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「天国に一番近い島」大林宣彦監督 1984年
この年でこの映画をまた観るとは思いませんでした。しかし昔と違って素直な気持ちで見ることが出来ました。大林監督、原田知世路線は続いて見てますね。父が言い残した「天国に一番近い島=ニューカレドニア」に旅行した少女の話。確かに日本人も南洋の海洋民族とも交流、結合しているのですが、父にお別れを言いに行った旅行で、父もなんとなく日本人のルーツから天国というイメージを持っていたのかもしれません。南の国で風景がきれいなところはいくらでもあるのです。しかしツアーのほかの観光客が意外と沖縄でも問題ないような旅行をしているのに対して、この主人公は父の御霊を探しているのです。有意義な旅行になりそうですよ。「自分の風景を自分で見つけること」が旅行と言う人も出てきますしね。この人は夕日を見せて「緑の光線(エリック・ロメールではないですよ)」の話をします。このガイドは少女の影響で純粋だった頃の恋愛を思い出します。ロマンティックにする影響が少女にはあるんですね。このガイドがカジノのディーラーに手を回してラッキーナンバーが当たるように事前に買収しているんです。そのためカジノのお金でほかの島に行くことがきるようになり、「信じていればね、夢は必ずかなうんだよ」なんてかっこいい言葉を言います。ニューカレドニアの風景もきれいですし、楽しい映画ですね。
次にめがねを壊した男の子を捜しに現地に市場に行って話をすると、ウベア島とのこと、一番早く夜が明ける島、らしい。夜が明けるといってもねえ、日付変更線の位置によって一番かどうかは変わるのですがねえ。その前に日本軍の慰霊碑にお参りしていることからもなにか父の魂が呼んでいるような気がしてきました、私までも。そしてこのとおり男の子とも出会えたし、条件は揃ってきましたね。しかしひとりになりがちです。そこで怪我をして寝込んでしまうのですがこれで地元の人々に溶け込んできました。しかし日本との関係は移民という関係もあったらしい。この移民が父とのつながりみたいです。そして現地で出会った男の子とのつながりも出来ます。この男の子は母に日本という国に小さいときから話しを刷り込まれていた、少女と対になる関係です。日本からニューカレドニアを父から聞かされていた少女、ニューカレドニアで母から日本のことを聞かされていた男の子。この移民と潜水艦の乗組員が少女の天国と関係あるのでしょうか。少なくても潜水艦に乗っていた兵隊の家族が慰問に来たときは場所は勘で(霊が呼んで)場所がわかりました。忘れない夫への愛について「愛って結局は自分のための物語」というのです。少女もだんだんわかってきました。そして、あのガイドのキューピッド役もこなしてしまい、あの男の子の紙芝居というか日本への思いは父のニューカレドニアへの思いと同じでした。結局は天国に一番近いので、自分のいるところとはちょっと違うところを例にしますが祖国だったのです。眼で見てわかるところは具体的にはつまらないですよね。最後に男の子はこの少女から日本というのを学んだというし、少女は眼にした紙芝居の島が天国に一番近い島だったのです。愛にはまだちょっと早いのかな。しかし深い友情がこの島で生まれました。この映画に感動してしまっていいのだろうか、とも思うのですが、きれいな島でした。きれいな映画でした。
「CURE」黒沢清監督 1997年
1997年といえばついこの間の感じですが、やはり数えてみると7年かなり前の映画の雰囲気があります。なんというか出ている俳優が違うというか今生き残っていても若いとか、かなり違います。さて昨日に引き続き売春婦ですが、あっけなく殺されます。前振りとして「青髭」の話を読ませるカウンセラーもどきの人と患者の女が出てくるのですが、何か意味があるのでしょうか。あとから出てきますが、この事件の担当の刑事の妻です。そして裸で隠れている男が捕まります。殺され方、かなり残虐で、日本の映画もかなりえぐいなあ、という印象。アメリカの映画はかなり世論がうるさくてここまで出来ないのですよ。韓国なんて恋愛物が多いし。日本は最近かなり特色のある映画が多いです。アニメとこの手の映画が海外では評価されているのですが。3ヶ月の間に首に十の字の切り刻む傷を負わせて殺した犯人が3人挙がります。CUREですよね。嫌な予感がしました。
