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2003 11/23 「バーディ」(Birdy)   アラン・パーカー監督 ひょんなことから生まれる友情が一生を左右するとは、ねえ。一人は現実逃避的で内向的な若者です。彼は生き物、特に鳥が好きで育て、鳥との交流を好む変わった嗜好がある男なんですね。なぜかというと鳥は離すと飛んでいく、その鳥(鳩)のようになりたい、自分も好きなところに行きたいと心のどこかで思っているんですよ。それで鳩のことには夢中で馬鹿みたいに飛んだり跳ねたりできるんですよ。 もう一人はレスリングが好きな男で、たまたま野球のボールが上の男の家によく打ち込まれるから、気になっていたのと、弟がナイフを盗まれたと嘘を言うところから、謝り知り合いになっていくんですね。この小さなきっかけが人生を左右することになるんです。 二人はそれほど仲が良いという訳ではないのですが、鳥を好きな男(マシュ・モディン)があまりに鳥に夢中になるあまり馬鹿げたことをしそれに付き合っているうちに、馬鹿げたことの楽しさみたいなことを覚えていくんです。体で覚えてますねきっと。この友人役をニコラス・ケイジが扮するのですが二人とも役者はいいです。バーディはいつのまにか夢の中で空を飛ぶようになり鳥の視点で物を見ることができるという感情と夢(人間としての意識を鳥の目の位置で見るということ)がリンクしてくるんです。ちょうどそのころ二人とも別々にベトナム戦争に巻き込まれていくのですが、その戦争では二人とも悲惨な目に会います。この映画が若干反戦としてのテーマがあるといえるのでしょうが(映画の中で、「昔の戦争は英雄がいた、おれ達はカモだったんだ」という台詞に象徴されます)、中心は人間の孤独と友情、社会性の意義です。戦争でバーディの方は前線で行方不明でかすかな記憶として空を飛ぶ人間が作った爆撃機によって鳥や人間が死んでいく様をまじまじと見せ付けられていくのですね。そして何も話さないかごの鳥となっていきます、あたかもいじめられて飼い主に裏切られた小鳥のように不信感いっぱいな態度ですね。ニコラスケイジのほうは体中負傷して顔は包帯だらけ、生きる望みもなくなりつつあるのです。そして、バ−ディの精神医学の治療として昔の友人として自らも傷ついたニコラスケイジは病院に呼ばれていくのです。そこで昔を思い出しつつ、楽しかった思い出、今の自分の自信のない状況などを独り言のようにバーディに聞かせるのです。聞かせるというか一人勝手にしゃべるんですね。自ら自分自身の治療も行なっている訳です。そうして、本音を言えるようになるあたりからバーディも少しづつ反応するようになるのです。ニコラスケイジも自らを解放して飛び立ったのです。そうするとバーディももう一度飛ぼうと思うのでしょう、意識がはっきりして病院から飛び出していくという感じの話です。いわゆる友情はかけがいのないものでした。そして、何かから自分をとき放つことも大事なことなんでしょう。音楽はピーター・ガブリエル。いい音楽です。 この終りのシーンは昔みたときも確かに感動すると共に次のことを思い浮かべました。この監督の場合は「ミッドナイト・エキスプレス」も同じような終わり方ですね、(これも同時に購入してます)やミロス・フォアマンの「カッコーの巣の上で」など以外と近い時期に、いい映画がたくさん作られたような気がします。   11/24 「ホフマン物語」(The tales of Hoffmann) 1951年 マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーの共同監督 ついでにまず美術衣装担当のハイン・ヘックロートを紹介したいと思います。本当に良い仕事してます。「天国への階段」「赤い靴」「黒水仙」担当もしてます。 映画の初めから、踊りながらハンカチに「好きなホフマン」と書いて鍵を渡すシーンなんかさりげないスタートですがきれいなんですよ。そのあとバタフライのバレエシーンがつながり、蓮の花の上を飛ぶように踊るきれいなバレエが続くんですが、もうこれだけでドキドキしますね。 そしてオペラも始まるのですが、冒頭のシーンの居酒屋の室内装飾が本当に良いです。なんとうか、酒屋が森で森=居酒屋にすむ妖精たちがおどけるんですよ。きれいで、テクニカラーの色のつけ方も本当に良いですね。絵画を描いているように塗り捲っている感じです。そして酒を飲みながら「3つの恋の物語」=「幻の夢」を見るわけです。 夢1。まず始めの夢は「オランピア」です。悲しみを分かち合える女性に出会った、すなわち愛の誕生だと思ったのですが、相手は操り人形でしたって話ですが、人形を人間に見せる「眼鏡」がありそれをホフマンがかけると人形達は舞踏会を開催するんです。ホフマンも参加するんですがこの舞踏会はすべて美しい。もう拍手しかないです。