実際に聖母教会で結婚式を挙げます。Dの父親は娘がいなくなる悲しみをカジノで過ごします。この父親はギャンブルで破産同然になっているのです。娘の安定志向もこの辺に起因すると思います。このあとの親族だけの食事会はかなり危ないシーンで、すでにDが魔女のように見えてきます。Dの母が一番Dのこの後の行動をしめすような的確なことを言ってます。ここでCとDが張り合うのですが、Cは慈善の仮面をつけただけの問題指輪のみの女、Dは人生がギャンブルのつもりと言い合います。まあどちらが正しいのかは最後までわかりません。しかしDは大穴という表現からギャンブルと同じだったでしょう。ちなみのこの二人の女役の女優は当然美人です。「金の馬具でも馬は調教できぬ」ということですが、お金は状況を変化させる効果があることも事実です。この辺(お金とお金に執着するD)にしか物語のテーマは離れていかないのですが、ここに気づくのはかなりあとのほうでです。実際私もかなり後までDは素直でやさしい女だと思っておりました。
そして、この4人がイタリア旅行に行ってしまうので話がわかりにくくなります。この旅行は実はブラックボックスで映画のあとにかなり自由に考えることが出来る余地のある時間となります。私はのちにBをしてAの子供をCが身ごもったのか?というせりふから考えてここでAとCは肉体関係があると思います。ここでもDは一人先に帰ってくるのです。
「病気そのものは治療が出来るが置かれた状況により不治の病になる」ような状態に4人の関係がなっていきます。犯罪に手を出していきます。そんな中、母が死んで葬式。
それと同時期に警察の手入れ。Dはものすごく怒ります。良家に嫁いできたはずなんですから。そこで昔から知り合いで好きあっていたBがDにあまりかかわりを持つなと、忠告に来てくれます。Bはもう覚悟を決めたのでしょう。もしこの家に残ったら君の負けだと教えてくれるのです。まさに人生はルーレットですね。心は優しいのだから、と思うのですがなんとDは「やさしさ」なんて「単なる礼儀の問題」というのです。礼儀を守っていれば傍目にはやさしく見えるといういのです。いやー、パガニーニの音楽がこんなところで効いてくるとは。それはDの本質の恐ろしさを表現した音楽だったのです。
A,B,Cはどんどん落ちていき、心の弱いAは自殺、Bは自首、Cは国外でどうにか生活しています。このAの葬式のときにDはAすなわち自分の夫だったひとがお手伝いの子供だったと知ります。すなわちAとBは兄弟だったのです。それでAはこの家の正当な当主ではなかったのです。それをマリア様の前でお祈りしているお手伝いの姿を見てその告白を聞いてしまったのです。
そして最後の弁護士とのシーンでBについて「女性の奴隷、快楽と豊かさの中にしか居場所を見つけられなかった」といい、Aについて「うそとみせかけと裏切りに囲まれていた」というのです。そして弁護士の求婚に笑って終わるのです。この笑いの恐ろしさはパガニーニの音楽にも負けません。ぞーーとしました。
「仮面の中のアリア」 ジェラール・コルビオ監督 1988年 ベルギー
引退リサイタルのアンコールのシーンからスタート。結局はここから戦いの第2幕が始まっていたのでした。バリトン歌手(ホセ・ヴァン・ダム)がアリア合戦を繰り広げるという事前の知識から、これはないよな、と思って拍子抜けはしました。それを見ていた、昔アリア合戦で負けた実業界の金持ちは溜飲が下がるのですが次なる戦いにまさか負けるとは思ってもいなかったという始まりです。
そう、「神曲」なんか見たあとはこういう単純なのが良いです。もう結論書き終わりましたモン。まあ一人の女の生徒について教えるのですが、その生徒は先生に淡い恋をしているのです。(美しい生徒役はソフィーの役でアンヌ・ルーセル、最後の椿姫のアリアは演技がなっていないです。笑い、あの声はあの体勢からは出ません。)当然先生も美人だと思っているのですよ。しかし先生は拒んでいて、ソフィーにもそのやさしさが通じるのです。そんななかたまたま街で一見ですが気に入る男を拾ってきて(これはピンと来るものがあったのでしょう)教えはじめるのです。簡単な話、男も生活に困らないので教えてもらうのです。
その教えは「音楽に惹かれて、身を任せるのだ」というもので周りのものが見えなくなるくらい音楽の中に入り込めということです。特訓とか練習風景は90分ちょっとの映画なのであまりでてきません。でも数年はかかってますよ。その中で「正しい判断」をできるような適切なアドバイスがなされたのです。さらに、愛のもつ力を教えてもらったはずです。そして、愛が音楽にいかに彩り、深みを与えるかを教えられたのです。
で、弟子の一騎打ちの日がきます。たいした緊張感はないんです、愛しあったりしている余裕があったのですが相手の歌を聞かされるという策略に引っかかり(なぜか?それは声が似ていたという単なる事実からです)自分を失いかけるのですが、練習ばかりではない情感の経験もつまされた2人は見事相手に勝ってしまうのです。単純な話です。あとから思うと、人前で歌わないということも音楽に浸った環境ということで良かったのだと思います。さらに対戦相手はすべて、テノールにしてもその金持ちが一緒についていましたし、ソプラノにしてもまわりは女に囲まれていたということで、愛を知らない環境だったともいえます。愛の勝利というパターンの映画ですね。