2003 11/22 「傷跡」(BLIZNA) KIESLOWSKI監督 1976年作品 主人公は工場を建設する担当の監督官でいわゆる役人です。 工場を林野を切り開いて建設するということは環境破壊を伴い、市民の生活の場の破壊をも意味するのです。一方、市民の雇用の確保も重要でその狭間にさいなまれた男の苦悩をうまく描いております。 「真実(環境破壊)と信念(雇用確保と共に快適な住空間の創造)が違ってしまった場合」の官僚からのプレッシャーと住民、市民の苛立ちや弾劾がこの主人公を追い込んでいくのですね。そして「自分をおろかな人間だと思う」と辞任を申し出るのですが認められず、最後まで責任を取れと言われます。 この工場を作る過程や工員との折衝など、やけに生々しく、1976年だから再現できる東欧独特の雰囲気だな、今では再現するにもここまでリアルに出来ないだろうと思って、時代性を感じていたのですが、終って解説を見ると、この映画はドキュメンタリーと映画の結合だったのです。ドキュメンタリーはこの監督によるものではないのですが、そのドキュメンタリーに隠された、担当役人の(主人公の)気持ちの揺らぎ、部下の裏切りなどをドラマとして脚色して、つなぎ合わせていたのです。やけにワレサ議長のグズニスク造船所でしたっけ、「連帯」が組織されたころの雰囲気がそのまま画像として映し出されているのでドキュメンタリーの部分があると知って納得いたしました。ちょっとアンジェイ・ワイダ監督の映画のテイストも味わえます。 「傷跡」というのは具体的に環境破壊もあるのですが、実は主人公は工場ができる前ののどかな景色、住民の生活が好きだったのです。ゆえにその生活を壊してしまった自分の判断と責任に対する心の傷でもあるのです。最後、解任されて一人犬とじゃれているシーンはこの主人公の気持ちが充分に表現されていてうまいドラマの方の幕がおりたと思いました。こういう書き方をするとつまらなそうですが、人間のエゴ、人間の判断の限界、官僚制の弊害などがうまく一人の男の心情を絡めて表現されていて観ているとあっという間に時間が過ぎていきますよ。 2003 11/23 「バーディ」(Birdy) アラン・パーカー監督 ひょんなことから生まれる友情が一生を左右するとは、ねえ。一人は現実逃避的で内向的な若者です。彼は生き物、特に鳥が好きで育て、鳥との交流を好む変わった嗜好がある男なんですね。なぜかというと鳥は離すと飛んでいく、その鳥(鳩)のようになりたい、自分も好きなところに行きたいと心のどこかで思っているんですよ。それで鳩のことには夢中で馬鹿みたいに飛んだり跳ねたりできるんですよ。 もう一人はレスリングが好きな男で、たまたま野球のボールが上の男の家によく打ち込まれるから、気になっていたのと、弟がナイフを盗まれたと嘘を言うところから、謝り知り合いになっていくんですね。この小さなきっかけが人生を左右することになるんです。 二人はそれほど仲が良いという訳ではないのですが、鳥を好きな男(マシュ・モディン)があまりに鳥に夢中になるあまり馬鹿げたことをしそれに付き合っているうちに、馬鹿げたことの楽しさみたいなことを覚えていくんです。体で覚えてますねきっと。この友人役をニコラス・ケイジが扮するのですが二人とも役者はいいです。バーディはいつのまにか夢の中で空を飛ぶようになり鳥の視点で物を見ることができるという感情と夢(人間としての意識を鳥の目の位置で見るということ)がリンクしてくるんです。ちょうどそのころ二人とも別々にベトナム戦争に巻き込まれていくのですが、その戦争では二人とも悲惨な目に会います。この映画が若干反戦としてのテーマがあるといえるのでしょうが(映画の中で、「昔の戦争は英雄がいた、おれ達はカモだったんだ」という台詞に象徴されます)、中心は人間の孤独と友情、社会性の意義です。戦争でバーディの方は前線で行方不明でかすかな記憶として空を飛ぶ人間が作った爆撃機によって鳥や人間が死んでいく様をまじまじと見せ付けられていくのですね。そして何も話さないかごの鳥となっていきます、あたかもいじめられて飼い主に裏切られた小鳥のように不信感いっぱいな態度ですね。ニコラスケイジのほうは体中負傷して顔は包帯だらけ、生きる望みもなくなりつつあるのです。そして、バ−ディの精神医学の治療として昔の友人として自らも傷ついたニコラスケイジは病院に呼ばれていくのです。そこで昔を思い出しつつ、楽しかった思い出、今の自分の自信のない状況などを独り言のようにバーディに聞かせるのです。聞かせるというか一人勝手にしゃべるんですね。自ら自分自身の治療も行なっている訳です。そうして、本音を言えるようになるあたりからバーディも少しづつ反応するようになるのです。ニコラスケイジも自らを解放して飛び立ったのです。そうするとバーディももう一度飛ぼうと思うのでしょう、意識がはっきりして病院から飛び出していくという感じの話です。いわゆる友情はかけがいのないものでした。そして、何かから自分をとき放つことも大事なことなんでしょう。音楽はピーター・ガブリエル。いい音楽です。 この終りのシーンは昔みたときも確かに感動すると共に次のことを思い浮かべました。この監督の場合は「ミッドナイト・エキスプレス」も同じような終わり方ですね、(これも同時に購入してます)やミロス・フォアマンの「カッコーの巣の上で」など以外と近い時期に、いい映画がたくさん作られたような気がします。
11/24
「ホフマン物語」(The tales of Hoffmann) 1951年 マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーの共同監督
ついでにまず美術衣装担当のハイン・ヘックロートを紹介したいと思います。本当に良い仕事してます。「天国への階段」「赤い靴」「黒水仙」担当もしてます。 映画の初めから、踊りながらハンカチに「好きなホフマン」と書いて鍵を渡すシーンなんかさりげないスタートですがきれいなんですよ。そのあとバタフライのバレエシーンがつながり、蓮の花の上を飛ぶように踊るきれいなバレエが続くんですが、もうこれだけでドキドキしますね。 そしてオペラも始まるのですが、冒頭のシーンの居酒屋の室内装飾が本当に良いです。なんとうか、酒屋が森で森=居酒屋にすむ妖精たちがおどけるんですよ。きれいで、テクニカラーの色のつけ方も本当に良いですね。絵画を描いているように塗り捲っている感じです。そして酒を飲みながら「3つの恋の物語」=「幻の夢」を見るわけです。 夢1。まず始めの夢は「オランピア」です。悲しみを分かち合える女性に出会った、すなわち愛の誕生だと思ったのですが、相手は操り人形でしたって話ですが、人形を人間に見せる「眼鏡」がありそれをホフマンがかけると人形達は舞踏会を開催するんです。ホフマンも参加するんですがこの舞踏会はすべて美しい。もう拍手しかないです。この映画はオペラとバレエの融合と言われますし、英語独特の解釈もあるんですが(劇中の言葉はなぜか、英語)それをまざまざと見せ付けられる感じですね。またシャンゼリゼのモーツァルトといわれたジャック・オッフェンバックの音楽が本当に良いんです。悪いところがまったくないんですよ。オランピアが壊されるシーンは後に「血を吸うカメラ」でマイケル・パウエルが映画界から追放される際にここにもこの監督の怖い一面があると槍玉に上がったシーンですよね。ちなみにこの映画にもモイラは出演してますが、ちょっと面影がないかな(1960年の映画だったと思いますが)。 夢2.「ジュリエッタの物語」リュミドラ・チュリーナ扮するジュリエッタが舟歌をバックに登場するシーンの美しさも類まれなるものがあります。もうエメラルド色が似合う女王のような存在感。ため息しか出ません。そして仮面舞踏会。らんちき騒ぎの楽しさ。ジュリエッタの心を宝石で釣ろうとするのですが、ろうそくが溶けて宝石になる発想がきれいです。宝石に意識を取られたジュリエッタがホフマンの影を盗もうとするのですが、それでホフマンに接近していき二人の間のやり取りはすごくロマンテックで、愛のシーンとしては映画の中でもトップレベルの水準です。最高です。しかしねえ、影を盗むのに失敗して、ホフマンに愛されるようになるとゴンドラで消えていくんですよね。ここでも失敗する訳ですよ、ホフマン。 夢3.「アントニアの物語」舞台が夢の島です。一方を見るとセザンヌが描いた山のようなものが見え、逆のほうはクレタ島から見た海のような世界が拡がっています。そしてバルコニーにはチェンバロやリュートが置いてあり音楽の世界ですね。話は飛びますがアントニアが母に向かって舞台に向かうシーンのホールの雰囲気、舞台の上での「母」の輝き、すべて美しい芸術です。映画ではないのかもしれません。でもしかし、舞台は実は廃墟だったんですよ。結局は夢で、アントニアは死んでいくのです。死んだアントニアの霊?が踊るバレエのシーンも美しいですし、ホフマンと地平線に向かって続く無限の踊りも夢の世界ですね。 さて、居酒屋に戻ると夢をさまようホフマンとは対照的にほかの連中は朝までワインを飲もうと楽しく騒いでおります。ホフマンは絶望して寝てしまっていて、冒頭のバレエのあとの待ち合わせも現実なんですが、すっぽかしてしまうという失態。3つの話はホフマン(作家として現実に存在した人)の「ドン・ジュアン」をベースにしているところもあり、この点で「カサノヴァ」などと重なるんです。そして夢見る映画の中でのホフマンは夢の3人の女性(実は同一人物)にあんなにすてきなハンカチを貰ったにもかかわらず酒場で寝てしまって、それをみられて捨てられていくんですよ。まあ夢の世界であった訳です。 観ている私も夢のような時間を過ごしましたし、50年以上も前にこの作品ができているんですね。何故今の映画はこのクオリティを出せないんでしょうか?夢とか美しさ、が映画の中に少なくなりましたが、この映画は本当に美しさに溢れている素晴らしい作品です。11/25
「ワンダフルライフ」 1998年作品 是枝裕和監督
人が死んだあと、翌日に面接を受けるという話です。そして1週間の猶予があり、始めの3日間で人生で一番良かった思い出を思い出し、残りでスタッフがその映像を作成して、気持ちよくあの世へ(天国だと思うが、地獄の可能性もあるはずなんですが、良かったことなのでたぶん資格審査があるんでしょう)旅立ってもらう死後の1週間のお話です。 ですから、すべての死んだ人に平等に思い出す機会が与えられ、それこそ、老若男女、貧富の差を問わず、平等なのですが、人それぞれにどういう思い出を選択するかはまったく違うのです。しかし、実は何か共通のものがあり、それは「縁」と呼ばれるものが左右する出来事なのです。本当に偶然に出会うから縁なんでしょうし、だから思い出しやすいんでしょう。何人かの面接を聞いているうちに、今の私自身と重ね合わせて聞いているということに気づきました。そういえば、この面接を担当するのは面接官ですが、彼らは死んで同じように面接を受けても、何も思い出となることがないか、または思い出すことを拒否した人たちなのです。ですから面接官も面接しているうちに少なからず影響を受けているんです。感動を与える仕事をしているので、人が感動するということがどういうことか少しはわかってくるんですね。そのうちに、自分も夢中になれる何かがあるのか、という自問もでてくるんですよ。 その中で一人の老人の死者がいました。その人は、担当の面接官との面接の会話の中で自分の妻の初恋の人が面接官だと知るのです。なんとならば、面接官も死者なので、ありえる話なのですよ。しかし、面接官の方はその老人が残した手紙で老人がその事実に気づいていたと知らされるのです。(ややこしいですが、面接官の方はどういう経歴の人か知っているので、事前に知っているのですが、相手に悟られていないと思っていたのです)その人の妻は結婚後も初恋の人のことが忘れられないでいるのを知っていたんですね。それでも夫婦生活を送っていて、死ぬときに妻と一緒だったことを改めて良かったと思っているんですね。そして人生で一番幸せなシーンとして妻と映画を見に行ったときを思い出として残すのです。 どうなるのか。面接官の同僚でこの面接官を好きな女の面接官がいるのですが、好きだという感情を認めないし、死んでいるので好きになるのもおかしいのかもしれません。そんな状況のもとチョッとしたドラマが生まれるんですね。映画的ですよ。それは、老人の手紙を読んだときに、女の面接官に「なぜ、老人に言わなかったのか」ということについて「自分が傷つくのが怖かった」と独白します。そうですね、傷つくことを恐れているからいつまでたっても一番いい思い出なんて思い出せないんですよ。すると、こともあろうか、女の面接官が、この老人の妻の死んだときの思い出ファイルを探すんですよ。好きな人のためなんでしょうが、このことが別れにつながるなんて思わなかったでしょう。そして妻の映像を見てみると、なんとそれは、夫との公園のデートではなくて、その面接官たる初恋の人とのデートの場面なんです。これでこの優柔不断な面接官も人生最良の思い出として思い出すことに自信を得て、楽しい思い出を持ってあの世に旅立って行くのです。あちゃーー、女の方は余計なお世話をしてしまったわけですが、きっといつの日か逆に死者から、いい思い出を思い出させてくれる瞬間がやってくるのでしょう。そうですね、人間は生きているからには、一度はいい思い出の瞬間があるはずなんです。おもいだしたくないとかいろいろな事情はあるでしょう、しかし楽しかったり辛かったりするのが人生です。決しておもしろい映画とはいいませんが、最後のエピソードはかなり良かったですよ。私は今のところ、同じように聞かれたら答えは一つです。死ぬ前から決まっているなんて幸せな人生なんでしょう。自覚しなければ。はい。11/26
「病院坂の首繰りの家」 1979年 市川昆監督