この映画はオペラとバレエの融合と言われますし、英語独特の解釈もあるんですが(劇中の言葉はなぜか、英語)それをまざまざと見せ付けられる感じですね。またシャンゼリゼのモーツァルトといわれたジャック・オッフェンバックの音楽が本当に良いんです。悪いところがまったくないんですよ。オランピアが壊されるシーンは後に「血を吸うカメラ」でマイケル・パウエルが映画界から追放される際にここにもこの監督の怖い一面があると槍玉に上がったシーンですよね。ちなみにこの映画にもモイラは出演してますが、ちょっと面影がないかな(1960年の映画だったと思いますが)。 夢2.「ジュリエッタの物語」リュミドラ・チュリーナ扮するジュリエッタが舟歌をバックに登場するシーンの美しさも類まれなるものがあります。もうエメラルド色が似合う女王のような存在感。ため息しか出ません。そして仮面舞踏会。らんちき騒ぎの楽しさ。ジュリエッタの心を宝石で釣ろうとするのですが、ろうそくが溶けて宝石になる発想がきれいです。宝石に意識を取られたジュリエッタがホフマンの影を盗もうとするのですが、それでホフマンに接近していき二人の間のやり取りはすごくロマンテックで、愛のシーンとしては映画の中でもトップレベルの水準です。最高です。しかしねえ、影を盗むのに失敗して、ホフマンに愛されるようになるとゴンドラで消えていくんですよね。ここでも失敗する訳ですよ、ホフマン。 夢3.「アントニアの物語」舞台が夢の島です。一方を見るとセザンヌが描いた山のようなものが見え、逆のほうはクレタ島から見た海のような世界が拡がっています。そしてバルコニーにはチェンバロやリュートが置いてあり音楽の世界ですね。話は飛びますがアントニアが母に向かって舞台に向かうシーンのホールの雰囲気、舞台の上での「母」の輝き、すべて美しい芸術です。映画ではないのかもしれません。でもしかし、舞台は実は廃墟だったんですよ。結局は夢で、アントニアは死んでいくのです。死んだアントニアの霊?が踊るバレエのシーンも美しいですし、ホフマンと地平線に向かって続く無限の踊りも夢の世界ですね。 さて、居酒屋に戻ると夢をさまようホフマンとは対照的にほかの連中は朝までワインを飲もうと楽しく騒いでおります。ホフマンは絶望して寝てしまっていて、冒頭のバレエのあとの待ち合わせも現実なんですが、すっぽかしてしまうという失態。3つの話はホフマン(作家として現実に存在した人)の「ドン・ジュアン」をベースにしているところもあり、この点で「カサノヴァ」などと重なるんです。そして夢見る映画の中でのホフマンは夢の3人の女性(実は同一人物)にあんなにすてきなハンカチを貰ったにもかかわらず酒場で寝てしまって、それをみられて捨てられていくんですよ。まあ夢の世界であった訳です。 観ている私も夢のような時間を過ごしましたし、50年以上も前にこの作品ができているんですね。何故今の映画はこのクオリティを出せないんでしょうか?夢とか美しさ、が映画の中に少なくなりましたが、この映画は本当に美しさに溢れている素晴らしい作品です。 11/25 「ワンダフルライフ」 1998年作品 是枝裕和監督 人が死んだあと、翌日に面接を受けるという話です。そして1週間の猶予があり、始めの3日間で人生で一番良かった思い出を思い出し、残りでスタッフがその映像を作成して、気持ちよくあの世へ(天国だと思うが、地獄の可能性もあるはずなんですが、良かったことなのでたぶん資格審査があるんでしょう)旅立ってもらう死後の1週間のお話です。 ですから、すべての死んだ人に平等に思い出す機会が与えられ、それこそ、老若男女、貧富の差を問わず、平等なのですが、人それぞれにどういう思い出を選択するかはまったく違うのです。しかし、実は何か共通のものがあり、それは「縁」と呼ばれるものが左右する出来事なのです。本当に偶然に出会うから縁なんでしょうし、だから思い出しやすいんでしょう。何人かの面接を聞いているうちに、今の私自身と重ね合わせて聞いているということに気づきました。そういえば、この面接を担当するのは面接官ですが、彼らは死んで同じように面接を受けても、何も思い出となることがないか、または思い出すことを拒否した人たちなのです。ですから面接官も面接しているうちに少なからず影響を受けているんです。感動を与える仕事をしているので、人が感動するということがどういうことか少しはわかってくるんですね。そのうちに、自分も夢中になれる何かがあるのか、という自問もでてくるんですよ。 その中で一人の老人の死者がいました。その人は、担当の面接官との面接の会話の中で自分の妻の初恋の人が面接官だと知るのです。なんとならば、面接官も死者なので、ありえる話なのですよ。しかし、面接官の方はその老人が残した手紙で老人がその事実に気づいていたと知らされるのです。(ややこしいですが、面接官の方はどういう経歴の人か知っているので、事前に知っているのですが、相手に悟られていないと思っていたのです)その人の妻は結婚後も初恋の人のことが忘れられないでいるのを知っていたんですね。