「まあだだよ」黒澤明監督 1993年

この映画は良いですよ。晩年の黒澤監督の映画は良いです。「八月の狂詩曲」も良かったですけどこの最後の映画も良いです。

この作家は売れる前に30数年も教師をしていたんですね。内田百閨Bおかしいことにこの映画も戦争と関係します。ちょうど陸奥が爆発した年からスタート。学徒出陣もすぐでしょう。

しかし良い先生には良い生徒ができるというのは良く聞きますがまさにこの映画はそんなことばかりです。そこらじゅうに笑いや楽しさは充満している映画です。またせりふや構図が本当に良いんだ。監督のセンスはすばらしいです。こういう楽しい映画が最後の映画というのも良いですね。いい監督というのは最後に良い映画作りますね。今村監督とか新藤監督とかどうでしょうね。深作監督はやはり良い映画で締めておりますね。

「方丈記」(鴨長明)の心境でどんなところでも落ち着いて、心平穏に過ごす毎日、その四季の移り変わりがきれいに描かれてますし、どんなぼろやでも出かけるときは正装して出るというのは良いです。いまは勝ち組サラリーマンも意外とラフなかっこうするでしょう、あれは好きではないんです。おしゃれって重要だと思います。

「摩阿陀会」の様子は見ていても参加しているかのように楽しいです。参加者の動きが生き生きしているんです。本当に楽しい宴会とはこんなものでしょう。そして男子校なので男しかいないし、生徒のほうも家庭があるはずなのに、何でこんなに無邪気に楽しめるのでしょうか。

次は「ノラや」です。愛猫のノラが失踪してしまうエピソードなのですが、子供と同等だったのでその落ち込み方は深く苦しいものでした。しかし大黒様はまわり心配してくれたみんなの優しい気持ちと理解してから元気になります。迷った因幡の白兎は自分であり、大黒様は自分を見守ってくれた人々ということでしょう。そしてすばらしい「摩阿陀会」はずっと続いているのでした。そして最後のシーンで見た「夢」。本当に善意のある良い人ばかりの映画でした。

「真夜中の招待状」野村芳太郎監督 1981年

なんというのでしょうか、かなりの方が今では見ることが出来ない方です。奥様になられた方や亡くなられた方など、今と俳優がまったく違うといっていいのでしょう。1981年ですよ、ついこの間なんですが。

映画はおかしい始まり方をします。婚約者(男のほう、A)がノイローゼで精神科にかかるとなると女のほう(B)の家族が急に反対します。AのノイローゼというのはAの兄弟が4人中3人までが失踪したということに起因します。そしてAの精神治療が始まるのですが心の奥底に立ち入るとのこと。とりあえずいいスタートです。まったく流れが見当つかない。景色も水戸東海村、沼津、熊本ときれいですし、女優陣、男優もですがきれいです。音楽もいいなあ。映画ってこのくらい世俗と違わなければだめですよね。

途中、暗示=呪いが出てくるのですが、その説明のときにサブリミナル効果を使うのです。この映画タイトルバックでやたら変な映像が挿入されていると思ったら、このことの布石だったのです。これもだましが入るんですがね。

「暗くて長いトンネル、トンネルを抜けると深くて吸い込まれそうな谷、またトンネルがあり左手に城跡が見えて、、」高森から高千穂のあたりではないか、ということです。

ほとんど書くことがないのですが、それは監督脚本が、話がばれない程度にうまく端折るからです。結局、もしかして、と思う材料を見ているものに与えないのです。事が起こってしまったら結果として説明は入ります。見ているものの好奇心は持続しますが、ちょっとずるい感じもします。熊本で「新薬の副作用」に展開したときは唖然としました。ここまで行くとつまらないとも思うのですけどね。しかし展開は高千穂線になりますね。この辺の景色はいいので画面がきれいです。

あとは、まあ人間関係の説明と、お金と誠意が違うこと、そのことで愛情も壊れること、などが描かれますが、ポイントが高千穂ですね。結局この映画のおいしいところは女優でも俳優でもなく高千穂が持っていってしまいました。実際に伊勢と同時に日本人なら行くべきところでしょう。でもお神楽の高千穂神社って意外と小さいですけど。

 

映画観ている人にしかわからないともいますが、順吉があの患者だったとは、思いませんでした。藤田まこと、丹波哲郎が本当にちょっとしか出ないのですが、いい味出てますね。

「満員電車」 市川昆監督  1957年

大学(最高学府)の卒業式の変遷からスタートして小学校の入学式で終わります。

男(大学出たばかりの男)がいう「日本は訳もわからなく張り切らなければならないようにできている」という言葉どおりに、町に出ても人ばかり、歯医者に行っても人ばかりです。この男は張り切っているから女との身辺も整理していくんですが、女のほうもそんなに気にかけちゃいないんですよ。この時代も意外とドライですね。結局ビール会社に就職するのですが、尼崎の工場勤務になります。工場というのは音がうるさくて神経的に張り切りすぎて心身症が歯に出ていたのでまったく直りません。その痛みに輪をかけるように、仕事をてきぱきやると、呼び出しをかけられ、「君だけが能率を上げたら会社の合理的運営が妨げられる」といわれます。確かに、歯車は同じスピードで回らなければなりません。決められた仕事量をきめられた時間内で行うように注意しなければいけないんです。すると「忙しくなくて暇がない生活」になるんです。このことは対に、工場の生産ラインが出てくるんですが、規則正しく機械のように人間も動かなければならないのです。この辺から人間性重視の勤務形態が研究されたんでしょう(GEなどですね)。またこれに輪をかけるごとく主人公の父親が「正確に、秩序正しく張り切って」という教育をしているんですよ。「自分に自信を持つこと」も教え込まれております。すると社会が矛盾だらけに見えてくるんです。主人公はそれでどこか、うまくなじめないんですよ。そのために心身症的な病気は歯の痛みからほかの部位に移っていきます。決して直らないんですよ。

