「病院坂の首繰りの家」 1979年 市川昆監督
ひょんなことから「金田一シリーズの東宝作品のDVDのBOX-金田一耕介の事件厘」を予約しておりまして忘れたころに届きました。中でも原作も読んでいないこの作品から見はじめました。とにかく、冒頭から横溝正史ご夫妻が出まくって、びっくりしますし、すぐに中井貴恵、草刈正雄、小沢栄太郎、などが登場して懐かしさいっぱいです。しばらくYしてタイトルが出るんですが、そこまでかなり間があり、タイトルにトランペット(ジャズ)がかぶり面白いスタートです。そして桜田淳子が出てくるあたりでもうはまってしまいました。次にあおい輝彦が出てくるんですがこのあたりで、登場人物に主題の音楽がついていることに気がつきました。基本的にシンセサイザーを使っているのですが(音楽担当は田辺信一)桜田淳子にはフルートとかあおい輝彦にはチェロとか佐久間良子にはガットギターのようにエレキギターを使ったりして人物特定を鮮明にしておりました。そしてはじまったばかりですが結婚の写真を撮るあたりでもう、メロメロになってしまいました。桜田淳子の視線の定まらない顔、最高ですね。この人演技うまかったんですね。もうこのあたりから観ていて気が楽というか楽しい気持ちになりました。写真が出来たあたりから金田一が絡むのですがだんだん、笑えるような展開で楽しいなあといい気持ちで観ることができるようになってきましたよ。これじゃ、大林監督の「金田一耕介の冒険」とそんなに変わらない、喜劇に近いかなと思えるような展開です。あそこまでひどくないですが、シリアスなんですが、楽しくはじまります。きめの台詞は加藤さんはじめ、皆さんはずしませんし、型にはまって観ているほうは気楽です。しかし横溝作品にありがちな人間関係の複雑さは一回ではまったくわからないで、私も大体大筋を理解しただけでした。ポイントをわかったので見終わっても気になりません。俳優として特記したいのは桜田淳子とピーター共に存在感がありました。まあいろいろな人物の入れ替えが起こるのですが感想として書いても仕方ないですし感じたことを書きますと、役者はあまり主役級、脇役もふくめて見た目、かっこいい、美人などが多いなあという感想です。映画としてこういう事はすごく大事なことだと思います。あとはセットを多用しておりますがロケのシーンが(一応舞台は吉野、ルーツ探しで南部藩の岩手の水沢、北上)美しいです。今の日本はすぐに風景が変わるのでこの映画25年位前ですがすでに貴重なシーンがあると思います。映画化はこれが一番最後らしいのですが、この手の映画は内容以外と忘れてしまいがちです。「女王蜂」なんかまったく覚えていないです。ですからまた観るのを楽しみにしておりますが、気楽に時間を感じないで観ることができる作品ですね。最後にかけてはかなりいい内容の展開がありますし、カット割はまだ市川監督冴えてます。実は市川監督は大映時代の方が好きなのですが。。。一番の収穫は桜田淳子ですね。これが一番つまらないといわれているのであとの作品を見るのが楽しみです。単品発売がないらしいので人には勧めにくいです。
「光る眼」 1995年 ジョン・カーペンター監督
ちょっと固い映画が続きましたので、別にやわらかくはないと思いますが、ホラーを観てみました。単独でこの映画を見ると怖いな、と思うのですが今回は、それまでの映画が映画でしたので、リラックスして楽しめました。「呪われた村」という本が原作で何度か映画化されております。原作を読むと映画が物足りなく感じることがあるのですが、その辺は90分ちょっとにまとめているし、仕方ないことでしょう。ただ、はっきり言えるのは、はじめの受胎の描写がわかりにくいということです。はじめに観たときはこの映画で充分でしたが、そのあと原作読んでみると何か違うんですよ。この映画の方が母の愛情と落ちこぼれの侵略者の描写にこだわった点、さらには少し宗教がかった部分があると思います。処女の女の子も懐妊しているので、前の「神曲」に関係しますがイヴの原罪は犯していないんですよ。ではなにがイブの代わりか?それが村全体をベールで覆われるのですがその感じが映画では表現されていないんですよ。そのベールの中で受胎しているんですよ。ですから侵略者は人間の神の代わりをなすんですよ、このことが深い底辺に原作では流れております。今の人間に対して、侵略者が神のごとくになって問題提起するんですよ。人間のほうでいろいろと考えてくれるんですね。まったくオリヴェイラの「神曲」そのものですね。この映画でも「神は言っている、我々に(神)に似せて人間を作ろう」と。