「闇の狩人」五社英雄監督 1979年

1747年かあ、イメージないですが賄賂の政治なんですね。

また闇の世界ものっけから手下と愛人に裏切られています。画面は横長で歌舞伎の舞台のような印象を受けます。ですから人物の動きは基本的に左から横切るかたちで、映像とするとアップは良いとこ取りですね。

裏切るはずの用心棒が寸前で裏切った(大将の値踏みをした)から話が面白くなる。うまいなあ、映画ってこうでなければいけない。あとでわかることですがこの裏切った武士の女も裏切って殺された親方が忍ばせておいた女です。裏切ったことでこの女が生きてきます。

田沼意次は北前藩士の動きを注視するべく、幕府の闇のものを忍ばせております。この懐刀は北前藩の藩士で裏切ったものです。おとり潰しになる前に寝返ったわけです。その男が闇のものをお家再興の動きをするものを消すために使うのです。まあ、腐りきった関係ですね。闇のものが腐ってはいないはずですけどね。「恩と義理の売り買い」で成り立っている世界ですから、義理を忘れてはいけないんです。そして、この裏切った用心棒が北前藩士でお家断絶を阻止すべく、間違って親殺しをした男です。かなり入り組んでいるんですが、その知り合いが闇の親方の愛人となっているという具合で、話は一気に進みます。これだけ都合が良ければ物語の進行は早いですよ。お家断絶の復興のためのお世継ぎの居場所をなんと闇の親分の愛人から聞きだします。この居場所は裏切った親分の愛人を拾った男も知っているんです。これで愛人が2人重なるわけで、面白くなりますよ。

「闇の家業、いざとなったら未練がなくたためるのが利点」ということで親分は勝負に出ます。というか恩と愛人(北前藩の人間)への未練です。愛人というほどではなく身投げをしたところ、拾って世話をしているというところですけどね。しかし、勝負をすると田沼の側近を敵に回すことになります。走馬灯を背景に「お前の始末は俺がつける、それまで黙って俺の言うことを聞いていればいいんだ」というせりふ、決心しましたよ。この映画、この走馬灯もそうですが、こいのぼりなどの江戸の風情が背景で役者を際立たせているのです。それはまるで歌舞伎です。結局、北前藩の男と女は死にそうになるのを(身投げなど)男は闇の親分を裏切った一の子分に拾われ、結局は親分に付いた。この恩義が親分にはあるんです。そして女は親分に拾われた。このように二人とも闇の世界の物に拾われて表に戻ろうという話です。しかし結末は、現実は厳しいです。

そして映画の最後も田沼意次の一人がち、というか勝手に滅んでくれたというか、平和な時代の汚職は崩れにくいという感じの終わり方です。

 

「蘇る金狼」 村川透監督 1979年

これは原作を読んだことある記憶がある程度でほとんど覚えてません。

でもはじめ見たら雰囲気は思い出しました。松田優作は少しミスキャスト感が否めません。

冒頭の1億円事件、あれはありえない。それとその後の会社での会話。「経理部長は融通手形振り出してそれを元に貸付暴利貪る」「専務たちは下請けから半分不良品納入させて私服肥やす」これらはどういう意味でしょう。融通手形はいつかばれます。ここで「社長もぐるときているから」という会話がありますが、手形の裏付けの現金がなければ監査とおりません。不良品で単価安く原価コントロールしているなら会社の製品が安定しないし、めちゃくちゃな会社と言いたいのでしょうか?社会がめちゃくちゃといいたいのでしょうか?良くあるのですが映画監督は所詮は映画監督でサラリーマン経験ない人が多いのでサラリーマンの世界の映画化は難しいと思います。

その強奪した紙幣の番号が控えてあった(まあこれもないでしょう)ため、使えないのでヘロインに形を変えて、そのヘロインを使って中毒させてある人間を操る。という感じですね。しかし確実に見たものは殺していくので犯人とするといい形です。この麻薬のボスが市議会議員でそれは豪邸に住んでます。なにかこの映画に出てくる景色はおかしいんです。映画といってはそれまでですが、設定がおかしい。市議ですかね。その家が暴力団まがいの見張り番雇っていたら問題ですよ。またヘロインと現金の交換のときあんなに銃持っているわけない、というほど持ってます。またほとんど殺されてしまうのですが、そのとき一発も撃たないものでしょうか。

そしてこの油脂会社、重役の椅子を用意するということで殺人を会社の従業員に依頼するもんですかね。まあこれも主人公が仕組んでいるんですがね。用意された銃はまずい感じがします。抜け目なくすべて燃やしましたね。まあ特別背任、資本充実違反(うーんみんな商法違反だ)殺人教唆と脅して200万株手にしようとします。

実際手にして従業員兼大株主の誕生です。そして社長令嬢まで婚約してものにします。

そこにのっとり屋の登場。この会社のっとりたいとのこと。200万株を時価の3倍で買うとの打診。実際特定株200万株ですのでこののっとり成功でしょう。(役員の中から200万株調達してます)。売ってドルに変更の要求。そして有頂天になっているときに風吹ジュンが再登場。いやな予感です。いままでに成功を駆け上っているやつが女で何回失敗していることか。そんな映画は見たくないのです。飽きました。成功する映画が見たいのです。まあうまくいくなと、そしてヘロインも高く売れたし、多分この男は昔からの風吹の方を選ぶだろうと思ってみてましたが、なんだよ、この映画。また同じことの繰り返し。彼女に刺されます。ここで最高につまらなくなります。こんなものか。ダサい。

 

「黄泉がえり」塩田明彦監督 2003年

はじめから監督の実力、役者の実力がちょっと足りないのではないか、と思ってしまう。しかし大ヒットした事実は紛れもないので、今はそんな時代だと思うことにしよう。

「思いが人をよみがえらせるのか」という問いに、信じなかった女(A)は自分の彼氏もよみがえったかどうか、確認に同棲していた家に戻ります。当然、蘇っていない。なにか、きっかけや理由があるはずです。厚生労働省の役人(B)でAの幼馴染が調査にやってきます。場所は阿蘇。とりあえず「高砂」の木がある神社がありますね。

しかし面白いサンプルが出てきます。特別、表面的には「誰も生きていてほしい、戻ってきてほしい」と思わなかった人までも蘇ってきました。これでAの願いもまんざら嘘ではないということがわかります。

もうひとつは「夫が死んだ後、その未亡人を好きになって未亡人の経営しているラーメン屋で一生懸命働いている男」の場合。必死さから子供もこの男の人になつくのですが、夫が蘇ってから、この男の人のひそかな恋心は壊されます。さらに夫もいなかった間の子供とこの男の人の関係が良い感じなのを、ビデオで見て知るのです。上の戻ってきてもらいたくないと思っているというケースは、この男の兄貴のケースです。確かにうれしいのでしょうが、あまり願っていたことではなかったのですし、この男は兄貴が戻ってきたことと、好きな人の旦那が戻ってきたことを一緒に考えています。すごく短絡的。馬鹿だなあ、と思ってみているんですが、この辺、言葉がなく音楽、それも管弦中心で映像で語れば、雰囲気は当然一気に盛り上がります。

あとはいじめられて自殺した高校生や子供を自分の命と引き換えに死んでいった母のケースなど、あとから死んだ人が戻りその人たちの存在理由が再確認されるケースが出てきます。

しかしAの彼氏が戻ってこないように、クレーターと重力異常が蘇りに関係するみたいです。さらにお墓の位置があるエリア内の限定されています。Aの彼氏のお墓は海の中。しかしこの彼氏を好きだった女のこのところに戻ってきているのではないかとAは疑ってしまいます。BAが彼氏のことをそんなに思っていたのか、初めて知ります。これは本当に思っていたのか、思い出を美化しているのか、微妙なんですよ。実はBの方が合うんですけどね。

しかし熊本へ精密検査に出かけるときその蘇りをした3人が一定地域から出ると消えてしまうのです。そして、生きている人間の下へ現れるんです。誰の元へかは、その人の思いの強さです。そして現世の人間を励ますのです。基本的に蘇った連中は死んだ瞬間を覚えているので、何でも人に施しをできる余裕があるのですよ。ここでありがちな展開をします。Aは実は死んでいたんです。ではどうして映画のはじめから出ていたのか?Bの思いが蘇らせたのです。その蘇ったAは平気でBを裏切るようなことをしていたのです。ではまったく蘇らせた人に施しをAはしないのでしょうか?しないわけないです。映画になりません。しかし次々に死んだ瞬間を思い出していきます。本人たちは一度死んでいるので動揺はしないのですが、周りが思いがあっただけに、動揺します。Aは施しをしなかったのは死んだ記憶がなかったためでした。(寝ていて事故に巻き込まれてしまったのです)しかしBにはチャンスがありました。それは子供が預言者で明日の夕方みんな消えると教えてくれたのです。Bは本心を打ち明けるチャンスをもらったようなものです。多分ここでAも理解してくれるでしょう。RUIというシンガーが何かのきっかけに絡みますね。はじめからずっとキーポイントで歌が流れてます。コンサートのシーンから地味に本当に地味ですがグーと盛り上がってきます。感じる人には感じる素晴らしい盛り上がり方です。歌手(メンバー)もまた蘇りでした。そしてAの会いたい人もBでした。ですからこの蘇りを利用してコンサートが開かれるわけです。そして主役の二人の再会。ここでお互いの心が解け合います。愛という形で永遠に重なり合うのです。