さらに笑えるんですが、独身寮にはおばあさん、母、妻の役をやるような男の人がいるんです。変におせっかいというか、何でも気づくタイプの人ですね。そして会社に慣れている人です。その人は主人公に「怠けず、休まず、働かず」と教えてくれるんです。しかしいやらしい性格もあり、自殺した人の話とか聞いてもいないのに教えてくれるんですよ。しかしみんなに頼られてはいるんですが、後でわかったことですが、こっそり勉強していて、資格試験に合格できないで、多分、この人もノイローゼだったんでしょう。勉強のし過ぎで過労で倒れます。

それでいて、休みにはすることがない、サラリーマン生活。そんなときに父から「母が狂った」と手紙をもらいます。大学の医学部に母を診てみてくれる人がいないか募集すると応募者がいて診に行ってくれます。その結果は父親が精神病とのこと。母親が訪ねてきた時に、「つらいことがあると笑うことに決めた」といい、「お父さんがおかしいのよ」と聞かされますが、もうこの時点で誰が正しいのかわからなくなってます。自分の病気も悪化して母が来たときは髪の毛が真っ白になってしまうほどでした。しかし体の痛みはどこにもなくなっているんですね。どういう比喩かわかりませんが、心身症が髪の毛にまで来たのでしょう。

話が前後しますが、昔の女も訪ねてきます。教員になったのですがくびになったのです。でも昔の恋人同士が言う言葉がいいんですよ。「職業とか結婚とか愛とかを分けて考えたくはない」「みんな生きるということでしょう」という具合です。この映画のとき22歳としたら今は計算すると68歳くらいですよ。このような現在の初老の方の若いときってこんな感じだったんだ、と思うと周りの人見ても何か不思議です。笑い。ずいぶんと若いときは今と違うこといっていたんだとか。とにかく、女を独身寮において置けないので、また給料が安いので男も結婚に踏み切れなかったので、大阪まで送っていくのですが、「人が多いけど、みんな歩いているだけで、品物も見ているだけで誰も買っていない」という女の言葉は私も感じます。今も昔も同じなんですね。

結局、世の中みんなおかしいのかどうかの境界線上にいるということなんですが、男は父と母のどちらがおかしいのか見に行くことにします。すると精神病院にいるのは父親で、「私以外はみんなキチガイ」「ここには秩序がある」なんていっているんですよ。先ほどの応募者はこの父親に精神病院作らせてそこでなりあがるつもりなんです。とにかく病状について話を聞くと「父親のほうがおかしい」といいます。さらに病院を建設したことを尋ねると、成り上がるためには仕方ないといいます。しかしそれを言った後すぐに交通事故に巻き込まれるんですが、まあ要領だけで、なりあがろうとするには運がなく、すぐに交通事故にあいます。主人公も電信柱に頭ぶつけて倒れます。
その治療に32日間かかっているうちに無断欠勤ということでくびになります。この休みが休養になり精神的に良好になるのですそのあと職探しに入りましたが良い仕事がなく、学歴が邪魔なので高卒くらいに詐称して小学校のこずかい、の仕事につきます。その仕事も学歴がばれてやめる羽目に。先生より学歴がいいのがばれてしまったんです。そのため、近くで学習塾を開こうということを考えました。母と二人でどうにか、やっていくでしょう。なにか挫折感のあるシーンですね。しかし主人公は塾の成功を祈っているんです。結局、彼は大学は出たけれど、、ということになってしまいました。若い監督の映画ですね。まあ、言いたいことはわかります。なにか今一歩という感じはするのですが、たぶんちょっと冗長なのでしょう。よく観ていないと話わかりにくい部分もあります。しかし金田一シリーズよりはずっと毒気あって良いとおもいますよ。

 

「股旅(またたび)」 市川昆監督 1973年

渡世人は戸籍がないとははじめて知りました。「仁義」が挨拶。例の「おひかえなすって」と始まり、生まれや流れたところなどを挨拶して、手ぬぐいなどを「おさめてくださいませ」と終わるのですが、その仁義を受けてもらえるかどうかで生活がかかっているのです。特に旅を続けていると、仁義を受けてもらえれば、食事と寝床とわらじ銭は確保できるものなのです。そして仁義のあと、足を洗って、出された「お茶」を飲んだら最後、その家のために働かなければならないらしい。そのあとの食事もご飯は2杯と決まっている。1杯なら仏さまへのお供えのご飯と同じになるから、形だけ2杯ということらしい。さらに少し長くなると4日目からは掃除などの下働きをさせられる。

いざ、助っ人の際も1対1の対決はなるべく避け(どちらが死ななければならないから)2回くらい剣を交わしたらほかの戦いに割ってはいる。そんなわけで死者は少ない。

実際のところ出入りもどちらもやりたくはないものですよね。けが人の手当て、死者の葬式費用などお金がかかるので面子が立てば仲裁人を入れてやらないこともあるとのこと。この映画観ていて思うんですが、完全な父系社会ですね。

ここで素直な感想を書きますと、3人で旅をしている若者は煮え切らないでいらいらします。結局昨今の犯罪のほうがすごい割り切り方しているんですよ。首切りとか平気で起こりますもの。この現代の異常性もあるんでしょうが、思わず、「相手を切るならもっとさっさと切れ」とか思うシーンが多いのです。

ひとりの若者げん太は上で言う、渡世の義理を果たすために実のたまたま出会えた、行方不明の父親を殺します。「親子の情」とどちらが重いか?なんて言われて信じてしまうんですよ。へたにまじめなんです。結局、一番重い殺人を犯して3人ともに追われます。このときわらじを脱いだところで知り合った女を誘うとついていくというんです。(これもまさか来ると思わなくて誘っているんですよ)女は借金のかたに無理やり結婚させられた女で嫁ぎ先で面白くないんですよ。この女の子かわいいんですが、俳優の名前見てびっくりしました。井上れい子です。最終的に逃げ回った先まで追ってきた夫の弟を後ろから殺してまでも帰りたくなかったので、よっぽどの家だったんでしょう。肉親殺しが二人では逃げ切れないと、女を「めしもり女」にします(旅籠に2名まで実質的な娼婦が許されていたらしい)。それも女は承知して、男が迎えに来るのを待つといいますし、男も迎えに来るつもりでしょう。別れ際にめそめそしているのは、男のほうです。「だったら売らなければいいのに」とこっちのほうがいらいらします。

