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「ファンドとリス」 アレハンドロ・ホドロフスキー監督 1968年 メキシコ

リスが花をむさぼり食べていたときに戦争が起こっているんです。いくつかの都市が存在していたが最終戦争で「タール」という都市以外は滅亡する。そこからスタート。なんか「風の谷のナウシカ」みたいですね。「水を飲む鳥を見て永遠を知る」「向こうへ行けば人生とは何かわかる」しかし「タール」という都市がこの戦争に積極的に参加しているのなら、勝者なのです。「タール」の存在証明は「タール」都市以外でなされなければならないのですが、「タール」はほかの都市の存在の証明に都市の集合の変数として用いることは可能ですよね。はじめの語りで「タールに踏み入れば、ワインと水を差し出されるだろう」などと流れるので資源は豊富で、ほかにも平等などの言葉が用いられるので、勝者の理想の統治がなされているものと考えられます。こんなこといいながら私は「タール」は抽象的存在だと思っているんですがねえ。その「タール」を目指す男と女の遍歴です。「未来に近づけば近づくほど増幅されるエクスタシー」があるらしいので出発ですね。蓄音機を持って出かけるのは、音楽が荒野(「タール」以外は荒地、すなわち最終戦争の残骸がある)では調達できないからでしょう。リス(女の方)は歩けずに引き車でファンド(男)の方に引っ張って行ってもらっております。

第一幕「葉っぱに逃げ込んだ木」タールを探せ、僕の世界を見せよう、誘惑、お葬式の歌

途中、バンドの連中がアナーキーな生活をしているところにぶつかるのですが、そこで、淫らな生活や統制の取れない楽曲などに翻弄されながらも(いつもファンドはリスをないがしろにして遊びに行き、または喧嘩して飛び出してそこでもてあそばれて傷ついてリスのもとに帰ってくるのです)ふたり仲を戻します。この街の芝居小屋は幼児をもてあそぶところです。荒廃した感じのところ。荒野の楽団の演奏する音楽はジャズみたいな感じの曲で、この映画がメキシコ映画なので仕方ないでしょう。楽団は燃え上がるピアノの最中に最後の演奏が始まり、燃え尽きて楽団も踊りも終わります。そこで二人を引き止める音楽の魅力も消えていき、また放浪となるのです。

次は「タールの街はファンドの頭の中に」というシーンです。自分を信じて、花は見えたか、女たち、リス

女神像が捨てられ、その捨てた沼からはぞくぞくと人間の男女が起き上がって(生き返って)くるのです。そこから逃げて、二人は花のことで喧嘩します。そして女陰の形をした砂漠の穴にリスを捨ててファンドは立ち去ります。そして、女の支配するアマゾネスに着きますが、私も常々思うのですが、女の性欲は年取ってから男と逆転するみたいです。トランプで男取り合うゲームや、ボウリングで男を倒すゲームのシーンが出てきますね。ですから男たちは人形で遊んでいるんです。女の恐怖と男のだらしなさを見てファンドは自分にはリスがいると思い出して戻る。情けないなあ。

第三章「孤独な男には常に伴侶がいる」男たち、ファンドとリス、お恵みを、母

今度は砂漠で大量のおかまちゃんたちに出会います。ファンドにおかまの格好をさせますが似合いますねえ。性格が女っぽいからなあ。リスは男の格好。逆です。そして女たちに父の棺おけのところに案内されて、父は生き返りそのまま女と消えます。逆に母にも会うのですが殺してくれといい、殺します。そして棺おけの中に入れたら鳥が出てきて魂が飛び立つように空に飛んでいきます。この父と母はファンドの独立を示唆してます。

第4章「彼女に別れ話を切り出したら、私たちは二つの頭を持つ一つの体といわれた」俺のフィアンセ、乱心の石、俺の太鼓、君のために歌う

しかし、うまくいきそうで、ファンドはリスに歌を歌ってあげようとするのですが、その太鼓をリスが壊したと思うのです。そして激怒してリスを拷問して死なせてしまうのです。

そのとき、「タールに着いたら君の頭上には黄金の王冠、そして君は迷宮の鍵を手にする」という声が聞こえてきます。そうすなわち、「タール」は愛情のこと、慈悲の心のことです。そしてリスの死体から物を剥ごうとする連中を押しのけリスを埋葬する。そして傍でリスのことをずっと思っていると夢か、リスとファンドは裸になって森の中にかけて行きました。「鏡に映った像が色あせたとき、自由への道が切り開かれた」

やはり「タール」は愛情でしたね。しかしファンドは実際の場所と思うのです。着けるわけないんですよ。ファンドはいろいろな経験をして、リスを失って初めて愛情に気がつくのです。そして「タール」はアダムとイブの新しい楽園のことでもあるのです。ふたりにアダムとイブになる可能性があったのですが、それも不可能になりました。しかし魂はふたりで楽園に向かったはずです。結局彼らは「タール」にたどり着いたのかもしれません。お金のこと生活のことを除き、「タール」を目指しているときに両親のこと、性欲、裏切り、やさしさなどを経験したのです。まあ「タール」なんてそんなに簡単にいくこと出来ないものね。今でもあるんですよ「タール」は。世界戦争は今も終わりつつある状況です。しかし今は貨幣や交易など街の間が密接に関係しているので「タール」は見えないのかもしれません。最後に「タール」はどうでもいいところかもしれない、というのはファンドが勝手に理想と思ったところだったからです。あまり深読みしない方がこの作品にはいいのかもしれません。

最終戦争なんてはじめのところに書きましたが、舞台は確かに砂漠の岩山ですが、すべて夢物語なので間違えないようにしましょう。この監督の想像です。創造でもあるんですが。

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「リービング・ラスベガス」マイク・フィッギス監督 1995年

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