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「べスの結婚」

すでに最後まで見る自信がない。人物がもうハイランド特有の顔をしてます。そして寒さからの貧困。寒村の中の結婚です。しかしべスのあの笑顔で考えは変わりました。本当にうれしそう。結婚が幸せだと思っているのです。そして夫婦がひとつの生活単位だと思っているのです。そのためにずっと神への信仰を怠ることなく続けていたのです。素直だ。

「ヤンとの生活」結婚式のときに処女を捨て夫婦生活に入ります。前の結婚式のときにふと思ったんですが日本の田舎とそっくりな部分あると思います。欧州はすこし歴史が古く、国が分かれて民族が入り乱れている分、部落ごとに定住生活をしている日本と似ているのかもしれません。慣習に縛られるところも。横浜なんてNYよりも歴史が新しい町ですからねえ。べス(若草物語みたいですね)は「赤い糸」を信じています。運命の出会いですね。ヤンは女と結婚したくらいの気持ちです。このずれは大きいですよ。

「ひとりの生活」

夫が収入を得るために北海油田に出稼ぎに行きますがその間はべスは一人で生活をします。

しかし一生のい伴侶を神様からいただいた気持ちが強い、べス寂しくて仕方ありません。ここで感じるのですが、スコットランドのような人口が少ないところは電話線よりも携帯電話の電波のほうが能率が良いですよね。そして寒いのですから北欧で携帯電話を中心に競争力をつけてきたのはわかる気がします。しかしべスの愛情は無償のかけがえのないものですね。これはすさまじい。こういう愛は成功します。本当の愛情は一途なものです。

この辺で気がついたのですが、意外とこの監督描写がストレートなのです。性行為なんかもごまかしても良いはずなのに描くし、油田の雰囲気、厳しさも描くし、自己でヤンが倒れた病院先での看護の時もエグイし、不思議でしたが、だんだん、人と人のつながりの意味、孤独ではない、そして生まれたからにはなにか足跡を残す、魂が人間にはあるということ、人間の社会性などをうまく描いてます。なんというのか人間は人間として生まれてきたからにはそれだけで義務と責任が生じる、その根源的な部分を描いているのです。

「ヤンの病気」

前の章で、最後のほうのべスの信じる気持ちに感動して泣けてきます。前回はこんなことなかったので、何かが私の中でも変わったのかもしれません。これでこの監督のDVD−BOX買う心構えができました。実はDVDは意外と見ないのです。オリベイラもビスコンティもまだ1作品ずつ未見のタイトルがあるくらいです。

しかし病室でのお見舞いの会話はそのひと言ひと言が素晴らしい会話です。人を個人を大事にしながら相手も大事にする、そして愛する人には愛するゆえに体を抱きしめる代わりのことを要求する。

「疑惑」

ここまでは良いですね。実はここまでも前回は良いと思わなかったんです。何かが変わったんでしょう。べスを抱くかわりに誰かに抱かれる話をしてくれ、という要求に無理にこたえようとべスはがんばります。この要求は判る気はしますが、相手のベスは結婚まで処女だったんですよ。無理ですよ。それに答えるべきか教会で悩んでいる姿は実に見ていて悲しい。しかし今回はまことに爽快に大笑いさせてもらいましたが、べスがバスに乗って男の人の隣に移り、またに手をやり、ズボンを開き、陰茎をしこしこと手でこするのをべスは顔を見ることなく行い、かつ男の人もやられるままにさせておくというシーン、いやあーーー疲れが吹っ飛ぶくらいに私には受けました。前回はまったく笑った記憶がないのですが。それを報告するとき、あなたに触れたというのです。バスを降りた瞬間に吐き気をもようしたくせに。信じる、すごいことです。

「信仰」

ここですごい会話が。それは兄貴の未亡人の義理の姉との会話ですが、ヤンとのほかの男と寝て来いという会話を聞かれてしまったのです。べスはヤンしか愛せないので抵抗があるのですが、やるというと、姉は馬鹿なことをするなと止めます。べスはなんと神が彼を信じれば助かると言ったというのです。土地の神を徹頭徹尾信じているんですよ。神父というだけですよ。よそから嫁に来た姉にはこの信仰はわからないと。そして姉は自分の意思で生きるのよ、と近代自我の確立みたいな事を言います。意思と信仰の対比です。

「べスの犠牲」

実はこの前の章の最後にヤンは事実上の離婚調停に賛成していたんです。というのはべスを精神病棟に移してヤンともう会えなくする書類にサインをしたのです。医者からはヤンはもう直らないといわれて、生きている限りべスは犠牲を追い続けるから危険だというのが理由です。もうべスは神の言葉なんて抽象的なものを信仰の対象にできなくなってしまいます。現実には愛が、愛し合うことが精神の救済に一番だと知ったからです。しかし閉鎖的な村は、教会を中心に神の言葉をひたすら読んで信じるものだけが教会員として村で認められるのです。よってべスは村はじきにされ、母親も助けると同様に村八分になるので黙ってます。教会に捨てられ(神に捨てられ)自分自身の中に存在している神と対話しながら、ヤンにも会えなくて、変人のいる船に売春に行きます。前回はそこでひどい目にあっているのに、なぜ行くのでしょうか?試練を乗り越えれば活路が見出せるとでも思っているのでしょうか。まったく無意味です。しかし向かうときに最後に神と自分と対話して何かを見出したのです。それは犠牲。もしくはヤンとの永遠の生。当然今度はめっためったに切り刻まれます。

「葬式」

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