そして運を開くために(ひとりは途中蛇にかまれて破傷風で死んでしまった)下総の喧嘩に参加して儲けようとしますが、2人組が裏切り者を殺して手柄を上げようとするのに対して、げん太の方は渡世の義理といって、切りあいします。もうはっきりいって馬鹿な者たちで、見ているこちらが唖然としてきます。とくにげん太、お前は渡世なんか渡るな、農民が似合うぞ、と心の中で叫んでます、私は。

結局走っていくときに足を滑らせて、緩やかなはずですが転がると止まらない丘から落ちてげん太は頭を打って死にます。一人残される、裏切り者を殺してしまおう、と提案した男はひとりげん太の行方を捜しながら映画が終わるのです。まあ途中いつでも別れることが出来た別のところから来た3人なので、一人では何も出来ないことを自分たちが知っているのでしょう。生き残った男の人生も先が見える感じです。

私とすると娼婦に売られた女はいつまで、心の中でげん太を待っているのかな?という疑問だけでした。なんというか素朴な映画です。今の普通の人のほうが怖いかもしれません。怖い世の中助け合いたいですね。

「ミシシッピー・バーニング」 アラン・パーカー監督 1988年

そんなに最近の映画だったっけと思うような、製作年数ですね。とにかく当時心に残った映画で、結果を知っても何回も観ております。最近の「L.Aコンフィデンシャル」と同じようなテンションのよい映画ですね。

今思うと、初めに黒人と公民権運動家が撃たれた所から始まったのが良かったですね。良いスタートです。そしてたたき上げ(ジーン・ハックマン)とエリート(ウィレム・デフォー)の登場です。結果ですがFBIがこんなに力ないものなのですかね、と思います。事件のあった街に入ると異様な雰囲気です。レストランもカラード専用とホワイト専用があります(そういえば昔アメリカに行ったときに、これは確かに気をつけていた記憶があります)。ここで思うんですが、黒人は奴隷としてアフリカから人身売買で運ばれてきたので、以外とルーツとなる社会基盤を持っていない気がします。アメリカに移民したイタリア人やアイルランド人は自分の国のルーツとなる組織基盤持ってますよね。それが努力して成功すると成功できない白人のねたみを買うことになっていくんですね。映画の中ででてきた言葉ですが「クロに負けたらおしまいだ」という言葉や「プアーホワイト」という言葉、さらには「憎しみは生まれつきではないの、教え込まれたの」という台詞に表現されてます。しかし創世記9章27節とはなんなんでしょうね。KKKの根拠らしいんですがあまり興味ないので調べてません。しかし努力しないでみんな運命のせいにしたり、色の違いにしたりするところに問題がありそうです。KKKからするとユダヤもカトリックも東洋人もダメなんでアングロサクソンのデモクラシーを作るということですので当時生活していた被害者は運が悪かったのでしょう。焼かれる十字架がKKKの天誅の証ですがどういう意味があるのかは知りません。人間の弱い心に起因するので宗教の議論は別の問題であるはずです。しかし移民させられた黒人もキリスト教を信じるということはかなり説得性、普遍性があるんでしょう。そしてなんとなく、黒人聖歌の意味がわかりました。素直に表現できなかった信仰心を歌を変えることで維持したのですね。そういえば日本も同じですもの。遠藤氏の小説「沈黙」などはパライソと歌う唄出てきますね。たぶん同じ事だと思います。変化させた部分と変形した部分と両方あるのでしょう。

そして冒頭のレストランですが黒人のおびえ方はすごいですね。さらにFBIに話し掛けられた黒人はあとで被害を受けます。この事件全体は結果としてエリートの正義感で解決のきっかけをこうして作り始めるのですが、解決したんでしょうかねえ。しかし被害を受けた黒人達はかかわりを持ちたくないんですね。すごいのは、証言に立ってくれた黒人少年がいたにもかかわらず(かなりの勇気のある少年です)裁判は負けたのです。FBIが負けたのですね。この映画の中に関して言えば、この裁判で黒人達もかなり切れましたし、KKKのメンバーも焦りからか迫害を増します。FBIもかなり決意を固くします。転機ですね。次にKKKの幹部の妻が裏切ったときにこの3者の緊張は高まり頂点を迎えます。FBIが実力行使です。どうするのか?たたきあげの手法が使われますが、おとり捜査です、それが違法かどうかの議論は別としてここから畳み掛けて面白くなることは事実です。本当にいいですよ。黒人の知り合いに黒人の仕返しと思えるような演技をさせ、KKKの幹部を脅します。すると当然、誰かが裏切ったと思いますね。先ほどのようにKKKは緊張が頂点ですのでお互いを疑い始め、たたきあげのFBIがわざとほかのメンバーがいるところに落としやすい犯罪に加わったメンバーの一人に約束したかのように訪ねればOKでした。さらにはこの訪ねた男(自分でも周りから疑われたと思っているので)にKKKの裏切りの儀式と思わせればすみます。すぐに自供しました。あとは芋づる式で逮捕できたのです。しかし最後のほうで「見てみぬふりをしたものすべては罪」という言葉が出てくるんですが事実だと思います。感想としては、黒人の迫害場面で黒人聖歌がかぶるシーンは秀逸です。次はアングロサクソンアメリカから流れでマイケル・ムーアを見てしまいそう。

