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「長靴をはいた猫」 矢吹公郎演出 昭和44年
新年は愉快に行きたいと思い、久しぶりにこの映画観ました。いやー、また実に楽しい時間をすごせました。笑っちゃいけないですが「ペロー、貴様はねずみを助けた」といって猫の世界から追われるんですが、いまどきの猫でねずみをご馳走と思う猫はうちの近くにはいないですよ。人間がえさを与えすぎてます。もう人間が近づくときの3つ指をついたお願いポーズ(えさをくださいというポーズ)には参ります。ですからえさをくれそうな家の近くはテリトリー争いがすごいみたいです。この冬でも喧嘩してました。猫の喧嘩はすごい鳴き声ですよ。そういう時は私は仲裁に入ってどちらも消えるようにします。なぜならば、猫の鳴き声は意外と眠れないものです。まあ映画に戻って、猫の世界から追われると刺客がついてまわります。逃げたペローは人間の世界で兄弟に虐げられたピエールに出会います。そこでピエールは猫のペローにも優しくして友達になります。「いつでも一緒さ、いつも離れない友達さ」なんて一緒に歌うんですよ。またペローは前向きで、街でお姫様がお婿様を募集しているのをかぎつけ、強敵魔王ルシファーを倒して婿になれと薦めるのです。すごい強気の猫ですね。そのとき言う言葉が参ります。「人生楽しく生きなければ」ですもの。たまたまねずみの親子も助けるのですが、このねずみの親子もピエールに恩義を感じ最後まで助けてくれるのです。なんとなく社会から虐げられたものが幸せになるという本質が平等精神というアニメですね。
王女ローザとピエールを結びつけるシーン、ローザがどうしてもルシファーと一緒になりたくないとバルコニーで泣いていて、ふと落とした白いバラを拾って返そうとしたピエールがなんと切り出して話しかけていいものかわからないときに、このペローは代わりにロマンティックなせりふを語るのです。またさらにねずみの親子は王様にカラバ公爵の密使として連絡を取ります。カラバ公爵は実在せずにピエールを公爵に見立てたのです。さらにネズミたちは姫にもピエールのことをカラバ公爵と耳打ちしてくれます。まあ、人間がねずみの話を聞いて理解するとか、猫が人間と話をするとか、考えて疑問に思ったならこの映画はまったく面白くない荒唐無稽の映画でしょうが、なんというかかわいくて仕方ないですよ。本当に打算なく忠義の精神を持っているんですよ。また、本当におかしいシーンがありまして、カラバ公爵の領地を見せるときに、農民に猫がお願いしてカラバ様万歳といってくれとお願いするんですが、当然人間が猫の言うことなんか聞きません。するとねずみが農作物を食べるぞと脅すんですよ、そして人間も言うことを聞かざるをえなくなり王様と姫が通るときにみんな手を振って大歓迎するんです。そして川の中に裸でピエールを泳がしておき、みんなが通りかかると猫がご主人様が災難にあわれて泳いでいるときに身包みすべて盗まれたというと、農民の大歓迎で気を良くした王様は城に連れて行き服装をあつらえてくれます。そして、うまく城に入りこんだピエールはお姫様と散歩します。そこでのBGMは猫が指揮してねずみが歌うというかわいい最高のシーンです。しかしピエールは本当のことを打ち明けます。そこでも猫とねずみは一緒に音楽を奏で美しいシーンが続きます。なんというか人間と動物の調和がとれた美しい正直な素晴らしいシーンです。
しかしルシファーがこの様子を見てしまいます。そして姫をさらってしまいます。あとはみんなで姫を助けに行くだけですが、もう楽しい反面、はらはらどきどきしていろいろなことが起こるのですが、ルシファーの欠点はどくろのペンダントがお日さまにあたると魔力がなくなってしまうことでした。最後まで絶体絶命のシーンの連続ですが、どうにか朝日まで逃げ切ると、最後に塔から落ちていくときにどくろに朝日があたって落ちていく二人(姫とピエール)をからすが鳩に変わって助けるというオチがついてめでたし、めでたし、二人は結ばれるのです。
しかしこのままではなく最後のシーンで、ペローはいつでも一緒と、ピエールと一緒に歌ったくせに、城をあとにするシーンで終わるのです。まあなんというか風来坊なんでしょうね。シェーンみたいにかっこいいきざな猫です。だから題名がこの猫のかっこうを表現したものとなったのでしょう。長靴を履いている猫なんて実はふざけた題名ですよね。でも面白い映画です。というよりかなりの人がその面白さを知っている映画ですね。新年早々すがすがしい気分になりました。
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「股旅(またたび)」 市川昆監督 1973年
渡世人は戸籍がないとははじめて知りました。「仁義」が挨拶。例の「おひかえなすって」と始まり、生まれや流れたところなどを挨拶して、手ぬぐいなどを「おさめてくださいませ」と終わるのですが、その仁義を受けてもらえるかどうかで生活がかかっているのです。特に旅を続けていると、仁義を受けてもらえれば、食事と寝床とわらじ銭は確保できるものなのです。そして仁義のあと、足を洗って、出された「お茶」を飲んだら最後、その家のために働かなければならないらしい。そのあとの食事もご飯は2杯と決まっている。1杯なら仏さまへのお供えのご飯と同じになるから、形だけ2杯ということらしい。さらに少し長くなると4日目からは掃除などの下働きをさせられる。
いざ、助っ人の際も1対1の対決はなるべく避け(どちらが死ななければならないから)2回くらい剣を交わしたらほかの戦いに割ってはいる。そんなわけで死者は少ない。
実際のところ出入りもどちらもやりたくはないものですよね。けが人の手当て、死者の葬式費用などお金がかかるので面子が立てば仲裁人を入れてやらないこともあるとのこと。この映画観ていて思うんですが、完全な父系社会ですね。
ここで素直な感想を書きますと、3人で旅をしている若者は煮え切らないでいらいらします。結局昨今の犯罪のほうがすごい割り切り方しているんですよ。首切りとか平気で起こりますもの。この現代の異常性もあるんでしょうが、思わず、「相手を切るならもっとさっさと切れ」とか思うシーンが多いのです。
ひとりの若者げん太は上で言う、渡世の義理を果たすために実のたまたま出会えた、行方不明の父親を殺します。「親子の情」とどちらが重いか?なんて言われて信じてしまうんですよ。へたにまじめなんです。結局、一番重い殺人を犯して3人ともに追われます。このときわらじを脱いだところで知り合った女を誘うとついていくというんです。(これもまさか来ると思わなくて誘っているんですよ)女は借金のかたに無理やり結婚させられた女で嫁ぎ先で面白くないんですよ。この女の子かわいいんですが、俳優の名前見てびっくりしました。井上れい子です。最終的に逃げ回った先まで追ってきた夫の弟を後ろから殺してまでも帰りたくなかったので、よっぽどの家だったんでしょう。肉親殺しが二人では逃げ切れないと、女を「めしもり女」にします(旅籠に2名まで実質的な娼婦が許されていたらしい)。それも女は承知して、男が迎えに来るのを待つといいますし、男も迎えに来るつもりでしょう。別れ際にめそめそしているのは、男のほうです。「だったら売らなければいいのに」とこっちのほうがいらいらします。
そして運を開くために(ひとりは途中蛇にかまれて破傷風で死んでしまった)下総の喧嘩に参加して儲けようとしますが、2人組が裏切り者を殺して手柄を上げようとするのに対して、げん太の方は渡世の義理といって、切りあいします。もうはっきりいって馬鹿な者たちで、見ているこちらが唖然としてきます。とくにげん太、お前は渡世なんか渡るな、農民が似合うぞ、と心の中で叫んでます、私は。
結局走っていくときに足を滑らせて、緩やかなはずですが転がると止まらない丘から落ちてげん太は頭を打って死にます。一人残される、裏切り者を殺してしまおう、と提案した男はひとりげん太の行方を捜しながら映画が終わるのです。まあ途中いつでも別れることが出来た別のところから来た3人なので、一人では何も出来ないことを自分たちが知っているのでしょう。生き残った男の人生も先が見える感じです。
私とすると娼婦に売られた女はいつまで、心の中でげん太を待っているのかな?という疑問だけでした。なんというか素朴な映画です。今の普通の人のほうが怖いかもしれません。怖い世の中助け合いたいですね。
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「いちげんさん」森本功監督 1999年
正月に京都に行ったので、京都を舞台のこの映画を久しぶりに観ました。スイス人と盲目の女性の心の交流なのですが、テーマはいいけど、まとめ方は少しさすがにこちらが照れてしまうシーンもあり、京都の街もそれほど映っていないので肩透かしの感は否めません。
