12/14

 

「天国と地獄」 黒澤明監督 1963年

今見ると、怪しい音楽でスタートするんですね。あと脇役に回る役者が豪華です。さすがという感じです。今なぜ見ようと思ったのかというと、市川監督の作品が続く予定ですので比較の意味とポルトガルのオリベイラ監督との比較したくて見ました。(なにか考え方が似ている感じがするんですが手法が違うと思うんです、その確認です)

本当に横浜港を中心の俯瞰がタイトルバックに流れるんですがさすがにどこがどこだかわからない感じがいたします。靴メーカーが出てくるんですが、しっかり丈夫な靴ばかりで売れずに業績低迷している状況です。しかし「おやじ」と呼ばれる社長が出てこないんですよ。高度経済成長に入っているので、大量生産の時代ですね。デザイン性で差別化が図られているんですよ。そこでポイントですが、なぜ、この重役たちは社長を追い出そうとするのか?業績を伸ばすということと目先の流行にとらわれるということは違うことだと思います。主役Aは別に理想の靴を作ろうと考えておりました。「歩きやすく、丈夫で、デザインのよい靴」を自分が作ろうとしてます。ここでこのメーカーは三派に分かれているんですね。持分比率の計算がなされますが、駆け引きがあります。Aもたたき上げですので性格は攻撃的で「やるか、やられるか」という性格です。勝負というのはばくちですので、家も抵当に入れて、株主総会を乗り切れば自分が代表権のある取締役に選任されて会社の方針を決定できると読んでいるんです。まあほかの重役連中がなっても先行き暗いのなら勝負し甲斐があるというものです。

そんなときに誘拐の電話が鳴ります。ここでポイントのことがあり、お金は交換可能性という性質を持っているんですね。作ればいいのです。子供は個性を持ってしまっているんです。生まれたときに見えない運命で子供と親は結ばれているんですね。また子供も作ればいいというものと最近では考えがちですが、次に生まれてくるのは兄弟であって違う個性を持っているんです。さらにひと間違え(誘拐する子供を間違える)がありますね。ここで犯人はAの良心を計るんです。「子供を見殺しにする度胸はあるのか」ここに犯罪の要求が変わります。運転手の子という身近なAにとっても個性のある子供です。ここで思うのですが、この映画で描写されている子供への愛情や運転手が「土下座」して頼む土下座の意味、妻の言葉、使用人への思いなど、現代日本ではちょっと通用しないかもしれないというところがあるのは寂しい感じがいたします。(さらに子供に正直なことを語らせる演出、「子供が大事と」、この辺のうまいですね)さらに警察ですが、優秀というか「デパートのトラックで来るし、事情も聞かずにてきぱきと対応する点、犯人からの電話にいちいち説明的な言葉を言うような点」さすがに出来すぎです。しかし画面いっぱいに家の中のシーンにもかかわらず、人が交差するようなシーンもカメラと役者が同時に動くのでこちらは全体が見えていないんですが全体をうまく捉えているようでうまいです。さらに目線がいいんです。この室内の風景は本当にいいですね。特にAがかばんに細工しているときに「見習い工のときの腕が役に立つとは思わなかった、また一から出直しだ」というときに刑事一同立ち上がる、真ん中にかばんを修理しているAという構図最高です。まあ結局、築いたものはまた作れるということでしょう。部下は裏切りますが、築いていないですから今の地位保全に動くんですね。ギャンブルもできいないやつです。客観的に子供の命を助けたほうがあとの人生で悔いが残らないだろうというのは簡単ですが、実際はできないことだと思います。警察もAに「生活を守る権利はある」そして「われわれはそれを守る義務がある」というようにこの後の動きもAの動きが関係してきます。

この映画のすごいのは次に事件が動きますが、やっと外に動いたと思ったら今度は列車の中という室内なんですよ、また。この列車の中で証拠写真をとるんですがあとで役に立つというのが映像ではなく、写真なんです。ここは監督は何かいいたかったのでしょうか?

映像は情報が多すぎるんですよ。(あとで、録音でさえ何回も聞いているうちにやっとパンタグラフの音が録音されていることに気づくシーンもあります)がそこで映画についても情報が多いことを知った上で作っているということだと思います。子供が助かり、刑事たちが捜査スタートという場面4人の刑事が平行で後姿で歩き出すところで切れるんですが、動きがあっていいですね。このあとやっと外の操作風景や、犯人の行動が映し出されるんですがすごいいいアクセントです。ところがまた室内に。Aの屋敷です。背景が横浜の街で当然市民は生活しているんでバックに動きがあるんですよ。この辺の感覚もいいですね。そして、かなり本題に近いテーマである、債権債務関係の債務不履行の問題が起こります。この映画は根底に、人間の社会的契約の一部の社員契約と業務執行機関としての取締役会とその決議、会社の最高決定機関の株主総会について折に触れて話のポイントで出てきますが、そのときに比較にされるのが子供の命なんですね。どちらが大切なのか?という問いがなされているんです。子供の命のほうが重いのではないのか?そういう命をもてあそぶ、「誘拐」という犯罪を憎むという視点です。

次もまた室内で、捜査本部です。捜査過程が映し出され、その映像が広範囲に周りの景色を表現して必然的に広範囲のイメージが映画を見ていると出来上がるんですね。これは編集と進行のうまさです。構図もたくさんの人が画面に入るときはそのときの主役を中心に扇形に人が膨らむように配置されています。うまい配置ですね。あとは鎌倉の捜査のときに切通しを車が通るのですが、「西部劇」みたいに劇的な効果がありますね。この構図ということに関しては、Aの室内の様子が、玄関のドアから居間まで直線で見渡せるんですよ。これは撮影効果からそうしたのだと思います。

さて、捜査側は記者会見をして、(警察はストーリーの交通整理の役目みたいですね、ここでも説明的)マスコミに理由を話して協力してもらい、メーカーを(Aの反対側の役員で構成される)たたこうとするのです。ここでマスコミの本来の目的、機能を提示するわけです。監督の意思ですね。この効果で犯人はあせって、かばんを始末して有名なパートカラーのシーンになるのです。ここから、大体犯人を特定できてから面白くなるんですね。捜査陣が犯人を泳がせて、罪を重ねさせて「極刑に値するときに」捕まえるのです。この極刑、すなわと誘拐は極刑ということ、この罪を監督自身が憎んでいることは映画全体で主張されております。

この犯人が泳いで街に出るところがこの映画の動的部分で、いままでが室内で静的に抑えに抑えていただけにすごく鮮明な印象を観るものに与えてくれます。このシーンも山下公園から伊勢崎町にかけてが土台で、ダンスホールが本体の二重構造で盛り上げてくれます。本当にサングラスがかっこよく光りますよ。この光は後につながる光で、有名な私の最も好きな、犯人が検証に犯行現場に来たときのシーン、すなわち、画面の下から犯人の顔が上がってきて光る光と対なんです。このシーンは陰影の美しさの極致とも言える、次の格子戸から隙間をもれた光が縦じまになって犯人の顔に当たる、そしてそこでタバコをすうという本当にかっこいいシーンの前触れです。どこかでこの構図を絶対に使いたかったともいえるすばらしいシーンですよ。

動的に最高のダンスホールのシーンに続いて黄金町の旧青線地帯のシーンは、わざとらしいくらいにおどろおどろしいものです、まさに犯罪そのものの暗さです。この犯罪ということはこのすぐあとに刑事と犯人が接近してしまうときに追うほうと追われるほうの両者が同時に写るシーンで表現され、刑事たちはトンネルの光の中現場に向かうのです。この光を跳ね返すのが犯人のサングラスかのように。

最後ですがどんな教戒師も拒んでいるとのこと。この犯罪は動機がないんですよね。単にこの人がたまたま憎かったというだけなんです。ここに犯人から乞われてAが会いに来るのですが、Aはもう前向きに人生を再構築しているんですよ。それが犯人には悔しくってたまらなかったのでしょう。結局表題の「天国と地獄」は意思の差だけだったんです。未来を思う前向きの気持ちが同じ状況下でも「天国」になる人も「地獄」に思える人もいたのです。そして前向きになれなかったものの叫びが最後にこだまして映画は終わります。

久しぶりに観てさすがに、いい映画だと思いました。良いとか言う判断の上に位置する映画だと思います。タルコフスキーもあるインタビューで最高の映画10本のうちに黒澤監督も入れているのがわかる気がいたします。あとは溝口監督、ベルイマン、チャップリン、ベルッソンなどですね。すごいメンバーです。

12/15

 

「カドリーユ」 ヴァレリー・ルメルシュ監督 1997年 フランス

本当に面白い比較ができると思いますが、「天国と地獄」のAの室内と同様に、ここでの舞台となるホテルの部屋も一目でセットとわかるものですね。置いてある家具備品も安っぽい作りで、色が派手なんです。そういう意味で、この映画はフランス的な映画なんでしょう。「シェルブールの雨傘」もそうですが壁紙とか色がぶっ飛んでいますね。そして出てくる人物の衣装もいいですよ。さらに監督以外は意外と美人、美男子が多く目の保養になる映画ですごく気楽ですよ。

誰が主役ということはないんですが、ほとんど、4人の男女2組の恋の駆け引きがテーマです。違うカップルの男と女がジャーナリストである流行監督(チェコ出身の父(緻密さの記号)とブラジル出身の母(情熱の記号)、の取材に来ているんですが女のほうの友人がこのもう一人のジャーナリストの恋人なんです。ここで二人は待っている間に恋人の話とかしているんですが、女記者のほうはうまく、誘いをかわしているんです。あとから思うとこの美人記者が恋人がいなかったから今回の話は完結するのです、しかしこんな美人がいないなんてと思います。しかし監督がその取材現場のホテルの自室に来るまでに気になる女性が一人いるんです。理由がみんなサインを求めるけど、この女性だけサイン欲しいといわないから監督のほうがサインもらったというんですよ。それをインタビューでいうとインタビューしている女の(役者、サンドリーヌ・キベルラン、私は知りませんでしたが、すごく美人の女優ですよ、この映画ではファッションもいいのですごく引き立ってます。以下Cとします)友達で一緒にインタビューしている男の恋人だったんです。このインタビューも傑作で、監督の才能は2流映画ほど大きい、とか、2部屋予約しているのはなにが起こるかわからないし、もし起こっても自分はベットで一人でないと眠れないという性格だからといいます。かなりいい加減な奴です。パリは演劇がいいから舞台を見たいというと男の恋人の舞台を紹介します。そしてその人気者の自分のサインをもらわなかった女性がその役者だと知るのです。(この映画の女性監督、Bとします)

人気の映画監督(以下Dとします)と舞台が引けたあとデートする約束をしてしまうんですよ。Bは監督にぞっこんになり(ロマンティックなところにですね)恋人の男(以下Aとします)は不倫したと怒りますし、実力派の俳優の自分自身も一目ぼれして、自分が普通の女だと始めて気づくのです。(まさか簡単に恋に落ちるなんて思っていなかったんです。恋人とも長く付き合って結婚していなかったし)

CAのことを言葉より実際にあなた(B)を幸せにしているのよ、と説得します。まあロマンテックよりも現実重視ですね。

しかし、一晩でDはロンドンに行ってしまいます。まさにBは残されたんです。いわゆる行きずりの恋ですね。それでなければ2部屋同時に予約なんてしません。しかし、その数時間のロマンティックなときを忘れられないでいるのです。そして、ずるいことに恋人とDにラブレターを出します。二股ということです。それを女友達のCが預かりAには渡します。ADにもどんな内容を送ったか知りたくてたまりません。これはすごくわかる心理です、はい。ほかの男にどんな手紙だしたか知りたいですよね。Cは女友達ですので同姓に不利なことはいたしません。こんなやり取りをしていて気がつく点があります。映画のはじめからCAが一緒のシーンが多いのです。またBDの一緒のシーンが多いのです。整理するとABが恋人同士、BCが女友達同士。そこにDが現われただけです。しかし一緒のシーンが違いますね。だんだん見えてきました。やはりBのラブレターを渡したときにCAは会話が弾みます。そこでAは男としてCについて女は恋人を取り合ったかと思うと、都合が悪くなると女同士は同盟を組むと文句言いますがそのとおりです。しかしCは他人の恋人を横取りにしたりはしません。ここでCに彼氏がいないことが効いてきます。すぐに恋人の彼氏と一緒にはなれません。しかし映画上、話が弾むというか見ていて安定した関係なんです。でもABの恋人同士は結婚することになり、家を購入します。この家庭でDは一時の不倫だったとBもどこかあきらめがついたしAも長年の恋人関係を清算して結婚しようとします。そして結婚式当日。どんでん返し。

