前ページ

途中、修道女が現れる前に映画の「陽は沈み、陽は昇る」の音楽が入るのですがそんな生活ですよ。これ本当。

とにかくちょっと怪しい修道院に、生活に疲れた水商売の女(A)がやってきます。とりあえず、有名人というきあ歌手みたいですが画面見ていると生活感がにじみ出てます。
この修道院をAとともに立て直す計画を立てているのです。それには遊びが必要なのでしょう。ビルヒニア(公爵の娘)の使っていた部屋に入れられて、ヘロインで落ち着かされます。起きてみると虎とか飼っているのに気づくのですが居心地が良い。なぜなら修道女はお金を寄付してもらうための仮面で生活さえできれば、エロ本は読むし酒、ヘロインとやり放題なんです。まあ魅力的に移りますよね。では寄付をどうするかです。

とにかく歌手が手に入ったことは間違いないのです。そして普通の生活でも歌を急に歌うようなミュージカル仕立ての映画になります。この歌も良いし、けばけばしい雰囲気も慣れているせいか、まったく違和感なく意外と楽しんでみております。こういう映画は楽しくて良いと思うけどなあ。

ミサも何かおかしいこというのです。「ブロンドのイブに始まる原罪」についてはここでも出てきます。この国も厳格なるカトリックの国でスモンね。しかし祭壇には黒いマリア様はいないのです。宗派が違うのか?

まあいろいろとあってマドレがふさぎこんでいるとAが慰めのために歌を歌うことになります。このころはもう静かな生活になじんでいるのですよ。環境が人を変えるとはこのことですね。楽しいショーでしたよ。修道女たちが演奏してサルサっぽい歌を歌いました。それが院長の怒りに触れ、この修道院を手放すことになるのです。しかしショーを伯爵夫人は気に入ってくれました。修道女の中に匿名で小説を書いていたものもいたのですが、その本当のことを打ち明けるとまたまた気に入ってくれるのです。そして院長に対してマドレは「ローマ法王には従います」と突っぱねて、麻薬の運び屋をやります。尼さんなら疑われないだろうと話が来ていたのです。そして行こうとした前の日Aにお礼を言いに行くとAは消えていました。そして、みんながまた悲しい孤独と直面しなくてはならなくなったのです。特にマドレ。ほかの人はマドレが救いの相手となるのですがマドレはAを頼りたかったのです。

「愛したいときには人はいない」ということですね。やっぱり修道院はつまらないのでしょう。しかし麻薬で入ったお金でどんな施設ができるか見てみたかったです。それは伯爵夫人のところで楽しいときが進行していることと思います。修道院の形にこだわった分小説家と歌手はいなくなったのです。

これ面白いですよ。

2/19

「終わりなし」 キェシロフスキ監督 1984年

タイトルのところからブレイスネルのコンサートで聞いたことのある曲からスタート。この監督については知識ばかりが先に入って、実際の映画はここにいたって始めてみるものが多いという逆の付き合い方をしております。

死んだ人間(中年の男、Aとする)の魂がモノローグで現実の世界について語ってます。Aは弁護士で相談の途中に死んでしまったわけで、その引継ぎはなかなか難航します。しかし引継ぎの弁護士(B)が定年させられることなり、最後と引き受けることにします。スト関係の案件で敵が多いみたいですね。

一方、未亡人は呆然としたまま、(愛していたんですね)夫の遺品を整理しているとポルノが出てきます。少し寂しかったみたいです。妻はそのことに気がつき、友人に相談します。まあ後の祭りというやつですが、死も突然やってくるケースは心の準備ができないので、いろいろと後悔しますよね。ポルノは妻のバイトだったんです。顔のところを切ってあります。

そして裁判の日誌には引き継いでもらった相談者の秘密の手紙が入っておりました。彼は「連帯」ではないということ、あくまでストを主張手段として採用しただけとのこと、家族が心配なこと、などが書いてありました。これを友人はBが引き受けるわけない、というのでBはかなり体制寄りの弁護士でしょう。それが引く受ける?何かあるのです。そして同じ資料のところにBの名前の欄に?がついております。本当に何かあるのでしょう。

このあたりから飼い犬はとっくに気がついているのですが、Aの魂がまだ地上にあることをが明示されます。妻が事故を起こしそうになると車が自然に止まる。このあたりから?を魂がつけたと思い、引継ぎの家族のところに行って説明します。「Bはやめろ、と主人が言っているのかもしれない」と。暗号も伝えます「娘を父親に渡すな」、妻は意味がわからないのですが、伝えると、よくわかるといいます。

そして友人などの出会いを通じてAが死んでから初めてAを理解し始めましたし、妻も自分を理解し始めるのです。しかしなぜ、英米人に体を売ったのか?それがわからない。寂しいからではないはず、なぜならばAの友人がいたから、そしてその友人が「好きだ」ということをほのめかしていたから。映画とすると、ショックな展開です。いや、妻はAが自分とあっていないという事に気づいたということでしょう。「かかえていた」という言葉に象徴されます。では誰となら合うのでしょう?難しい問いですよ。しかし、彼のことを忘れられなくて「Aと手の感触が似ていた男」と寝たのです。Aと寝ているつもりになりたかったのでしょう。孤独だといっているのと同義です。かかえていたから、愛を素直に表現できなかったけど、実は本能では忘れられないほど愛していたということでしょう。

次ページ