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次のカットのカラオケのシーンは木屋町と鴨川が出てきて、鴨川のほとりにJAPANESE DISTANCEという距離で点々といるカップルにBがひとりで割り込みをすると、彼らはいなくなる、という描写です。このお互いの距離は日本人は特に重要で、イタリア人なんかと話すときにすごく感じますね。彼らは会話の距離が近い。耳打ちに近い距離で話しますよね。しかしこのAは珍しくこの距離が近い女の子でした。

梅雨になるとド・ヴォルジュの官能小説を読んでくれとAはBにせがみます。この小説家日本語表記これでいいのかわかりませんが、このような名前です。知りませんでした。「そういうシーンをみんなと同じだけ読みたいの」という言葉には説得力があります。ひざまくらもせがみ、肉体関係がないのも不思議な距離です。Bが自制しているのでしょう。夏になり、ちょっと自分の中の欲望も感じたのか、「地球の歩き方」ふうのヒッチハイクに出かけます。このヒッチハイクのシーンなんか京都から離れるんで出資者たる京都市は怒りそうですがねえ。まあ要らないシーンです。

さて、とうとうのシーンですが、二人はカラオケに行ってその帰り、祇園から八坂神社を散策して雨にあいます。それでも「平気」というのは女のほう。雨の中のキス。まあ映画的ではありますが、そのあと雨にぬれた体を拭こうとして服を無造作に男の前で脱ぐのです。

そしてAは裸に。この裸、見るに耐えないというか、うまくだまされたのかというくらい大胆にカメラに撮られてしまって、多分、この女優を見るたびに思い出すであろう、くらい鮮明に脳裏に焼きついてしまいます。ここだけならいいのですが、そのあとも数回にわたって男女関係の描写があり、さすがに閉口します。(この女優自体は撮影が楽しかったとインタビューで言っているのでまあ問題ないのでしょう)何かおかしいですよ。京都市がお金出していると思うからおかしいだけなのか、わからないですが、少しエロドラマっぽいところがあるんです。

「京都は古い本のようだ。しかし最初のページより進めない」というのはわかるんですが(古い町はえてしてこういう傾向があると思います)、大学(同志社大学)の卒論の試験、あんな感じなのでしょうか。なにかがおかしいんです。ここで感じるのはこの話実話なのか?実話なら今出版して成功しているのに女のところに戻らないのか?フィクションなら日本に来てこんなことしか書けないのか?という疑問があるのです。書いた作者に対する生き方と日本に残した女のことがわからないのでしょう。私の感覚ですと、この本書いた時点で出版に成功したなら、女を迎えに行くでしょう。そこがわからないのです。ずっと友達でいようなんてことはないと思うのです。ここの問いかけを終われば、この映画はあとは枝葉末節の羅列なので、たいしたことはないのです。そして違和感はこの映画がテレビドラマみたいなことに気づいたときに自分の中ですっきりしました。

ここまで書けばあとは京都のシーンと出てくる小説の羅列くらいで問題ないでしょう。この女優が好きで裸が観たいならいいのでしょう、さらに愛欲の映画が観たいのでもかなりOKです。私は上のような疑問が途中で浮かび、真剣に見ることが出来なくなりました。

しかしひとつだけ理解できる場合があるのですが、それは、お互いにきっちりと別れて新たな道へ行こうと同時に思ったときです。映画では形上はそう見えるんですが、手紙をくれとか言っているうちは心の中に消えないで残るものです。それなら別れたことにはならないと思うんですがね。Aは生きる楽しさを教わっただけで満足して別れるんでしょうか?

知恩院で般若心経の写経をしているシーン、「社会の外に生きる男たち」(やくざの特集、フランス人の見たやくざ)、小説「暗夜行路」「砂の女」などが出てきました。

やくざは「セーラー服と機関銃」「股旅」と続いてます。次に「砂の女」見たいという気になりました。

(注。京都市のメセナ映画ということですが資本を出しているかどうかは確認しておりません)

 

m_i08.gif (1119 バイト)昔に書いたこと(2003,11/21より)

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