ひょんなことから「金田一シリーズの東宝作品のDVDのBOX-金田一耕介の事件厘」を予約しておりまして忘れたころに届きました。中でも原作も読んでいないこの作品から見はじめました。 とにかく、冒頭から横溝正史ご夫妻が出まくって、びっくりしますし、すぐに中井貴恵、草刈正雄、小沢栄太郎、などが登場して懐かしさいっぱいです。しばらくYしてタイトルが出るんですが、そこまでかなり間があり、タイトルにトランペット(ジャズ)がかぶり面白いスタートです。そして桜田淳子が出てくるあたりでもうはまってしまいました。次にあおい輝彦が出てくるんですがこのあたりで、登場人物に主題の音楽がついていることに気がつきました。基本的にシンセサイザーを使っているのですが(音楽担当は田辺信一)桜田淳子にはフルートとかあおい輝彦にはチェロとか佐久間良子にはガットギターのようにエレキギターを使ったりして人物特定を鮮明にしておりました。そしてはじまったばかりですが結婚の写真を撮るあたりでもう、メロメロになってしまいました。桜田淳子の視線の定まらない顔、最高ですね。この人演技うまかったんですね。もうこのあたりから観ていて気が楽というか楽しい気持ちになりました。写真が出来たあたりから金田一が絡むのですがだんだん、笑えるような展開で楽しいなあといい気持ちで観ることができるようになってきましたよ。これじゃ、大林監督の「金田一耕介の冒険」とそんなに変わらない、喜劇に近いかなと思えるような展開です。あそこまでひどくないですが、シリアスなんですが、楽しくはじまります。きめの台詞は加藤さんはじめ、皆さんはずしませんし、型にはまって観ているほうは気楽です。 しかし横溝作品にありがちな人間関係の複雑さは一回ではまったくわからないで、私も大体大筋を理解しただけでした。ポイントをわかったので見終わっても気になりません。俳優として特記したいのは桜田淳子とピーター共に存在感がありました。まあいろいろな人物の入れ替えが起こるのですが感想として書いても仕方ないですし感じたことを書きますと、役者はあまり主役級、脇役もふくめて見た目、かっこいい、美人などが多いなあという感想です。映画としてこういう事はすごく大事なことだと思います。あとはセットを多用しておりますがロケのシーンが(一応舞台は吉野、ルーツ探しで南部藩の岩手の水沢、北上)美しいです。今の日本はすぐに風景が変わるのでこの映画25年位前ですがすでに貴重なシーンがあると思います。映画化はこれが一番最後らしいのですが、この手の映画は内容以外と忘れてしまいがちです。「女王蜂」なんかまったく覚えていないです。ですからまた観るのを楽しみにしておりますが、気楽に時間を感じないで観ることができる作品ですね。最後にかけてはかなりいい内容の展開がありますし、カット割はまだ市川監督冴えてます。実は市川監督は大映時代の方が好きなのですが。。。一番の収穫は桜田淳子ですね。これが一番つまらないといわれているのであとの作品を見るのが楽しみです。単品発売がないらしいので人には勧めにくいです。11/27
「神曲」 マノエル・ド・オリヴェイラ監督 1991年 ポルトガル=フランス
はじめ、のっけから裸でてきて唖然としましたが、(何の前知識なくみました)アダムとイブらしいしぐさで少しわかったのですが、冒頭の「精神を病んだ人の家」とあったその家の中にシーンが移ります。上の裸って女の方は「アブラハム渓谷」(同監督)の主役でしたのでびっくりしましたよ。それで家の中で「ラスコーリニコフ」と呼ばれる人物がいたので、これやばそう「罪と罰」(ドストエフスキー、昔読んだだけだよ、どうしよう)も絡むのかと、少し引き気味。そして、食事のシーンがあってそれがまさに最後の晩餐な訳ですよ。構図がそうですが、食事もワインとパンで、キリストというかそういう役の若者がワインとパンを分け与えるというしぐさで個別にはまじめな話をしているんですよ。ポイントは食卓の両端にアダムとイヴの男女が別れて座る配置ですね。あとででてくるんですがイヴの方は原罪を蛇の性にして聖テレサと言い張るんです。原罪を償った人間であるとね。アダムは追う訳ですが。しかしそんなことよりも、映画の中でまじめな議論ばかりしているんです。 それでどういう展開になるのかと思っていると、本当に「罪と罰」しちゃうんですよ。老婆を殺すんです。観た家政婦も。この殺しのシーンはセットぽくで演劇がかって、かつ照明がうまいので気に入りました。このまま話が続くのではなくて、場面転換してキリスト教信者と反キリスト教の者との議論が続きます。「善とは」「悪とは」「幸福とは」そんなような議論ばかりで、見る前にシリアスな気持ちになっていないとついていけないな、と思ってしまうわけです。しかしDVDはたまるばかりですし、最後まで観ようとがんばるのです。キリスト教信者の言い分は「第五の福音書」を読め、となるんです。反キリスト教の者はわかりやすい反論をするのです。しかしね、最後まで観るとどっちが正しいかわからなくなるんですよ。後で意味を書きます。 次のシーンでは新約聖書の「ラザロの話」を引用させるんです。内容をそのまま、娼婦となっている女に読ませるので前もって知らなくても大丈夫です。「復活とイエスをユダヤ人が信じた逸話が内容です。私は知りませんでした。このラザロの話をさせる男(ラスコーリニコフ)と娼婦はまた違うペアで、何かも意味があると思います。というより「罪と罰」の派生ペアですね。見ていないと何いっているかわからないと思いますが、「罪と罰」にでてくる名前がついて殺された老婆の知人だったりするのです。結局、神は何もしてくれない、自分で道を切り開くということなんですが、娼婦たる女の方が神の存在を信じています。この辺で2人組でいろいろな展開を見せながら神の存在とキリストの存在、人間の原罪などを描いているとわかってくるのですが、さてとどうまとめるのか興味が出始めました。 音楽はピアノで冒頭からベートーベン、ショパン、シューマンなどを映画の中で弾くシーンがでてくるのですがまずここで感想を書くとシューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」から第4、5楽章が引用されるんですが、いい曲です。曲の名前覚えていた方がいいですね。「道化」=「人間」ぽい意味がかなりあると思いますよ。そして映画に戻るとピアノを弾く様を人間の技術だという反キリスト教徒がいい、さらに霊を殺したのは文字であると言い切ります。まあそうですね、と私もうなずき、キリスト教徒は何につけても「神の存在」と立ちはだかります。イエスだけなのか、または人類すべて英知があるのか?ピアノを弾いている演奏を写しながらこんな議論をしているんですよ。まじめなんじゃなくて皮肉とわかってきました。 次には「奇跡」の話が出てくるんですが、ここで出てくる名前もまたぶったまげる、アリューシャです。こういう映画はロシアに作らせればいいと思うんですが、またドストエフスキーですね。「カラマーゾフの兄弟」のなかで誰かが作品として書いた逸話のようなものが引用されるんです。ですから今までに述べたような小説とか哲学、キリスト教の知識ないと理解しにくいというか不可能かもしれない敷居が高い映画かも。。。そして主が7歳の子を生き返らせた話を作り友人に聞かせるという2人の別のペアができるんです。しかし主は捕まるんですね。そして審問官には何もいわないのです。審問官は処刑の前に至って何か言うと期待しているのですが何もいわず、審問官にキスをするのです。審問官はキリストに出て行けといってキリストは立ち去るのですが。。2人の会話で象徴的なことがあるんですよ。それは、「今ほど人々が自由なときはない」(たぶん監督のメッセージ)しかし「それを認識していない」、うーーん良くわかるなあ。この辺になるとはまってますね。監督の持っていき方がうまいですよ。 さらに「罪と罰」ペアに戻ると自首させようとするのですが、当然(小説からするとそうですからね)「殺したのは金が動機ではない」と言い張るんですよ。なかなか認めないです。そして懺悔しようと司祭を訪れると司祭は自殺しているんです。司祭の自殺という罪も提示しながら、ラスコーリニコフはこういう状況なら大声で「罪を告白」するんですね。動転して思考が停止状態になるんですね。この辺が笑えるところです。まったく演出上おかしくないですよ。ただ、監督の考えていることが読めるのと、原作を知っているので笑えるんです。そんなことをしているうちに冒頭のアダムとイヴのシーンがあったバルコニーに登場人物がまた終結してくるんですね。終りが近いです。そして先ほどはバルコニーから裸のアダムとイブを見たのですが今回はひざをついて身長を一緒に歩く背の低い女に合わせて円を描いて終わりなく歩いている2人を見るのです。ですから議論に終りがなかった、隠喩です。そして人々はピアノを弾くシーン(現実的尊敬に値する人間の情熱と技法)を観ながら散らばっていくのです。そしてピアニストが一人でピアノを弾いていると「カット」と映画が終るのです。この映画って何の映画が終ったのでしょうね?映画の中で映画が終ったはずです。 ということは、まとめると、今まで観てきたのは、映画だったのか?その前にこの映画自体が映画的ではなく見る本のような形式なのです。言葉が多いので字幕は大きくて助かりますし、本を読んでいる感覚です。しかし私が自分で人物のイメージをすることは許されないのです。映像として人物がキャスティングされて固定されてますし、風景も所与の本というイメージですね。さらに舞台の上でも充分なくらいの演劇的な演技で完結されてしまう程度の狭い空間での出来事というか話の流れなのです。ですから映像として映し出されるものは強制的に私は受け入れますが、それ以外は、以外と登場人物の視線は曖昧ですので、どこに向けて何を見ているのかは自由に想像できるのです。そういう構成だと気づいたら、この作品がいとおしくなりました。なかなかいい作品ですよ。難しいとは思いますよ。しかし、映画の展開としてはおもしろい試みです。 本当に最後のまとめ。キリスト以降2000年の間の人々すべてを「精神を病んだ人」としたのでしょう。そしてアダムとイヴの原罪は人間の罪とその意識の外にありそれを説明する基本概念なんですよね。それでアダムとイブは、すべての事象を説明できる基礎となるのですがアダムとイブは説明できないのです。この辺はゲーデルの不完全性定理みたいですね。それですから、登場人物のキリスト教信者(階段通りの人々、同監督の作品、でぜんぜんキャラクターが違う役やっていた人)は教義を4つの福音書でまかなえない部分を白紙の5つ目の福音書という形で説明不可能な部分の論理的矛盾を指摘されないようにサポートしているんですよ。ここいらあたりが深い内容です。「罪と罰」の引用は人間の行動様式を象徴したみたいですね。最後に反キリスト教徒のことば、「、、結局、永遠の回帰をするのだろう」 と 「神は死んだ」 もう一度いいますが最後のシーン、回りつづける人々。今回ある程度わかったので次観るときはこの辺を楽しんでみることができると思います。この映画の構造と作る意欲はすごいものがあると思います。ブラボー。
11/28
「仮面の中のアリア」 ジェラール・コルビオ監督 1988年 ベルギー
引退リサイタルのアンコールのシーンからスタート。結局はここから戦いの第2幕が始まっていたのでした。バリトン歌手(ホセ・ヴァン・ダム)がアリア合戦を繰り広げるという事前の知識から、これはないよな、と思って拍子抜けはしました。それを見ていた、昔アリア合戦で負けた実業界の金持ちは溜飲が下がるのですが次なる戦いにまさか負けるとは思ってもいなかったという始まりです。 そう、「神曲」なんか見たあとはこういう単純なのが良いです。もう結論書き終わりましたモン。まあ一人の女の生徒について教えるのですが、その生徒は先生に淡い恋をしているのです。(美しい生徒役はソフィーの役でアンヌ・ルーセル、最後の椿姫のアリアは演技がなっていないです。笑い、あの声はあの体勢からは出ません。)当然先生も美人だと思っているのですよ。しかし先生は拒んでいて、ソフィーにもそのやさしさが通じるのです。そんななかたまたま街で一見ですが気に入る男を拾ってきて(これはピンと来るものがあったのでしょう)教えはじめるのです。簡単な話、男も生活に困らないので教えてもらうのです。 その教えは「音楽に惹かれて、身を任せるのだ」というもので周りのものが見えなくなるくらい音楽の中に入り込めということです。特訓とか練習風景は90分ちょっとの映画なのであまりでてきません。でも数年はかかってますよ。その中で「正しい判断」をできるような適切なアドバイスがなされたのです。さらに、愛のもつ力を教えてもらったはずです。そして、愛が音楽にいかに彩り、深みを与えるかを教えられたのです。 で、弟子の一騎打ちの日がきます。たいした緊張感はないんです、愛しあったりしている余裕があったのですが相手の歌を聞かされるという策略に引っかかり(なぜか?それは声が似ていたという単なる事実からです)自分を失いかけるのですが、練習ばかりではない情感の経験もつまされた2人は見事相手に勝ってしまうのです。単純な話です。あとから思うと、人前で歌わないということも音楽に浸った環境ということで良かったのだと思います。さらに対戦相手はすべて、テノールにしてもその金持ちが一緒についていましたし、ソプラノにしてもまわりは女に囲まれていたということで、愛を知らない環境だったともいえます。愛の勝利というパターンの映画ですね。 全編を流れるマーラーの音楽、特に交響曲第4番の方はすごくいい印象を映像に与えております。「大地の歌」の方も良いのですが。ちなみに仮面をつけた戦いの曲は、ベルリーニの「ア・タント・ドゥオル」から「多くの悲しみに」だったと思ったけど、ちょっと自信なし。ソプラノの方はベルディの「椿姫」の「花から花へ」です。ここでテノール部分をカーテンから隠れて歌って観客を驚かせると共に愛を確かめ合ったのです。「アマチュア」 1979年 キェシロフスキ監督 ポーランド
これは思いかけずに、いい作品でした。ちょっと暗いのかと思って見はじめましたが、勢いよく映画の中に引き込まれました。まず、本当の冒頭、鷹が獲物をつついているシーンは権力の象徴なんでしょう。最終的にこの映画でも関係しますから。では冒頭に戻ると、子供が生まれるところから始まるのです。それは相当な親ばかで、うれしくて仕方ない様子が描かれます。それで8ミリのカメラを買って映像で成長記録を残そうとするのです。このスタートのポーランドの景色がもうたまらないです、日本でいうと戦後という感じの何もない状態。これは、かなり私の中では説得力のある映像でした。 そのカメラを買った延長で、工場の記録映像を撮ることを頼まれるのですが、動いたものすべてを撮っていくのですね。途中、撮ってはいけないシーンとか、写ってはいけない人物も収録されて、工場長と少しづつ溝ができるようになります。しかし、撮った作品がコンテストに出ることになり、そこで賞を取ってしまうのです。その賞を取る時の評価のコメントがすごく、べた誉めですね。(「すごい洞察力」など)1人批判するのですがその人はあとからわかるようにまともに本音を言っただけなんです。そのとおり終わったあとで、個人的にみんな駄作だと聞かされ、形だけの賞を続けていると言われるんですね。しかし、ではなぜ、賞をくれたのか?にたいして「撮りつづけて欲しいから」と審査員の一人は答えてくれます。なぜか、主人公の才能を見抜いている、人でした。 このあたりから、夫婦間はうまくいかず、映画にはまっている夫に苛立ちを見せ始める妻。結局妻は出て行くのですが、最後に言い残した言葉は「あなたが求めているのは平穏な生活だと思った」ということです。話が前後しますが隣人の母の死もありますが、ここで生前たまたま息子と母を同時に撮った映像があり、それを見せてくれといわれるのですが、そこにはあの「パリ・テキサス」と同じような今はもうないその人の魂に触れるような映像が残されているのです。(この場合は母親と一緒に写っているというだけですが、それで充分でしょう) 次に「カモフラージュ」という映画の上映会のシーンですがなんとまじめな議論をしているんだろうか、と思いますし、実際に監督の友人の実在の監督を使ったみたいです。このあたりから、主人公の映像に対するのめりこみが加速して、見ていて楽しそうなんですよ。またどんどん、映画の方に道が開けていくんですね。夫婦の溝は深まるばかりですが、結局先ほどのように別居にいたるわけです。別居する際も3ヶ月5ヶ月という単位で過去のことを思い出すんですよ。もうまったく興味の外なんです。フォーカスは映画に向けられていきます。 そして撮った作品が障害者をテーマにした工場での日々、の半分ドキュメンタリーです。しかし出来栄えはそのナレーションとギターの音楽ときれいに決まっていて、障害者本人も感動のあまり、美しいといってじっとしていられないほどでした。しかし、工場長が障害者をテーマに映画を撮るなといったのに、撮って発表してしまったことで波紋は広がり、仲間みたいに信頼しあえた上司も首や左遷されることになります。このあたり、人間の本質を問うのに、共産主義のベールはあとから思うと本当にいい役割を果たしているのですね。工場長の言葉「風景は美しい、自然は開かれているから」「何故君は灰色にしかものを見ないのか」などは本当に含蓄のある言葉です。もしかして工場長の方が理解が深いのかもしれません。左遷された上司も「君の才能を伸ばせ」と言って去っていきます。そして主人公は、悶々とした中、カメラで自分を見つめ、そのまま撮影しながら終っていくのです。たぶん、自分を見つめることからまた再スタートができると思います。 上で書いたように平凡ですよね、しかしパワーのある映画だと思います。地味なんですがいい映画です。
