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で題名なんですが、チンピラたちも博多から出てきた貧乏人、その連中が金持ちのぼんぼんを通じて知り合い、恐喝などの関係になり、お互いを疑心案疑で見ていたところから複雑に絡まるだけの、底辺の人たちの話だったのです。刑事が底辺か?この映画では育った環境が悪かったということです。炭鉱がなくなったときなんですよね。この時代。

「醜聞スキャンダル」黒澤明監督 1950年

「芸術は人まねなんかではない」と絵を描いているときに見物人から、雲取山の色が違うといわれて若い画家(A)が言った言葉です。昨日の「ディンゴ」の中でもマイルス・デイビスが言ってました。それよりも冒頭のバイクで突っ走るところ「大脱走」のスティーブ・マックイーンみたいでかっこいいですよ。「オートバイが傍若無人なところが好きな理由らしい」。そこに自然に見せられたのか歌を歌いながら女性がひとりBとします。声楽家だとのこと。ABともに有名な人たちです。そのふたりが出会って仲良くしているところを追ってきたカメラマンに撮られてしまいます。

「記事なんて少しいい加減でも、活字を入れさえすれば世間は信用するよ」現代の偶像は写真板と活字だとのこと。ライターがびびっているのに「男女関係のいきさつはひとつしかないよ、細かいところは違ってもいい」と編集長です。さらに「上品ぶっている連中はプライドが高くて告訴なんてしないよ、気概の高い軽蔑で済ませてしまうよ」とまで言います。そしてAが編集部に乗り込んで編集長を殴ってしまったからこじれてしまいました。

編集長にも理が出来てしまいました。そのことについてAはまったく抗議しますが、Bは沈黙のまま。Bをたずねると「相手にしないほうがいい」という母親。さらにはAの「僕たちが正しいことがわかっていて何で戦わないのです」ということばに目の演技。Bがひそかに好感を持ってしまったことは事実ということらしい。

「時々無分別になるのは人間らしくていい」「いつも分別ついているようなやつは安っぽくていかん」と訪ねてきた弁護士が言います。この弁護士の娘役かわいいですよ。あとAのモデルやっている人も。当然、Bも。黒澤監督の映画でこれだけ美しい人が出てくる映画は少ないですよ。モデルとAが作品「雲取山」とスキャンダルの話でからかい半分でカフェで盛り上がるシーンはめちゃくちゃいいシーンです。

しかし弁護士が編集長に買収されてしまいます。Bが裁判に裁判に加わらないし、どうなるのか一応、観客を心配させます。

AもBに好意はあります。なぜなら「雲取山」を誰にも売らないのです。Bは個展をたずねてこの絵を売ってほしいといいます。Bにもいい思い出なんですね。

弁護士は買収されているので法廷で機能しません。それで世間、法曹界から非難が集まるのですがAだけはヒューマニズムの塊で最後まで信じた人を信じきります。それはあのかわいい娘が父親を信じられなくなったときも信じてやってくれというような言葉で象徴されます。黒澤監督は常にこのヒューマニズムを持った監督です。そしてそれを踏みにじるものを憎むというスタンスを持ち続けた監督です。

しかしここというところで、弁護士は弱みがあるので黙ってしまい、不利に展開します。そんな中最終弁論を待たずに娘が死にます。さて弁護士は?まあ結果はわかるでしょう?

