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しかし、一晩でDはロンドンに行ってしまいます。まさにBは残されたんです。いわゆる行きずりの恋ですね。それでなければ2部屋同時に予約なんてしません。しかし、その数時間のロマンティックなときを忘れられないでいるのです。そして、ずるいことに恋人とDにラブレターを出します。二股ということです。それを女友達のCが預かりAには渡します。AはDにもどんな内容を送ったか知りたくてたまりません。これはすごくわかる心理です、はい。ほかの男にどんな手紙だしたか知りたいですよね。Cは女友達ですので同姓に不利なことはいたしません。こんなやり取りをしていて気がつく点があります。映画のはじめからCとAが一緒のシーンが多いのです。またBとDの一緒のシーンが多いのです。整理するとAとBが恋人同士、BとCが女友達同士。そこにDが現われただけです。しかし一緒のシーンが違いますね。だんだん見えてきました。やはりBのラブレターを渡したときにCとAは会話が弾みます。そこでAは男としてCについて女は恋人を取り合ったかと思うと、都合が悪くなると女同士は同盟を組むと文句言いますがそのとおりです。しかしCは他人の恋人を横取りにしたりはしません。ここでCに彼氏がいないことが効いてきます。すぐに恋人の彼氏と一緒にはなれません。しかし映画上、話が弾むというか見ていて安定した関係なんです。でもAとBの恋人同士は結婚することになり、家を購入します。この家庭でDは一時の不倫だったとBもどこかあきらめがついたしAも長年の恋人関係を清算して結婚しようとします。そして結婚式当日。どんでん返し。

Cと抜け出して公園に逃げようとやはり土壇場で踏ん切り悪くなります。

しかし音楽とともにDが登場してBをアメリカに連れ去ります。Bも喜んでついていったんですよ。それを知らずに仕方なしの結婚になりそうなAにBがいなくなった経過をCが話すと納得して改めてCに求婚します。CはB=友人を裏切らなくなる状況の下、女友達の元彼氏の求婚を受けて2組めでたしめでたし、となるのです。Cが美人で偉い。彼女がじっと動かなかったのでこの2組はあるべき形に収まったのです。

意外とメルヘンチックな面白い映画ですよ。

 

「家宝(かほう)」 マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2002年 ポルトガル

 

パガニーニの「24の奇想曲」が印象的な映画です。そういえばこの局もパガニーニが悪魔に魂を売り渡して演奏することが出来たなんていわれましたね。私はこの最後の曲にヒントを得て出来たラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ピアノと管弦、とくにベルリンフィル、アバド指揮、プレトニエフのピアノがいいですね)ということで曲と映画のテーマが一致しているとあとで気づくんです。まあよくあるパターンですね。

 

雨の教会からスタート。何を意味するのかわからなかったですが、見終わると意味がわかります。

そして唐突に世間話のシーンが入り、固有名詞がどんどん出てきます。こんなの聞いたことあるはずがないので、まずここで躓きます。まあ見ていると意味がほぐれてくるんですが。これは監督のセンスがかなり疑わしい感じがします。ここまで観客を置いていってしまって良いのでしょうか?

あと景色の挿入がはいります。しかしこの景色の俯瞰の構図の挿入は映画全体で一定してます。さらに移動の汽車、バスの窓からの風景。これは画面展開とそのシーンがどこで行われたかの簡単な説明ですね。すごく気づくと単純なことがわかります。

次にまた意味わからず、お手伝いの女が「マリア様の絵」にお祈りしているシーンです。これは深い意味を持って映画の終盤で同じ構図が出てくるんです。また、たまたま、そのお祈りしている絵とまったく同じ構図で赤ちゃんを抱えた現実のシーンがダブります。その抱えた人はお手伝いの言うマリアのような人なんです。こういう意味もあるのでしょう。

するとこのお手伝いは司祭に相談に行くのです。まったくわからない展開ですが本当に後半まで我慢すると意味が開けます。また思うのですがこのような展開は見ているものに我慢を強いるものだと思うのです。あまりよくないと思うのですが・・・。

家の若い主Aとお手伝いの子供Bといかがわしい女Cさらに純朴な少女Dがとりあえず出てきます。こうするとAに悪影響をBとCが与えていると司祭に相談に来ているのです。そしてAは体も心も弱い、Bは青い雄牛と呼ばれるくらいの体力だけで頭が悪いやつです。Cが旧家に入ってきてよくないという関係です。実際は犯罪にまで手を出すようになるのですが。

そこで司祭の提案どおりに食事会を開いてBとCの陰謀を暴こうとするのです。Aに気をつけてもらう意味(注意を促す)が強かったのでしょう。ここでDも参加するのですが、事前に純朴なこの女性を推薦したのがお手伝いなんです。(このことはすごく深い意味があります、要注意。)しかし、Dは事前にBの求婚を受けていたにもかかわらず、さらにBを好きなのにもかかわらず断ります。このこと(Dの気持ちの中で、貧しさからの脱出、大穴をしとめた=結婚)は一貫していて、途中結婚後も、離婚しておかしくないときに「善人でお金持ちの人となぜ離婚しなければならないのか?」とまでいうのです。冷静に考えると、私がDを純朴といったのはお手伝いの言葉を信じただけです。

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