「たとえ、1分でも自分の本当に愛した人と心が通じあえたなら私は自分の人生を幸せだと思える。その思いが私にある限り私は前を向いて生きていくことができる」これがテーマです。

 

「ラストエンペラー」ベルナルト・ベルトリッチ監督 1987年 イタリア英国中国

この監督のオリエント3部作の一番初めですね。意外と映画としてはこの3本とも評価が高いのですが、すべて表面的だ言う意見が多いようです。

どうなんでしょうか?私は感動している方なんですが、「シェルタリングスカイ」は原作者のほうについての映画を見てしまうとそうなのかな、と思います。話は戻りますがこの映画は、何か最近観た映画のテーマとかなりダブルのですが、「人間の条件」「ドクトルジバコ」などです。そういった意味では中国の逆側の風景だと思ってみると、今回は興味を持ってみることが出来ました。ロシアと清は搾取するだけの大国であって倒す価値があったのでしょうか?何故これらの国で、ほかに君主がいた国もあるというのに革命が起こったのでしょう?ロシアの辺境地は中国と接していますし、情報の交換や啓蒙があったのだと思います。しかし共和国となる過程と紫禁城の中にだけ存在できた理由などがあまり表現されていなくて、ちょっと拍子抜けします。象徴として存在していたということですが、実は私は中国の歴史は詳しくないので、そうなんでしょう。しかし子供のときに仏陀と同じような境遇にあったことは事実です。世間を見させてくれなかったという環境です。とにかく、この紫禁城のシーンは私にはつまらないシーンで、すごく興味があるのは溥儀が捕まった後拘束されてからです。なぜならば、違う名目の権力が裁こうとしているからです。ほとんど映画化されておりませんが、スターリン時代、毛沢東時代の両国内の状況を暴露したような映画はないのでしょうか?そのほうが興味あります。

途中「紫禁城は観客のいない劇場、そして熱演は今も上映されている」というような言葉があったと思うのですが、これがぴったり私の気持ちの表現に当てはまりました。なにか過去の遺物を何故残してあるのだろう、とはじめから思っていたのでしょう。これに気がつかないでおかしいと思っていました。すっきりしたのは、ジョンローンとジョアンチェーンのラブシーンからです。この辺の苦悩と夫婦の癒しがうまく表現されていると思います。いつこの奥さんと別れるんでしょうね。その前に共和国制がが崩壊するみたいですね。満州出身の溥儀は紫禁城から追い出しをくう。そして日本との接触が始まるみたいです。この映画昔は興味なかったんです。このような背景まったく考えないで観てました。1924年に共産軍が生まれていたのか?違います。蒋介石の国民党ですね。国民党が西太后および溥儀の祖先の墓を暴いたのも大きかったみたいです。しかし天津にそして1927年日本(日本大使館)に向かったというのはすごく興味があります。どんな背景があるのだろうか。日本もこのころは「帝都物語」ではないですが、関東大震災の頃ですよね。そしてジョンストンという家庭教師が1931年まで天津に滞在していたんですね。この辺の描写は映画では甘いので、深く理解は出来ないですし、劇的な描写もありません。

1934年に満州国の皇帝?に。満州事変より前なんですね。知らなかった、で済まされる内容かな。そして日本の植民地化へ。このとき、映画では甘粕の一連の行動、完璧です。日本こういう感じで他国を攻めるタイプの国ではないので、もしかしてこの人物はかなり優秀かもしれません。しかし大局では、満州に進出と南アジア同時に進撃という馬鹿なことをしたことになります。陸軍と海軍が別れたから仕方ないのでしょうが、満州のみに固執していればずいぶんと変わったことでしょう。その前に侵略戦争を否定しなければなりません。このころ梶上等兵も満州にいたことになりますし、「帝都物語」の加藤に代わるものが帝都を支配したことになるのでしょう。映画って類は類を呼ぶ感じで面白く拝見しております。しかし途中、南京大虐殺が出てくるのですが、これは事実なんでしょうか?よくわからないんですが、日本の国民性からして虐殺が出来るとは思えないのですが、本当にこの規模であったんでしょうか。そして第2次世界大戦の日付が一日前になってます。もうこういうのどうでもいい。そして原爆、昭和天皇のお言葉。日本をテーマにしていないからいいのでしょうが、やはりイタリア人が作ったとしか思えない感じがします。この監督を馬鹿にするわけではないですが、「シェルタリングスカイ」でもボウルズ、バロウズにけちょんけちょんに言われたのが判る気がします。彼らはすごかった、「早くイタリアに帰りたかったんじゃないか」なんて言ってましたね。この言葉わかる気がする。この監督はやはり甘いというかロマンティックすぎる。小林監督のほうが数段上です。「東京裁判」「人間の条件」込みで観るとぜんぜんレベルが違います。それでもアカデミー賞かなりとっているんですよね。まあいいか。その程度の映画です。最後のほうなんか甘くて甘くて観ていられないです。

そして文化大革命を見る元皇帝。裁判を取り仕切った男が捕まってます。毛沢東の名の下に馬鹿な革命が起こってます。中国の歴史はこの辺描けないでしょうか。絶対に面白い。なにせこの映画が出来た頃はまだ天安門事件の頃ですから。笑い。

LOVE/JUICE(ラブジュース)」 新藤風監督 2000年

あまり言うことない映画です。

画像もあまりきれいではないし、生活観がにじみ出ていて、画面がにおってきそうな感じは良いと思うのですが、女の子ふたりのポジションがあいまいです。

この子達はどうして一緒に生活するようになったのでしょう?それが判らない。どちらかが根を張った生活に目覚めたとき別れるのでしょうが、まあお互い不便なく生活できるのでそのままというか、寂しさを感じないで済むから一緒という感じです。

この映画を見ていて思ったのは、孤独なんだなあ、ということ。見ていてつらいんですよ。でもこんな女の子はいくらでもいるでしょうし、男はなんか彼女がいなくても違う感じになるような気がします。男同士一緒に住むということはあるのか良く知りませんが、女の子の怠惰な感じは良く出ています。でもあの金魚屋の男もおかしいよね。あれだけ積極的にアプローチしているのに無視していていいのだろうか?

かなり期待してみた割には、つまらないかな。

しかし実際の女の子を表現はしていると思います。男は意外と女に過大な期待をかけるから外れるのであって、このような子達が普通だと思います。縁側で絵を描いたり、金魚飼ったりしてます。

レズの子の方の性的衝動の強さはなにに起因するのかは知りたかったです。孤独なんですが、それがいろいろなところで描写されます。なにかこの子は自殺するタイプですよ。

レズではない子の男友達が遊びに来たとき部屋に入れないで返したのですがそれで二人の関係がおかしくなります。しかしその男にレズのほうが犯されます。男のほうはレズの女のほうに興味があったのです。ふてくされる女と犯されたレズどちらもいい思いはしていないのですが、レズのほうは黙っていますけど、出て行きます。別れてみて気づく愛情、友情なんですがこのふたりも別れて気がつきます。そしてけじめ。「ずっと一緒にいたらほかの人を好きになれない」とレズ。まあその通りです。早く別れなさい。しかし思い出は残るよ、というところで終わり。

 

奥野ミカという子がレズの役ですがこの名前聞いたことあるんですよ、有名な子なんですかね?藤村ちかという子がもうひとりの役ですがこの子もいい子です。

 

「リゴレット」 ヴェローナのアレーナでのオペラ祭 演出カルロ・リッツアーニ ビデオ監督ブライアン・ラージ 1981年 イタリア

 

このオペラのよさはなんといってもテーマにもかかわらず曲のよさです。なんとも良い曲ばかり並んでいることでしょうか。もうはじめから素晴らしい。特にマントヴァ公爵邸の「どれもこれも私にとってそこらの女と同じ」から「チェブラーノ殿よ、まさかお怒り?」まで一気に、管弦のリズムと抑揚が本当に素晴らしい。はじめから釘付けになりますね。内容は破廉恥さわぎとせむし男が出てくるとはまったく思えないメロディです。まずはリゴレットがよいです。(バリトン、ガルビス・ボヤージアン)。