11/29
「光る眼」 1995年 ジョン・カーペンター監督
ちょっと固い映画が続きましたので、別にやわらかくはないと思いますが、ホラーを観てみました。単独でこの映画を見ると怖いな、と思うのですが今回は、それまでの映画が映画でしたので、リラックスして楽しめました。
「呪われた村」という本が原作で何度か映画化されております。原作を読むと映画が物足りなく感じることがあるのですが、その辺は90分ちょっとにまとめているし、仕方ないことでしょう。ただ、はっきり言えるのは、はじめの受胎の描写がわかりにくいということです。はじめに観たときはこの映画で充分でしたが、そのあと原作読んでみると何か違うんですよ。この映画の方が母の愛情と落ちこぼれの侵略者の描写にこだわった点、さらには少し宗教がかった部分があると思います。処女の女の子も懐妊しているので、前の「神曲」に関係しますがイヴの原罪は犯していないんですよ。ではなにがイブの代わりか?それが村全体をベールで覆われるのですがその感じが映画では表現されていないんですよ。そのベールの中で受胎しているんですよ。ですから侵略者は人間の神の代わりをなすんですよ、このことが深い底辺に原作では流れております。今の人間に対して、侵略者が神のごとくになって問題提起するんですよ。人間のほうでいろいろと考えてくれるんですね。まったくオリヴェイラの「神曲」そのものですね。この映画でも「神は言っている、我々に(神)に似せて人間を作ろう」と。そしてアダムとイブになるペアが子供の中でも出来ているんですね。私なら単独生殖できるように作りますが、移住する文明に合わせて支配するのが目的ですからこの方が怖さはありますね。
まあ、気楽にこの映画に話を戻すと、なんと言ってもスーパーマンが出ているんですよ(クリストファー・リーヴですよ)、懐かしいですね。しかし、このキャスティングわざとらしいですね。神のごとくの侵略者に戦いを挑むのがスーパーマンだとは。そして確か記憶ではこの映画のあと事故にあったと思います。やはり呪われたのかなあ。この映画に関しては、あとはなんといってもテンポがいいということですね。もともと成長が早い子供達でしたから、この監督独特のテンポで成長していきます。その辺はもうグイグイと観客を引き込む力があります。あと私の感覚ですが、出ている子供達がいやに気持ち悪いんですね。演技とメイクなんでしょうが、よくもこのような子供集めたなあと思います。そしてリーダー格の子供が「マーラ」というんですよ。暗黒の帝王ですね。ではクリストファー・リーヴはスーパーマンではなくてブッダなのか。笑い
全体とすると光る眼の子供達全員が行進したり、集団で行動するときの音楽は少し宗教音楽っぽく出来ていて充分「神曲」を意識できますし、眼が光るときの効果音が怖く出来ているのでこの辺がホラーたる要素かと思います。まあお口直しには成功でした。
11/30
「オー・ド・ヴイ」 篠原哲雄監督 2001
浜辺に裸で打ち寄せられている女からスタートする。場所は函館。景色がやけに横浜に似ている。市電が走っているのと、函館の方は幕末の幕府の最後の砦となったことくらいの違いか。しかし夜景などの明るさはほどよく、横浜みたいに絶対的に明るくはない。その浜辺も沖にイカ釣り漁船の明かりが灯っていてその明かりが揺れているのが魂の揺らぎみたいで良いですね。
舞台がバンドネオンとピアノの生演奏つきの程よい大きさのバー。内装はレトロではないのですが、雰囲気がなんとなくたるんでいる。その原因は後でわかることになるのだが。しかし、おいしいお酒を飲みたいという空間があることにとりあえず驚く。特に香が良いお酒を飲ませるみたいで、専門が「オー・ド・ヴイ」という蒸留酒とのこと。私は酒はあまり詳しくはないのですが、日本酒もお米からなのでおいしい酒があるのでしょう。お酒の飲みながら踊るのですがそれがすごくセクシーなんですね。直情的なんですよ。しかしここで出てくる人間が中年ばかりなことに気づく。中年の恋と性がテーマなのか?
確かに中年というのは、年月を生きただけで、寂しさが増しているともいえる。頭は回るけど、体がついていかないところがあるし、その分脂肪が体につきやすい。ここで対比的にフランス料理屋が出てくるのですが、すごい内装(アールデコ、あのステンドガラスだけでも高いよこの店、という感じの店)で馬鹿げたくらい大きな厨房、中でのやり取りがフランス語、馬鹿にするのもいいかげんにしろというくらいですね。この空間は食事にきた、岸谷と鰐淵が浮いてしまうくらいに決まっている。デザインに入り込む余地がない決まり方です。ですからこのフランス料理屋での食事のシーンすべてがアンバランスなんです。
そして外観はいいかげんですが中にすごいお酒が置いてある酒屋。バーテンダーの実家みたいです。そこでは実際に蒸留酒を作っているんです。「外は古くても中は粋だ」これが中年なのか、と思わせる瞬間です。ただこれだけではないんですよ。蒸留酒を作っている父なのか中年の親父曰く「おれはもう酒になっている」という言葉、中年=オー・ド・ヴイなのか?ここで冒頭の裸で死んでいく女が100%アルコールに近い酒を幸せそうに飲んでいるということがわかる。たぶん酒作りの夢なんでしょう、こういう幸せな気分にさせる酒を作ることは。
さてフランス料理屋ですがシェフも見習いも若いから直情的でかつ、作っているものが料理なので脂ぎっていて、かつ若さという油(エネルギー)もあるので(中年の脂と違うんですよ)性交渉も直球勝負です。しかしこの女の見習とバーの見習のオカマが街で出会うんですよ。(出会いの場が街角というのが悔しい)当然、バーに連れてこられてオー・ド・ヴイを味わう。(いつもはシェフの存在のような安ワインを飲んでいるらしい、そのくらいシェフは軽い存在なんですね)バーというのは酒だけの世界、しかしオー・ド・ヴイはいろいろなものから出来ている(蒸留する対象は何でもできるくらいらしい)のだ。フレンチは調理をするのである。調理と蒸留の違いが何かあるのだ。酔いつぶれて見習いコックは裸で海に寝そべる、その周りを女の性器を描く、バーテンダー。いつも中年の女に抱かれていたバーテンダーは若い女の体(きれいなライン)に魅力を感じてくる。この二人はいつもやられる生活に飽きていた。コック見習はシェフにやられるばかりの生活で、バーテンダーも中年のひもみたいでいつもやられるばかりの生活だったので、もしかしてうまくいっちゃうのか、と期待する。
閑話休題。人間の裸というのは、上の海辺でのバーテンダーとシェフ見習のからみとか、また、そのあとの朝日まじかの青の光線の世界の中また裸で寝ている女の死体を発見するのだが、若いシェフといいこの女といい裸は自然の中で何故こんなにも浮いた存在になるのだろうか?たぶん体毛がないせいもあるのだろう。そこに着ること、隠すことすなわちファッションの必要性があり、オシャレの遊び心が存在しているのだろう。そのオシャレ感覚が中年=オー・ド・ヴイなのかもしれない。
フレンチの厨房では上の考えに呼応するごとく、ウサギの料理をさばくシーンが出てくる。こちらは体毛がついた皮ごとをはぎ裸にして、内臓をえぐる。いわゆる直接攻めるんですよ。原型から調理するので出来た料理は原材料が変形するだけです(ここでコンソメを何で出さないのかはこの対比の問題だと思う)。対してオー・ド・ヴイは原型からエキスを抽出して水の形に変形させるんですよ。この対比は人間で言えば年を重ねることのよさ(蒸留酒)と絶対的な若さのよさ(フレンチ)の両立の願望なんでしょう。実際にバーテンダーとシェフは「焼きハマグリ」を食べる。これは自然そのもので単に焼いているだけなんですよ。いわゆる自然を食べるんです。対してフレンチは文化であり、人間の創造的なものなんです。
オー・ド・ヴイは実はピュアな若いものが感じられるものなんですね。味がわかるのは中年なんでしょうが。
この二人が束縛から逃れるためにバーテンダーは中年女(母だとやっとわかる、ということは近親相姦だったのかよ、となるんです)から離れようとする。しかし母からはすべてを与えられていて離れることが出来ない。酒屋の親父は父親ではないみたいですね。もしかして母が再婚したのかも。そして見習いシェフの方は妊娠がわかった後束縛を解くためにシェフを焼き殺そうとする。ここでずるいのですが、中年女が笑顔を持って裸で死んでしまうんですよ。たぶん、自立のときだと見たのでしょう。ですからバーテンダーの方はいっそう束縛にあい、もう若い見習シェフの方を見ることが出来ない。見ることができるのは中年女だけなんですよ。
さて最後の謎解きですが、見習のバーテンのオカマが「考えすぎると死んでしまうよ」といって酒を置いていってくれそれを飲むと、少年時代の自分がいるんですよ。もう束縛だらけの自分です。夢の中で(市電に乗っているという形)で冒頭一緒にダンスした女も出てくるんですがやはり消えていき、母が現れるんです。そして、その母を蒸留したオー・ド・ヴイを飲むと安心した眠りにつく。そして母が旅立っていくのですが追いかけるとそこは海(女性の象徴ですね)で、彼方に消えていくと、そこに覆い被さるようにイカ(男根ポイ)ものをくわえたシェフの見習の女がでてくるんです。ここで母からの旅立ちを余儀なくされるんですが、起きてみると裸で海岸に横たわっている自分がいます。現実に引き戻されるとそこには何気なくシェフ見習の女がいるのです。朝ご飯食べに市場に行くとイカを食べるんですよ。「このイカの耳のところおいしいのよね」と性的イメージを発するのです。二人は別れ別れになるのですがシェフ見習は全身やけどのシェフと同居して、完全に従属させているんですね。子供のが出来たためと完全に男を束縛することに成功したからです。バーテンダーの方はバーに戻り、父と見習と酒を飲んで、楽しそうにしている二人を見て一人隠れて酒を飲むのですが、酔えない自分がいるのです。いままでは酔った風にしか現実を見なかったのですから母からの束縛が切れたあとは急には酔えません。まあ、すぐにこの人にぴったりの女性が入ってくることを示唆して終るのですが。この映画はちょっと「サンタ・サングレ」に似ているところがあったのでした。しかし、途中からオー・ド・ヴイの見方が変わったのは私が未熟だったせいでしょう。自立の物語だったとはねえ。フランス料理と蒸留酒の関係はもしかしたらぜんぜん違うのかもしれません。なにか続けて「サンタ・サングレ」を観ようと思います。そこで比較してみたいですね
12/1
「サンタ・サングレ」 アレハンドロ・ホドロフスキー監督 1989年 たぶんメキシコ映画
上で比較といってみたのですが、勘違いでした。テーマは同じですが、その作りと独創性規模がまったく違います。こちらの方が数段上です。しかし何回見てもすごい映像です。この作品は音楽もすごくいいのでたまらない映像を見る、独自の世界観を感じる快感があります。また、笑えるくらいに今まで見た映画の比較のシーンが出てきます。スタートは「バーディ」のように病院の独房に裸で鳥のごとく止まって引きこもっている男が映し出されます。そこに「鷹」の映像がダブります。まさに鳥のマネは鷹のマネだったのですね。(映画の始めに「鷹」が写るのは昨日見た「アマチュア」もそうです。力と権力の象徴でスモンね、たぶん何かそのようなことがでてくるのでしょう)そしてメヒコ(メキシコシティ、好きな街なので、どこだとは映画の中では出てきませんが、わかります)の俯瞰。ここで流れるマンボ最高に良いんです。さらにはミクロ(ズームイン)に迫ってサーカスの広場に場面が変わります。そのなかでこびとと紳士的なマジシャンの格好をした子供が象に乗って通過するシーンに。この二人は実は親友なんです。(こびと、といえば、またまた「アマチュア」で工場作業員を撮影したその対象人物もこびと、でした。何でこんなに見たばかりの映画とダブるんでしょうか、縁ですねえ)二人して新しく入った女の子が綱渡りの練習をしているところを見に行くのですが、ここで子供同士一目惚れをするんです。教えているのが全身刺青の女で子供の父親と出来ているんです。この刺青クモの巣女がガウンをぱっと取ったところなんか良いですねえ。そして父親がこの女を的にナイフ投げをするんです。これがもう最高で、本当に見世物になってます。(ルコントの「橋の上の娘」なんて目じゃないというところ、本当に気持ち良いです。)女はナイフが近くに飛んで来るたびに快感にしびれる様子、何もいえません。エクスタシーとはこういうことを言うのでしょう。その近くでは子供と少女が手話で話をしてます。そして励ますと少女は綱渡りができるようになるのです(愛情が伝わったのでしょうか)。綱渡りをしている最中に少年が音楽のエールを送るのですが、この情感もいいし贈る音楽もいいです。確かに今まで述べた役者は見た目がそんなによくはないので好き嫌いはあると思いますが、映画の流れは本当に最高です。こういうのがいいねえ、という感じです。最後まで良いんですよ、この映画。
そして次のシーンでこの子供の母親が新興宗教の教祖で。その宗教は、男に乱暴されて両手を切られた少女を祭っているのです。その少女の聖なる血が教壇の前にあってそこで体を清めると救われるというものです。通常ならこんなの壊される訳で、実際にそのように映画も進行しますが、ここでも新興宗教の歌とか、教会内でのシーンで流れるギターの音色最高にいいんですよ。
そんな時でもいつでもといったほうがいいかな、旦那の方はクモの巣女(クモは女性性あります)とじゃれているんです。こういう不倫の現場を見ても妻のほうは頭にきますが夫との性交渉でそんなことも忘れるのです。すごく父系家族ですね。しかしこの父系が崩れるんですよ。それは象(男根的)が死んでいくシーンが次に流れるんですが、ここにも象徴されるし、死んだ象はすぐに食用になるんですね。食べられて消えていくというシーンに父系が消えることが示されてます。しかしすぐにえさとなるというのも、人間社会の中に自然の摂理が入り込んでます。この象の葬列を仕切る父のバックに流れる音楽もいいし、葬列のマンボのような曲もいいです。このような危うい父が、子供に最後にしてやれたのは結果的に胸に鷹の刺青を彫ってやることです。この刺青は彫ったあとすぐに外で待っていた少女の手でどこかに魂が飛んでいってしまいます。