Cと抜け出して公園に逃げようとやはり土壇場で踏ん切り悪くなります。

しかし音楽とともにDが登場してBをアメリカに連れ去ります。Bも喜んでついていったんですよ。それを知らずに仕方なしの結婚になりそうなABがいなくなった経過をCが話すと納得して改めてCに求婚します。CB=友人を裏切らなくなる状況の下、女友達の元彼氏の求婚を受けて2組めでたしめでたし、となるのです。Cが美人で偉い。彼女がじっと動かなかったのでこの2組はあるべき形に収まったのです。

意外とメルヘンチックな面白い映画ですよ。

 

12/17

「フリークスも人間も」 アレクセイ・バラバノフ監督 1998年 ロシア

 

テニスを再開してかなり疲れたなかで観たので最後まで見ることができるのだろうか?自分自身でも自信なく観たのですが、一気にあいた口がふさがらないまま見終わってしまいました。かなりすごいパワーがある映画です。異常な映画のようですが、それほどではないと思います。

はじめのタイトルバックで流れる音楽は、わかりませんでしたがいい音楽です。この映画の中ではプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」の曲とかすごく効果的に使われているので多分、ロシアの作曲家の曲だと思います。ほかにはワルツ調の曲があるのですがこれは本当にいい曲ですよ。この映画のサントラは出ていればかなり買いだと思います。前に書いた「サンタサングレ」も買いですね。あれもすごくいいです。

とにかく映画は尻たたきの瞬間から始まるのでちょっと唖然とします。どういう意味かわからないのですが西洋では尻たたきは何か意味がありそうです。私の知る限り日本で行われているとは聞かないので、なにか違う文化の何かの象徴だと思います。SM的らしいのですがよくわかりません。

とにかく二つの家庭が出てくるんですが、家政婦がともに尻たたきに協力的でモデルをやったりしています。これはお金稼ぎのためで必然からだと思うのです。しかし後から出てきますが、良家の奥様やお嬢様もそのモデルになるのです。よく考えるとこの動機は何なんでしょうね。(これが???)奥様のほうは医者の奥様ですが夫をまったく愛さず、その代わりにシャム双生児をもらいうけ、育てて、音楽教育をして満足しているという変わった性格の持ち主です。お嬢様のほうは父がやはりかなりかたぎの人なんですが尻たたきのモデルをやっていて、あとになってその写真を父親の体の体調が悪いときに見せられてそのまま父親がショックで息を引き取るのです。その死後、転機として父親から生前いい子だよと紹介された写真好きの男の子に裸で尻たたかれるシーンを撮影されます。お嬢様はなんでもないのですが、男の子はかなりショックでいつかこのような状態から助けてやると心に誓うのです。このお嬢様を好きになっていたんですよ。あとでこの二人まったく違う状態ですれ違うのですが気づかないままで終わります。

奥様とお嬢様はまったく違う家庭ですが奥様のほうは尻をたたかれる瞬間に初めて恋を覚えるのです。映像とするとこの初めて尻をたたかれるときの映像は奥様役は役者なんだと思っても、それまでつんとすました奥様だったのですごく違和感があります。最後には見世物小屋の連中に飼いなされその趣向(どんな趣向だか、よくわからないのですが、スケベな連中)のみんなが見ている前で裸で尻たたかれている映像を撮られているところを見世物として見られてもなんでもなくなります。

このような奥様やお嬢様が変化するのにキーとなる連中がいて、そのような事業を始めるのです。ちょうど写真が普及しはじめ映画ができ始めたときの時代です。媒体として欲望の表現を現実ち近い感じで一般に広めることができるのです。彼らは商売としてショーを始めます。そのショーはシャム双生児が歌を歌うものです。あとは上のような奥様の姿を見世物にするのです。そのシャム双生児の歌う歌がいいんです。ウリエフという人の「リンリンリン」という曲ですが、「月光を浴びて雪は銀色に輝く、トロイカは道を飛ぶように走る、リンリンリン鈴音が響く、この音この響きが私に語りかける、月の光の中まだ早い春に、覚えているか友よあの出会いの日を、君の若い声は鈴のように響いた、リンリンリン甘く愛を歌っていた」

そして、事業主はシャム双生児を引き止めるように、アルコール付けにしていくんです。少なくても片方の子が何かに依存性ができればもう一人も束縛できる関係にあるんですね。一人はアルコール中毒になり、ひとりはお嬢様と恋に落ちます。最終的には別れ離れになるんですがいい関係になります。その横でもう一人のシャム双生児のほうはアルコール飲みながら寝ているんです。こんな関係がいくつか形成されながら奥様は最後には奴隷のようになりますし、シャム双生児は片方がアルコールで酔い、倒れて打ち所が悪く死んでしまいます。お嬢様はどこかに出て行くのですが(子供のときからずっと見ていた蒸気機関車に乗りたかったのです)、そこでも、かつての恋人になりそうな男の子が映画監督として成功して街を闊歩しているのに、お嬢様は本当に近くで、ムチで打たれることを選びます。もうやめられないみたいですね。このムチ打ちとかシャム双生児のショーを企画していた男はすべてが崩れて、(シャム双生児も死んでしまったし)一人、レニングラードの川の上を流れる氷の上に立ちながら漂流していくところで映画が終わります。この映画は欲望の深淵をのぞかせてくれる映画だともいえます。内容は予想とは違いかなりまともです。一度は見てもいい映画だとは思います。とにかく映像のドキドキ感とクラシック音楽の調和さらに画面がセピア色で統一された感じが一体となって作品に格調高ささえ与えていると思います。

12/18

 

「クルーエル インテンションズ」 ロジャー・カンプル監督 1999年

 

はじめから、お馬鹿な内容で見るのやめようかと思うほどでしたが、昔、バイトの女の子が面白いと教えてくれたのが気になって最後まで見ると、うん、面白いです。ほとんど頭を使わずに気楽に見ることができる、元気回復タイプの映画です。笑いもありましたし気分的に楽になりました。

もともと、最近は不景気のせいでお馬鹿な映画ばかり見るようになってしまったのですが最近欧州の監督のBOXが続いて到着してちょっと離れてました。

まずは感想。あまりに舞台が豪邸過ぎるのは出ている役者が不釣合いでした。あとファションセンスは良くないと思いました。さすがに高校生が中心の話ですので、感情移入はできませんが異性が気になるとか性欲が旺盛、または性に興味がある青春の一ページをありえないような話でまとめてます。

義理の姉とプレイボーイの弟が二人していろいろと、周りを茶化していく話で、最後に因果応報で罪が自分に帰ってきてしまうという話なんです。どんな展開かというと、ある新入生(キューティブロンドの主役、あれと同じようなキャラクター)を口説き落としたら弟の勝ち、だめなら姉の勝ちという賭けをやるんですがどうやっても拒まれます。理由は「自分を失いたくないだけなの」実に女心ついてます。正論ですよ。それをどう口説くか?

結局、本当に好きになったときに相手にも気持ちが伝わったのです。ミイラ取りがミイラになってしまったわけです。となると賭けはどっちの勝ちでしょう。本気になったので姉の勝ちなんです。しかし意地悪いというより、寂しいのに強がりを言っている姉は弟が本当に恋してしまったことに焦り、二人の関係を壊そうとします。壊れかかったのですが、姉は弟を無視します。ここで弟は昔と違って自分の気持ちを偽って姉の策略にのっているのですがまだ愛していることを悟られ、また姉のいじめが始まります。しかしその新入生の女の子は本当に愛してくれていることを知っているのですね。最後に決めては日記とラブレター。さらには事故で自分は死んでも身代わりで助けてくれた気持ちが一生忘れられないものになったのです。姉のほうは、この転校生に仕返しをされて裏のたくらみがみんなばれてしまい、周りからの人望はなくなります。本当の愛を知った転校生は優等生気取りをやめて自由に自分の道を歩いていくのでしょう。サングラスをかけて彼の車に乗っているところで終わります。

しかしこの映画、やたらとレズのようなシーンやホモのシーンが出ているし、何かにつけて、みんなキスがディープなんですよ。その描写は本当か、と疑ったらこの映画は楽しみが半減します。でも人にはやたら薦めることが出来ない作品でもあります。

12/19

 

「トリコロール  赤の恋」  キェシロフスキ監督  1994年

電話がポイントなんですね。昔電話の伝達性という議論がありましたが、電話は相手にかからなくてもその時間そこにいないかまたはわざとでないという可能性のメッセージを相手に伝えるという一面があるというのを思い出しました。しかし昨今の携帯電話の発達はその伝達性も変えてしまい、電話に出る前に大体誰からかかってきたのか、わかるようになっております。ずいぶんと変わったものですが、この映画では携帯電話の出てくる前のフランスが舞台です。

どちらかというと活発的な女性Aを中心に話は進んでいきます。ファッションモデルで仕事に余暇に充実しているように見える人物です。その子がたまたま車を運転中にオーディオの調子がおかしくてよそ見をしていた時に犬を轢いてしまいます。犬の首輪をたどって飼い主のところに謝りに行くと初老の飼い主にいらないといわれ、自分で獣医に連れて行くのですが、軽い怪我だとわかり、かつ、妊娠していることがわかります。そのことで愛着が沸いてくるんですが、足が治ったか確認のために首輪をはずすと走っていって、教会の中とか入った末に見失います。Aが飼い主のところに行ってみるとちゃんと戻っています。しかしいらないからもって行けというのですが室内に戻ったときに出てこないので、探しに入るとホモの会話が聞こえてきます。それは実は盗聴でした。隣の家の電話を盗聴していたのです。女の子なのでAは盗聴はやめてほしいと、というのですが、やめないといわれ、もし本当にそう思うなら、隣の家に忠告に言ったらどうですか、とまでいわれます。当然、活発な女性Aは行ってみますとやさしそうな奥さんとかわいい娘がいるんです。いわゆる傍目で幸せそうな一家ですね。何もいえないで出てきてしまい、また初老の人の家に戻り、盗聴をやめてほしいといいます。そこでこの男が判事だとわかります。

しかしいろいろな人の盗聴を聞いているうちに、ある覚せい剤のバイヤーがいたんですが

彼に対しては電話をかけたくなります。なぜなら、事前にいつか殺される運命だと教えてあげるためです。実際に「殺される」と一言、言っただけでその男は家の中に閉じこもります。このちょうどこの言葉を電話でしゃべる前にAに後光がさすのですがそういう博愛の精神が宿ったと解釈できると思います。

そして彼との電話、行き違いになります。電話は意思相通を円滑に、かつ空間の超越をなしえることができましたが、つながらないということで不安を増長させることもあるのです。

気分が悪いのでたまたま写真家の友人が誘ってくれたボーリングに行きます。このシーンがまたすごくいいのです。落ち着いた中にゆとりの時間を感じさせてくれます。いやな気分が吹っ切れていく感じが伝わってくるんですよ。