リゴレットのいじめ依頼(これが後に亡霊さわぎとなります)や秘密がでてきて、そこにジルダ登場です。ここも本当に劇的に盛り上げながらもスムーズに登場します。そして親子の二重唱良いです。(ソプラノ、ジルダ役アリーダ・フェッラーニ)。リゴレットが「故郷も身よりもない」「ジルダだけが生きがいなんていっているので孤独なので異常なまでの愛情を娘に注いでいることがわかります。しかし世間から遠ざかって生きているのですね。リゴレットが退場してからの「ジルダの秘めた恋」がわかり(一目ぼれですね)「愛こそ心の輝き」の二重唱もいいです。まさにお互い一目ぼれの強い愛情が表現されます。この曲の中で「二人は愛し合っている」というフレーズも良いですねえ。ジルダの楽しそうな顔も印象的です。愛についてとくとくと語って歌い上げます。「私を愛すると」「言いました」とこのときにリゴレットが戻ってきそうなときのスリリングな音楽と「さようなら私の希望よ星よ」も良いですねえ。恋人が去ったあとのジルダの独唱「グァルティエル・マルデ・・愛する方の名」このアリアはばっちり決まってます。初恋のときめきがうまく歌い上げられていいですねえ。最後にリゴレットが目隠しをされてだまされて伯爵夫人を誘惑しろと言われている間にジルダの身に何か起こって第一幕終わります。話はすごく暗いのですが、本当に何でこんなに美しい曲なのでしょう。すべてが美しいです。話の内容はどうでも良いくらい本当に美しい第一幕で

す。

第2幕

第一幕の終わりのジルダのアリアに対応するかのように公爵の「誰が奪ったのか」「わが目に浮かぶはあのひとの涙」がいいですね。マルデが偽名でこの名を知っているのが愛の証しと歌い上げます。二人しか知らない名前ですね。

道化の勝負はどうしたのだと大衆(合唱)内容知らないで待っていたほうが良いというのですが、リゴレットがジルダが連れ去られたことに気づきます。公爵もジルダが間違って連れ去られたと思い、部屋に向かいます。ジルダを追ったリゴレットは笑われるだけですが、しかしリゴレットは「側近ども、いいや悪魔」を歌い上げます。(ジルダを守るぞと)バリトンの妙味に尽きる歌ですね。ブラボー。

ジルダはやってきてみんなにお披露目、しかし何か言いたそうなのでみんなを去らせて話を聞くと辱めを受けたといいます。そして、好きな人がいると、「日曜教会で祈るたびにある若い方と運命の出会いが」と歌い上げます。秀逸な歌で、このオペラの陽の部分を構成します。本当に愛の歌もいいオペラです。「恥辱はおれだけにと願ったはずだが」と親子一緒に歌う二重唱も最高の出来で、リゴレットの運命が決定します。敵討ちですね。ジルダは心配するのですが「そう、見てろやがてこの手でかならず敵討ちを」と第2幕は壮大に幕を閉じますが、再三言ってますが音楽聴いているだけなら、壮大なオペラだと思うでしょう。単にせむしとその娘の恋愛、恥辱仕返しと因果応報の亡霊さわぎだけなんですがヴェルディは何でこんな良い音楽をつけたのでしょう。本当に良いです。「椿姫」も娼婦ですし、そのような社会的に日の当たらない人の人生を描いたオペラの一環ですね。みんな最高の出来というのも皮肉でしょうか。

第三幕

女好きの公爵が出てきます。それも「風にゆらぐ羽のように女心は気分しだい」を歌います。この歌は白眉ですね。第三幕はここと亡霊のみでしょう。

そして娼婦といちゃつくところをジルダとリゴレットは見てしまいます。しかし、本当はジルダに対するほてった気持ちをさませたいという気持ちからです。リゴレットは仕返しするつもりでジルダに家に帰って馬と金を持ってヴェローナに行けと言います。そして殺し屋を雇いますが、殺し屋はリゴレットも殺してすべてのお金を奪おうとします。

それをジルダは聞いていて、好きな公爵の身代わりになろうとします。それで代わりに殺し屋に殺されます。リゴレットは後金を持って死体を交換に受け取り、川に捨てようと思います。しかし、「女心の歌」が遠くから聞こえてくるではないですか?ではこの死体は?顔を見てしまいます。すると娘です。悲観にくれて、先ほど、第一幕ででてきたリゴレットが伯爵と一緒にいじめた、一人の伯爵が死んでも亡霊になってやるといったことを思い出して、亡霊か、と因果応報で自分に罪が回ってきたと嘆くのです。しかし本当に良いオペラです。しかし最近すごく有名な割に中心人物がテノール、ソプラノではないカルメンといい(メゾソプラノ)、このオペラといい(バリトン)意外と上演されるケースが少ないオペラばかり見ています。

 

「リービング・ラスベガス」マイク・フィッギス監督 1995年

これ好きな映画なんですよ。まるで主人公みたいに酒浴びて飲みたいときにいい映画です。何がそうさせるのか、妻が逃げていったことがそんなに大きいのか、わからないですが映画制作プロデューサーです。酒が片時も離せない男(Aとする)の話です。一応R指定らしいんですが酒を飲むシーンとあのレイプシーンかなあ、あまり引っかかりはなさそうないい映画なんですが。酒を飲みながら女を口説き、だめでも女を買う、そんな生活をしながら生きている望みもなくしている状態です。首にならない方がおかしい。その退職金が出たので人に酒飲むための金を借りないですむようになり、死に場所を探してラスベガスに向かいます。

ラトビアから金儲けに来たやくざとその女で、娼婦は関係ないところで金儲けの話が進んでいるのですが殺されます。なぜ一緒になったか、完全に腐れ縁です。男が哀れに思えてきた。だから一緒にいたのです。男と女は一緒の方が都合がいいですし。しかし殺されて、ちゃんと女は逃がすのです。一緒にいても殺されるだけですので、逃がして自分だけ死んでいくのです。そうして娼婦は一人になってしまいます。

総括なんですがこの映画のテーマは「孤独」です。孤独な男女がぎりぎりのところで出会い、一緒に生活し、男は酒で止まらなくなり死んでいくのです。その孤独はパートナーがいないことなんですね。男と女の関係をすごく強調してまとめてます。

娼婦をさせられたときの嫌なお客のことも思い出すと、女も普通の恋愛をしたくなります。たまたま、Aがお客として娼婦についたのですがただいてくれるだけで良いというリクエストにだんだん娼婦もAは性欲の捌け口のため、女を見下すためにではないと気づきます。

話もまともですし、「死にに来た」という言葉が緊張を解いたのでしょう。あと、一目ぼれですね。お互いに気に入ったのです。こんなことあるのか、と思うでしょうが、あるんですよ。ひとりになった女は一緒に住もうと誘います。Aの方が躊躇します。多分前の妻とも修羅場経験しているんでしょう。「酒はよせ」と絶対に言わないという約束で住み始めます。男は元映画プロデューサーだけあって、楽しいしセンスはあるんです。しかし神経がアルコールでおかしくなってますね。基本的に仕事中毒だったと思うんです、それでアルコールに嵌るようになり家庭も崩壊、体も崩壊していくんです。かなりの人格の崩壊過程を観ることが出来ます。途中、レストランでAがイヤリングを贈ったシーン、先に出て行こうとするAをほかの他人が引き止めるのです、なぜか?「彼女は真剣だから」というのです。最高のシーンですよ。私にも女の気持ちがぐっと入っていくの観ていてわかりました。この俳優、エリザベス・シューというのですがこの役ぴったりはまってます。ちなみにAはニコラス・ケイジでこの役でアカデミー賞とってます。この辺のふたりを見ていると、先がないでしょう、ですから悲しくなって見ていられなくなります。こういう経験あるひとは少ないかもしれませんが先がないと盛り上がるものなのです。

しかし女が仕事(娼婦)に出ていたときに娼婦を買って家で寝てしまったのです。その最中に女が帰ってきて、Aは「少し寝て出て行く」女は「出て行って」と、Aは終わりが近いことを察知していただけなんですがねえ。女もやけになって仕事していると、若者に捕まりレイプされているところをビデオに撮られます。今の若い子、デジタル製品使いこなすから複製可能な画像、データがすぐに作れてしまいますね。怖いですよね。そして、オタクなんでしょうが性欲は一応はあるから始末に終えない。みんなに輪姦されます。そしてまたAを探しに街を放浪します。見つかった彼はかなり衰弱して、女のレイプの傷も心配してくれるくらい余裕はありました。やはり女もAもお互いが好きだったんですね。最後のセックスのあとAは息絶えます。良い死に方できましたね。こういう愛は一生消えるものではありません。音楽が最高で私は当然、この映画のサントラCD買ってます。なんというかお勧めしにくいですが本当に好きな映画です。ふたりでリソートで観ていた映画は「第三の男」ですね。先日「黒い罠」見たばかりで似ている話なので懐かしいし、変な因果があるものだと思いました。最後にこういう恋愛の当事者は幸せが絶頂だけにあとはかなり辛い恋愛です。一生忘れない恋愛でしょう。

 