さて本業のサーカス。子供や妻ががんばっているのに、影で父はクモ女といちゃついてますね。サーカスの演技の途中見かけてしまった母はさあ大変とばかりに修羅場に向かっていきます。その修羅場になる前のクモ女と父の愛撫はまるで動物でも見ているように壮絶です。そこに割り込み、妻(たる母)は仕返しに硫酸を夫の男根にかけます。夫は妻に逆上してナイフで両腕を切ります。まるで教団で祭られている聖少女のようになってしまうのです。そのあとすぐに夫も首を切り自殺します。この死体や切れた両腕はすぐに犬や鳥のえさになるのですね。それを閉じ込められたまますべて見た少年は感情を表に出さない「バーディ」のような冒頭の生活に入るのです。かなり時が過ぎているはずですね。ちなみに少女はクモ女が連れ去り逃げてしまったのでこの子供の元には誰もいません。
時は過ぎ、精神病院の収容所で仲間と映画を見に行くシーンがあるんですが、ここで映画でなくて悪い商売するやつがいて、売春宿に連れて行くんです。すごいテーマですよね。養護が必要な人の性を扱ってます。ここで、かつてのサーカスの雰囲気、父とクモ女のことを思い出すんです。匂いでしょう。そんな中、母が現れて息子を支配し始めます。(オー・ド・ヴイに似てきました) では、かつてクモ女と逃げた少女は?というと売春させられていたんです。そんな中、客がスキを見せた瞬間に逃げていくんですね。ここがすごいのですが、たまたまいないときに少年はクモ女に仕返しに来るのです(父と母の仇ですね)。もうメッタ刺し。「サイコ」もびっくりの殺し方ですね。そして、あの友人であったこびとに会いに行くんです。そして母とこびとを中心に一座が組まれドサまわりが始まります。見世物は「母の後ろから母の手の代わりに手を出して一心同体で演技をするのです。もう母からの束縛からは逃れられないというか、同化してしまうんですね。見世物の主題も人間の原罪について、蛇に責任があるという、またヘンな説得性を劇的に見せます。(ここでも「神曲」のテーマが出てきてしまいました)さて少年の方は一座の女に手を出してコンビを組もうとするのです。その出し物はナイフ投げ。父親と同じです。まったく同じことを繰り返すんですね。人生ってそんなものかもしれません。そのナイフが飛んで突き刺さる音がまた良いんですよ。しかし母が許す訳がありません。手となれと命令すると同時に女にめがけてナイフを投げろとなるのです。当然、少年は実行するのです。ここでいい話が一つあるのですが、いつも死体はすぐにえさになっていましたがここでは墓まで運んでペンキを塗るのです、ペンキがかかるとえさにはならない訳で、埋めると白鳥となって魂が飛んでいくんですよ。この辺はセンスいいですよ。そうこうしているうちに一座は成功して劇場と家をもてるようになると満ち足りた生活に入るのです。ピアノを弾くのも一緒。ピアノを演奏する手に後ろからなる訳ですからもう性交渉の体位と同じです。やばい。という構図ですね。そんな自分の存在が嫌で消えていなくなりたいのですよ。それで透明人間になろうと実験する材料を買いに行くとき街で「世界最強の女が来る」という宣伝カーに出会うんですね。その瞬間男根は蛇に変身する幻想にとらわれるので性的な抑圧は相当ですね。当然そのショーを見に行きます。そしてレスラーの楽屋にバラを差し入れに行き、自宅まで招待するのです。このレスラーはおっぱいはあるけど、どうみても男なんですよ。肝心の股はぼかしが入っているので事実はわからないのですが、男でしょう。そして自分の劇場で仕込んであるマジックをやろうとしても母が出てきてしまうんですね。そして「殺せ」と命令するのです。ですから殺せというからにはやはり女なのでしょうか、あのレスラー。少年はこのレスラーを呼んだのは、強さにあこがれていたのではなく、戦うことで自分の腕を折ってもらいたかったのです。当然形成不利ですが、やはり「ナイフを使えと」命令されてぶった切るのです。このときはさすがに少年も絶望感があったでしょうね。やはり墓まで運びペンキを塗っていると、今まで殺した女の亡霊がすべて墓からでてくるんですよ。かなり殺してますね。(これ監督のインタビューでは実際にあった事件を脚色したらしい、その犯人は更正して社会復帰しているとのこと、メキシコらしいですね)もうみんな裸なんでぼかしが画面を被い尽くします。その亡霊に謝るんです。当然、一緒になってもいいと思った人たちですから、ただ、母の命令で殺しただけですものね。
亡霊から逃げて家に帰ると、劇場で聞いてきた少女が家に侵入していて、昔サーカスにいたころの化粧をして待っているのです。(すごくかわいい子なんですがね、化粧するとピエロです) 当然二人は愛し合うのですが、母の邪魔が当然のごとくはいります。「腕を切れ」と。このときに近所の人が遊びに来て、死体とか見て尋常じゃないと警察を呼ぶのです。少年は少女を殺す一歩手前まで行くのですが、少女は無抵抗です。そしてやっとのことで母を刺したのです。
ここからがすごいんですが、母を刺したら、母の化身が「私は殺せない、なぜならば、おまえの中に私がいるからだ」と言って消えていくのです。そうなんです、私もまたまただまされました。少年が操っていたのは母の人形だったのです。少女は少年の境遇を知っているし、すべて昔の思い出となるようなものを焼き尽くすんですよ。すごいやさしい愛情ですよ。すると座員はすべて喜んで祝福してくれるんですが、こびとは去っていくんです。きっと友人が欲しいという夢から、存在させていた幻影だったんでしょう。少女の深い愛は、父の形見の刺青の束縛も「鷹」を飛ばすことで取り去ってくれることでも示されます。そして警察に罪の償いに行けと。たぶんいつまでも帰ってくるのを待っていてくれるんでしょう。すべてのトラウマから開放され警察に逮捕されるところで映画が、きれいな音楽と共に終わります。なんという、素晴らしい、映像と独自の世界を構築したのでしょうか、この監督はかなり面白い監督です。人には薦められませんが、印象に残る映画です。
12/2
「火まつり」 柳町光男監督 1986年
冒頭から「山の生活者」の生活描写です。いわゆる、山の神のもと、仕事をしているきこり達です。でもこの映画全体にですが西洋文化がこんな田舎にも浸透してきている様子がすぐに出てきます。ここでは青年がコロンをつけるシーンですね。(ほかにも鉄道のレール、これは勝浦と新宮がつながったの最近だったと思います。最近と言っても20から30年前ですが。これ記憶ですので信じないでください。また、はまちの養殖のシーンも西洋化というか、近代化の流れの象徴でしょう。さらに移動の生活雑貨販売車が来るんですが、漁師の奥さんが率先してフランスパンを買いに来るんですよ。このようにいたるところで西洋化近代化の象徴が出てきます)山の者は、普通はコロンではなくて、おこぜ、を持っていくんですよ。そうすると山の神様に好かれるんです。まあここでは街の女に好かれるためでしょうから仕方ないですね。(なぜ、オコゼか、これは映画とまったく関係ないですが、山の神様は女なので、自分より不細工なものを見ると喜ぶとか言われたりしてます。このことに関するシーンも実は後ででてきます。見ていて結構研究されているなあと驚きました) 舞台となっているところはわかりにくいのですが、途中女が「新宮から船で来れば目と鼻の先なのに」という言葉がありましたので、那智から新宮にかけてのどこかでしょう。二木島らしいです。実際に那智とか行ってみるとわかると思いますが映画のように山のものと海のものが接近してます。那智の浜(きれいな浜ですよ)から那智の滝(飛瀧神社)まで歩くとわかりますが、かなり海から山へ変化します。そういえば途中、南方熊楠が研究していたいろりもありますよ。熊野古道の途中です。そうして、山のものの生活の中で獲物を取る仕掛けなんかあるんですよ。これはいいですね。榊使ってしまうんですが、おかしいと思ったらあとで、映画の中でも「山の神様に失礼なことをして、、、榊は神様の木だ」というようなシーンがあるのですがこのシーンは事実ですね。謝るために仕掛け作った若者は下半身を脱いで男根を山にさらすのです。これで女性たる山の神の気持ちが収まるというシーンです。わかりやすいシーンですが、まったく知らない人は何やっているのかわからないでしょうね。あと獲物の血を体に塗りつけるのもそうですね。できれば心臓をくりぬいて山の神にささげると良いのかもしれませんが、熊野ではそのような習慣はなかったのかもしれません。また山の仕事が暇な時はしし狩り、するのですが、犬(那智のいち)を使ってしし(いのしし)を追い込む狩の仕方は実は私も知りませんでした。その映像も出てくるので、貴重かと思います。酒をささげて、拍手を打って狩の豊漁を祈るシーンもあります。まあしし狩はいまでもやっていますし、以外と身近に鉄砲の音聞こえますよ。と言うと凄いようですが、実際熊野は近くにあって、まったく違う世界のような気がしてならないのです。本当に旅行するたびに思いますが大変なところです。映画の中でも随所に出てきますが、裸でいるということが自然なんですね。「オー・ド・ヴイ」で書いたように自然の中に人間の裸は溶け込めないのですが、自然と密接に関係している仕事をしている人は無意識に自然に同化しているんでしょう。さらに性のおおらかなところは、夜這いなどでも明らかですし。このおおらかさは共同体の中だけなんですよ。ですから海のものと山のものが交じることはないと思います。 この映画のポイントとなるのは塞の神の位置でしょう、きっと。 しかし映画で、すごく重要なことですが、山のものと海のものが親友なんですよ。そして山のものは昔かたぎ(「山の神様はおれの彼女だ」と言い切るのですよ)で、海のものは遊び好きですが仲がよく二人の距離感がたまらなくいいのです。親友というのはこういうものだよな、と思えますね。あと重要なことだと思うんですが、この二人を中心に稚児教育のような状況が生まれているのです。こういうことは重要なんですよね。人から人へ直接的に教え込まれることは忘れないんですよ。さらに男だけの世界ですので、山の神とも相性はいいのです。山の神のやきもちの様子は「森のざわめき」で映画の中では表現されてます。特に新宮から戻った女(山のもんの初恋の女)が現れてからひどくなるんですね。特に山のものの大将は自然を、神を、体で感じることができるので敏感になるのです。山のものは、この神=自然が海中公園で壊されるというのを無意識に感じているんだと思います。 そんななか、養殖のハマチが油を撒かれて全滅するという事件が起こります。実際は、この映画の中で持ち上がっていた海中公園の建設の話と深く関係するのでしょうが、海と山の塞、境目が危なくなるんです。実際に目に見える道路などの境目ではないだけに事は重いですよ。その件の疑いが海中公園に反対していた山のものにかかるんです。しかし、本当は、山の気持ちよくわかるから反対していただけなんですよ。それで、うみのもんの親友と一緒に海神の神社の近くの聖域を泳いだり、裸になって男根を突き上げたりするのです。するとそのときから大漁続きになるんですよ。実際に映画の中で漁師の奥さん達が暇そうに余りもののイセエビばかり食べてました。おいしそうですよ。ここの辺の行動は、山のものは知っていて行なっているんですね。そして、山に仕事に行ったときに嵐になりそうになるんですそのとき仲間がみんな山から下りたのに、一人残るんですね。儀式に近いことをするのです。それは大木に抱かれて、男根をこすりあげるのです。これは実際に良くあることらしいですが、映像としても入っているので、ここでもかなり研究しているなあと思いました。そのなかで山からの水をいただき、奥深く入ろうとすると、山から入るな、という合図ももらえるんですね。危険ということです。ここのシーン、普通の人はわからないと思いますが、この嵐の中で山のものは、山=女とかなりの交流をしたのですよ。その山=女の気持ちを持って男の祭りである新宮のお灯祭りに参加します。大事なことが一つありまして、その前に初恋の女でバーの売春女がいるのですが、うまいこと金を作って新宮に戻ってスナック買い取っていたんですね。実家のあったところに逃げていたときには山のもんと肌の交流があったのですが、新宮では商売も絡んできて、山のものが遊びに行っても、女を所有できないんです。客として帰らなければ、次の日の仕事ができないので、山のものも帰るのですが、帰り際に「お灯祭りに来てね」と言われるんですね。ですから、山のものにとってお灯祭りは初恋の心に残る思い出と山の神の二人の女がかかっているのです。その女たちを背景に男として出て行っているんです。初恋の女に対しては純粋な気持ちと、山の神に対しては本当の恋人としてですね。ですからお灯祭りの参加者がもどかしくて仕方ないんです。そんな描写もでてきます。関係ないですが、新宮の神倉神社本当に良いところですのでぜひ一度はお出かけください。そういえば、映画の中で新宮のシーン、クリスマスでした。本当に似合わない風景でした。 お灯祭りでけじめつけたんですが、海中公園の問題がとうとう家族で決定しなければならなくなったとき、季節は春、ということはお灯祭りから2ヶ月くらいですね、男は山の神が女でほかの家族もすべて女性だったのでいらないものとして海中公園にしようというのを無視して男に逆らうものとして全員殺します。子供まで殺したので(お灯祭りに参加したのにねえ、と思いましたが、直接の描写はないですよ)お家断絶ですね。最後に男としての責任をとるんですが、心臓を撃ちます。心臓を山の神にささげるのですね。自分が生贄で、山に神への捧げ者となったのです。心臓を切り抜いて捧げることは先ほども書きましたがそのとおり実行します。これはかなりいいシーンですよ。するとね、島に来ていた移動販売車とか金物師も去っていきます。いわゆるよそ者が去っていくということです。不吉な土地となったところで商売しても仕方ないですから。さらに人の影が映り(まあ写らなくても良いんですが)油がまた流れて魚が死ぬんですね。海のものたちはみんなで呆然とその油と魚の死骸を見つめます。そこに夕日が後光のように差し込んできて海に浮かぶ重油に光り、映画が終わります。まあこの島に魚は戻らないでしょう。守ってくれた人(山の神)の友達を殺したようなものですからねえ。まあ今ごろ気づいても遅かりし、、、 この映画って普通の人は、わからないんじゃないでしょうか?私みたいに旅行ばかりしているとすぐにピンと来るんですが、結構難しいですね。しかしいい映像ではあることは間違いないです。映画としてはつまらないと思う人のほうが多いことでしょう。私はこの監督の山ノ神の考え方はわかりやすいと思います。そういえば、書き忘れましたが、境は山から海まで実はなかったんですね。ですから親友同士という二人が一番わかっていたんでしょう。自然を。12/2
「ウィンタースリーパー」 トム・ティクヴァ監督
