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「欲望の歯止めは?」と聞かれたらなんて答えますかね。「欲望は自由にさせたい」とは答えないと思いますがAはこう答えます。夢のシーンでそのまま「黒い馬(欲望の象徴)が夫と彼がクロスして放たれる夢」見ます。この辺は監督のよさ、そして下半身が麻痺している夫を笑うかのように顔をベールで隠して裸のダンスをして夫の呼び出しに答えます。夫はラグビーの地主なので名門ですよ。かなり良いシーンですよ。「身体は顔より人格全体を表現する」というのですよ。かなり真実ですし、すごいせりふですよ。そうです、私の人格を見て、ということなんです。それが、顔の上品さと違ってかなり魅力的な情熱のある体つきをしてます。多分、監督もキャスティングで体つきまではいって選んだのでしょう。とにかくAの姉がBに看護婦を雇いAを自由にさせようと提言します。このことが自由に羽ばたく、きっかけとなるのです。しかし衣装からアクセントからすべていいですね。

2「禁断の森で」

看護婦と夫はうまが合い、面白い話をしてます。「若い子はお金がほしい、そしてお金が入るとすぐに使う」「今は不景気だからみんな不平ばかり」なんて話してます。Aは森の美しさや鳥を育てることの楽しさに興味が引かれていきます。しかしBの方から接近したときに胸を触りに行きますと、なんとAは「抱いてほしい」と言ってしまいます。その場はすぐに自制して屋敷に戻ります。しかしAのベクトルは屋敷を出るようになってから外に森に向けられてしまいます。自由な空間です。そしてとうとう一線を越えたときのよそよそしさ、お互いに恥ずかしいのです、それとAの衣装のピンクいわゆる初々しさが見事なコントラストです。もうAもBもかなりお互いを意識してます。そして夫までが子供ができたなら、そして健康な正常な子供ならこの家を継がせる、とまで言うのです。そして、Bを真剣に愛したら、そのまま落ちていく恐怖と戦うAがいるのです。自制の効かない愛情だと自分でよく知っているのでしょう。

あとは第3部へと続き。

 

「チャタレイ夫人の恋人2」 ケン・ラッセル監督 1993年 英国

第3部「愛の歓び」

だんだん、身分の差がいらだたしさを演出します。まあどちらも夫、妻がいる身なのでダブル不倫ですし。でも「森の中では俺のものと」誓わせるのです。その誓い。釘を打って一人ずつ折り、二人でクロスさせるのです。こういう誓いの方法は良いですね。日本じゃ、丑三つ時の呪いですが。そこで侍女も「子供たちは去るけど、一度男に抱かれた感触は永遠に忘れない」と23年前に死んだ夫の話しなんかするのでもう焼けぼっくりに火がついた感じです。愛の形というのはこうなんですよね、という見本みたいです。たとえば、使用人の森の小屋でも満足する。使用人が用意した食事をA(レディチャタレイ)が食べないと自分も要らないという配慮。会った瞬間に抱き合う。愛というのはこういうものです。ここで疑問ですがAは夫となぜ結婚したのでしょう?政略結婚だったのでしょうか?とにかく常に感じるのですが、Aがダイアナ妃と重なって見えることです。そしてとうとう一晩を一緒に過ごしてしまいました。この後はもう検討つくところまで行くしかないですね。このAはバネッサ・レッドグループの娘が演じてます。この人からは想像できないくらい肉感的な体をしてます。雨宿りで一晩過ごした森の小屋で、雨の中二人が裸で森の中走り回るとき、愛の楽しさが満ち溢れています。出会うべくして出会った二人なのですが、あとはお互い無理を承知で困難を乗り切るだけの覚悟があるかどうかです。当然、夫は夜帰ってこなかったので心配して怒ります。しかし侍従はいいこと言います。「人の心は貧富の差とは関係ない」。姉は「生活のつながりが必要だわ」といいます。ある程度財産が必要だということでしょう。あれだけ自由奔放な姉も結局は相手を制限しているんです。しかし妹は子供ができ覚悟はできているんです。愛が一番なんていいですねえ。

第4部「愛に燃えて」

バカンスでシュールレアリズムの話をしてます。管ね。表面化の下の見えない現実、今はもう明らかな表現ができるけど、まだ必要なんでしょうか。確かに隠しているときはこの議論は必要ですが、オープンになりすぎるとかえってまともに議論しているよ、この人たち、となってしまいます。ここでも姉は止めます。愛は重要ですが、「生活が根本的に違う」「命令される側とする側」ということです。確かに日本でもある程度意識されることです。私などはもうお客様商売ですので、何もないのですが、やはり生活が安定していないとだめというのはあるみたいですよ。Bはラグビー邸を辞めるといいます。隠れる気ですね。自ら身を引く。いいことです。

しかし愛が続くきっかけは女性の愛情の深さです。それが今回はあるのです。ここで男は判断できなければ、愛情は得られないでしょう。しかしBが村でつまはじきになり、隣村の炭鉱に仕事を探しに行ったと聞いて追いかけていくAはもう「嵐が丘」のキャサリンなみです。映画では夫が侍従に「ジェーン・エア」を読んでもらうシーンがあるのですが意味あるのでしょうか。プルーストについては夫とAは意見が分かれて、Aは精神的な人で肉体的直情的でないというような批判をします。夫に少しマゾがこのあたりから入ってきます。そしてABの間には信じあう「愛」しかないのです。これだけがあれば十分かもしれませんが、不安ですよね。結果突っ走るのですが、お互いに不倫だったことが一番の問題だったんではないでしょうか?「嵐が丘」の愛にはヒースクリフの無償の愛がありました。キャサリンが結婚していてもキャサリン目当てにヒースクリフはその娘で補うこともできました。この小説はどの映画もだめなのでこうやって書くしかないですね。この映画では子供ができたとき、現代のマリアだ、私は現代のヨゼフだと喜ぶ夫がいるのです。性格的にいい人ですがどうしても合わないのでしょう。

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