくて逆にこの作品が際立ちました。京都ではないけど、日本を表現していることでは格段の差があります。

家長の義務とその責任、さらには大きな家ということで知らずに甘やかされた精神構造と嫁ぐ嫁にもその責任を期待するということ、これはかなり難しいことでしょう。私は観てはいないのですが本で「写真版憂国」を持っているのですが、なんとなくこの映画と精神構造は似ているような気がします。国体か旧家かの違いが実は大きいのでしょうが。

冒頭、昔ながらの結婚式で始まります。家族結合ですから本当は大変なんですよね。しかし核家族化で親戚との交流も減り、こんな古いタイプの結婚式は私は参加したこともありませんし、親戚でもいません。家柄の力関係は、夫のほうは旧家で妻のほうはその小作人だったものがアメリカで成功した成り上がりの家系です。この家系を無視して結婚しようとした進歩的な夫はその反面、妻となるものにある課題がありました。純潔です。この課題が結婚が決定してから、すなわち夫になる男が心から妻となる女を好きになったあとで崩れるとどんなことが起こるのだろう、ということですね。当然、今の若い子にはほとんど当てはまりません。まあ好きになった気持ちを大事にしていくのでしょう。「甘え」の環境の中で潔癖主義者になった夫はそうは考えませんでした。「家」と「家長たる地位」と「男の女性への憧れ」がすべて揃ってしまったのです。こんな動機の事件だとは思いませんでした。途中で犯人はわかりましたが、動機がこのようなことだと知ったとき、そんなものかな、という気持ちでしたが、わかる気もしたのです。

そして自殺は自分の敗北であるから他人が殺したように見せかけなければならない、というのもすごいことです。ですから殺人が起こると意外とあっさりと解決はつきますし、犯罪が波及することもないのです。それでこの短時間の事件追求のときに、岡山の田舎の自然、風土、旧家の家の構造を映像で提示されるのですから、そのまとめ方はうまいですよ。この草いきれのまるやま、と瓦の勾配の急な旧家の大きさはどこにでもある日本の田舎(庄屋)の風景なのでしょうが、自然の中ですごした日本人が、そこでこのような精神構造を育てていくという皮肉な映像でもあると思います。

はじめに戻りますが結婚式での三々九度、「高砂」の謡曲、琴「おしどり」(この本陣のしきたりだそうです)あたりの流れはしっかりしてきれいなのですが、そのしっかりした二人の奥にはこのような決意があるからしっかりとしていたのでしょう。

妻となる女が琴の音色に一瞬びっくりしたのは旧家のしきたりに入り込めない、不順なものをいつしか無意識に感じたのでしょう。そうですね、純潔なものにしかこの琴の曲は弾けないのでしょう。親戚一同が着物で参列している様子は、実はうらやましい風景です。景色や家の構造にしっとりとマッチしています。

「白鳥の湖」 ベルリンオペラバレエ団 1998年

私たち日本人はロシアバレエ(ボリショイ、キーロフ)、パリオペラ座、ロイヤルバレエと見慣れてしまっているので、どうしてもそれらから比較すると、個人レベルでは落ちます。

ソリストの踊りも、この演目ではそんなに難度は高くはないのですが目立ちません。まあオリバー・マンズというのか王子役はかなりいい跳躍をしております。あとステフィ・シーファーというのかオデット役もやわらかさのある踊りです。コールドの部分はさすがにキーロフなんかの比較ではないです。

しかしバレンボイム指揮のオーケストラの音の鳴り方はまとまりがあり素晴らしい。すごくリズムを強調して踊りやすく演奏しております。金管も派手ではないしね。

本当にオーケストラは最高です。そして映像のアングルが正面と上方からうまく舞台の雰囲気を伝えていて臨場感ばっちりです。私はバレエは一番前で観るのがすきですがまさにその雰囲気が伝わってきます。

そしてプリマドンナSTEFFI SCHERZERは記憶すべきバレリーナです。素晴らしい。年齢は若くはなさそうですが、もう知り尽くした踊りというか、多分得意にしている演目なんでしょう、本当にうまいです。

そして「舞踏会」のシーンの演出は際立ってます。すごくわかりやすいし、ゴシックの雰囲気充分。最高です。楽器のソロもさえて舞台と音楽の一体が図られてます。ここは本当に楽しい演出。

「八甲田山(はっこうださん)」森谷四朗監督 1977年

この映画観た事がありません。たぶん洋画ばかりのときに封切られたのでしょう。

明治の日露戦争前夜の弘前。この戦争はかなりいい戦争というか戦術も素晴らしい。ここで例の連合艦隊が名乗りを上げ、大艦巨砲主義が定着したのは不幸ですけど。でもこれは陸軍の話ですし、遼東半島での決戦の寒冷地対策としての予備訓練のことです。

