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怒りの日ラッパが眠りを破り苦しみの時を告げる

怒りの日トランペットが生者と死者を呼び墓を暴く

怒りの日主の法廷で悪魔のおそろしい罰が示される

怒りの日最後の審判が下り雷光が罪人たちを打つ

怒りの日主の御前で恥と罪の衣をまとう人々を見よ

怒りの日悪魔がロープで・・・」

このままの内容でした。

若い魅力的な女性をAとしましょう。このAは後妻で夫は牧師Cです。Cの前の妻の子供Bが引っ越してきます。AとBは同じくらいの年。Cは明らかに若い後妻をもらったのです。これがお母さん(D)の怒りに触れてます。DはAを家に入れるのを猛反対したのです。そんな、一発触発の環境の中、魔女狩りに追われた女が匿ってくれと家に逃げ込んできます。なぜなら、前の奥さんは、魔女と告発されたにもかかわらず(魔女として死んでいくものは誰かを告発するんですね、これでは魔女がいなくならないわけです)火あぶりにあいませんでした。なぜなら、早い話、牧師が手を回したのです。この魔女の認定者は捕まり、告白させられます(悪魔とどこで契約したかですよ、悪魔ですからね、信じられないところですが)。結局火あぶりになるのですが、死ぬ間際に牧師たちを「うそつき、偽善者」と言いながら死んでいくのです。

しかし、牧師は罪の意識を持ち始めます。実際にAの夫も母に「神に対してうそをついた」というのです。それに対して母は「Aの目を見たか」といい(実際に意志の強そうな目をしております)魔女になったかのような目であり、いつの日かAを取るか神を取るか決定しなければならないときが来るだろう、といいます。

Aの目は恋愛をした目なんですね。Bとの恋愛のシーンが続くんですがAの方が積極的です。そしてAは楽しそうにしていて、笑いもあります。この、Aが笑う様子は牧師である夫もその母も嫁いできてから一度も見たことがないらしいんです。そのくらいのめりこんでいて、最終的にはBはこんな恋愛いつまで続くのだろうか?といっても、Bが愛してくれる間は大丈夫、(私から好きでなくなることはない)というようなことをAはしゃあしゃあというのですよ。冷静に考えると、人妻であり、相手はその夫の元妻の子供なんですね。このような関係は血のつながりはないのですが(最近近親相姦とかの映画ばかりなので、笑い)、一般常識的にありえない、起こりがたい関係だと思うんです。その関係をなんでもなく続けることがこの映画では魔女的なのです。ということ、すなわち、法律上の関係を超えて愛を知ることは魔女の仕業なのです。Bは当然、この愛に終わりが来ることはわかっています。しかしAはその上でさらに、愛を楽しんでいるんです。Bは常識に縛られ、Aは恋愛は自由と今では言うのは簡単ですが1943年当時でさえ、難しいでしょうし、舞台は1623年です。BはAにしばらくは別れていようというのです。

そうこうしているうちに、火あぶりになった女の言うように主の牧師は病で倒れ、Cがお見舞いに言っている間に嵐になります。そして「神からいただいた魂は神に」「この世からいただいた体はこの世に」返すといって死にます。嵐の晩に夫がいないときにAはBにしばらく別れていようといわれたのに、迫ります。しかしBはAが父の妻である、と退けます。そしてAとCもうまくいかなくなります。というより感情がなかったことが表面化します。CもAの意思を確認せずに結婚してAの青春を奪ったと反省しています。Aは子供がほしかったのですがCにはもう体力、熱い情熱がなかったのです。ここでAがBのことを好きな気持ちを伝えると、Cを呼ぼうとして激怒して倒れ、そのまま、発作で死にます。そのことがこんどはBの罪の意識を高めます。Bは父が自分たちの恋愛のせいで死んだと思うようになるのです。Aはもう許されたというのですがそんなAに対してBは父の死を願ったであろう、というようになるのです。AはBへの愛が唯一の罪というようになります。愛しさえしなければ、こんなことにならなかったはずなんですから。そして夫の葬式の場面、Bがこんどは牧師になりますが、おばあさんD(夫の母)がAが殺したというのに対して、Bはいかなるものも父の死に責任はないといいます。ここではAへの愛情というより好意または知人への情けなのでしょう。しかしおばあさんがAを魔女で告発すると、Aは素直に認めます。愛がもう終わったということです。Aは愛が生きがいだったのです。愛がなければ死んでも良いくらい愛していたんです。うーーん魔女なんですねえ。

「怒りの日主の御前で恥と罪の衣をまとう人たちを見よ」

「怒りの日悪魔がロープで罪人を吊り上げ天国へ運ぶ」

「怒りの日悲しく聖なる涙 主は血で我らを救いたまう」

まさにこの詩のとおりになって終わっていくのです。

たまたまクリスマスイブの聖夜午前0時のミサに近くの山手カトリック教会にいってきて、キリスト教についてちょっと考えたくなり、この映画を見ました。この映画「怒りの日」でも主は存在していました。沈黙してますが。構成はいい映画だと思いますよ。

12/27

 

「アンナ・パブロワ」 エミーリ・ロチャヌー監督 1984年 ソビエト、イギリス合作

有楽町マリオンのオープニングの作品でしたね。

バレエ教室を覗いてバレエに憧れを持つシーンで始まります。このように子供時代の憧れは大事にしていきたいですね。映画でも子ども自身が興味を示した自分の興味を大事に育てていくのです。

プティバに面接を受けるんですね。

そしてバレエ教室が良いですね。「自然から学ぶんだ」といって森にも行きます。

そしてミハイル・フォーキンに出会います。理解してくれるんですね。厳しく見てくれるんですよ。これがいい助言になるんです。いい出会いも必要ですね。こういうことが積み重なって芸は磨かれるのでしょう。

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