実は判事はこのときにすでにAに惚れていたのです。判事は昔、恋人に裏切られて、追い求めたが逃げられるばかりでその結果事故に巻き込み死なせてしまったのです。そのため、女を信用もせずに、出会いもなかった数十年を過ごしていましたが犬がきっかけで女性に出会ったのです。この久しぶりに出会った女性Aが自分まさに判事が裁判されている記事を読んでどんな反応をするか試してみたくなって、自分自身を警察に盗聴の件で密告します。当然Aは新聞を読んですぐに判事の家に行きます。判事の予想通りに動いてくれたんですね。Aにいろいろと話して聞かせるのですがAも黙って聞くのです。このときの時間の流れが赤のテーマ曲がハープで奏でられ本当に幸せそうな時間でした。そこで「Aの夢を見た」というのです。Aも当然意識していていい友達になれると確信してます。そのため、次の仕事のファションショーに招待券を送ります。劇場で終わったあと嵐の中、二人だけで話をするのですが、だんだん核心に近づいていきます。それはやさしさです。

映画の途中に判事が盗聴していた恋人たちは判事の密告(女のほうがほかの男に手を出していること)で男のほうが彼女に執着したために異常な行動に出て恋は終わります。(まさに若いときの判事の再現をここでやっているんですよ)。また、もうひとつ伏線があるんですが同じく判事の若いときを実際に再現する法学生がいます。たまたま道で落としてしまったテキストの重要論点が司法試験に出たんです。彼もまた人生でいろいろな裁きをしていく過程で悩んでいくんでしょう。こういう人たちがたまたまお互いを知らない中ですれ違っていくんです。これが世の中なんでしょうね。お互いを認識しあったならそれは「縁」なんでしょう。

そして、Aは判事と劇場で別れたあと、「やさしい」気持ちになっているんです。ポストに郵便物を入れられないお年寄りも助けてあげたりして、以前の活発でバレエのレッスンのあと水をがぶ飲みする時とは若干世の中に対する感性が変わってきてます。ここがテーマです。「博愛」です。

それは最後に船に乗って恋人に会いに行くとき、ドーバー海峡で船が遭難します。何人かの救助された人がいますが、「青の恋」「白の恋」の恋が重なり合い、その主人公たちが偶然そこに居合わせてすべてが救助されます。そしてAも救助されます。遭難のニュースを今度は新聞で知った判事はテレビを(テレビはAからもらったもの)子犬たちと見ていますが(子犬はAに分けてあげる約束したもの)最後のほうで見つかり、判事はほっとします。今度は心の恋人を死なせずにすんだのです。すなわち、相手を追い詰めないで理解してあげる余裕ができたことを実感できた瞬間でした。ここで終わるだろう、という瞬間にさすがに終わりました。一連の3部作も終わってしまい大事に見てきた楽しいときも一旦は終わりますが、本当に私の中ではこの3部作はすごく大事な映画です。

 

 

「未来世紀ブラジル」 テリー・ギリアム監督 1985年 英国

 

なんだかわからないうちに、タトル氏が情報省に拉致されたところから始まる。すると何か変な研究職のラインがある研究所が映し出せれるが、情報記録省らしい。するととんでもなく、空飛ぶ男が現われ、かごに囚われた女にキスをする。これはすぐにこの空飛ぶ男の夢だと気づく。朝目がさめたシーンが挿入されているからです。すると不完全な通勤準備マシンが動き出し、いろいろと準備してくれるんですが、そこは人間毎日同じものではなく、一部しか使わないし、マシンのほうも壊れている。

なにか、情報省というのは権威の象徴みたいで「真実は自由をもたらす」とか「情報省は市民の味方」というキャッチフレーズが目に入る。主人公となる男はAとすると、情報省の閑職の記録局に在籍している。母親が有力者で、昇進させてもらえそうですが、Aは呼びつけられた食事会で断る。この食事会もマダムの溜まり場でみんなどこの整形外科が良いのか自慢しあっている。出てくる食事も違う材料で同じ形のもので、ここまで画一化が図られている。部屋の空調が故障しても修理は独占で国が担当して、サービスが悪いのでもぐりの修理工がいるくらいなんですが、まあ独占の弊害が描かれてます。あと先進技術の矛盾ですね。人間はいかに平和に生きるのか、を皮肉ってます。あと人間が生きる感覚を鈍感にしたときに夢は戦うことばかり見るんです。そして、姫を助ける夢を特に見るようになってます。途中、戦う敵が「日本の侍」なのには辟易しました。その侍をやっつけて仮面をとると自分の顔があるのです。権力の暴力というところでしょうか。私も英国にいくたびに日本を風刺したものにぶつかります。そういう時は居場所がなくなります。昔はちょうど「ミカド」を見に行ったとき。この前はたまたまミュージカルで「南太平洋」見たときです。ピンクフロイドの「ウォール」を見たときも隣の方に戦争は好きか?と聞かれたことがありました。 

映画の続きに戻ります。しかし、記録局で小切手事件があり、払い戻しをしなければならないことの代理で当事者に会いに行くとバトル氏の奥様でその周辺は荒廃したスラムの雰囲気があり、その中で上の階の女性がいつもAの夢に出てくる女性だと知ります。それからはこの女性を知りたくなって、昇進を願い、情報剥奪局に入ります。そこで親友が容疑者を殺す仕事をしていて、バトル氏も殺したと聞きます。誤認逮捕だったのです。それで、逆に誤認逮捕の目撃者である「夢の人」も殺す予定だと知ります。とりあえず、Aは「夢の人」のファイルをもらい、自分が処分するといい、出かけます。すぐに誤認と主張に来ていた「夢の人」に会います。エレベーターでひと悶着あったあと、どうにか車を情報局から遠ざけて、自分の気持ちを素直に言いますが相手にしてもらえません。実際に相手にとっては初めて会う人ですし、Aは勝手に「夢の中」で出会っていただけなんです。この辺もパラノイアと夢の境目を行ったり来たりの感じがしますね。

「夢の人」を情報局から連れ出して、一緒に逃げますが、当然当局に追われます。なんだかんだでも捕まりますが、もう空飛ぶ人間との混同が入り始めまして、「夢の人」と抱き合うことしか目標がなくなります。猪突直進ですね。「夢の人」が追われているので、記録上抹殺をして死んだことにすれば追われなくなります。しかし今度は記録改ざんでAが捕まります。最後に脳の検査というか手術を行われそうになると、タトル氏が助けに来て、情報局を爆破に成功します。(この辺はもう、妄想なんですが)そして脱出に成功するとタトル氏は情報の紙にまとわりつかれ消えてしまいます(情報局爆破だから紙なんでしょうが)。そのあと、母親の葬式とかに参列したりするのですが壁にドアがあったり、穴があったりで向こうの世界にいったり穴に落ちたりしているうちに最後にタトル氏に助けられ、「夢の人」と静かな牧草地帯で生活している風景が頭に浮かびます。ここで終わりです。めでたし、めでたし。なんという映画なんだ、と思ったんですが、

このあとがあり、実は妄想で完全に狂って終わるというオチがつきます。

こうなるとメルヘンチックな終わり方と現実の社会の脱落者としての風刺が数秒の間に転換してしまうんです。いや、参りました。しかし昔観たときにはなんとも思わなかったのですが今回はすごく面白かったのは年齢のせいでしょうか。「ブラジル」とは全編に流れる音楽の名前で、頭の中がサンバのようにめちゃくちゃになった感じというふうに捉えるとわかりやすいタイトルだと思います。お勧めの映画ですよ。この分ですと「バロン」も、もう一度見たほうがいいかもですね。あれもつまらなかった印象があります。

12/20

 

「女王蜂(じょうおうばち)」 市川昆監督 1978年

 

はじめに仲代達也氏のあまりにも無謀な若作りや、安っぽいセットなどで横溝映画は話題作ほどだめだなあ、と思って観ておりました。途中までもあまり迫力は感じないですし、話をじっくりと見ていたくらいです。ただ中井貴恵さんをきれいに撮ろうという意図はカットの随所に感じられました。あとは脇役が良いので、主役級なのに数分しか出ないんだなあ、とか関係ないことを考えてもいました。

ただ、さすがにロケの風景はきれいです。いつも思うのですが日本は変わりすぎているのでこのように20数年前の映画でも風景は貴重な資料となるのですね。

そして、能登のシーンが出てくるのですがこのころからぐっと深みを増して、さらに華族との関係について知らされるあたりで私もぐっと映画に引き込まれました。この辺は原作も脚本もいいのでしょう。そして最後の犯人の暴露についてみんなが集まったところが本当にいいですね。俳優がそろっているといえばそろってます。ここだけでも充分でしたが実はこのあとに犯人になった人の心情が手紙で明かされるのですが、このシーンは本当に愛情と優しさのこもった人の思いやりのある行動で一気に感動に導かれました。このときの俳優、演出、構図はすべてよいです。そして、結論として、どういう生き方を女王蜂が選択したか、については、あとで等々力警部も言っているようにあれでよかったのだと思いますし、まさか犯人解明のあとにこのようなドラマが待っているとは思わなかったので、実に感動したしました。

なんというか、全体とするとちょっと安っぽいのであまり書くことはないのですが、とにかく主役級の役者に質問するシーンはいい俳優たちですのでばっちりいい写真が取れていて役者やのう、と思わずにはいられません。

気楽に楽しめた2時間数十分でした。長いはずですが長さは感じないのでテンポがいいのでしょう。映画というのは気楽さも大事だと思います。

12/21

「家宝(かほう)」 マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2002年 ポルトガル

 

パガニーニの「24の奇想曲」が印象的な映画です。そういえばこの局もパガニーニが悪魔に魂を売り渡して演奏することが出来たなんていわれましたね。私はこの最後の曲にヒントを得て出来たラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ピアノと管弦、とくにベルリンフィル、アバド指揮、プレトニエフのピアノがいいですね)ということで曲と映画のテーマが一致しているとあとで気づくんです。まあよくあるパターンですね。

 

雨の教会からスタート。何を意味するのかわからなかったですが、見終わると意味がわかります。

そして唐突に世間話のシーンが入り、固有名詞がどんどん出てきます。こんなの聞いたことあるはずがないので、まずここで躓きます。まあ見ていると意味がほぐれてくるんですが。これは監督のセンスがかなり疑わしい感じがします。ここまで観客を置いていってしまって良いのでしょうか?

