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「長靴をはいた猫」 矢吹公郎演出 昭和44年
新年は愉快に行きたいと思い、久しぶりにこの映画観ました。いやー、また実に楽しい時間をすごせました。笑っちゃいけないですが「ペロー、貴様はねずみを助けた」といって猫の世界から追われるんですが、いまどきの猫でねずみをご馳走と思う猫はうちの近くにはいないですよ。人間がえさを与えすぎてます。もう人間が近づくときの3つ指をついたお願いポーズ(えさをくださいというポーズ)には参ります。ですからえさをくれそうな家の近くはテリトリー争いがすごいみたいです。この冬でも喧嘩してました。猫の喧嘩はすごい鳴き声ですよ。そういう時は私は仲裁に入ってどちらも消えるようにします。なぜならば、猫の鳴き声は意外と眠れないものです。まあ映画に戻って、猫の世界から追われると刺客がついてまわります。逃げたペローは人間の世界で兄弟に虐げられたピエールに出会います。そこでピエールは猫のペローにも優しくして友達になります。「いつでも一緒さ、いつも離れない友達さ」なんて一緒に歌うんですよ。またペローは前向きで、街でお姫様がお婿様を募集しているのをかぎつけ、強敵魔王ルシファーを倒して婿になれと薦めるのです。すごい強気の猫ですね。そのとき言う言葉が参ります。「人生楽しく生きなければ」ですもの。たまたまねずみの親子も助けるのですが、このねずみの親子もピエールに恩義を感じ最後まで助けてくれるのです。なんとなく社会から虐げられたものが幸せになるという本質が平等精神というアニメですね。
王女ローザとピエールを結びつけるシーン、ローザがどうしてもルシファーと一緒になりたくないとバルコニーで泣いていて、ふと落とした白いバラを拾って返そうとしたピエールがなんと切り出して話しかけていいものかわからないときに、このペローは代わりにロマンティックなせりふを語るのです。またさらにねずみの親子は王様にカラバ公爵の密使として連絡を取ります。カラバ公爵は実在せずにピエールを公爵に見立てたのです。さらにネズミたちは姫にもピエールのことをカラバ公爵と耳打ちしてくれます。まあ、人間がねずみの話を聞いて理解するとか、猫が人間と話をするとか、考えて疑問に思ったならこの映画はまったく面白くない荒唐無稽の映画でしょうが、なんというかかわいくて仕方ないですよ。本当に打算なく忠義の精神を持っているんですよ。また、本当におかしいシーンがありまして、カラバ公爵の領地を見せるときに、農民に猫がお願いしてカラバ様万歳といってくれとお願いするんですが、当然人間が猫の言うことなんか聞きません。するとねずみが農作物を食べるぞと脅すんですよ、そして人間も言うことを聞かざるをえなくなり王様と姫が通るときにみんな手を振って大歓迎するんです。そして川の中に裸でピエールを泳がしておき、みんなが通りかかると猫がご主人様が災難にあわれて泳いでいるときに身包みすべて盗まれたというと、農民の大歓迎で気を良くした王様は城に連れて行き服装をあつらえてくれます。そして、うまく城に入りこんだピエールはお姫様と散歩します。そこでのBGMは猫が指揮してねずみが歌うというかわいい最高のシーンです。しかしピエールは本当のことを打ち明けます。そこでも猫とねずみは一緒に音楽を奏で美しいシーンが続きます。なんというか人間と動物の調和がとれた美しい正直な素晴らしいシーンです。
しかしルシファーがこの様子を見てしまいます。そして姫をさらってしまいます。あとはみんなで姫を助けに行くだけですが、もう楽しい反面、はらはらどきどきしていろいろなことが起こるのですが、ルシファーの欠点はどくろのペンダントがお日さまにあたると魔力がなくなってしまうことでした。最後まで絶体絶命のシーンの連続ですが、どうにか朝日まで逃げ切ると、最後に塔から落ちていくときにどくろに朝日があたって落ちていく二人(姫とピエール)をからすが鳩に変わって助けるというオチがついてめでたし、めでたし、二人は結ばれるのです。