青森と弘前、青森と八戸が遮断されたときに通路を作るとしたら八甲田山しかないからその寒さを体感して来いとのことです。

まあこの映画のころがこの時代の映像を作りうる最後の俳優が揃っている感じですね。今では明治時代を表現できる俳優はいません。何が違う?顔が眼光が違うのです。

弘前出発と青森出発で八甲田山ですれ違うという計画が無理があるみたいなんです。それは弘前の小隊の計画ルートでも明らかです。弘前から十和田湖系由で八甲田山というのは車で考えても遠いですよね。

とにかく出発の日。弘前隊から青森隊に手紙が「途中困難極めたときは、武士の情けで救助を」このことは、厳しい行軍になると暗に言っているのです。

失敗するときはすべてそうなんでしょうが、後から思うと、あそこでこうしておけば、と思うことの連続です。青森隊は編成を大きくして、かつ地元のガイドまで断ってしまいます。どうしようもない状態に追い込んでしまうのです。当然、めちゃくちゃな状態に陥ります。指揮系統が複数できてしまうのと、現場と指揮権限の不一致がこのような状態を招きます。その前に、予備訓練が安易に終わったことも油断させる原因となるのです。

青森隊は自分で精一杯になりますね。弘前隊は案内人の元、順調なのですが、外でビバークするなど一応訓練とはいえ無理をします。

青森隊を見て興味を覚えるのは「指揮命令系統が不安定になると、それまで我慢してついてきた部下が倒れていく」ということです。これはよい研究材料なのですが、実際生きて帰らなければなりませんよね。実際に目にしたものしか事実は見ていないのですから、戦場を体験するのと同じことですね。

そして終盤、弘前隊の隊長の幼少のころの心象風景が映るのですが、その美しい、夏とは対照的な冬の残酷さを描き出します。これはまったく自然の驚異です。

最後、青森隊の隊長の遺体は、消えぬ友情で結ばれた弘前隊の隊長を待っていたのです。その無念と約束を持って。しかし山で見たあの遺体は魂だったんでしょうか?

ラストにかけて、たまらない感情の高ぶりを感じる映画です。

その後の彼らの消息を含めて。ちょっと涙が止まらなくなりましたね。

 

「パピヨン」フランクリン・シャフナー監督 1973年

懐かしいです。これ映画館に観にいきました。当時、スティーブ・マックィーンが落ち目というか年をとり始めていて、最後の良作の部類でしょう。

すごく良い映画です。何で良いのか、それは監督の人生の一本だからです。誰でも人生ひとつは物語があるものですが、この監督はこの映画がそれにあたるのだと思うのです。また脚本も現実のパピヨンな訳で、真実味と男らしい部分がうまくミックスされてます。

さらにそれを引き立てる、映像のよさ、どの部分をとっても写真にしたいくらいです。最高の映画音楽。サントラ買いました。LPで出てすぐでしたね。何回聞いたことか。。

アンディウィリアムスの歌も良かったです(これはサントラに入っていないのですが)。俳優も演技というより絶対的な存在感があり、ダスティン・ホフマンなんか俳優というのを感じさせないドキュメンタリーみたいな雰囲気さえ漂わせる名演技です。そう、この映画はドキュメンタリーな雰囲気が漂う、素晴らしい映画です。内容はシビアですが音楽がロマンティック。はっきり言ってこの時代の映画はかなり観ておりますが、今から思うとかなりいい映画が多いと思います。中間期の変な時代ですがね。SWくらいから現代の映画なんでしょう。

はじめの脱走というか友人をかばっての逃亡と独房。さらには次の本格的な脱走。次に捕まったら独房5年の刑です。

ホンジュラスかどこかに流れ着いてすぐに警備隊に呼び止められ、ダスティン・ホフマン(A)を置いてけぼりにして仲間は撃ち殺されて、現地の犯罪者と一緒に逃げるあたりどうなることかと思いました。さらにAはどうなるのだろうかと心配したモンです。2回目からはそんなこともなく観てますが。しかしそこにたどり着くまでの船旅が二人の友情を永遠のものにしたのでしょう。実にいいシーンの連続です。

そして逃げているうちにパピヨンは吹き矢で撃たれて川に落ちますがそのまま、ある原住民に拾われます。今思うとここのところは話に説得性がないですね。

その原住民たちとの日々も楽園のような日々です。ここでも思うのですが監督はこの地域を知っていると思います。本当に監督のすべてをこの映画に出して、役者も本当に最高の演技をしているのですね。