あと景色の挿入がはいります。しかしこの景色の俯瞰の構図の挿入は映画全体で一定してます。さらに移動の汽車、バスの窓からの風景。これは画面展開とそのシーンがどこで行われたかの簡単な説明ですね。すごく気づくと単純なことがわかります。

次にまた意味わからず、お手伝いの女が「マリア様の絵」にお祈りしているシーンです。これは深い意味を持って映画の終盤で同じ構図が出てくるんです。また、たまたま、そのお祈りしている絵とまったく同じ構図で赤ちゃんを抱えた現実のシーンがダブります。その抱えた人はお手伝いの言うマリアのような人なんです。こういう意味もあるのでしょう。

するとこのお手伝いは司祭に相談に行くのです。まったくわからない展開ですが本当に後半まで我慢すると意味が開けます。また思うのですがこのような展開は見ているものに我慢を強いるものだと思うのです。あまりよくないと思うのですが・・・。

家の若い主Aとお手伝いの子供Bといかがわしい女Cさらに純朴な少女Dがとりあえず出てきます。こうするとAに悪影響をBCが与えていると司祭に相談に来ているのです。そしてAは体も心も弱い、Bは青い雄牛と呼ばれるくらいの体力だけで頭が悪いやつです。Cが旧家に入ってきてよくないという関係です。実際は犯罪にまで手を出すようになるのですが。

そこで司祭の提案どおりに食事会を開いてBCの陰謀を暴こうとするのです。Aに気をつけてもらう意味(注意を促す)が強かったのでしょう。ここでDも参加するのですが、事前に純朴なこの女性を推薦したのがお手伝いなんです。(このことはすごく深い意味があります、要注意。)しかし、Dは事前にBの求婚を受けていたにもかかわらず、さらにBを好きなのにもかかわらず断ります。このこと(Dの気持ちの中で、貧しさからの脱出、大穴をしとめた=結婚)は一貫していて、途中結婚後も、離婚しておかしくないときに「善人でお金持ちの人となぜ離婚しなければならないのか?」とまでいうのです。冷静に考えると、私がDを純朴といったのはお手伝いの言葉を信じただけです。

実際に聖母教会で結婚式を挙げます。Dの父親は娘がいなくなる悲しみをカジノで過ごします。この父親はギャンブルで破産同然になっているのです。娘の安定志向もこの辺に起因すると思います。このあとの親族だけの食事会はかなり危ないシーンで、すでにDが魔女のように見えてきます。Dの母が一番Dのこの後の行動をしめすような的確なことを言ってます。ここでCDが張り合うのですが、Cは慈善の仮面をつけただけの問題指輪のみの女、Dは人生がギャンブルのつもりと言い合います。まあどちらが正しいのかは最後までわかりません。しかしDは大穴という表現からギャンブルと同じだったでしょう。ちなみのこの二人の女役の女優は当然美人です。「金の馬具でも馬は調教できぬ」ということですが、お金は状況を変化させる効果があることも事実です。この辺(お金とお金に執着するD)にしか物語のテーマは離れていかないのですが、ここに気づくのはかなりあとのほうでです。実際私もかなり後までDは素直でやさしい女だと思っておりました。

そして、この4人がイタリア旅行に行ってしまうので話がわかりにくくなります。この旅行は実はブラックボックスで映画のあとにかなり自由に考えることが出来る余地のある時間となります。私はのちにBをしてAの子供をCが身ごもったのか?というせりふから考えてここでACは肉体関係があると思います。ここでもDは一人先に帰ってくるのです。

「病気そのものは治療が出来るが置かれた状況により不治の病になる」ような状態に4人の関係がなっていきます。犯罪に手を出していきます。そんな中、母が死んで葬式。

それと同時期に警察の手入れ。Dはものすごく怒ります。良家に嫁いできたはずなんですから。そこで昔から知り合いで好きあっていたBDにあまりかかわりを持つなと、忠告に来てくれます。Bはもう覚悟を決めたのでしょう。もしこの家に残ったら君の負けだと教えてくれるのです。まさに人生はルーレットですね。心は優しいのだから、と思うのですがなんとDは「やさしさ」なんて「単なる礼儀の問題」というのです。礼儀を守っていれば傍目にはやさしく見えるといういのです。いやー、パガニーニの音楽がこんなところで効いてくるとは。それはDの本質の恐ろしさを表現した音楽だったのです。

A,B,Cはどんどん落ちていき、心の弱いAは自殺、Bは自首、Cは国外でどうにか生活しています。このAの葬式のときにDAすなわち自分の夫だったひとがお手伝いの子供だったと知ります。すなわちABは兄弟だったのです。それでAはこの家の正当な当主ではなかったのです。それをマリア様の前でお祈りしているお手伝いの姿を見てその告白を聞いてしまったのです。

そして最後の弁護士とのシーンでBについて「女性の奴隷、快楽と豊かさの中にしか居場所を見つけられなかった」といい、Aについて「うそとみせかけと裏切りに囲まれていた」というのです。そして弁護士の求婚に笑って終わるのです。この笑いの恐ろしさはパガニーニの音楽にも負けません。ぞーーとしました。

12/22

 

「リゴレット」 ヴェローナのアレーナでのオペラ祭 演出カルロ・リッツアーニ ビデオ監督ブライアン・ラージ 1981年 イタリア

 

このオペラのよさはなんといってもテーマにもかかわらず曲のよさです。なんとも良い曲ばかり並んでいることでしょうか。もうはじめから素晴らしい。特にマントヴァ公爵邸の「どれもこれも私にとってそこらの女と同じ」から「チェブラーノ殿よ、まさかお怒り?」まで一気に、管弦のリズムと抑揚が本当に素晴らしい。はじめから釘付けになりますね。内容は破廉恥さわぎとせむし男が出てくるとはまったく思えないメロディです。まずはリゴレットがよいです。(バリトン、ガルビス・ボヤージアン)。

リゴレットのいじめ依頼(これが後に亡霊さわぎとなります)や秘密がでてきて、そこにジルダ登場です。ここも本当に劇的に盛り上げながらもスムーズに登場します。そして親子の二重唱良いです。(ソプラノ、ジルダ役アリーダ・フェッラーニ)。リゴレットが「故郷も身よりもない」「ジルダだけが生きがいなんていっているので孤独なので異常なまでの愛情を娘に注いでいることがわかります。しかし世間から遠ざかって生きているのですね。リゴレットが退場してからの「ジルダの秘めた恋」がわかり(一目ぼれですね)「愛こそ心の輝き」の二重唱もいいです。まさにお互い一目ぼれの強い愛情が表現されます。この曲の中で「二人は愛し合っている」というフレーズも良いですねえ。ジルダの楽しそうな顔も印象的です。愛についてとくとくと語って歌い上げます。「私を愛すると」「言いました」とこのときにリゴレットが戻ってきそうなときのスリリングな音楽と「さようなら私の希望よ星よ」も良いですねえ。恋人が去ったあとのジルダの独唱「グァルティエル・マルデ・・愛する方の名」このアリアはばっちり決まってます。初恋のときめきがうまく歌い上げられていいですねえ。最後にリゴレットが目隠しをされてだまされて伯爵夫人を誘惑しろと言われている間にジルダの身に何か起こって第一幕終わります。話はすごく暗いのですが、本当に何でこんなに美しい曲なのでしょう。すべてが美しいです。話の内容はどうでも良いくらい本当に美しい第一幕で

す。

第2幕

第一幕の終わりのジルダのアリアに対応するかのように公爵の「誰が奪ったのか」「わが目に浮かぶはあのひとの涙」がいいですね。マルデが偽名でこの名を知っているのが愛の証しと歌い上げます。二人しか知らない名前ですね。

道化の勝負はどうしたのだと大衆(合唱)内容知らないで待っていたほうが良いというのですが、リゴレットがジルダが連れ去られたことに気づきます。公爵もジルダが間違って連れ去られたと思い、部屋に向かいます。ジルダを追ったリゴレットは笑われるだけですが、しかしリゴレットは「側近ども、いいや悪魔」を歌い上げます。(ジルダを守るぞと)バリトンの妙味に尽きる歌ですね。ブラボー。

ジルダはやってきてみんなにお披露目、しかし何か言いたそうなのでみんなを去らせて話を聞くと辱めを受けたといいます。そして、好きな人がいると、「日曜教会で祈るたびにある若い方と運命の出会いが」と歌い上げます。秀逸な歌で、このオペラの陽の部分を構成します。本当に愛の歌もいいオペラです。「恥辱はおれだけにと願ったはずだが」と親子一緒に歌う二重唱も最高の出来で、リゴレットの運命が決定します。敵討ちですね。ジルダは心配するのですが「そう、見てろやがてこの手でかならず敵討ちを」と第2幕は壮大に幕を閉じますが、再三言ってますが音楽聴いているだけなら、壮大なオペラだと思うでしょう。単にせむしとその娘の恋愛、恥辱仕返しと因果応報の亡霊さわぎだけなんですがヴェルディは何でこんな良い音楽をつけたのでしょう。本当に良いです。「椿姫」も娼婦ですし、そのような社会的に日の当たらない人の人生を描いたオペラの一環ですね。みんな最高の出来というのも皮肉でしょうか。

第三幕

女好きの公爵が出てきます。それも「風にゆらぐ羽のように女心は気分しだい」を歌います。この歌は白眉ですね。第三幕はここと亡霊のみでしょう。

そして娼婦といちゃつくところをジルダとリゴレットは見てしまいます。しかし、本当はジルダに対するほてった気持ちをさませたいという気持ちからです。リゴレットは仕返しするつもりでジルダに家に帰って馬と金を持ってヴェローナに行けと言います。そして殺し屋を雇いますが、殺し屋はリゴレットも殺してすべてのお金を奪おうとします。

それをジルダは聞いていて、好きな公爵の身代わりになろうとします。それで代わりに殺し屋に殺されます。リゴレットは後金を持って死体を交換に受け取り、川に捨てようと思います。しかし、「女心の歌」が遠くから聞こえてくるではないですか?ではこの死体は?顔を見てしまいます。すると娘です。悲観にくれて、先ほど、第一幕ででてきたリゴレットが伯爵と一緒にいじめた、一人の伯爵が死んでも亡霊になってやるといったことを思い出して、亡霊か、と因果応報で自分に罪が回ってきたと嘆くのです。しかし本当に良いオペラです。しかし最近すごく有名な割に中心人物がテノール、ソプラノではないカルメンといい(メゾソプラノ)、このオペラといい(バリトン)意外と上演されるケースが少ないオペラばかり見ています。

12/22

 

「六月の蛇」 塚本晋也監督 2002年

 

久しぶりに見ました。劇場で見てから半年くらいでしょうか、また印象が変わりました。

この映画を見たあとに、塚本監督のほかの作品を見たせいか、すごく異質の作品に思えるようになりました。やはり「鉄男」が一番です。

基本的に塚本監督は三池監督とともに好きな監督です。

この映画は夫婦の性を扱った映画で、たしか監督が上映時「中年のおじさんが元気が出るように作った」と言っていた記憶があります。そうなのか、よくわからないですが夫のほうがちょっとおかしいんじゃない、という人間ですのでゆがんだ夫婦関係になるのでしょう。

 

妻のほうは「心の健康相談室」のカウンセラーをしてまして、かなり常識的に判断できる人間です。しかし、誰にでもある性的欲求は当然持っているんですね。しかし夫のほうが潔癖症でうまくいかないんです。夫は掃除が好きな潔癖症で、お金持ちと男として無視さえすれば、先日のオリヴェリラ監督の「家宝」の主人公からするとこの上ない結婚相手なんです。しかし塚本監督は違うというのですね。夫婦の健全な性生活が普通だと言うのです。これは最後に実現します。

そのきっかけは妻のほうがカウンセラーで心を救ってあげたカメラマンなんですね。まったく手も出さないし、最後にがんで死んでいくのでお返しのボランティアだったんです。ちょっと過激ですが。

妻のみだらな状態の写真を撮って送りつけて、ネガが返してほしければ、言ったことをしろ、と迫ります。「いつも言っているように心の中の願望は果たさなくても良いのか」という問いかけが効くのです。実際命令どおりに、妻にミニスカートをノーパンではいて街を歩いてバイブレーターをさしたままさらに歩かせるのです。そして妻のほうの欲望を深くさせるのです。これで本当は終わりのはずでしたが、妻にその写真を撮って脅した写真家が「病院に行ってくれ」といいます。実際に病院に行くと「乳がん」でした。もう片方の乳房を取らなければ転移してしまいます。夫は完璧主義ですので、妻の乳房がなくなることも嫌がります。そして妻はとらなくてもよくなったと、転移覚悟で言います。もうこの時点で写真家も癌で死ぬ一歩前でしたのでこの夫婦に関係なくなりますが、妻のほうが逆に写真家にお願いをして同じ行動をもう一度写真に撮らせるのです。しかしひも付きの依頼で、夫にわかるようにとってくれといい、さらに撮った写真を夫に上げるというのです。夫のほうは妻の行動がおかしいと電話が写真家から入り、疑っていたのですが、実際に尾行すると、ノーパンでミニスカートさらにはバイブレーター入れっぱなしで街を歩き、写真家と約束の場所で欲望のなせるままに乱れます。それを写真で撮ってもらうんですね。尾行してきた夫もそれで欲情して、一人で射精します。これでめでたしめでたし、の夫婦関係になると思ったら大間違い。夫は写真を見て妻の本当に姿を見たいといいます。この夫はどこまでも目の欲求が優先するんですね。その写真を取りに来た夫を写真家はお仕置きをします。写真にあるのが本当の妻の姿なのに、と夫に言い聞かせます。本当に自分が死ぬのがわかっているので人を助けたいのでしょうか?。夫はもう裸にされ、めちゃくちゃなことをされますが、一番効いたのは「妻がわざとみだらな写真を夫に見せたい」ということを写真家が夫に言ったときです。妻の本当に姿とともに自分の本当に奥に隠れた欲望に気づくのです。すごく暴力的な人間でした。そして夫婦の関係がはじめて成立している中、映画は終わります。当然、写真家は死にます。

