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とにかく主謀者たちは捕まります。喜んで捕まっていったのです。現代の日本のチャールズマンソンだと言って。

しかしそれで終わりません。アイドルがこの自殺クラブに関係しているみたいなのです。そして自殺はとまりません。そんな時このアイドルグループのコンサートに集合となるのです。場所は「リリィシュシュ」と同じ代々木。ここ撮影しやすいんでしょうかね?

ここの楽屋で本質が見えます。肌を切り裂きそれをつなげることで肌、すなわち自分のものを他者と共有して別の次元でひとつになるのです。肉体を離れるということですね。ですから、肉体はどうでも良くなるという安心感が生まれます。それが安易に自殺できる理由となるのです。

そして刑事の娘の肌もひとつの皮膚のつながりに見つけ、刑事の部下が娘を探してプラットホームで引き止めます。しかしいってしまいますけど。そしてコンサートのほうは「勝手に生きようよ」という言葉で解散ということになります。このアイドル「デザート」というのですが本当にあるんでしょうか?ですから終わり方は永遠に暗い。

音楽はスカーフェイスみたいでいい音楽でした。この映画、私は好きですね。世間の評判は悪いだろうね。若い監督です。今ネット見ましたが評判悪いですね。実存とかの定義があいまいとのこと。あと結末があいまいという指摘が多い。まあそうですね。しかし評価できるレベルだと思いますけど。

5/7

「DEAD OR ALIVE 犯罪者」三池崇史監督 1999年

これは狙ってみているわけで、面白くないという人もいるでしょうが、私は好きですね。しかし冒頭で気がついたのですが最近、邦画ばかりというだけでなくやたらと大映作品ばかりです。しかし改めてみると、いいテンポですし、こんな描写は普通のまっとうな人生を歩んだ人ではできないだろうと思えるシーンの連続です。私も負け惜しみですが、このような世界と縁がないのでこういう映画が面白いのです。

途中「やくざはやくざですよ」というせりふがあるのですがやくざって何を持ってやくざというのでしょう?多分広域暴力団の指定を受けている団体と入所契約を交わした人たちみたいなものなんでしょうが、やっていることとすると、証券会社とかもやくざ的なところは十分にあります。最近はモラルハザードがひどいため誰がやくざかわからない面もあります。まじめそうな人が痴漢やってみたり、教師が教え子に手を出すとか訳がわからなすぎることが多すぎます。

まあ衝撃的なカットのつぎはぎですが、それなりにうまく編集しているのでなんとなく納得してみてしまうんですね。新興愚連隊と刑事の戦いです。前者が「三毛猫ホームズ」の竹内さん、後者が「黄泉がえり」の哀川さん。結局チャイナマフィアというのか?と歌舞伎町のやくざと刑事の三つ巴の話です。

横浜の中華街がロケで使われるんですが、知り合いの店の近くどんぴしゃで出てきました。びっくりした。うちから歩いて6分くらいのところです。

しかし刑事の娘が多分日本では非合法の生体移植が必要でそのために必要なお金が2000万円。やくざに借りにいくという矛盾が生じます。

あと関係ないのですが途中大学の経済学の講義の場面があるのですが、「自殺サークル」がハイデッガーの「存在と時間」をいい加減に引用したようなせりふがあるという批判にさらされているのは書きましたが、ここでもマルクスと共産主義について、大学の先生とは思えないユートピア発言をします。聞いてて馬鹿じゃないか、と思いましたもん。この講義アメリカでしたら笑われますよ。映画は変なアカデミズムは入れないほうが批判浴びなくていいと思うのですが。それより迫力ある銃撃戦のほうがいいなあ。容赦ないもん。殺すときに躊躇したら自分が殺されるという世界です。ここまで感情のない銃撃戦はこの監督の真骨頂だと思います。ほかの国も含めてこんな銃撃戦はないです。あの浣腸のシーンといい、ありそうでなさそうでやはりないだろう、という映像です。笑い。だから映画なんですけど。

刑事、チャイナマフィア(愚連隊)が、やられ、仕返ししつつ、最後の決闘に挑みます。あとは有名なシーンになるだけです。内容?そんなものはないです。何か音楽と映像に酔いしれて、暴力を楽しむ映画でしょう。あっという間の時間でした。こういう映画って映画館出たあと気分いいでしょう。

5/8

 

「スリーピング・ディクショナリー」ガイ・ジェンキン監督 2002年

ダークエンジェルのアイドルらしいんですがこのテレビ番組自体知りません。

しかしまさに満州事変1936年のインドネシアでの英国人と現地人の交流です。すぐに日本が関係する時期ですね。

イヴァン族というのは英国人を受け入れるとき、言葉がしゃべれるように英国人に一人女の閨の女房役を置くとのこと、そうすれば男Aも女Bもお互いの言葉をすぐに覚えられるという付き合い方をしてきたらしい。ゆえにお互いが閨での辞書、すなわち映画のタイトルということです。Bがダークエンジェルの人でしょう。Aは拒絶するのですがそうすると現地の人に馬鹿にされますし、今度は変わりにホモの男を連れてきます。趣向が違うと思ったのでしょう。

そしてBの積極性と慣習に負けて受け入れます。このときにAは童貞。ですから女にはまっていきます。お見合いの相手を連れてきても愛は普遍だ、見たいな純なところがあるのです。このまま愛を貫いて終わりとかいうと久しぶりに見た洋画迫力なく簡単すぎてつまらない。

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