「三毛猫ホームズの黄昏ホテル」大林宣彦監督 1998年

早く洋画に戻らなければならないのですが、今回も邦画にしました。冒頭の根岸さんの「どこもかしこも不景気な話で、なにか、ぱぁーーと明るい話はないの」というのには笑いながら同感です。自分のうちだけ寝正月だなんてみっともない、という感覚はわからないですけど。

しかし話は殺人事件に急展開するのですが、とにかく、変な映像だと思うんですが、というよりセットというのが見え見えなんですが、慣れてしまうと心地よくなるという不思議な世界です。この監督の「HOUSE」もそんな映画でした。ここでも負けず劣らず、美人、美男子(これは意外とこの監督では少ないかも)が次から次と出てきます。そして途中で気がついたんですが、この映画を見たきっかけは「あぶさん」つながりの三毛猫ホームズだったんです。

10年前に殺人事件が起こったのですが、その現場のホテルにそのとき泊まっていたものが招待されます。余計なものもいるのですが、その辺は楽しくするためです。役者では宮沢さん竹内さんあたりがいいです。ところがまた今回も殺人事件が起こるのです。さてそこで陣内さんの活躍、かな?

まあ都合よく、登場人物がクロスして知り合いになったり、このパーティーに参加したりで面白くまとまっているのですが、最終的な原因はやはり愛でした。それもずっと昔の愛です。それが子供や他人を巻き込んで今に至るまで尾を引いてました。一番は死んだホテルの主人が自分の子供を自分の子供ではないと感じるところから始まります。しかし、自分も不倫をしているんですが、相手(妻)には不倫を許さないという男の勝手な考えで事件が大きくなり、殺人までに発展するのです。結局、大きな事件になると関係する人が増えて、その人たちも自己都合はあるのです。それらが密接に絡んで変なことというかドラマになるのです。ですから解決は猫がしなければなりません。ということはないのですが、人間関係のしがらみがないのは猫くらいです。

映画とすると、こういうの大嫌いという人がいるのはわかります。アングルとかセリフとか、大道具が作り物と一見してわかります。しかし、その作り物の上で見世物としての役者、見世物を作っている監督という観点で見ていると、役者も監督もがんばっているなあと思える作品だと思います。何気なく見ると最後まで見てしまう、そんな映画です。しかし南野陽子さん、美人ですね。歌は一曲も知らないのですけど。

 

「水の女」 杉森秀則監督 2002年

はじめのシーンの舞台どこでしょうか?やけに海が瀬戸内海ぽいのですがよくわかりません。そして父親、恋人をなくしてひとりになった女(A)が富士山の近く「天下茶屋」に向かいます。ここも知らないのですが、富士山の見え方からすると富士川沿いでしょうか?しかし樹海が映るんで本栖湖のあたりかな。まあ樹海ってアイルランドの森に似ていますね。今回はじめて気付きました。そこで変な女と知り合いになり、気持ちが落ち着いて帰ってくるのですが、改めて銭湯の大きさに気が付きます。そこに見知らない男がいます(Bとします)。このBは火が好きな男でAは水の女、ですからABで銭湯が再開できるという安易な流れです。「はじめてあった人と仲良くしたいなら何も聞かないこと」と富士山で会った女に言われたのですがABに何も聞きません。富士山というのは銭湯の背景画というつながりがあったのです。ABに好意を持っているのは歴然としてますよね。

それは置いておいて銭湯のシーンはすさまじいですよ。さらに次の日の朝の掃除。大変そう。人間の垢は脂ですから、排水溝とかも掃除怠ったらいけませんよね。しかしなんというかAB二人の動きが仕事をしているように見えないんです。役者なんだから仕方ないとおもいますがどう見ても力仕事や銭湯を経営しているようには見えない。まあどうでもいいことですけどね。雰囲気とかでできる仕事ではないことは事実です。

Aの母という浮浪者が出てきますがBが勝手に阪神大震災の被害者ということにします。その映像が小川真由美さんが演じるのですが、ちょうど先日見た「復讐するは我にあり」の彼女からすると痛ましい感じで変わってしまったなあというのが実感で、女の辛さ、が出てしまいます。女性は老けるなあと。しかし「復讐するは我にあり」の浜松のシーンと同じような展開になるとはねえ。偶然ですかね。こちらは男のほうが自殺して終わります。

 

どちらにしても指名手配で逃げているというのは尋常ではない気持ちがあるんでしょう。逃げるほうは動けるけど、女は動けないケースが多いのでどちらの映画も良い関係になってしまうみたい。まさにどちらの映画も少年時代にトラウマがあるわけで、子供の育て方に問題があるかもしれないし、そうならざるを得ない環境も問題でしょう。しかしこの映画ではあの浮浪者が助けてくれると共に、Aの恋愛も終わりました。現実に戻ったほうが良い、という感じの終わり方ですかね。あまり面白くない映画のような気がします。

「ミッドナイト・エキスプレス」 アラン・パーカー監督 

この監督との出会いの映画だったと思います。映画は一期一会という言葉は本当に当てはまると思うのですが、一番初めの印象で何か残らなければ、二度三度と観ないでしょう。

もちろん、内容を知ってますし、忘れられないシーンも数多いので、今見ても再確認程度ですが、また久しぶりに見ました。内容が重いので、何回も観たいと思わないので、好きな割りに回数は観ていない映画です。しかし今回もまた、この映画を見直してしまいました。素晴らしい。