今回改めてみていて、夫のだらしなさがみょーにイラつきました。この役者も嫌いなタイプなんですが、私が妻なら見限って、お金持ちなので離婚せず、別の人生楽しみますが、塚本監督は夫婦の蘇生で中年の男の勇気付けを行ったのでしょう。

 

12/24

 

「熊座の淡き星影」ルキーノ・ビスコンティ監督 イタリア  1965年

 

もう、素晴らしいの一言です。賞賛するシーン、構成、俳優いくらでも出てきます。

まずはクラウディア・カルディナーレの扮する旧家のお嬢様をAその弟をCその夫をBとします。もうAの視線とその眼光はひとつのテーマです。素晴らしい。この監督はロミー・シュナイダーといいシルバーナ・マンガーノといいなんと美しい撮りかたが出来るのでしょう。もともと美人の俳優ばかりですが、この監督にかかると、もう存在自体が輝けるようになってしまうのです。本当にすごいセンスの持ち主だと思います。

結婚式のパーティのシーンのフランクのピアノ曲を使ったメリハリ、そのあとの疲れた様子でのメリハリのつけ方、本当にうまいです。さらには車での移動のショットが続いてピアノ曲がフォルテを迎えたときにハイウェイも通りすぎ、ちょうど田園地帯のなか、乗っている車が映し出されますが2シーターのスポーツカー(BMW)、カッコいいし背景が大空と田園風景でばっちり決まってます。程なく故郷のボルチェリに着いて、聖フランチェスコ門など自分の故郷について説明します。家に着いたときの門の大きさと車がマッチして違和感なしに、絵になってます。さらに、自分の家のドアを無造作にたたくしぐさが一瞬出るのですがこの先の運命を予見したかのようにきれいです。そのときの顔は獣のように鋭い顔ですよ。家に入って電気のスイッチをつけた瞬間に広がる、豪華な居間、すばらしい、奥行きのある映像です。これは本当の奥行きですね。本物を使った豪華さです。これと対になるシーンが母親の部屋にABCを外に意図的に追い出して、入るときにあるのですが、まったく同じです。入ってその瞬間の顔の凄み(獲物を追うような)そしてスイッチをひねったときに出てくる部屋の豪華さ、一段と上の部屋です。ですから豪華さの重ね塗りです。

自分の部屋で簡単に下着になるときの軽いしぐさ(自分の家ですから当然です)と体の線のアンバランスな魅力。かなりウェストが締まって魅力的です。そしてくつろぐ様子。さらにははじめの食事のシーンでの、「英語の歌を(ラジオから)」バックに「これからここにずっと住むの」というときの顔と目、やはり迫力があります。どこにこの魅力があるのか、これからわかってくると思います。英語の歌でアメリカのメロドラマぽく、バルコニーに出ると、お手伝いが窓から様子を伺っており、その先に人影があるのです。もうまるで「ロメオとジュリエット」の1シーンみたいです。その影を追っていくと、(これぞ構図の勝利)長まわしの中、銅像に抱きつくとCが始めて登場します。あの影はCだったのです。追加ですが食事中、鼻の下に手を置いて笑うAはまたこれからを示唆するかのような魅力があります。素晴らしい写真ですよ。

Cが小遣いのために家財を売ったことが判明し、Aは独りになりたいといい、CBと一緒に出て行ってくれと頼みます。BCをボルチェリの街を案内するのですが、大自然の中にいる小さな人間のようです。そのあとのサンジェスト教会の階段でのシーンもきれいな構図です。そこでBすなわち夫はAの過去の話を聞きたがります。Bは逆にAがアウシュビッツの話をしたときに急に人が変わったかのように溶け込んできたというのです。何かのきっかけです。そしてBCはバーに着きます。このバーでイタリアのカンツォーネとはまた違う歌謡曲が流れてます。そしてそこにいたAの初恋の相手を紹介します(だましているんですよ)。この時点でBC,と初恋の相手Dの3人で一番かっこ悪いのBなんですが、意味あるんでしょうか?笑い。この日、BCが家に帰ってきてもAは部屋に鍵をかけて入れません。このときAのゴージャスな下着を堪能できます。そしてバックに流れているのは「好きにならずにいられない」のイタリア語バージョン。Aの目はここでもきれいです。抱かれるのを待っている目ではないんです。そして母親(義理の母)に会いに行くのですが母親はピアノを狂ったかのように弾いて、Aを相手にせず、夫すなわちAの父親の秘密をAに語ります。それは父親がユダヤ人であったこと。そのユダヤの血(ここでは臆病、卑怯、悪党といわれます、明らかに義理の母は偏見を持ってますね、さらに実の夫に対して言っているんですよ、どういう夫婦関係だったんでしょうね)がAにも流れていることです。先ほどのCが語った知り合ったときのきっかけがここで生きてきます。しかし母親には何で帰ってきたとののしられたままです。

次の日のABの夫婦の会話、Aのバストを隠したバスタオル姿を堪能できます。しかしその姿とは裏腹に話す内容とその声は下品なものです(このバスタオルシーンはどきどきします。わざと入れたな、という感じですね)。監督はこのギャップ狙ってますよ。

この前に、町の役場でCが勝手に町に提案した庭を一般に開放するという契約書に無理やり、事前に知らされることなしにAはサインさせられます。このサインのときのAの目は鋭く光ったままです。そしてABに母親が、父親が死んだあと、ジラルディニという恋人と別れたこと。これは夫の死を新しい恋人を作り忘れようとしていたこと。しかし結局結婚してAが嫌うジラルディニ(以下Eとします)が家長になり、兄弟別々の学校に文句言わせないように入れてしまったこと。これに反抗してCが自殺してみたこと。このジラルディニが弟Cの狂言自殺に対してしつこく言い寄るのでACは手紙でやり取りをするようになった経過などを話して、実際に手紙に秘密の隠し場所などをBに教えて行きます。すると実際に手紙があったのです。Aは昔のものと思いますがどうなんでしょうか。

父親をユダヤと告発したものが関係していそうですね。Aは母(義理の母ですから)をあまり好意的に思っていないんですよ。ですから財産権は兄弟にあるのです。それでAの実家(育った家=父親)に対する思いは強いんですよ。すべてのシーンが物語ってます。

 メモにあった待ち合わせ場所に行くと(従朴なる下僕、夫にはDと言うのですが)Cがいます。DACEの目を盗んで通信しあったときの連絡係やっていたと言うんですよ。そのままCの部屋に行き、この映画のタイトルの戯曲を読まされます。夫BEの話を聞いていて、どうにかAEの間を取り持つようにしようとしているんです。

戯曲の内容は兄弟が昔、愛し合っていたことです。Cは姉への思いを断ち切るようにほかの人を愛したのですが、出来ないでおかしくなりそうなところでした。姉の結婚がおかしさに追い討ちをかけます。

このような状況の下、ABCDEが一緒に会食をします。提案は当然Bです。終始、Aの表情はすごいですよ。しかしBEから話を聞いてACの近親相姦を知っているんですよ。それでこの会食でどうにか整理しようとしているんです。弟のCを殴る夫B,CBをいままではアメリカ人と馬鹿にしていたんですがもう反論できません。殴られ逃げるだけです。多分姉に会えない怖さがあるんでしょう。またACを擁護します。このシーンは迫力満点。いいシーンです。ABを捨てかねないんですから。かと言ってCと一緒に離れないしねえ。

結局Cと別れられないAを捨ててBはアメリカに帰ります。ACへの愛を父親への愛情とか、不幸の娘という仮面の下に隠していただけで自分を偽っていたんです、いまだにCを愛しているし、Cもすごく愛しているんです。この感情はどうしようもないものです。もう愛情の深淵に入り込んでいきますよ。使う言葉が素晴らしい。そういえば「熊座の淡き星影」のヒントとなったレオパルディの詩は次のようなものです。「熊座の美しい星 ふたたびここに戻ろうとは

家の庭を照らす光 ふたたび夜空を見上げる 子供の頃のように 幸せを失った頃のように」なんです。まさにこの再び照らす光が戻ってきたんですよ。しかしAは夫の下に帰っていきます。それを察知するかのごとくCは死んで終わるのです。近親相姦の気持ちはあるのですが社会の規範が許さないのです。それで社会で生きようとするにはこうするしかないし、弟のほうは愛情が強すぎたのです。

この映画、全編にわたって本当にセザール・フランクのピアノの曲が時には盛り上げ、静かに愛の形を導いていくのです。それが近親相姦であっても深い愛は愛で、崇高なものだと思います。じっくりとした本当にいい映画です。姉のほうは弟をそれほど思っていないかというと、そんなことはないと思います。ではなぜ、夫の下に戻るのか?それはこれからは兄弟とも年を取っていくからです。そして情熱だけではどうしようもないお互いの理解が必要となるのです。それを冷静なBに求めたのです。

12/25

 

「獄門島(ごくもんとう)」 市川昆監督 1977年

 

この映画もまったく原作の記憶が消えてます。獄門島のいわれが「藤原純友の一族が北の固めにした島、すなわち北門島、ごくもんとう、となまった」というひとつの説が冒頭に出てきますが、確かに瀬戸内海ははるか昔から利権の争いは絶えなかったでしょう。それはこの映画でも何回も島が重なる景色がでてきますがあれだけの島が数あれば隣の島に行くことも来ることも簡単ですし、支配権の範囲の限定は難しかったことと思います。平家の落ち方も、一の谷のあと屋島、壇ノ浦と瀬戸内海沿いです。

横溝氏ですが、岡山を舞台にした小説が多いですね。「八つ墓村」もそうですね。まあ、今回は出発点が岡山だというだけで、獄門島がどこの県に属するかはわかりません。また簡単に線引きできない慣習もあることでしょう。

この映画は、この瀬戸内海の美しさに尽きると思います。はじめ、獄門島に着いたときの船着場から見える瓦屋根の家々、その折なす風景が本当に美しいし、海もきれいです。

あとは、いつものように、これは映画なのか、テレビドラマとどこが違うのか、なんて思いながらリラックスしてみていれば終わるという安易な映画で本当に気が楽です。下手に感動しないし、怖くないし、驚きもなければ笑いもない。ではなぜ見るのでしょう、何か人間のつながり、関係などとともに失われた習慣などが出てきて、これらすべてが新鮮に映るからでしょう。しかし今見ると、笑えないほど、同じ役者が同じような演技をシリーズとはいえよくやるもんだと感心します。ではなんで一時期この作者とこの監督のシリーズが製作され人気を博したか、ということを考えざるを得ません。古い日本の慣習に、深く人間のおくに潜むはっきりと割り切れない人間関係が、ちょうどぴったりとマッチしたことが郷愁もこめて人間関係の民族の日本人に受け入れられたのではないでしょうか。

あとは別に感想らしきことは何も感じないで、のんびりと、考えもせずに最初から最後まで見ているだけでした。そういう気軽さが本当にありますね。まあ金田一がいつも事件が終わってから推理を披露するのでそれを見ていれば良いだけですし、犯人の予想をするほど複雑な内容ではありません。しかし今回も犯人の予想は外れました。それは途中で挿入されるカットで見当をつけるのですが、その一連の映画の中でのカットが犯人を示唆しないので考えても無駄なんですね。それよりも監督の術中にはまって楽しく見たほうが良いですね。

 