「ルパン3世カリオストロの城」宮崎駿監督

何回見ても良いですね。この映画はルパン3世の中でもレギュラーが協力し合うという珍しいパターンです。さらにルパンは何も盗んでいないんですよね。はじめから恩返しのためにがんばったのです。そして、不二子も銭形も悪いことしていない分だけあまり攻めることはできず、結果的にルパンに協力しているんです。

その協力のチームワークというか「あ・うん」の呼吸がこの映画の魅力でしょう。さらにお宝のすごさ、姫の純粋なところ、悪いやつは外国人で日本人が乗り込んでそれらを一網打尽にするという外国ではヒットしないような映画です。しかし見ていてすっきりしますね。個別にはいろいろと良いシーンとかあるのですが、最後の庭師の言葉「なんとすがすがしい人たちなんだろう」というような言葉にすべてが表されていると思います。見ていても本当にすがすがしい。不二子も裏切りはしないし、銭形も警察として、なかば友情を持ってルパンに接しているし、ルパンたちのチームワークは良いし、すばらしい作品です。

 

監督はこのテーマをいつか扱いたかったのでしょうが、ちょうどルパンというトリックスターがいたのでうまく脚本ができたと思います。あのお宝を披露するにはルパンは贋金を盗むという動機ではうまくないので、このような展開にしたのでしょう。最近このことに気づきました。いい作品ほど端的に、良い、というだけで済みますね。

 

「恋愛寫眞(れんあいしゃしん)」 堤幸彦監督 2003年

できちゃった結婚しちゃいましたね。広末さん。「二十世紀ノスタルジア」が好きなのでもう少しがんばってもらいたい感じです。しかし基本的には役者には向いていないかもしれません。彼女のほうが(A)写真を教えてもらってたんですが、NYで思いつくままに写真を撮るようになってました。元彼氏(B)のほうはへっこんだ人生を送ってます。最近の日本映画は悩んだ先の楽しい出会いとか、過激なものとかが多くて見ていて楽です。ちょうど「ヒポクラテスたち」の後なので余計に感じます。友人とか仲間、社会、政府とかいうの最近の映画でてこないですよね。これだけで楽。感性の映画というのか、らくだということは良いことですし、センスは数段上です。それは新しいので当然だと思います。

Aとの出会いのきっかけなんか良いですよね。軟派男を殴って逃げて、公園で虹を作るなんて絵に書いたような世界です。しかし「どこでもドア」をCGでやってしまうのはちょっと、遊びすぎかな。

しかし20数年で日本の大学生もこんなに変わったのかと思わせる順番で映画を見ております。顔がすでに幼いです。何でなのかわからないのですが、たぶん育ってきた親の世代の違いがあるのでしょう。

男の子が優しくてかわいくなります。壊れたカメラ直ったなんてうそ、いいねえ。若いふたり、どこまでも幸せそうで。このシーンのアップのときの広末さんの目が充血しているのはなにかあるのでしょうか。とにかく松田さんと良いコンビです。

しかし、才能への嫉妬がふたりの関係の中でBを引きこもりというか意固地にさせていきます。わかる気もしますが、なにか甘いです。多分再三書いてますが「ヒポクラテスたち」が良すぎたせいでしょう。しかしAの別れるときの会話は素直な愛情そのものですよ。なぜに気がつかない、この馬鹿なB.と思います。「同じく空気吸っていたかった」なんて最高の言葉ですよ。いつかこういう別れかたは思い出す時がくるんですよ。実体験あります。

そして3年、同窓会の変わり方は嫌な部分です。所属する企業によって序列が変わっているんです。すでに大学では目立たなかった連中も、変わっている。会社の経費で行っているのに、偉そうにしゃべったりしている中で浮いてしまいBAが1年前に殺されていることを聞かされます。

しかし映画自体はBNYに行ってからおかしくなります。黒人に殴られてあの程度の怪我か?助けてくれた人の家のインテリアは?なにか、ずれた感じが出てきてしまう。

しかしABがオーバーラップしてくるところあたり、Aの意図が働いているとしか思えない。愛情ですね。Bも愛を忘れていない。別れられない何かがあるんですね。最後ハッピーエンドになったら、見ていられないという展開ですよ。まるっきりふたりの愛を見ているだけになってしまう。しかしその予想をはるかに上回る、Aと同棲していた、ダンサー崩れのコンプレックスの固まり女にAは殺され、同じくBも殺されそうになります。この展開は監督は狙っているので、幼い演出とか言わずに評価したいと思います。こんなのあり?という感じです。さらにすごいのは、それでも死なないB.かれはすでに3回死んでもおかしくない思いしてます。すべて軽傷または生活に不自由ない傷で助かってます。これも見てみない振りをしましょう。

そして、心にAを住まわせて、相談しながらNYでカメラマンとしてBが一本立ちしていく様子で終わります。こういうエンディングなら納得。単純な映画ですが、簡単に見ることはできるし、わくわくもするし愛する二人の関係が距離感が良いので良い映画だと思います。心に愛する人がいるということは大きな力となるでしょう。

「六月の蛇」 塚本晋也監督 2002年

 

久しぶりに見ました。劇場で見てから半年くらいでしょうか、また印象が変わりました。

この映画を見たあとに、塚本監督のほかの作品を見たせいか、すごく異質の作品に思えるようになりました。やはり「鉄男」が一番です。

基本的に塚本監督は三池監督とともに好きな監督です。

この映画は夫婦の性を扱った映画で、たしか監督が上映時「中年のおじさんが元気が出るように作った」と言っていた記憶があります。そうなのか、よくわからないですが夫のほうがちょっとおかしいんじゃない、という人間ですのでゆがんだ夫婦関係になるのでしょう。

 

妻のほうは「心の健康相談室」のカウンセラーをしてまして、かなり常識的に判断できる人間です。しかし、誰にでもある性的欲求は当然持っているんですね。しかし夫のほうが潔癖症でうまくいかないんです。夫は掃除が好きな潔癖症で、お金持ちと男として無視さえすれば、先日のオリヴェリラ監督の「家宝」の主人公からするとこの上ない結婚相手なんです。しかし塚本監督は違うというのですね。夫婦の健全な性生活が普通だと言うのです。これは最後に実現します。

そのきっかけは妻のほうがカウンセラーで心を救ってあげたカメラマンなんですね。まったく手も出さないし、最後にがんで死んでいくのでお返しのボランティアだったんです。ちょっと過激ですが。

妻のみだらな状態の写真を撮って送りつけて、ネガが返してほしければ、言ったことをしろ、と迫ります。「いつも言っているように心の中の願望は果たさなくても良いのか」という問いかけが効くのです。実際命令どおりに、妻にミニスカートをノーパンではいて街を歩いてバイブレーターをさしたままさらに歩かせるのです。そして妻のほうの欲望を深くさせるのです。これで本当は終わりのはずでしたが、妻にその写真を撮って脅した写真家が「病院に行ってくれ」といいます。実際に病院に行くと「乳がん」でした。もう片方の乳房を取らなければ転移してしまいます。夫は完璧主義ですので、妻の乳房がなくなることも嫌がります。そして妻はとらなくてもよくなったと、転移覚悟で言います。もうこの時点で写真家も癌で死ぬ一歩前でしたのでこの夫婦に関係なくなりますが、妻のほうが逆に写真家にお願いをして同じ行動をもう一度写真に撮らせるのです。しかしひも付きの依頼で、夫にわかるようにとってくれといい、さらに撮った写真を夫に上げるというのです。夫のほうは妻の行動がおかしいと電話が写真家から入り、疑っていたのですが、実際に尾行すると、ノーパンでミニスカートさらにはバイブレーター入れっぱなしで街を歩き、写真家と約束の場所で欲望のなせるままに乱れます。それを写真で撮ってもらうんですね。尾行してきた夫もそれで欲情して、一人で射精します。これでめでたしめでたし、の夫婦関係になると思ったら大間違い。夫は写真を見て妻の本当に姿を見たいといいます。この夫はどこまでも目の欲求が優先するんですね。その写真を取りに来た夫を写真家はお仕置きをします。写真にあるのが本当の妻の姿なのに、と夫に言い聞かせます。本当に自分が死ぬのがわかっているので人を助けたいのでしょうか?。夫はもう裸にされ、めちゃくちゃなことをされますが、一番効いたのは「妻がわざとみだらな写真を夫に見せたい」ということを写真家が夫に言ったときです。妻の本当に姿とともに自分の本当に奥に隠れた欲望に気づくのです。すごく暴力的な人間でした。そして夫婦の関係がはじめて成立している中、映画は終わります。当然、写真家は死にます。

今回改めてみていて、夫のだらしなさがみょーにイラつきました。この役者も嫌いなタイプなんですが、私が妻なら見限って、お金持ちなので離婚せず、別の人生楽しみますが、塚本監督は夫婦の蘇生で中年の男の勇気付けを行ったのでしょう。