Aの比喩いわく「勝利より私たちは星が生まれるところを見たんだ、その感激に比べれば勝利なんて小さい」これが黒澤監督のスタンスです。

あらまあ、娘役桂木洋子だとのこと。若いときは美人ですね。ついでにモデルは千石則子です。

「傷跡」(BLIZNA) KIESLOWSKI監督 1976年作品主人公は工場を建設する担当の監督官でいわゆる役人です。工場を林野を切り開いて建設するということは環境破壊を伴い、市民の生活の場の破壊をも意味するのです。一方、市民の雇用の確保も重要でその狭間にさいなまれた男の苦悩をうまく描いております。「真実(環境破壊)と信念(雇用確保と共に快適な住空間の創造)が違ってしまった場合」の官僚からのプレッシャーと住民、市民の苛立ちや弾劾がこの主人公を追い込んでいくのですね。そして「自分をおろかな人間だと思う」と辞任を申し出るのですが認められず、最後まで責任を取れと言われます。この工場を作る過程や工員との折衝など、やけに生々しく、1976年だから再現できる東欧独特の雰囲気だな、今では再現するにもここまでリアルに出来ないだろうと思って、時代性を感じていたのですが、終って解説を見ると、この映画はドキュメンタリーと映画の結合だったのです。ドキュメンタリーはこの監督によるものではないのですが、そのドキュメンタリーに隠された、担当役人の(主人公の)気持ちの揺らぎ、部下の裏切りなどをドラマとして脚色して、つなぎ合わせていたのです。やけにワレサ議長のグズニスク造船所でしたっけ、「連帯」が組織されたころの雰囲気がそのまま画像として映し出されているのでドキュメンタリーの部分があると知って納得いたしました。ちょっとアンジェイ・ワイダ監督の映画のテイストも味わえます。「傷跡」というのは具体的に環境破壊もあるのですが、実は主人公は工場ができる前ののどかな景色、住民の生活が好きだったのです。ゆえにその生活を壊してしまった自分の判断と責任に対する心の傷でもあるのです。最後、解任されて一人犬とじゃれているシーンはこの主人公の気持ちが充分に表現されていてうまいドラマの方の幕がおりたと思いました。こういう書き方をするとつまらなそうですが、人間のエゴ、人間の判断の限界、官僚制の弊害などがうまく一人の男の心情を絡めて表現されていて観ているとあっという間に時間が過ぎていきますよ。

 

「女王蜂(じょうおうばち)」 市川昆監督 1978年

 

はじめに仲代達也氏のあまりにも無謀な若作りや、安っぽいセットなどで横溝映画は話題作ほどだめだなあ、と思って観ておりました。途中までもあまり迫力は感じないですし、話をじっくりと見ていたくらいです。ただ中井貴恵さんをきれいに撮ろうという意図はカットの随所に感じられました。あとは脇役が良いので、主役級なのに数分しか出ないんだなあ、とか関係ないことを考えてもいました。

ただ、さすがにロケの風景はきれいです。いつも思うのですが日本は変わりすぎているのでこのように20数年前の映画でも風景は貴重な資料となるのですね。

そして、能登のシーンが出てくるのですがこのころからぐっと深みを増して、さらに華族との関係について知らされるあたりで私もぐっと映画に引き込まれました。この辺は原作も脚本もいいのでしょう。そして最後の犯人の暴露についてみんなが集まったところが本当にいいですね。俳優がそろっているといえばそろってます。ここだけでも充分でしたが実はこのあとに犯人になった人の心情が手紙で明かされるのですが、このシーンは本当に愛情と優しさのこもった人の思いやりのある行動で一気に感動に導かれました。このときの俳優、演出、構図はすべてよいです。そして、結論として、どういう生き方を女王蜂が選択したか、については、あとで等々力警部も言っているようにあれでよかったのだと思いますし、まさか犯人解明のあとにこのようなドラマが待っているとは思わなかったので、実に感動したしました。

なんというか、全体とするとちょっと安っぽいのであまり書くことはないのですが、とにかく主役級の役者に質問するシーンはいい俳優たちですのでばっちりいい写真が取れていて役者やのう、と思わずにはいられません。

