前ページ

本当に良いプロットです。4人の愛情の表現が違うのですがABDは似ていてAはそこに共鳴するのです。Cは少し引っ込んでいるけど最後にぱっとすべてをさらけ出す、タイプです。ですからいいところを持っていけるのです。まじめでなければできないですけどね。Aは最後の日Dの家をあとにするとき、愛する人と一緒になるのにはなにが必要なのか、知らされて自分にかけていたものを知ります。雨のシーンですね。次の日にCに家族旅行を提案するのもそのせいです。

「憧れではなくお互い本当に好きになった初めての恋だった」「いつかAが恋をしたときも恐れず一歩一歩前に進めていってほしい」という気持ちでとっておいた手紙だということです。桜の下で母の気持ちを知ります。そしてDの思いやりも伝わります。だってそこにCが来るんだから。私からするとちょっとの出演でおいしいところみんな持っていってしまった感じです。平田とか竹中とかの役者は本当においしいところもって行きますね。

「あの瞬間があるから今があるんだ」

はい、チーズとみんなで写真を撮って終わります。恋人もできたしBの最後の遺言でした。最高のときをAは自分のために演出したんです。

3/15

 

「海辺の家」アーウィン・ウィンクラー監督 2001年

いやらしい世の中ですね。模型作りがリストラにあって退職するとき、記念に自分の作品をいくつか持って行っていいか、と聞くとひとつだけ許可するとのこと。顧客にはCGで足りるけど、オフィスのなかにはCGを置けないですから本物が気分転換にはいいのです。しかしリストラとはね。だいたい、映画だけではなく本当の人生もそうですが悪いことは重なります。癌です。私も回りにいくらでもこの程度の人はいるので、あっそうなのという程度になってしまいました。なにがやりたい?その前にテーゼを、「あと何月しか生きられない」というのは大体違います。もうだめだというところから数年生きている人もいます。きっちり死んだらうそ。まこの主人公Aは「家を建てたい」となります。「家」は大変なんですよ。3回立てたら寿命はないというくらい。それを離婚した妻が持っていった息子と作るというのですが息子はグラムロックにいかれてます。しかし結局手伝うというのは、これはDNAなんではないでしょうか。家族親子というのはどうしても切り離すことができないものなのでしょう。これはすごくよくわかることです。愛情と生活の安定も相容れないようで実は両立できる感じもします。この親子はそれで別れたし、今でも感傷は残っているのです。また息子Bは近くにかわいい女の子がいることもなんとなく去りにくい理由のひとつとなってます。原子的な生活ができないBなんですがAは意図的にか何かをこの息子に残そうとしてます。動物としての人間、感情のある人間ということの再認識、家族の素晴らしさ、友情の大切さなどでしょう。再婚した妻のほうはなんというか恵まれているのですが家事があまり得意でないようで、料理もあまりしなければ、飲み物も缶のドリンクです。映画でよく缶ジュースやビール、ペットボトルが出てくるのですが、普通は何か飲み物を作りますよね。それができなければまず基本失格だと思うんです。そういう女でいいという男もまあ気にしないんでしょうが、Aはそういうところも少しは気になったのかもしれません。しかし妻が気持ちの上でAに戻ってきてしまうのです。お金で買えないものがありますから。はい。

映画ですからね、建てているところのシーンめちゃくちゃいいですよ。実際家というのは建ち始めればすぐなんですよ。基礎が問題。そしてその前の土地の購入や許可が一番の問題なんです。Aと元妻が仲良く踊るシーンを見てBは自分のルーツを知ります。なにか妻も戻ってきそうな雰囲気ですよ。「来ないほうが良い」と断りますがこの判断は正しい。旦那のほうも実はあきれているのです。妻は「いてもいないのと同じと言いますが、実は影で思っているんですよ」(なにか「はつ恋」の平田満みたいですが)。「愛だけでは何も成立しない」しかし「愛があれば」という感じもするのですが、Aは死んでいく身ですからね。

しかし旦那のほうもダサい、気がついていて、「ベットで待っているでは」だめですよ。Aなんて旦那が出て行ったと元妻から聞かされたとき思いっきり抱きしめているんですから。この差は大きい。結構前から思っていたんですが、どんぴしゃの描写を映画でしてしまいますね。監督は言わなくても判ることですが丁寧な作り方をしてます。

もっと言いたいことはあるのですが、なにかいい映画でした。役者もみんないい。ただそれだけでも十分でしょう。

3/16

 

「白痴(はくち)」黒澤明監督 1951年

カミングアウトしますと以前見たときは途中で退屈しました。

第一部「愛と苦悩」

舞台は北海道。

はじめから「癲癇性痴呆」白痴(はくち)だという告白から始まります。面白い。戦犯として死刑宣告をうけて気が狂ったのだという。「この世の中で真に善良であることは馬鹿に等しい」それゆえ小市民的善良な人間を主人公にしたということは考えさせられます。でもうまいですね。この善良な主人公Aが世の中に対して真摯に生きていくことで負け犬になるという話という前書きです。話の流れを言葉で飛ばすのできっとどこかを集中的に描きたかったのでしょう。とにかくこの帰国の途中に出会った青年Bとうまが合い友人となる。そのBは、ある美しい女性(私の大好きな、原節子様)Cを見初めて(映画では、Aの鬱積した欲望が爆発した、となっている)ダイヤを贈って勘当させられたが、その父親も死んでしまったので遺産も入るので札幌に帰るという。Aも友人を頼って札幌に行くという。このAも死んだものとして財産を処分されていたのです。それが帰ってきたのでちょっと後ろめたい輩は気が気でないでしょう。この連中の中にCを引き取ろうとするものDがいます。しかしDはほかの女Eが好きなんですね。まあいい加減なやつらです。人の隙に付け込むタイプです。EもまたAと同様に潔癖症なんですね。(精神的な潔癖症ですよ)今回は人がたくさん記号で当てはめてますが決してわかりにくいものではなくこれだけの人物がうまく交差し関係するのです。

次ページ