まず、竜安寺の庭園が映り、スイス人の大学生のモノローグで始まります。たしかに、テニスを一緒にやっている日本在住の外国人と同じようなしゃべり方なので、私にとってはまったく違和感ないのが、おかしい感じします。舞台は1989年の日本。ソビエトがあり、ドイツが2つあり、マンデラが獄中にあり、というのですが、バブル絶頂とは言いませんねえ。京都の町の感想として「町の奥のほうから、冷たいよそ者を見る視線を感じる」とあるのですが、それは私も同じく感じるので、この英国人に限ったことではないでしょう。さらに、「彼らは裏でつながっている」というのも確かです。言い方を変えれば、裏で連絡を密に取ってくれる、心づくしのサービス、をしてくれるのですが、その価値がある人間かどうか見きわめをされるんです。「まるで一冊の美しく装丁された古本のよう」というのは言いえて妙の表現でした。
盲目の女(顔は少女っぽい、普通の女の子、大学生くらい、以下Aとする)は文学が好きですが点字本に文学が少ないので小説を読んでもらうということで、二人は近づきます。この女の子の家、純和風で庭の松が見事です。松、続きですみませんが、そういえばこの女の子、松たかこさんが似合いそうです。この映画では女優は鈴木保奈美さんです。唇が印象的な女優さんです、あまり知らないんですよ。平凡な女の子です。そういえばこの映画の監督もこの映画まで知りませんでした。また知りたいとも思いません。途中この女優裸にさせられるのですが、なんかわざとらしい、いやなシーンです。京都の風景はどうしたんだ、このやろう、と思ってしまった感じがします。そういえばこの映画作成に京都市が参加しているんです。その点からもこの映画見て、京都へ行きたくなるのか?は無理でしょう。すなわち資本参加は失敗ですね。
はじめの読む小説は「舞姫」なにか先が暗示されますねえ。主人公の男の行動についてスイス人の留学生(Bとする)は「マザコンで官僚主義から自分自身を抜け出せないでいる人間」と言いますが、Aも似たようなことでもっとロマンティックに激しく女を愛せば良かったのに、というようなことを言います。しかし舞姫と同じような結論になるんですが。
話の途中、タバコをAが吸うのですがそのタバコの火をBが代わりにつけてあげたあたりと、そのタバコの煙をBの顔に吹きかけたあたりからAとBの距離は煙のごとく近づいていきます。
Bは大阪で英会話学校の教師をしているんですが、たしかに授業風景とか街での経験とか話されると、まわりでも思い当たる節がありますね。「いまわしい経験」というのはわかる気がします。それは英語で無神経に個人的なことを、仁義なく(股旅の影響です、挨拶なくということ)、話しかけられることです。日本人同士だと普通はないですね。
景色は、「つつじ」で2人で外出(ここで疑問に思うんですが、母親は二人を結びつけるつもりなのでしょうか?)して、喫茶店(こんな二人はうちの店はウェルカムです)でお茶して、映画(多分ダンアンクロイドとスプラッシュの人魚役の女優の出ている映画)観て、寺を散策(このお寺はわかりませんでした)そして哲学の道です。
次のカットのカラオケのシーンは木屋町と鴨川が出てきて、鴨川のほとりにJAPANESE DISTANCEという距離で点々といるカップルにBがひとりで割り込みをすると、彼らはいなくなる、という描写です。このお互いの距離は日本人は特に重要で、イタリア人なんかと話すときにすごく感じますね。彼らは会話の距離が近い。耳打ちに近い距離で話しますよね。しかしこのAは珍しくこの距離が近い女の子でした。
梅雨になるとド・ヴォルジュの官能小説を読んでくれとAはBにせがみます。この小説家日本語表記これでいいのかわかりませんが、このような名前です。知りませんでした。「そういうシーンをみんなと同じだけ読みたいの」という言葉には説得力があります。ひざまくらもせがみ、肉体関係がないのも不思議な距離です。Bが自制しているのでしょう。夏になり、ちょっと自分の中の欲望も感じたのか、「地球の歩き方」ふうのヒッチハイクに出かけます。このヒッチハイクのシーンなんか京都から離れるんで出資者たる京都市は怒りそうですがねえ。まあ要らないシーンです。
さて、とうとうのシーンですが、二人はカラオケに行ってその帰り、祇園から八坂神社を散策して雨にあいます。それでも「平気」というのは女のほう。雨の中のキス。まあ映画的ではありますが、そのあと雨にぬれた体を拭こうとして服を無造作に男の前で脱ぐのです。
そしてAは裸に。この裸、見るに耐えないというか、うまくだまされたのかというくらい大胆にカメラに撮られてしまって、多分、この女優を見るたびに思い出すであろう、くらい鮮明に脳裏に焼きついてしまいます。ここだけならいいのですが、そのあとも数回にわたって男女関係の描写があり、さすがに閉口します。(この女優自体は撮影が楽しかったとインタビューで言っているのでまあ問題ないのでしょう)何かおかしいですよ。京都市がお金出していると思うからおかしいだけなのか、わからないですが、少しエロドラマっぽいところがあるんです。
「京都は古い本のようだ。しかし最初のページより進めない」というのはわかるんですが(古い町はえてしてこういう傾向があると思います)、大学(同志社大学)の卒論の試験、あんな感じなのでしょうか。なにかがおかしいんです。ここで感じるのはこの話実話なのか?実話なら今出版して成功しているのに女のところに戻らないのか?フィクションなら日本に来てこんなことしか書けないのか?という疑問があるのです。書いた作者に対する生き方と日本に残した女のことがわからないのでしょう。私の感覚ですと、この本書いた時点で出版に成功したなら、女を迎えに行くでしょう。そこがわからないのです。ずっと友達でいようなんてことはないと思うのです。ここの問いかけを終われば、この映画はあとは枝葉末節の羅列なので、たいしたことはないのです。そして違和感はこの映画がテレビドラマみたいなことに気づいたときに自分の中ですっきりしました。
ここまで書けばあとは京都のシーンと出てくる小説の羅列くらいで問題ないでしょう。この女優が好きで裸が観たいならいいのでしょう、さらに愛欲の映画が観たいのでもかなりOKです。私は上のような疑問が途中で浮かび、真剣に見ることが出来なくなりました。
しかしひとつだけ理解できる場合があるのですが、それは、お互いにきっちりと別れて新たな道へ行こうと同時に思ったときです。映画では形上はそう見えるんですが、手紙をくれとか言っているうちは心の中に消えないで残るものです。それなら別れたことにはならないと思うんですがね。Aは生きる楽しさを教わっただけで満足して別れるんでしょうか?
知恩院で般若心経の写経をしているシーン、「社会の外に生きる男たち」(やくざの特集、フランス人の見たやくざ)、小説「暗夜行路」「砂の女」などが出てきました。
やくざは「セーラー服と機関銃」「股旅」と続いてます。次に「砂の女」見たいという気になりました。
(注。京都市のメセナ映画ということですが資本を出しているかどうかは確認しておりません)
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「本陣殺人事件」 高林陽一監督 1975年
最近、横溝作品と市川監督作品が続いて、かつ邦画ばかりです。しかしこの映画は気が楽に観ることが出来ました。映画ってこの気軽さも必要ですね。「いちげんさん」が変に映画っぽくなくて逆にこの作品が際立ちました。京都ではないけど、日本を表現していることでは格段の差があります。
家長の義務とその責任、さらには大きな家ということで知らずに甘やかされた精神構造と嫁ぐ嫁にもその責任を期待するということ、これはかなり難しいことでしょう。私は観てはいないのですが本で「写真版憂国」を持っているのですが、なんとなくこの映画と精神構造は似ているような気がします。国体か旧家かの違いが実は大きいのでしょうが。
冒頭、昔ながらの結婚式で始まります。家族結合ですから本当は大変なんですよね。しかし核家族化で親戚との交流も減り、こんな古いタイプの結婚式は私は参加したこともありませんし、親戚でもいません。家柄の力関係は、夫のほうは旧家で妻のほうはその小作人だったものがアメリカで成功した成り上がりの家系です。この家系を無視して結婚しようとした進歩的な夫はその反面、妻となるものにある課題がありました。純潔です。この課題が結婚が決定してから、すなわち夫になる男が心から妻となる女を好きになったあとで崩れるとどんなことが起こるのだろう、ということですね。当然、今の若い子にはほとんど当てはまりません。まあ好きになった気持ちを大事にしていくのでしょう。「甘え」の環境の中で潔癖主義者になった夫はそうは考えませんでした。「家」と「家長たる地位」と「男の女性への憧れ」がすべて揃ってしまったのです。こんな動機の事件だとは思いませんでした。途中で犯人はわかりましたが、動機がこのようなことだと知ったとき、そんなものかな、という気持ちでしたが、わかる気もしたのです。
そして自殺は自分の敗北であるから他人が殺したように見せかけなければならない、というのもすごいことです。ですから殺人が起こると意外とあっさりと解決はつきますし、犯罪が波及することもないのです。それでこの短時間の事件追求のときに、岡山の田舎の自然、風土、旧家の家の構造を映像で提示されるのですから、そのまとめ方はうまいですよ。この草いきれのまるやま、と瓦の勾配の急な旧家の大きさはどこにでもある日本の田舎(庄屋)の風景なのでしょうが、自然の中ですごした日本人が、そこでこのような精神構造を育てていくという皮肉な映像でもあると思います。
