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本当に、エロの直線的なシーンはほとんどないです。また遠めから映しているのでまあこんなものか、という程度です。若く、自分がなにやっているのかわからない人間ばかり出てきます。そのやっていることが犯罪なので、社会的には大問題になるのですが、自分たちは軽く喧嘩でもするような気持ちなんでしょう。若い女は街でぶつかった男に言いがかりをつけて、逆に犯され、そのまま同居するし、ある事件がもとであえなくなって再会してもそのままの関係をずるずる続けるし、よくわからないのです。しかし、感じるのは、女は男がどうしようもない奴だと知っていて、どこかで見切ろうとするところです。逆に男に悟られ、殺されるのです。このあえなくなった1年間は逃げ回った時期ですがその逃亡先でも勤め先の社長の愛人が社長を殴り殺す場面があるのです。当然、すべて映像はないですよ。こういうシーンお金かかるから、また趣旨が違うからないのです。エッチなシーンもないのですが。

この主人公の男のモノローグで話が展開するので、男が生活を安定させたいと思うときに終わるのですが、その途中、勤めの合間にジョギングをするシーンがあるのです。「考えを分散させたい」「ひとつのことにこだわらないようにする」などのために自分で気に入った精神衛生方法でした。犯罪をする際にはこのジョギングが切れてしまうのです。

 

私は思うのですが、多分、このジョギングのシーンがなければこの映画について書かなかったと思う、ジョギングはかなり足をけることによって眼の奥の疲れを、頭の詰まりを取る効果があると思います。そして足の筋肉にも適当な重力をかけて、自分の重さを意識させるのです。これを定期的にやると体が自分は、どの程度重いのかわかってくれて、いざというときに動けるし、体重の負荷は神経繊維のマッサージにもなるような気がします。このジョギングの効果を発見して立ち直ろうとしたのですが、女が再会に応じなければ良かったのでしょうし、女の中途半端な気持ちで殺人まで行き着いてそのあとに、反省がきたのでしょう。この男はもう一度社会復帰したら、家庭を持ちたい。と言って終わりますが、もう出てこなくてもいいよ、と思う反面、ここまで経験しなければ、実は本当の反省はおこらないのかもしれないと思います。まったくお勧めではない映画です。しかしこの映画を観ると「いちげんさん」はポルノです。

 

「悪魔の手毬唄」市川昆監督(昆という字が違いますが変換できないのです) 1977年

これも始めてみる映画です。音楽村井邦彦なんですね。まあ20年前の事件が関係するらしいのですが、また岸恵子(Aとする)なので犯人だと思います。さとちゃんが顔にあざがあるのもそれが原因らしい。しかし岡山ばかりが舞台ですね。総社からまた田舎のところが舞台です。しかし仁科明子は美人です。詐欺師の娘役ですが、身元のわからない子の方が美人になるというのも因果ですねえ。実際の仁科さんは名門です。舞踊の名手岩井さんの娘です。よく国立劇場みに行きました

。この村(鬼首村)の2つの勢力争いがもと。旧家が没落して、新興勢力が台頭してきた頃ですね。この旧家の女の子と旅館の男ができているんですが、何か意味があるのでしょうか?その前に室町からの本当の庄屋はもう跡形もなく一応子孫が生きているだけです。この老人がポイントなんです。この庄屋の土地を旧家と新興勢力の2つが買い取っているんです。庄屋が遊びすぎたのが良くないのですけど。

まあ劇中劇で「モロッコ」がでてきます。まあ対比ですが。

そして感じるのが人間の運命は本当にわからないということ。いろいろあると思いますが、最終的に収まるところに収まるのですね。さらに半端ものとされている人間たちが一番人間を見ているということですね。すべて煙たがれる人物がキーポイントを握ってます。それも証人として。

まあ推理小説なので内容はともかく、かなりいい映画です。松竹の「八つ墓村」(この辺の漢字変換ででませんね)に次ぐ出来ではないかと。

多分、かなりの役者が本当の脇役で出てくるのと、かなり愛情がテーマの映画だからでしょう。それと音楽が「翼をください」を作曲した人で「赤い鳥」などにもかなり曲を提供した人なので意外と雰囲気が出ていたと思います。もともと「赤い鳥」も神戸で活躍してましたし。まあ普通に見て面白いとは思います。今回のBOXでは一番面白かった。しかし届いてから観終るまで2ヶ月かかりました。犯人ははじめの予想通りでした。

 

「あこがれ 美しく燃え」 ボー・ヴィーデルベリ監督 スウェーデン   1995年

 

最近映画欧州旅行している気分です。出だしから、ヘンデルの「リナルド」のアリア。そこに1700年代のリンネという人の「男女の結ばれ方について」が文章で流れます。性教育の文章です。舞台は1943年のマルメという地方都市。このころナチスはこちらの方を攻めていなかったみたいですね。カール・ドライヤーの「怒りの日」もこのころの作品ですね。この作品ができたころが舞台だと思うと、前編すごく違和感があるのですが人間はいつの時代もこんなものかと思うだけです。

主人公のAの年は性欲多感でクラス全部ではそんな話もしているんですが、Aはなぜか中年の女の先生に興味がわきます。この先生は夫もいるし模範的な先生なんですが、どこがいいのかわからない。いつも見つめていたり、先生に接近するときに肌を接したりしているうちにお互いに意識し始めます。接近し始めたときのお互いの初々しい態度は新鮮ですし、見ているこちらが少年は次にどのような行動に出るのだろうか?と興味が出てきます。とうとう、教師の家に行くのですが、やはり場所柄家具はいいですね。夫がいるときに合図も教えるので、かなりの確信犯です。なぜか?

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