そしてアダムとイブになるペアが子供の中でも出来ているんですね。私なら単独生殖できるように作りますが、移住する文明に合わせて支配するのが目的ですからこの方が怖さはありますね。まあ、気楽にこの映画に話を戻すと、なんと言ってもスーパーマンが出ているんですよ(クリストファー・リーヴですよ)、懐かしいですね。しかし、このキャスティングわざとらしいですね。神のごとくの侵略者に戦いを挑むのがスーパーマンだとは。そして確か記憶ではこの映画のあと事故にあったと思います。やはり呪われたのかなあ。この映画に関しては、あとはなんといってもテンポがいいということですね。もともと成長が早い子供達でしたから、この監督独特のテンポで成長していきます。その辺はもうグイグイと観客を引き込む力があります。あと私の感覚ですが、出ている子供達がいやに気持ち悪いんですね。演技とメイクなんでしょうが、よくもこのような子供集めたなあと思います。そしてリーダー格の子供が「マーラ」というんですよ。暗黒の帝王ですね。ではクリストファー・リーヴはスーパーマンではなくてブッダなのか。笑い全体とすると光る眼の子供達全員が行進したり、集団で行動するときの音楽は少し宗教音楽っぽく出来ていて充分「神曲」を意識できますし、眼が光るときの効果音が怖く出来ているのでこの辺がホラーたる要素かと思います。まあお口直しには成功でした。
「必殺仕掛人」渡邊祐介監督 1973年
はじめてみます。必殺シリーズは好きなのですが、この監督の名前も知りませんでした。凄い恥ずかしいことのような気がします。
梅安さん(A、田宮二郎、役者の名前を書くときは印象に残った場合の時のみです、大体がその俳優でなければだめというのが少ないから記号で済ませるのです。私くらい役者より脚本、監督をかっている人間も少ないでしょう)。が標的が女ということで担当。始まり方が良いですね。この音楽は普遍みたいです。かっこいいですね。
「仕掛人が自分の仕掛を普請するのは墓石の下だけですよ」というせりふ、「大霊界」のあと見るとおかしくなりますよね。しかしセットでの撮影とわかっていながらぐいぐい見せる力のある映画です。そして今回は左内とともにふたりとも「仕掛人」は続けたくはないと思っているところがあるのです。町方同心に佐内が口利き料30両でのるかどうか迷います。凄いですよ、お金あれば、町方同心になれるんですかね?この時代に行ってなってみたいですよ、一度は。そういえばこの映画で知ったんですが梅安さんは藤枝の出身なんですね。また藤枝に行く時期です。あそこは楽しいですよ。帰りに鞠子で自然薯食べて帰ってくるんです。その小さいときに生き別れた妹がいるという話です。
ここでまったく話が変わりますが、ある仕掛を頼んだといって弟分と長男だけに言って死んでいく主人がいます。その弟分は音羽屋に確認に行く際に弟分が思うもっと悪いやつまで仕掛けてほしいというのです。これは今の映画ではなかなかないシーンです。あの人のため、恩のために自分の目で見た悪いやつを故人のために恩義とは言え、身銭切って仕掛を依頼するということはもうなくなりました。とりあえず不景気の性になってますが、何か違う、自分だけを慮る精神が日本人の中に急速に広がっているように思うのです。なんてことはこの映画でもないのです。笑い。この弟分も裏切るのです。江戸から変わらない体質なんですね。あとで裏切るシーンを見たときなんだ現代と同じジャン、と思いました。ともあれ、これの仕掛の対象は実は梅安の友人を殺したやつなんですね。この辺はうまく完結するように話ができてます。それ以上に考えていなかったことが設定されてます。この仕掛の相手とつるんでいる女、すなわち仕掛を頼んで死んでいった主人の奥さんが梅安のあの妹なんです。そして相当な悪。その相方を今まさに狙っているのが梅安という構図。良いですねえ。あとこの映画が何で良いのか気がつきました。ギターの音色で現代的な雰囲気が出てますが、基本は三味線などが流れる歌舞伎みたいな映画なのです。せりふまわしも梅安は意外と歌舞伎調ですよ。歌舞伎では中村勘九郎さんがうまいんですよ。
そして実の妹も悪いやつですのでついでに殺してくれと依頼が入ります。そして梅安が。
しかし運悪くつかまります。「殺せ」と開き直るのですが依頼者は誰か?聞きたくて殺さない。今よりも仕掛人は強くないですね。こんなストーリー初めてです。妹が「銭持たないで女郎屋にあがったものは簀巻きにして川に投げ込むのが掟」と言ってそうします。こうされると助け甲斐があります。常にひとり梅安についているんですから。結局妹が命助けたようなもんです。