はじめに戻りますが結婚式での三々九度、「高砂」の謡曲、琴「おしどり」(この本陣のしきたりだそうです)あたりの流れはしっかりしてきれいなのですが、そのしっかりした二人の奥にはこのような決意があるからしっかりとしていたのでしょう。
妻となる女が琴の音色に一瞬びっくりしたのは旧家のしきたりに入り込めない、不順なものをいつしか無意識に感じたのでしょう。そうですね、純潔なものにしかこの琴の曲は弾けないのでしょう。親戚一同が着物で参列している様子は、実はうらやましい風景です。景色や家の構造にしっとりとマッチしています。
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「イノセント」ルキーノ・ビスコンティ監督 1975年
たまたま、「本陣殺人事件」と同じ年の製作ですね。そしてまた、妻の純潔の問題が出てきます。和洋を問わず、永遠のテーマですかね。特に女性は性ホルモンの分泌遅いので、夫とバランス取れないこともあるみたいです。
夫(Aとする)は愛人(Cとする)がいるのですが、CはAに全身で自分のほうを見てもらいたいという女性です。そこで隠れてAと妻(Bとする)が一緒のパーティーに参加するのですが、AとBが愛人を持つほど悪い関係ではないと察知して悪態ついて場の雰囲気を悪くします。AはBの元を去るわけにも行かず、どうしようもないのですが、何とか理由を言ってCを追います。実はCにはほかに求婚者がいるのです。その求婚者ともAは決闘をしてしまいます。Aの情熱は上がるばかりで、たまらなくなったこの気持ちをどうすればいいのか、と妻に相談するんですよ。そして「わがままを許してくれ」と言ってCの元に行くのです。Bは我慢強い性格なのですね。そしてこういう性格が安定した人間でないと正妻は務まらないとAもわかっているんですよ。ここまでは結婚からBを飼い殺しにしてました。
しかし流れが変わります。AがCのことで決闘をしている最中にもCはどこかに行ってしまうし、だんだん、Cにぞっこんでなくなりつつあるときに、Bの方はAの弟の友人の作家の前で睡眠薬を飲んだあとの酩酊して寂しいというみだらな姿をさらけ出してしまいます。その作家はBも気になるいい男でした(Dとする)。Dはそのみだらな姿でBの現状の不幸を察知して、積極的に誘います。夫に飼い殺しをされていたBは初めて愛を知るのです。そんなときに、妻がオークションに行くと出かけたうそが、妻を追って出かけたAが知るのです。その証人がCなのです。Cはこんなところまで私を追いかけてきてくれたと、その夜はうれしくて仕方ないのですが、Aが妻を捜しに来たのだ、というと状況を把握して、Bも愛人を作ったのでは?といいます。その言葉に動揺したAは家に立ち返ると、Bは出かけてます。
そしてAの実家(Aの母のところに滞在していた)まで追いかけていくと、いくらAが誠意を見せてもまったく興味を示しません。不倫でもここまでは、と思っていると、なんとなく妊娠したみたいです。ここでDという作家についてBもCもいいセンスしているといわれるとAも面白くないのです。まるっきり「本陣」の夫と同じで甘いのです。自分は好きにしていて、周りがあわせてくれると思ってもまわりも生きているのですからねえ。そういうことでAもDを意識し始めます。フェンシングもたまたま一緒になるのですが、そのときDの裸を見て若い奴には勝てないと悟ったのでしょうね。このあと、妻を実家に追いかけていくことになります。
ここからが良い所で、夫婦の対話がかなり入ってきます。Aは堕胎せよといいます。Bも申し訳ないといいながらも結局は母性で産みたいとなり、最悪別れてもいいといいます。このときBは「言い訳にならないけど、寂しくて、悲しくて、生きていけないと思ったのに、今こうして生きているのはDのおかげ」というのです。確かにそうでした。AはDの子供にAの名前をつけるのを嫌がったのですが、別れるという決心を見て育てていくことにします。ここでひとつ重要なことがあるのですが、Aは無心論者なんですね。すなわち天国も地獄もなく、今、この世にあるものがすべてでその人間などの交流、関係を大事にしていきたいと思っているのです。神のことを、想像上の人物といい、その抽象的なものに向かってお祈りするのはばかげているとまでいいます。ですから、子供が生まれてもまったく興味がないばかりか、洗礼などの行事にも欠席します。無心論者と他人の子供という二重の苦しみが多分無意識的にもAを追い詰めていきます。その追い詰められる様子を黙って見られるはずはなくBも自分自身精神的に追い詰めていくのではないでしょうか?
Aは「子供を通してDを愛しているのだろう」というし、Bは「流産も願ったのよ、Dが恋しいのではない、(自分の子供が愛しい、私の推測)」というのです。ある日、ミサに家族みんなで出かけると、子供の子守だけが召し使えで家に残ってます。Aは無心論者でミサに行かないので、この召使も行って来い、と追い出して子供の部屋の窓(冬の雪の降っている日)あけてじっと見てます。Bは教会に子守が来たことに衝撃を受けますが、Aの判断にゆだねたのでしょう。Aは赤ちゃんを冷たい外に置きます。なぜ、離婚に応じなかったのでしょう。そのときに「子供を父なし子にしていいのか」とBに離婚ををとめたのです。ということはBを欲していたのです。世間体ではないのでしょう。たぶん、自分で気づかないくらいに愛していたのです。自分の子供がほしかったのです。そのことに今回Cとの浮気を経て、初めて気づいたのです。Bも今回のことでAは精神的にBの元に戻ってきてくれました。かなり「本陣」と重なるテーマですが、「家、旧家」の伝統の重みをAは背負っているのと、何不自由ない生活のために自由を恋愛にもあてはめて自由に恋しすぎたのです。そして相手には純潔であれ、という根底の願望があるのです。この2本の映画は違うテーマですが、そのポイントはかなり重なるものだと思います。
子供を殺したあと、妻は本音を、Dを愛していたと、子供がかわいくて仕方なかったといいます。そして二人は離れて、Bは自殺でしょう。結局Aも自殺して終わるのです。最後まで認めなかったのですがCもわかっていたとおりAが愛したのはBだけだったのです。こうしてみると「本陣」とともにいい映画です。
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「青空」 サトウトシキ監督 2000年
この作品はアダルトなので簡単に。最近、ピンク映画とも言われてますが、ピンクとは赤と白が混ざると出来る色なのですがそれがポルノを示すというのは、なんかうまいオブラートのような気がします。
そしてこれはポルノ映画ということですが、実は「いちげんさん」の方がエロい作品です。「いちげんさん」がむっつり助平なのに対して、こちらは、スケベが悩んだ映画でしょう。3作品手に入れてしまったので3回ほど、いつか何気なく書くと思います。
本当に、エロの直線的なシーンはほとんどないです。また遠めから映しているのでまあこんなものか、という程度です。若く、自分がなにやっているのかわからない人間ばかり出てきます。そのやっていることが犯罪なので、社会的には大問題になるのですが、自分たちは軽く喧嘩でもするような気持ちなんでしょう。若い女は街でぶつかった男に言いがかりをつけて、逆に犯され、そのまま同居するし、ある事件がもとであえなくなって再会してもそのままの関係をずるずる続けるし、よくわからないのです。しかし、感じるのは、女は男がどうしようもない奴だと知っていて、どこかで見切ろうとするところです。逆に男に悟られ、殺されるのです。このあえなくなった1年間は逃げ回った時期ですがその逃亡先でも勤め先の社長の愛人が社長を殴り殺す場面があるのです。当然、すべて映像はないですよ。こういうシーンお金かかるから、また趣旨が違うからないのです。エッチなシーンもないのですが。
この主人公の男のモノローグで話が展開するので、男が生活を安定させたいと思うときに終わるのですが、その途中、勤めの合間にジョギングをするシーンがあるのです。「考えを分散させたい」「ひとつのことにこだわらないようにする」などのために自分で気に入った精神衛生方法でした。犯罪をする際にはこのジョギングが切れてしまうのです。
私は思うのですが、多分、このジョギングのシーンがなければこの映画について書かなかったと思う、ジョギングはかなり足をけることによって眼の奥の疲れを、頭の詰まりを取る効果があると思います。そして足の筋肉にも適当な重力をかけて、自分の重さを意識させるのです。これを定期的にやると体が自分は、どの程度重いのかわかってくれて、いざというときに動けるし、体重の負荷は神経繊維のマッサージにもなるような気がします。このジョギングの効果を発見して立ち直ろうとしたのですが、女が再会に応じなければ良かったのでしょうし、女の中途半端な気持ちで殺人まで行き着いてそのあとに、反省がきたのでしょう。この男はもう一度社会復帰したら、家庭を持ちたい。と言って終わりますが、もう出てこなくてもいいよ、と思う反面、ここまで経験しなければ、実は本当の反省はおこらないのかもしれないと思います。まったくお勧めではない映画です。しかしこの映画を観ると「いちげんさん」はポルノです。