しかし警察に密告したシスターは初めて映画館で見たときは唖然としましたよ。それはないだろう、とね。今観てもちょっとねえ。

そして5年の独房。

友との再会と永遠の別れ。この最後にかけてがまた良いのです。何回も言いますがこの二人の役者の最高の演技ですね。こんな演技を引き出す魅力が作品にも、監督にもあるのでしょう。とにかくこれだけ素晴らしい映画なら、一本しか代表作がなくてもいい監督といえると思います。音楽のジェリーゴールドスミス、この人の名前も永遠に忘れないでしょう。映画にのめりこむはじめの頃に観たいわゆる贅沢(ロードショー)の一本です。一人で観にいったんだよなあ。いまだに覚えてます。30年前になったらしいですね。年月のたつのは早い。

「張込み」 野村芳太郎監督 昭和33年

昭和33年の夜行列車は、まだ蒸気機関車なんですね。東京発鹿児島行き。これ急行「薩摩」って言いましたか。このような急行が走っていたんですね。急行なので寝台ではないのです。きついですよ。

とにかく警視庁の刑事2人がわざわざ佐賀県まである主婦を張りこみにやってきます。その家庭がドラマになるのです。ですから地味ですよ。

この主婦が東京での質屋での殺人事件の鍵を握っていると踏んでいるのです。しかし地味な生活なのです。

刑事はなぜこのい女を張り込んでいるのか?東京を探してもいないと踏んだので、昔別れた女で、今は人妻になっている女のところに来るのではないかという推測からです。またこの犯人は山口出身でそちらの方にも刑事は行っているのですが映画はこちらの女のほうがメイン。

しかし一週間何もない規則正しい生活です。まあ予定も終わって帰る準備をして地元の警察署に行っている間に女は動き出します。残った一人の若手刑事がつけていきますが、祭りにまぎれて見失ってしまいます。

しかしようやく見つけると、一週間見続けた女の表情とはまったく違う表情が垣間見れるのです。一緒の男はこの女にも嘘をついているようですけど、実際に犯人なのかわからないし、追跡している刑事の自分の考えを独白していくところはまったく予断を許さない展開です。

そして、この女と男の関係が明らかになるのです。当然、警察も元恋人同士と知っていて張り込みをしていたのですが、元恋人というには似合わないもえたぎる情熱がお互いの中にあったのです。そしてお互いの幸せのため、などという名分で昔別れてしまったことを後悔していて、久しぶりに会うなり愛情は爆発的に燃え上がります。この様子を見ていた若い刑事は自分の境遇を考えて、自分も後悔のないように気持ちに忠実に生きようと思うのです。

この映画では犯人はいるのですが、その犯人たちに人生の機微と愛情の大切さを、教えてもらう刑事がいるという面白い構成になっていると思います。

この犯人たちの愛情の会話だけでも聞いてみるといいと思いますよ。

 

 

「張り込み」篠原哲雄監督 2000年

続けて同じ題名の映画です。そしてちょっとアフレコがひどい映画です。役者の力量なんでしょうか。こちらは「はつ恋」の監督です。まずは舞台となっている団地よく知ってます。すごく余計な情報なんでしょうがどうしても現実と比較してみてしまいます。

まあ少女の投身自殺。そして女のうちに刑事と称して男が張り込みにきます。まあ普通じゃないですね。爆破犯人が向かいの棟にいるとのことでよく見えるこの棟とのことですが、この刑事変なことばかりしゃべる。実際にどういう犯人を追っているのかなんて絶対に言う訳ないでしょう。昨日の映画では刑事はまるっきり何も言いませんでした。

この刑事も胡散臭ければ、この女も胡散臭いのいです。刑事はなにか痴漢的な男ですし、すごく強引に人の私生活に踏み込んできます。女は前に若い男をつまみ食いしたのですがその男がなぜかこの団地で自殺をしているんです。

この事件を深く知っている男だったのです。それはこの死体の鑑識係。そして現場でこの女に一目ぼれをしたので、今回このような形で強引に近づこうとしたのです。まあ変態です。気持ち悪いの何の。

しかし女は縛られて、何されるかわからない状態になったとき一発逆転がありました。男が油断してしまった隙に、縛られている縄が解けて、男が脅していた凶器を手にすることができたのです。男はそれで脅しているだけだったのですが、女のほうは即座に思いっきりひっぱたきます。そして死ぬまで何回も。ここは恐怖映画のテイストです。

そして、死んだ後、その男のタバコをゆっくりと吸う女。もう投身自殺では通らないでしょう。どうするんでしょうかね。しかし自首するような女ではないことは確か。

 

カラーとモノトーンをうまく使い分けて、ちょっといやらしいつくり(後味がよくない)の映画です。

 

「花と蛇」石井隆監督 2003年

これは「死んでもいい」が良かったので観る事にしました。もともと主演女優が嫌いなので観るつもりはなかったのですが、監督に惹かれてみてます。しかし役者はあまりよくないです。最近の映画って同じ人ばかり出ているのでもう少し目先を変えたほうがいいと思う。