 

「ローマの休日」ウィリアム・ワイラー監督 1953年

ベンハーに圧倒されましたので、続いて同じ監督の名作を観たいと思いました。実に6年もこの映画のほうが前に出来ているのです。それも舞台がローマというのはベンハーの後はおかしいですね。

展開のテンポは昔の名作にあるハイテンポで要所のみ、という映画の見本みたいな始まり。オードリーは美人です。この人を奥さんにした人はどんな感じでしょうかね。2回結婚していたと思います。しかし監督も役者もうまいですね。はじめの「靴を脱いで落とす」シーンでもうはらはらしました。やはり名作というのは何回見てもいいですね。将軍が注射を打たれるところ見るだけで倒れるとか、コメディの要素がたっぷりと入っていてロマンティックなんですよ。すばらしい作品です。

出会いのシーン、忘れてました。一歩間違えると危ない状況でしたね。こんな出会いだったかと、忘れている自分が情けない。しかしタクシーのシーンは今では成り立たないシチュエーションですね。まず何かが起こる。怖い時代です、現代はね。アパートの管理人にも「ベリッシマ」と言われるくらいですので治安はよいのです。しかし大胆でしたし、グレゴリーペックのほうは清純でしたね。清い交際という感じでいいなあ。そして寝言で皇女かどうか聞くのはいいです。あとは知らない振りで楽しめます。実際は賭けをしていたのですが楽しんじゃうのですよ。遊んだほうが楽しいですもん。起き掛けに尋問した感じで、遊びに切り替えるきっかけが出来ました。しかし特ダネはまだ狙ってます。当然王女は職務に戻らなければなりません。別れるのですが(よく引き止めなかったと思います)偶然遭うきっかけを作ります。このアパートにいるオードリーは本当に美しい。シャワーシーンなんてとってもいいですよね。少なくても私には美人に見えます。たしかアメリカでは意外と人気高くなかったと思いますが、たまらなく良い。ちょっと朝鮮系の日本人にこの顔に似た人がいるのですがそういう意味では日本も面白い国なんですよね。渡来系というのか、日本海、西日本のほうが特に朝鮮半島に向いている地域には意外と多い感じがします。私の住んでいる横浜は特別な場所なので外国人が多いこともあり、日常的にこういう顔は見かけます。それが日本で人気が高い理由のような気がいたします。本当にいると思います、身近に似ている人がね。

街に出て髪の毛を切るシーンも、生意気なところと、かわいらしさが混ざっていいです。すべてがこの映画はいいなあ。偶然遭うのですが、それまでの王女の行動も見ていて楽しませてあげようという気になるのです。髪の毛切ってジェラート食べているシーンを見てしまうと楽しませてあげようと思いますよ。スペイン階段のシーンです。

スクーターのシーンもドキドキしますけど、警察で夫婦と偽るところで結婚のマーチが流れるところ、せりふがないところがすごく効果的で作り方がうまいですね。観客を主役にさせるというか応援させる役回りに仕立て上げます。それは続く「真実の口」のところで完璧になります。いつ観てもここでの王女の驚き方は本当にかわいいし男優もみんないいです。サンタンジェロ城での踊りもいいです。こんなに踊りがいいのも少ないです。ムーングロー、とかもいいけどね。あれはキムノバクとウィリアムホールデンでしたっけ。

そして王女が美容師と踊っているところ写真撮るところは楽しいですよね。すべてが面白い愉快なシーンです。そしてキスシーン、水も滴る良い男と最高の美女ですね。これも秀逸なシーンだな。せりふが少ないのが本当に良い。

しかし別れのシーンで思ったのですが、こんな素敵なたびになるというのは王女が積極的に作り上げたからでしょう。そして記者も積極的に(下心はあったのですが)参加して作っていったからでしょう。素敵な瞬間はひとりでは生まれないと思います。この築きあげるということが根底のテーマですね。愛は楽しさは作るもの。「義務を感じなかったら、今晩帰ってこなかったでしょう」聞かせてやりたいね。この辺で感情は頂点に達して、最後に記者会見で出会うシーンでまあまあ納得しますが、最後まで突っ走った映画です。珍しいハイスピードの映画でしょう。

「私の秘密の花」ペドロ・アルモドバル監督 1995年 スペイン

この映画,ホアンキン・コルテスが出ているんですね、どんな役でしょうね。

まあこの監督は意外と好きな監督ですので、いい感じにまとめるでしょう。何故好きかっていうと、色とか映像が少しラテンしていて、かつ映像がちょっと胡散臭いにもかかわらず楽しいシーンがあり、それで映画を強引にうまくまとめ上げるところが意外と好きなんじゃないかな。

はじめに臓器提供の話が出てきますが、それは練習みたいで、フラメンコが中心になってきます。ダンサーが(A)いて大会に出るのですがその母親(B)も昔はうまかった。こうなるとこの二人の踊りは見たいですよね。ホアンキンはAです。途中のBGMもタンゴからフラメンコといいですよ。そして臓器提供の説得の練習を指示していた女性(D)は作家は姉妹で作家のほうは多分匿名で違ったタイプの本を書いてます。(Cとしましょう)

ちょっとスペインの人の顔が区別つきにくいので、(別に東洋人がみんな同じ顔に見えるといわれても、同じような私には欧米人が同じような顔に見えます)ちょっと入り組んだ人間関係です。まずは人物の登場の仕方のまとめが監督は下手です。

Cの本は「愛」があったのですが匿名で評論を担当するようになってCのパンネームの人を評論してほしいといわれますが、ほかのものについてかなりまともに書いてしまいます。しかしCを育てた女性編集者は「現実なんて実生活で充分」「現実を禁止させるべきよね」とすごくわかることを言ってくれます。しかし匿名の作家でいることをやめます。編集者はルール違反だというし訴えるといいます。そうするとばれてしまいますね。そしてCはその作家つまり自分自身についての評論を書くのです。それには編集者(別の)も驚きます。何故そうなったのでしょう。ABCのお手伝いとその息子という関係です。Cの愛する旦那が帰ってくるときパエリァを作っているのですが息子が大会に迎えに来ます。そしてCの説得もあり大会に向かいます。どっちが主役なのかこれから明らかになりますね。旦那が帰ってきたときの情熱的なキス、先が思いやられます。しかし旦那にはそっけなくされるし、修復の可能性はないといわれるし、実家の母は妹と折り合いが悪く田舎に帰るというしめちゃくちゃな精神状態の中、カフェでテレビを見ると歌手が歌ってます。この歌がいいんだ。愛の歌。表に出ると学生のデモ(職がないというデモ)がリズムを刻み始めると、フラメンコがかぶります。

しかし田舎に帰って落ち着いたほうがいいですよ。匿名の作家は別の編集者が書いて作品を送りました。引継ぎです。Cの旦那のあとの彼氏になりそうです。

そしてフラメンコ大会。素晴らしい踊りです。

まあ作家が本業なのか、愛情の寂しさに始めたのか、どうでもいいですが、作った作品が一人歩きしたことは事実です。そして映画になったり、匿名の架空の作家になったり、その名前をシェアしたり、いろいろと物語が進行します。そのなかであとの彼氏とCが一緒に暖炉で話をするときに「ベストフレンズ」という言葉が出るのですが、まさにあのヒューストン監督のあの映画です。意外な単語でした。いい映画ですよ。

まあ違うことは違いますが、収まるところに収まった感じです。普通の駄作かな。この監督の映画はスペインのサッカーみたいなところがあります。点の取り合いで面白い。ビクトルエリセ監督と同じ国とは思えないところもあります。

「私の骨」 荻野憲之監督 2001年

この映画ネットではまったく馬鹿にされた批評しか見当たりません。

どうなんでしょうね。早く言えばJVDというメーカーは評判は悪いのですがまさに作りの悪いDVDです。作品以前の話です。VHS見ているみたいな画像。

まずは主人公は作家(A)とする。家族とは別居して作家活動に専念している。その叔父に会いに行くと(この叔父の役が棒読みの大根役者と批判されるんでしょう)押入れに骨壷がありAが見つけるように仕向けます。そして消えていきます。その骨壷を開けて骨を組み立てると、なにか自分の息子の骨のような気がしてくるのです。しかし骨は処分しなければなりません。よってすべて砕きます。頭蓋骨にハンマーを刺すのですが最近、肉体と魂の関係についての映画ばかり観ているので、まったく怖くないです。魂の抜けた頭蓋骨にはなんら意味がないのです。生きているときは頭蓋骨と魂が一体ですので殺人となりますし、意味があるのですけど。

そして妻と子供に会いに行くのですが、変な小説書いているので、世間体が悪いということで同居を断られます。そのときの妻がいいこと言います。「流産したときあなた何といったと思う。子供なんてまた作ればいいじゃん。しかし子供はそれぞれ違う」というようなことを言うのです。まさにその通り。子供は親を選んでくるのです。したがって流産はその子供の魂の死に値するのです。この妻は物の道理をわかっている人間だと思いますよ。