「天使たちが見た夢」エリック・ゾンカ監督 1998年 フランス
今度は「青空」と少しダブるような話です。バックパッカーの流れ者の女20代前半(Aとする)が友人を訪ねてある田舎町に来ます。友人はいなく、カフェでいつもながらのあぶく銭を稼ごうと切り絵を売ろうとすると、「金がないのか、仕事を紹介するぞ」、という男に出会います。仕事は紡績工場でミシンを使う仕事です。そこで、休憩時間にたまたましばらく一緒に過ごすことになる同じ世代の女(B)と出会います。ここで、思うのですが、いい悪いはともかく、カフェに出かける、または街に、外に出なければ、どんな出会いのきっかけもないということです。最近はこもるのがはやりみたいで、「もっと外に出てほしいと思います、もちろん車の中は外ではないです」。会話の中で「この街なんか陰気な町ね」というせりふがあるのですが、確かに街から街へ流れていると、旅をしていると、そういう雰囲気を敏感に感じることが出来ます。ゆえにAは多分、危険も敏感に感じるのでしょう。Bも「嫁いだらここを出るわ」といいます。これはアメリカの田舎、特に南部の人の考えですね。しかし地元で恋をしてしまうから出られなくなるというパターンです。
この二人見ていて思うのですが、生活のリズムが外に向いているんですよ。お金がない若い子のパターンなんでしょうが、工場から帰宅、ご飯を家で、そしてバーに出かける。踊りに行くのです。日本人なら、どうせ出かけるなら食事でも、と合理的判断をするでしょう。食事の部分にお金を使わないのはいいですねえ。そして帰ったあと、家にこもるんではないんです。家にいても誰とも知り合いになれませんから、出かけるんです。ついでにライブをただ見しようとすると、その受付のバイク乗りたちに断られます。しかし確実に彼らと知り合いになるのです。そうしてみんな相手を見つけていくのでしょう。実際に二人とも友達とも言えるバイク乗りが出来ます。Aは話すくらいですが、Bは寝てしまいます。Aはじっくり自分のしたいことを見つけるタイプで、Bはあせってしまうタイプですね。二人の住んでいる家は、Bの知り合いの家で、交通事故で入院している間、管理人として預かっているだけです。Bは破産した父親がいやで家をとっくに飛び出しているのです。実際に母親もお金をせがみに訪れます。
毎日良い男を見つけ歩いているようで、Aは生活を根付かせ始めます。そして、この家の交通事故にあった女の子の日記を読んでしまい、同じく悩んでいることに気づきます(「二十歳の原点」のような日記)。実際に、まったく関係ないのですがお見舞いに行ったりしてます。大家なんですからねえ。意識不明なので相手がわからないのですよ。Bは逆に同じようですが、ふわふわして万引きをするところを警備員に見つかり、さらに、ちょっと知っていたカフェのマネージャーにも見られ、警察に連れて行かれるところを、このマネージャー(Cとする)が代わりに支払ってくれました。CがBにどんどん親しくしてくるので、はじめは受け付けなかったのですが(万引きを見られた恥ずかしさもあるのでしょう)だんだんCのペースに嵌っていきます。当然Cは遊びのつもり、Bはもしかして、と夢見るのです。すぐに裏切られますが、体は許し続けます。というより、はじめのうちはCがプレイボーイだと気づかないのです。実際に、Bの女優は小奇麗な女優です。アルバイトに精を出してお金を稼ぐAとCに振り回されるB,さらに仕事先で友人が出来て世界が広がるAとあくまでCに固執してAにも相手にされなくなるB。その差はだんだん大きいものになります。ここで「青空」とかぶるというのは、このようなBの行動の理由となんとなく「青空」で最後に殺される女の子とが似ているような気がするのです。Bはお金持ちである程度カッコいい人と相手したい、「青空」の子はもっと刹那的で家庭から逃げ出したい、というものでした。もしかしたら世界の果てまで行ってみたい、くらいの気持ちもあったかもしれません。覚せい剤の売人の仲間を警察に売ったのはそんな理由で、そんな連中から、彼を引き離したいのかもしれませんしねえ。まあ深くない動機だと思います。日本もフランスも似ている気はします。
しかしBが忘れようとすると、Cが近づいてきます。そして、Bは寝てしまいます。ほのかな夢をまだ見たいのです。そのときAは再三忠告するのですが言うことを聞かないばかりか、Cと一緒になったときのような見下したしゃべり方になります。
さらにはバイク乗りの男友達(Bはこの男とも寝てしまっているよ)にも好きな人が出来たと別れ話を言います。実はバイク乗りのほうが誠実なんです。ぴったりの男なんですよ。いい言葉を言います。「会うと胸がときめくか?そういう恋なら絶対に逃すなよ」といい男ですよ。私には言えないなあ。Aの助言もいいんですよ。「Cがすべてなの?ほかにもやることあるでしょう?プライドはないの?」などです。しかしBは昔から惨めだったと告白します。かなり投げやりになってます。もう向かうところはひとつですね。何回も惨めな思いしながらも最後にかけるその気持ち、多分、本当に恋したんだと思います。それも初めての恋でしょう。Aはこの恋が実らないことを知っていたと思うんです。多分、このときはもうBは打算だけではないと思います。しかしCは別れの言葉も直接にBにいえないんです。Aに言ってくれと頼みます。AはCを当然ひっぱたきますが、Bはまだ望みを持っているんです。その姿を見ているAの方が辛い。でもよく考えればAが来た事で、Cとの出会いもあったのですし、バイク乗りとの出会いもあったのです。そういうかけがえのない友人だったはずなんですが、Bはどこかに脱線してしまいました。Aは家を出て行き、この家の持ち主も意識を取り戻しつつあり、すべてうまくいくのですが、Bはひとりあてもなく寝ているだけです。家は追い出されるし、仕事はないし友人を一挙に失ったのです。その様子をAは家に来て見て、寝ているBに手紙を書きます。「Bへ、寝ているから起こさないで書くね、この家の持ち主は治るわ また生きるのよ。あなたも望みどおりに生きてね。あなたが夢見る人生を。毎日どんなときもね。あなたの友達、Aより」書いて帰ろうとしたら物音がして見に行くと、Bが窓から飛び降り自殺します。友人に恥ずかしくて会えないのでしょう。こんな言い手紙が残されているのに。題名はちょっと違う感じはします。Aは生活を固めて再構築しようとしただけですので、「夢」なのかなあ。
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「ふたりのロッテ」ヨゼフ・フィルスマイヤー監督 1994年 ドイツ
この映画はいい映画です。内容もよければ、音楽もいいし、風景もいいです。特に前半のスコットランドの景色はなんともいえないくらいきれいです。
映画のはじめは「離婚調停」の罵倒から。離婚から10年後、英語スクールで二つの家庭の子がスコットランドに出かけます。一人はやんちゃな女の子、もう一人はエレガントな女の子。この子たち仲が悪い上に同じ部屋になってしまいます。そこでいじめとしてお風呂に入っているときにシャワーをかけるのですが、格闘になってお互いに濡れてみると、姿がそっくりなんです。そうですね、離婚した夫婦が双子をひとりずつ引き受けて育てているのに、たまたま同じ英語スクールに通わせてしまったのです。子供たちはお互い、少しずつ、打ち解けあい、お互いの片親の話しなんかしながら、ほとんどまだ見ぬ片親を想像してます。そしてお別れのとき、スコットランドの灯台を背景に一緒に記念写真を撮るのですがきれいです。この知らない姉妹同士が触れ合うときの舞台としてスコットランドはとてもいい舞台です。
しかし別れ際に、ある作戦を立てて、別れます。それは別のうちに帰るのです。お互いのばれないために習慣とか教えあって、ママに育てられた子はパパのもとに。逆も。ふたりの名前はママのミドルネームからパパによってつけられているのです。
やんちゃ(A、パパに育てられたほう)は帰って母親の優しさに触れます。エレガント(Bママに育てられたほう)は父のだらしなさにびっくりの連続。行動も変化してます。Aは洗濯機を壊すし、散らかすし、母に「最近短期になったわね」といわれます。Bの方は掃除も洗濯も代わりにやって、ピアノも弾けるようになり、劇場(パパの仕事場)にも喜んでついていくし、「英語セミナーでよい子になったね」と言われます。
そのあと、逆の立場でぜんぜん違うことをやるのは本当に観ていて楽しいです。たとえば、ママの方に行ったAはお見合いを壊すし(そのママの相手の前での下品な食べっぷりは一見の価値あり)パパの方に行ったBはテストで満点を取るし、こんなシーンばかり見ていると世の中捨てたものじゃないと笑い飛ばすことが出来ます。本当に楽しいです。そして両親が気づかないうちにふたりが出会った時のような楽しい考えを取り戻させるのです。二人が愛し合ったときは確実に幸せだったんですからねえ。子供はかすがい、とはよく言ったものです。ママの担当するCMの(仕事が広告代理店勤務)音楽が決まらないのですが、パパの音楽を(劇団つきの作曲家)双子経由で上司に見せ面接のセッティングをするのです。そして作曲家に会いに行って帰ってきたママの前でパパのテープをかけるのです。