最後に今回も女優人はきれいでした。特に司葉子さん、大原麗子さんこの時期でもまだこんなに美しいとは思いませんでした。DVDは残り一作になりました。また気が楽になりたいときに見ることにしましょう。日本映画でシリーズ化される作品は気が楽になる内容の映画が多いですね。映画くらいのんびり見たいですよね。

12/26

 

「怒りの日」 カール・テオドール・ドライヤー監督 デンマーク 1943年

 

1623年のころ、魔女狩りのときですね。私はよく知らないのですが魔女狩りはプロテスタントの台頭と関係するのでしょうか?ちょうどこの頃はプロテスタントの台頭の時期ですね。

とにかく魔女狩りの処刑の時の歌で始まります。

「怒りの日がこの世の終末を呼び太陽は暗闇に沈む

怒りの日硫黄と炎が降り注ぎこの世の美景が滅ぶ

怒りの日ラッパが眠りを破り苦しみの時を告げる

怒りの日トランペットが生者と死者を呼び墓を暴く

怒りの日主の法廷で悪魔のおそろしい罰が示される

怒りの日最後の審判が下り雷光が罪人たちを打つ

怒りの日主の御前で恥と罪の衣をまとう人々を見よ

怒りの日悪魔がロープで・・・」

このままの内容でした。

若い魅力的な女性をAとしましょう。このAは後妻で夫は牧師Cです。Cの前の妻の子供Bが引っ越してきます。ABは同じくらいの年。Cは明らかに若い後妻をもらったのです。これがお母さん(D)の怒りに触れてます。DAを家に入れるのを猛反対したのです。そんな、一発触発の環境の中、魔女狩りに追われた女が匿ってくれと家に逃げ込んできます。なぜなら、前の奥さんは、魔女と告発されたにもかかわらず(魔女として死んでいくものは誰かを告発するんですね、これでは魔女がいなくならないわけです)火あぶりにあいませんでした。なぜなら、早い話、牧師が手を回したのです。この魔女の認定者は捕まり、告白させられます(悪魔とどこで契約したかですよ、悪魔ですからね、信じられないところですが)。結局火あぶりになるのですが、死ぬ間際に牧師たちを「うそつき、偽善者」と言いながら死んでいくのです。

しかし、牧師は罪の意識を持ち始めます。実際にAの夫も母に「神に対してうそをついた」というのです。それに対して母は「Aの目を見たか」といい(実際に意志の強そうな目をしております)魔女になったかのような目であり、いつの日かAを取るか神を取るか決定しなければならないときが来るだろう、といいます。

Aの目は恋愛をした目なんですね。Bとの恋愛のシーンが続くんですがAの方が積極的です。そしてAは楽しそうにしていて、笑いもあります。この、Aが笑う様子は牧師である夫もその母も嫁いできてから一度も見たことがないらしいんです。そのくらいのめりこんでいて、最終的にはBはこんな恋愛いつまで続くのだろうか?といっても、Bが愛してくれる間は大丈夫、(私から好きでなくなることはない)というようなことをAはしゃあしゃあというのですよ。冷静に考えると、人妻であり、相手はその夫の元妻の子供なんですね。このような関係は血のつながりはないのですが(最近近親相姦とかの映画ばかりなので、笑い)、一般常識的にありえない、起こりがたい関係だと思うんです。その関係をなんでもなく続けることがこの映画では魔女的なのです。ということ、すなわち、法律上の関係を超えて愛を知ることは魔女の仕業なのです。Bは当然、この愛に終わりが来ることはわかっています。しかしAはその上でさらに、愛を楽しんでいるんです。Bは常識に縛られ、Aは恋愛は自由と今では言うのは簡単ですが1943年当時でさえ、難しいでしょうし、舞台は1623年です。BAにしばらくは別れていようというのです。

そうこうしているうちに、火あぶりになった女の言うように主の牧師は病で倒れ、Cがお見舞いに言っている間に嵐になります。そして「神からいただいた魂は神に」「この世からいただいた体はこの世に」返すといって死にます。嵐の晩に夫がいないときにABにしばらく別れていようといわれたのに、迫ります。しかしBAが父の妻である、と退けます。そしてACもうまくいかなくなります。というより感情がなかったことが表面化します。CもAの意思を確認せずに結婚してAの青春を奪ったと反省しています。Aは子供がほしかったのですがCにはもう体力、熱い情熱がなかったのです。ここでABのことを好きな気持ちを伝えると、Cを呼ぼうとして激怒して倒れ、そのまま、発作で死にます。そのことがこんどはBの罪の意識を高めます。Bは父が自分たちの恋愛のせいで死んだと思うようになるのです。Aはもう許されたというのですがそんなAに対してBは父の死を願ったであろう、というようになるのです。ABへの愛が唯一の罪というようになります。愛しさえしなければ、こんなことにならなかったはずなんですから。そして夫の葬式の場面、Bがこんどは牧師になりますが、おばあさんD(夫の母)がAが殺したというのに対して、Bはいかなるものも父の死に責任はないといいます。ここではAへの愛情というより好意または知人への情けなのでしょう。しかしおばあさんがAを魔女で告発すると、Aは素直に認めます。愛がもう終わったということです。Aは愛が生きがいだったのです。愛がなければ死んでも良いくらい愛していたんです。うーーん魔女なんですねえ。

「怒りの日主の御前で恥と罪の衣をまとう人たちを見よ」

「怒りの日悪魔がロープで罪人を吊り上げ天国へ運ぶ」

「怒りの日悲しく聖なる涙 主は血で我らを救いたまう」

まさにこの詩のとおりになって終わっていくのです。

たまたまクリスマスイブの聖夜午前0時のミサに近くの山手カトリック教会にいってきて、キリスト教についてちょっと考えたくなり、この映画を見ました。この映画「怒りの日」でも主は存在していました。沈黙してますが。構成はいい映画だと思いますよ。

12/27

 

「アンナ・パブロワ」 エミーリ・ロチャヌー監督 1984年 ソビエト、イギリス合作

有楽町マリオンのオープニングの作品でしたね。

バレエ教室を覗いてバレエに憧れを持つシーンで始まります。このように子供時代の憧れは大事にしていきたいですね。映画でも子ども自身が興味を示した自分の興味を大事に育てていくのです。

プティバに面接を受けるんですね。

そしてバレエ教室が良いですね。「自然から学ぶんだ」といって森にも行きます。

そしてミハイル・フォーキンに出会います。理解してくれるんですね。厳しく見てくれるんですよ。これがいい助言になるんです。いい出会いも必要ですね。こういうことが積み重なって芸は磨かれるのでしょう。

大人のパブロワ役はカリーナ・ペリャ−エワですが美人です。本当に美しい。セルゲイ・ディアギレフと出会います。プティバと当然対立しますね。振り付けが違いますもん。ディアギレフが正しいとフォーキンとパブロワは思います。しかしパブロワはマリインスキーに残ります。新しいのは自分で作りたいのでしょう。そして「ジゼル」でデビューするんです。プティバの振り付けです。カメラワーク最高です。舞台後ろからも撮ってます。(ジゼルの)墓場でのシーンは照明、衣装すべて秀逸です。

ディアギレフは黒いバラをマリウス・イワノビッチ(プティバ)に捧げます。(プティバの演出に感動したからです。)ここで(夫になる)ダンドレに連れられてネバ川に来ます。この川は先日も「フリークスも人間も」に出てきた川ですね。

次にメイクしているシーンから映る演目はわかりませんがクレオパトラの役みたいです。すごくきれいですよ。そして生活の充実と特訓の生活がうまく日常生活の楽しさの中で表現されます。たとえば、雪の上でのパーティー。そこでかかる歌はいい歌ですよ。ロシアの民謡ですが名前はわかりません。

そのあと名声が出たあとで、あえて猛特訓やるシーンがあるのですが、この教師は誰でしょう?この段階で練習すると名声は確実になりますね。教師は「死んでもいい、踊り続けるんだ」とよく言えますね。厳しいですよ。チュケッティとかいう講師です。この講師も一生忘れないきづなが出来るんです

ロシア革命を迎える前、公演がなくなり、くつろいでいるのですが、そこでサモワールで紅茶を飲みながらサンサーンスの「白鳥」をピアノで弾いてもらうのです。フォーキンが少しずつ振りを作っていくのですが、この映画の核となるシーンです。音楽、俳優、照明すべて込みでこれより美しいシーンはそんなに簡単にはないです。

そして舞台のこの曲のシーンになります。最高に美しい。トップレベルの美しさとはこのことです。

ディアギレフのパリ進出、ニジンスキー、フォーキンなどを連れてのシャトレ座の公演です。一度は見たかったですね。しかしあの練習風景からすると、伝説は本当にすごいものだったのかもしれません。ミハイル・モードキンも出てきます。ボリショイも参加していたのです。いや、それでパブロワがパリに行ったときに紹介されて、ストラヴィンスキーの「火の鳥」に出ます。モードキンではなくニジンスキーと踊りたいという。ニジンスキーが「レ・シルフィード」「イーゴリ公」「眠れる森の美女」の「青い鳥」などで成功して、モードキンとパブロワがペアを組むこととなるのです。そんなシーンは出てこないですが。そして舞台で一人練習するとピアノを弾いてくれる人がいます、これは出来すぎな話なんですが。カミーユ・サンサーンスが引いてくれているのを知らないで楽譜にけちつけるという話です。

映画では、すぐに「ジャラシー」のタンゴを踊るシーン。パブロワとフォーキンのダンス。本物を見てみたいですね。音楽、風景、俳優と揃ってますね。ここでディアギレフと縁が切れます。冷静に見ていくとこの映画はストーリーがおもしろい逸話だけで構成されている感じもします。

そしてディアギレフと離れて一座をやろうとしても、邪魔が入るし、名声を利用しようとするものはいます。パリのミュージックホールのシーンはそれだけでもいいシーンですがここではオッフェンバックの「天国と地獄」が強調され馬鹿馬鹿しいシーンになってしまいます。確かに下町のモーツァルトですから仕方ないですかね。

夫がロシア革命の関係でしょうが、監獄に入れられるのですが、パブロワは家財すべてを売って夫をロンドンに呼び寄せます。そこでまたドストエフスキーが「美は世の救済」と言う言葉を引用します。本当に最近見た映画はドストエフスキーばかりですね。そして庭師にあそこにチューリップを8100本植えてと言うのです。そういう性格なのでしょう。

良いですよねこういう性格。

次のニューヨークのシーンもいいんですよね。「リゴレット」の「女心の歌」がかかるなかオペラが好きな劇場主にオペラのあと演じることを命じられるのです。最高のシーンですね。「白鳥の湖」。本当にきれいです。これ以上の映画があるでしょうか?パブロワの象徴は「チューリップと孤独」ですよね。イギリスでのチューリップの話が効いてます。本当に思うんですが、ソビエトとかロシアはいい映画できちゃうときがあるんですね。これも良い映画です。ここで書くのもなんですが、マイケル・パウエルが監修で参加してます。その独特の色調が随所に出てきてます。あの「ホフマン物語」の共同監督ですね。

祖国に帰って、外国で踊りたいという(今で言う亡命)意思を伝え公演旅行に出かけますが、ここで大きなミスをします。これはストラヴンスキーも何回も言っていることなのですが、バレエの振り付けをする過程で音楽が変えられてしまうのです。それをパブロワはやり始めました。しかし映画ではこの振り付けについて旺盛な創作活動と描かれてました。

そして第一次世界大戦が始まります。逃避生活に入りますが、メキシコでの逸話は本当でしょうかねえ。知りませんでしたが、軍隊が動いたのです。バレリーナのために。

そしてパブロワはどこでも自然を感じながら自由にバレエをします。精神的に自由にと言う意味ですが。それは屋外での薪バレエ(薪能にちなんで)にもあらわれます。ここでも素晴らしいシーンがあります。この映画は本当に私の宝物です。この逃避生活の時の顔がまた美しい。これは映画のスタッフが狙っているので、作品の評価にもつながります。