そのとき妻から夫が2歳のとき死にそうになったのを父親が渾身の力で助けた、という話を聞かされます。そしてその夜、帰ってみると骨は消えています。そして骨壷には赤い液体が。それは気味が悪いので捨てていると骨壷の裏に日付が入っています。まさにAの誕生日。そういえば、あの骨、2歳児くらいだったような気もします。まさにその通り、だんだん妄想が激しくなり、何かに襲われる夢を見るようになります。しかしその襲われた後のところにある骨はなくなっていくのです。どうも、いとこの若い女の子が遊びに来たあたりからおかしくなっているので、何かあるのでしょう。

今度妻が尋ねてきたとき、結婚指輪を返されます。そして告白されます。「あなたなんてどうでも良かった。子供がほしかっただけ」と。いやーーいい味が出てきますね。この映画意外といい映画ですよ。

ある事実が判明しますがそれはもしかしたら、Aの見ているのは妄想ではなく呪いかもしれないということです。昔の話、この家系はある巡礼者の子供を人柱として犠牲にしているのです。その怨念があることがわかります。いとこの女はそのことが書いてある本を持ち出してます。なにかこの話がばれることを恐れているのではないかな。しかしAの先生はほかにこの呪いの話が書いてある本を見つけてAに読ませます。Aの家系は代々男が生まれない家系になってしまったのです。それは怨念からですがAだけが例外というわけです。

しかしこの姪(いとこではなかったです)はAが直系ではないことを調べ上げました。なぜならば、男を盗んできてその両親を殺して自分たちの子供として育て上げたのです。そのことが記事で見当がつきました。Aを愛する姪はこれで近親相姦はなくなると喜んでいたのです。さらに姪はAが直系ではないため、妻との間には男の子が生まれる可能性が半分あったのです。そのため、呪いの人形を贈っていたのです。そして流産。しかしもうひとり男の子ができてしまいましたね。この男の子を殺そうとするところにAが駆けつけ、怨念を晴らします。どうやって、直系の男を殺せばいいのです。Aは直系ではないのですが跡取り。よってAは自分の命を絶つことで怨念を晴らします。子供のほうは家督も継がないし直系でもないので助かります。

しかしこのことはAを愛していた姪の心を壊します。そして怨念は最後の仕上げをして終わります。そうです、妻が子供を殺すのです。もしかしたらAは実の子供だったのかもしれない。しかし姪の愛情がおかしくなるので、直系ではないが家の跡取りということ、すなわち家を断絶させることを狙ったのでしょう。

かなりいい作品です。何であんなにネットで評価が低いのだろうか?

 

「私たちが好きだったこと」 松岡錠司監督 1997年

一番初めに女ふたりが(Aは鷲尾B夏川)男ふたり(Cは寺脇D岸谷)の飲んでいるバーの席の隣に割り込んで座る度胸がすべての話をスタートさせます。なんでも積極的に行かなければだめですよ。しかしそのまま居候ということで女が引っ越してきてしまいます。まあ確かに度胸です。しかしここまで来ると少し病的かな。Aの役です。

何で持ち主がリビングに寝なければならないのだろうか。女は強いです。Aは美容師、Bは不安神経症のOLCはカメラマンDはインテリアコーディネーターかな。BDがくっつきます。というよりABを押し付けられます。そしてACがくっつきます。何かおかしいんですが、そんなことは忘れないと見ていられないですよ。BDの距離感はすごくいいですね。恋愛ってこんなもんでしょう。Bは妾の子だったという話も聞かせてくれるし、隠し事ないほうが溶け込みやすいんですよ。例とすると先日の「真夜中の招待状」は隠し事したために婚約解消になりました。

Bが昔、医学部受けたという話をすると、もう一度受験しなさい、となります。「勉強して、掃除洗濯して、食事作って3人の帰ってくるのを待っていればいい」といわれますが大変なことですよ。そんなことしながらBの親が来るしAは昔の恋人とよりを戻すし、微妙にずれ始めます。そしてBは映画ですので医学部に受かるのです。その医学部でもやはり男ができる。Aは昔の恋人の子供ができてしまうけど、堕胎させるんです。実際、私の周りでもいるのですが、美人って周りから狙われやすい分、意外とひどい目にあっている場合があるんです。男はどちらかというと平凡なほうが家庭はうまくいくみたいですね。これは私の経験談ですけど。

 

まあそれでAB揺れるし、Cも揺れるんですが、離れていくものは仕方ないんですよ。戻ってくるものは戻ってくるしね。結局これはハッピーエンドになるパターンです。あとは知らない。すごく気が楽なテレビドラマのような映画です。まあ、なんとなくDがババ引いた感じがありますけど、人が幸せになるならそれでいいでしょう。

「ワンダフルライフ」

人が死んだあと、翌日に面接を受けるという話です。そして1週間の猶予があり、始めの3日間で人生で一番良かった思い出を思い出し、残りでスタッフがその映像を作成して、気持ちよくあの世へ(天国だと思うが、地獄の可能性もあるはずなんですが、良かったことなのでたぶん資格審査があるんでしょう)旅立ってもらう死後の1週間のお話です。ですから、すべての死んだ人に平等に思い出す機会が与えられ、それこそ、老若男女、貧富の差を問わず、平等なのですが、人それぞれにどういう思い出を選択するかはまったく違うのです。しかし、実は何か共通のものがあり、それは「縁」と呼ばれるものが左右する出来事なのです。本当に偶然に出会うから縁なんでしょうし、だから思い出しやすいんでしょう。何人かの面接を聞いているうちに、今の私自身と重ね合わせて聞いているということに気づきました。そういえば、この面接を担当するのは面接官ですが、彼らは死んで同じように面接を受けても、何も思い出となることがないか、または思い出すことを拒否した人たちなのです。ですから面接官も面接しているうちに少なからず影響を受けているんです。感動を与える仕事をしているので、人が感動するということがどういうことか少しはわかってくるんですね。そのうちに、自分も夢中になれる何かがあるのか、という自問もでてくるんですよ。その中で一人の老人の死者がいました。その人は、担当の面接官との面接の会話の中で自分の妻の初恋の人が面接官だと知るのです。なんとならば、面接官も死者なので、ありえる話なのですよ。しかし、面接官の方はその老人が残した手紙で老人がその事実に気づいていたと知らされるのです。(ややこしいですが、面接官の方はどういう経歴の人か知っているので、事前に知っているのですが、相手に悟られていないと思っていたのです)その人の妻は結婚後も初恋の人のことが忘れられないでいるのを知っていたんですね。それでも夫婦生活を送っていて、死ぬときに妻と一緒だったことを改めて良かったと思っているんですね。そして人生で一番幸せなシーンとして妻と映画を見に行ったときを思い出として残すのです。どうなるのか。面接官の同僚でこの面接官を好きな女の面接官がいるのですが、好きだという感情を認めないし、死んでいるので好きになるのもおかしいのかもしれません。そんな状況のもとチョッとしたドラマが生まれるんですね。映画的ですよ。それは、老人の手紙を読んだときに、女の面接官に「なぜ、老人に言わなかったのか」ということについて「自分が傷つくのが怖かった」と独白します。そうですね、傷つくことを恐れているからいつまでたっても一番いい思い出なんて思い出せないんですよ。すると、こともあろうか、女の面接官が、この老人の妻の死んだときの思い出ファイルを探すんですよ。好きな人のためなんでしょうが、このことが別れにつながるなんて思わなかったでしょう。そして妻の映像を見てみると、なんとそれは、夫との公園のデートではなくて、その面接官たる初恋の人とのデートの場面なんです。これでこの優柔不断な面接官も人生最良の思い出として思い出すことに自信を得て、楽しい思い出を持ってあの世に旅立って行くのです。あちゃーー、女の方は余計なお世話をしてしまったわけですが、きっといつの日か逆に死者から、いい思い出を思い出させてくれる瞬間がやってくるのでしょう。そうですね、人間は生きているからには、一度はいい思い出の瞬間があるはずなんです。おもいだしたくないとかいろいろな事情はあるでしょう、しかし楽しかったり辛かったりするのが人生です。決しておもしろい映画とはいいませんが、最後のエピソードはかなり良かったですよ。私は今のところ、同じように聞かれたら答えは一つです。死ぬ前から決まっているなんて幸せな人生なんでしょう。自覚しなければ。はい。

「羅生門(らしょうもん)」黒澤明監督 1959年

なんというか日本の宝的な映画ですね。今回はたいしたことはないのだろう、と思いながら観るのですがまた深い感銘を覚えてしまいました。

何が良いというと、すべていいとしか言いようがない。音楽が少し特典インタビューでも述べていたように今回は、あっこれやばいかも、という感じではずかしい思いで聴きながら映画を観ていたのですが、まあ少しは影響を受けたのかもしれません。ラヴェルの「ボレロ」というかスペインのボレロのリズムです。

