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一人で飲みきるような飲み物を入れておくものでしょうか?

何人かの高校生の生活が、一人一人交互に映し出されるのですが、なにか、自分のことは置いておいて、他人に求めたり、不満ぶつけたりしているだけです。何かを与えているような人物はほとんど出てきません。

性交渉や自慰などのシーンなどが出てきますが、結局はアメリカで生活していることが、世界的に見れば自慰行為なんでしょう。ですから、日常といえばこんなシーンばかりになるのだと思います。このようにこの映画にはドラマツルギーがないのです。最近こういう映画が増えてますよね。あと、やたら裸が出てくるんですが(ぼかしははいってます)これも欲望の国ということでしょう。生存欲求が満たされているから、もうひとつ上の欲求が出てきます。

優等生の女の子が彼氏をベットに縛り付けて愛撫しているのを親に見つかったり、みんな欲望の塊なんです。監督はインタビューで言ってましたが実話に近い親子は監督の友人で2組いるらしい。当然俳優が演技しているんですけど。とにかくこの映画での俳優はかなり、特に男のほうはさらけ出さなければなりません。だから見ていて楽しいという感じでもなければ、何でこんな実話を見せられるのか、という気持ちにさえなるのです。しかし見終わると何か懐かしい連中なんですよ。そういった意味ではこの映画は成功しているかもしれない。上で書いた優等生の女の子の両親は敬虔なキリスト教信者です(どの流派かまではわからないのですけど。この両親の言っていることはよくわかるんです。しかし、優等生の女の子が刺激を求めているというのもなんとなくわかります。時代の変化なんですよ。退化ではないと思います。

まあ、俳優は普通の俳優ではなく、ポルノ系の俳優だと思うんですが、みんな相当きわどいシーンがあります。どうなんだろう。このこととは関係なく、「痛い」映画です。つらい青春と逃げ場のない生活があり、その中で自分たちの世界をつく7って精神的浄化を行っているのです。いつかはみんな別れてしまうのですが。正式にはKEN PARKと英語のまま日本でも上映されました。

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「神々の深き欲望」今村昌平監督 1968年

本当に神の話です。「にっぽん昆虫記」でも山の神とか出てきたようにこの監督は素晴らしい日本の伝統の表現をいたします。私は好きな監督です。

まずは舞台は幻想集落。ありそうで実際はない集落です。縄文式のような、弥生的な集落であるし、しかし沖縄みたいな景色です。そういった感じでは、神代の時代に近いかもしれないというところです。しかし神代の時代は意識され実際にあるといわれるのが、応神天皇くらいだといわれているのでそれほど古くはないですよ。10代天皇くらいからは追跡できるといわれてましたっけ。この辺は定かではありません。しかし現代なんでしょう。この辺の曖昧さが話に内在している神の存在に焦点を当てるのです。今でも通用する話であるし、千数百年前の話でもあるというような具合です。この舞台となっている島自体が「古事記」などの大八島創生の話になぞられており、大神伝説のごとき「蛇」がご神体の意味もあるのでしょう、登場してきます。すごい面白い映画ですよ。

男(陽)と女(陰)一体でひとつ、お互いの足りない、多すぎるものを補充しあう関係ということで「性」の問題がクローズアップされます。

現代の内容としては、沖縄に砂糖工場を作ろうとする会社が調査に来ます。この辺は資本主義ですね。しかし砂糖で思い出すんですが、沖縄のお土産といえば、「砂糖きび」だったときもありましたね。あと西表などの工場で直接砂糖買うとやすかったです。私が行ったときはまだこの島には信号も舗装路もなかったときでしたけど、砂糖工場はありました。

そして沖縄はシャーマン、巫女の存在する世界です。ですから意外と仏教寺院は少ないのですよ。シャーマニズムも古代のようで現代劇で古代を象徴するよい材料です。

砂糖工場を作るのに水源確保が必要なんですがなかなかない、しかし神の森の中によそ者なので入っていくと、シャーマンが管理している神の水があります。それを使いたいというけど、巫女はなんと答えるやら。決まってます。「おたき信仰」(水場の名前)が島に行き渡っているのです。そして、慣習は「迷信」と言い張る若い者も破ることはできないのです。共同幻想です。そこに砂糖工場の下見役の都会人が入っていったので、とうとう切れてしまいます。性習慣はおおらかですし、「おたき信仰」はありますし、神の存在をそこいらじゅうに感じなければ生活できないのですから仕方ないことです。都会人にはその神を感じられないのです。しかし、一人反抗しても熱帯の熱さは容赦がない。むき出しの本能に溺れます。女に落ちて、自然のままに生きるという感じ。

そのまま、現地になじんでいきます。

そうこうしても自然は変わらず、日照りは続いたままです。途中からストーリーは、わかりにくくなります。それはいろいろなエピソードが入ってくるからです。葬式もあるし、シャーマンも出てきます。すべてをひとつのドラマツルギーで示すことは無理です。総論と根源論を示す形をとるのです。

だって、砂糖工場建設やら、飛行場誘致などの資本主義原理がこの映画には入り込んでます。資本を神まぜこぜにするから話がわかりにくいのです。そして「おたき」神の森を移動して空港を建設するという話で巫女も納得しているという前提で話が進んでいきます。ひとりだけ、神の田んぼのための水道を良くするために邪魔な大きな岩をどけることを何十年もかけてやっていたのですが、その岩がとうとう崩れます。その前に、空港建設に前向きな態度を村のみんなが取り始めたら、恵みの雨が降るようになりました。この辺は、このままの生活を守れということなのです。しかし降ってわいた「観光」化の誘惑にみんな負けて土地を手放し、開発が進みます。一人の反抗者は逆に土地価格が吊り上りみんなから疎まれるし、巫女を買収して(体の魔力で、笑い)このものを裏切り者として神のお告げのレッテルを貼るようにさせるのです。巫女はどうするのでしょう?さて「祭り」です。このようは慣習は捨てられません。巫女はいない。祭りは騒然として形さえ整わなくなります。舟をこぐような動きは祭りとして行いますけどね。

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