それでも夫婦生活を送っていて、死ぬときに妻と一緒だったことを改めて良かったと思っているんですね。そして人生で一番幸せなシーンとして妻と映画を見に行ったときを思い出として残すのです。 どうなるのか。面接官の同僚でこの面接官を好きな女の面接官がいるのですが、好きだという感情を認めないし、死んでいるので好きになるのもおかしいのかもしれません。そんな状況のもとチョッとしたドラマが生まれるんですね。映画的ですよ。それは、老人の手紙を読んだときに、女の面接官に「なぜ、老人に言わなかったのか」ということについて「自分が傷つくのが怖かった」と独白します。そうですね、傷つくことを恐れているからいつまでたっても一番いい思い出なんて思い出せないんですよ。すると、こともあろうか、女の面接官が、この老人の妻の死んだときの思い出ファイルを探すんですよ。好きな人のためなんでしょうが、このことが別れにつながるなんて思わなかったでしょう。そして妻の映像を見てみると、なんとそれは、夫との公園のデートではなくて、その面接官たる初恋の人とのデートの場面なんです。これでこの優柔不断な面接官も人生最良の思い出として思い出すことに自信を得て、楽しい思い出を持ってあの世に旅立って行くのです。あちゃーー、女の方は余計なお世話をしてしまったわけですが、きっといつの日か逆に死者から、いい思い出を思い出させてくれる瞬間がやってくるのでしょう。そうですね、人間は生きているからには、一度はいい思い出の瞬間があるはずなんです。おもいだしたくないとかいろいろな事情はあるでしょう、しかし楽しかったり辛かったりするのが人生です。決しておもしろい映画とはいいませんが、最後のエピソードはかなり良かったですよ。私は今のところ、同じように聞かれたら答えは一つです。死ぬ前から決まっているなんて幸せな人生なんでしょう。自覚しなければ。はい。 11/26 「病院坂の首繰りの家」 1979年 市川昆監督 ひょんなことから「金田一シリーズの東宝作品のDVDのBOX-金田一耕介の事件厘」を予約しておりまして忘れたころに届きました。中でも原作も読んでいないこの作品から見はじめました。 とにかく、冒頭から横溝正史ご夫妻が出まくって、びっくりしますし、すぐに中井貴恵、草刈正雄、小沢栄太郎、などが登場して懐かしさいっぱいです。しばらくYしてタイトルが出るんですが、そこまでかなり間があり、タイトルにトランペット(ジャズ)がかぶり面白いスタートです。そして桜田淳子が出てくるあたりでもうはまってしまいました。次にあおい輝彦が出てくるんですがこのあたりで、登場人物に主題の音楽がついていることに気がつきました。基本的にシンセサイザーを使っているのですが(音楽担当は田辺信一)桜田淳子にはフルートとかあおい輝彦にはチェロとか佐久間良子にはガットギターのようにエレキギターを使ったりして人物特定を鮮明にしておりました。そしてはじまったばかりですが結婚の写真を撮るあたりでもう、メロメロになってしまいました。桜田淳子の視線の定まらない顔、最高ですね。この人演技うまかったんですね。もうこのあたりから観ていて気が楽というか楽しい気持ちになりました。写真が出来たあたりから金田一が絡むのですがだんだん、笑えるような展開で楽しいなあといい気持ちで観ることができるようになってきましたよ。これじゃ、大林監督の「金田一耕介の冒険」とそんなに変わらない、喜劇に近いかなと思えるような展開です。あそこまでひどくないですが、シリアスなんですが、楽しくはじまります。きめの台詞は加藤さんはじめ、皆さんはずしませんし、型にはまって観ているほうは気楽です。 しかし横溝作品にありがちな人間関係の複雑さは一回ではまったくわからないで、私も大体大筋を理解しただけでした。ポイントをわかったので見終わっても気になりません。俳優として特記したいのは桜田淳子とピーター共に存在感がありました。まあいろいろな人物の入れ替えが起こるのですが感想として書いても仕方ないですし感じたことを書きますと、役者はあまり主役級、脇役もふくめて見た目、かっこいい、美人などが多いなあという感想です。映画としてこういう事はすごく大事なことだと思います。あとはセットを多用しておりますがロケのシーンが(一応舞台は吉野、ルーツ探しで南部藩の岩手の水沢、北上)美しいです。今の日本はすぐに風景が変わるのでこの映画25年位前ですがすでに貴重なシーンがあると思います。映画化はこれが一番最後らしいのですが、この手の映画は内容以外と忘れてしまいがちです。「女王蜂」なんかまったく覚えていないです。ですからまた観るのを楽しみにしておりますが、気楽に時間を感じないで観ることができる作品ですね。最後にかけてはかなりいい内容の展開がありますし、カット割はまだ市川監督冴えてます。実は市川監督は大映時代の方が好きなのですが。。。一番の収穫は桜田淳子ですね。これが一番つまらないといわれているのであとの作品を見るのが楽しみです。