4人目の殺人をしたまじめな高校教師が殺人の前にある男(以下Aとする)と会っていました。この男が発酵の種なんですかね。そのあとの被害者が警察官なんです。この人に話しかけられるとこのAはライターの火でなにか催眠暗示みたいなのをかけたかもしれません。それで(暗示で)人が殺せるようになるのでしょうか?いや、暗示といっても切る、という暗示なんでしょう。切るという行為は私も職業柄しょっちゅうしてます。当然警察官も殺人をします。そしてAは記憶喪失の身元不明人として病院に連れて行かれます。今度は女医です。すべてのケースにここまではタバコを吸います。今回は「前にAの中にあったものが今はすべて外にある。だからAは空っぽ。しかしまわりにそれらを持っている人はわかる」というのです。今度は水を使います。しかし確実の暗示をかけてます。「女と見くびられてきただろう」「初めての死体解剖の実験、男だっただろ、それを切り刻んだとき胸がすっとしただろう」などです。そしてXの文字を書いて去ります。殺し方は暗示をかけた人の職業や技術に関係します。女医は死体解剖のような殺し方をします。しかしあの警官が連れて行った身元不明人にスポットが当たり、担当刑事が今度は暗示かけられるのでしょうか。しかし、今までの殺人犯人からこのAの指紋が検出されてます。かなりの証拠なんですが、まだ記憶喪失のふり?ですね。私が刑事ならかなり、頭に来るでしょう。
メスマーという学者の考え方に傾注しているらしい。催眠法を研究していた学者らしい。たぶん医大の学生ですね。そのとき刑事はAの部屋を見て何かにピンと来て家に戻ってみたら妻が首吊り自殺してました。という幻覚をみます。いや、何かわからないものです。こういう精神病の関係する犯罪の映画は観ていて気味が悪いですね。この映画もついでに付いていたのですが、1年くらい無視してました。処分しようと思って観たのですがさすがに気味が悪い。尋問していてもAのペースになってしまう。いらいらしますね。このいらいら感は刑事のほうが強いからペースを乱されるのでしょう。「社会が悪い」とか刑事も言い出すようになります。危ないです。このとき、私が見てあの女医がかかった水の暗示が成立したように見えるのですがいかがでしょう。刑事も妻に対して自信がもてなくなったからでしょうか、妻をとりあえず病院に預けます。すごいお金がかかりますよ。払えるのだろうか?多分刑事の月給分は毎月かかってきます。預金がなければ破綻です。それは置いておいて、そのとき精神病の先生に刑事のほうが奥さんより病気が重そうに見えるといわれます。しかしAの部屋を見た刑事の友人で精神科医は逆に暗示にかかってしまいます。部屋にXの文字が。そして刑事のAの正体は?の問いに対して「何かの伝道師」ではないかと言うのです。当然その精神科医は自殺します。自分で暗示にかかったことがわかったのでしょう。そしてAは逃がされ、メスマーの秘密の部屋にやってきます。Aを逃がしたのは刑事らしい。そうなるとAにあったとき、「思い出したか」といって撃ち殺すのもわかります。最後にAがXの文字を切ろうとするとその暗示が終わらないうちにまた容赦なく弾を撃ちます。メスマーの秘密の部屋というのは昔、そこで実験が行われた廃墟です。Aを殺したあと(正当防衛かなあ)そのときの録音テープを聴いてしまいます。そのあと、なぜだか病院では刑事の妻がXの字に切り刻まれて死んでました。そして刑事はあれだけ食べられなかった(妻が肉を料理しないで生のまま出していたんです)肉をおいしそうに食べてます。肉料理を片付けているウェイトレスの前で刑事タバコに火をつけます。あとは知らない。そのウェイトレスは当然、Xの文字を。
この監督の映画で初めて最後まで飽きることなく見ることが出来ました。「ニンゲン合格」よりは面白いかな。チャプターに監督自身が変なタイトルつけているのでこの監督自体がおかしいのかもしれません。そこまで深くないぞこの映画、という感じですがね。
「シェルタリングスカイを書いた男ポール・ボウルズの告白」ジェニファー・バイチウォル監督 1998年 カナダ
意外とカナダ映画が多いですね。「月の瞳」もそうですし「翼をください」とかも確かそうだと思います。うん、みんなレズの映画ですね。この映画は冒頭から小説の中の性器切断の場面の引用から入って「私の小説はサディスティックな描写が多い」と告白。そのあと肉屋の調理場、床全面に血が流れてます。そしてヤギの頭、それをきれいに切りそぎます。あの嫌な映画「カルネ」(ギャスパー・ノエ監督)を思い出しますね。「アレックス」の時に一緒に観てしまいました。これは私も暴力だと思いましたよ、「カルネ」「カノン」「アレックス」3本ですから。同じく脳みそは出てくるは、で大変気持ち悪いですね。
「なぜ人は運命に従うのか」といわれてもねえ。でもはじめから良い問題提起です。さてどうなることやら。作曲家だったときの曲については誰が書いたのか、なんてとぼけているけど作曲では補えない何かが作家に転向した理由なんでしょう。さらに詩について奥さんにいさめられるところの記述があり「うそからは感動的なものは作れない」「またそんなことまでして作る意味はあるのか」というようなことを(ちょっとニュアンス違うかもしれません)言われました、とのこと、自分の意識というのは嘘なんでしょうか?笑い