するともうさすがにだませません。ここのシーンは感動しますねえ。最高のシーンです。パパと行った子供の名前を呼ぶのです。子供は思わずやっと気づいてくれたと、抱きつくし「わが子」と抱きしめます。両親の再会もセッティングします。しかし大人はそうは行きません。そこでパパが折れて子供をすべてママに預けるというとどちらも個性的ですがかなり立派に成長しているので、ママも自信がないのです。お互いに見直しあい、またうまくやっていくのです。きっと。
となると思ったのです、しかし違いました。双子はスコットランドに逃げてました。夫婦で途方にくれていると、語学学校の先生がたまたま見かけて、電話してくれたのです。そして急遽、スコットランドに向かいました。一緒になるにはもうひとつ試練が必要だったと思ったのですが、違いました。どこにいるのかわからないで、記念写真を見せてここはどこですか、と聞くと灯台でそこに向かうと双子はいました。無事救出でめでたしめでたし。一緒になると思いました。しかし駅でお別れです。双子はママのもとにもらわれました。しかし別れ際に、手紙をパパに双子はあげてました。最後の賭けです。手紙にはパパの口癖の「人生には急停車が必要なときがある」と書いてあったんです。子供にいつも離婚の理由として話していた言葉でした。子供から今度はパパに送られたものでした。ママももう一歩プライドからか言い出せなかったのですが、パパは電車に乗った後その手紙を読んで、文字どうり急停車させて、3人のもとに向かうのです。最後の賭けは無事成功でした。パパのもとに育ったAはたくましい。素晴らしい。原作もいいですが映画も最高です。このような映画は馬鹿にされがちですが、絶対のお勧めです。観てください。最後までいい曲です。
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「殺人に関する短いフィルム」クシシュトフ・キェシロフスキ監督 1987年ポーランド
はじめにゴキブリ、ねずみ、猫の死体が出てきます。なんとなく人間がその死に関与している感じの死体です。猫なんか首吊りです。
話は3人の男を中心に進行します。若い男(Aとする)は何もすることがなく不安定な面持ちで街をふらついてます。映画を観ようとしても、時間が合わず見ることが出来ないし、絵描きに話しかけても、何が出来るのか、という質問に答えられません。逆に「木を育てられるか?」という質問を受けるのですが、「出来る」というと少なくても植木職人になることが出来るということを示唆されます。しかしそんな職業に興味ないのでしょう。そのあと、公園では鳩にえさをやる邪魔だとおばあさんにどけと言われます。居場所がないんですよ。歩道橋の欄干にたたづんでいると石が置いてあり、それを下に落としたくなります。下は車が走っているので、危ないのですが、落とすと案の定車にぶつかります。
もうひとりはタクシーの運転手(Bとする)住んでいるアパートの近くで自分のタクシーを洗っております。途中、お客が来るのですが、洗っている最中と断ります。客を選んでいるのか向かうところがあるのかわかりません。
もうひとりは弁護士の試験を受けている男です(Cとします)。彼は大学の後働いて勉強しているうちに、人生経験から弁護士の仕事の重さを認識し始めているのです。ゆえに答えは(口頭試問)深いものです。たとえば、犯罪の抑止には何が有効かという問いに対しては刑罰ではだめ、恐怖を抑止力とする、と答えます。理由はカインの頃から刑罰はひとの犯罪の抑止にならないというのです。この3人が交互に映し出されていくのです。
Aはある少女の写真を持っていて引き伸ばそうとします。そして街をふらつくだけ。Bは地道に稼ぐだけ。Cは弁護士に合格します。しかしAはたまたまBのタクシーに乗ります。それももしかしたらBのあとのタクシーになったかも知れないのですが運ですね。そして途中で殺します。めった打ちですね。死体は川に捨て車を乗って帰ります。まったく動機はないのです。あるとしたら彼女みたいな女を誘ってドライブに行きたかったことでしょう。しかし誘う女はタクシードライバーの近くの人で車を見たらすぐに誰のものかわかりました。さて裁判が始まります。Aの弁護人はCです。しかし完敗。しかし刑務所に護送されるときにCはAの名前を呼びます。そのあと、裁判官のところに行き、もっとベテランの弁護士なら判決は違ったか?尋ねます。変わらない、という答え。CはたまたまAが犯行の準備をしていたカフェに合格のあと、偶然居合わせていたのです。何をやるのか知っていれば、とめたでしょう。しかしそのときは赤の他人です。どうしようもないです。弁護士として初めてAと縁が出来たのです。この縁のめぐり合わせがCを悩ませます。そして死刑の日、CはAに面会に行きます。そして話を聞きます。するとAはあの名前を呼んでくれたことがすごくうれしかったと、そしてなぜ車を憎むかを話し始めます。それは友人とAが酒を飲んだ後、友人が酔っ払ってAの妹を引いて殺してしまったからです。それ以来、Aの歯車が狂ったと話すのです。人には、小さな出来事でもその人の運命を変えてしまう出来事があるのです。このように死刑の日になって饒舌に今までのことを話し始めるA。同情の余地はあるものの行った犯罪は紛れもなくAのなすところです。Cが弁護士試験で言っていたように、恐怖は抑止力にはこのケースではなりませんでした。意味もない犯罪です。恐怖なんかAは感じていなかったのです。そしてAの過去の悲しい経験がこの犯罪を起こしたのです。過去に妹を殺されたのも過失のある何の意識もない暴力でした。人間はもっと深い、わからない存在みたいです。なぜに暴力はなくならないのでしょう?そのことが疑問に残ったCでした。私は救われたのは最後に死刑の前にAの話をCが聞いたシーンです。ここが唯一、Aの人間らしい描写でした。本当に近くに生活しているのに殺される人、裁く人、弁護する人、犯罪者が日常的に関与しているのです。ここではじめのシーン、動物たちが殺されてます。どんな恐怖を与えても人間の暴力はなくならないのでしょう。それが人間みたいです。残念なことです。この作品は単品で見るより「デカローグ」の十戒のひとつ「暴力、殺人」としてみなければ内容がわからないでしょう。
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「時をかける少女」大林宣彦監督 1983年
「人が現実よりも理想の愛を知ったとき、それは人にとって幸せなことなのだろうか、不幸なことなのか」とかいう出だしですね。今回見て初めてこの一文に気づきました。
尾道の風景が出てきますが(あたりまえですね)こんなに出てくるのか、と思うほどきれいに映ってます。一度も行った事ないのです。広島のついでに行ってみようかと思います。
そしてはじめのスキーのシーンの音楽良いですね。スキーで深町(Bとする)がなんか原田知世(Aとする)の意識に上るんですね。そしてラベンダーの香りをかいで気絶。意外と覚えているようで覚えてません。このラベンダーは初恋なのかと思うのですが、確かもう一ひねりあるという記憶だけで、はっきりしませんでした。
時間が一日ずれることに気づいたAはBに相談して昨日あったことが実際に起こることを照明します。そのときBからテレポーテーションとかの説明をされている雰囲気はもう初恋ですね。いい感じです。その前にBの家の温室で「ももくり3年かき8年、、、」の歌をいつの間にかハーモニーしているんで、どこかに憧れがあるんでしょう。子供のときの傷に気づくのですがねえ。しかし、なんというやわらかいテンポなんでしょう。素晴らしい。今では考えられないようなテンポです。屋根の落盤事故のときに子供のときの記憶が元に戻ってから、Bの存在を無我夢中で追いかけてしまって、時空間を飛んでしまったらしいのですが、海の先端の岩肌の花を取りながら話している構図はきれいですよね。おかしくなったときに戻るときにいろいろな人生のページを見ていくのですがそこでBは死んでいたということを知るのです。この土曜日の実験室に戻るときの時と風景(尾道)のコラージュと音楽、良いですねえ。実はリアルタイムでは馬鹿にしていたんですが、今見ると良いです。監督も多分今よりもずっとロマンティックだったんでしょう。しかし、美しいです。そのあとの未来人とかいう説明はさすがについていけないですが、これSFなんですね。SFでない方が良いのに。最初のスキーのシーンが未来人がやってきた合図なんて、監督はSFと初恋をダブらせてかなり確信犯的に作ってますね。それで映画の前の文章になるわけです。しかし一目あったその日からの大恋愛という感じのスタートではないんですが、実験室では「私もついていく」と大恋愛に発展しましたね。ちょっとずるいなあ。監督手を抜いている感じもします。途中経過が大恋愛かあ、と思うのです。しかし最後に又出会いましたね。これで大恋愛完成です。そうしたら今までのシーンが、動く記念撮影みたいに楽しく、本当に走馬灯のように流れて行きますね。これはリアルタイムで観ていたら気に入る映画になっていたことでしょうし、この女優一作目からいい映画に出てますね。ユーミンの最後の曲も良いですね。今になって角川映画なんて観てますが、当時は5本くらいかなあ、ロードショーで見ていたの。