単品発売がないらしいので人には勧めにくいです。 11/27 「神曲」 マノエル・ド・オリヴェイラ監督 1991年 ポルトガル=フランス はじめ、のっけから裸でてきて唖然としましたが、(何の前知識なくみました)アダムとイブらしいしぐさで少しわかったのですが、冒頭の「精神を病んだ人の家」とあったその家の中にシーンが移ります。上の裸って女の方は「アブラハム渓谷」(同監督)の主役でしたのでびっくりしましたよ。それで家の中で「ラスコーリニコフ」と呼ばれる人物がいたので、これやばそう「罪と罰」(ドストエフスキー、昔読んだだけだよ、どうしよう)も絡むのかと、少し引き気味。そして、食事のシーンがあってそれがまさに最後の晩餐な訳ですよ。構図がそうですが、食事もワインとパンで、キリストというかそういう役の若者がワインとパンを分け与えるというしぐさで個別にはまじめな話をしているんですよ。ポイントは食卓の両端にアダムとイヴの男女が別れて座る配置ですね。あとででてくるんですがイヴの方は原罪を蛇の性にして聖テレサと言い張るんです。原罪を償った人間であるとね。アダムは追う訳ですが。しかしそんなことよりも、映画の中でまじめな議論ばかりしているんです。 それでどういう展開になるのかと思っていると、本当に「罪と罰」しちゃうんですよ。老婆を殺すんです。観た家政婦も。この殺しのシーンはセットぽくで演劇がかって、かつ照明がうまいので気に入りました。このまま話が続くのではなくて、場面転換してキリスト教信者と反キリスト教の者との議論が続きます。「善とは」「悪とは」「幸福とは」そんなような議論ばかりで、見る前にシリアスな気持ちになっていないとついていけないな、と思ってしまうわけです。しかしDVDはたまるばかりですし、最後まで観ようとがんばるのです。キリスト教信者の言い分は「第五の福音書」を読め、となるんです。反キリスト教の者はわかりやすい反論をするのです。しかしね、最後まで観るとどっちが正しいかわからなくなるんですよ。後で意味を書きます。 次のシーンでは新約聖書の「ラザロの話」を引用させるんです。内容をそのまま、娼婦となっている女に読ませるので前もって知らなくても大丈夫です。「復活とイエスをユダヤ人が信じた逸話が内容です。私は知りませんでした。このラザロの話をさせる男(ラスコーリニコフ)と娼婦はまた違うペアで、何かも意味があると思います。というより「罪と罰」の派生ペアですね。見ていないと何いっているかわからないと思いますが、「罪と罰」にでてくる名前がついて殺された老婆の知人だったりするのです。結局、神は何もしてくれない、自分で道を切り開くということなんですが、娼婦たる女の方が神の存在を信じています。この辺で2人組でいろいろな展開を見せながら神の存在とキリストの存在、人間の原罪などを描いているとわかってくるのですが、さてとどうまとめるのか興味が出始めました。 音楽はピアノで冒頭からベートーベン、ショパン、シューマンなどを映画の中で弾くシーンがでてくるのですがまずここで感想を書くとシューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」から第4、5楽章が引用されるんですが、いい曲です。曲の名前覚えていた方がいいですね。「道化」=「人間」ぽい意味がかなりあると思いますよ。そして映画に戻るとピアノを弾く様を人間の技術だという反キリスト教徒がいい、さらに霊を殺したのは文字であると言い切ります。まあそうですね、と私もうなずき、キリスト教徒は何につけても「神の存在」と立ちはだかります。イエスだけなのか、または人類すべて英知があるのか?ピアノを弾いている演奏を写しながらこんな議論をしているんですよ。まじめなんじゃなくて皮肉とわかってきました。 次には「奇跡」の話が出てくるんですが、ここで出てくる名前もまたぶったまげる、アリューシャです。こういう映画はロシアに作らせればいいと思うんですが、またドストエフスキーですね。「カラマーゾフの兄弟」のなかで誰かが作品として書いた逸話のようなものが引用されるんです。ですから今までに述べたような小説とか哲学、キリスト教の知識ないと理解しにくいというか不可能かもしれない敷居が高い映画かも。。。そして主が7歳の子を生き返らせた話を作り友人に聞かせるという2人の別のペアができるんです。しかし主は捕まるんですね。そして審問官には何もいわないのです。審問官は処刑の前に至って何か言うと期待しているのですが何もいわず、審問官にキスをするのです。審問官はキリストに出て行けといってキリストは立ち去るのですが。。2人の会話で象徴的なことがあるんですよ。それは、「今ほど人々が自由なときはない」(たぶん監督のメッセージ)しかし「それを認識していない」、うーーん良くわかるなあ。この辺になるとはまってますね。監督の持っていき方がうまいですよ。 さらに「罪と罰」ペアに戻ると自首させようとするのですが、当然(小説からするとそうですからね)「殺したのは金が動機ではない」と言い張るんですよ。