北京のコンクールに出ますが、寄付の額で優勝者が出るという始末。そして北京の市民でないと入学できないという状態でABに壁が襲いかかります。それにもめげずに入学させるという情熱のA.それに応えるB.ただそれだけの話です。あとは映像がきれいに決まるか、どんなエピソードを入れたかでしょう。教える教師がいい加減で、と本当にありきたりの展開で安心感があるのか落ち着いてみることが出来ます。あまりにもオーソドックスすぎる内容に拒絶感が生じる人もいるでしょう。ついでに、これは私の偏見かもしれませんが、この映画にも携帯電話が良く出てくるのですが、携帯電話はアジアの人間のほうが良く使うような気がします。うまく利用方法を確立すれば、北欧のような競争力がアジアにも付くと思うのですが。
あと近くに住んでいる女もアクセントにはなってます。物語の展開ではクレッセントですか。そして音楽を通してこの人も幸せになっていく。教師はアダージョみたいな感じです。この人も幸せになっていく。Aは転調かな。笑い。
Aは教師が教えることはないというのに、ほかの教師がいいと思うと変えようとするし、親ばかなんです。しかし田舎に出稼ぎに行くといったとき何か嫌なものは感じました。そして教師の「捨て子」仮説。言ってはいけない事だと、聞いていて背筋が寒くなったことを覚えております。しかしね、あの「5万元」をめぐってのAと女のやりとりは、なにかほっとする、実に涙が出てくるやり取りです。貧乏を経験するとわかる、思いやりをお互いに持っているのです。この辺の、捨て身の相手を思いやる考えは私は好きですね。
最後は予想しない展開になりましたが、商店街ということでは北京がすごく活気があるように映ったのは驚きました。そんなことはどうでもいいのですが、Bもまた捨て身になりましたね。正直に将来を捨てても自分を捨てなかった連中、女とはじめの教師がその場にいて親子の対面を祝福したのはすごくいいことです。
演歌というと馬鹿にされがちですが、その演歌の魅力がある映画だと思います。ストレートに真実を描いて照れていない部分が好きですね。
2003 11/23「バーディ」(Birdy) アラン・パーカー監督ひょんなことから生まれる友情が一生を左右するとは、ねえ。一人は現実逃避的で内向的な若者です。彼は生き物、特に鳥が好きで育て、鳥との交流を好む変わった嗜好がある男なんですね。なぜかというと鳥は離すと飛んでいく、その鳥(鳩)のようになりたい、自分も好きなところに行きたいと心のどこかで思っているんですよ。それで鳩のことには夢中で馬鹿みたいに飛んだり跳ねたりできるんですよ。もう一人はレスリングが好きな男で、たまたま野球のボールが上の男の家によく打ち込まれるから、気になっていたのと、弟がナイフを盗まれたと嘘を言うところから、謝り知り合いになっていくんですね。この小さなきっかけが人生を左右することになるんです。二人はそれほど仲が良いという訳ではないのですが、鳥を好きな男(マシュ・モディン)があまりに鳥に夢中になるあまり馬鹿げたことをしそれに付き合っているうちに、馬鹿げたことの楽しさみたいなことを覚えていくんです。体で覚えてますねきっと。この友人役をニコラス・ケイジが扮するのですが二人とも役者はいいです。バーディはいつのまにか夢の中で空を飛ぶようになり鳥の視点で物を見ることができるという感情と夢(人間としての意識を鳥の目の位置で見るということ)がリンクしてくるんです。ちょうどそのころ二人とも別々にベトナム戦争に巻き込まれていくのですが、その戦争では二人とも悲惨な目に会います。この映画が若干反戦としてのテーマがあるといえるのでしょうが(映画の中で、「昔の戦争は英雄がいた、おれ達はカモだったんだ」という台詞に象徴されます)、中心は人間の孤独と友情、社会性の意義です。戦争でバーディの方は前線で行方不明でかすかな記憶として空を飛ぶ人間が作った爆撃機によって鳥や人間が死んでいく様をまじまじと見せ付けられていくのですね。そして何も話さないかごの鳥となっていきます、あたかもいじめられて飼い主に裏切られた小鳥のように不信感いっぱいな態度ですね。ニコラスケイジのほうは体中負傷して顔は包帯だらけ、生きる望みもなくなりつつあるのです。そして、バ−ディの精神医学の治療として昔の友人として自らも傷ついたニコラスケイジは病院に呼ばれていくのです。そこで昔を思い出しつつ、楽しかった思い出、今の自分の自信のない状況などを独り言のようにバーディに聞かせるのです。聞かせるというか一人勝手にしゃべるんですね。