「キャット・ピープル」ポール・シュレッダー監督 1982年 アメリカ
なんというか、何にも感想のない映画なんですね。では何で観るのかというとナスターシャ・キンスキーなんです。美人というわけではないと思うんですが、大体の作品見ています。今回も映画がつまらないにもかかわらず、最後まで一気に見られたのも、この女優がきれいに撮れているからでしょう。
黒ひょうに捧げられた人間の女の映像が出てきますが、あとでひょうのえさになるのは人間の女ばかりなんです。その局部を食いちぎる食べ方をするらしい。この黒ひょう一族が現代のニューオリンズに人間の形をして生きているらしいのです。
たまたま両親をなくして兄のもとにやってきたナスターシャは兄がひょうに化けることを知ります。しかしたまたま動物園で化けて人間の女をえさに取ろうとしたときにつかまった兄のひょうを見つけるのです。そこで何かを感じるのです。しかしナスターシャは人間で、ひょう一族ではないと言い張り喧嘩にもなりますし、動物園の園長の誘惑にも誘われるままに出かけます。しかし一線は本能的に拒否します。その晩、彼女は自然に眼が覚め外に出ると服を脱ぎ捨て動いている動物が良く見えるようになり、そのなかでおいしそうなものを狙い捕まえて食べます。しかし園長の愛は変わらないものになっていました。彼女自身も兄と同じ運命なのか良くわからないで恐怖を感じているのです。
こういう、想像だけでもやもやした映像を具体的に見せられるとこれが映画なんだ、とも思います。変な作品のようなんですが、逆にすごく映画的な作品かもしれません。第一、私がなぜか最後まで続けてみてました。この種族は(黒ひょう)兄弟同士で愛し合い種の保存を図っているみたいなんです。しかしナスターシャは人間であると拒絶しました。そして兄のひょうは撃たれて死にます。解剖すると人間の手が腹から出てきて消えてしまうのです。
この種族は昔人間の子供をいけにえにしていたので、その魂が宿り、人間の形をするようになった神の種族とのこと、なんでもいいから、適当にやってくれ、というかここまで行くと面白いし、美人、美男子が出てくるので飽きないです。最後は園長に抱かれること(神と人間の交わりでもあり、動物と人間の交わりでもある)を選択してそのまま動物園でひょうとして生きていくのです。仕方ないです、人間と関係してはいけない種族らしいですから。意外と面白いなあ。
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「ミッドナイト・エキスプレス」 アラン・パーカー監督
この監督との出会いの映画だったと思います。映画は一期一会という言葉は本当に当てはまると思うのですが、一番初めの印象で何か残らなければ、二度三度と観ないでしょう。
もちろん、内容を知ってますし、忘れられないシーンも数多いので、今見ても再確認程度ですが、また久しぶりに見ました。内容が重いので、何回も観たいと思わないので、好きな割りに回数は観ていない映画です。しかし今回もまた、この映画を見直してしまいました。素晴らしい。
1970年のニクソンがトルコをを嫌っているときのイスタンブールが舞台です。空港でハッシッシの密輸をやろうとしている若者のシーンが心臓の鼓動のようなリズムとともに映し出されます。もうすでに、かなりあせっているのでやめれば良いのに、と思ってみているんですが、あせっている割に最後の度胸で行ってしまいます。たぶん厄年とか厄日なんでしょう。恋人と一緒のときに黙ってやるのは無謀です。それも素人なんで、かなりあせってます。つかまるまでの描写はこちらがあせるくらい、もっとしっかりしろよ、と思うほどです。そして売人の洗い出しに協力するために街に連れて行かれるのですが、ここでおとなしくしていたらどうなっていたでしょう?普通はここでおとなしくしているものです。犯罪捜査の協力ですので、悪い印象はなくなりますよね。しかしこの若者(Aとする)は逃げてしまうんですよ。いくらなんでもパスポートのなく何もない状態でのイスタンブールは危険です。つかまってしまいます。この間「まずいよ」と心の中で叫んでみているのは私だけでしょうか。何で逃げたんでしょう。甘いのです、考え方が。そして裁判になるにつれて父親がやってきます。結果は4年2ヶ月。密輸となるらしいので(本人にはその意思はなくても国外に持ち出すということは密輸)仕方なく、父は帰っていきますがこの別れのシーンと最後の再会のシーンは対になって感動を呼びます。
ミッドナイトエキスプレスとは脱獄という意味です。脱獄さえ出来ればトルコなら(ヨーロッパなんですが)すぐに偽造パスポート作ってギリシャに逃げることが出来るらしいのです。まあ父の言いつけどおりに黙って刑に服します。その間、人種的偏見や、ホモ、精神的にだめになっていくものなどを見ていろいろと考えさせられます。その中で回教寺院からローソク台を盗んだ男が何回も刑務所の警官のお世話になり、脱獄も試みますが失敗して睾丸をなくします。つかまったときにひどくぶたれてヘルニアをおこしてだめになったのです。憎しみを糧としてまじめにほかの人と生きていきますが、その人が少しホモっぱくて(仕方ないかも)それは拒否しながらも前向きに僧侶みたいに生きていきます。この相棒は先に釈放になり、睾丸をなくした奴は病院から戻ってきます。そこでこの監獄の建物の青写真をもらったらしい。脱獄を薦めますがAは拒否して、残り53日。このときに最高裁の判決が下り(判事が控訴していた)刑は30年と決定します。ここでぶちぎれて、脱獄計画に参加するようになり、どうにかトンネルを進めるのですが、出口にふたはしてあり、どうしようもないときにトルコ人の囚人なんですが見張り役みたいなお茶配り役の奴に(Zとする)見つかり、睾丸なくした奴が罪をひとりで3人分かぶっていきます。
残りのふたりは、このZに仕返しをしたく、お金を盗み(Zはお金が命のようなずるい奴)で燃やしますが、Zは地元の人間なので、仕返しをします(「眼には眼を」もすごい仕返しの映画でした)。マックスというもうひとりの監獄に長くいる奴を、ハッシッシの密売で摘発します。無実の罪です。そして警官に連れて行かれるのですが、そのときにAの怒りは爆発(身代わりになってくれた睾丸をなくした奴の気持ち、今までいじめられた怒り、そしてマックスを無実の罪で陥れた怒り)すべてが爆発して、Zを殴り殺します。最後は舌を噛み切ります。そしてAも特別収容所に収監されます。時計は7ヶ月進んでいます。本当ならもうとっくに出られた時ですね。しかしそこは半分精神病院のようなところでマックスがいるのですがお互いにもう気力なく呆然として、かつ、かかわりは避けたいのでしょうが気づきません。Aはいつしかお祈りの輪に加わり呆然としてます。
しかし恋人が会いに来て、アルバムの中にお金を隠して与えるのです。すこし、特別収容所は警備が緩やかなのでうまく通ったのでしょう。その恋人は意識せずとも久しぶりに見た女でした。「愛している」と自然に出るとともに、脱いでくれというのです。そして面会のガラス越しに愛撫するのです。昔見たときはすごいシーンだと思ったのですが、今見るとなんでもなく、久しぶりに性の衝動、生きる気力を蘇らせてくれた瞬間でした。それから、病院が警備が緩やかだと覚えていたので賄賂で病院に移らせてもらおうと所長に言い出るのですが、この所長のホモの餌食になるのです。実は本当かどうかわからないですが、所長が洋服を脱ぐということはチャンスですよね。あまりにも出来すぎてますがそこで殺せばいいのです。そして警官の服装をしてたまたまでしょうが、うまく刑務所の外に出ることが出来たのです。この映画のあと、トルコとアメリカは捕虜の交換の締結をしたとか、トルコ政府は上映に反対したとか、流れて最後に空港で父親と恋人と母親と抱き合うシーンをもって終わります。シナリオ、オリバー・ストーンだったんですね、音楽ジョルジオ・モロダーだったんですね。なんとなくわかる気がしました。「スカーフェイス」も同じですね。監督が違うだけです。あの映画も最後は逆にいらいらしました。自分の扱っている麻薬に溺れるなよ、と画面に向かって叫んでました。情けなしアル・パチーノという映画でした。メイキングで本人が出てきたんですが、やはり俳優はかっこいいです。このAの役と恋人の役、父親の役はみんないい役者です。ブラッド・デイビス、アイリーン・ミラクル、マイク・ケリンです。
「晴れ、ときどき殺人」 井筒和幸監督 1984年
この監督の映画最近続いてます。「がき帝国」は面白かったのですが、この映画はどうなんでしょう。角川映画と赤川次郎という組み合わせは実はほとんど見ていないのです。最近中古が安かったのでかなりまとめて買ってしまいました。それで先日の「時をかける少女」以来すぐに見ています。