しかしこのままではなく最後のシーンで、ペローはいつでも一緒と、ピエールと一緒に歌ったくせに、城をあとにするシーンで終わるのです。まあなんというか風来坊なんでしょうね。シェーンみたいにかっこいいきざな猫です。だから題名がこの猫のかっこうを表現したものとなったのでしょう。長靴を履いている猫なんて実はふざけた題名ですよね。でも面白い映画です。というよりかなりの人がその面白さを知っている映画ですね。新年早々すがすがしい気分になりました。
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「股旅(またたび)」 市川昆監督 1973年
渡世人は戸籍がないとははじめて知りました。「仁義」が挨拶。例の「おひかえなすって」と始まり、生まれや流れたところなどを挨拶して、手ぬぐいなどを「おさめてくださいませ」と終わるのですが、その仁義を受けてもらえるかどうかで生活がかかっているのです。特に旅を続けていると、仁義を受けてもらえれば、食事と寝床とわらじ銭は確保できるものなのです。そして仁義のあと、足を洗って、出された「お茶」を飲んだら最後、その家のために働かなければならないらしい。そのあとの食事もご飯は2杯と決まっている。1杯なら仏さまへのお供えのご飯と同じになるから、形だけ2杯ということらしい。さらに少し長くなると4日目からは掃除などの下働きをさせられる。
いざ、助っ人の際も1対1の対決はなるべく避け(どちらが死ななければならないから)2回くらい剣を交わしたらほかの戦いに割ってはいる。そんなわけで死者は少ない。
実際のところ出入りもどちらもやりたくはないものですよね。けが人の手当て、死者の葬式費用などお金がかかるので面子が立てば仲裁人を入れてやらないこともあるとのこと。この映画観ていて思うんですが、完全な父系社会ですね。
ここで素直な感想を書きますと、3人で旅をしている若者は煮え切らないでいらいらします。結局昨今の犯罪のほうがすごい割り切り方しているんですよ。首切りとか平気で起こりますもの。この現代の異常性もあるんでしょうが、思わず、「相手を切るならもっとさっさと切れ」とか思うシーンが多いのです。
ひとりの若者げん太は上で言う、渡世の義理を果たすために実のたまたま出会えた、行方不明の父親を殺します。「親子の情」とどちらが重いか?なんて言われて信じてしまうんですよ。へたにまじめなんです。結局、一番重い殺人を犯して3人ともに追われます。このときわらじを脱いだところで知り合った女を誘うとついていくというんです。(これもまさか来ると思わなくて誘っているんですよ)女は借金のかたに無理やり結婚させられた女で嫁ぎ先で面白くないんですよ。この女の子かわいいんですが、俳優の名前見てびっくりしました。井上れい子です。最終的に逃げ回った先まで追ってきた夫の弟を後ろから殺してまでも帰りたくなかったので、よっぽどの家だったんでしょう。肉親殺しが二人では逃げ切れないと、女を「めしもり女」にします(旅籠に2名まで実質的な娼婦が許されていたらしい)。それも女は承知して、男が迎えに来るのを待つといいますし、男も迎えに来るつもりでしょう。別れ際にめそめそしているのは、男のほうです。「だったら売らなければいいのに」とこっちのほうがいらいらします。
そして運を開くために(ひとりは途中蛇にかまれて破傷風で死んでしまった)下総の喧嘩に参加して儲けようとしますが、2人組が裏切り者を殺して手柄を上げようとするのに対して、げん太の方は渡世の義理といって、切りあいします。もうはっきりいって馬鹿な者たちで、見ているこちらが唖然としてきます。とくにげん太、お前は渡世なんか渡るな、農民が似合うぞ、と心の中で叫んでます、私は。