なかなか認めないです。そして懺悔しようと司祭を訪れると司祭は自殺しているんです。司祭の自殺という罪も提示しながら、ラスコーリニコフはこういう状況なら大声で「罪を告白」するんですね。動転して思考が停止状態になるんですね。この辺が笑えるところです。まったく演出上おかしくないですよ。ただ、監督の考えていることが読めるのと、原作を知っているので笑えるんです。そんなことをしているうちに冒頭のアダムとイヴのシーンがあったバルコニーに登場人物がまた終結してくるんですね。終りが近いです。そして先ほどはバルコニーから裸のアダムとイブを見たのですが今回はひざをついて身長を一緒に歩く背の低い女に合わせて円を描いて終わりなく歩いている2人を見るのです。ですから議論に終りがなかった、隠喩です。そして人々はピアノを弾くシーン(現実的尊敬に値する人間の情熱と技法)を観ながら散らばっていくのです。そしてピアニストが一人でピアノを弾いていると「カット」と映画が終るのです。この映画って何の映画が終ったのでしょうね?映画の中で映画が終ったはずです。 ということは、まとめると、今まで観てきたのは、映画だったのか?その前にこの映画自体が映画的ではなく見る本のような形式なのです。言葉が多いので字幕は大きくて助かりますし、本を読んでいる感覚です。しかし私が自分で人物のイメージをすることは許されないのです。映像として人物がキャスティングされて固定されてますし、風景も所与の本というイメージですね。さらに舞台の上でも充分なくらいの演劇的な演技で完結されてしまう程度の狭い空間での出来事というか話の流れなのです。ですから映像として映し出されるものは強制的に私は受け入れますが、それ以外は、以外と登場人物の視線は曖昧ですので、どこに向けて何を見ているのかは自由に想像できるのです。そういう構成だと気づいたら、この作品がいとおしくなりました。なかなかいい作品ですよ。難しいとは思いますよ。しかし、映画の展開としてはおもしろい試みです。 本当に最後のまとめ。キリスト以降2000年の間の人々すべてを「精神を病んだ人」としたのでしょう。そしてアダムとイヴの原罪は人間の罪とその意識の外にありそれを説明する基本概念なんですよね。それでアダムとイブは、すべての事象を説明できる基礎となるのですがアダムとイブは説明できないのです。この辺はゲーデルの不完全性定理みたいですね。それですから、登場人物のキリスト教信者(階段通りの人々、同監督の作品、でぜんぜんキャラクターが違う役やっていた人)は教義を4つの福音書でまかなえない部分を白紙の5つ目の福音書という形で説明不可能な部分の論理的矛盾を指摘されないようにサポートしているんですよ。ここいらあたりが深い内容です。「罪と罰」の引用は人間の行動様式を象徴したみたいですね。最後に反キリスト教徒のことば、「、、結局、永遠の回帰をするのだろう」 と 「神は死んだ」 もう一度いいますが最後のシーン、回りつづける人々。今回ある程度わかったので次観るときはこの辺を楽しんでみることができると思います。この映画の構造と作る意欲はすごいものがあると思います。ブラボー。   11/28 「仮面の中のアリア」 ジェラール・コルビオ監督 1988年 ベルギー 引退リサイタルのアンコールのシーンからスタート。結局はここから戦いの第2幕が始まっていたのでした。バリトン歌手(ホセ・ヴァン・ダム)がアリア合戦を繰り広げるという事前の知識から、これはないよな、と思って拍子抜けはしました。それを見ていた、昔アリア合戦で負けた実業界の金持ちは溜飲が下がるのですが次なる戦いにまさか負けるとは思ってもいなかったという始まりです。 そう、「神曲」なんか見たあとはこういう単純なのが良いです。もう結論書き終わりましたモン。まあ一人の女の生徒について教えるのですが、その生徒は先生に淡い恋をしているのです。(美しい生徒役はソフィーの役でアンヌ・ルーセル、最後の椿姫のアリアは演技がなっていないです。笑い、あの声はあの体勢からは出ません。)当然先生も美人だと思っているのですよ。しかし先生は拒んでいて、ソフィーにもそのやさしさが通じるのです。そんななかたまたま街で一見ですが気に入る男を拾ってきて(これはピンと来るものがあったのでしょう)教えはじめるのです。簡単な話、男も生活に困らないので教えてもらうのです。 その教えは「音楽に惹かれて、身を任せるのだ」というもので周りのものが見えなくなるくらい音楽の中に入り込めということです。特訓とか練習風景は90分ちょっとの映画なのであまりでてきません。でも数年はかかってますよ。その中で「正しい判断」をできるような適切なアドバイスがなされたのです。さらに、愛のもつ力を教えてもらったはずです。そして、愛が音楽にいかに彩り、深みを与えるかを教えられたのです。 で、弟子の一騎打ちの日がきます。