今思ったのですが、渡辺典子は誰もがあの子に似ているなあ、と思い浮かべることが出来る女の子ではないでしょうか?実際に私も、ある人に似ていると思っていてその人は美人だったんだあ、なんて美的感覚のないことを思いながら見てました。さらに男の太川陽介も友人に似ていると思いました。そんな平凡な感じの中、せりふがたどたどしい、俳優がたくさん出てきますし、なんというか渡辺典子にいたっては間違えそうなところをわざと狙って撮っている感じもします。内容はかなり昔の人しかわからないようなせりふも多いので、今の若い人はわからないかもしれませんし、どっってことはない内容です。殺人事件が犯人は誰か、これがのほほんとして捜査も進み、誰も怖くなく、進行していくだけですね。しかしこの主役のふたりの魅力は今になって気づきました。かわいいし、男は素直でいいですよ。見ていてかわいいふたりです。あと意外といいテンポで、冗談ぽく進行するので本当に気楽に楽しめます。出ている役者は二世代前ですので今とはかなり違い人ばかりですね。そんなところも面白い比較です。この監督はかなり角川映画という枠で使える俳優もかなり選べて、自由に撮った印象があります。音楽は宇崎竜童ですがさすがにこの歌は聞いたことのある歌でした。角川映画は最近投売りに近い値段で売っているのでかなり買って観ているのですが、昔の俳優と今まだ活躍している人たちがごった煮で面白い位置づけですね。ちょうど邦画が停滞していたのかな。この数年後に塚本監督も出てきますよね。このころ「電信小僧」撮っていたのかなあと思うと面白いことです。のちにこの監督は俳優として塚本監督の「バレット・バレエ」に出ているんですよ。次にこれ観たくなったなあ。
最後に犯人は想像しませんでした。ミステリーだったんですね。面白かったなあ。ETのパクリも今となっては何も感じません。当時は批判受けてそうですね。しかしPCは20年前は古かったですね。あそこで道を間違えていなければ、日本企業はかなり支配力があったと思います。半導体でインテルに負けるなんてこのときは想像もしなかったです。時代を感じさせてくれました。
「バレット・バレエ」塚本晋也監督 1998年
「晴れ、ときどき殺人」の井筒つながりで観てます。この監督、あのチャカ売ったやくざの役ですよね。太ったのかなあ。ほかに井筒監督の昔の面影がある人がいないので多分そうでしょう。かなりの脇役です。
しかし感じたのは、時代がぜんぜん違うということ。たかだか14年しかこの2本の映画は製作年が違わないのですが、中で出てくる人間は100年くらい違うような印象を受けます。あと、感じたのは角川映画は渡辺典子を主役に持ってくるシステムでしたが、この映画なんて主役のイメージがあってそのイメージに合う女優を探しているんですよ。真野きりな、ですね。演技はしゃべらせないのでばれないのですが、その存在感は断然違います。井筒監督は昔の人ですね、表現がかわいいですもの。塚本監督は今の監督で、ばっさばっさと暴力シーンが出てきます。
まず主人公の付き合っていた女が自殺します。死ぬ前に「このまま、子供作っても、その子供が私たちの絆ねえ」といって子供がいなければどこかに飛んで行きそうというのです。まあ愛していないんです。しかし主人公Aは彼女がどうやって自殺用のけん銃を手に入れたか不思議でなりません。実際にけん銃を買おうとしますがどこにも売っていないんです。やくざや黒人など風俗の立ちんぼなどに聞いても知らないというばかり。誰かわからない人ですし(サラリーマン風なので相手にされない)実際に売るほど銃を持っている人は少ないのでしょう。そしてエンジニアの特性を生かして銃を作る努力を始めます。銃専門のインターネットのフォーラムに顔を出すようになり、部品を街の工場に行って小口で作ってもらいます。仕事が多分大会社のSEなので給料はいいでしょうし、自分自身もやけになっているので、銃を手に入れることに関しては予算制約がないのでしょう。出来たものをもって不良の溜まり場に行きますが、それはその不良たちの中で、決まっている女を抱きたいからです。ですからその女の行動がどうも気になるんですよ。そして女にけん銃を向けて抱こうとしますが、なにかAは話のほうがいいみたいで話していると女の仲間が助けに来てその仲間にAは作った銃を撃つのですが、さすがに球は飛び出ますが威力なくぼこぼこに殴られます。これで2回目のぼこぼこに殴られるシーンです。この女は刹那的でいつ死んでもいいような死に場所を探しているんですよ。そしてこの不良のボスで溜まり場のバーのマスターの女でもあるんです。
この不良グループは最近のしてきたZ不良グループに対抗してZをぶっ潰す計画を立てます。そして決闘のとき、不意打ちをかけて優勢に進めますが、女は追い込まれてもただ立ち尽くすだけで殺してくれ、といわんばかりで、Aも心配で銃を結婚を条件に中国人からもらって駆けつけます。ここでもこの女を助けるのです。この喧嘩はAのけん銃でかなり助かったはずです。Aはこの女(Bとする)が死にたいと前日FAXが来て知るのです。ですから会社も休んで駆けつけるという入れ込み方です。すでにこの辺で話はどうでも良くなるくらいにごちゃごちゃしてきますね。でも簡単なことは、東京という街を表現しているんだと思うとぜんぜん苦にならないしわかりやすいんです。「高速の下の浮浪者、殺して来いよ、くさくてたまらない」というせりふもわかりやすい。けん銃とられているんですよん。彼らに。出入りで最終的に倒れて、しかし味方してくれたし、家まで送ってくれてけん銃だけ取られたんですね。そこにBから電話でけん銃を使う現場をAに教えます。Bも気があるのです。Aはけん銃を取り返しに向かいますが、近くにいたBはAが出かけたときにAの家に入り込みます。しかしけん銃は使われました。それはボクサーに対して撃たれたのです。その撃った奴は以前、そのボクサーをかつあげしようとしてぼこぼこにされて友達になったのでした。そいつを撃ったのです。部屋に帰ってみるとBは消えていて、その香りだけが残っています。本当にこの映画簡単なんですよ、東京という街を知っていればそのカオスそのものなんです。人種が入り乱れ、デザインのちんぷんかんぷんな街の景観、他人のことに興味のない振りをする通行者、時間が足りない人間たち、急ぎすぎて人間関係を忘れた人々、本当にこの映画そのものです。
そこで何者かが逆に、この不良グループのものを殺して行きます。アジトを攻められるのも時間の問題というときに女Bはけん銃をAに返しに来て、「筋違いだけど、助けてくれるか」と頼みます。頼まれて断れないでしょう。とにかく死んでもいいと思っているやつは味方につけるべきですもん。誰かに殺してもらいたいという奴ほど生き残って、街のリズム、東京とは違うリズムを持ってしまいます。ほとんどの人は忙しい振りしているだけで死にたくないのですから当然ですね。
今度の相手はやくざの刺客ですね。どんどん仲間が死んでいきます。ボスも死に、Bともうひとりボクサーを撃った男が残るのですが、ここでもAはわき腹を撃たれても助けに行きます。刺客を撃ち、ともに弾がなくなるまで撃ち合います。そのためBたちは殴られてすんでしまい、また生きてしまいます。ボクサーを撃った男はもう反省しきり泣きつくすだけで前へ進むことが出来ません。しかしAとBはお互いに死ねなかったので、別れてお互いの生活に戻ります。一緒になってもいいのでしょうがお互いに殺してもらうだけの人生ですから別れるのでしょう。しかし街の静かな様子とは裏腹に歩き出すとだんだん元気になってしまいには走り出すのです。死ぬ覚悟が出来ているから生きているときが充実してしまうんですね。死ぬことを恐れて、事件などにかかわりを持ちたくない避けてばかりの人生ですと死と隣り合わせの充実感は味わえないのでしょう。結局これが彼らの麻薬だったのです。Aの妻は先ほどのように先が見えている人生を嘆いていたくらいですので自殺しかなかったのです。もっと燃えた人生を、危険に飛び込み生きている実感を、そうすれば死なないものだ。人間そんなに弱く出来ていない、というメッセージが聞こえてきそうな映画でした。私は好きだな、こういう映画。しかし男女関係はもっと描いてもいいのでは?たとえば性の陶酔感とかね。
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「ファンドとリス」 アレハンドロ・ホドロフスキー監督 1968年 メキシコ
リスが花をむさぼり食べていたときに戦争が起こっているんです。いくつかの都市が存在していたが最終戦争で「タール」という都市以外は滅亡する。そこからスタート。なんか「風の谷のナウシカ」みたいですね。「水を飲む鳥を見て永遠を知る」「向こうへ行けば人生とは何かわかる」しかし「タール」という都市がこの戦争に積極的に参加しているのなら、勝者なのです。「タール」の存在証明は「タール」都市以外でなされなければならないのですが、「タール」はほかの都市の存在の証明に都市の集合の変数として用いることは可能ですよね。はじめの語りで「タールに踏み入れば、ワインと水を差し出されるだろう」などと流れるので資源は豊富で、ほかにも平等などの言葉が用いられるので、勝者の理想の統治がなされているものと考えられます。こんなこといいながら私は「タール」は抽象的存在だと思っているんですがねえ。その「タール」を目指す男と女の遍歴です。「未来に近づけば近づくほど増幅されるエクスタシー」があるらしいので出発ですね。蓄音機を持って出かけるのは、音楽が荒野(「タール」以外は荒地、すなわち最終戦争の残骸がある)では調達できないからでしょう。リス(女の方)は歩けずに引き車でファンド(男)の方に引っ張って行ってもらっております。
