「ハード・デイズ・ナイト」リチャード・レスター監督 1964年 イギリス
この映画何回観たことでしょう。楽しい時間です。ビートルズは人気あったんですよね。「ヘルプ」とともにファンの会の自主上映会によく行ったものでした。「レットイットビー」もそうでした。この映画昔、私の場合30年近くしか前ではないですが、映画でもかなり行列したんですよ。有楽町の日劇の前の映画館とか九段会館によく行ったものです。あとファンレター書くシーンがあるんですがファンレターって本当にあったんですよね。映画俳優になら出したことあります。昔スクリーンとかに俳優のファンレターのアドレスが書いてあって海外便で送ったものでした。返事って意外と来るんですよ。今ではインターネットで、意味ないのかもしれません。でも彼らの映画を追うと成長の度合いの速さに驚きますね。ストーンズは逆に変わらない方を選択したんですが、ビートルズの変わり方はすごい。
「キャントバイミーラヴ」、スタジオを出た瞬間、この曲だと思ったらすぐに流れてきて、忘れていないんですよ、歌詞も映画も。そして今この歌詞を読むと深いなあ。愛は金で買えない、というのいいですね。今の日本はお金で買えそうですが。笑い。
映画とすると、今の感想は、ビートルズより年上で出てくるせりふのある役者みんな魅力的ですね。かなり良い俳優使ったんじゃないかな?調べる気はないですけど。
「アンドアイラブハー」のスタジオテイクもいいですねえ。若返った気分です。
結局ノスタルジックな時間はあっという間に終わってしまいました。ビートルズはいいなあ。最後のお辞儀も丁寧でいいですね。何でこんなに良いバンドが生まれたのだろう?
「白痴(はくち)」黒澤明監督 1951年
カミングアウトしますと以前見たときは途中で退屈しました。
第一部「愛と苦悩」
舞台は北海道。
はじめから「癲癇性痴呆」白痴(はくち)だという告白から始まります。面白い。戦犯として死刑宣告をうけて気が狂ったのだという。「この世の中で真に善良であることは馬鹿に等しい」それゆえ小市民的善良な人間を主人公にしたということは考えさせられます。でもうまいですね。この善良な主人公Aが世の中に対して真摯に生きていくことで負け犬になるという話という前書きです。話の流れを言葉で飛ばすのできっとどこかを集中的に描きたかったのでしょう。とにかくこの帰国の途中に出会った青年Bとうまが合い友人となる。そのBは、ある美しい女性(私の大好きな、原節子様)Cを見初めて(映画では、Aの鬱積した欲望が爆発した、となっている)ダイヤを贈って勘当させられたが、その父親も死んでしまったので遺産も入るので札幌に帰るという。Aも友人を頼って札幌に行くという。このAも死んだものとして財産を処分されていたのです。それが帰ってきたのでちょっと後ろめたい輩は気が気でないでしょう。この連中の中にCを引き取ろうとするものDがいます。しかしDはほかの女Eが好きなんですね。まあいい加減なやつらです。人の隙に付け込むタイプです。EもまたAと同様に潔癖症なんですね。(精神的な潔癖症ですよ)今回は人がたくさん記号で当てはめてますが決してわかりにくいものではなくこれだけの人物がうまく交差し関係するのです。
Dの家族はCとの結婚に反対なんですね。まあお金かけて引き取るわけですから、いい訳ないし、それまでまっとうな人生を歩んでいなさそうですからね。しかしそれだけDは家族の中で弱い立場でもあるということです。
そこにCがたずねて来ます。さらにBが追ってきてCに対して払い下げた60万円プラスいくらで手を打つか取り合いをします。ここでCの感情は無視されるし、Cもまたお金でけりがついたあと、何かたくらんでいるような感じなんですね。この女は人生をまだあきらめてませんよ。しかしですAがCの目を見たことがある、そしてCはDの家族が言うほどの悪女ではないという本質を見抜きます。人目で見抜きます。Cも見抜かれたそのAの眼識に興味がわきます。そしてパーティーに招待するのですが、Aはそこで「私と一緒に死刑台に立たされた男の目だと」言うのです。これはうまい表現ですがCがどちらに転んでも幸せな結婚ができない現状の運命とその先行きに希望が持てない状況を一言で表しました。「長い間昼も夜も苦しんできた、何故自分がこんなに苦しまなければいけないのか、とその目がそう叫んでいたのです」とCに言います。そのときのCの目がいいですね。結局Cを魂から揺さぶることがいえたのはAだけですね。お金じゃないんです。まあお金はあったほうがいいですが。このことはCの結婚の判断をAにゆだねる信頼を得ます。いやーーすごいシナリオ。さすがです。「結婚はよくない」Aのアドバイスです。すべておじゃん。そんな中Bがお金を持ってこの会場に来ます。これすごいですよ、貴族社会みたいなプライドと情熱をかけたパーティーのシーンです。白眉といっていいでしょう。「安城家の舞踏会」という映画があるのですがあの舞踏会のシーンみたいにプライドが満ちてます。こちらのほうは偽善も満ちてますけど。しかしAがCを引取とるというのです。「こんな私を」とC.どんな私なのかわからないけど、目で顔でその人の人格を判断したAは本当に見る目を持った人間です。何回も言いますがこのパーティーのシーンはすべての言葉が素晴らしい。ここでのAのCの愛の言葉、優しい言葉の数々、心の交流とはこういうことでしょう。このことが懺悔につながります。Aが死んだと思って財産をとったものがAが実は「財産の持ち主であること」を告白するのです。しかしCはBと一緒になるというのです。なぜならば「Aは純粋すぎる、生きていくのはできない」ということです。そしてCを奪い合ったお金をCは火の中に投げ込みます。まさにAの財産を奪ったことが判明したばかりですのでDはお金がほしいはず、しかしプライドが邪魔をします。ここでプライドを投げ捨てて当座のお金を確保するほうがよいのです。いちど社会の上層に這い上がったものはその地位保全をしてしまうものですね。地位なんかないのですが嘘のプライドだけが残ります。