まあ作曲家としてパリにいたときからこの人は何か重大な意思決定から逃げる癖がついていたみたいです。いつも逃げ続けているようにしか聞こえません。しかし妻との恋愛はかなり強いものだったらしいです。気持ちが強いけど態度は紳士という感じですね。見つめあう恋は本物です。話し方はいつも初対面みたいというのも笑えますが、お互い尊重しているのでしょう。でもレズとホモなんですよね。
あとはなぜ、砂漠にいたったかです。「アメリカでの価値基準である、成功が第一という考え方についていけなかった」ことや順調にことが運ぶことを書けないこと、さらにはタンジールに恋人がいる画家が彼らをスパイさせるためにタンジール行きを勧めたということらしい。ともあれ、砂漠との出会いですね。そこで距離を保ち冷静に自分の生活を守るスタンスが見えています。日本にいる外人もそうですよね。「いちげんさん」では逆にそれが壁のように映ったのでしょう。「郷に入れば郷に従う」という考え方はしないと明言してます。しかしところどころで出てくる仮装パーティーの様子はかなり遊び人だったことを示しますね。私ももっと遊ばなくてはと思うのですが、最近はまじめです。
移住当初は外国人はモロッコでは特権階級だったんですね。逆に地元の人は貧困で仕方なく売春をやっていたり、男同士が寝ていたりするのです。男同士が寝ることも今では、はやらないとしてやらないみたいです。そしていろいろな作家が遊びに来て交流していることも描かれてます。まずは自分が自活を出来れば、ほかの人と交流も出来ますよね。その友人の作家たちとの距離がいいのです。近すぎず、遠くすぎず。ほかの作家(バロウズたち「ビート」系の作家)たちと違って文法を変えることなく表現した。すべての小説は探偵小説だと至極当たり前のことを言いのけます。もちろん探偵は読者であって、どう作者の都合で物事が進行するかを解き明かすだけですもの。そして映画「シェルタリングスカイ」についてめちゃくちゃ、だと言ってます。最後が特にひどい、これはバロウズが最後はどうやって表現した?という質問にたいする答えです。「はやくローマに帰りたかったんだろう」とまで言われてますね。これは原作、原文で読んでみようと思います。確かに途中に中だるみあるんですが、私は名作(映画「シェルタリングスカイ」)だと思っているのです。
人は「やったことで判断」ただの「分類」は無意味。なにがいいたいかというとホモというレッテルを貼られるのは嫌だ。このホモというレッテルが「分類」なんです。この分類の評価は「劣っている、むかつく、変わっている」です。なにか一時は文化人は興味がなくても一度は味わっておかなければならないものと考えていた節があるんですが、まあボウルズは本当らしい。妻の方はそれをみてレズに走ったとか、会う前からレスだったとか言われてますが、まさに昨日の映画(リービング・ラスベガス)のように酒におぼれていきます。「酒をやめろ」とボウルズが言っても(これを昨日の映画では言うな、と約束して一緒になったのですよね)「言うは易し」「やめたくないからやめられない」と。さらにすごいこといいます。「人は誰かを愛せるか、そうは思わない、誰かを愛するということは異常なことだ」わかる気がします。ですから普通の人は愛する人と結婚しないんでしょう。逆説的に正論。そして「人間というのは球体で、触れ合うとしてもほんの一点のみ、あとは漂っているだけ」とまで言います。あと、「死んでいる」ということと「死」は対極にあるといいます。ここはわからないです。多分、死は生の判断の基準点で死んでいる状態は死のあとの状態ということ。死の前の状態は「生きている」ということを言っていると思います。しかし若い元気で才気ある姿と今の年とってよぼよぼのボウルズとバロウズを見ているとなんとなく判る気がします。「生とは死ぬまでの間」、これはいいのですが、次に人の存在証明を表現するときその人の環境を言いあらわすと良い、というようなことを言うのですが、いい言葉です。環境は少なからず、その人が選択してきた道です。そして環境への反応度を見ろというのですがまさにそのとおり。
映画の裏側を(シェルタリングスカイ)見た感じです。映画の評価は変わりました。こういう映画はあまりないのですがドキュメンタリーはやはり迫力あります。
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「愛に関する短いフィルム」 クシシュトフ・キェシロフスキ監督 1988年 ポーランド
エンジニアかな(郵便局員でした)、孤独な状態というのはすぐにわかります。覗きが趣味かその対象が好きなのか、わかりませんが、かなり暇でエネルギーもてあましてますね。私は常づね思うのですが、覗き、ストーカーは冷静にコスト計算すると絶対に合わない犯罪だと思うのですが、なぜ多発するのでしょう。このケースは公務員でした。そして自分の部屋から望遠鏡で中年の女の部屋を覗いているので、オタクです。さらに友人の母と二人暮しで、母の方が若い女に興味がない息子の友達(施設に入っていた)を心配してます。なぜ?この中年を?相手も同じ孤独な人間だからです。類は類を呼ぶというわけではないのですが、行動の裏に隠された孤独が読めるから観ているのです。これが愛情に変わるのかな。しかしこの女が恋人と抱き合っているときは覗きはしません。なにか表面的な愛というのを覗き男は自分なりに曲解、理解しているのでしょう。二人がセックスしようとすると邪魔をします。ガス会社を呼びつけたりして。