さらにお金持ちの夫婦にしては住んでいるところとかインテリア、身なりがダサい。こういうのがSMって積み重なっていくものではないでしょうか?別にその嗜好がないのでどうでもいいのですが作りこみが弱い、画面が主張していない感じはします。何度も言いますが杉本彩ではだめですね。

そして金持ちのくせに弱みがあって、フィクサーの前で美人?の奥さんに踊ってもらいたい、フィクサーはファンなんです、と脅され、そのまま仮面舞踏会に参加します。

あとはお勧めしません。ちょっとえぐい描写が。

 

途中画面観ないときもありましたし、杉本彩さんのファンでなければ観ないほうがいいかも。「死んでもいい」は大竹しのぶさんが裸にならなかったから良かったのかも。

「バージン・ブルース」 藤田敏八監督 1974年

この映画見た記憶がないです。しかし最近この年代から80年くらいまでの映画をよく観てますね。当時は洋画しか見てませんでした。音楽がミッキー吉野、タケカワユキヒデというのも知りませんでしたし、三井銀行が存在してます。かすかな記憶ですよ。三井銀行だけの看板というのは珍しいです。長門さんも先日の「丹下左膳」でお父さんを見たばかりです。あの弟の道場主を演じていたのが長門さんと津川さんのお父様ですよ。

また場所は幡ヶ谷近辺ですが、30年前なら記憶があるので街並みとか懐かしいものがあります、というような年になってしまいました。そして主役は女子予備校生A。長門さんは脱サラのラーメン屋のご主人(Cとします)。たまたまAの友人Bと一緒にスーパーから逃げ回ったときCと出会います。そしてハンバーガー屋に連れて行ってもらいます。たしかこのころ、マクドナルドが日本に入ってきたと思いますのでまだこういう商売もあったデすし、携帯とかないので日常的に喫茶店とかでお金使っていた時代です。あと本もよく買いましたね。

まあCも借金取りに追われて逃げていたので、Cの家に逃げるわけには行かず、寮の前にいると近くのラーメン屋の出前持ちに出会います。その男Dのところに逃げ込みます。Dが3畳一間の屋根裏で、部屋の中のポスターとか時代を感じるとともに、風呂にも入らないで寝ることができるのはこの時代の人なんです。いまはシャワーとか浴びないと気持ち悪いと私でさえ思うようになりました。Dは働いているところの出前ごまかして二人に食べ物持ってくるしABがスーパーから逃げたのは万引き見つかったからだし、Cは妻に働かせて借金取りから逃げながらも女を買うし、「お前ら、まじめになれよ」とさすがに画面に向かって言いました。みんないい加減すぎる。ラーメン屋とかばれないですかね。うちみたいに少量のケーキしか作らないとすぐにわかるんですけどねえ。

ABは仕方なくCを頼って田舎に帰るから金貸してというと一緒に行くというのです。Aの実家が農家ということで山を安く売ってもらおうとするのです。まあどうあれ、ロードムービーの始まりです。この辺から面白くなりそうですよ。このロードムービーすごいのは映画の中でABの写真撮ろうとする若者が写っているということです。予備校生を電車が着くの待って写真撮らないよね。結構町歩いている人の視線とか、完全なロケですね。監督までエキストラで出てます。

実家には警察から連絡があり、それを先に探りに来たCは聞き出してAが実家の敷居をまたげなくなります。またまた面白くなりますね。岡山周辺の案内でもしてもらいましょう。幸い岡山県は一度しかそれもツアーでしか行ったことがありません。それも、やったあ、「倉敷」行ってみたいところです。ラッキー。30年前の景色が見れる。すげえ、多分「大原美術館」の中庭で野坂昭如の歌が聞ける、という特典つきです。いいなあ。

Bのほうは実家で座敷牢です。岡山って岡山出身のやつによく聞くんですが田舎なんですよね。私のイメージでは神戸、姫路に近いと思うんですがやはり遠いみたいですね。

まあ倉敷のほうに戻ってAはいとこと称する昔の男(Aがバージンをささげたみたい)に会いますがこの男、ストリップ劇場を中心にメッセージを発信したがって劇団みたいなものを作っているんです。次の発信メッセージは「自動販売機でものを買わないでください」、私には大うけしました。「お金を入れると物が出てくる、これは人間を堕落させる」という論理みたい。こういう人今でもいますかね?そこにCAの「バージンを守る」といって仲を割って入るのですが、実は、Aは、という感じでCだけが浮いてしまいます。

