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そして深みにはまっていくB。何気ないようでCはチャンスを狙っているのです。ちょうど同居している息子が外泊のとき狙います。Bもこのときに下心が爆発するのです。笑い。

そしてCを招待します。そこで起こる事実は、麻酔で動けなくされて、針を体中さして痛みをなくすようにしてから少しずつからだの足とか手とかを切り刻んでいくのです。もう感情は持っていないんです。復讐の気持ちが無意識的に刷り込まれているのですよ。ここがこの映画の見せ場です。

たまたま、息子が彼女と会えなくて帰ってきてびっくりの現場に出会い、そのままCと格闘してCは階段から落ちて倒れます。

この映画はじめのうちはどうしたんだ、と思いながら観るのですが後から怖さ急増します。いい作品だと思います。Bは少なくても片足は切られてしまったんですけどね。失ったものは大きかったという話でした。女の怖さはずば抜けてますね。

5/23

 

「ねじ式」石井輝男監督 1998年

これ、原作まったく知りませんし、つげさんという漫画家は名前は知っていますけど作風は知りません。そんな状態で見ると、冒頭からショックを受けます。「やめようかな」とか思いますよ。どこまで行っても画面いっぱいに「貧乏くささ」が蔓延してます。本当に見ている自分が情けなるくらいです。

まず主人公の漫画家(A)が女と同棲しているんですが生活を維持できないのと、女の浮気で少しナーバスになってます。見ている限り、どうでも良いようなことなんですけどね。

とにかくこのAのモノローグで進んでいきますが、なにか妄想をよくみるのです。その妄想のシーンがいろいろと映像で出てくるのですが、なんというのか、まあいい加減な世界です。演技するほうも大変だろうなと思うようなシーンが多いです。それでいてみていて面白いというわけでもないので、ゲテモノ趣味みたいな感じです。それでもスケベ専門の俳優とそうでもない俳優の境界はどこにあるのかわからなくなります。ジュリアンムーアのいう「ついているものはみんな同じだから裸になるのはいとわない」ということを実践しているかのような映画です。その中で印象深いシーンがありまして、房総の食堂で泊めてもらったとき、そこの女の子に手を出します。そして1年後同じ店を訪ねても店員になっているときの女の子は気がつきません。これは意外とわかるんです。できるだけ覚えているようにはするのですが、あんまり行かなくなったから行きにくいとか、覚えているだろうかとかお客様は考えるのですが、私の場合は意外と何にも考えていないですし、先日3年ぶりくらいのお客様に久しぶりです、と言ったとき、あとから「久しぶり」というのを通り過ぎているよな、と思ったモンです。やはり飲食とかは提供するものを作るのが精一杯なのです。これはなんとなくわかる気がしました。この女の子の役、きれいな人なんですが、また変なシーンがあるのです。はい。そんなことの羅列ですよ。「無量庵」だったかな、とか「天狗堂」とかおかしなところばかりです。何でこんなに変な人ばかりいるんだろうか、なにを描きたいのか、途中でわからなくなります。しかし途中、「母親探し」の主題が出てきます。傷をぱっくりと開けてまま金太郎を作っている母親に出会うのです。いいたい事はわかりますけど、ちょっとここまでが長すぎた。映画館で見た人飽きるんじゃないかな。この傷を止めるのが「ねじ」なんです。女医にとめてもらうんですが、女ということで良いんではないでしょうか。しかし女といえばはじめの同棲していた女はどうしたんでしょう?

最初と最後は人間の中の小宇宙の中の欲望の楽園でしょうが(ソドムとゴモラみたい)この欲望の吹き出しをとめたのがねじなんでしょう。ということで考えるとねじでとめるまで、欲望の中を彷徨していたことになりますね。そう思うとわかりやすい映画です。しかしちょっと人には薦められません。日本映画ってかなり変なぶっ飛んでいる映画がありますね。うちに秘めた欲望があるんでしょうか。

この映画は題名とジャケットからは想像できないだけに要注意。あまり気分のいい映画ではありません。「自殺サークル」とかは題名から狙ってみているんですけど、もっとメルヘンかな(いやこれもメルヘンなんで)、もっとうぶな映画だと思っておりました。

5/24

 

「愛と死の天使」ジェームズ・トバック監督 1982年

ありがちな題名です。たぶんすぐにこの作品をこの題名から浮かぶ人はいないでしょう。

音楽はトリュフォーの映画で常連のジョージ・ドリリューです。そして冒頭のパリの俯瞰、ピエール・クレモンティ(A)の異様な様子と舞台は整っています。この俳優はやはり存在事態が異様ですね。

関係あるのか、カフェ爆発テロが起こります。

アメリカの片田舎が次のシーン。大学の文学の授業。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を主題に芸術と愛の必要性を現代社会に求めるべきだという授業です。受講生にナスターシャ・キンスキ(B)がいます。この映画の俳優と音楽担当はみんな名前を書きたくなるような人ばかりです。さらにシャネルズといったかなあ、50年代アメリカの音楽がかぶさります(アメグラで使われていたと思う曲)。この女学生がこの曲を好きでもいいんですが、パリは景色だけね、といった感じです。俳優がドイツフランスなのに、何でこうなるのでしょう?そしてなにが悪いのかに気がつきます。衣装です。センスないよ。そこでちょっと恋愛の破綻があってNYへ。

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