この覗き(Aとする)の母は「女は無邪気に遊んでいるようで、本当は優しい男が好きなのよ」とアドバイスしてくれます。そして牛乳配達のバイトをして直接のコンタクトを求めていきます。しかしひょんなことから、自分で覗いていたことを告白します。するとその夜から女は窓から見える位置にベットを動かして電話を近くにおきます。そして遊びに来た恋人に覗かれていることを言うとその恋人にAは呼び出され、殴られます。しかし次の日牛乳配達をすると女と話す機会があり、なぜつけまわすの?と聞かれると「愛しているから」と答えます。そしてデートに誘い会話が弾みます。女も好奇心ありますからね。覗かれていたわけですから、なに見られていたか知りたいですよ。そして部屋に誘われますがその様子を友人の母が今度は覗いてます。しかしセックスに誘われてしまい、Aはそのまま逃げ出します。そして家に戻り手首を切るのです。しかしその事実を知ると女の方がAをいとおしくなります。遊びではなかったと知るからですね。そして、極めつけのシーン、退院したあとお見舞いにAのうちを訪ねるのですが、そのときにAは横たわって寝てます。そして何気なく望遠鏡を覗くと、そこには自分自身がいて、孤独に打ちひしがれている姿が映し出されているのです。その孤独を癒すかのようにAが手を差し伸べてくる瞬間が映し出されます。そうです、Aはこのような優しいまなざしで彼女を見つめていたのです。それを知るのが遅すぎました。
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「ホーリー・スモーク」 ジェーン・カンピオン監督 1999年 オーストラリア、アメリカ
先日の「シェルタリングスカイのボウルズ」に影響されてインドを舞台のこの映画。砂漠って行ったことあるのですが、本当に暑いんですよね。私はアフリカの砂漠とアメリカの砂漠(砂漠といわないかも)しか経験ないのですが、本当にぐでええ、としてました。しかし身近に実際、インドに行ったまま初めの予定をオーバーして数ヶ月行っている女の子を知ってます。大丈夫かな。まだ帰ってこない。ケイト(Aとする)は「グッバイ・モロッコ」といい砂漠やインドの映画に良く出てます。あの映画でもこの映画でもトラベラーですね。TOURISTではないみたいですね。グッバイモロッコは最後子供たちが「ヒーディアスキンキ-」と叫ぶシーン良かったですよ。こっちのトラベラーは危なそうな感じもしますが、ボウルズも似たようなものでしょう。インドのヒンズー教との出会いがAの変化をもたらせたみたいです。CGの色合いが「リトル・ブッダ」とちょっと似てますよ。さらにホモが出てきたり、なにか最近観た映画がすべて関係するようなテーマです。自分の好みが完全に出ているんでしょう。ヒンズー教の中の亜流のカルと集団からAを連れ戻そうとするのはなにか「ミッドナイトエキスプレス」みたいです。あれも異常な環境でした。今度も異常です。父親が病気だから連れ帰ろうとしても「死はみんなに平等にある、来世でまた会える」と言われたら多分切ないでしょうねえ。育てたのにねえ。結局連れ戻しに行った母があまりにも不衛生で気がおかしくなって持病の喘息を悪化させたため、連れ戻すことに結果的に成功します。そこにあらわれるのが、カルト脱退請負人、これ本当にある職業なんでしょうかねえ。こういう職業が成り立つのも嫌な世の中です。彼らの着いてすぐの会話の背景に東洋人の結婚式のドレスを着たカップルがいるのですがこれは統一教会とかを皮肉っているのでしょうか(批判ではありません、なんで背景に東洋人のカップルが映るのか不思議なだけ)
とにかくAの家族が異常と思えるくらい、変な奴ばかりいるのです。こんな家で育つとおかしいのが出来るとも思えるのですが、Aももともとかなりおかしい奴ですよ。そしてカウンセリングが始まるのですが、Aに請負人が少ずつ感情を移入してしまいます。これは職業上許されない行為ですが、Aが魅力的なだけに少し精神的不安定な様子を見せると、それに応えるのが愛情だと思うのも無理はないところです。しかしここでAは演技なのか、そこが疑問です。そして請負人はAの虜になって求婚までするのです。Aは自分自身を失って自信がなくなるのです。何が請負人には魅力に映ったのでしょう。自分の不安定な様子を正直に言葉にする素直さ(基本的なところ)なんでしょうか。2人だけのシーンは感情の揺れ具合が良く表現できていないと思うのです。しかし最終的には請負人の方がインドの神を信じるようになります。好きな女が相手してくれなくて寂しさのどん底に落ちるのです。それを見て、逃げ惑うA、逆にこれで直りました。皮肉です。そして仕事をしなかった請負人を告訴しようと家族のものが言うのですが、それをやさしくAが請負人を受け止めることで彼の心の平穏も取り戻せましたし、女としての正常な母性を思い出すことが出来たのです。無論一緒になることはないのですが、お互いにこの短い間の濃い関係については良いステップだったと思えるようになるのです。はっきり作りは甘いとも思うのですが、良い結末だと思います。
