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冒頭、昔ながらの結婚式で始まります。家族結合ですから本当は大変なんですよね。しかし核家族化で親戚との交流も減り、こんな古いタイプの結婚式は私は参加したこともありませんし、親戚でもいません。家柄の力関係は、夫のほうは旧家で妻のほうはその小作人だったものがアメリカで成功した成り上がりの家系です。この家系を無視して結婚しようとした進歩的な夫はその反面、妻となるものにある課題がありました。純潔です。この課題が結婚が決定してから、すなわち夫になる男が心から妻となる女を好きになったあとで崩れるとどんなことが起こるのだろう、ということですね。当然、今の若い子にはほとんど当てはまりません。まあ好きになった気持ちを大事にしていくのでしょう。「甘え」の環境の中で潔癖主義者になった夫はそうは考えませんでした。「家」と「家長たる地位」と「男の女性への憧れ」がすべて揃ってしまったのです。こんな動機の事件だとは思いませんでした。途中で犯人はわかりましたが、動機がこのようなことだと知ったとき、そんなものかな、という気持ちでしたが、わかる気もしたのです。

そして自殺は自分の敗北であるから他人が殺したように見せかけなければならない、というのもすごいことです。ですから殺人が起こると意外とあっさりと解決はつきますし、犯罪が波及することもないのです。それでこの短時間の事件追求のときに、岡山の田舎の自然、風土、旧家の家の構造を映像で提示されるのですから、そのまとめ方はうまいですよ。この草いきれのまるやま、と瓦の勾配の急な旧家の大きさはどこにでもある日本の田舎(庄屋)の風景なのでしょうが、自然の中ですごした日本人が、そこでこのような精神構造を育てていくという皮肉な映像でもあると思います。

はじめに戻りますが結婚式での三々九度、「高砂」の謡曲、琴「おしどり」(この本陣のしきたりだそうです)あたりの流れはしっかりしてきれいなのですが、そのしっかりした二人の奥にはこのような決意があるからしっかりとしていたのでしょう。

妻となる女が琴の音色に一瞬びっくりしたのは旧家のしきたりに入り込めない、不順なものをいつしか無意識に感じたのでしょう。そうですね、純潔なものにしかこの琴の曲は弾けないのでしょう。親戚一同が着物で参列している様子は、実はうらやましい風景です。景色や家の構造にしっとりとマッチしています。

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「イノセント」ルキーノ・ビスコンティ監督 1975年

たまたま、「本陣殺人事件」と同じ年の製作ですね。そしてまた、妻の純潔の問題が出てきます。和洋を問わず、永遠のテーマですかね。特に女性は性ホルモンの分泌遅いので、夫とバランス取れないこともあるみたいです。

夫(Aとする)は愛人(Cとする)がいるのですが、CはAに全身で自分のほうを見てもらいたいという女性です。そこで隠れてAと妻(Bとする)が一緒のパーティーに参加するのですが、AとBが愛人を持つほど悪い関係ではないと察知して悪態ついて場の雰囲気を悪くします。AはBの元を去るわけにも行かず、どうしようもないのですが、何とか理由を言ってCを追います。実はCにはほかに求婚者がいるのです。その求婚者ともAは決闘をしてしまいます。Aの情熱は上がるばかりで、たまらなくなったこの気持ちをどうすればいいのか、と妻に相談するんですよ。そして「わがままを許してくれ」と言ってCの元に行くのです。Bは我慢強い性格なのですね。そしてこういう性格が安定した人間でないと正妻は務まらないとAもわかっているんですよ。ここまでは結婚からBを飼い殺しにしてました。

しかし流れが変わります。AがCのことで決闘をしている最中にもCはどこかに行ってしまうし、だんだん、Cにぞっこんでなくなりつつあるときに、Bの方はAの弟の友人の作家の前で睡眠薬を飲んだあとの酩酊して寂しいというみだらな姿をさらけ出してしまいます。その作家はBも気になるいい男でした(Dとする)。Dはそのみだらな姿でBの現状の不幸を察知して、積極的に誘います。夫に飼い殺しをされていたBは初めて愛を知るのです。そんなときに、妻がオークションに行くと出かけたうそが、妻を追って出かけたAが知るのです。その証人がCなのです。Cはこんなところまで私を追いかけてきてくれたと、その夜はうれしくて仕方ないのですが、Aが妻を捜しに来たのだ、というと状況を把握して、Bも愛人を作ったのでは?といいます。その言葉に動揺したAは家に立ち返ると、Bは出かけてます。

そしてAの実家(Aの母のところに滞在していた)まで追いかけていくと、いくらAが誠意を見せてもまったく興味を示しません。不倫でもここまでは、と思っていると、なんとなく妊娠したみたいです。ここでDという作家についてBもCもいいセンスしているといわれるとAも面白くないのです。まるっきり「本陣」の夫と同じで甘いのです。自分は好きにしていて、周りがあわせてくれると思ってもまわりも生きているのですからねえ。そういうことでAもDを意識し始めます。フェンシングもたまたま一緒になるのですが、そのときDの裸を見て若い奴には勝てないと悟ったのでしょうね。このあと、妻を実家に追いかけていくことになります。

ここからが良い所で、夫婦の対話がかなり入ってきます。Aは堕胎せよといいます。Bも申し訳ないといいながらも結局は母性で産みたいとなり、最悪別れてもいいといいます。このときBは「言い訳にならないけど、寂しくて、悲しくて、生きていけないと思ったのに、今こうして生きているのはDのおかげ」というのです。確かにそうでした。AはDの子供にAの名前をつけるのを嫌がったのですが、別れるという決心を見て育てていくことにします。ここでひとつ重要なことがあるのですが、Aは無心論者なんですね。すなわち天国も地獄もなく、今、この世にあるものがすべてでその人間などの交流、関係を大事にしていきたいと思っているのです。神のことを、想像上の人物といい、その抽象的なものに向かってお祈りするのはばかげているとまでいいます。ですから、子供が生まれてもまったく興味がないばかりか、洗礼などの行事にも欠席します。無心論者と他人の子供という二重の苦しみが多分無意識的にもAを追い詰めていきます。その追い詰められる様子を黙って見られるはずはなくBも自分自身精神的に追い詰めていくのではないでしょうか?

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