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このCとの間に学生時代、変な関係(不倫だと思う、Cが独身なら不倫ではないんですが、師弟の間の変なセックスパートナー)があったんです。それには「オチ」がついていてCはAをいたぶっているようで実はインポなんですね。自分自身が精神的欠陥があるのです。しかしそれを乗り越えてAは相談に来たということ、私なら、関係修復と思いますがCは契約を結びカウンセリングを週一回行うことにします。その帰りAはひとり居酒屋で刺身を注文し見ているとそこに兄の死体にたかっていた「蛆虫」が見えてくるのです。実はこの映画を今回見た日に保健所の年一回のセミナーがあり出席したのですがそこでかなりBSEの話になりました。そこで話を聞いていると、私の中でイメージが膨らんできて、肉を食べるということは?と思ったのです。牛が食べている草をそのまま食べるわけには行かないのか?なぜ、草を食べた牛の肉が食べたいのか、また牛の脳、脊髄、目玉なんかにBSEの危険が高いのだがそれらを好んで食べている人たちを中心に人間にも死者が出ていると説明を受けたとき、英国でそういう習慣あったっけ?と考えながら、牛のそのような部位普通食べるかな?と変なことを考えてました。その別の説明で乳牛で年齢が高いものの方がBSEになる危険が高いということ、そしてそのような牛の肉を砕いて牛のえさに混ぜていたことから発生率が急に高まったことなどを聞いているうちに(内容は違うかもしれません、セミナーの講師ではなく私の聞き方が悪いのかもしれません)凄く浅ましい気持ち、肉を食べるということの贅沢性を感じました。肉というのは1頭から有限にしか取れませんよね、そのため高いはずなんです。しかし牛丼とか安いんですよ、何かがおかしい。なにか年末に贅沢にディナーに追加でステーキ注文したらそのステーキだけで1万円したんですよ。総額で一人当たり18000円。本当はそのくらいが普通なんじゃないかと思い始めた矢先で現代の食というものをすごく考えさせられてます。

しかしAは表面突っ張っているんですが、孤独なんです。実は誰かにずっとそばにいてもらいたいのですが言葉ではいえない、そんな女です。結婚しようと言われた男にも「見ていて苦しい」「何でそんなにバランス悪いんだ」と言われます。このように理解してくれる人の胸に飛び込むと正解ですが、そうなるならAみたいなアイデンティティーできないんですよね。

Bとの共同生活の中でBの観念的な生活をAがあこがれていた部分があるんですよ。そして一緒に見た「世界残酷物語」(これBOXほとんどまだ見ていないです)を思い出してみてみると一緒に見たシーンがないのです。事実そんなシーンはこの映画にはありません。もうこのコンセントのシーンそのものがBの精神的限界なのです。どこにでもいける電流のようなものを意識していると思うんです。人間の精神は何かにつながれて世界とつながり、そこで見たものを頭の中で咀嚼するそんな意識構造を考えているのではないでしょうか?ちょっと「攻殻機動隊」に似ている感じがします。

Aに関してはBと教授のふたりに男のトラウマが植え付けられております。どちらも愛してはいけない人なのに、という気持ちがどこかにあるのでしょうし、コンプレックスもあると思います。そして長い間かかってゆがんだ性格が形成されたのです。さらに教授のずるさもかなりのものです。それを知っていてなぜにAはカウンセリングを受けているのか?または最後に兄の死はあなたには永遠にわからない、といわれるまで信じていたのか?この辺は私にはわかりません。しかし一緒にカウンセリングを受けているという状態が気持ち悪いなら受けてはいないと思うのです。知り合いでカウンセリングが好きな人がいるのですが、この人はだめだと思う相手に対しては一回で行くのやめます。私はカウンセリングなんか止めたほうが良いよ、と言っても無駄ですけどね。

Aは自分自身で「幻覚と幻臭がでている」「精神分裂病の初期症状だよね」という自覚はあるんです。この自覚があってなぜに心理学のカウンセリングを受けるのか?マゾなのか?わからないなあ。そして大学時代の友人に会います。彼女は「シャーマニズム」の研究をしてます。この女(D)は少しAに憧れを持っていますね。とにかくここでまとめるわけではないのですが、出てくるものすべて不安定な精神状態過ぎますよ。しかし「乖離性障害」(かいりせいしょうがい)の人がいてその人の言葉に「トランス状態になるときコンセントが抜ける」というらしい。ここでまとまってきました。友人の「シャーマニズム」研究、そのDが引き合わせた医学部助手の専門が精神病のなかの乖離性障害、そしてその患者の言葉。実際にシャーマンのように幻覚が実際に起こる様子。なにとコンセントがつながっていて、どうなるとコンセントが外れるのか?そこです、ポイントは。

そして患者のケースではトランス状態に入れることを自発的にできることを優越感を持って普通の人と差別化した気持ちを持っているらしい。

ABの場合はきっかけが愛犬の死にあるらしい。それも犬がかんだといって父親が鎖につながれた愛犬をバットで殴り殺す瞬間をふたりは見ているのです。このときからふたりは父親からはなれ、愛犬に異常な愛情の思い出を形成したのではないでしょうか。愛犬、愛するものの死、それも生まれてはじめてみる死、自分を生んだ種を持つ父親への愛情とどちらが深いか、Bは中学生くらいなので愛犬への愛情が強かったかもしれませんが、Aは父親への愛情が強いはずです。変な問題提起ですが、親子の愛情にまさるペットへの愛情はありえない、というのが私の考えです。しかし最近のペットブームではそうではないらしい、というのもわかっております。この辺がトラウマの原因です。

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