「ギャラクシー・クエスト」ディーン・パリソット監督 1999年 ドリームワークス
この映画、数あるドリームワークスの中で私は一番良い映画のひとつだと思います。宇宙を舞台にシガニー・ウィーバーを起用するし、あの素晴らしい「ウィンター・ゲスト」の監督アラン・リックマンを起用するしそれも被り物の役で、かなり笑えれるんですが、内容も途中から加速度的に面白くなります。
クエストネリアンズの集まるファンの集い、まあオタクなんですが面白いですね。今見るとはじめから面白さ爆発してます。初めてのときはこのあたりは、この映画見ていて大丈夫なのか?まともな映画なのか?とびくびくしてみていた記憶があります。この映画のタイトルのテレビドラマのファンの集いです。日本で言うと「ウルトラセブン」が人気があって「アンヌ隊員」とかがいまだに人気あるのと同じです。脱線しますがこのアンヌ隊員というの覚えている人いますでしょうか?いまだに人気あるみたいで写真集までいまも出ると言うのは不思議でなりません。この映画もまあ、オタク映画です。実際、内容知らないで、このあとにサーミアン星人が人間に化けてきている様子も見た人は途中退席もありえるかもしれません。事実、繰り返しますがはじめてみたとき、唖然としてました。安っぽいつくりの映画でねえ。でも途中から本気モードでSFしてますよ。しかしねえ、あのまじめなオタクたち続いて出てきたときは逃げたくなりました。最後には彼らに助けてもらうんですが、、、この辺に来ると面白くてたまらなくなります。
初の航海で敵に負けてしまい運行不能になって、エンジンの動力源のベリリウム球を取りに惑星に向かいそこで現地の宇宙人と出会うんですが、面白いです。艦長がひとり取り残されて、また船に戻るまでかなり手に汗握る展開です。こういう映画作る人もオタクなんでしょうね。でてくる宇宙人がかわいいけど、獰猛だったり、何かのパロディみたいな人物も出てきたりで飽きない展開です。オタクのセンス爆発している感じです。
それから敵が宇宙船に乗り込んで自爆させられそうになるときや、「嘘」という概念を知らないで信じている様子を見て真剣になる転換点。さまざまに手を変え品を変え面白くしてます。内容はともあれ、こういう楽しい時間が映画の本当の姿かもしれません。何回見ても楽しいです。
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「今のままでいて」アルベルト・ラトゥアーダ監督 1978年イタリア、スペイン
この映画を見るときはナスターシャ・キンスキーを見ることとマルチェロ・マストロヤンニの演技、モリコーネの音楽です。それしかないと思ったのですが意外と丁寧なつくりの映画です。メロドラマ風ですけどね。
まずは出会い。大胆な若い子のアプローチ。いいなあ。すっと他人の心に入っていける人は特殊な才能の持ち主です。しかもそれが昔の恋人の子供だなんてねえ。意外とありがちな話だとは思います。それも自分の子供の可能性あり、ときた。これ異常ではなく、自分の子供だから意外とありそうな感じです。
また、映画の中でマルチェロマストロヤンニ(Aとする)の子供も未婚のまま妊娠してしまいます。妻はなにやっているのかわからなくらい気ままに遊んでますし(でも実は夫への愛の裏返しなんですが)、ナスターシャ(Bとする)の友人は乱交がお好きです。このように乱れた環境の中、Aはたまたまであった魅力あるBを自分の子供の可能性があるということでまったく手を出しません。Bは何で手を出してくれないのか、じりじりするのですが、だめ。(結局昔の恋人とAの目の色がBの目の色と違うということで自分の子供ではないと言い聞かせるのです)そして本当の気持ちをAはBに伝えます。しかしBはAは父親の可能性があっても影響を受けたのは育ての親という方便を使います。一目ぼれしたのが本当の父といううれしさと、意外さで一日悩むのですが、一気に突っ走る方を選択します。愛に関してはどうしてもとまらない感情というのはあると思います。愛というのは本当に、なんでもないようなときに同時に選択不可能な状況で重なるものです。そこで選択できる人間が愛には勝てるんでしょうが、人生それで幸せとは限らないし難しいものです。さらにBは本当にAと一緒で楽しそうです。演技であそこまで出来るのは素晴らしい。この映画のときマルチェロとナスターシャうわさになりましたもんね。そのくらい、無邪気で楽しそうな演技。観ていて恋愛とはこういうものかと思えるような演技です。これだけの楽しそうな恋愛のシーンそう簡単にはないですよ。そしてBは今でお別れというのです。というのはBは最高のときに別れた方が良い、永遠なんて信じない、という考えなのです。最高の瞬間で止まることは思い出は美しすぎて、すごく人生のプラスになると思います。心の糧となることでしょう。また、Aを奥さんの元に返すという優しい気持ちもあったのだと思います。