結局走っていくときに足を滑らせて、緩やかなはずですが転がると止まらない丘から落ちてげん太は頭を打って死にます。一人残される、裏切り者を殺してしまおう、と提案した男はひとりげん太の行方を捜しながら映画が終わるのです。まあ途中いつでも別れることが出来た別のところから来た3人なので、一人では何も出来ないことを自分たちが知っているのでしょう。生き残った男の人生も先が見える感じです。
私とすると娼婦に売られた女はいつまで、心の中でげん太を待っているのかな?という疑問だけでした。なんというか素朴な映画です。今の普通の人のほうが怖いかもしれません。怖い世の中助け合いたいですね。
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「いちげんさん」森本功監督 1999年
正月に京都に行ったので、京都を舞台のこの映画を久しぶりに観ました。スイス人と盲目の女性の心の交流なのですが、テーマはいいけど、まとめ方は少しさすがにこちらが照れてしまうシーンもあり、京都の街もそれほど映っていないので肩透かしの感は否めません。まず、竜安寺の庭園が映り、スイス人の大学生のモノローグで始まります。たしかに、テニスを一緒にやっている日本在住の外国人と同じようなしゃべり方なので、私にとってはまったく違和感ないのが、おかしい感じします。舞台は1989年の日本。ソビエトがあり、ドイツが2つあり、マンデラが獄中にあり、というのですが、バブル絶頂とは言いませんねえ。京都の町の感想として「町の奥のほうから、冷たいよそ者を見る視線を感じる」とあるのですが、それは私も同じく感じるので、この英国人に限ったことではないでしょう。さらに、「彼らは裏でつながっている」というのも確かです。言い方を変えれば、裏で連絡を密に取ってくれる、心づくしのサービス、をしてくれるのですが、その価値がある人間かどうか見きわめをされるんです。「まるで一冊の美しく装丁された古本のよう」というのは言いえて妙の表現でした。
盲目の女(顔は少女っぽい、普通の女の子、大学生くらい、以下Aとする)は文学が好きですが点字本に文学が少ないので小説を読んでもらうということで、二人は近づきます。この女の子の家、純和風で庭の松が見事です。松、続きですみませんが、そういえばこの女の子、松たかこさんが似合いそうです。この映画では女優は鈴木保奈美さんです。唇が印象的な女優さんです、あまり知らないんですよ。平凡な女の子です。そういえばこの映画の監督もこの映画まで知りませんでした。また知りたいとも思いません。途中この女優裸にさせられるのですが、なんかわざとらしい、いやなシーンです。京都の風景はどうしたんだ、このやろう、と思ってしまった感じがします。そういえばこの映画作成に京都市が参加しているんです。その点からもこの映画見て、京都へ行きたくなるのか?は無理でしょう。すなわち資本参加は失敗ですね。
はじめの読む小説は「舞姫」なにか先が暗示されますねえ。主人公の男の行動についてスイス人の留学生(Bとする)は「マザコンで官僚主義から自分自身を抜け出せないでいる人間」と言いますが、Aも似たようなことでもっとロマンティックに激しく女を愛せば良かったのに、というようなことを言います。しかし舞姫と同じような結論になるんですが。
話の途中、タバコをAが吸うのですがそのタバコの火をBが代わりにつけてあげたあたりと、そのタバコの煙をBの顔に吹きかけたあたりからAとBの距離は煙のごとく近づいていきます。
Bは大阪で英会話学校の教師をしているんですが、たしかに授業風景とか街での経験とか話されると、まわりでも思い当たる節がありますね。「いまわしい経験」というのはわかる気がします。それは英語で無神経に個人的なことを、仁義なく(股旅の影響です、挨拶なくということ)、話しかけられることです。日本人同士だと普通はないですね。
景色は、「つつじ」で2人で外出(ここで疑問に思うんですが、母親は二人を結びつけるつもりなのでしょうか?)して、喫茶店(こんな二人はうちの店はウェルカムです)でお茶して、映画(多分ダンアンクロイドとスプラッシュの人魚役の女優の出ている映画)観て、寺を散策(このお寺はわかりませんでした)そして哲学の道です。