今度はロシア革命ですね。当然ロシアに戻ります。かなり郷愁も強くなってます。ここで何があったかは映画では描かれませんがこのあとツアーで世界中を回るようになります。横浜にも来たと映画の中で都市の名前が出るのは良いですね。

ラビールの「ナイチンゲール」の衣装もよければ、表情もいいんです。本当に美人ですよ。

「バラのアダージョ」「トンボ」シベリウスの「悲しきワルツ」次から次にバレエシーンが出てきます。最後はいつも「瀕死の白鳥」サンサーンス。10年続けることになるツアーです。ソビエトには帰れないんでしょうね。

その頃ロンドンの庭師は8100本のチューリップを植えていたんです。さらに久しぶりにフォーキンとニューヨークで出会いますが、フォーキンはバレエスクールの校長、しかし昔の友達としてすぐに仲良くなります。離れていても結婚しなくても忘れられない人というのはいるんですよね。パブロワは一緒にツアーに行かないかと誘います。もう第二の人生のステージが始まっていると断り、しかしとてつもなくいい言葉を言います。「パブロワは劇場の中だけに真実の姿がある」(写真や映画ではうそ)「伝統を滅ぼしてはいけない」「その伝統を守るのは私たち」ディアギレフは終わった、ニジンスキーは狂う。

今度はロンドンの自宅でディアギレフに久しぶりに会ってパリに来ないかと誘われたときに彼も良い言葉を言います。「パリは晩餐に天才を食べる」「食べられた天才はどうなるのか。のみこまれて下水でおぼれている」。

リファールがパブロワを訪ねてきたときも良いシーンがあります「大衆にはバレエがわからない」「それなのにあなたはどこにでも踊りに行く」「もっと自分自身を大切にしなさい」「もっと個性的でいてほしい」。しかし、パブロワは違う答えを持ってますね。テクニックではない、ハートだという。たまたまマリインスキーから手紙が来ていて戻ってほしいと。

しかしその年、風邪をこじらせ結局このまま踊ることなく終わるのです。手術を拒否したのです。病の最後の床で叫んだのはフォーキンの名前です。まさに「ワンダフルライフ」と同じですね。一緒に生活する人と一生忘れない人は違うんですね。死ぬ間際に「瀕死の白鳥」がダブって終わります。良い映画かどうかはわかりませんが私は大好きな映画です。最終カットが川を流れる筏をこぐ少女というのも、「フリークスも人間も」と同じで何か不思議な気がします。

12/28

「ガキ帝国」 井筒和幸監督 1981年

まず面白いのがキタとミナミに勢力が別れていることです。

キタは梅田地下街が映るのですが、私もどこまでがキタなのかは知りません。ミナミは道頓堀が出てきます。同じくどこまでかはわかりません。キタの北神同盟とミナミの半端3人組プラスホープ会という構図みたい。

共通して感じることが、教師にまだある程度権威があった時代です。そして授業をボイコットするのも学校に行ったから出来ることで、とりあえず、みんな学校へ行っていた時代です。こんなこと書くのも本当に時代が変わったのだと思います。あと、思ったことは半端3人組がサッカー部です。部活動やっているんですね。ですから今の基準ではかなりまじめだともいえます(サッカーとかJリーグが出来てからの人気、かつワールドカップが日本で開催されるなんてこの時代にサッカーやっていた人は誰も考えなかったと思います)。そして私たちの時代もサッカー、ラグビー部は不良というか成績が悪いやつの溜まり場でした。意外と野球部の連中は成績が優秀な奴が多かったです。そのため、この映画はかなり笑ってみてました。年末にふさわしい、ふんわかした感じで良かったですよ。昨日の「アンナプブロワ」とまったく違いますが、私も似たような環境でしたので、よく内容がわかります。

主人公Aは少年院から帰ったばかりで、何をしたらわからない存在で、かといって人生このままではいけないと心の中で思っているんです。そういえば、バイトで喫茶店のボーイやるんですが、やたら喫茶店が出てきます。たしかに昔はかなり喫茶店に行ったんですが、最近は高校生の溜まり場はマックになったみたいです。あのデフレ価格で昔の喫茶店の役割を果たしているので、かなり大変みたいです。掃除とか。今マクドナルドが閉店している店舗は意外とこのように高校生に占領される空間を持つ店舗が多いみたいです(何の根拠もないですが、さらにマックの批判ではないです)。

そして三人組にからむ女の子に紗貴めぐみが扮するのですがこの俳優、「道頓堀川」(深作監督)でも良い味出てました。Aは島田紳助です。役者にない不良の雰囲気が出てますよ。中途半端な感じが出ていて良いです。

キタの北神同盟(以下、同盟とする)はやくざと関係していて、やくざの下働きみたいなこともします。そして新しく入った「あしたのじょー」が曽根崎支部の代表になりますが一番初めのダンスパーティーで3人組とニアミスがあり、決着つけるために3人組は南港に来いというのです。

個人的な環境ですが、Aの父は小さな町の工場を経営しているのです。その父は半分不良の息子にも殴ることが出来ます。父の威厳があるんです。この工場の近くで朝鮮系のアパッチ族にチャボ(Aの友達、松本竜介)がナンパの最中にやられるのですが、逆に仕返しに父も賛成して応援するくらいの関係です。何かが今と違うのは、まずこのような工場は平成不況でなくなりつつあるのと、このような喧嘩に対しても威厳を持つような父親は精神的余裕がなくなっているのでしょう。さらに喧嘩は基本的に素手です。このなにかわからない変わった雰囲気は20数年前の映画ということでこの年月の間に若者も変わったということでしょうか。半端者は将来、やくざ、事業家、芸能人しか道がないと考えているんです。しかし関係ない話ですが岡本喜八監督の「青葉茂れる」という映画があるんですが、ここでも(仙台が舞台なのですが)威厳のある先生が出てくるんです。すごい良い先生なんですよ。いつごろから学校は崩壊してきたんでしょう。家庭の崩壊が影響しているんでしょうか。そのどちらも(父の威厳、先生の注意を守ること)この映画でさえあるのです。たかだか、22年前の映画ですが、逆に考えるとこの映画に出てきた人たちが22歳のときに生んだ子供が今は大学生から社会人ということなんですね。こう考えると悪循環してます。親が悪いから子供が悪くなる。しかしその悪い子も子供を作る、さらに悪くなる。すべてがそうだとはいえませんが、(逆にスポーツや音楽では才能が開くケースも増えていますので良い循環もあるのでしょうが)、悪くなるケースはこのようなパターンが多いのではないでしょうか。

ここで一つ触れなければならない問題をこの映画は抱えてます。それは朝鮮の問題です。あしたのじょー(以下C)は在日でした。いわゆる、自分ひとりで誰も信じないというパターンの人間として描かれます。同盟の中でも浮いてしまい、幹部を殴ってしまいます。その場に3人組の一人もデートで来ているのですが、そんなにとんがっちゃ生きていけないよ、と抑えるのですが、言葉を母国語でしゃべってしまうんです。Cの彼女は同じく在日でしたので問題ないのですが、3人組の一人(以下、Dとする)のほうは彼女がDが日本人でないとわかった時点で男から離れていくのです。3人組としてアウトサイダーの学生生活を送っていたにもかかわらず、ここで何かを感じたことでしょう。しかしこのデートの舞台が映画館なんですが、多分、舟木一夫と内藤洋子の出ている映画がかかっていますがタイトルは何なのでしょうね。あとで最後にネットで調べてみます。ということで3人組は実は半端者でありながら、差別のない関係だったのです。それは、アパッチとの関係でもわかるんですよ。殴ったりするけど、差別はないのです。しかしDは「朝鮮という奴らと遊んでいる」「奴らの腹の中はわかるか」「みんな同じだ」と言われます。でも3人はあくまで徒党を組まずに3人だけなんです。

ところが同盟は東京から来たゴキブリという男とともにミナミに殴りこみに来ます。結局Dは自主退学になりミナミをまとめるのがAになってしまいます。ホープ会も中途半端になってしまっているのです。しかし結局最後のほうでチャボは同盟との喧嘩で死んでしまいますし、Dも別の生き方になってしまっているのです。私もこの若者の団体の関係が映画を見ただけではわからないのです。この監督の編集は下手なんじゃないかなあ。しかし言いたいことは伝わるのですがどうも説明が中途半端というか場面の転換のカットが多すぎて前後関係がつながらないのです、さらにいろいろと関係を複雑にしすぎてます。出てこないで切ってしまってもかまわない人物もいると思うのですがねえ。

まあ、仁義を通し切れないで中途半端に終わる連中の話です(この映画のキャッチフレーズは自分の生き方を貫いたとあるのですが、それにしてはAはあれでいいのかな)。またはやくざの世界に入っていく極端な青春でした。もうちょっと朝鮮問題をはっきり描いてほしかったと思います。それと3人組のツッパリを貫いてほしかった。もう一歩で面白くなり損ねた映画です。

たぶん劇中の映画は「君に幸せを(センチメンタルボーイ)」だと思います。

 

 

12/29

「黒い罠」オーソン・ウェルズ監督 1957年

意外と有名な作品ではないですよね。この監督は少し斜に構えたところがあるとおもうのです。この映画も何が正しいのか考えさせられる映画です。ちょっと「第三の男」に似た感じもします。

音楽担当、ヘンリーマンシーニ、俳優、チャールトンヘストン、ジャネットリー、私の好きなマレーネデートリッヒ、これだけで映画史的にお宝映画ですね。

音楽はいいですよ。舞台がメキシコとアメリカの国境付近ですので、ラテン系とロックのビートとともに入る良い音楽です。オーソンウェルズ(A)は良い味出てます。本当にこの警官は悪いのかどうか、考えさせられます。まあ悪いんですが。チャールトンヘストン(B)は少しさわやか過ぎて、面白くないですが、ジャネットリー(C)については「サイコ」でもそうですが襲われる役専門だったのでしょうか?今なら確実に裸になるタイプの女優です。最後にマレーネデートリッヒ(D)、まだ味がある、見た目すごくエキゾチックな良い役です。ちょっとしか出てませんが逆に印象にはすごく残ります。