森と現世との境目で流れる音楽です。

そして感じるのは、原作の良さ。さすが芥川龍之介。「藪の中」です。古典再構築の作家ですが狂言で「蝸牛」もあるように日本古来の言い伝えでもあるのでしょう。

山は狩猟民族としては聖なる場所でしたし、農耕民族になっても境界線のある、境目(道祖神などを祭っていたりする)です。

その中で起きる出来事がどれが本当か?答えは客観的な見方が答えですが、ここでは志村喬の役柄が見た光景が本物です。しかし彼にも後ろめたい気持ちがあって、最後に信頼をなくすが、人間捨てたものではないという終わり方をする。すごく人間ドラマとして、人間を多角的に描いているものです。ここまで深い映画はあまりないですし、タルコフスキーをして1972年当時世界の映画ベスト10に入れただけの事はある人間ドラマです。

原作の勝利、映画化の勝利、役者の勝利の映画です。京マチ子さんの存在感たるや、これぞ映画という感じです。

あとは何も言いたくなくなるような堂々とした映画です。

 

「ラスト・タンゴ・イン・パリ」ベルナルド・ベルトリッチ監督 1972年

マーロンブロンドのゴットファーザー前ですね。この監督は先日のパゾリーニ監督の助監督のスタート。「殺し」を監督してます。脚本はパゾリーニ。

とにかく、音楽が良いし、映像も陰影の使い方がうまいのと色の定着がいいです。それらがパリをすごく魅力的に映し出してます。この映画ってパリが観たくなるときに見ることが多いのですが内容がちょっとねえ。あと主役の女の子、ちょっと美人じゃないですよね。

しかし主人公の二人のなにか、会った瞬間の行きずりの出会いはこの映画にエネルギーを与えていると思います。

男のほうは妻が不倫の末自殺したのです。その意味がわからなく途方にくれた状態。しかしこの男は性的な魅力がある男です。それに対して不倫に相手はまじめで几帳面なタイプなんです。なにかに飽きたのでしょう。しかし妻は一度もこの映画には登場しません(死体としてだけ)。そしてここで出てくるのはこの女のこの方。結局、この女の子と一緒にいるときは妻といるときと変わらないのでしょう。

しかし男は若い女を避けます。それは善意からなのです。しかし若い女は裏切られたと思ってしまう。そこに破局があるのです。そのあと男も若い女のところに戻ってきても、若い子が決めたことは変えることは出来ません。そのまま捨てられるように死んでいくだけ。

なにか寂しさと、安心感が同居する最後です。安心感はこの浮遊感漂う男の行き場所が見つかった気がするからです。

その前のダンスホールのタンゴのシーンで終わると思ったのですが、ここで終わらないところがいいとおもう。愛の誕生と破局まで描いたほうが良い。そしてこの映画はこの男の物語だとなってしまうのです。ですからマーロンブランドなんでしょう。ということで、いい映画です。

「ラ・パロマ」ダニエル・シュミット監督 1974年

この映画と「ジャスト・ア・ジゴロ」好きでしたねえ。

一人のキャバレーのショーの主役に恋をした男と女の話です。盲目的な恋は二人をひきつけ、この女は治療を受けて、精神的に参っていたところを助けられます。しかし本当に女は男を好きにはなってません。でも男は押し切り、結婚をします。

そのときの新婚旅行でのアリアはきれいというか、現実離れをしています。とにかくこの監督は夢のような物語、映像を作る人ですよ。ここがピークの天上の愛、背景はアルプスの山々、そして妖精が飛び回るような日常離れしたシーンです。この妖精が人間であることが現実的なんですが。このアリアの歌詞が最後まで運命を決定します。

しかし案の定、新婚家庭に友人を呼ぶとその友人と妻は浮気をします。その挙句に駆け落ちを、とまで言うのです。友人のほうは「金のかかる女だから、君の望む生活をさせてあげられない」と断ります。すると妻は金はもらっていけばいい、というのです。ここで夫の愛情の限界を知った妻は鬱に陥り、隠遁の生活を始めます。

しかしその友人はこの女を本当には愛しておらず、夫は最後まで愛し抜きます。それは骨まで愛して、というほど。

しかし遺書の通りに妻を埋葬した夫のもとに襲った幻は、結局はすべて夢だったという結末です。それは冒頭のほうで出てくる賭け事に負けて自殺する男のように。賭け事の勝負も夢を見ただけ、ということ。まさに「想像する力」という映画のごとく、想像の産物なんでしょう。その行き着くところは「愛」。

途中、双眼鏡で競馬を見ているところもあるのですが、それもストーカー的な愛情を意味していると思います。そして愛の生活のいいとこ取りですが、波乱もなければ、ということで不倫と最後の骨まで愛してという盛り上がりを作るのです。

「レオン 完全版」リック・ベンソン監督 1996年

はじめに殺しの仕事の依頼を受け、派手なアクションシーンで始まります。しかし依頼者も殺さないというのはかわいいところがあると思う。そして少女(B)出会う。

殺し屋(A)は何かミルクを良く飲むシャイな感じの殺し屋なんです。自分の生活を大事にしているから短時間でかねを稼げるこの仕事に就いたみたい。

Bの両親が麻薬関係の仕事をしていて、商品をネコババしているのではという嫌疑がかかり時間切られても実際にそうですので返しようがありません。そのために殺しに来た連中に殺されますがBはちょうど買い物でその現場の跡に来てとっさの判断からAの部屋に入ろうとするのです。そして命は助かります。そこでBは子供なのに殺し屋になりたい、というのです。まあ家族に恵まれていなかったし、環境も最悪でしたので、殺し屋という響きにあこがれもあったのでしょう。その通り、Aと一緒に出かけるとき子供ということでかなり得をします。しかしお互いに愛が芽生えます。本当かなあ。しかしBが大人びた少女なんでありえるのかもしれませんが、ロリコンでしょう。しかしBはかなり命をかけてます。

そして二人で殺し屋をやるのですが、ナタリー・ポートマン今思うとかなりやばい演技してますね。成長に影響ないのだろうか?

Aも死んだら遺産をBに上げてくれというし、親密なるパートナーといえるでしょう。

最後に部屋を取り囲まれてしまうシーンは何回見ても迫力がありますよね。しかし「キスオブザドラゴン」(これは製作だけ)「二キータ」などでもそうですがこの監督はすごいピンチを作りますね。そして主人公がうまく抜け出すというすごく映画的な解決をします。どんな人間もこの包囲網は破れません。普通ならね。

まあ破れるところまで行って、おいそれはないだろう、というような結末ですが、何かおかしいと思います。それを考えていたのですが、Bを助けに行ったときに麻薬捜査官のボスを殺さなかったことです。というかいなかったこと。この辺は物語の進行に関係するので仕方ないのでしょう。ということで最後にかけてまた感動してしまった。完全版は初めてだと思う。

「レクイエム・フォー・ドリーム」ダーレン・アロノフスキー監督 2000年

この映画は怖い。精神がおかされる感覚に陥ります。ある種、この監督の才能を評価するべきだと思います。こういう映画をいい映画というのだと思います。そのくらいセンスがいい。

テレビで人に見られるということに過剰に反応する「孤独」な人たち。その孤独を蝕むような薬物。そして中毒。その果ては?

母と二人暮らしの息子(ABとします)がともにヘロイン中毒に陥る話なんですが、きっかけは極端。Aはテレビ出演のデマの電話から。太ってしまっているのでやせたいというダイエット願望から。Bは売買して儲けようという気持ちから、泥沼にはまっていきます。Bは彼女Cとブティックをやろうと金がほしいのです。安易なんですよ。そして夢はあるんですが我慢できない。それが短絡的な行動をよぶのです。

Aは禁断の藪医者に。そこでは麻薬を薬にいれ、食欲をなくさせるのです。

Bたちもまた、成功してどんどん金がたまっていきます。そしてAは躁鬱の繰り返しが激しくなります。そして幻覚、幻聴が出てきます。

Bは商売でつまずき、あせるのですが、それまで成功していたので、自分たちも商品に手を出してしまっていてもう中毒になってしまったので麻薬を切らすことができないのです。そしてその商品も入手が難しくなってしまい、だんだん危ない橋を渡るようになります。

もうこの辺の描写はたまらなくいいです。ここからはホラー映画そのものになってきます。

Bは彼女にいやな男に体を売って来いといい、彼女のほうも薬がほしいので応じます。

もうみんな薬漬け。彼女が体を張って稼いだ金もふいになってしまう。そんなに世間は甘くはない。

もうここから先は書けない。ABと彼女はおのおの廃人になって行きます。しかしテンポのあるいい映画だなあ。すごく怖いですけどね。

「連合艦隊(れんごうかんたい)」松林宋恵監督 1981年

時代は違いますが「人間魚雷回天」「戦艦大和」があまりに良かったのでこの映画初めて観ます。普通はこの手の映画この時代には時代遅れの印象で見ませんでした。

はじめに大陸での失敗を海に求めた、と出てきます。満州事変などの後ですから、海軍が出てくるのは対中国戦略が滞りをしてからなんでしょうか?