次のカットのカラオケのシーンは木屋町と鴨川が出てきて、鴨川のほとりにJAPANESE DISTANCEという距離で点々といるカップルにBがひとりで割り込みをすると、彼らはいなくなる、という描写です。このお互いの距離は日本人は特に重要で、イタリア人なんかと話すときにすごく感じますね。彼らは会話の距離が近い。耳打ちに近い距離で話しますよね。しかしこのAは珍しくこの距離が近い女の子でした。
梅雨になるとド・ヴォルジュの官能小説を読んでくれとAはBにせがみます。この小説家日本語表記これでいいのかわかりませんが、このような名前です。知りませんでした。「そういうシーンをみんなと同じだけ読みたいの」という言葉には説得力があります。ひざまくらもせがみ、肉体関係がないのも不思議な距離です。Bが自制しているのでしょう。夏になり、ちょっと自分の中の欲望も感じたのか、「地球の歩き方」ふうのヒッチハイクに出かけます。このヒッチハイクのシーンなんか京都から離れるんで出資者たる京都市は怒りそうですがねえ。まあ要らないシーンです。
さて、とうとうのシーンですが、二人はカラオケに行ってその帰り、祇園から八坂神社を散策して雨にあいます。それでも「平気」というのは女のほう。雨の中のキス。まあ映画的ではありますが、そのあと雨にぬれた体を拭こうとして服を無造作に男の前で脱ぐのです。
そしてAは裸に。この裸、見るに耐えないというか、うまくだまされたのかというくらい大胆にカメラに撮られてしまって、多分、この女優を見るたびに思い出すであろう、くらい鮮明に脳裏に焼きついてしまいます。ここだけならいいのですが、そのあとも数回にわたって男女関係の描写があり、さすがに閉口します。(この女優自体は撮影が楽しかったとインタビューで言っているのでまあ問題ないのでしょう)何かおかしいですよ。京都市がお金出していると思うからおかしいだけなのか、わからないですが、少しエロドラマっぽいところがあるんです。
「京都は古い本のようだ。しかし最初のページより進めない」というのはわかるんですが(古い町はえてしてこういう傾向があると思います)、大学(同志社大学)の卒論の試験、あんな感じなのでしょうか。なにかがおかしいんです。ここで感じるのはこの話実話なのか?実話なら今出版して成功しているのに女のところに戻らないのか?フィクションなら日本に来てこんなことしか書けないのか?という疑問があるのです。書いた作者に対する生き方と日本に残した女のことがわからないのでしょう。私の感覚ですと、この本書いた時点で出版に成功したなら、女を迎えに行くでしょう。そこがわからないのです。ずっと友達でいようなんてことはないと思うのです。ここの問いかけを終われば、この映画はあとは枝葉末節の羅列なので、たいしたことはないのです。そして違和感はこの映画がテレビドラマみたいなことに気づいたときに自分の中ですっきりしました。
ここまで書けばあとは京都のシーンと出てくる小説の羅列くらいで問題ないでしょう。この女優が好きで裸が観たいならいいのでしょう、さらに愛欲の映画が観たいのでもかなりOKです。私は上のような疑問が途中で浮かび、真剣に見ることが出来なくなりました。
しかしひとつだけ理解できる場合があるのですが、それは、お互いにきっちりと別れて新たな道へ行こうと同時に思ったときです。映画では形上はそう見えるんですが、手紙をくれとか言っているうちは心の中に消えないで残るものです。それなら別れたことにはならないと思うんですがね。Aは生きる楽しさを教わっただけで満足して別れるんでしょうか?
知恩院で般若心経の写経をしているシーン、「社会の外に生きる男たち」(やくざの特集、フランス人の見たやくざ)、小説「暗夜行路」「砂の女」などが出てきました。
やくざは「セーラー服と機関銃」「股旅」と続いてます。次に「砂の女」見たいという気になりました。
(注。京都市のメセナ映画ということですが資本を出しているかどうかは確認しておりません)