たいした緊張感はないんです、愛しあったりしている余裕があったのですが相手の歌を聞かされるという策略に引っかかり(なぜか?それは声が似ていたという単なる事実からです)自分を失いかけるのですが、練習ばかりではない情感の経験もつまされた2人は見事相手に勝ってしまうのです。単純な話です。あとから思うと、人前で歌わないということも音楽に浸った環境ということで良かったのだと思います。さらに対戦相手はすべて、テノールにしてもその金持ちが一緒についていましたし、ソプラノにしてもまわりは女に囲まれていたということで、愛を知らない環境だったともいえます。愛の勝利というパターンの映画ですね。 全編を流れるマーラーの音楽、特に交響曲第4番の方はすごくいい印象を映像に与えております。「大地の歌」の方も良いのですが。ちなみに仮面をつけた戦いの曲は、ベルリーニの「ア・タント・ドゥオル」から「多くの悲しみに」だったと思ったけど、ちょっと自信なし。ソプラノの方はベルディの「椿姫」の「花から花へ」です。ここでテノール部分をカーテンから隠れて歌って観客を驚かせると共に愛を確かめ合ったのです。 「アマチュア」 1979年 キェシロフスキ監督 ポーランド これは思いかけずに、いい作品でした。ちょっと暗いのかと思って見はじめましたが、勢いよく映画の中に引き込まれました。まず、本当の冒頭、鷹が獲物をつついているシーンは権力の象徴なんでしょう。最終的にこの映画でも関係しますから。では冒頭に戻ると、子供が生まれるところから始まるのです。それは相当な親ばかで、うれしくて仕方ない様子が描かれます。それで8ミリのカメラを買って映像で成長記録を残そうとするのです。このスタートのポーランドの景色がもうたまらないです、日本でいうと戦後という感じの何もない状態。これは、かなり私の中では説得力のある映像でした。 そのカメラを買った延長で、工場の記録映像を撮ることを頼まれるのですが、動いたものすべてを撮っていくのですね。途中、撮ってはいけないシーンとか、写ってはいけない人物も収録されて、工場長と少しづつ溝ができるようになります。しかし、撮った作品がコンテストに出ることになり、そこで賞を取ってしまうのです。その賞を取る時の評価のコメントがすごく、べた誉めですね。(「すごい洞察力」など)1人批判するのですがその人はあとからわかるようにまともに本音を言っただけなんです。そのとおり終わったあとで、個人的にみんな駄作だと聞かされ、形だけの賞を続けていると言われるんですね。しかし、ではなぜ、賞をくれたのか?にたいして「撮りつづけて欲しいから」と審査員の一人は答えてくれます。なぜか、主人公の才能を見抜いている、人でした。 このあたりから、夫婦間はうまくいかず、映画にはまっている夫に苛立ちを見せ始める妻。結局妻は出て行くのですが、最後に言い残した言葉は「あなたが求めているのは平穏な生活だと思った」ということです。話が前後しますが隣人の母の死もありますが、ここで生前たまたま息子と母を同時に撮った映像があり、それを見せてくれといわれるのですが、そこにはあの「パリ・テキサス」と同じような今はもうないその人の魂に触れるような映像が残されているのです。(この場合は母親と一緒に写っているというだけですが、それで充分でしょう) 次に「カモフラージュ」という映画の上映会のシーンですがなんとまじめな議論をしているんだろうか、と思いますし、実際に監督の友人の実在の監督を使ったみたいです。このあたりから、主人公の映像に対するのめりこみが加速して、見ていて楽しそうなんですよ。またどんどん、映画の方に道が開けていくんですね。夫婦の溝は深まるばかりですが、結局先ほどのように別居にいたるわけです。別居する際も3ヶ月5ヶ月という単位で過去のことを思い出すんですよ。もうまったく興味の外なんです。フォーカスは映画に向けられていきます。 そして撮った作品が障害者をテーマにした工場での日々、の半分ドキュメンタリーです。しかし出来栄えはそのナレーションとギターの音楽ときれいに決まっていて、障害者本人も感動のあまり、美しいといってじっとしていられないほどでした。しかし、工場長が障害者をテーマに映画を撮るなといったのに、撮って発表してしまったことで波紋は広がり、仲間みたいに信頼しあえた上司も首や左遷されることになります。このあたり、人間の本質を問うのに、共産主義のベールはあとから思うと本当にいい役割を果たしているのですね。工場長の言葉「風景は美しい、自然は開かれているから」「何故君は灰色にしかものを見ないのか」などは本当に含蓄のある言葉です。もしかして工場長の方が理解が深いのかもしれません。左遷された上司も「君の才能を伸ばせ」と言って去っていきます。そして主人公は、悶々とした中、カメラで自分を見つめ、そのまま撮影しながら終っていくのです。たぶん、自分を見つめることからまた再スタートができると思います。 上で書いたように平凡ですよね、しかしパワーのある映画だと思います。地味なんですがいい映画です。