Cは結構まじめなんです。ここでACとともにまた出てしまうのですが、下津井城あとなんていいですねえ。このへんで金子が切れてきます。旅も終わりかな。Bは捕まります。その晩ACは激しく抱き合います。何かいているのかわからないかもしれませんが、先がない二人が刹那的なたびをして、その場限りを楽しく、危うく生きているとこんな感じになるのかというのはわかります。長門裕之さん 秋吉久美子さん二人はお似合いの役でした。この二人だから面白い映画になったと思います。こんなに面白いと思わなかった。すごく得した気分です。

 

「ひかりのまち」マイケル・ウィンターボトム監督 2000年

この映画は大好きな映画です。ロンドンの今(2000年)が封印されているような映画です。ロケが多用されているので画面が揺れますがいい映画ですよ。

次女(A)は出会い系でいい彼氏と出会いがないかといつもチャレンジしてます。しかしこれっ、というのがいない毎日。カフェでバイトしてます。

長女(B)は亭主と別居して男の子を一人で育ててます。美容院で働いてます。

三女(C)は今新婚でまさに子供が生まれようとしております。

音楽担当のマイケル・ナウマンはこれらの登場人物に主題の旋律を割り振ってます。Aのテーマはいいですよ。

長男(D)は彼女と逃避行。本当に面白い兄弟です。父と母もやることがなく楽しみもない夫婦です。たまに子供たちのところに行って気晴らしをしているだけ。子供たちは別の生活を持っているのでそんなに真剣に相手してもらえないですけど。母は近所の犬が気になるし、父親は何をしていいのかわからない。隣のうちが騒がしく、楽しんでいるのを、癪に障る母親。自分が楽しくないからねたみもあるんです。ここで大事なことは自活できるような人はみんな何かしらの孤独を抱えていて、自活もできないようなDは楽しんでます。

電気店に勤める黒人の青年(E)もまた人にはわからない価値観を持って殻に閉じこもってしまってます。しかし収入があるだけまし。

しかしCの夫が黙って会社を辞めてしまいました。Cの両親みたいになるより自分のしたいことをやったほうがいいだろう、とタワーブリッジが対面に見える橋の上で一人言い聞かせます。国立劇場があるところの橋だと思います。近くに観覧車もありますよね。

Bは子供のお守りをAにやらせておいて美容院で不倫をするような崩れてしまった女です。女の人って微妙で一度崩れると意外とあるところまで行ってしまうんです。まあ女だって楽しみたいですから。これは亭主がだらしないと、離婚がらみでなりやすい。しかしこの性格が大事です。Cは妊娠まじかでノイローゼ気味。夫が仕事やめたと聞いて逆上します。生活の基盤がなくなるのですから。ここで主婦として生活の不安、相談なしに起こした行動を認めようとしないのです。そうなると旦那は出て行くしかなかった。起こったことは認めなければならないのです、一緒に生活するからには。

そんな中でも、映画は家庭の主婦が暇つぶしにしているロッタリーを映し出します。みんな暇と平凡さに女らしさがなくなってしまっています。

この妻が出かけている間に夫が帰ってきますが不在なので中に入れず、近くの黒人の奥さんのところにちょっとの間置いてもらうことにします。そうするとそこでは酒は飲むしダンスは踊るしで生活をエンジョイしているんですよ。そのペースで久しぶりに楽しい思いをしたでしょう。生きるということは楽しくなければやっていられない。

そんな時、たまたま偶然ですがBの夫が遊びでかけた電話でAとデートの約束をして実際に会ってしまいます。お互いに気まずくなるのは当然ですがこの旦那は姉の旦那と割り切っているからAも何でも言えるし、あの姉と一緒になったくらいだからこの男も楽しいのです。こんな感じでいいと思いますが、姉の旦那なのですぐに別れてバーを後にします。このフランクな感じを誰にでも出せればいいのです。しかしその後、同い年くらいの写真家の家に遊びに行ってしまうのですがここで彼でいいと思ったのです。しかし今度は相手が体だけが目的でした。そして彼の家からの帰り、彼は送ろうともせず、Aは一人バスで帰ります。そのバスの中はみんな友人や恋人と乗っていて、より一層Aの寂しさが強調されます。それはまさにバスが雨の中を走るがごとく、Aの心の中も雨模様なんですね。寂しさを紛らわすのはあせってはだめです。本物を見つけなければ。Aの母親も昼間ロッタリーで面白くなかったので隣の家のうるささにとうとう爆発して隣に家の犬に毒を飲ませます。このように孤独ということは普段考えもしないことを行ってしまう力があるのです。