そして妹を殺すのですが、殺したときなにか妹のような気がするのです。
まあ殺し屋には平穏無事な人生なんてないんでしょう。最後にまた仕掛の依頼が入ってきます。忙しい、物騒な江戸時代です。まるで現代ですよ。しかし三味線の音とギターの音色が印象的な映画でした
「火まつり」 柳町光男監督 1986年
冒頭から「山の生活者」の生活描写です。いわゆる、山の神のもと、仕事をしているきこり達です。でもこの映画全体にですが西洋文化がこんな田舎にも浸透してきている様子がすぐに出てきます。ここでは青年がコロンをつけるシーンですね。(ほかにも鉄道のレール、これは勝浦と新宮がつながったの最近だったと思います。最近と言っても20から30年前ですが。これ記憶ですので信じないでください。また、はまちの養殖のシーンも西洋化というか、近代化の流れの象徴でしょう。さらに移動の生活雑貨販売車が来るんですが、漁師の奥さんが率先してフランスパンを買いに来るんですよ。このようにいたるところで西洋化近代化の象徴が出てきます)山の者は、普通はコロンではなくて、おこぜ、を持っていくんですよ。そうすると山の神様に好かれるんです。まあここでは街の女に好かれるためでしょうから仕方ないですね。(なぜ、オコゼか、これは映画とまったく関係ないですが、山の神様は女なので、自分より不細工なものを見ると喜ぶとか言われたりしてます。このことに関するシーンも実は後ででてきます。見ていて結構研究されているなあと驚きました)舞台となっているところはわかりにくいのですが、途中女が「新宮から船で来れば目と鼻の先なのに」という言葉がありましたので、那智から新宮にかけてのどこかでしょう。二木島らしいです。実際に那智とか行ってみるとわかると思いますが映画のように山のものと海のものが接近してます。那智の浜(きれいな浜ですよ)から那智の滝(飛瀧神社)まで歩くとわかりますが、かなり海から山へ変化します。そういえば途中、南方熊楠が研究していたいろりもありますよ。熊野古道の途中です。そうして、山のものの生活の中で獲物を取る仕掛けなんかあるんですよ。これはいいですね。榊使ってしまうんですが、おかしいと思ったらあとで、映画の中でも「山の神様に失礼なことをして、、、榊は神様の木だ」というようなシーンがあるのですがこのシーンは事実ですね。謝るために仕掛け作った若者は下半身を脱いで男根を山にさらすのです。これで女性たる山の神の気持ちが収まるというシーンです。わかりやすいシーンですが、まったく知らない人は何やっているのかわからないでしょうね。あと獲物の血を体に塗りつけるのもそうですね。できれば心臓をくりぬいて山の神にささげると良いのかもしれませんが、熊野ではそのような習慣はなかったのかもしれません。また山の仕事が暇な時はしし狩り、するのですが、犬(那智のいち)を使ってしし(いのしし)を追い込む狩の仕方は実は私も知りませんでした。その映像も出てくるので、貴重かと思います。酒をささげて、拍手を打って狩の豊漁を祈るシーンもあります。まあしし狩はいまでもやっていますし、以外と身近に鉄砲の音聞こえますよ。と言うと凄いようですが、実際熊野は近くにあって、まったく違う世界のような気がしてならないのです。本当に旅行するたびに思いますが大変なところです。映画の中でも随所に出てきますが、裸でいるということが自然なんですね。「オー・ド・ヴイ」で書いたように自然の中に人間の裸は溶け込めないのですが、自然と密接に関係している仕事をしている人は無意識に自然に同化しているんでしょう。さらに性のおおらかなところは、夜這いなどでも明らかですし。このおおらかさは共同体の中だけなんですよ。ですから海のものと山のものが交じることはないと思います。この映画のポイントとなるのは塞の神の位置でしょう、きっと。しかし映画で、すごく重要なことですが、山のものと海のものが親友なんですよ。そして山のものは昔かたぎ(「山の神様はおれの彼女だ」と言い切るのですよ)で、海のものは遊び好きですが仲がよく二人の距離感がたまらなくいいのです。親友というのはこういうものだよな、と思えますね。あと重要なことだと思うんですが、この二人を中心に稚児教育のような状況が生まれているのです。こういうことは重要なんですよね。人から人へ直接的に教え込まれることは忘れないんですよ。さらに男だけの世界ですので、山の神とも相性はいいのです。山の神のやきもちの様子は「森のざわめき」で映画の中では表現されてます。特に新宮から戻った女(山のもんの初恋の女)が現れてからひどくなるんですね。