 

 

11/29

「光る眼」 1995年 ジョン・カーペンター監督

ちょっと固い映画が続きましたので、別にやわらかくはないと思いますが、ホラーを観てみました。単独でこの映画を見ると怖いな、と思うのですが今回は、それまでの映画が映画でしたので、リラックスして楽しめました。

「呪われた村」という本が原作で何度か映画化されております。原作を読むと映画が物足りなく感じることがあるのですが、その辺は90分ちょっとにまとめているし、仕方ないことでしょう。ただ、はっきり言えるのは、はじめの受胎の描写がわかりにくいということです。はじめに観たときはこの映画で充分でしたが、そのあと原作読んでみると何か違うんですよ。この映画の方が母の愛情と落ちこぼれの侵略者の描写にこだわった点、さらには少し宗教がかった部分があると思います。処女の女の子も懐妊しているので、前の「神曲」に関係しますがイヴの原罪は犯していないんですよ。ではなにがイブの代わりか?それが村全体をベールで覆われるのですがその感じが映画では表現されていないんですよ。そのベールの中で受胎しているんですよ。ですから侵略者は人間の神の代わりをなすんですよ、このことが深い底辺に原作では流れております。今の人間に対して、侵略者が神のごとくになって問題提起するんですよ。人間のほうでいろいろと考えてくれるんですね。まったくオリヴェイラの「神曲」そのものですね。この映画でも「神は言っている、我々に(神)に似せて人間を作ろう」と。そしてアダムとイブになるペアが子供の中でも出来ているんですね。私なら単独生殖できるように作りますが、移住する文明に合わせて支配するのが目的ですからこの方が怖さはありますね。