自ら自分自身の治療も行なっている訳です。そうして、本音を言えるようになるあたりからバーディも少しづつ反応するようになるのです。ニコラスケイジも自らを解放して飛び立ったのです。そうするとバーディももう一度飛ぼうと思うのでしょう、意識がはっきりして病院から飛び出していくという感じの話です。いわゆる友情はかけがいのないものでした。そして、何かから自分をとき放つことも大事なことなんでしょう。音楽はピーター・ガブリエル。いい音楽です。この終りのシーンは昔みたときも確かに感動すると共に次のことを思い浮かべました。この監督の場合は「ミッドナイト・エキスプレス」も同じような終わり方ですね、(これも同時に購入してます)やミロス・フォアマンの「カッコーの巣の上で」など以外と近い時期に、いい映画がたくさん作られたような気がします。
「ヒポクラテスたち」 大森一樹監督 1980年
はじめからヒポクラテスの説明が入ってくれて助かりました。実はあまり知りませんでした。ソクラテスは知っているのですが、ソフォクレスも知っているんですが似て非なる方です。そして懐かしい「分裂病の少女の手記」を読んでいる学生。これはもしかしてまだもっているかもしれない。文章が実存について本当に語ってますよね。聞いていて懐かしさがこみ上げてきます。もうちょっと表面的なものが「十七歳のカルテ」ですね。
そして舞台は京都の医大。学生としてのモラトリアム期間の映画です。いろいろと悩んでいる姿だけですが、医者になる人間がこれではというシーンが多いですよ。そしてかなりのテーマが産婦人科。避妊がどうのとか、確かに女性に対してかなり憧れの部分が強い年頃ですがなんか寂しいです。最近実体験として良い医者がいないので、特に外科、脳外科には進んでもらいたいです。「近代医学が患者の犠牲の下発展してきた歴史に目をつぶってはいけないと思う」そのとおりです。それに度胸。血を見るのがいやな医学生がいたのですが(知り合い)血を見なくてすむのは耳鼻咽喉科か精神科といってました。どっちになったんでしょうね。
映画に戻って小児科の先生の役って手塚治虫さんのような気がします。私の見た感じですが。映画に出るわけないですよね。リハビリの患者は鈴木清順監督のような気がするし、何か知っている顔がそこいら中にに出てきます。
しかし産婦人科に戻って「女の一生」初潮に始まり閉経に終わる3期間に分けられる。うーーん、怖い言葉です。これじゃプレッシャーですよ。映画でも堕胎したいという若い子がでてくるんですが大きな病院では堕胎はしないのでしょうか。そんなせりふが出てきますが、まったく知りませんでした。
劇中劇は「勝手にしやがれ」みたいですし、時代祭りのバイトなどのシーンもあり、何か旅行している気分もあって良いですね。
そして実習もだんだん、実用的なところに入ってきます。彼らは若いので、そのもやもやしたものを持っているのですよ、それでも人の命のかかわることをしなければならないし、白衣着ているだけで医者と見られるんです。その責任は大きいですよ。どこかでその責任を無意識に感じていると思います。私などは手術のシーンを見て、今なら医者になれると思ったくらいですが、勉強がついていきません。
映画の中で言うことが良い「見ているだけであんなに疲れるんだから手術すると疲れるだろうなあ」と。こういうのが医者になるんですよ。また人間の病気の過半数は治療方法がわかっていないらしい。勉強だけではだめということ。
そして「森永ヒ素ミルク中毒事件」のディスカッションがでてきます。なんともいえない、水俣病と公害とともに企業責任の問われる問題です。
つぎに主人公の医大生の彼女が中絶手術の後遺症みたいになり同級生の親の病院に連れ込みます。そこでは個人病院のつらさを聞かされます。こうやって、矛盾とつらさをどんどん刷り込まれていくのです。そして医者になるのでしょうが、なれない人も出てきますよね。人間の命は貴賎なく重いのです。このことがわかるまで私もかなり時間がかかりました。そしてどんなときでも離れないでそばにいることができることが愛情だと本当に若いときはわかりませんでした。しかし彼女は田舎に戻って入院します。そして二度と京都に戻ってこなかったらしい。別れ際の手紙も、必死に何かを求めているのですが、主人公はそれを言えないのです。「愛している、一緒になろう」でいいんですがねえ。しかし、田舎に引っ込むということは田舎の生活に戻るということ、都会は異常だから都会から離れたらもう戻れない感じがするというのはわかります。私も田舎に引っ込むいのはやめようと思います。