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Aは「子供を通してDを愛しているのだろう」というし、Bは「流産も願ったのよ、Dが恋しいのではない、(自分の子供が愛しい、私の推測)」というのです。ある日、ミサに家族みんなで出かけると、子供の子守だけが召し使えで家に残ってます。Aは無心論者でミサに行かないので、この召使も行って来い、と追い出して子供の部屋の窓(冬の雪の降っている日)あけてじっと見てます。Bは教会に子守が来たことに衝撃を受けますが、Aの判断にゆだねたのでしょう。Aは赤ちゃんを冷たい外に置きます。なぜ、離婚に応じなかったのでしょう。そのときに「子供を父なし子にしていいのか」とBに離婚ををとめたのです。ということはBを欲していたのです。世間体ではないのでしょう。たぶん、自分で気づかないくらいに愛していたのです。自分の子供がほしかったのです。そのことに今回Cとの浮気を経て、初めて気づいたのです。Bも今回のことでAは精神的にBの元に戻ってきてくれました。かなり「本陣」と重なるテーマですが、「家、旧家」の伝統の重みをAは背負っているのと、何不自由ない生活のために自由を恋愛にもあてはめて自由に恋しすぎたのです。そして相手には純潔であれ、という根底の願望があるのです。この2本の映画は違うテーマですが、そのポイントはかなり重なるものだと思います。

子供を殺したあと、妻は本音を、Dを愛していたと、子供がかわいくて仕方なかったといいます。そして二人は離れて、Bは自殺でしょう。結局Aも自殺して終わるのです。最後まで認めなかったのですがCもわかっていたとおりAが愛したのはBだけだったのです。こうしてみると「本陣」とともにいい映画です。

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「青空」 サトウトシキ監督 2000年

この作品はアダルトなので簡単に。最近、ピンク映画とも言われてますが、ピンクとは赤と白が混ざると出来る色なのですがそれがポルノを示すというのは、なんかうまいオブラートのような気がします。

そしてこれはポルノ映画ということですが、実は「いちげんさん」の方がエロい作品です。「いちげんさん」がむっつり助平なのに対して、こちらは、スケベが悩んだ映画でしょう。3作品手に入れてしまったので3回ほど、いつか何気なく書くと思います。

本当に、エロの直線的なシーンはほとんどないです。また遠めから映しているのでまあこんなものか、という程度です。若く、自分がなにやっているのかわからない人間ばかり出てきます。そのやっていることが犯罪なので、社会的には大問題になるのですが、自分たちは軽く喧嘩でもするような気持ちなんでしょう。若い女は街でぶつかった男に言いがかりをつけて、逆に犯され、そのまま同居するし、ある事件がもとであえなくなって再会してもそのままの関係をずるずる続けるし、よくわからないのです。しかし、感じるのは、女は男がどうしようもない奴だと知っていて、どこかで見切ろうとするところです。逆に男に悟られ、殺されるのです。このあえなくなった1年間は逃げ回った時期ですがその逃亡先でも勤め先の社長の愛人が社長を殴り殺す場面があるのです。当然、すべて映像はないですよ。こういうシーンお金かかるから、また趣旨が違うからないのです。エッチなシーンもないのですが。

この主人公の男のモノローグで話が展開するので、男が生活を安定させたいと思うときに終わるのですが、その途中、勤めの合間にジョギングをするシーンがあるのです。「考えを分散させたい」「ひとつのことにこだわらないようにする」などのために自分で気に入った精神衛生方法でした。犯罪をする際にはこのジョギングが切れてしまうのです。

 

私は思うのですが、多分、このジョギングのシーンがなければこの映画について書かなかったと思う、ジョギングはかなり足をけることによって眼の奥の疲れを、頭の詰まりを取る効果があると思います。そして足の筋肉にも適当な重力をかけて、自分の重さを意識させるのです。これを定期的にやると体が自分は、どの程度重いのかわかってくれて、いざというときに動けるし、体重の負荷は神経繊維のマッサージにもなるような気がします。このジョギングの効果を発見して立ち直ろうとしたのですが、女が再会に応じなければ良かったのでしょうし、女の中途半端な気持ちで殺人まで行き着いてそのあとに、反省がきたのでしょう。この男はもう一度社会復帰したら、家庭を持ちたい。と言って終わりますが、もう出てこなくてもいいよ、と思う反面、ここまで経験しなければ、実は本当の反省はおこらないのかもしれないと思います。まったくお勧めではない映画です。しかしこの映画を観ると「いちげんさん」はポルノです。

  「天使たちが見た夢」エリック・ゾンカ監督 1998年 フランス 今度は「青空」と少しダブるような話です。バックパッカーの流れ者の女20代前半(Aとする)が友人を訪ねてある田舎町に来ます。友人はいなく、カフェでいつもながらのあぶく銭を稼ごうと切り絵を売ろうとすると、「金がないのか、仕事を紹介するぞ」、という男に出会います。仕事は紡績工場でミシンを使う仕事です。そこで、休憩時間にたまたましばらく一緒に過ごすことになる同じ世代の女(B)と出会います。ここで、思うのですが、いい悪いはともかく、カフェに出かける、または街に、外に出なければ、どんな出会いのきっかけもないということです。最近はこもるのがはやりみたいで、「もっと外に出てほしいと思います、もちろん車の中は外ではないです」。

会話の中で「この街なんか陰気な町ね」というせりふがあるのですが、確かに街から街へ流れていると、旅をしていると、そういう雰囲気を敏感に感じることが出来ます。ゆえにAは多分、危険も敏感に感じるのでしょう。Bも「嫁いだらここを出るわ」といいます。これはアメリカの田舎、特に南部の人の考えですね。しかし地元で恋をしてしまうから出られなくなるというパターンです。

この二人見ていて思うのですが、生活のリズムが外に向いているんですよ。お金がない若い子のパターンなんでしょうが、工場から帰宅、ご飯を家で、そしてバーに出かける。踊りに行くのです。日本人なら、どうせ出かけるなら食事でも、と合理的判断をするでしょう。食事の部分にお金を使わないのはいいですねえ。そして帰ったあと、家にこもるんではないんです。家にいても誰とも知り合いになれませんから、出かけるんです。ついでにライブをただ見しようとすると、その受付のバイク乗りたちに断られます。しかし確実に彼らと知り合いになるのです。そうしてみんな相手を見つけていくのでしょう。実際に二人とも友達とも言えるバイク乗りが出来ます。Aは話すくらいですが、Bは寝てしまいます。Aはじっくり自分のしたいことを見つけるタイプで、Bはあせってしまうタイプですね。二人の住んでいる家は、Bの知り合いの家で、交通事故で入院している間、管理人として預かっているだけです。Bは破産した父親がいやで家をとっくに飛び出しているのです。実際に母親もお金をせがみに訪れます。

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