Bの子供もやはり寂しいのです。Cのお産がち近づいてBが面倒を見なければならなくなり、約束の花火大会はいけないと電話があると、一人で花火を見に出かけます。そこで強盗にあいます。子供だからといって甘く見られたのでしょう。そして悪いことは重なりCの夫も、多分むしゃくしゃしていたのでしょう、事故にあいます。そして病院に運ばれます。そこでCがたまたまお産をしていて、生まれたばかりの赤ちゃんを見ることができます。すると愛情がわいてやる気になってくるのです。Cの問題は解決。Bの問題も子供に怪我はなかった、そしてやはり夫はだらしないということで解決。ほかにも花火大会の日、すべてを祝すようにすべてが解決の方向に向かいます。

そしてA,次の日、たまたま父親のところに寄ったら、Eと出会い、三人で話をして二人で職場に向かいました。あとは言うことはありません。一日遅れてAも幸せになりました。

ワンダーランドの花火大会の魔術です。あせることはない、すべてはなるようになるのだ。だからワンダーランドなんだ。そんな映画です。

 

「必殺仕掛人(ひっさつしかけにん)梅安蟻地獄 渡邊祐介監督 1973年

まずは気に入った言葉、梅安の言葉で「食い物には心を込めろ」事実です。ケーキなど作っていて、当然いつも心を込めているのですが、その分出来上がったときにうれしい反面、ぐっと疲れが出ます。どんなに疲れていてもケーキを作るときは真剣になるから不思議です。

まあこの映画では冒頭、梅安が人違いで侍に狙われます。たまたま行きつけの料亭でその相手を知るので、問題ないのですが、逆に深く事情を知るきっかけができてしまったわけで、すごいいいスタートを切ります。今回は緒方拳さん。また同じくせりふで「人とタバコの良し悪しは煙にならなければわからない、昔の人はいいこと言ったもんだ」というのがあるんですが、私もいい言葉だと思います。知識として利用させてもらいます。

展開はわかりやすく、あの料亭で間違えられた男と話している男の方を仕掛けてくれという依頼が梅安の元に増し金で舞い込みます。なんとわかりやすい展開なのだろうか。本当に娯楽とはこういうものです。

相手は元侍で今は街の名士の商人。何で商人になったかというと、侍のときにある殺しを引き受けているのです。そして商人になって大もうけする野心があったのです。それには侍のときに作った貸しでコネを利用して旗本などのよい顧客を作る必要があるのでしょう。

実際、大口つかむと商売は意外と順調なものです。その影で甘い汁を吸う連中もいるのは言うまでもありません。

その仕掛けとほかの仇討ちが絡まって共同戦線を組むのですが、ここで出てくる仕掛け人は梅安だけです。この仕返しをする侍は仇討ちのためという名目しかないのです。何の仇討ちかというとやはりこのなり上がろうとする商人になった元侍の弟に手篭めにされた女の仕返しです。

まあアクション的な見せ場は余りありませんが、なにか梅安のひょうきんな性格が全編に渡ってでて、楽しい必殺仕掛人です。

 

「必殺仕掛人(ひっさつしかけにん)春雪仕掛針 貞永方久監督 1974年

「近頃じゃ盗人も荒っぽくなってきた、昔の盗人はあんなことはしなかった」

この映画の当時でも今からすると甘いし、時代設定江戸時代。それからすると今は狂ってますね。「人間誰を殺したって、後で重たいものを背負うんですからねえ」まるっきり「四谷怪談」の精神状態ですね。さらにおかしいのは「魔性の夏」と同じ場所が写ったこと。ロケで使いやすい場所なんでしょう。

今度は梅安が狙われる番です。相手は昔仕掛けた相手の夫で今回の仕掛の相手でもある武士。今回はやばそうなんですよ。相手が強い。梅安の弱音も出ます。針で刀に向かうのではじめで勝負が決まります。それに失敗。おびえる梅安。そこに援軍が。後に仕掛人に加わる人です。テレビのシリーズでかなあ。

さらに悪党の頭は女なんですが、その女が梅安の昔の女だった、と梅安尽くしです。そういえば映画の中でふぐの薄作りが出てくるんですが梅安が考えたものらしい。冗談はこれくらいで、とにかく梅安ばかり出てくる映画です。あと題名からは意外と感じられませんが、多分当時は有名だったんでしょうが、エロのシーンがサービスカットでかなり入っている映画でした。特にこの映画はそうです。監督がその畑の人なのかなあ。

また梅安は女にだまされて捕まるし、今回の梅安は情けないったらありゃしない。しかし仕掛を頼んだ本人が命がけで梅安を助けてくれます。

そして頭は今回は気乗りがしないから辞めておくというと、子分であり愛人が殺そうとします。しかしそこで頭「お前に頭は務まらないよ、殺したいなら殺してくれ、もう飽きたよ」というのです。そうなると殺せないものです。そしてこの子分が独断で強盗を開始。しかし胡散臭い鍵屋に捕まります。もう仕掛けは始まっているのです。

