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「プリシラ」ステファン・エリオット監督 

ゲイがバーでショーをしてもゲイバーとかでなければ、お客さんの反応はいまいちですよね。いくら楽しんでもらおうと、性を超えた魅力をヘテロな方々にだすのは難しいのです。そんなゲイの挫折をはじめに見せられ、落ち込んで仲間に電話するとパートナーが死んだとの事、憂さ晴らしに旅行(地方公演)でもというのはいい考えです。シドニーから出発するのですが、自由を求めて西に向かうのです。何かおかしいなあ。日本で関東だと、厳しさを求めて北に行くとよく言うのですが、同じような方向でアメリカ、オーストラリアは西に向かうのでしょうか。まあ東が発展したどちらかというと都会ですから、そういう発想なんでしょうか。とにかくまっすぐの道を太陽が沈む方向をめがけて突き進む旅。

 しかし、ゲイは男も女もともに言えると思うのですが、ヘテロに恋したり、または片思いのケースが多いのではないでしょうか?恋に疲れた話がいくらでもゲイの映画では出てきます。この映画でもそうです。最終的には趣味が変わっているというだけで、素直ですからうまくいくケースが多いです。よって、私の考えでは「根性のひねくれたゲイほど扱いにくいものはない」です。しかし私は当然、誰も知人でいるわけでもないですよ。

まあ砂漠の中を走るのと同じ速度でゆっくりと移動します。しかし砂漠ですから、好きなこともしながら、街に寄るたび傷つきながら進みます。しかしここでも、うちに敵あり、ゲイ同士がうまく行っていないのです。またまた、車も故障します。砂漠の中でショーの練習をしていたときにヒッピーに出会います。(しかしショーはアバの曲なんですね、意味があるんでしょうか)さらに修理屋にあって、車は治るのですがメンテナンスということで同乗します。

砂漠を走っているときは、若いゲイは屋根で「椿姫」のアリアを楽しそうに聴いているのですが、やけに砂漠がこのゲイたちを成長させるというか変化させてもいるのです。そして「都会」という孤独の中でしか生きられないということを知るのです。「孤独」でないと、周りは無視してくれないのです。これがわかっただけで十分なんですが、映画はここからひどくなります。同乗した男とゲイの一人が仲良くなるんですが、この口説き方はさすがに気持ち悪い。これ多分、テレンス・スタンプでしょう。

そして、目的地についてショーをやる前に、ゲイの一人の子供に会います。一同ショック。この辺、私も映画を見ていて意味わかりませんでしたもん。当然でしょう。ゲイに子供がいるのはおかしいんですね。

それはさらにラスト、途中で乗せた修理屋とゲイが出てきてしまい、最後にシドニーに戻らないで残って一緒に暮らすというときに、仲間のゲイが「本当か」というようなこと聞くんです。この意味がわからないことと同じです。男とうまく行くのがいけないことなんでしょうか?というよりうまく続かないと思っているんでしょう。ゲイの仲間がそう思うくらいなら私みたいなのが、この映画見ていて気持ち悪いと思うのも仕方ないかもしれません。とにかくこういう、この映画のつぼの場面でまったく登場人物の心理が理解できないので、少しかったるい映画でしたけど。

m_i08.gif (1119 バイト)昔に書いたこと(2003,11/21より)

m_i08.gif (1119 バイト)昔に書いたこと(2003,12/14より)

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