人物が錯綜しますので記号を与えます。まず4つの大きな流れがあります。1は女同士の関係をA1とA2とします。前者は映画からドイツ語への翻訳家、後者は看護婦。2は恋人同士。A1と男のA3で男はスキー教室のインストラクター。3は男。Bで後にA2と知り合いになります。4番目の関係はある家族でCとします。中でも3人兄弟の一人の女の子をC2、その父親をC1とします。A1と2が同居しているところにA3が新車で遊びに来て、恋人同士、愛を確かめ合います。そのとき新車の鍵をかけたままで家の中に入っていくのですね。すごくわかりにくいと思いますが、同じころBは酔いつぶれて歩いて帰ります。その途中で鍵のかかった車を見つけ盗みます。また、同じころ、C1は病気の馬を獣医に見せに行こうとします。そのときC2は「もう会えないから」行かないで、と止めるのです。直感が働いてますね。でもどうしても行くといったら、隠れて馬のいる馬車の方に乗ってしまいます。すると兄弟が女の子がいないことに気づくと父親に電話するんです。携帯をうまく取れない父親は拾おうとしてよそ見をした瞬間にBの車と接触事故で横転します。そのときにC2は大怪我をするのです。Bはそのまま崖から落ちますが、雪があったので助かります。そのまま歩いて逃げていきますがそのときにC1はこのBの存在に気づき、割れた窓ガラスと重なってある模様を頭に刷り込まれます。彼はあとから来た車に助けられますが、馬はあきらめて殺そうとすると、娘が倒れているのに気づき、呆然として馬に銃を向けて撃ちます。その銃を撃つ瞬間にすべての人の歯車が狂ったかのようになります。Bは倒れて眠り込みますし、A3は急に起きて車を盗まれたことに気づきます。ここまでで誰も良い目にあっていないのです。手術後C2は昏睡状態。C1は記憶障害になります。
C2の手術の担当看護婦にA2がいます。彼女は手術の担当のあと、自分が参加している劇団の初日を迎えるのです。その初日に友人としてガンマは観にくるのですが、Bもお客様でいるのです。彼は映写技師。それで初日のあとの2次会に参加してBとA2は知り合いになります。演技がへたなA2は緊張の糸が解けて(初日に向けて緊張しているし演技がへたなのはわかりますが)倒れこみ、Bが送っていく事になります。おかしいんですが車を盗んだ家に送っていくのです。Bはヘンな趣味を持っており、いつも録音機とカメラを持ち歩き記録を撮っているんです。車を盗んだ日はA1と3の寝ている姿を撮ってますし、この送っていった時はA2の寝姿を撮っています。たぶん、わかりやすく説明的にここまでのシーンをつないだのでしょうがかなりわかりにくいですよ。
本題。A1と2の会話。A1は本当にA3を愛しているのかわからなくなっているのです。そしてA2にも彼を観察して意見聞かせてというんです。そして実際にA1、3の不信感が募ると関係がギクシャクするのですが、ベットを共にするとなにか忘れてしまうんですね。しかし、ある日翻訳していた内容に男の記述があるのですが、それが彼のことを言っているようなんです。そこで客観的にもう一度見つめなおすんですよ。A2はBにもらった映画の券で映画を見に行き、Bとデート?するのです。当然、Bはすべて記録してますよ。なぜ、Bは記録しているのかというと、記憶が健忘してしまうのです。その自覚があるから起こったことをすべて記録しているのです。そのことをしばらくしてA2に打ち明けるのですがそのあたりから二人は急に親密になっていきます。その前にA2はBを家に連れて来るのですが(実はA1,2の共同で住んでいる家はA2の持ち物なのです)A3も一緒に住みたいと押しかけているのです。そして、A1が踏ん切りがつかなくて、「どうして勝手に住み込もうとするの?」みたいなことで喧嘩になっているときにA2とBが帰ってきます。裸で喧嘩している二人に唖然としながらも落ち着いて話をしているのですが、A1はA3と一緒に住んでいいか、A2に聞いてくるのです。しかし所有欲が強いA3はそういう許可を受けるという行為自体が、俺を愛していない、と機嫌が悪くなるしA1も気が強いのでまた喧嘩になります。この二人は気が強いもの同士、性的な結びつきはあるものの実は精神的には結びついていないのです。女の方も性欲があるから離れられないし、男も女が美人だから離れられないというお互いの利害が一致しているきわどい関係なのです。逆にA2とBは良い雰囲気になっていきます。
そんな中、C1は頭に浮かぶものが「傷跡」(キュェシロフスキ監督の映画の題名でもありますね、偶然です)だと思い出します。実際Bの頭の後ろには傷跡があるのです。だからBは記憶障害を持っているのでしょう。しかし警察は相手にせず、C1は自分の力で犯人を見つけようとします。そうして事故現場にいって何か残っていないか調べると車が見つかります。当然、中にはA3の持ち物があり、免許証から犯人だと思われます。そのころA3は彼女としっくりいっていなくてスクールの生徒に手を出します。二人で山頂から滑走しているときにスクール生は小さな谷に落ちて見失います。結局助かるのですが、A3は捜した挙句にみつからなくて下山しようとしたときにC1の追跡によってみつかります。しかし当然A3はどういう意味か知りません。しかし襲ってくるので、おかしいんじゃないといいながらも逃げます。そして間違って大きな谷に落ちていくのです。A1は当然彼が死んだので(もしかして、生活をやっていけないという判断もあるのでしょうが)実家に帰ります。その帰る電車の中でスクール生と同席になるのです。たまたま一人の男を共有した二人ですね。そしてA2とBは子供を授かり幸せになっていくのです。
いい映画ですよ。子供というのは親を選ぶといいますが、今回の映画でも、どの親の下に生まれようか選んでいたんですね。そして運命は子供を持つにふさわしい二人をいろいろな人間関係の錯綜の中から見つけ出したのです。別にA1と3でもいいはずですが、ふさわしくないから一人は死んで一人は孤独の中で映画は終るのです。親になるのにふさわしい夫婦の愛情があること、お互いが信頼しあえる関係であること、お互いが自分達に責任をもてること、などが些細な事件や出来事を通してA2とBが一番ふさわしいという結論になる過程を見せることで映画が成立しているのです。人生なんてそんな、見えない糸で結ばれていると思うし縁というのはそんなものです。題名の意味は冬の間に起こった事件ですし、その間にはぐくまれた新しい命が動き出したことと、なくなっていった命が眠りについたこと冬眠を意味すると思います。すなわちあの世(冬の間)での魂の遍歴を示すのです。冒頭で狂った歯車がA3の死で元に戻るのです。記号を使ったくらいちょっとわかりにくいですが雰囲気だけ観ていてもなんとなくわかるような映画でした。お勧めはしにくいかな。
12/3
「ミシシッピー・バーニング」 アラン・パーカー監督 1988年
そんなに最近の映画だったっけと思うような、製作年数ですね。となると、この事件と現在とのちょうどい半分の時点でアメリカをかなり旅行しているのですね。それよりずっと後の映画ですね。とにかく当時心に残った映画で、結果を知っても何回も観ております。最近の「L.Aコンフィデンシャル」(もう数年も前ですが)と同じようなテンションのよい映画ですね。
今思うと、初めに黒人と公民権運動家が撃たれた所から始まったのが良かったですね。良いスタートです。そしてたたき上げ(ジーン・ハックマン)とエリート(ウィレム・デフォー)の登場です。結果ですがFBIがこんなに力ないものなのですかね、と思います。事件のあった街に入ると異様な雰囲気です。レストランもカラード専用とホワイト専用があります(そういえば昔アメリカに行ったときに、これは確かに気をつけていた記憶があります)。ここで思うんですが、黒人は奴隷としてアフリカから人身売買で運ばれてきたので、以外とルーツとなる社会基盤を持っていない気がします。アメリカに移民したイタリア人やアイルランド人は自分の国のルーツとなる組織基盤持ってますよね。それが努力して成功すると成功できない白人のねたみを買うことになっていくんですね。映画の中ででてきた言葉ですが「クロに負けたらおしまいだ」という言葉や「プアーホワイト」という言葉、さらには「憎しみは生まれつきではないの、教え込まれたの」という台詞に表現されてます。しかし創世記9章27節とはなんなんでしょうね。KKKの根拠らしいんですがあまり興味ないので調べてません。しかし努力しないでみんな運命のせいにしたり、色の違いにしたりするところに問題がありそうです。KKKからするとユダヤもカトリックも東洋人もダメなんでアングロサクソンのデモクラシーを作るということですので当時生活していた被害者は運が悪かったのでしょう。焼かれる十字架がKKKの天誅の証ですがどういう意味があるのかは知りません。人間の弱い心に起因するので宗教の議論は別の問題であるはずです。しかし移民させられた黒人もキリスト教を信じるということはかなり説得性、普遍性があるんでしょう。そしてなんとなく、黒人聖歌の意味がわかりました。素直に表現できなかった信仰心を歌を変えることで維持したのですね。そういえば日本も同じですもの。遠藤氏の小説「沈黙」などはパライソと歌う唄出てきますね。たぶん同じ事だと思います。変化させた部分と変形した部分と両方あるのでしょう。
そして冒頭のレストランですが黒人のおびえ方はすごいですね。さらにFBIに話し掛けられた黒人はあとで被害を受けます。この事件全体は結果としてエリートの正義感で解決のきっかけをこうして作り始めるのですが、解決したんでしょうかねえ。しかし被害を受けた黒人達はかかわりを持ちたくないんですね。すごいのは、証言に立ってくれた黒人少年がいたにもかかわらず(かなりの勇気のある少年です)裁判は負けたのです。FBIが負けたのですね。この映画の中に関して言えば、この裁判で黒人達もかなり切れましたし、KKKのメンバーも焦りからか迫害を増します。FBIもかなり決意を固くします。転機ですね。次にKKKの幹部の妻が裏切ったときにこの3者の緊張は高まり頂点を迎えます。FBIが実力行使です。どうするのか?たたきあげの手法が使われますが、おとり捜査です、それが違法かどうかの議論は別としてここから畳み掛けて面白くなることは事実です。本当にいいですよ。黒人の知り合いに黒人の仕返しと思えるような演技をさせ、KKKの幹部を脅します。すると当然、誰かが裏切ったと思いますね。先ほどのようにKKKは緊張が頂点ですのでお互いを疑い始め、たたきあげのFBIがわざとほかのメンバーがいるところに落としやすい犯罪に加わったメンバーの一人に約束したかのように訪ねればOKでした。さらにはこの訪ねた男(自分でも周りから疑われたと思っているので)にKKKの裏切りの儀式と思わせればすみます。すぐに自供しました。あとは芋づる式で逮捕できたのです。しかし最後のほうで「見てみぬふりをしたものすべては罪」という言葉が出てくるんですが事実だと思います。感想としては、黒人の迫害場面で黒人聖歌がかぶるシーンは秀逸です。次はアングロサクソンアメリカから流れでマイケル・ムーアを見てしまいそう。
12/4
「発狂する唇」 佐々木浩久監督 2000年
もう、なんでもありというきわめて映画的な映画です。しかしテーマがかなり危ない反社会性があるので書くのをためらいました。まず、舞台となった家が最低な条件で「息子が連続首切り通り魔殺人事件の容疑者で、2、かつ、昔、死刑になった」という環境設定です。そして母親と娘2人の構成で、事件の異様性からマスコミに囲まれて逃げ場がない状況で追い込まれた家族が主役です。結局ここに絡むのが霊媒師一味とその霊媒師を追うFBIと名乗る一味というだけです。霊媒師は商売にしようとたくみにこの一家に取り入り、性的な奴隷と母親と妹を仕立て上げます。そして実際のオカルトっぽい感じで殺された霊を呼んでみようとするのです。しかし、霊を呼ぶのは危険だった。それは死んでから49日たっていなかったからで、やはり、死体が首なしででてくる。霊媒師はそれらを「使い魔」として自分の首を捜しにいかせる。そして霊媒師一味は深く入り込むために、事務担当者を使って奥さんに取り入る。そして深い関係になるのだが、奥さんのほうが病み付きになっていく。その後、妹のほうも深入りしていく。結局、誰も寄り付かない非社会性が完成しているのです。とにかく映画の中で出てくる、この家に出入りする人たちがおかしすぎる。このどうしようもない関係で姉のほうはおかしくなって家を飛び出していくのだが、公園で刑事に捕まり、犯人を知っていると問われると不快感とともに念力で刑事を殺してしまう。そのとき、「使い魔」を手段として使い、念力で殺す。それを霊媒師一味をおかしいと思っていたFBIが事情を姉に話して捜査に協力しろと説得する。すると、あろうことか、「歌を歌いだす。(それは背景が横浜の山下公園から港に見える丘公園に渡って行われます)20世紀ノスタルジアみたいです」この辺で気づくのですがこの映画いろいろな映画のパロディが多いですね。このあとの事件担当の刑事のリアクションがすごく、そのまま、家に殴りこみ、姉を犯そうとするのです。死んだ刑事の仇らしい。どうしようもない展開。そうすると、刑事のほうは殺され、硫酸で溶かされる。(地獄の貴婦人みたいです。)もうなんでもありの展開で、刑事が家に入ったきり出てこないしおかしいと家を取り囲んでいたレポーターは家に飛び込み取材を開始するが、みんな殺されてしまう。この辺で普通の人は見ないと思いますが、この殺し方はフユーリーとかキャリーみたいなものです。そして霊媒師一家とこの家族は5人で出かけるのですが(だいたい、事件の現場がわかってきたから)そこには兄がいるのです。そして殺された女の子の家族も揃っているのです。実は霊媒師と兄が仕組んだもので、実は母親と姉たちが殺して首を切っていたというものでした。この家族の女たちは何かにとり付かれていたのです。そして、霊媒師一家はこの呪われた血が必要とここまで仕組んでいたのです。もうこの辺からさらになんでもありで、この被害者の家族はみんな殺されるのですが、最後に残った姉と兄の間には子供ができているのです。この子供どうなるのでしょう。なにか宇宙に連れ去られたみたいです。どうでもいい、という感じで書いていて嫌になってきました。まあ、何でもあり飛躍性は映画的で画面が笑えるというのは映画ですね。まったくお勧めしませんが、見ていて自分がまともに思えました。そういう効果はあるかもしれません。
12/5
「トリコロール」青の愛 キュシロフスキ監督 フランス 1993年
素晴らしい。まず、題名のごとく映像は青の色調です。車を一家で運転しているのですが、トンネルを越えるシーンで何かを越えたところに至ったのでしょう、事故を起こします。生き残ったのは妻だけで夫と娘は亡くなります。(目覚めたときに、夫よりも娘は?と看護婦に聞いたんですよ)そして夫の友人がビデオを持ってきてくれます。二人の葬儀のビデオです。ここから音楽はトランペットのテーマがかぶってきます。とにかく、いろいろなシーンで最終的に出来上がる音楽のモチーフの音楽が流れていくんです。本当にすばらしい展開ですよ。まだ、意識がはっきりしていないでぼんやりしていたときも青い光とともに「欧州統合のテーマ」の主題が流れます。まさに未完成の曲を作れという啓示のごとく、、、。
しかし、すべてを失った妻は夫の作った曲の内容は理解しているので楽譜は浮かぶのですが拒絶するがごとく夫の楽譜を写譜しているところに行ってそれを受け取り、廃棄してしまいます。過去を忘れたいのですね。夫のものはすべて捨てようとするのです。そして夫の友人を誘い抱き合います。彼女に好意を持っていることを知っていたのですね。「私だって普通の女よ」というせりふにはびっくりします。過去を捨てるとともに自分ひとりで生きる覚悟ができてきているんですよ。当然、旧姓に戻ります。この辺からメロディが少しずつ映像のバックに流れるようになります。
