いざ、助っ人の際も1対1の対決はなるべく避け(どちらが死ななければならないから)2回くらい剣を交わしたらほかの戦いに割ってはいる。そんなわけで死者は少ない。
実際のところ出入りもどちらもやりたくはないものですよね。けが人の手当て、死者の葬式費用などお金がかかるので面子が立てば仲裁人を入れてやらないこともあるとのこと。この映画観ていて思うんですが、完全な父系社会ですね。
ここで素直な感想を書きますと、3人で旅をしている若者は煮え切らないでいらいらします。結局昨今の犯罪のほうがすごい割り切り方しているんですよ。首切りとか平気で起こりますもの。この現代の異常性もあるんでしょうが、思わず、「相手を切るならもっとさっさと切れ」とか思うシーンが多いのです。
ひとりの若者げん太は上で言う、渡世の義理を果たすために実のたまたま出会えた、行方不明の父親を殺します。「親子の情」とどちらが重いか?なんて言われて信じてしまうんですよ。へたにまじめなんです。結局、一番重い殺人を犯して3人ともに追われます。このときわらじを脱いだところで知り合った女を誘うとついていくというんです。(これもまさか来ると思わなくて誘っているんですよ)女は借金のかたに無理やり結婚させられた女で嫁ぎ先で面白くないんですよ。この女の子かわいいんですが、俳優の名前見てびっくりしました。井上れい子です。最終的に逃げ回った先まで追ってきた夫の弟を後ろから殺してまでも帰りたくなかったので、よっぽどの家だったんでしょう。肉親殺しが二人では逃げ切れないと、女を「めしもり女」にします(旅籠に2名まで実質的な娼婦が許されていたらしい)。それも女は承知して、男が迎えに来るのを待つといいますし、男も迎えに来るつもりでしょう。別れ際にめそめそしているのは、男のほうです。「だったら売らなければいいのに」とこっちのほうがいらいらします。
そして運を開くために(ひとりは途中蛇にかまれて破傷風で死んでしまった)下総の喧嘩に参加して儲けようとしますが、2人組が裏切り者を殺して手柄を上げようとするのに対して、げん太の方は渡世の義理といって、切りあいします。もうはっきりいって馬鹿な者たちで、見ているこちらが唖然としてきます。とくにげん太、お前は渡世なんか渡るな、農民が似合うぞ、と心の中で叫んでます、私は。
結局走っていくときに足を滑らせて、緩やかなはずですが転がると止まらない丘から落ちてげん太は頭を打って死にます。一人残される、裏切り者を殺してしまおう、と提案した男はひとりげん太の行方を捜しながら映画が終わるのです。まあ途中いつでも別れることが出来た別のところから来た3人なので、一人では何も出来ないことを自分たちが知っているのでしょう。生き残った男の人生も先が見える感じです。
私とすると娼婦に売られた女はいつまで、心の中でげん太を待っているのかな?という疑問だけでした。なんというか素朴な映画です。今の普通の人のほうが怖いかもしれません。怖い世の中助け合いたいですね。
「ミシシッピー・バーニング」 アラン・パーカー監督 1988年
そんなに最近の映画だったっけと思うような、製作年数ですね。とにかく当時心に残った映画で、結果を知っても何回も観ております。最近の「L.Aコンフィデンシャル」と同じようなテンションのよい映画ですね。
今思うと、初めに黒人と公民権運動家が撃たれた所から始まったのが良かったですね。良いスタートです。そしてたたき上げ(ジーン・ハックマン)とエリート(ウィレム・デフォー)の登場です。結果ですがFBIがこんなに力ないものなのですかね、と思います。事件のあった街に入ると異様な雰囲気です。レストランもカラード専用とホワイト専用があります(そういえば昔アメリカに行ったときに、これは確かに気をつけていた記憶があります)。ここで思うんですが、黒人は奴隷としてアフリカから人身売買で運ばれてきたので、以外とルーツとなる社会基盤を持っていない気がします。アメリカに移民したイタリア人やアイルランド人は自分の国のルーツとなる組織基盤持ってますよね。それが努力して成功すると成功できない白人のねたみを買うことになっていくんですね。映画の中ででてきた言葉ですが「クロに負けたらおしまいだ」という言葉や「プアーホワイト」という言葉、さらには「憎しみは生まれつきではないの、教え込まれたの」という台詞に表現されてます。しかし創世記9章27節とはなんなんでしょうね。KKKの根拠らしいんですがあまり興味ないので調べてません。しかし努力しないでみんな運命のせいにしたり、色の違いにしたりするところに問題がありそうです。KKKからするとユダヤもカトリックも東洋人もダメなんでアングロサクソンのデモクラシーを作るということですので当時生活していた被害者は運が悪かったのでしょう。焼かれる十字架がKKKの天誅の証ですがどういう意味があるのかは知りません。人間の弱い心に起因するので宗教の議論は別の問題であるはずです。しかし移民させられた黒人もキリスト教を信じるということはかなり説得性、普遍性があるんでしょう。そしてなんとなく、黒人聖歌の意味がわかりました。素直に表現できなかった信仰心を歌を変えることで維持したのですね。そういえば日本も同じですもの。遠藤氏の小説「沈黙」などはパライソと歌う唄出てきますね。たぶん同じ事だと思います。変化させた部分と変形した部分と両方あるのでしょう。