うまく金蔵の中に閉じ込めて仕掛、そして頭は元の愛人だった梅安が殺す。

そのとき梅安はちょっと足を洗いたい心境になりますが、もう一人の侍のほうは「生きていく以上恨みを買うのは仕方がない、また許せぬやつも多い」と仕掛人になっていくのです。

この映画は最高にいいです。仕掛人シリーズでもトップクラスにいい。なんていったって仕掛人自身が悩んでいる姿が出ているし、それを乗り越えていく人間らしさがとってもいいです。

「ピンポン」曽根文彦監督 2002年

普通はテーマになるスポーツではないと思います。水泳でさえテーマにはならない。ですから最近はこういうものにスポットライトを当てた映画があるのでしょう。

とにかく、普段なら冷めた目でこういう高校生を見るのですが、この映画ではやけに共感できます。結局は冷めていないハートを持っていることがわかるからです。

しかし中国からの助っ人が来たと知ると「道場破り」に行くところなんか熱いハート持ってますね。いいなあ。そしてやわなやつをみんな強豪がマークしているんです。実は強いんじゃないかな。しかし「相手の心中を考慮して球を打つ性格なんです」だから勝たない。この辺でこの映画「ドカベン」の卓球版漫画みたいなものだと思いましたよ。すごく気が楽になります。だから人気が出たのかもしれない。

まずはこの控えめな男とチャイナの戦い。面白いですよ。しかし途中で「なんにために中国から来たんだ」という声を聞いて、またまた相手の立場を考えて負けてしまうのです。

そのチャイナも大会のエースには負けます。

主人公は圧倒的に今まで勝ってきた幼馴染にも負けます。主人公とこの気の弱い友人はともに負けてしまうのです。

そして気の弱いやつは真剣なトレーニングをさせられます。試合に負けたら魂をコーチに売ると約束していたのです。

そして主人公はそのままドロップアウト。しかし友人が浪花節を語ってくれて「ロッキー」のごとくカムバック。そのコーチは街の卓球場の女主人です。また気の弱いやつもコーチもまた気の弱いことがあったと聞かされて、何か納得できてくるんです。2人が燃えてきたところでこっちまで燃えてきます。そして最高の舞台を用意します。それは主人公がひざの怪我をしてカムバックして準決勝で大会のエースとあたるという時に辞退しろという忠告を無視して友人との決勝をかけて試合に臨みます。足はもうだめでしょう。しかし友情を大切に戦いに行きます。エースに勝ちます。これは一定のレベルの人間しか味わえない楽しい試合になりました。ということは決勝は友人同士です。

そして卓球を気の弱い友人に教えてあげた主人公が勝ちます。そして世界に羽ばたく。

この映画で疲れぶっ飛びましたし、肩に感じていた疲れ、重さ5キロくらいのだるさが一挙に1キロくらいになりました。こういう映画はいい。

素晴らしい映画と楽しい映画が続いて気持ちはハッピーです。

 

「豚と軍艦」今村昌平監督 1960年

戦争終わって15年目の映画ですか、まだ記憶に残っている人が現役のときの映画ですね。米軍が出てきます。今だと考えられないと思いますが、日本ってアメリカと戦争したんですよね。いつも不思議に思います。山本連合艦隊長官は正しかったと思う。

そして日本の精神を恐れた米軍が行ったのは、教育の崩壊です。その崩壊された若者がすでにこの映画でも出てきます。豚の商売を始めるみたい、この若い男をAとします。

米軍の象徴として空母のポスターが出てくるところはにくいですね。空母にやられましたからね。

海軍のある街が舞台です。いまだにアメリカ海軍がいる町って那覇、横須賀、防府とかもそうだったと思いますが少ないですよね。長崎もそうかな。まあ横浜にもいますけどね。

しかし俳優はオールスターキャストに近いくらい凄いです。その辺にこの監督の底力があるように思えます。吉村実子さんって誰の奥さんだったか忘れましたが、「鬼婆」といいこの映画といい最高にかっこいい。

そういえば途中で気がついたんですがこの映画のとき沖縄はアメリカの占領下でしたね。となると防府か横須賀あたりかな。横須賀でした。看板でわかりました。海見ていると瀬戸内海のような気がしたんですが。

米軍から金を取ろうとするやつらの話です。あとは米軍からとった金をその日本人から奪うというやつらですね。しかしカンズメの汁まで飲んでしまうシーンにはさすがに時代を感じます。砂糖がおいしかったですよね。最近じゃまず女の子は、砂糖入れないで飲み物のみます。Aの彼女が勤めている食堂が雰囲気が良いんですよ。屋台みたいなんですが、人が集まってくるんですよね。まさにアジアです。とにかくAは中途半端に突っ張ってやくざ気分ですのでそんな役回りばかりなんですが、子供ができたのでまっとうな暮らしをさせたがっているんですよ、彼女が。この彼女の実家もかなり修羅場で家も汚ければ、姉妹で危なっかしい生活をしている感じです。いわゆるしもた屋です。