正直ここまで良い映画だと思いませんでした。実際私の中ではかなり心の、また感情の琴線にぴんぴん引っかかりました。風景もフィレンチェ、ローマ、多分マドリッドが舞台でしっとりとした背景が情感を盛り上げてくれます。しかしあまり保存状態が良くないせいか画像はかなり劣化しているのが残念です。ハリウッド映画みたいに修復されないでしょうから今回以上の画像は望めないかもしれません。しかし実に良い映画です。俳優の演技も最高。こういうラブロマンスはイブ・モンタンとかマルチェロ・マストロヤンニ、アラン・ドロンがいいなあ。
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「パトリシアの夏」ジギ・ゲッツ監督 1977年
昨日に続き70年代の青春物です。70年代はこの頃はベトナム戦争が終わり、まだ冷戦状態でドイツが二つあり、性に関してはエイズ元年(私が勝手にそう呼んでいるのですが、81年あたり)の前で性的にもかなり乱れております。明らかに80年代中ごろから性表現はエイズ抜きでは映画は出来てません。そしてどんな人でもインターネット、携帯電話を利用していない時代です。かつ、この時代はまだCDもないので複製可能性のパッケージ商品も少ないと思います。これだけでかなり映画自体が違うのです。ファショんが違う、車が違うといっても基本は同じです。コミュニケーションの範囲と手段が違うのです。
話はないようなものです。ギリシャからドイツに勉強に行く予定の女学生が親をだましてギリシャで奔放に遊びまくるという話です。「フリーセックス」信望者たちがエイズ以降かなり恐怖に陥ったと思うのです。特にドラッグ、ホモセクシュアルも関係していると60年後半からの性的解放はエイズへと向かうのです。ここでも「もっと性の解放を」なんていう主人公の話が出てきます。今のアメリカ映画の若者向けもこれないんですよね。
エーゲ海、ドラッグ、フリーセックス、ジプシーダンス、ロック、ディスコこんな感じの映画でしょうか。まあよくあったタイプの映画です。しかし、はじめてみましたが良くできている方だと思います。簡単に夏休み冒険旅行をして遊びほうけていろいろな男と知り合いになるけど、その中に本命がいたというわけです。しかし向こうは遊ばれていると思って離れていく、そうなると惜しい思いが募って追いかける。そして、お互いに本当の相手を見つける。それだけです。出ている俳優、女優も男優も意外とキュート、美男子なので見ている分には退屈しないかもしれません。しかし時代は感じます。上のような時代だったということです。裸が多いのは注意してください。嫌いな方は合わないかも。
「ねらわれた学園」大林宣彦監督 1981年
この辺の角川映画は私にとっては誤差で、ほとんど違いがわかりません。ということではじめて見ます。
いきなりユーミンの「守ってあげたい」です。良い感じですね。なにか暖かい雰囲気で始まります。新学期(高校2年)のオリエンテーションから、なんというか「アンナ」みたいなミュージカルの乗りで展開します。受験ということにかなり熱が入る頃ですね。運動部と受験の狭間で揺れる青春があります。薬師丸が超能力に目覚めた女の子の役(Aとする)で酒屋のせがれ(Bとする)に家庭教師をしてあげるんですが、冗談みたいな展開です。普通、いまでは男と女が同じ部屋で勉強していると危ないんですが、この頃はまだ、純情なんですかね。そうしたら超能力を持つ女の子が派遣をかねて転校してきます。なにかガリ勉と組んでいるみたいですね。このガリ勉は昔いたなあ、というタイプで思わずあの子は今どうしているのだろうか?と思ってしまいました。この転向してきた女の子(Cとする)がどんどん、高校の規律を作っていきます。正しいことを言っているので反対の余地がないので採決されるし、超能力も使ってますね。学園統治に参加してくるんですね。こんな映画あったんだあ、まるで「ザ・ウォール」みたいです。同じ頃でスモンね。
そしてAが戦う決心をします。薬師丸ひろ子というキャラクターは「戦う」というだけでとんでもない事態なんだ、と思わせるだけの素直さがありますねえ。とうとう立ち上がったか、なんて応援してました。いい年してこのような映画に興奮しているんですから、私はもう子供です。「永遠の未完成、これ完成なり」けだし名言です。
