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どうなんでしょう、Bが絡んでこなかったら、Aは麻薬の方も捏造して逮捕したでしょうか?多分そうしたと思います。(しかし、そうなると題名が意味が違うのですが)

たまたまBがそこにいてしまった、ということがAの計算を狂わせたのです。そしてDもこれでAの運が尽きたと思います。AとDはまったく愛人関係でもないんですよ。お互いに心の中で敬意を持っている関係というだけです。ここがテーマなんですよ。BとCの恋愛はストレートですが、どこにでもある恋愛なんです。AとDのは人生紆余曲折しないと起こりえない敬意みたいなものです。Aの独自の正義感とそれをわかっているD、そこに変動要因として登場するB、人生はどうなるか本当にわからないですね。しかしAは死に場所は知っていたと思います。またその死に方は間違っていなかったと思います。あと、違った見方ですが、AはBに対して人種的偏見があったのかもしれません。それがCを陥れた動機なのかもしれません。ジャケットの説明にはそのようなことが書いてあるのですが、どうもちょっとピントが外れてしまいそうな感じもします。しかし良い映画です。

2004  1/3

 

「セーラー服と機関銃」 相米慎二監督 1981年

静かなタイトルバックで良いです。

機関銃をぶっ放すシーンも無音で静かな感じをうまく利用して激しさを強調しておりますね。この映画自体アイドルを作る目的とそのアイドルをスター化する路線ですが映画自体もすごくよく出来ていると思います。たとえば、ボスの死んだあと、組長に高校生を迎えるとき、雑踏(高校のグラウンド)のなかで中心にひとり前に進み出るのが薬師丸さんです。本年の最初に映画をこれにしたのも正月に薬師寺に行った関係でしょうか。まあ関係ないのですが、とにかくこの映画、アイドル映画なのですが、意外ときわどい言葉ややり取りが出てきて観ているこちらがびっくりいたします。実はリアルタイムでは観ておりません。今だからこの映画の面白さがわかったのかもしれません。

赤川次郎の原作を読んでいないので、詳しくはわかりませんが、この映画、一人の高校生が、組長というか自分の判断で善悪の区別をつけられるまでになります。最後に裏切りをしている組に殴りこみに行くのですが、この殴りこみに行くまでの過程がうまく表現されていると思います。そして殴りこみのシーンの素晴らしさ、部下のふたりのエレベーターでのやり取り、降りてから、踊りながら殴り込みをかける余裕、待っている相手組長が組長室で観ている映画(劇中映画)その音楽とシーンの重なり具合、そして極めつけの機関銃ぶっ放したときの無音とスローモーション、そのなかで動かないスターと動きのある部下の対比、ここにすべてがあるような気がします。部下が向いている方向が実に絵になっております。一高校生がここまで出来るようになるのには何人もの死体が必要でしたが、その一つ一つが話としてすべて高校生を精神的に育てる効果があり、その結実の最高のシーンでした。

まず、かたきをとろうと思い始めたのは「ひこ」という暴走族あがりの部下が殺されたときでした。このシーンも上に同じく素晴らしいシーンがあり、暴走族の連中の束の中からこのセーラー服組長(以下Aとする)を乗せたバイク一台が画面の中央をこちらに向かって走ってくるのです。そして会話はとてもロマンティックなものです。すごくきれいなすがすがしいシーンですよ。ほかにも部下がAを守ろうとして死ぬときには母性に目覚めますし、相手の麻薬を扱っている組長をその娘が殺して助けてくれたときは、正義を感じたのでしょう。本当にスター制度みたいに周りの犠牲がAを際立たせるようにしていき、その答えとして殴りこみになるのです。そのAの心情はほとんど表現されておらず、客観的な事件としてこのことを示す手法をとっているみたいです。

快感という言葉には、途中新興宗教みたいな団体が麻薬を扱っているのですが、その組長が「快感は死と隣り合わせにある」という言葉が極めつけのシーンに効いてきます。死ぬ覚悟が出来ていたということですよ。

そして、殴りこみのあと組が解散し、それぞれの人生を送りますが、この短い間の経験は普通の高校生とは違うわけで、普通の人間になれそうもない、というような言葉で映画が終わります。強い人間になれるのでしょう。きっと。

最後に主題歌が流れて、銀座のロケで終わるのはなんとも楽しい終わり方です。まる。

 

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「津軽じょんがら節」斉藤耕一監督 1973年

逃げるとしたら、土地勘のある土地に。これが捜査の鉄則みたいですが、まさに絵に描いたように自分の故郷に逃げてきた女とひも。故郷といってもかつて、そこを別の男と駆け落ちしているので誰も歓迎する人もなく、さらに父と兄弟が海のしけの中で遭難した場所が眼の前なんです。その津軽の寒々しい海と荒い波が人間を小さく見せてくれます。実際に大波の前に人間が一人立つ構図がはじめのほうに出てくるのですが、どうしようもなく人間の存在が小さいですね。

ひもの方が悪いことして逃げてきたんですが、先に飽きるんですよ、田舎の生活に。女のほうは(Aとする)自分の家族の墓を立ててやるという強い意思があるんです。ですから生活に意欲的でひもを食べさせてやるという気持ちすらあるんです(ひもをBとする)。生活を立て直そうとするのは映画の端端でよく描かれてます。しかしBは途方もないところに来てびっくりしているとともに、何かしたいと変な欲求があります(やりたいことが不純なことばかり)。それがAに体を売らせて脅す、という馬鹿な提案になるんですね。しかし生活しようとするAはそんなことにお構いなく前向きです。いつも思うんですが、この二人に限らず、離れられない関係というのは存在するんでしょうね。男と女の不思議さです。この不思議さが関係ない盲目の少女(以下Cとする)にも影響を及ぼし、この映画の冒頭のシーンになるんです。冒頭のシーンがすべてが終わったあとの、愛の、生の問いかけです。では、どんな成り行きだったのでしょう。

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