3国同盟にも時間がかかったみたいです。そして海軍が一番慎重な態度だったらしい。

そして真珠湾攻撃にさしても空母の重要性を認識していながら、なぜ戦艦大和、陸奥にこだわったんでしょうかね。というより作りきれなかったんでしょう。

海軍の命令系統は軍令部にあったけど責任が連合艦隊にあったとのこと。連合艦隊司令長官はアメリカの太平洋艦隊の壊滅をまずは考えました。とこう思うと筋が通る攻撃ですね。その前に海軍が反対していたことは忘れてはなりません。状況が戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずして亡国は民族の魂を奪う、という後ろ向きのぎりぎりの選択が真珠湾だったのです。この辺昔詳しかったんですが、実体験ではないので忘れてしまいました。実際経験されている方は忘れようとも忘れることができないものだと思います。

真珠湾攻撃で空母がいなかったのが大きかったと山本長官のせりふ。それに引き換え日本は戦艦大和を作ってしまった。戦術のミスです。真珠湾攻撃は戦略の成功、空母がいなかったことは不運です。というのではないか、12月8日にする必要はなかったので空母を確認しなかったミスですね。

そしてミッドウェイ、ここに南雲機動部隊と主力部隊(山本長官含む)が出撃するにいたって、がっぷりよつの戦いをアメリカに仕掛けました。今のアメリカからするとぞっとしますけど。この頃も同じだったんでしょう。ミッドウェイのところは悔しいですね。避けていて、後ろから機動部隊を全滅させられてしまいました。日本が空母を沈められなかったのと逆に日本は空母を沈められてしまいました。アメリカのできレースだった感じですね。あとは軍部と連合艦隊との意思疎通の不徹底。かつナチスの場合もそうですが連戦連勝のおごりと休養と称しての息抜きに穴があった感じです。相手は家を奪われているのでその抵抗が大きいでしょう。これは逆に言うと、太平洋戦線よりもヨーロッパ戦線のほうが抵抗が大きいように思えます。自分の家を失っているのですから。太平洋は植民地ですからね。

次はガダルカナルです。私の昔の先生はここで生き残った人でした。とりあえず玉砕した島ですよね。すさまじかったらしいです。

空母一隻のみになってしまい、空母を守るために引き返す航空機もあり助かることは助かりますが、あとはだめです。という書き方よりも何かを守ると何かが薄くなる、というように資源に限りがありすぎました。

あとここで一兵隊の婚約取り消しの話が出てくるんですが、まさに「静かなる決闘」と同じで戦争による婚約破棄です。良い人材がかなり散っていったのでしょう。「静かなる決闘」とはたまたまでしたが、これほど重なってみると感無量になります。

そして山本長官の死。情報が漏れていたんですね。日本はもう少し情報を重視するべきでした。アメリカは情報戦争に完璧に勝っていたのです。

そして日本は禁断の学徒出陣。実戦経験がないから特攻隊にまわされるんですよね。人間魚雷もそうでした。映像では、たぶん立教だとおもう、大学が映ります。そしてひどい場合は同じ囮の船に兄弟が乗り合わせることもあったのです。空母「瑞鶴」です。囮になって敵をひきつける間に南方で今ある連合艦隊の主力部隊を無事前線に通す役割を担っているのです。この空母の艦長もまた優秀な人材でした。山本長官が出て行くのを止めた男です。しかしです、無線が通じなくてこの囮作戦が失敗したと思ったのです。そして作戦を土壇場で変更。致命的です。

「至誠通天」そして、もう最後。戦艦大和を意味もなく出撃させます。このへんは「戦艦大和」のところで詳しく書きました。「愛する人たちのために戦う。人に愛と犠牲がある限りその民族は滅びない」うーー、まさに「サハラに舞う白い羽根」のテーマそのものです。素晴らしい言葉です。

 

「ワイルド・パーティー」ラス・メイヤー監督 1969年

このヴァージョンはカットされているらしいですね。DVDとかだといろいろな理由があるのでしょうが、時代を超えてパッケージ化されているので仕方ないこともあるのでしょう。とにかく見たことのない監督です。そして「エイリアン」が続いて、これなら気楽と思い観ました。さすがに「エイリアン2」は生半可な映画ではないです。心臓パクパクものです。

はじめにシャロンテート事件のような映像から入って(あのおぞましい事件現場というわけではないですよ)悲鳴とともに、女のソウルバンドのシャウに変わります。場所はある高校の「プロム」。こんな仕事つまらないと国道40号線を使ってLAに向かいます。この道走ったことあるんですがLAに向かって走ると夕日がまぶしいです。バンドの女の子が親戚を頼りに向かって会いに行くのです。しかし、景色がなんか懐かしいんですよ。私が始めてLAに行く13年前の映画です。ということは13年間で景色はそれほど変化していないんですね。今から13年前というと1991年くらいですから、そのころも行っているんですが、まあ空港が変わったからすごい変化したような機がするのでしょうし、高い建物が増えてますよね。

いきなり、訪ねて言ったら、「遺産相続」の話で、もらえるとのこと。そしてパーティーに誘われます。このパーティー、NYのウォーホールの「ファクトリー」なんかと違って明るい、健康な色気のあるものです。気候がいいですからね。「ファクトリー」で思い出しますが「チャオマンハッタン」はすごい映画ですよ。1965年の最高の女の子が主人公です。ボブディランもこの子を歌った歌があるくらい。

話を戻して、この映画女の子かわいいですよ。そしてルックス担当と裸担当が分かれているみたい、顔が映らないように映像化してます。というよりこのころのアメリカは意外と厳しいんですよね。なんてったって欧州が開放的です。

そのパーティーでは有名なロックバンドが生演奏しているんですが、主催者から彼女たちのバンドが紹介され演奏することになります。この主催者は有名な製作関係者みたい。当然そこで気に入られ、デビューします。ちょっと曲風は変わってしまいますがね。

そして、若い世代の風俗が描かれるのですが、若く見えないところに時代が感じられますし、いつの時代も性衝動はあるのですが、これがフロイトなどで論理的解決をしていたりするのがかわいいし、その後に自由奔放なのもエイズ以前の映画です。

しかし若さゆえに楽しいこともあるのでしょうが、結局は信じられる愛をお互いに持って生活できればいいのです。このようにヒッピーになりきれない連中の青春群像を描いているといえるのです。日本は遅れているので私たちの世代もこんな感じでした。

このバンド、新しいプロモーターの下、新しい売れ筋路線行くのですが、どうも先端を行っている人と言われる人種と付き合っていると本物のものを失っていく自分がいることに気がつくのです。そしてあるとき、原点のときすなわち、あの「プロム」で歌った歌を歌うのです。そして友情とかに気がつくのですが、少し平和だと、また同性愛とかに走る。満ち足りた人生なんです。満ち足りすぎるから、ゲイとか倒錯に走る。そしてあのプロモーターは変質者だったのです。そして最後に殺人を仕掛けて多くの人を殺すのですが、助け合った連中は生き残ります。まさに愛を信じた、または今回の騒動で愛を知った連中です。愛とは見返りを求めないもの、なんてこの映画に似合わないせりふで終わります。そしてウェディングの音楽の中、幸せになれる鍛錬を積んだ連中は一緒に結婚式を挙げ、楽しく終わります。

 

実に愉快で、楽しい映画でした。これは思わぬ拾い物でしたよ。本当に二重丸。

 

「歓びの毒牙」ダリオ・アルジェント監督 1969年

今思うとアーシアが生まれる前ですね。まずクレジット観てぶっ飛びます。カメラがストラーロ、音楽がモリコーネ。

はじめから主人公も言ってますが「何か変」。画廊で傷害事件を見かけますが、主人公の小説家Aは助けようとしてセキュリティーシステムに引っかかり身動きが取れなくなります。

そして尋問されますがAはいち早く犯人のめぼしをつけて動き始めます。普通、警察に連絡しませんかね。

しかしほかの殺人がまた起こったときに警部がAに会いに来たときAの彼女に「以前どこかでお会いしました?」と聞くのです。これには引っかかった。

そしてキーになっている1枚の絵のことを最後に追いかけます。もうこの辺は警察よりも事件に詳しくなってしまっているのです。

あとは謎解きですが、画面は古いし音は悪いのですが、その内容が素晴らしいのでどんどんひきつけられます。

そして、犯人だと思った順番に犯人ではない。そしてあの「絵」が犯人の性格をゆがめた事実があるとわかったときにこの監督に負けました。本当に簡単にしか書いていないのですがいい映画です。音楽も雰囲気にぴったりあっていると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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