このあとの決戦、峰岸さんと薬師丸さんの戦い、見ていて恥ずかしくなるような戦いですが演技している方も大変でしょう。しかし大林監督も直球勝負です。その直球の分だけこちらにもずっしりと届きます。最後にも「守ってあげたい」この歌を聞くとこの映画を思い出す人もいるのでしょうねえ。まったくこの映画は存在自体を知りませんでした。
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「スターシップ・トゥルーパーズ」ポール・バーホーベン監督
民主主義の崩壊、地球防衛軍(地球連邦評議会の下の)に入ったものだけに与えられる市民権。社会科学者たちがもたらした秩序崩壊を回復したと来る。一般民と市民に違いは市民が地球を守るために戦うこと。暴力の肯定という世の中です。この世界での予備校みたいなところから始まります。恋愛は変わらないですけどね。
しかし軍事畑が人気ある世界です。「ゲームの理論」専攻者は諜報部門みたいですよ。一応社会科学の産物とされているんですが。卒業の同期3人の仲良し男2人、女1人が男Aが歩兵、男Bが諜報、女Cがパイロットと別れていきます。何かありそう。この女カルメンという名前なんです。何か意味あるんでしょう。
Aを慕う女DがわざわざAの小隊に配置願いでやってきます。まあオペラ「カルメン」と同じ感じではあります。しかしそこでポイントはCを好きな男Eがいてオペラと同じになる感じです。Eもパイロット志望。とにかく、暴力と汚い食事などはいくらでも出てきます。AはDがいてはじめて実力を発揮できます。それに気がつくかどうかです。とにかく、パイロットと比較されるのですがフセインもハイロットは殺そうとしても殺せなかったですし、実際に歩兵が捕まえたのですし、意味はあると思います。パイロットの方のCとEののんびりした雰囲気とAとDの厳しい雰囲気はすごく対比されて描かれてますね。しかし歩兵の方はより人間に密着してます。仲間を殺した罪意識とCに振られた気持ちで除隊しようとしたときに戦争になります。敵は昆虫の進化したものですが今回は強くて大敗します。ちょっと強すぎますがどうなるんでしょう。大きな昆虫の化け物が出てきたときは心臓が止まりそうになりますよ。しかし乗りかかって傷口を作って爆弾投げ込みやっつけてAは伍長に、DはAの命令で分隊長になります。隊長は高校の校長だった人です。とにかく昆虫も身近に戦っているだけに連帯感もいいですし、勝ったときの喜びがどう観ても違います。観てても楽しそうな祝賀会をします。まあ一時しのぎですけどね。人間というのはこの対人間の接触が必要だと思うのです。しかし今度の敵は脳みそを吸い取り、人間の行動パターンを知り、罠を仕掛けるのですよ。こういうときは作戦は無用です。自然体で何にも考えないことですね。この基地に来いという無線自体が罠だったんですからね。映画とは知っていてもかなりえぐい戦いになります。しかしこういうの好きです。人間もBは大佐になっていて罠と承知で小隊をもぐりこませて、敵の指令虫を捕まえる予定でした。また小隊がAを中心に送り込まれます。ここの戦いはもう大変でしょう。敵も迎え撃ちます。パイロットの戦艦が爆撃されてCとEは脱出するのですが指令虫のところに連れてこられEは脳みそを食べられます。次にCというところでBがテレパシーでCが生きているとAに伝えて助けに来たのです。指令虫は捕まり虫の作戦はすべて判明しめでたしめでたし、となるのですが、普段この手の映画になれていないと、すごく興奮しました。
「ボーイズ・オン・ザ・サイド」ハーバート・ロス監督 1995年
この映画良いんですよ。レズの映画ですが、面白いんです。
はじめにNYで売れなくて疲れた黒人女性歌手(A、ウィーピー。ゴールドバーグ、良いんですよ)気分一新旅に出るんです。そのとき、パートナー募集の広告見つけます。ロスへ行ってみようと思うのです。この募集した女が(B、メアリー=ルイーズ・パーカー)で不動産業がうまくいかないで、「思い切って変化しようと」出かけるのです。似たもの同士です。しかし彼女はエイズでした。「信じれば夢は実現するものよ」これは良い言葉です。
スタート。まずはAのピッツバーグの友人のところによります(C,ドリュー・バルモア、なんていったってこの映画でファンになりました)。
その前に一泊したとき一緒に「追憶」観たのですがBは感動、Aはしらけてます。そんな感性の違い、あと、違いは白人と黒人です。Cも恋人と喧嘩中で一緒にいくことになりました。一応、麻薬を売って貯めたお金を半分持って行きます。しかしそのお金のことでもめていたので最後にはバットで殴って出て行きます。仲裁に入ったBはAから見直されます。何で一緒に生活していたのとAが聞きますが、Cは問題は麻薬のことだけと答えます。レズのAにはわからないんでしょう。結局Cは戻るというのですが、死んでいると知って逆に殴っただけに戻れなくなります。そしてCは妊娠していると告白します。Aはレズ、Bは男に振られているので、何人も男を掛け持ちする女の気持ちがわかりません。