部屋を借りて、近くのカフェでアイスクリームとコーヒーを飲んでいると、近くで大道芸人がリコーダーを演奏しているんです。その曲知っているんですね。大道芸人には言いませんが夫の曲です。多分、楽譜をどこかで拾ったのでしょう。そしてこの大道芸人のおめがねにかなった曲だったのでしょう。
この引っ越したアパート生活の中でいろいろなことを経験します。たとえば、外がけんかでうるさいときに部屋の外に出てしまい、自動鍵が閉まってしまい、外にいる間に、同じアパートの住人同士の情事を目撃します。ここでも孤独のはずですがメロディがなります。(孤独と愛情がモチーフの部分です)。その後も生活の断面を切り取っているかのようですがすべて主人公の女の精神的な部分に作用していることが列挙されてきます。街でたたずんでいるとき、老婆が歩いている姿を見てリコーダーの曲の続きが聞こえます。また、なくした十字架のネックレスを持ってきてくれた少年がいました。事故の現場にいた少年です。事故直後の話を聞かせてくれます。やはりメロディが流れます。この辺のシーンは夫が作った曲が流れるのでしょう。なぜならば、このようないろいろなモチーフを欧州統合のテーマに含めていたからです。(孤独、愛情、博愛、やさしさなど)
このように、ちょっと、些細なことが夫を忘れられないものにしていくのです。本当はもう忘れないとつらい思い出なのですよ。さらにねずみが部屋に巣を作って子供をたくさん作ります。さすがに殺すことはできないのです。親ねずみは必死に子供をかばっています。しかしねずみの鳴き声が一晩中聞こえてくるんです。ねずみは何かの弱いものの象徴なのでしょうか?いや、子供への愛情の象徴なのです。何か失われた子供への愛情に苦しめられるのですよ。それで、無意識的に弱気になって母のところに会いに行きます。そこでのせりふには参りました「友人も愛も私を縛る罠」というのです。ねずみもです。自由に生きるしかないと思っているのですね。それで、猫を借りて、部屋の中に離します。強制的に動物の愛情なんか聞きたくもないのでしょう。その猫を貸してくれた同じアパートの住民の女は風俗産業で働いてます。この人がいうことがまたいい。「誰だってセックスは好きよ」。だんだん、一人で自由に住むつもりが愛情の必要性を無意識に植えつけられていきます。そこでテレビで自分が写っていることに気づきます。それは夫の友人の一度関係を持った男が夫の曲の続きを作るというインタビューでした。そこで夫が知らない女と写っている写真がもこの妻の写真とともに放送されます。続きを作れるはずはないので、写譜をした人のところにいってみると、やはりコピーしていたのです。この人いわく「こんなすばらしい曲は捨てるなんてできない」。あの大道芸人も演奏したくらいですからねえ。そして夫の友人のところに行くと好きな友人の未亡人の気持ちを挑発したかったと本音を言われます。そして友人のバージョンの曲を聴かされます。違う。合唱も入るはず、それもギリシャ語の韻を踏んだ詩と指摘(この詩がこの映画のテーマを見事に表現しているんですよ)。そして夫と一緒に写っていた女は夫の愛人だと知るのです。夫を忘れたいがために自由になったつもりが夫は愛情に関してとっくに自由だったのです。この夫が愛した女に会いに行くと(次の白の愛の主役のジュリー・デルピーがちょっと写るんですよ、このシリーズは出演者が次々と違う映画にも同時進行のたまたますれ違った違う人生を示しているということを強調するためにほかの主役や役者が違うストーリーの中で違う映画の中に登場してくるんですよ。いろいろな人生が同時にいろいろな角度からあるということですね)女は妊娠していたのです。ここで夫が愛していたのはこの女のほうだと知るのです。母のところに行っても母は彼女なりに年取って自分なりに自由に生活していたのです。会わないで立ち去り、夫の友人に手直しした曲を見せて少しずつ作曲に参加し始めるのです。そして、屋敷に戻り(アパートはもう要らないのです、なぜならば、新しい生活が始まろうとしているからです)夫の愛人と子供が屋敷を継ぐべきと渡して、作曲も並行して完成させます。同時に新しい「愛」の完成です。そうです、愛はすべてのことにも増して人生に必要なことなのです。ここに彼女も夫が自由だったのと同じように自由を得たのです。そうです、ギリシャ語の合唱の歌詞の中に「言葉はいつしか滅びる、知識もそうだ、愛は残る。信仰と希望と愛のなかで愛は尊い」とあるのです。夫が作った曲をここに実践できたのです。夫との生活はもう戻りません、それを忘れようとするのではなく、新しい愛の中に生き始めたのです。
本当に映像と音楽の一致、すばらしい。ずっと忘れないで生きていきたいですね。本当に良い作品です。ブラボー。
12/6
「お熱いのがお好き」 ビリー・ワイルダー監督 1959年
マリリン・モンローを好きになったのは実は最近のことです。彼女の写真集を買ってその素顔を見たときにびっくりしました。
彼女はマリリンになっていたのです。実は本当に美人でした。なんというかグレース・ケリーとイングリッド・バーグマンを足して割ったようなすごくチャーミングなんです。この写真集は本当にお勧めです。長年彼女の写真をとり続けていた写真家が版権が切れた昨年世界2万部限定で出したのです。
映画ですが、禁酒法の時代の映画です。この禁酒法というのは楽しい法律ですね。葬儀屋の裏が隠れバーになっていてビックバンドも踊り子も入っているんです。人間って変な制限が入ると抜け道作るんですね。でも人生楽しもうという方向はいいことだと思います。しかし警察の手入れが入るんですね。バンドマンのうち主役の2人はうまく逃げたのですがギャングの裏切り者を始末するところを見てしまい、ギャングに追われるのです。隠れバーもなくなり、職も失ったばかりですので、フロリダの女だけのバンドに女装して紛れ込むのです。そこでマリリンの登場。しかし女装の彼らも「本物のレディーが来たな」といわれるんですよ。男が思っている女性像がいかにいい加減かというシーンですね。この辺から大笑いの連続です。しかし本当にこの映画はストレス解消になりました。マイアミに向かう列車の中で、マリリンと2人は仲良くなってしまうのです。トイレで隠れてお酒飲んだり、バンドの練習するのですがその途中マリリンは隠していたお酒を落とすのですがそのときも女装した男が身代わりになるし、それで演奏中もマリリンのこの男に対しての信用は高くなり見つめて練習すると男ですから張り切るし、するとマリリンは歌を歌うのです。まさにショーを見ているみたい。イヤーーいい映画ですね。女装男は「最高なバンドだな」というけどそれはそうだよ。まったく違和感なく溶け込むと、夜マリリンがベットに遊びに来るのです。 女装しても男でしょう、良い女が横に寝て、もう緊張しちゃって面白い。でも、隠れて酒を飲もうとするとみんなに知れてバンドのメンバーみんな集まってくるんですよ。すごいシーンですよ。男のベットに12人の女が押し込まれて押し倉饅頭ですよ。こんなに楽しい思いの中、フロリダにつきます。するとホテルの入るときにこの女装の男は金持ちの男に一目ぼれされるんです。
またね、オフのときバンドのメンバーで海に泳ぎに行くんですがこのシーンもいいですよ。開放感があって若さがあっていいですよ。こういうストレートな表現最近減ってますよ。さてコンサート、マリリンの「I
wanna be loved by you」いやーーたまらない展開。もう監督のセンス爆発してます。いい映画ですねえ。
この後のオフで女装の二人は別々に金持ちに好かれた男のほうは女装したまま女として金持ちを連れ出して一緒にタンゴ踊るんです。もう一人の女装は連れ出してくれた金持ちのヨットに金持ちに成りすましてマリリンを誘惑するんです。この女装の二人のシーン、抱き合う二人とタンゴを踊る二人のシーンが交互に挿入され本当に笑えます。特にタンゴは最高です。結局婚約してしまうんです。マリリンのほうは帰ってきて女装した女友達(笑い)のほうに恋の悩み打ち明けるんjんです。この辺、ずるいんですが女装しているだけに女のストレートな気持ちもわかってしまうんですよ。そんなときに前に出てきたギャングが会合でこのホテルに来てしまいます。すぐにばれて追われるんですが、結局このギャングもそのボスを裏切っているので殺されます。こんな物騒なところは逃げようと最後にマリリンに別れのキスして逃げるのですが、どうやって?、金持ちと婚約しているので駆け落ちするんですよ、大笑い。それに付き添いとしてもう一人の男もついて逃げようとすると、マリリンは先ほどのキスで実は愛してくれた金持ちはすぐ近くで女装をしていた男と知って追いかけて4人で逃げていくところで終わるのです。本当に楽しいですよ。金持ちのほうは男だといってもそれでいいというし、4人で案外うまく言っちゃうかもしれませんね。そんな気になってしまうくらい楽しい終わり方です。マリリンとプレスリーはやはりスターですね。「sweet
sue's」(バンドの名前)最高です。本当にお勧めです。
12/7
「トリコロール」白の愛 キェシロフスキ監督 1994年
男が歩いていると鳩の糞が落ちる。いやな予感。まさに離婚調停の始まり。理由は性的不能。夫は愛しているというが妻は愛してもいないという。実際に電話をしても店に(美容院やっている、夫のほうは腕もよく、お客様がついている)訪ねてもだめ。実際に離婚成立の後、いちど試してみてもうまくいかない。夫はここで結婚式の日を思い出してみるのだが、今まで愛のメッセージを妻から受け取っていたのかもしれない。それに気づいていないのかもしれなかった。当然、妻のほうは夫をまったく忘れたい存在ですね。
住む場所を失った夫は街で大道芸みたいなことでどうにか生きている、この世にいるという存在だけになってしまったのです。愛の喪失です。そこで祖国ポーランド人と出会う。なぜ、彼が立ち止まったかというとポーランドの曲を紙笛で演奏していたからだ。彼はブリッジでパリで勝負して生活をしていたがある仕事をする人間を探しているというのだ。仕事とはポーランドで殺しをしてほしいということ。その相手の素性を聞くが妻と子供もいて金もあるという。この夫にないものばかり持っている人が、何で死にたいのかわからない。しかし、妻の様子を見に行って電話すると妻は男と寝ていてその様子を電話で聞かされる。あてつけですが、その電話代の最後のお金で残った2フラン硬貨をとりあえず、フランスの思い出として持って帰る。これを後に自分の葬式の身代わりの死体に投げ込んだんで、そこでフランスとは切れたんでしょう。すなわち、妻とも切れたのかもしれません。そして、仕方なく仕事を受けるがポーランドは祖国なのに帰ることができない。パスポートをなくしているのです。妻が捨てたのだろう。その男のトランクケースに隠されてポーランドに戻るが途中トランクケースが盗まれてしまう。そのままお金を持っていないので捨てられる。とりあえず、仕事(殺し)はできないがポーランドのどこかに着いたわけだ。ここで流れる音楽は最高、ピアノから展開する曲でポーランド編の映像のテーマ曲のような感じでしょう。とりあえず兄の実家を訪れると優しく出迎えてくれ、お客様も、ついてくれる。腕がよいのでお客様も喜ぶんですね。(パリとポーランドを結ぶこの移動も自由化の恩恵な訳です)しかし両替商に勤め、役に立ちそうもない善人そうな顔から用心棒の役目をもらう。まあ捨て駒ですね。しかし、仕事のときに盗み聞いた土地開発の話で土地の買収を始める。人がよいので相手に信用してもらえるしうまく買収は進む。そんななかパリの殺しを依頼した男がたずねてきていて探して会うことができる。そして夫のほうから仕事を引き受けたいという。ここまで彼は裁判からいやな人間の一面しか見ていなく、違うのはポーランドという祖国と兄だけだった。殺しでもやってもいいという気持ちだったのだろう(しかし、後から思うと事業資金を貯めて何かにささげたい気持ちが強かったはず、だいたい、このころ遺言状を書いていて遺産は一括、教会か何かに寄付するつもりだったはず)。しかし「殺し」はその依頼人自体を殺すことだった。実際に現場で銃を撃つ。空砲だったが相手にも人生をやり直すくらいの後悔は与えた。依頼人は依頼を取りやめ、(人を助けた)酒を飲んで意気投合する。ここで多かれ少なかれ、生まれ変わったのだ。多分夫のほうはポーランドに来た時点で生まれ変わっていたと思う。この依頼者はここで生まれ変わった。この最悪のどん底の気持ちからの精神的開放がテーマでもある。第二のテーマである
その後、元手を土地取引と殺人(未遂)で作って事業に乗り出すのですが、これが成功します。なぜかって、これは私の推測ですが、金持ちからお金を取り、恵まれない人に都合がいいような事業に専念した結果、その施しの気持ちから態度に自信があったのでしょう。また、いやな人生だったのでだまされないすべ、またはだます奴を本質的に見抜けるようになっていたのでしょう。これは殺人を依頼したやつを共同経営者にしたことでもわかると思います。二人ともいちどは死ぬような思いをしていたんです。成功してきても妻を忘れることができないので、あることを思いつきます。それは妻の反応を見ることです。本当に私は嫌われているのか、わからなかったんですね。そして死んでしまったような見せ掛けを作り上げます。自分は引退しても問題ないでしょうし、ここで遺産の相続人を妻に
変更します。そして、妻に電話してみるのですが切られてしまう状態なんですがね。しかし死んだこととするとなんと葬式には彼女は来るのです。ここは来るかどうかもわかりませんし、映画を見ていて来ないような流れなのは事実です。可能性は新婚のころの感情がどのようなものだったかでしょう。夫のほうは離婚したときに思い出します。妻のほうは葬式に列席してもみて、感情としての悲しさは覚えるのです。この葬式の様子を影で見ていて、あとで妻の泊まっているホテルに先回りして部屋に隠れているんです。ここで、妻のほうは夫が死んだと思ってはじめて気づく感情や思いがあったのでしょう。手をとり、膝枕なんかをしてこのときは離婚の原因となったようなことは起きませんでした。しかし妻が起きる前に部屋を出て行ってしまうのです。ここの意味がよくわからないのですが、感情の確認だけだったんでしょうか。このまま一緒にならなかったということは、意外とロマンティックなことばかりではないでしょう。一度の確認をしたかっただけだと思います。しかし一度に遺産として大金が入った妻は警察に疑われ、かつ死体の状態が当然のごとくおかしいので、まあ容疑者になっていくわけです。そして、妻の中では夫は生きているのですから、精神的におかしくなっていくのです。そして最後のシーン、夫が会いにいけたので警察ではないと思いますが、精神病院かな、の窓越しに妻が手話で話しかけているのが見えます。その言葉で愛情が再確認できたのです。ちなみに妻があの結婚式の様子を思い出したのは夫がホテルから隠れてしまったときです。葬式の後ですね。つまり白の愛は愛情の復活だったわけです。最後に会いに行く前に弁護士が言った「トンネルの先に光が見える」という言葉がテーマです。蘇生。すべてはいい状態に収まる。がんばりたいと思います。