1970年のニクソンがトルコをを嫌っているときのイスタンブールが舞台です。空港でハッシッシの密輸をやろうとしている若者のシーンが心臓の鼓動のようなリズムとともに映し出されます。もうすでに、かなりあせっているのでやめれば良いのに、と思ってみているんですが、あせっている割に最後の度胸で行ってしまいます。たぶん厄年とか厄日なんでしょう。恋人と一緒のときに黙ってやるのは無謀です。それも素人なんで、かなりあせってます。つかまるまでの描写はこちらがあせるくらい、もっとしっかりしろよ、と思うほどです。そして売人の洗い出しに協力するために街に連れて行かれるのですが、ここでおとなしくしていたらどうなっていたでしょう?普通はここでおとなしくしているものです。犯罪捜査の協力ですので、悪い印象はなくなりますよね。しかしこの若者(Aとする)は逃げてしまうんですよ。いくらなんでもパスポートのなく何もない状態でのイスタンブールは危険です。つかまってしまいます。この間「まずいよ」と心の中で叫んでみているのは私だけでしょうか。何で逃げたんでしょう。甘いのです、考え方が。そして裁判になるにつれて父親がやってきます。結果は4年2ヶ月。密輸となるらしいので(本人にはその意思はなくても国外に持ち出すということは密輸)仕方なく、父は帰っていきますがこの別れのシーンと最後の再会のシーンは対になって感動を呼びます。

ミッドナイトエキスプレスとは脱獄という意味です。脱獄さえ出来ればトルコなら(ヨーロッパなんですが)すぐに偽造パスポート作ってギリシャに逃げることが出来るらしいのです。まあ父の言いつけどおりに黙って刑に服します。その間、人種的偏見や、ホモ、精神的にだめになっていくものなどを見ていろいろと考えさせられます。その中で回教寺院からローソク台を盗んだ男が何回も刑務所の警官のお世話になり、脱獄も試みますが失敗して睾丸をなくします。つかまったときにひどくぶたれてヘルニアをおこしてだめになったのです。憎しみを糧としてまじめにほかの人と生きていきますが、その人が少しホモっぱくて(仕方ないかも)それは拒否しながらも前向きに僧侶みたいに生きていきます。この相棒は先に釈放になり、睾丸をなくした奴は病院から戻ってきます。そこでこの監獄の建物の青写真をもらったらしい。脱獄を薦めますがAは拒否して、残り53日。このときに最高裁の判決が下り(判事が控訴していた)刑は30年と決定します。ここでぶちぎれて、脱獄計画に参加するようになり、どうにかトンネルを進めるのですが、出口にふたはしてあり、どうしようもないときにトルコ人の囚人なんですが見張り役みたいなお茶配り役の奴に(Zとする)見つかり、睾丸なくした奴が罪をひとりで3人分かぶっていきます。

残りのふたりは、このZに仕返しをしたく、お金を盗み(Zはお金が命のようなずるい奴)で燃やしますが、Zは地元の人間なので、仕返しをします(「眼には眼を」もすごい仕返しの映画でした)。マックスというもうひとりの監獄に長くいる奴を、ハッシッシの密売で摘発します。無実の罪です。そして警官に連れて行かれるのですが、そのときにAの怒りは爆発(身代わりになってくれた睾丸をなくした奴の気持ち、今までいじめられた怒り、そしてマックスを無実の罪で陥れた怒り)すべてが爆発して、Zを殴り殺します。最後は舌を噛み切ります。そしてAも特別収容所に収監されます。時計は7ヶ月進んでいます。本当ならもうとっくに出られた時ですね。しかしそこは半分精神病院のようなところでマックスがいるのですがお互いにもう気力なく呆然として、かつ、かかわりは避けたいのでしょうが気づきません。Aはいつしかお祈りの輪に加わり呆然としてます。

しかし恋人が会いに来て、アルバムの中にお金を隠して与えるのです。すこし、特別収容所は警備が緩やかなのでうまく通ったのでしょう。その恋人は意識せずとも久しぶりに見た女でした。「愛している」と自然に出るとともに、脱いでくれというのです。そして面会のガラス越しに愛撫するのです。昔見たときはすごいシーンだと思ったのですが、今見るとなんでもなく、久しぶりに性の衝動、生きる気力を蘇らせてくれた瞬間でした。それから、病院が警備が緩やかだと覚えていたので賄賂で病院に移らせてもらおうと所長に言い出るのですが、この所長のホモの餌食になるのです。実は本当かどうかわからないですが、所長が洋服を脱ぐということはチャンスですよね。あまりにも出来すぎてますがそこで殺せばいいのです。そして警官の服装をしてたまたまでしょうが、うまく刑務所の外に出ることが出来たのです。この映画のあと、トルコとアメリカは捕虜の交換の締結をしたとか、トルコ政府は上映に反対したとか、流れて最後に空港で父親と恋人と母親と抱き合うシーンをもって終わります。シナリオ、オリバー・ストーンだったんですね、音楽ジョルジオ・モロダーだったんですね。なんとなくわかる気がしました。「スカーフェイス」も同じですね。監督が違うだけです。あの映画も最後は逆にいらいらしました。自分の扱っている麻薬に溺れるなよ、と画面に向かって叫んでました。情けなしアル・パチーノという映画でした。メイキングで本人が出てきたんですが、やはり俳優はかっこいいです。このAの役と恋人の役、父親の役はみんないい役者です。ブラッド・デイビス、アイリーン・ミラクル、マイク・ケリンです。

「未来世紀ブラジル」 テリー・ギリアム監督 1985年 英国

 

なんだかわからないうちに、タトル氏が情報省に拉致されたところから始まる。すると何か変な研究職のラインがある研究所が映し出せれるが、情報記録省らしい。するととんでもなく、空飛ぶ男が現われ、かごに囚われた女にキスをする。これはすぐにこの空飛ぶ男の夢だと気づく。朝目がさめたシーンが挿入されているからです。すると不完全な通勤準備マシンが動き出し、いろいろと準備してくれるんですが、そこは人間毎日同じものではなく、一部しか使わないし、マシンのほうも壊れている。

