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「女王蜂(じょうおうばち)」 市川昆監督 1978年

 

はじめに仲代達也氏のあまりにも無謀な若作りや、安っぽいセットなどで横溝映画は話題作ほどだめだなあ、と思って観ておりました。途中までもあまり迫力は感じないですし、話をじっくりと見ていたくらいです。ただ中井貴恵さんをきれいに撮ろうという意図はカットの随所に感じられました。あとは脇役が良いので、主役級なのに数分しか出ないんだなあ、とか関係ないことを考えてもいました。

ただ、さすがにロケの風景はきれいです。いつも思うのですが日本は変わりすぎているのでこのように20数年前の映画でも風景は貴重な資料となるのですね。

そして、能登のシーンが出てくるのですがこのころからぐっと深みを増して、さらに華族との関係について知らされるあたりで私もぐっと映画に引き込まれました。この辺は原作も脚本もいいのでしょう。そして最後の犯人の暴露についてみんなが集まったところが本当にいいですね。俳優がそろっているといえばそろってます。ここだけでも充分でしたが実はこのあとに犯人になった人の心情が手紙で明かされるのですが、このシーンは本当に愛情と優しさのこもった人の思いやりのある行動で一気に感動に導かれました。このときの俳優、演出、構図はすべてよいです。そして、結論として、どういう生き方を女王蜂が選択したか、については、あとで等々力警部も言っているようにあれでよかったのだと思いますし、まさか犯人解明のあとにこのようなドラマが待っているとは思わなかったので、実に感動したしました。

なんというか、全体とするとちょっと安っぽいのであまり書くことはないのですが、とにかく主役級の役者に質問するシーンはいい俳優たちですのでばっちりいい写真が取れていて役者やのう、と思わずにはいられません。

気楽に楽しめた2時間数十分でした。長いはずですが長さは感じないのでテンポがいいのでしょう。映画というのは気楽さも大事だと思います。

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「家宝(かほう)」 マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2002年 ポルトガル

 

パガニーニの「24の奇想曲」が印象的な映画です。そういえばこの局もパガニーニが悪魔に魂を売り渡して演奏することが出来たなんていわれましたね。私はこの最後の曲にヒントを得て出来たラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ピアノと管弦、とくにベルリンフィル、アバド指揮、プレトニエフのピアノがいいですね)ということで曲と映画のテーマが一致しているとあとで気づくんです。まあよくあるパターンですね。

 

雨の教会からスタート。何を意味するのかわからなかったですが、見終わると意味がわかります。

そして唐突に世間話のシーンが入り、固有名詞がどんどん出てきます。こんなの聞いたことあるはずがないので、まずここで躓きます。まあ見ていると意味がほぐれてくるんですが。これは監督のセンスがかなり疑わしい感じがします。ここまで観客を置いていってしまって良いのでしょうか?

あと景色の挿入がはいります。しかしこの景色の俯瞰の構図の挿入は映画全体で一定してます。さらに移動の汽車、バスの窓からの風景。これは画面展開とそのシーンがどこで行われたかの簡単な説明ですね。すごく気づくと単純なことがわかります。

次にまた意味わからず、お手伝いの女が「マリア様の絵」にお祈りしているシーンです。これは深い意味を持って映画の終盤で同じ構図が出てくるんです。また、たまたま、そのお祈りしている絵とまったく同じ構図で赤ちゃんを抱えた現実のシーンがダブります。その抱えた人はお手伝いの言うマリアのような人なんです。こういう意味もあるのでしょう。

するとこのお手伝いは司祭に相談に行くのです。まったくわからない展開ですが本当に後半まで我慢すると意味が開けます。また思うのですがこのような展開は見ているものに我慢を強いるものだと思うのです。あまりよくないと思うのですが・・・。

家の若い主Aとお手伝いの子供Bといかがわしい女Cさらに純朴な少女Dがとりあえず出てきます。こうするとAに悪影響をBとCが与えていると司祭に相談に来ているのです。そしてAは体も心も弱い、Bは青い雄牛と呼ばれるくらいの体力だけで頭が悪いやつです。Cが旧家に入ってきてよくないという関係です。実際は犯罪にまで手を出すようになるのですが。

そこで司祭の提案どおりに食事会を開いてBとCの陰謀を暴こうとするのです。Aに気をつけてもらう意味(注意を促す)が強かったのでしょう。ここでDも参加するのですが、事前に純朴なこの女性を推薦したのがお手伝いなんです。(このことはすごく深い意味があります、要注意。)しかし、Dは事前にBの求婚を受けていたにもかかわらず、さらにBを好きなのにもかかわらず断ります。このこと(Dの気持ちの中で、貧しさからの脱出、大穴をしとめた=結婚)は一貫していて、途中結婚後も、離婚しておかしくないときに「善人でお金持ちの人となぜ離婚しなければならないのか?」とまでいうのです。冷静に考えると、私がDを純朴といったのはお手伝いの言葉を信じただけです。

実際に聖母教会で結婚式を挙げます。Dの父親は娘がいなくなる悲しみをカジノで過ごします。この父親はギャンブルで破産同然になっているのです。娘の安定志向もこの辺に起因すると思います。このあとの親族だけの食事会はかなり危ないシーンで、すでにDが魔女のように見えてきます。Dの母が一番Dのこの後の行動をしめすような的確なことを言ってます。ここでCとDが張り合うのですが、Cは慈善の仮面をつけただけの問題指輪のみの女、Dは人生がギャンブルのつもりと言い合います。まあどちらが正しいのかは最後までわかりません。しかしDは大穴という表現からギャンブルと同じだったでしょう。ちなみのこの二人の女役の女優は当然美人です。「金の馬具でも馬は調教できぬ」ということですが、お金は状況を変化させる効果があることも事実です。この辺(お金とお金に執着するD)にしか物語のテーマは離れていかないのですが、ここに気づくのはかなりあとのほうでです。実際私もかなり後までDは素直でやさしい女だと思っておりました。

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