気楽に楽しめた2時間数十分でした。長いはずですが長さは感じないのでテンポがいいのでしょう。映画というのは気楽さも大事だと思います。

「神曲(しんきょく)」 マノエル・ド・オリヴェイラ監督 1991年 ポルトガル=フランス

はじめ、のっけから裸でてきて唖然としましたが、(何の前知識なくみました)アダムとイブらしいしぐさで少しわかったのですが、冒頭の「精神を病んだ人の家」とあったその家の中にシーンが移ります。上の裸って女の方は「アブラハム渓谷」(同監督)の主役でしたのでびっくりしましたよ。それで家の中で「ラスコーリニコフ」と呼ばれる人物がいたので、これやばそう「罪と罰」(ドストエフスキー、昔読んだだけだよ、どうしよう)も絡むのかと、少し引き気味。そして、食事のシーンがあってそれがまさに最後の晩餐な訳ですよ。構図がそうですが、食事もワインとパンで、キリストというかそういう役の若者がワインとパンを分け与えるというしぐさで個別にはまじめな話をしているんですよ。ポイントは食卓の両端にアダムとイヴの男女が別れて座る配置ですね。あとででてくるんですがイヴの方は原罪を蛇の性にして聖テレサと言い張るんです。原罪を償った人間であるとね。アダムは追う訳ですが。しかしそんなことよりも、映画の中でまじめな議論ばかりしているんです。それでどういう展開になるのかと思っていると、本当に「罪と罰」しちゃうんですよ。老婆を殺すんです。観た家政婦も。この殺しのシーンはセットぽくで演劇がかって、かつ照明がうまいので気に入りました。このまま話が続くのではなくて、場面転換してキリスト教信者と反キリスト教の者との議論が続きます。「善とは」「悪とは」「幸福とは」そんなような議論ばかりで、見る前にシリアスな気持ちになっていないとついていけないな、と思ってしまうわけです。しかしDVDはたまるばかりですし、最後まで観ようとがんばるのです。キリスト教信者の言い分は「第五の福音書」を読め、となるんです。反キリスト教の者はわかりやすい反論をするのです。しかしね、最後まで観るとどっちが正しいかわからなくなるんですよ。後で意味を書きます。次のシーンでは新約聖書の「ラザロの話」を引用させるんです。内容をそのまま、娼婦となっている女に読ませるので前もって知らなくても大丈夫です。「復活とイエスをユダヤ人が信じた逸話が内容です。私は知りませんでした。このラザロの話をさせる男(ラスコーリニコフ)と娼婦はまた違うペアで、何かも意味があると思います。というより「罪と罰」の派生ペアですね。見ていないと何いっているかわからないと思いますが、「罪と罰」にでてくる名前がついて殺された老婆の知人だったりするのです。結局、神は何もしてくれない、自分で道を切り開くということなんですが、娼婦たる女の方が神の存在を信じています。この辺で2人組でいろいろな展開を見せながら神の存在とキリストの存在、人間の原罪などを描いているとわかってくるのですが、さてとどうまとめるのか興味が出始めました。音楽はピアノで冒頭からベートーベン、ショパン、シューマンなどを映画の中で弾くシーンがでてくるのですがまずここで感想を書くとシューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」から第4、5楽章が引用されるんですが、いい曲です。曲の名前覚えていた方がいいですね。「道化」=「人間」ぽい意味がかなりあると思いますよ。そして映画に戻るとピアノを弾く様を人間の技術だという反キリスト教徒がいい、さらに霊を殺したのは文字であると言い切ります。まあそうですね、と私もうなずき、キリスト教徒は何につけても「神の存在」と立ちはだかります。イエスだけなのか、または人類すべて英知があるのか?ピアノを弾いている演奏を写しながらこんな議論をしているんですよ。まじめなんじゃなくて皮肉とわかってきました。次には「奇跡」の話が出てくるんですが、ここで出てくる名前もまたぶったまげる、アリューシャです。こういう映画はロシアに作らせればいいと思うんですが、またドストエフスキーですね。「カラマーゾフの兄弟」のなかで誰かが作品として書いた逸話のようなものが引用されるんです。