なにか、情報省というのは権威の象徴みたいで「真実は自由をもたらす」とか「情報省は市民の味方」というキャッチフレーズが目に入る。主人公となる男はAとすると、情報省の閑職の記録局に在籍している。母親が有力者で、昇進させてもらえそうですが、Aは呼びつけられた食事会で断る。この食事会もマダムの溜まり場でみんなどこの整形外科が良いのか自慢しあっている。出てくる食事も違う材料で同じ形のもので、ここまで画一化が図られている。部屋の空調が故障しても修理は独占で国が担当して、サービスが悪いのでもぐりの修理工がいるくらいなんですが、まあ独占の弊害が描かれてます。あと先進技術の矛盾ですね。人間はいかに平和に生きるのか、を皮肉ってます。あと人間が生きる感覚を鈍感にしたときに夢は戦うことばかり見るんです。そして、姫を助ける夢を特に見るようになってます。途中、戦う敵が「日本の侍」なのには辟易しました。その侍をやっつけて仮面をとると自分の顔があるのです。権力の暴力というところでしょうか。私も英国にいくたびに日本を風刺したものにぶつかります。そういう時は居場所がなくなります。昔はちょうど「ミカド」を見に行ったとき。この前はたまたまミュージカルで「南太平洋」見たときです。ピンクフロイドの「ウォール」を見たときも隣の方に戦争は好きか?と聞かれたことがありました。 

映画の続きに戻ります。しかし、記録局で小切手事件があり、払い戻しをしなければならないことの代理で当事者に会いに行くとバトル氏の奥様でその周辺は荒廃したスラムの雰囲気があり、その中で上の階の女性がいつもAの夢に出てくる女性だと知ります。それからはこの女性を知りたくなって、昇進を願い、情報剥奪局に入ります。そこで親友が容疑者を殺す仕事をしていて、バトル氏も殺したと聞きます。誤認逮捕だったのです。それで、逆に誤認逮捕の目撃者である「夢の人」も殺す予定だと知ります。とりあえず、Aは「夢の人」のファイルをもらい、自分が処分するといい、出かけます。すぐに誤認と主張に来ていた「夢の人」に会います。エレベーターでひと悶着あったあと、どうにか車を情報局から遠ざけて、自分の気持ちを素直に言いますが相手にしてもらえません。実際に相手にとっては初めて会う人ですし、Aは勝手に「夢の中」で出会っていただけなんです。この辺もパラノイアと夢の境目を行ったり来たりの感じがしますね。

「夢の人」を情報局から連れ出して、一緒に逃げますが、当然当局に追われます。なんだかんだでも捕まりますが、もう空飛ぶ人間との混同が入り始めまして、「夢の人」と抱き合うことしか目標がなくなります。猪突直進ですね。「夢の人」が追われているので、記録上抹殺をして死んだことにすれば追われなくなります。しかし今度は記録改ざんでAが捕まります。最後に脳の検査というか手術を行われそうになると、タトル氏が助けに来て、情報局を爆破に成功します。(この辺はもう、妄想なんですが)そして脱出に成功するとタトル氏は情報の紙にまとわりつかれ消えてしまいます(情報局爆破だから紙なんでしょうが)。そのあと、母親の葬式とかに参列したりするのですが壁にドアがあったり、穴があったりで向こうの世界にいったり穴に落ちたりしているうちに最後にタトル氏に助けられ、「夢の人」と静かな牧草地帯で生活している風景が頭に浮かびます。ここで終わりです。めでたし、めでたし。なんという映画なんだ、と思ったんですが、

このあとがあり、実は妄想で完全に狂って終わるというオチがつきます。

こうなるとメルヘンチックな終わり方と現実の社会の脱落者としての風刺が数秒の間に転換してしまうんです。いや、参りました。しかし昔観たときにはなんとも思わなかったのですが今回はすごく面白かったのは年齢のせいでしょうか。「ブラジル」とは全編に流れる音楽の名前で、頭の中がサンバのようにめちゃくちゃになった感じというふうに捉えるとわかりやすいタイトルだと思います。お勧めの映画ですよ。この分ですと「バロン」も、もう一度見たほうがいいかもですね。あれもつまらなかった印象があります。

 

「ムルデカ 17805」藤由紀夫監督 2001年

まあ前に見た映画が「スリーピング・ディクショナリー」なので流れからして当然ですよね。ほんの数年後の同じような地域のことです。出てくる人物像がまったく違ったりしてね。1942年3月1日のオランダ領ジャワ島。きわどいですね。オランダ領でした。ABCDのうちの2カ国ですね。英国とオランダ。し8かしね。「東から黄色い人がやってきて、島を幸福にしてくれる」という伝説があるといって日本兵に近づいてお辞儀する様子はさすがに宣伝映画っぽい。単独でこの映画見ればよかったかもしれない。確かにこの映画は少し偏っていると聞いてはいましたがねえ。あと、最近戦争映画ばかり見ているので、しゃべり方やらしぐさすべてがおかしい映画です。「これ、ちょっと」という気持ちが出てしまいます。たとえば、オランダ軍司令部に単独で中尉Aが乗り込んでいくのですが「お前が軍人だとなぜわかる?」と聞かれ、「この軍刀にかけて信じてもらう」というような趣旨言うのですが、「戦艦大和」とか「人間の条件」とかにこんな兵隊は出てきませんでした。これらの映画の監督は実際に戦争へ行っているんですがこの監督はどうなんでしょうね?それより「東宝」のマークがはじめに出たのですが、東宝はご存知のように労使問題で映画が作れないときに、黒澤監督とか大映や松竹で映画作ったり、新東宝という会社で労使問題に関係のない人たちが映画を積極的に作っていたはずです。ですから新東宝は少しナショナリズムがある映画つくり、東宝は左翼系だと思うのですが、まあ時が変えたのでしょうか。それはおいておいて、オランダが無条件降伏をするのですが、そのときは今村均中将なんですね。彼はかなりの人物と聞いております。ちょっと調べてみたくなりました。あと(映画から離れてばかりいますが)一連の戦争映画で、今回初めて中将なんてすごく位の人が出てきました。それだけ大上段に構えた映画なのです。