12/8
「満員電車」 市川昆監督 1957年
大学(最高学府)の卒業式の変遷からスタートして小学校の入学式で終わります。
男(大学出たばかりの男)がいう「日本は訳もわからなく張り切らなければならないようにできている」という言葉どおりに、町に出ても人ばかり、歯医者に行っても人ばかりです。この男は張り切っているから女との身辺も整理していくんですが、女のほうもそんなに気にかけちゃいないんですよ。この時代も意外とドライですね。結局ビール会社に就職するのですが、尼崎の工場勤務になります。工場というのは音がうるさくて神経的に張り切りすぎて心身症が歯に出ていたのでまったく直りません。その痛みに輪をかけるように、仕事をてきぱきやると、呼び出しをかけられ、「君だけが能率を上げたら会社の合理的運営が妨げられる」といわれます。確かに、歯車は同じスピードで回らなければなりません。決められた仕事量をきめられた時間内で行うように注意しなければいけないんです。すると「忙しくなくて暇がない生活」になるんです。このことは対に、工場の生産ラインが出てくるんですが、規則正しく機械のように人間も動かなければならないのです。この辺から人間性重視の勤務形態が研究されたんでしょう(GEなどですね)。またこれに輪をかけるごとく主人公の父親が「正確に、秩序正しく張り切って」という教育をしているんですよ。「自分に自信を持つこと」も教え込まれております。すると社会が矛盾だらけに見えてくるんです。主人公はそれでどこか、うまくなじめないんですよ。そのために心身症的な病気は歯の痛みからほかの部位に移っていきます。決して直らないんですよ。
さらに笑えるんですが、独身寮にはおばあさん、母、妻の役をやるような男の人がいるんです。変におせっかいというか、何でも気づくタイプの人ですね。そして会社に慣れている人です。その人は主人公に「怠けず、休まず、働かず」と教えてくれるんです。しかしいやらしい性格もあり、自殺した人の話とか聞いてもいないのに教えてくれるんですよ。しかしみんなに頼られてはいるんですが、後でわかったことですが、こっそり勉強していて、資格試験に合格できないで、多分、この人もノイローゼだったんでしょう。勉強のし過ぎで過労で倒れます。
それでいて、休みにはすることがない、サラリーマン生活。そんなときに父から「母が狂った」と手紙をもらいます。大学の医学部に母を診てみてくれる人がいないか募集すると応募者がいて診に行ってくれます。その結果は父親が精神病とのこと。母親が訪ねてきた時に、「つらいことがあると笑うことに決めた」といい、「お父さんがおかしいのよ」と聞かされますが、もうこの時点で誰が正しいのかわからなくなってます。自分の病気も悪化して母が来たときは髪の毛が真っ白になってしまうほどでした。しかし体の痛みはどこにもなくなっているんですね。どういう比喩かわかりませんが、心身症が髪の毛にまで来たのでしょう。
話が前後しますが、昔の女も訪ねてきます。教員になったのですがくびになったのです。でも昔の恋人同士が言う言葉がいいんですよ。「職業とか結婚とか愛とかを分けて考えたくはない」「みんな生きるということでしょう」という具合です。この映画のとき22歳としたら今は計算すると68歳くらいですよ。このような現在の初老の方の若いときってこんな感じだったんだ、と思うと周りの人見ても何か不思議です。笑い。ずいぶんと若いときは今と違うこといっていたんだとか。とにかく、女を独身寮において置けないので、また給料が安いので男も結婚に踏み切れなかったので、大阪まで送っていくのですが、「人が多いけど、みんな歩いているだけで、品物も見ているだけで誰も買っていない」という女の言葉は私も感じます。今も昔も同じなんですね。
結局、世の中みんなおかしいのかどうかの境界線上にいるということなんですが、男は父と母のどちらがおかしいのか見に行くことにします。すると精神病院にいるのは父親で、「私以外はみんなキチガイ」「ここには秩序がある」なんていっているんですよ。先ほどの応募者はこの父親に精神病院作らせてそこでなりあがるつもりなんです。とにかく病状について話を聞くと「父親のほうがおかしい」といいます。さらに病院を建設したことを尋ねると、成り上がるためには仕方ないといいます。しかしそれを言った後すぐに交通事故に巻き込まれるんですが、まあ要領だけで、なりあがろうとするには運がなく、すぐに交通事故にあいます。主人公も電信柱に頭ぶつけて倒れます。
その治療に32日間かかっているうちに無断欠勤ということでくびになります。この休みが休養になり精神的に良好になるのですそのあと職探しに入りましたが良い仕事がなく、学歴が邪魔なので高卒くらいに詐称して小学校のこずかい、の仕事につきます。その仕事も学歴がばれてやめる羽目に。先生より学歴がいいのがばれてしまったんです。そのため、近くで学習塾を開こうということを考えました。母と二人でどうにか、やっていくでしょう。なにか挫折感のあるシーンですね。しかし主人公は塾の成功を祈っているんです。結局、彼は大学は出たけれど、、ということになってしまいました。若い監督の映画ですね。まあ、言いたいことはわかります。なにか今一歩という感じはするのですが、たぶんちょっと冗長なのでしょう。よく観ていないと話わかりにくい部分もあります。しかし金田一シリーズよりはずっと毒気あって良いとおもいますよ。
12/9
「草迷宮」 寺山修二監督 1979年
またか、というテーマです。最近見た映画のほとんどはこのテーマのような感じがするほど映画にあうテーマなのか、母の呪縛を逃れられない少年の話です。(「サンタ・サングレ」「オー・ド・ヴイ」もそうでしたね)砂丘の中、女が一人手毬歌とともに現れると、少年が手毬歌の歌詞を知りたいという旅を続けていることがわかる。男と女が絡み合うシーン。この二人にも手毬歌の歌詞聞いてみたらしい。当然母から聞いていた手毬歌の話なので母に聞きたいが死んでしまったし、おばは発狂してしまっている。(「満員電車」じゃあるまいし、こうも続けて狂った人が出てくる映画ばかりなのかと自分でも不思議です)母の先生のところにも聞きにいくが知らないという。
では、「なぜ探しているのでしょう」。ここで母との思い出が走馬灯のように流れます。少年の思い出として土蔵の女に誘惑されたことがあった。そのまま、関係させられているのですが、この無垢の少年がこの魔性から逃れる道は母の作っている帯に沿って砂丘を逃げることであった。その砂丘は海に通じておりそこに母はいる。これはイメージですが、現実のときの流れでは少年は犯された後、風呂から上がって母からあの魔性に近づくなといわれる。この女は二十歳のときから男を待ち続けているという。「女が二十歳になると、丑年の丑の月の丑の日に、髪を洗い、身を清めて、紅を薄く塗り、戸を締め切って壁に女の魂を掛け丑の童子に一心に念じていると前世から定められたいにしえの人が写るという」これを実行していたのだがこの女は何も写らなかった。だから男を待ち続けているということです。この女には母がついているから大丈夫といわれ、近づくなと言われたのです。しかし少年はまたこの女を覗いてしまうと、母に折檻され、女が近づけないようなおまじないをかけられる。それは手毬歌の歌詞を体中に書くというものです。そうですね、なぜ手毬歌の歌詞にとりつかれて旅をしていたのか?それは母から離れられないからです。少年がかくれんぼしている相手も脱走兵と消えてしまい心中してしまう。そして女は死体として波打ち際に打ち上げられる。少年は女に近づくことができないのです。
では手毬歌の歌詞はなんの役に立つのか?なぜ旅をしているのか?遊郭のやり手婆にいろいろな歌を聞いたり遊技に聞いたりする。一人の遊技は知っていたがわざと間違えた。客として相手したいからだ。教えては女を避けられてしまう。そしていつも遊郭では川の向こうから母が見ている。からくり人形が歌えるのはからくり人形は避けられないからだ。
次の瞬間、その手毬が川を流れてしまう。土蔵の女が拾い土蔵へ誘おうとする。女が土蔵に入ったらそこから先生が出てくる。先生に話を聞くと、近くに子産み石があることを教えられる。石をなぜると子供ができない人にも子供ができるようになる効能があるという。すると夢の中で母と関係している少年が頭の中で浮かぶ、しかしそばで手毬をついた女がいるのだ。夢から覚めても夢の中のように、手毬をついた女はいる、追いかけても近づけない。それを妨げている川の向こうの母にも近づけない。こんな中途半端な様子を夢の中の世間の人は笑うのですが、どんな風に挑発されても(相撲取りのかっこうした姿はさすがに唖然としますが)そのまえで母の首が手毬歌で大丈夫というのです。しかし母の首が持っていかれると、少年は追いかけ、世間と戦う。もうイメージの世界ですよ。その夢の中の夢の中で、母が少年に向かって「お前をもう一度妊娠してやったのだ」と、ほかの兄弟たちを引き連れて言う。そして母との強引な結婚式が行われそうになると、あせってどうしようもなくなると目が覚めて子産み石の部屋で寝ている自分に気がつく。女の入っていった土蔵、そのあとにもう一度訪れた土蔵には子産み石があり、そのなかで母の印象が堂々巡りをして、現実かうつつかわからないまま砂丘(母なる大地)に来ると今度は先ほどの兄弟たちが堂々巡りをして遊んでいるのだ。生まれ変わった自分もまたその次の自分もあのように回り続けるのだ。これは「神曲」の最後にそっくり。母なる大地から生まれた人間は狭い環境の中で回り続けるだけです。そして、そう人生は繰り返す。そして魂は消えないのである。次にどの肉体を選択するかが問題なだけなのである。
面白い映画ですよ。母からの自立という単純ではないと思います。輪廻転生する魂がまた同じことを繰り返すということです。イメージがつかめないとそのまま不思議な映像だと思って終わってしまうタイプの映画ですね。最近ニューマスターが出たらしいのですが劇場ではぼかしなしでしょうか?このテーマはもう飽きましたので次に娯楽映画でも観たいですね。しかし気が楽な映画ではありました。わかりやすいし、イメージが非日常的で映画的だと思いました。
12/10
「カルメン」 映像監督ブライアン・ラージ、ジェイムズ・レヴァイン指揮 MET アグネス・バルツァ、ホセ・カレーラス 1987年
まあそんなことはおいておいて、簡単なストーリーと感想を。
セビリアのタバコ工場の前。ミカエラという娘がドン・ホセを探しに来る。しかし、ホセが来ない間にカルメンが休憩で出てきて、たまたま目が合ったホセを一目ぼれする。(本当はこれが大事だったんです)ホセもまんざらではない。しかし、ホセはミカエラと結婚するつもりでいる。それを知ってカルメンが騒動を起こす。(カルメンはホセが同じ故郷のナバーラ人と知ってまた好きになる)しかし騒動の始末をカルメンはしなければならない。ホセに逃げられるように頼んで逃げる。逃がしたホセは1ヶ月営倉に謹慎させられる。
その間カルメンは酒場で踊って歌って楽しく過ごす。本当にいい場面ですよ。(「踊りと歌は一体」という場面、このプロダクションはそんなに盛り上がらないが。しかしこのシーンを最高に表現できるプロダクションがあるのだろうか?すべての人材がそろっていなければならない)そんなところに闘牛士のエスカミ―ユョが現われ、カルメンに一目ぼれする。カルメンの気持ちはホセなので、そっけない態度。さてホセが帰ってくるとカルメンは待ち望んでいて愛の最高のシーン。しかしカルメンは「仕事より愛」すべてを捨ててまでも愛を優先、ホセは「仕事は仕事」愛への思いが違うのだ。変な男のプライドがあるのだ。カルメンは好きならどこまでも一緒に逃げようという。ここで食い違い別れようとする。しかし将校が来てしまい、カルメンが好きなのでホセにはもったいないと決闘になりそうになるがカルメンと密輸仲間が止める。そして、ホセも密輸仲間と逃げなくてはならない運命になる。ホセもあきらめてカルメンと一緒に逃げる。ここまでの第二幕はいい曲の連続で最高です。
密輸団が逃げているとき、監視員がいて隠れているがここはホセの実家の近くである。母のことを思い出しているのだ。それをみてカルメンはうまくいかない運命を悟る。実際にミカエラはホセを追ってここまで来ているし、エスカミーユョもカルメンを追ってきている。たまたま出会ったホセとエスカミーユョは決闘しようとするがとめられる。このころから気持ちがエスカミーユョに少しずつ向かっている。さらにホセは母が危篤と聞いて母のところに行ってしまう。
闘牛場の場面、もうカルメンはエスカミーユョと一緒になっている。ホセは影から見てどうしてもカルメンとよりを戻したい。もうこのときのホセはプライドもないし、カルメンも気持ちが変わっていた。しかしホセは自分の気持ちが癒されないとしてカルメンを刺して終わる。
こんな話ですが愛は具体的にはアリアとしてはカルメンとホセの二人にしかないのです。
話とするとホセの優柔不断さがすごく気になるのです。もっと受け止めろよ、と思うのですが、よく考えると、ホセには愛とともに母やいいなずけがいるのですね。それを壊したのはカルメンなんです。カルメンは根無し草なので気楽なんでしょう、しかしどこかに寂しさがありその裏腹に強い愛情を相手にもとめるのです。後から出てくる闘牛士はまさにうってつけです。しかし運命はいたずらをしますね。その男と女の縁の皮肉さが歯がゆいんですが、だから面白いのでしょう。
この舞台についてはバルツァは好きなメゾでこの役は適役だと思います。もう少し若い方がよかったと思います。ホセはまさに適役。ほかの二人はちょっとイメージが崩れるくらい。しかし、よくこの舞台見ればわかることですが、上演できるオペラハウスは少ないでしょう(「アイ―ダ」なみに大掛かりです)。まずトスカみたいに絶対的にメゾに魅力とテクニックがなければ成り立ちませんし、かなり踊れなければ務まりません。またダンサーや子役もたくさん出てくるので大きなオペラハウスしかできないでしょう。その点METは問題なくこなしてます。しかし、衣装も含めて何かが違うんです。私自身このオペラは実際に見たことがないですし見る機会も多くないです。そのため、あまり大きなことは言えないのですがもっと踊りを多くして、舞台全体に躍動感がほしいです。しかし一度は見てみたいオペラですね。今だったらどこのオペラハウスができるかな。カルメン役はバルトリがよさそうですね。
「月の瞳」パトリシア・ロゼマ監督 1995年 カナダ
光の筋にチェロとバイオリン、パーカッション、ハープ、エレキギターがかぶさる。そこは氷に閉ざされた水の中。いわゆる、無意識の中の自我を表現。
すぐに学校での授業の様子。内容がいいですね。「近代文化は道徳律を基本としている、、、」(女に振られる男教師の言葉)「変身は神話のモチーフ」(あとで変身する女教師の言葉)このような授業の様子にバイオリンとチェロが不協和音で重なる。まあ結果としては使われる楽器とシーンに関連性はないのですが。
