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「天国と地獄」 黒澤明監督 1963年

今見ると、怪しい音楽でスタートするんですね。あと脇役に回る役者が豪華です。さすがという感じです。今なぜ見ようと思ったのかというと、市川監督の作品が続く予定ですので比較の意味とポルトガルのオリベイラ監督との比較したくて見ました。(なにか考え方が似ている感じがするんですが手法が違うと思うんです、その確認です)

本当に横浜港を中心の俯瞰がタイトルバックに流れるんですがさすがにどこがどこだかわからない感じがいたします。靴メーカーが出てくるんですが、しっかり丈夫な靴ばかりで売れずに業績低迷している状況です。しかし「おやじ」と呼ばれる社長が出てこないんですよ。高度経済成長に入っているので、大量生産の時代ですね。デザイン性で差別化が図られているんですよ。そこでポイントですが、なぜ、この重役たちは社長を追い出そうとするのか?業績を伸ばすということと目先の流行にとらわれるということは違うことだと思います。主役Aは別に理想の靴を作ろうと考えておりました。「歩きやすく、丈夫で、デザインのよい靴」を自分が作ろうとしてます。ここでこのメーカーは三派に分かれているんですね。持分比率の計算がなされますが、駆け引きがあります。Aもたたき上げですので性格は攻撃的で「やるか、やられるか」という性格です。勝負というのはばくちですので、家も抵当に入れて、株主総会を乗り切れば自分が代表権のある取締役に選任されて会社の方針を決定できると読んでいるんです。まあほかの重役連中がなっても先行き暗いのなら勝負し甲斐があるというものです。

そんなときに誘拐の電話が鳴ります。ここでポイントのことがあり、お金は交換可能性という性質を持っているんですね。作ればいいのです。子供は個性を持ってしまっているんです。生まれたときに見えない運命で子供と親は結ばれているんですね。また子供も作ればいいというものと最近では考えがちですが、次に生まれてくるのは兄弟であって違う個性を持っているんです。さらにひと間違え(誘拐する子供を間違える)がありますね。ここで犯人はAの良心を計るんです。「子供を見殺しにする度胸はあるのか」ここに犯罪の要求が変わります。運転手の子という身近なAにとっても個性のある子供です。ここで思うのですが、この映画で描写されている子供への愛情や運転手が「土下座」して頼む土下座の意味、妻の言葉、使用人への思いなど、現代日本ではちょっと通用しないかもしれないというところがあるのは寂しい感じがいたします。(さらに子供に正直なことを語らせる演出、「子供が大事と」、この辺のうまいですね)さらに警察ですが、優秀というか「デパートのトラックで来るし、事情も聞かずにてきぱきと対応する点、犯人からの電話にいちいち説明的な言葉を言うような点」さすがに出来すぎです。しかし画面いっぱいに家の中のシーンにもかかわらず、人が交差するようなシーンもカメラと役者が同時に動くのでこちらは全体が見えていないんですが全体をうまく捉えているようでうまいです。さらに目線がいいんです。この室内の風景は本当にいいですね。特にAがかばんに細工しているときに「見習い工のときの腕が役に立つとは思わなかった、また一から出直しだ」というときに刑事一同立ち上がる、真ん中にかばんを修理しているAという構図最高です。まあ結局、築いたものはまた作れるということでしょう。部下は裏切りますが、築いていないですから今の地位保全に動くんですね。ギャンブルもできいないやつです。客観的に子供の命を助けたほうがあとの人生で悔いが残らないだろうというのは簡単ですが、実際はできないことだと思います。警察もAに「生活を守る権利はある」そして「われわれはそれを守る義務がある」というようにこの後の動きもAの動きが関係してきます。

この映画のすごいのは次に事件が動きますが、やっと外に動いたと思ったら今度は列車の中という室内なんですよ、また。この列車の中で証拠写真をとるんですがあとで役に立つというのが映像ではなく、写真なんです。ここは監督は何かいいたかったのでしょうか?

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