まあやわらかい話題をひとつ、それはこの映画にもジェシカ・アンバに似た女の子が出てくるのです。「スリーピング・ディクショナリー」なんでしょうか?笑い。この子がAに現地の言葉で話しかけてしまったのですが理解できなかったでしょうと謝るのですが、Aは「理解できる、君の目がすべてを物語っている」というのです。閨での講義はなかったみたいです。大爆笑。それくらいこの映画冗談な変なテンションの高い変な映画です。まったく人には勧めません。

これも置いておいて、「大東和共栄圏と大東和戦争貫徹」の矛盾がこの一兵卒に襲い掛かります。まじめに大東和共栄圏、欧米支配からの脱却を考えていたんですね。ここでのAの上官に対する反抗的な態度、普通じゃないですよ。ほかの戦争映画ならかなりの刑罰が待ってます。と、そんなことしているうちにミッドウェイで空母失って山本長官の戦死(このあたりは字幕でのみの解説です)でこんなところの日本軍は追い込まれてます。

そしてジャワ防衛義勇軍が組織されました。ちょうど戦艦陸奥が爆破されて数ヶ月のころです。そして行進するのですが、その次のシーンで玉音放送、ちょっとねえ監督、ジャワの日本軍がどういう戦いをしたのか、連合軍がどう攻めてきたのか飛ばしすぎですよ。

しかし戦後9月に英国、オランダ軍が侵攻してきたことは事細かに描いてます。ジャワは無傷だったんですかね?絶対にそんなことはないと思うのですが。すくなくてもこの映画は信用できないから機会あったら調べたほうがいいでしょう。

そして、あくまで現地の人に慕われていたAは隊長としてインドネシア独立のために戦います。その部下たちもついてきました。さらに現地の女と恋にも落ちました。なにがそうさせるのか?あえて第二次大戦と書きますが、理念モデルは植民地解放ですので、その理念を信じきった男がいてもおかしくはない、ということでしょう。そして昭和24年になり、下手すると朝鮮戦争の前夜ですね、首都ジャカルタを攻略を挑戦します。まあ成功するんですが、それで終わり。国家が安定してから家族のものが慰霊に来て終わり。

やはり監督は戦後生まれ。せめて戦前で空襲経験あるとかだとまた違うのでしょう。それくらい変なつくりです。

しかし忘れてはならないのは、この映画に出てくる日本人は実際にいたということです。このことは以前から知って感動しておりました。この映画はその感動を深めてくれるものではありませんでしたが。まったく知らない人は見てもいいのかもしれません。

「めぐり逢う大地」 マイケル・ウィンターボトム監督 2000年

久しぶりのこの監督の映画観ます。

アメリカに英国からの移民が流れてきます。カリフォルニアのシエラ・ネバタ山脈のキングダムカムです。1867年。ほとんど明治維新のころです。ゴールドラッシュでスコットランド、ポーランド、アイルランドなどからも来ていますね。それで西部はいろいろなコミュニティーができるのでしょう。

あとで説明するC(親戚を訪ねてきた)と鉄道会社の測量技師の男Bが近くの山にトレッキングに行く約束をしますが山が嵐で山小屋に非難します。Bは基本的に鉄道をどう引くかに影響力があるので賄賂をもらいやすい立場にあるんです。それでこの街はあまり景気がよくないのですさんだ雰囲気があり、鉄道がどうしてもほしい景気浮揚策としてほしいところです。

もうひとつの大きなうねりがこの物語にはあります。それは母と娘。ある男が女を連れてこの街にたどり着いたとき、お金目当てに採掘権と女を交換したのです。その女が子供を連れて戻ってきたのです。この娘Cが測量士と一緒に流れてこの村に来たのです。ここで告白するとこの母と娘と歌手、この映画には美人が3人も出てきます。それだけで画面を十分に彩るんですけどね。歌手はA、母はD。

ACでBの取り合いになりそうです。しかし父親に自分が娘だとわかる物を無言で渡すと父親もすぐに売った娘と妻のことを思い出します。娘はこの歌手のステージで(なぜなら歌手はCがライバルだと気がついたので積極的に近づいていった)あるポエムということでこの身の上を語ります。そして父親にメッセージを送っているのです。このステージのシーンは美しいですよ。

そうこうしていたらボスのお呼びが母と娘にかかります。目的は?ここはどきどきしましたよ。「だんなが遺産なしで死んだ。そして私ももうじき死ぬ。娘の生活だけは保障してくれ」というもの。なんというでしょうねえ。いまだに夫婦だ。やり直そうと。かっこいい、監督のピーター・ミュランです。役者としても「セッション9」とかありますよね。ついでに美人3人トリオはナスターシャ・キンスキ、ミラ・ジョボビッチ、サラ・ポーリーです。娘は結婚に反対して反抗的になります。というより自分の父親だということを知らないのです。さらにCが好きな測量士はこのときにこの町に鉄道を通すのは無理だと判断しているんです。しかしこの二人は引き合っていく。親の残した遺産は、土地は無価値に近くなってしまうんでしょうが。

しかし測量士は言わなくてはなりません。このことは人が死んでもおかしくないくらい重要なことです。街を作るということは何もないところから秩序を作ったので大変なことなのです。そして、Cに対して好きな人についていっていい、と母は薦めます。後で後悔するわよ、とね。

そして母の死後、父と教えられ、捨てたことを許しませんでした。ゆえに好きな人の元に走るのですが、もう何も亡くなった父は悲惨な死を遂げます。

まあ簡単に書きましたが、いい作品です。

「モーニングムーンは粗雑に」渡辺正憲監督 1981年

はっきり言ってつまらない映画です。しかしサザンと横浜、神奈川にゆかりのあるものには懐かしい風景が出てきます。それだけでしょう。原宿も懐かしいですね。

「ニューミュージックにはブスが多い、」すごいせりふですが。

あと何にもなくて、高橋洋子がブスになったなあ、と思ったくらい。「旅の重さ」のときは良かったんですが。

 