話は簡単です。BとCは新婚で遊び気分のときに事件が起こります。多分、Bは麻薬捜査官かなにかでメキシコ政府の高官で一応正義感の強い男です。その事件は車が爆破されたのですが、図ったかのように刑事Aの言うとおりに事件は解決の方向に進みます。しかし、麻薬捜査のBは少し厄介なことに確証ある人間が死んでしまったのです。さらに、この事件の間に妻のCが隙を狙われます。このCを狙う麻薬などを扱っている人間と刑事Aは裏では意外とつながっているのです。それで、Cを嵌め込み、麻薬中毒で逮捕させようとします。この時点で、もしかしたらAは死を覚悟したのかもしれません。そう考えると、最後のほうのシーンが辻褄合わない感じもしますが意外とすっきり理解出来るような気がします。Bは事件が事件だけに事件現場を調べなければなりません。新婚旅行気分だったのに仕事です。そのため妻は近くのホテルに泊まるのですが、メキシコでは嫌がらせをされたので、アメリカ側のホテルに泊まります。しかしここはトレイラーが部屋のメキシコと変わらない、誰も来ないような砂漠にある安宿でした。ここでCは襲われて、麻薬中毒の一味のような感じにされてしまいます。捜査のほうはたまたまBが確信を持って自分自身が証言に立てるような犯人の捏造現場に居合わせてしまいます。そしてAに対して疑惑を持ちます。Aはほかの連中と長年、捏造をしてきたので周りの人間もAを擁護します。共犯です。そんな中、Cが麻薬を刺されて倒れている部屋に麻薬を仕切る人間を呼び出し、Aは殺します。しかしこの殺された人間はCに対して麻薬を強要した人間なのです。いわゆる、状況証拠を作らせた人間を殺すのです。そしてCの犯罪のよう見せかけるのです。ここでAは自分の持ち物を落としてしまい最終的に追い込まれるのですが、その前にもう先が見えていたんだと思います。AはBが優秀なのを見抜いていますね。ここですごく重要なことですがAも実は優秀なんです。しかしたたき上げで人生は楽ではないんですね。事件を捏造ばかりで逮捕してきましたが、日本で言う「必殺仕置き人」のような感じで確実にクロと思われる人間のみを捏造逮捕して自供させていたのです。今回の爆破犯人に対しても捏造して逮捕しましたが結局のところ、ほかの事件をこの犯人は自供したんです。それはAの長年の勘なんですね、しかしこういう細かい事実は他人にいちいち説明するタイプではないんです。もしそうしたなら、もっと出世したでしょう。Bは逆で出世している若者ですから、理屈の正義なんです。(まあここまでは言いすぎですね)。結局、Cの事件の真相もBの知るところになり、Aの捏造の仲間に協力を願いAの盗聴を行います。そのときにAは勘がよく盗聴に気づくのですが、あと一歩でBも殺されるところでした。いや実は殺されていたのです。しかしAは撃たなかった。そして仲間だった警官に死ぬ間際に(Aが殺したのですが、虫の息がありその力で仲間も道連れにしよう、今までの償いをしようとする)銃声に撃たれて、そのままどぶ川で死んでいくのです。Aの死に場所にはこんなどぶ川が合います。BはCの容疑も晴れ、めでたしめでたし、ですが、場末のバーのマダムDはAのことを好きなんですね。男の魅力がありますし、Aの本質を見抜いている、苦労しているマダムなんですよ。このDの存在感は映画に良いアクセントを与えてますし「第三の男」と同じで女が一人残されてしまうのです、悲しみを伴ってね。

どうなんでしょう、Bが絡んでこなかったら、Aは麻薬の方も捏造して逮捕したでしょうか?多分そうしたと思います。(しかし、そうなると題名が意味が違うのですが)

たまたまBがそこにいてしまった、ということがAの計算を狂わせたのです。そしてDもこれでAの運が尽きたと思います。AとDはまったく愛人関係でもないんですよ。お互いに心の中で敬意を持っている関係というだけです。ここがテーマなんですよ。BとCの恋愛はストレートですが、どこにでもある恋愛なんです。AとDのは人生紆余曲折しないと起こりえない敬意みたいなものです。Aの独自の正義感とそれをわかっているD、そこに変動要因として登場するB、人生はどうなるか本当にわからないですね。しかしAは死に場所は知っていたと思います。またその死に方は間違っていなかったと思います。あと、違った見方ですが、AはBに対して人種的偏見があったのかもしれません。それがCを陥れた動機なのかもしれません。ジャケットの説明にはそのようなことが書いてあるのですが、どうもちょっとピントが外れてしまいそうな感じもします。しかし良い映画です。

2004  1/3

 

「セーラー服と機関銃」 相米慎二監督 1981年

静かなタイトルバックで良いです。

機関銃をぶっ放すシーンも無音で静かな感じをうまく利用して激しさを強調しておりますね。この映画自体アイドルを作る目的とそのアイドルをスター化する路線ですが映画自体もすごくよく出来ていると思います。たとえば、ボスの死んだあと、組長に高校生を迎えるとき、雑踏(高校のグラウンド)のなかで中心にひとり前に進み出るのが薬師丸さんです。本年の最初に映画をこれにしたのも正月に薬師寺に行った関係でしょうか。まあ関係ないのですが、とにかくこの映画、アイドル映画なのですが、意外ときわどい言葉ややり取りが出てきて観ているこちらがびっくりいたします。実はリアルタイムでは観ておりません。今だからこの映画の面白さがわかったのかもしれません。

赤川次郎の原作を読んでいないので、詳しくはわかりませんが、この映画、一人の高校生が、組長というか自分の判断で善悪の区別をつけられるまでになります。最後に裏切りをしている組に殴りこみに行くのですが、この殴りこみに行くまでの過程がうまく表現されていると思います。そして殴りこみのシーンの素晴らしさ、部下のふたりのエレベーターでのやり取り、降りてから、踊りながら殴り込みをかける余裕、待っている相手組長が組長室で観ている映画(劇中映画)その音楽とシーンの重なり具合、そして極めつけの機関銃ぶっ放したときの無音とスローモーション、そのなかで動かないスターと動きのある部下の対比、ここにすべてがあるような気がします。部下が向いている方向が実に絵になっております。一高校生がここまで出来るようになるのには何人もの死体が必要でしたが、その一つ一つが話としてすべて高校生を精神的に育てる効果があり、その結実の最高のシーンでした。

まず、かたきをとろうと思い始めたのは「ひこ」という暴走族あがりの部下が殺されたときでした。このシーンも上に同じく素晴らしいシーンがあり、暴走族の連中の束の中からこのセーラー服組長(以下Aとする)を乗せたバイク一台が画面の中央をこちらに向かって走ってくるのです。そして会話はとてもロマンティックなものです。すごくきれいなすがすがしいシーンですよ。ほかにも部下がAを守ろうとして死ぬときには母性に目覚めますし、相手の麻薬を扱っている組長をその娘が殺して助けてくれたときは、正義を感じたのでしょう。本当にスター制度みたいに周りの犠牲がAを際立たせるようにしていき、その答えとして殴りこみになるのです。そのAの心情はほとんど表現されておらず、客観的な事件としてこのことを示す手法をとっているみたいです。

快感という言葉には、途中新興宗教みたいな団体が麻薬を扱っているのですが、その組長が「快感は死と隣り合わせにある」という言葉が極めつけのシーンに効いてきます。死ぬ覚悟が出来ていたということですよ。

そして、殴りこみのあと組が解散し、それぞれの人生を送りますが、この短い間の経験は普通の高校生とは違うわけで、普通の人間になれそうもない、というような言葉で映画が終わります。強い人間になれるのでしょう。きっと。

最後に主題歌が流れて、銀座のロケで終わるのはなんとも楽しい終わり方です。まる。

 

1/4

「津軽じょんがら節」斉藤耕一監督 1973年

逃げるとしたら、土地勘のある土地に。これが捜査の鉄則みたいですが、まさに絵に描いたように自分の故郷に逃げてきた女とひも。故郷といってもかつて、そこを別の男と駆け落ちしているので誰も歓迎する人もなく、さらに父と兄弟が海のしけの中で遭難した場所が眼の前なんです。その津軽の寒々しい海と荒い波が人間を小さく見せてくれます。実際に大波の前に人間が一人立つ構図がはじめのほうに出てくるのですが、どうしようもなく人間の存在が小さいですね。

ひもの方が悪いことして逃げてきたんですが、先に飽きるんですよ、田舎の生活に。女のほうは(Aとする)自分の家族の墓を立ててやるという強い意思があるんです。ですから生活に意欲的でひもを食べさせてやるという気持ちすらあるんです(ひもをBとする)。生活を立て直そうとするのは映画の端端でよく描かれてます。しかしBは途方もないところに来てびっくりしているとともに、何かしたいと変な欲求があります(やりたいことが不純なことばかり)。それがAに体を売らせて脅す、という馬鹿な提案になるんですね。しかし生活しようとするAはそんなことにお構いなく前向きです。いつも思うんですが、この二人に限らず、離れられない関係というのは存在するんでしょうね。男と女の不思議さです。この不思議さが関係ない盲目の少女(以下Cとする)にも影響を及ぼし、この映画の冒頭のシーンになるんです。冒頭のシーンがすべてが終わったあとの、愛の、生の問いかけです。では、どんな成り行きだったのでしょう。

Bが暇にまかせてCにちょっかいを出すんです。はじめ、このCは私もあまり美人ではないような気がしましたが、だんだん演技がうまく、少しずつ魅力が出てくるんですよ。俳優の名前は中川三穂子です。この人いいですよ。江波杏子とともにこの映画にいいあくせんとをつけてます。Cは生まれつき眼が見えないのですが当然普通の人と同じ情感、愛情は持っています。多分かなり早い時期からBのことに好意を見せているんです。伏線としてめくらは「いたこ」にさせようという家の方針があるんですね。しかしせめて「ごぜ」になりたいというのです。女のめくらの芸人で村から村へ芸事をしてまわって生活を立てていた人たちですね。ここで三味線の音とお地蔵様が映し出され少なくても30数年前の日本の風景を映し出します。こういう映像は本当にいいですよ。日本は変わってしまってますから、少しでも昔の風景は残しておきたいものです。たしかに映画の中でも、現代化の象徴として東北新幹線の話が出てきます。現実にはまだ本州の北のはてまでも届いていないんですが、便利になるという会話に象徴されます。この会話のシーンのある居酒屋でAは働いているのですが、Aの気持ちを動揺させる出来事が立て続けに起こります。まずBとCの関係のうわさを耳にします。次に父と兄が遭難したと思ったら、偽装で逃げていたらしいという証言も耳にします(それで保険がおりません)。つぎに蓄えとして貯めていたお金を知人に預けたら持ち逃げされます。結局、まわりはすべてAを裏切っているのです。家族、知人、恋人、そうしたらどうなるでしょうか?ひとり、寂しく人間不信になるのでしょうね。

BはBでCに売春させようとするのです。Cは実は近親相姦の末に生まれた子供で、Cが眼が見えないと知ったときに父親は自分の目を刺して死んでいったそうです。まあ狂った家系です。それで眼が見えないというときに、このときもばあ様がCに憑き物がついているとたたいて追い出そうとするのです。こういう風景もBは慣れていないし、気持ちも移っているので助けようとします。この憑き物とかのことですが、Cは当然信じているのです。こういう状況のシーンを見るにつけて、フランス革命は本当に大きいなあと思います。

昔、知識は一部の人の特権でした。本を買える人=貴族が知識人だったのです。しかし、自由平等の精神は教育の自由を導き、万人に望む限り教育を受ける権利を与えたのです。すなわち貴族の特権が消滅しました。しかし、偏狭な地域やKKKのケースのように故意的に閉ざされた教育も脈々と続いておりました。その一例がこのCの家庭です。はじめからCがいらないものとして扱っているのでCもそれが当然と思っているのです。このような状況は今では、特に都市部では考えられないことです。そして、さらに時代の変化が描かれます。それは鉄道の開通です。すなわち空間の超克です。便利になると都会に行くことが簡単になり、出稼ぎが増え、お金を稼ぐということの反面、お金を使うことも覚えるのです。しかし昔と様変わりしたこの地方でも昔かたぎの人がいてBはその人の手伝いをしているうちに自分に合っていることに気づきます。どこにきっかけがあるかわかりませんね。そして好意を持つCと生活を始め、この地方に溶け込みます。A居場所がなくなりBに無言のうちに「故郷が出来てよかったね」と言い残して去っていきます。そしてBは文字通り幸せな日々を送りますが、ここに追っ手が来てしまいます。そしてBは殺されます。残されたCは感情を抑えきれないことでしょう。Bが希望の星のような存在でしたから。

では冒頭のシーン。「ごぜ」に対してCがいろいろと話します。Bとの出来事や、いまだに好きなこと。「ごぜ」は仕方ないことだから忘れなさいと。

このまま、Cも「ごぜ」になっていくことでしょう。しかしめくら、としては深い愛情を経験しているのでその芸事は深いものになり、一流の「ごぜ」になることでしょう。

Aはまた東京にでも戻るのでしょう。キネ旬報第一位らしいのですが当時にはマッチしたのでしょうが今の時代ではちょっとテーマがうまくまとまらない内容だと思います。

 

 

m_i08.gif (1119 バイト)昔に書いたこと(2003,11/21より)

 

m_i08.gif (1119 バイト)昔に書いたこと(2003,12/14より)

 

 

 

 

 

 

 

 

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