Aの兄貴分は癌で死期が近いし、彼女はAに愛想つかせてオンリーさんになるようなこと考え始めるし、Aを中心に変な回転をするようになります。パーティで踊り酔いまくるAの彼女のシーン良いですねえ。しかしAにとってもまあ自業自得の世界です。

しかし途中「日産生命」の看板は懐かしいしもう二度と見ることができないものです。「日産損保」も合併という形ですが、半分倒産でしたね。安田と一緒です。合併当時のソルベージマージン相当やばかったです。今でも思うのですが、金融機関の看板なんてロケで映ると懐かしい。「三井銀行」なんて懐かしいですよね。「安宅産業」なんて出てくる映画あるかなあ。

しかし彼女は米兵と遊んでいるうちに輪姦されてしまうし、その腹いせにお金を持って逃げようとすると追いつかれ捕まってしまいます。このように彼女の人生もおかしくなっていくのです。そしてオンリーさんになろうとするのですが肌に合わずすぐに戻ってきてしまいます。ちょうどAもやくざの汚さに愛想が尽きてやめて出直そうと決心したときでしたので二人仲良く出直すことにしますが。

しかしその最後のお金を取りに行くとき最後の仕事で裏切りが出て、どうにもならない状況の中、Aは叩きのめされて、豚と一緒にトラックの荷台に積まれて運ばれますが、そこには闇で手に入れた機関銃もありました。その機関銃でぶっ放すA.しかし相手を狙っていないのです。基本的にやさしいですよ。しかし相手は正当防衛と拳銃を撃ってくるし、警察も駆けつけてます。もう逃げ場がないAは流れ弾に当たり負傷をおい死にます。駅で新天地に向かう待ち合わせをしているその夜にです。彼女のほうは来ないAを待っているのですが、騒動を聞き言ってみると悪い予感が的中します。

そして姉の勧めでオンリーさんになる話が持ち上がりますが、一人Aとの約束の地に旅に出て行くのです。きっとAと心の中では一緒だったんでしょう。

意外とまとまりがないような感じもうけますが、その実、グラフィティのような映画です。なんといっても45年近く前の横須賀が良いです。活気があったなあ。

 

「ラブホテル」相米慎二監督 昭和60年

昔観た時の印象はまったくないのですが、最近、この監督の作品が気に入っているのでもう一度見直してみます。

まあ、私生活で多分借金漬けになって妻を取られた(寝取られるという感じ)男がどうにも首が回らなくなって、風俗遊びをします。その女を自殺の道連れにしようとするのです。そんな弱い男が、その風俗女を縛り付けて脅しているうちに、女の快楽というものを見せ付けられてしまうと、生きてみようと思うのですよ。

そんな始まり方をします。ちょっと、過激な女優の演技が入るので意味なく観ていると映画の意味がわからなくなる展開ですね。

生きていく手段としてタクシーの運転手を選ぶ。そして2年後、街でこの女を見かけます。追いかけて待ち伏せしてタクシーに。当然女のほうは気がついていないのですが、なぜか相性が合うのです。そのあともなにかにつけて会うようになるし、お互いに必要な存在になってくるのです。まさに「出会い」だったのでしょう。

しかし、映画では女は勤める会社の社長と不倫関係にあります。それがばれて破局に。不倫ですので、独身のほうはつらい。この場合は女のほうが独身で、この社長は家庭に帰っていきます。この不倫がばれた日の夜のこの元不倫相手にかける電話の内容の寂しさは身に染みます。ここに二人の寂しい男と女が出来上がります。しかしタクシーの運転手も破産したため離婚しているだけで精神的には奥さんはまだ家庭をもっていると思っているのです。そして出直そうと。

しかし女の気持ちはどんどん男に近づいていきます。その挙句、男もこの女がいとおしいものに思えてしまう。この感情はどうしようもないもので、またまじめな男にとってはその感情を陰で支えてくれる妻の存在ゆえに受け入れることが出来ないのです。

そんな中、最初に出会ったラブホテルで最後の夜。そして男は消えて行きます。女はやっと見つかった瞬間の休息できる相手とも本当にすぐ別れが来てしまう。しかしけじめとなって前向きに生活を再スタートさせればいいのです。

そんな終わり方。

ちょっとスケベなシーンが多いのですが映画の本質は好きです。この女優もかなり度胸あると思います。安易に人に薦められないタイプの映画ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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