何も言うことないです。出演者もそんなに印象のない映画ではないでしょうか?しかしサザンオールスターズの曲をこれだけ使うのだったらもっといい映画は出来るでしょう。何でこんな変な映画になったのかわかりません。監督がいまいちなんでしょう。もったいない。

「マグダレンの祈り」 ピーター・ミューラー監督 2002年

1964年アイルランド、ダブリン。

結婚式?のパーティでケルトダンスの最中、いとこ同士で女が無理やり強姦で犯されます。

そのこと事態すぐに知れ渡り、影でいろいろといわれるのです。ほかには子供ができてしまった女の子や素行不良という女の子が出てきます。すると両親はその子供を養子協会に預けて育ててもらうということにします。そして修道院に入れられます。同じときに入院したのが3人(ABCとしておきましょうAが子供を生んだ子、Bは素行不良孤児院から来た子、Cが冒頭のいとこと関係した女の子)。マグダラのマリアの話をはじめに聞かされます。(娼婦だったのが、信仰を信じて倹約しているうちに聖人となった女性)らしいのですが聖書関係は弱いんですよ。

それと、まあ時代でしょう、JFKの写真が机の上を飾っております。ちょうどアイルランドカトリック系の初めての大統領ですね。

Aは当然、乳が張ります。それを母乳を出したらシスターが怒り、折檻されるということを古株に教えてもらいます。なにか一歩間違えれば、東映の「さそり」ですね。多分、この修道院の共通項は処女ではないということがわかったもので家とかがここに送り込んだ女の子の集まり。

一人脱走した女の子がいるのですが、家に帰ると両親が連れてくるのです。なぜならば、両親に恥をかかせたということらしい。そして罰で坊主頭にされます。まるでシンニード・オコーナーみたい。この歌手のメッセージもこういうところに根ざしているのかもしれません。確かこの歌手の家も厳格なるクリスチャンでしたね。

こういう罰を、いきさつを見ているにもかかわらず、Bは脱走しようとします。この子は性交渉はないみたいなんです。なのになぜ自分が入れられるのか不思議というか反抗心が旺盛な女の子です。

しかし計画段階で見つかってしまい、シスターにも知らされるし、仲間と思った男の子が直前に裏切り、お終い。ここからの罪への償いはまさに、修道院もののいかがわしさそのままです。髪の毛を切られ、みんな裸にされと、この映画、まともな映画なんですがこんな表現からするといかがわしいものに思えるでしょう。

しかしCは神父の性的に堕落した姿を見てしまいますし、シスターの後をつけると秘密の出口があるのです。しかしCはそこから逃げられるにもかかわらず逃げませんでした。

そして極めつけはこの神父が関係したのはCの友人でした。二人とも性病になります。しかしこんな言い訳が通るわけがありません。この友人の女の子は、精神錯乱ということで精神病院に収容されます。

しかしCは弟が迎えに来て、修道院から出ることができます。家族が受け入れてくれると大丈夫みたいですね。

残るABは脱走を試みます。本当にひどい仕打ちばかりでした。まさに「カッコーの巣の上で」みたいなものです。

そして成功。

その後の人生はさまざまですが、アイルランドではこうした修道院が1996年まで存在していたそうです。魂の叫びとその崩壊、さらには崩壊を防ぐ真実の内なる信仰について考えさせられるいい映画でした。

 

「マンマ・ローマ」ピエル・パオロ・パゾリーニ監督 1962年

この監督はスキャンダルばかり注目されますが、意外といい映画を作る監督だと思います。

主演のアンナ・マニャーニ(A)は大好な女優です。

作風はこの監督の一作目と近い感じのするものです。母の気持ちと子供の反発と贖罪がテーマに近いと思います。そのことを画面では、キリスト教の有名な絵画の構図をモチーフにして描ききっております。気がつかなかった点ははじめのシーンが「最後の晩餐」の構図ということ。

あとは磔のキリストの名前はわかりませんが、力強い絵画の構図も最後に出てきます。ここで子供は贖罪として死んでいくのです。その過程は母がもと娼婦でまるっきり恵まれない家庭だったことで一人息子に過大な期待をすることに起因するのです。この期待は当然なものなのですが息子のほうは体が弱く、また少し引きこもり気味な性格で母の心配を招くのです。ですから、母が狂言でまともな就職口を見つけてくれるし、元娼婦の直感で息子が親しくする女を避けるように指示します。これらが息子には余計なお世話に映るのです。しかし人生の修羅場をくぐってきた女の正しい判断なのです。そして唯一の欠点は息子をまともな人生を送らせようと考えた母親の気持ちが強すぎた点でしょうか。しかしこれは当然のことで、欠点とまではいかないはず。

上の就職祝いに奮発して買ってあげたオートバイで街を親子で飛ばすシーンはこの映画での幸せのピークなのです。たかがそんなことで幸せのピークが来てしまうのです。

あとは、昔の男にまた娼婦にさせられたり、息子が仕事をやめて、あまり好ましからざる連中と付き合いだしたのも悲劇への加速の度合いを強める効果しかありません。

そのまま、犯罪、そして監禁、磔の治療(体が悪い囚人ということなのですが)、死。

最後にその死を聞いたとき母親も飛び降り自殺しようとしますが、市場で働く下層階級の人々はこの母親の気持ちがわかりすぎるくらいですので必死に止めます。その力で死ぬのをあきらめた先には教会が光り輝いているのです。

まさにこの舞台となった地域はイタリアとは思えない、合理主義の建物と市場、(それは汚い市場です)、そして対照的なローマ帝国の遺跡と周辺空き地、さらに最後の鐘もいわゆる団地の中に燦然と輝く教会の鐘でした。

このことは単刀直入に社会の貧富の差と下層階級の悲劇を見事に浮かび上がらせるのです。

音楽が「鉄道員」「ブ―ベの恋人」などの作曲家というだけあって、哀愁のある印象深いいいスコアを提供していると思います。この監督もここから「王女メディア」にかけては才気いっぱいの監督だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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