まあ、気楽にこの映画に話を戻すと、なんと言ってもスーパーマンが出ているんですよ(クリストファー・リーヴですよ)、懐かしいですね。しかし、このキャスティングわざとらしいですね。神のごとくの侵略者に戦いを挑むのがスーパーマンだとは。そして確か記憶ではこの映画のあと事故にあったと思います。やはり呪われたのかなあ。この映画に関しては、あとはなんといってもテンポがいいということですね。もともと成長が早い子供達でしたから、この監督独特のテンポで成長していきます。その辺はもうグイグイと観客を引き込む力があります。あと私の感覚ですが、出ている子供達がいやに気持ち悪いんですね。演技とメイクなんでしょうが、よくもこのような子供集めたなあと思います。そしてリーダー格の子供が「マーラ」というんですよ。暗黒の帝王ですね。ではクリストファー・リーヴはスーパーマンではなくてブッダなのか。笑い

全体とすると光る眼の子供達全員が行進したり、集団で行動するときの音楽は少し宗教音楽っぽく出来ていて充分「神曲」を意識できますし、眼が光るときの効果音が怖く出来ているのでこの辺がホラーたる要素かと思います。まあお口直しには成功でした。

 

11/30

「オー・ド・ヴイ」 篠原哲雄監督 2001

浜辺に裸で打ち寄せられている女からスタートする。場所は函館。景色がやけに横浜に似ている。市電が走っているのと、函館の方は幕末の幕府の最後の砦となったことくらいの違いか。しかし夜景などの明るさはほどよく、横浜みたいに絶対的に明るくはない。その浜辺も沖にイカ釣り漁船の明かりが灯っていてその明かりが揺れているのが魂の揺らぎみたいで良いですね。

舞台がバンドネオンとピアノの生演奏つきの程よい大きさのバー。内装はレトロではないのですが、雰囲気がなんとなくたるんでいる。その原因は後でわかることになるのだが。しかし、おいしいお酒を飲みたいという空間があることにとりあえず驚く。特に香が良いお酒を飲ませるみたいで、専門が「オー・ド・ヴイ」という蒸留酒とのこと。私は酒はあまり詳しくはないのですが、日本酒もお米からなのでおいしい酒があるのでしょう。お酒の飲みながら踊るのですがそれがすごくセクシーなんですね。直情的なんですよ。しかしここで出てくる人間が中年ばかりなことに気づく。中年の恋と性がテーマなのか?

確かに中年というのは、年月を生きただけで、寂しさが増しているともいえる。頭は回るけど、体がついていかないところがあるし、その分脂肪が体につきやすい。ここで対比的にフランス料理屋が出てくるのですが、すごい内装(アールデコ、あのステンドガラスだけでも高いよこの店、という感じの店)で馬鹿げたくらい大きな厨房、中でのやり取りがフランス語、馬鹿にするのもいいかげんにしろというくらいですね。この空間は食事にきた、岸谷と鰐淵が浮いてしまうくらいに決まっている。デザインに入り込む余地がない決まり方です。ですからこのフランス料理屋での食事のシーンすべてがアンバランスなんです。

そして外観はいいかげんですが中にすごいお酒が置いてある酒屋。バーテンダーの実家みたいです。そこでは実際に蒸留酒を作っているんです。「外は古くても中は粋だ」これが中年なのか、と思わせる瞬間です。ただこれだけではないんですよ。蒸留酒を作っている父なのか中年の親父曰く「おれはもう酒になっている」という言葉、中年=オー・ド・ヴイなのか?ここで冒頭の裸で死んでいく女が100%アルコールに近い酒を幸せそうに飲んでいるということがわかる。たぶん酒作りの夢なんでしょう、こういう幸せな気分にさせる酒を作ることは。

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