幻想サーカスの女とコインランドリーで知り合う。しかし女教師がコインランドリーに行くのだろうか?不思議でならない。そこで幻想サーカスの女は女教師に惹かれてわざと洋服を間違える。確かに女教師は魅力的ではある。多分、何かこの教師の本質を見抜いたんでしょう。この映画独特の同性愛的な感性がある人はその記号を読み取ることができると思う。私には今ひとつわからないのです。その間違えて入っていた派手な洋服を着てみると発言も大胆になってくる。彼氏の男教師には「今は個人主義の時代でしょう」他人の意見なんか気にしないで、と言うし、神父との面談では「ロック独特のリズム自体が性交渉と同じ」オーガズムの波動に一致という意見も堂々と引用してしまう。無意識的に変身が始まってますよ。
そして、サーカスを見に行く。サーカスのシーンはまあまあまとまってます。ちょっと雰囲気先行な感じはします。今までにもホドロフスキー、寺山修二と立て続けに見てしまってはそんなに驚くほどすごくいいというわけではない。多分このサーカスの雰囲気でこの映画にはまる人はいるんだろうなあと思えます。そのサーカスの女は影絵のマジックを担当していた。ここでパーカッションが派手にシンセとチェロにかぶってきます。なんで電気楽器を使うのだろうか?しかしここではホモ(女性同士はレズというのは狭義)関係に歯止めが利いて会わないように逃げ帰るが、翌日サーカスの女はキューピッドの格好で矢に手紙をつけて投げ込む。このキューピッドはあとからこの話が聖書から引用されているんです。ここのあたりでは珍しく電気ピアノ中心。お互いの感情が一致したのかキスをする。(聖書や神学から解き放たれたい欲求は少なからず持っていたはず。しかし解き放つ欲求はもう少し違う形でしたが)完全なる伏線となります。このあとの新しい学校付の神父になるための面接で、同性愛についてこの女教師は「神の人類創生では異端もOKでは?」などと無意識的に言ってしまう。そして彼氏と一緒のときもキューピッドは見ているし気になるのでサーカスに出かける。そこで「友達にならないか」と性的関係はなしでと声をかける。まだ神学とのバランスは取れているんですよ。サーカスの女はパラグライダーに誘い「恐れていては何もできない」と本能を開放するような意味が深い言葉で空を飛ぶことを経験させてしまう。この空のシーンもバイオリンとチェロですね。なにか女同士のシーンにこの2つの楽器は多用されてます。着地失敗して足をもんでもらっているときに「何か話して」といわれ、もんでもらっているお返しに「キューピッド」の話を聖書からする。そこはご存知のようにある快楽へと導くシーンがあるのですが、実際に揉んでもらっているうちにやけに肌がフィットする感覚を覚えてしまう。そんな間に彼氏との性交渉も激しさを増してくる。彼氏はびっくりします。ほかに考えることは女と一緒のことばかりになってきます。そしてとうとう教師のほうからサーカスの女に迫っていきます。サーカスのはちゃめちゃな雰囲気にも慣れてきて逆に「愛する人と抱き合って踊ることは尊厳」と教えられます。まあ愛を中心に尊厳を考えているんですね。ここでも映画特有のこの人はどんな収入源で生活をしているのだろう?なんていう現実的な話は除外して考えたほうがいいですね。
当然、彼氏の知るところとなり、「すべてのことを言葉で説明することは有益ではない」「神との対話のみが真実だ」「言葉で語ることを許されたと思うのは利己的な考え方だ」「言葉はその人そのものだ、慎重に選べ」みたいなことをいわれるんです。これじゃ好かれないですよ。しかし女教師のほうはどうしようもない、気づかなかった感情があふれ出てくるのです。最後に犬を埋めて自分もそのまま雪の中で寝てしまうが、パラグライダーの人たちに発見されてサーカスの女に連絡が入り二人は体をあわせて温めあった。すると救急車よりも早く意識を取り戻して二人の関係は完成され、女教師もサーカスについていくようになる。いわゆる氷に閉ざされた世界を破って外に出たのだ。この辺の展開は何か物足りないですが、そういう人生なんでしょう。まあ教師で神学教えているよりかはいい人生かもしれない。いや、客観的に良いというのではない、主観的に本人の気持ちのままに行動していることが良いのです。本当に見やすい、気軽な映画でした。ぜんぜん疲れません。サーカスのシーンも遊び感覚で気楽です。
12/12
「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」トーマス・ヤーン監督 1997年 ドイツ
キャバレー(実は売春宿)のオーディションからスタート。ハレの場と日常の閉店後の片付けの対比がおかしい。そしてジョークをいう。医者が変わった睾丸だ、木と金属でできている、というと患者は困る。医者がついでに子供は?と聞くと二人いると。ピノキオとターミネ―ターだと。こんなつまらないジョークに笑えというのも酷だ。
さて本題に、ギャングとある患者の話が平行で描写されます。ギャングは部下に車と鍵をあるところへ運んでほしいと命令。(実はトランクに金が隠してある)この部下は1人が白人、もう一人はアラブ人。へんてこなコンビです。途中、子供をはねて病院に寄る。
次の本当の主役は二人の患者。たまたま病院に向かう途中から病院の病室まで同室になるかなり正反対の男2人。Aは脳腫瘍であと数日の命。Bは骨肉腫でやはり先は長くない。お互いの病気の話で急に親しくなり、この際遊ぼうと、酒を飲みに行く。酔いながら「臓腑で自由を海の中で感じたい」「壮大な美しさ」「海の大きさを感じること」など詩人のように海のことを語り、色々と海の話ばかりするとBは海に行ったことがないという。では行こうか。となる。このノリが良いです。そしてギャングの車を盗む。そのあと、ガソリンスタンドで強盗するんですが、「狼たちの午後」みたいに強盗にいたっても二人で喧嘩してやめようとか言い合う。すると警官が来て疑うが、ありのまま本当のことを言うと、面白いギャグだと疑いも晴れる。本当のことを言うと顔が嘘でないという顔になるんですね。わかる気がします。そのあと、洋服を買いに高級ブテッィクに行くが金が足りなくて銀行強盗を。ここも段取りが悪いけど、成功。手伝った行員にギャラをあげる。全編通じて、この2人はお金の社会配分を金持ちから貧しい人にしていくんですね。憎めないやつらです。この銀行にあとからギャングたちも強盗に入るんですが、遅いし、彼らが去ったあと警察呼んでいるので警察とすごい銃撃戦です。そして逃げるギャング、追う警察。2人はのんびり歩いているんです。本当に間の悪いギャングですね。
また盗んだ車でドライブ再開。この辺から二人は精神的に開放感が味わえるようになります。「本当に、雲に乗って海の話をするのかなあ」というせりふいいですねえ。しかしAは発作の回数が増えます。たまたまトランクをあけると大金がはいっているので驚くが死を前にしているので怖くない。使っちゃうんですよ。派手に遊んで。ボーイの少年にはチップに札束。(多分少年はこれで仕事やめたので、店開くと思います。夢のある店をね)しかし警察はAの自宅やホテルまで追ってきた。Aというのは銀行強盗を一人でやったからです。ホテルでは絶体絶命ですが、Bを人質にして警官の洋服を奪い、逃げます。警官の格好をしているときにギャングたちに会うのですが、ギャングたちは自分たちが盗まれた車を指してこれは私たちの車です、とかれらに言うのです。すると鍵を渡して気をつけろよ、と去っていくのですが、この辺の展開は最高です。制服を奪った警官たちを男と女ほぼ裸にして重ねるようにしておくのですが決して交わらないように締め付けて縛るのですよ。しかし同僚の裸見て欲情する距離で。大笑い。このいうギャグは面白い。さて警官の格好でパトカーで逃走すると車が故障。仕方ないので、一般人の車とめて、尋問し、秘密任務を依頼する。そして自分たちはこの人の車で逃げていくのですが、展開のスピードさえまくってますね。死ぬ前なら何でもできるし、楽しいですよ彼ら。街でばれそうなので、また洋服を買いますが、そこでまた発作しますがもう薬はないんです。薬局に行くけど処方箋はないし、仕方なくBは薬局強盗します。またまた警官が集まってくるんですね。ここでもAはBを人質ということでトルコカフェに隠れます。(「明日に向かって撃て」みたいに警官に囲まれます)しかしトルコ人に飲食のお金をたくさん払うと、人質のまま一台の車に乗って逃げます。警官は人命尊重ということで踏み出せません。ヘルシンキ・シンドローム(人質が長く監禁されているうちに犯人に同情的になる)の状態と警察は判断しているんです。当然、ギャングもテレビで彼らを見ているので、増員して追います。警官とギャングに追われるのですが、たまたま警官とギャングに挟み撃ちにあいます。当然ギャングと警官が仲良いわけないのでお互いに打ち合いになり、その間に真ん中をとうもろこし畑のほうに逃げていきます。この撃ち合いギャングのほうが勝つんです。笑い。
どうにか逃げ切り、中古車でピンクキャディラックを買います。プレスリーが大好きな母親へのプレゼントです。しかし当然実家は警察が張り込んでおり、親に会ったのもつかの間、また警官に囲まれます。そんななか、Aは発作で倒れます。Bは捕まえようとする警官を抑え、早く、救急車を、と病状の説明をします。当然、救急車で運ばれますが、Bが付き添っているときに、多分、何か未練があったのでしょう、Aが意識を取り戻します。そうなると猪突猛進する二人は救急車を奪いそのままオランダへ。途中、冒頭のキャバレーによってしまいます。そこで女を抱いているときに当然、つかまります。相手の懐に入ってしまったのです。つかまってもそのときまでに二人は新聞などで寄付を募集している人たちにお金を配ってしまったのです。もうないというと、ボスが出てきて、逃がします。ボスは彼らの行動の爽快さ、正しさ、かつ殺そうとしても怖がらないこと知っているんですね。さらに彼らが見たがっている海と夕日の美しさ、それらがさいごに溶け合う美しさが心の中に永遠に残るということを知っているんです。どうせ戻らない金なんですから、夢見させてあげるんですよ。さて、海に着くと、お互い顔を見合わせます。そう、ここが彼らの死に場所ですね。海への一本道を歩いて見た海。初めての海。その砂浜で酒を飲みタバコを吸って二人座って海を見続ける間に死んでいくのです。さいごの場面でボブ・ディランの「天国への階段」のカバーがかかるんです。実にいい映画です。大のお勧め。
12/13
「あこがれ 美しく燃え」 ボー・ヴィーデルベリ監督 スウェーデン 1995年
主人公のAの年は性欲多感でクラス全部ではそんな話もしているんですが、Aはなぜか中年の女の先生に興味がわきます。この先生は夫もいるし模範的な先生なんですが、どこがいいのかわからない。いつも見つめていたり、先生に接近するときに肌を接したりしているうちにお互いに意識し始めます。接近し始めたときのお互いの初々しい態度は新鮮ですし、見ているこちらが少年は次にどのような行動に出るのだろうか?と興味が出てきます。とうとう、教師の家に行くのですが、やはり場所柄家具はいいですね。夫がいるときに合図も教えるので、かなりの確信犯です。なぜか?
いわゆる「性の実習」になってしまいますね。しかし、夫とも少年は何回も接していくんです。その中で、夫から音楽のこととか人生のことを学んでいくんですね。この2人のシーンが一番落ち着いて見えるのは多分監督が意図して造っていると思います。先生とのシーンは見ているこちらがどきどきします。途中、夫の趣味のベートーベン弦楽四重奏、チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、マーラー「交響曲第5番」「亡き子を偲ぶ歌」バッハのメサイアなどが流れますが、そのマーラーの音楽の歌詞とヒットラーの演説が同じ言葉なんです。このことと工業製品ができる元はみんな生き物だ、という夫のせりふは(夫は簡単な技術屋でそれを商品化して売っているみたい)技術の変化と人間の本質の変化が不一致な点を指摘しているとともに人間は変わりたくても変われないんだということでしょう。技術に人間の変化は基本的についていけないんですよ。というより人間は2000年の間にほとんど変わっていないんですよ。技術革新としてはそしてアメリカでナイロンが発明されて普及されているニュースはこの夫を暗くさせます。彼は毛皮とか毛糸などを扱っているのです。生活も乱れ大人のだらしなさも少年は目の前に見て、哀れむ気持ちが芽生えてきて、教師にももっと夫婦間で優しくというのです。しかし教師は性的関係を望むのです。また教師から夫との結婚の理由を聞かせれます。それは、政策的なもので、彼女の財産目的で近寄る男たち、中身のない格好だけの男たちを遠ざけるのに格好の相手だったのです。結婚してしまえばそんな連中も手が出なくなるからです。夫のほうはそういう約束を暗黙に交わしていたのでしょう。だから夫婦間で慰めあうこともないのですね。こういう駆け引きもAは少年でよく理解できずに正論で突っぱねます。そして、夫が目の前でだらしなく飲んでくだを巻いて寝ている前で少年をベットに誘うのです。正義の人少年Aはそんな誘惑には応じません。すると教師のほうから誘惑がひどくなります。それを避けるように前に相手しなかったAのことを好きな女の子のところに行きます。もう女の子のうれしそうな顔といったらないですよ。Aはこういう正直な子とぴったり合うんですが、変な道にそれてしまいましたね。
しかし、途中、戦争に行った兄の死も大きく心の傷になるのですが、(教師のほうはその傷に癒しを与えてくれないですよ)教師はどんどん、無視されていった自分自身が悔しくてAの前で醜い姿をさらします。昔は自分で言っていたように周りの憧れだったのにねえ、女は旬を逃すとつらいですね。しかし積極的に抱かれにいって映画館で抱き合う姿を彼女の女の子に見られてしまいます。もう女の子はAも信用しないし、先生にも愛想が尽きるでしょう。先生は見られたことで自分の保身に走ります。結局彼女は、自分がいつでも逃げられるところを持ったままAと遊んでいたのです。Aはすべてを失ってもいいとのめりこんだのですが。大人と子供の違いだと思います。これは見る人の人生の経験の差で何とでも捉えることができると思いますが、私は大人は保身するのは当たり前で、そんなことは子供から大人になるにしたがって覚えていくことだと思うのです。Aが知らないのは仕方ないことであって、一歩成長していくのです。結局、女教師に落第させられます。(顔を見るのがつらいといわれてもねえ、かわいそうですが)。この落第や兄の死の辺りから母との会話が増えます。結局は家族ですからね。そして最後、多分、成績発表か何かの席で遅れて堂々とみんなの前でAは女教師の前に向かって進み出ていき、目の前でズボンを脱ごうとします。結局、無視されたので、そのまま立ち去り、思い出の辞書を持って学校を出るところで終わるのです。
この映画を見ていて、私はAの純粋な気持ちにいらいらするのです。若さってもっとずるくてもいいのに、と思うんですね。あとは女教師の中途半端な欲望がわからない。夫の欲望のなさも解せないんです。しかし、純粋さとエゴ、大人のずるさをうまく描いた作品だと思います。もう少し大人のバージョンの映画が「ピアニスト」に近い感じもします。見るたびに感情移入する映画の中の登場人物が変わるような映画でした。地味ですがいい作品です。私はどちらかというと欧州では北のほうの国の映画のほうが好きみたいです。