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とにかく二つの家庭が出てくるんですが、家政婦がともに尻たたきに協力的でモデルをやったりしています。これはお金稼ぎのためで必然からだと思うのです。しかし後から出てきますが、良家の奥様やお嬢様もそのモデルになるのです。よく考えるとこの動機は何なんでしょうね。(これが???)奥様のほうは医者の奥様ですが夫をまったく愛さず、その代わりにシャム双生児をもらいうけ、育てて、音楽教育をして満足しているという変わった性格の持ち主です。お嬢様のほうは父がやはりかなりかたぎの人なんですが尻たたきのモデルをやっていて、あとになってその写真を父親の体の体調が悪いときに見せられてそのまま父親がショックで息を引き取るのです。その死後、転機として父親から生前いい子だよと紹介された写真好きの男の子に裸で尻たたかれるシーンを撮影されます。お嬢様はなんでもないのですが、男の子はかなりショックでいつかこのような状態から助けてやると心に誓うのです。このお嬢様を好きになっていたんですよ。あとでこの二人まったく違う状態ですれ違うのですが気づかないままで終わります。

奥様とお嬢様はまったく違う家庭ですが奥様のほうは尻をたたかれる瞬間に初めて恋を覚えるのです。映像とするとこの初めて尻をたたかれるときの映像は奥様役は役者なんだと思っても、それまでつんとすました奥様だったのですごく違和感があります。最後には見世物小屋の連中に飼いなされその趣向(どんな趣向だか、よくわからないのですが、スケベな連中)のみんなが見ている前で裸で尻たたかれている映像を撮られているところを見世物として見られてもなんでもなくなります。

このような奥様やお嬢様が変化するのにキーとなる連中がいて、そのような事業を始めるのです。ちょうど写真が普及しはじめ映画ができ始めたときの時代です。媒体として欲望の表現を現実ち近い感じで一般に広めることができるのです。彼らは商売としてショーを始めます。そのショーはシャム双生児が歌を歌うものです。あとは上のような奥様の姿を見世物にするのです。そのシャム双生児の歌う歌がいいんです。ウリエフという人の「リンリンリン」という曲ですが、「月光を浴びて雪は銀色に輝く、トロイカは道を飛ぶように走る、リンリンリン鈴音が響く、この音この響きが私に語りかける、月の光の中まだ早い春に、覚えているか友よあの出会いの日を、君の若い声は鈴のように響いた、リンリンリン甘く愛を歌っていた」

そして、事業主はシャム双生児を引き止めるように、アルコール付けにしていくんです。少なくても片方の子が何かに依存性ができればもう一人も束縛できる関係にあるんですね。一人はアルコール中毒になり、ひとりはお嬢様と恋に落ちます。最終的には別れ離れになるんですがいい関係になります。その横でもう一人のシャム双生児のほうはアルコール飲みながら寝ているんです。こんな関係がいくつか形成されながら奥様は最後には奴隷のようになりますし、シャム双生児は片方がアルコールで酔い、倒れて打ち所が悪く死んでしまいます。お嬢様はどこかに出て行くのですが(子供のときからずっと見ていた蒸気機関車に乗りたかったのです)、そこでも、かつての恋人になりそうな男の子が映画監督として成功して街を闊歩しているのに、お嬢様は本当に近くで、ムチで打たれることを選びます。もうやめられないみたいですね。このムチ打ちとかシャム双生児のショーを企画していた男はすべてが崩れて、(シャム双生児も死んでしまったし)一人、レニングラードの川の上を流れる氷の上に立ちながら漂流していくところで映画が終わります。この映画は欲望の深淵をのぞかせてくれる映画だともいえます。内容は予想とは違いかなりまともです。一度は見てもいい映画だとは思います。とにかく映像のドキドキ感とクラシック音楽の調和さらに画面がセピア色で統一された感じが一体となって作品に格調高ささえ与えていると思います。

 

 

「本陣殺人事件」 高林陽一監督 1975年

最近、横溝作品と市川監督作品が続いて、かつ邦画ばかりです。しかしこの映画は気が楽に観ることが出来ました。映画ってこの気軽さも必要ですね。「いちげんさん」が変に映画っぽくなくて逆にこの作品が際立ちました。京都ではないけど、日本を表現していることでは格段の差があります。

家長の義務とその責任、さらには大きな家ということで知らずに甘やかされた精神構造と嫁ぐ嫁にもその責任を期待するということ、これはかなり難しいことでしょう。私は観てはいないのですが本で「写真版憂国」を持っているのですが、なんとなくこの映画と精神構造は似ているような気がします。国体か旧家かの違いが実は大きいのでしょうが。

冒頭、昔ながらの結婚式で始まります。家族結合ですから本当は大変なんですよね。しかし核家族化で親戚との交流も減り、こんな古いタイプの結婚式は私は参加したこともありませんし、親戚でもいません。家柄の力関係は、夫のほうは旧家で妻のほうはその小作人だったものがアメリカで成功した成り上がりの家系です。この家系を無視して結婚しようとした進歩的な夫はその反面、妻となるものにある課題がありました。純潔です。この課題が結婚が決定してから、すなわち夫になる男が心から妻となる女を好きになったあとで崩れるとどんなことが起こるのだろう、ということですね。当然、今の若い子にはほとんど当てはまりません。まあ好きになった気持ちを大事にしていくのでしょう。「甘え」の環境の中で潔癖主義者になった夫はそうは考えませんでした。「家」と「家長たる地位」と「男の女性への憧れ」がすべて揃ってしまったのです。こんな動機の事件だとは思いませんでした。途中で犯人はわかりましたが、動機がこのようなことだと知ったとき、そんなものかな、という気持ちでしたが、わかる気もしたのです。

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