第一幕「葉っぱに逃げ込んだ木」タールを探せ、僕の世界を見せよう、誘惑、お葬式の歌
途中、バンドの連中がアナーキーな生活をしているところにぶつかるのですが、そこで、淫らな生活や統制の取れない楽曲などに翻弄されながらも(いつもファンドはリスをないがしろにして遊びに行き、または喧嘩して飛び出してそこでもてあそばれて傷ついてリスのもとに帰ってくるのです)ふたり仲を戻します。この街の芝居小屋は幼児をもてあそぶところです。荒廃した感じのところ。荒野の楽団の演奏する音楽はジャズみたいな感じの曲で、この映画がメキシコ映画なので仕方ないでしょう。楽団は燃え上がるピアノの最中に最後の演奏が始まり、燃え尽きて楽団も踊りも終わります。そこで二人を引き止める音楽の魅力も消えていき、また放浪となるのです。
次は「タールの街はファンドの頭の中に」というシーンです。自分を信じて、花は見えたか、女たち、リス
女神像が捨てられ、その捨てた沼からはぞくぞくと人間の男女が起き上がって(生き返って)くるのです。そこから逃げて、二人は花のことで喧嘩します。そして女陰の形をした砂漠の穴にリスを捨ててファンドは立ち去ります。そして、女の支配するアマゾネスに着きますが、私も常々思うのですが、女の性欲は年取ってから男と逆転するみたいです。トランプで男取り合うゲームや、ボウリングで男を倒すゲームのシーンが出てきますね。ですから男たちは人形で遊んでいるんです。女の恐怖と男のだらしなさを見てファンドは自分にはリスがいると思い出して戻る。情けないなあ。
第三章「孤独な男には常に伴侶がいる」男たち、ファンドとリス、お恵みを、母
今度は砂漠で大量のおかまちゃんたちに出会います。ファンドにおかまの格好をさせますが似合いますねえ。性格が女っぽいからなあ。リスは男の格好。逆です。そして女たちに父の棺おけのところに案内されて、父は生き返りそのまま女と消えます。逆に母にも会うのですが殺してくれといい、殺します。そして棺おけの中に入れたら鳥が出てきて魂が飛び立つように空に飛んでいきます。この父と母はファンドの独立を示唆してます。
第4章「彼女に別れ話を切り出したら、私たちは二つの頭を持つ一つの体といわれた」俺のフィアンセ、乱心の石、俺の太鼓、君のために歌う
しかし、うまくいきそうで、ファンドはリスに歌を歌ってあげようとするのですが、その太鼓をリスが壊したと思うのです。そして激怒してリスを拷問して死なせてしまうのです。
そのとき、「タールに着いたら君の頭上には黄金の王冠、そして君は迷宮の鍵を手にする」という声が聞こえてきます。そうすなわち、「タール」は愛情のこと、慈悲の心のことです。そしてリスの死体から物を剥ごうとする連中を押しのけリスを埋葬する。そして傍でリスのことをずっと思っていると夢か、リスとファンドは裸になって森の中にかけて行きました。「鏡に映った像が色あせたとき、自由への道が切り開かれた」
やはり「タール」は愛情でしたね。しかしファンドは実際の場所と思うのです。着けるわけないんですよ。ファンドはいろいろな経験をして、リスを失って初めて愛情に気がつくのです。そして「タール」はアダムとイブの新しい楽園のことでもあるのです。ふたりにアダムとイブになる可能性があったのですが、それも不可能になりました。しかし魂はふたりで楽園に向かったはずです。結局彼らは「タール」にたどり着いたのかもしれません。お金のこと生活のことを除き、「タール」を目指しているときに両親のこと、性欲、裏切り、やさしさなどを経験したのです。まあ「タール」なんてそんなに簡単にいくこと出来ないものね。今でもあるんですよ「タール」は。世界戦争は今も終わりつつある状況です。しかし今は貨幣や交易など街の間が密接に関係しているので「タール」は見えないのかもしれません。最後に「タール」はどうでもいいところかもしれない、というのはファンドが勝手に理想と思ったところだったからです。あまり深読みしない方がこの作品にはいいのかもしれません。
最終戦争なんてはじめのところに書きましたが、舞台は確かに砂漠の岩山ですが、すべて夢物語なので間違えないようにしましょう。この監督の想像です。創造でもあるんですが。
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「リービング・ラスベガス」マイク・フィッギス監督 1995年
これ好きな映画なんですよ。まるで主人公みたいに酒浴びて飲みたいときにいい映画です。何がそうさせるのか、妻が逃げていったことがそんなに大きいのか、わからないですが映画制作プロデューサーです。酒が片時も離せない男(Aとする)の話です。一応R指定らしいんですが酒を飲むシーンとあのレイプシーンかなあ、あまり引っかかりはなさそうないい映画なんですが。酒を飲みながら女を口説き、だめでも女を買う、そんな生活をしながら生きている望みもなくしている状態です。首にならない方がおかしい。その退職金が出たので人に酒飲むための金を借りないですむようになり、死に場所を探してラスベガスに向かいます。
ラトビアから金儲けに来たやくざとその女で、娼婦は関係ないところで金儲けの話が進んでいるのですが殺されます。なぜ一緒になったか、完全に腐れ縁です。男が哀れに思えてきた。だから一緒にいたのです。男と女は一緒の方が都合がいいですし。しかし殺されて、ちゃんと女は逃がすのです。一緒にいても殺されるだけですので、逃がして自分だけ死んでいくのです。そうして娼婦は一人になってしまいます。
総括なんですがこの映画のテーマは「孤独」です。孤独な男女がぎりぎりのところで出会い、一緒に生活し、男は酒で止まらなくなり死んでいくのです。その孤独はパートナーがいないことなんですね。男と女の関係をすごく強調してまとめてます。
娼婦をさせられたときの嫌なお客のことも思い出すと、女も普通の恋愛をしたくなります。たまたま、Aがお客として娼婦についたのですがただいてくれるだけで良いというリクエストにだんだん娼婦もAは性欲の捌け口のため、女を見下すためにではないと気づきます。
話もまともですし、「死にに来た」という言葉が緊張を解いたのでしょう。あと、一目ぼれですね。お互いに気に入ったのです。こんなことあるのか、と思うでしょうが、あるんですよ。ひとりになった女は一緒に住もうと誘います。Aの方が躊躇します。多分前の妻とも修羅場経験しているんでしょう。「酒はよせ」と絶対に言わないという約束で住み始めます。男は元映画プロデューサーだけあって、楽しいしセンスはあるんです。しかし神経がアルコールでおかしくなってますね。基本的に仕事中毒だったと思うんです、それでアルコールに嵌るようになり家庭も崩壊、体も崩壊していくんです。かなりの人格の崩壊過程を観ることが出来ます。途中、レストランでAがイヤリングを贈ったシーン、先に出て行こうとするAをほかの他人が引き止めるのです、なぜか?「彼女は真剣だから」というのです。最高のシーンですよ。私にも女の気持ちがぐっと入っていくの観ていてわかりました。この俳優、エリザベス・シューというのですがこの役ぴったりはまってます。ちなみにAはニコラス・ケイジでこの役でアカデミー賞とってます。この辺のふたりを見ていると、先がないでしょう、ですから悲しくなって見ていられなくなります。こういう経験あるひとは少ないかもしれませんが先がないと盛り上がるものなのです。
しかし女が仕事(娼婦)に出ていたときに娼婦を買って家で寝てしまったのです。その最中に女が帰ってきて、Aは「少し寝て出て行く」女は「出て行って」と、Aは終わりが近いことを察知していただけなんですがねえ。女もやけになって仕事していると、若者に捕まりレイプされているところをビデオに撮られます。今の若い子、デジタル製品使いこなすから複製可能な画像、データがすぐに作れてしまいますね。怖いですよね。そして、オタクなんでしょうが性欲は一応はあるから始末に終えない。みんなに輪姦されます。そしてまたAを探しに街を放浪します。見つかった彼はかなり衰弱して、女のレイプの傷も心配してくれるくらい余裕はありました。やはり女もAもお互いが好きだったんですね。最後のセックスのあとAは息絶えます。良い死に方できましたね。こういう愛は一生消えるものではありません。音楽が最高で私は当然、この映画のサントラCD買ってます。なんというかお勧めしにくいですが本当に好きな映画です。ふたりでリソートで観ていた映画は「第三の男」ですね。先日「黒い罠」見たばかりで似ている話なので懐かしいし、変な因果があるものだと思いました。最後にこういう恋愛の当事者は幸せが絶頂だけにあとはかなり辛い恋愛です。一生忘れない恋愛でしょう。