ですから今までに述べたような小説とか哲学、キリスト教の知識ないと理解しにくいというか不可能かもしれない敷居が高い映画かも。。。そして主が7歳の子を生き返らせた話を作り友人に聞かせるという2人の別のペアができるんです。しかし主は捕まるんですね。そして審問官には何もいわないのです。審問官は処刑の前に至って何か言うと期待しているのですが何もいわず、審問官にキスをするのです。審問官はキリストに出て行けといってキリストは立ち去るのですが。。2人の会話で象徴的なことがあるんですよ。それは、「今ほど人々が自由なときはない」(たぶん監督のメッセージ)しかし「それを認識していない」、うーーん良くわかるなあ。この辺になるとはまってますね。監督の持っていき方がうまいですよ。さらに「罪と罰」ペアに戻ると自首させようとするのですが、当然(小説からするとそうですからね)「殺したのは金が動機ではない」と言い張るんですよ。なかなか認めないです。そして懺悔しようと司祭を訪れると司祭は自殺しているんです。司祭の自殺という罪も提示しながら、ラスコーリニコフはこういう状況なら大声で「罪を告白」するんですね。動転して思考が停止状態になるんですね。この辺が笑えるところです。まったく演出上おかしくないですよ。ただ、監督の考えていることが読めるのと、原作を知っているので笑えるんです。そんなことをしているうちに冒頭のアダムとイヴのシーンがあったバルコニーに登場人物がまた終結してくるんですね。終りが近いです。そして先ほどはバルコニーから裸のアダムとイブを見たのですが今回はひざをついて身長を一緒に歩く背の低い女に合わせて円を描いて終わりなく歩いている2人を見るのです。ですから議論に終りがなかった、隠喩です。そして人々はピアノを弾くシーン(現実的尊敬に値する人間の情熱と技法)を観ながら散らばっていくのです。そしてピアニストが一人でピアノを弾いていると「カット」と映画が終るのです。この映画って何の映画が終ったのでしょうね?映画の中で映画が終ったはずです。ということは、まとめると、今まで観てきたのは、映画だったのか?その前にこの映画自体が映画的ではなく見る本のような形式なのです。言葉が多いので字幕は大きくて助かりますし、本を読んでいる感覚です。しかし私が自分で人物のイメージをすることは許されないのです。映像として人物がキャスティングされて固定されてますし、風景も所与の本というイメージですね。さらに舞台の上でも充分なくらいの演劇的な演技で完結されてしまう程度の狭い空間での出来事というか話の流れなのです。ですから映像として映し出されるものは強制的に私は受け入れますが、それ以外は、以外と登場人物の視線は曖昧ですので、どこに向けて何を見ているのかは自由に想像できるのです。そういう構成だと気づいたら、この作品がいとおしくなりました。なかなかいい作品ですよ。難しいとは思いますよ。しかし、映画の展開としてはおもしろい試みです。本当に最後のまとめ。キリスト以降2000年の間の人々すべてを「精神を病んだ人」としたのでしょう。そしてアダムとイヴの原罪は人間の罪とその意識の外にありそれを説明する基本概念なんですよね。それでアダムとイブは、すべての事象を説明できる基礎となるのですがアダムとイブは説明できないのです。この辺はゲーデルの不完全性定理みたいですね。それですから、登場人物のキリスト教信者(階段通りの人々、同監督の作品、でぜんぜんキャラクターが違う役やっていた人)は教義を4つの福音書でまかなえない部分を白紙の5つ目の福音書という形で説明不可能な部分の論理的矛盾を指摘されないようにサポートしているんですよ。ここいらあたりが深い内容です。「罪と罰」の引用は人間の行動様式を象徴したみたいですね。最後に反キリスト教徒のことば、「、、結局、永遠の回帰をするのだろう」 と 「神は死んだ」 もう一度いいますが最後のシーン、回りつづける人々。今回ある程度わかったので次観るときはこの辺を楽しんでみることができると思います。この映画の構造と作る意欲はすごいものがあると思います。ブラボー。

 

「仁義の墓場」深作欣二監督 昭和50年 東映

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