特に山のものの大将は自然を、神を、体で感じることができるので敏感になるのです。山のものは、この神=自然が海中公園で壊されるというのを無意識に感じているんだと思います。そんななか、養殖のハマチが油を撒かれて全滅するという事件が起こります。実際は、この映画の中で持ち上がっていた海中公園の建設の話と深く関係するのでしょうが、海と山の塞、境目が危なくなるんです。実際に目に見える道路などの境目ではないだけに事は重いですよ。その件の疑いが海中公園に反対していた山のものにかかるんです。しかし、本当は、山の気持ちよくわかるから反対していただけなんですよ。それで、うみのもんの親友と一緒に海神の神社の近くの聖域を泳いだり、裸になって男根を突き上げたりするのです。するとそのときから大漁続きになるんですよ。実際に映画の中で漁師の奥さん達が暇そうに余りもののイセエビばかり食べてました。おいしそうですよ。ここの辺の行動は、山のものは知っていて行なっているんですね。そして、山に仕事に行ったときに嵐になりそうになるんですそのとき仲間がみんな山から下りたのに、一人残るんですね。儀式に近いことをするのです。それは大木に抱かれて、男根をこすりあげるのです。これは実際に良くあることらしいですが、映像としても入っているので、ここでもかなり研究しているなあと思いました。そのなかで山からの水をいただき、奥深く入ろうとすると、山から入るな、という合図ももらえるんですね。危険ということです。ここのシーン、普通の人はわからないと思いますが、この嵐の中で山のものは、山=女とかなりの交流をしたのですよ。その山=女の気持ちを持って男の祭りである新宮のお灯祭りに参加します。大事なことが一つありまして、その前に初恋の女でバーの売春女がいるのですが、うまいこと金を作って新宮に戻ってスナック買い取っていたんですね。実家のあったところに逃げていたときには山のもんと肌の交流があったのですが、新宮では商売も絡んできて、山のものが遊びに行っても、女を所有できないんです。客として帰らなければ、次の日の仕事ができないので、山のものも帰るのですが、帰り際に「お灯祭りに来てね」と言われるんですね。ですから、山のものにとってお灯祭りは初恋の心に残る思い出と山の神の二人の女がかかっているのです。その女たちを背景に男として出て行っているんです。初恋の女に対しては純粋な気持ちと、山の神に対しては本当の恋人としてですね。ですからお灯祭りの参加者がもどかしくて仕方ないんです。そんな描写もでてきます。関係ないですが、新宮の神倉神社本当に良いところですのでぜひ一度はお出かけください。そういえば、映画の中で新宮のシーン、クリスマスでした。本当に似合わない風景でした。お灯祭りでけじめつけたんですが、海中公園の問題がとうとう家族で決定しなければならなくなったとき、季節は春、ということはお灯祭りから2ヶ月くらいですね、男は山の神が女でほかの家族もすべて女性だったのでいらないものとして海中公園にしようというのを無視して男に逆らうものとして全員殺します。子供まで殺したので(お灯祭りに参加したのにねえ、と思いましたが、直接の描写はないですよ)お家断絶ですね。最後に男としての責任をとるんですが、心臓を撃ちます。心臓を山の神にささげるのですね。自分が生贄で、山に神への捧げ者となったのです。心臓を切り抜いて捧げることは先ほども書きましたがそのとおり実行します。これはかなりいいシーンですよ。するとね、島に来ていた移動販売車とか金物師も去っていきます。いわゆるよそ者が去っていくということです。不吉な土地となったところで商売しても仕方ないですから。さらに人の影が映り(まあ写らなくても良いんですが)油がまた流れて魚が死ぬんですね。海のものたちはみんなで呆然とその油と魚の死骸を見つめます。そこに夕日が後光のように差し込んできて海に浮かぶ重油に光り、映画が終わります。まあこの島に魚は戻らないでしょう。守ってくれた人(山の神)の友達を殺したようなものですからねえ。まあ今ごろ気づいても遅かりし、、、この映画って普通の人は、わからないんじゃないでしょうか?私みたいに旅行ばかりしているとすぐにピンと来るんですが、結構難しいですね。しかしいい映像ではあることは間違いないです。映画としてはつまらないと思う人のほうが多いことでしょう。私はこの監督の山ノ神の考え方はわかりやすいと思います。そういえば、書き忘れましたが、境は山から海まで実はなかったんですね。ですから親友同士という二人が一番わかっていたんでしょう。自然を。「発狂する唇」 佐々木浩久監督 2000年