まあ珍道中ですよ。AがレズだとBは途中で知りますし、BがエイズとAは途中で知ります。気楽なようで隠している部分あるんですね。それをAは「罪深き省略」といいます。なんてやさしい言葉でしょう。そして私の好きなニューメキシコからアリゾナに入って、インディオの部落で写真を撮っているとBは遠い昔家族で来たことを思い出します。死が近いといろいろな思い出が蘇ってくるのですね。ツーソンです。ここでBの病気のこともあるししばらく滞在することになりました。そこでAもBも音楽できるし好きなのでライブバーで働くことにしました。そうこうしているうちにBを気に入る男が現われます。Cは相変わらず男ばかり作ってます。おなか大きくなってきてますよ。しかしここで3人とも人間性を取り戻した感じが出てきます。友人というのはこんなにも素晴らしいものなのですね。
そしてとうとうBと性交渉を望みます。しかしエイズであると告白するとその男はAから聞いていた、というのです。BはAのおせっかいがたまりません。(私なら、こういうおせっかいは大歓迎ですが)Aを家から追い出します。まあCは相変わらず、男といちゃついて今度の彼氏は警官です。このキャラクターが「チャーリーエンジェル」につながったと思います。本当にいいですね。警官ですからCの犯罪について捕まえて、あとにしこりが残らないようにします。正直というのはいいですねえ。「余計なことは話さなくて嘘にはならない」けだし名言です。こうやってCを励まします。今度は母親の番です。Bの母親は「愛と青春の旅立ち」を一緒に見たあと、悩んでいるBに対して「本当の伴侶とは、どんなことが会っても最後まで見放さない人のことよ、望みとは違う人でも」という助言をするのです。最高の言葉です。そしてCの裁判の証言に向かうのです。Aと仲直りして。多分私が思うにこの3人、貧乏ですよ。どんどんお金使いますもん。しかしいいお金の使い方ですよね。友人のための裁判の証言にすぐに向かうとかねえ。設定がエイズ、黒人、レズ、犯罪、淫乱とどうしようもないのは映画だからでしょう。生まれた子供は黒人の子供でした。そして出所してあのホームに戻ってきたら、3人が揃います。「愛はお金で買えない」。3人がみんな愛を見つけた出会いでしたね。
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「機動警察パトレイバー1」押井守監督 1989年
この映画、当時はまったく存在自体知らないで、まあアニメなんて見ていなかった時代ですから、昨年、ひょんなことから見たいと思った映画です。
今はアニメも見境なく良いものは良いと評価するようになってます。いやーー、のっけから良い。音がいい。リズムがいい。これからどうなるのかわくわくしました。
そして木更津と川崎を結んでのバビロン計画(東京湾埋め立て)です。まさにバブルの発想です。この場面になったら一気にトーンダウンしました。しかし世界で認められている日本のアニメというのは嫌でも実感しました。海外の人はDVDは高くても買うので、日本人は恵まれているはずなのですが一昨年くらいからしかアニメは見ていません。食わず嫌いでした。反省。大音量で爆発的に楽しみました。あと音の定位はいいです。しかしアニメに特徴のギャグにはさすがについていけませんでした。
ロボット(レイバー)が日常的に労働力の担い手として利用されている時代の話、といっても想定1999年ですが、警察も対抗して取り締まりのためにレイバーを持ってます。しかし警察、労働者のレイバーともに暴走する気配がでてきます。事件の延長にあるプログラマーが浮かび上がってきますが、その男は自殺してしまったばかりです。まあ技術屋の言葉として「人間が(作る、使う、保守するやつ)が悪さしなければ機械は正常に動く」ということです。
なにかがきっかけで暴走するんですが、プログラムされているのか、自然でそうなるのか、どっちなのでしょう、という楽しみはあります。まあコンピューターウィルスです。あとはつぼの場面の大音量と音楽を楽しみながら最後まで一気でした。
面白いかといわれれば、面白いけど、期待以上ということはなかった。劇場版とテレビ版でどちらが面白いのでしょうねえ。捜査二課の一番長い日、とかいうのが見たかったのでもしかしたら劇場版ははずれかも。しかしテンポのよさと音楽の盛り上げ方、ロックのリズムとか塚本監督とか三池監督のノリはあります。終わり方もすぱっっとしていて気持ちいいですよ。
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「悪魔の手毬唄」市川昆監督(昆という字が違いますが変換できないのです) 1977年
これも始めてみる映画です。音楽村井邦彦なんですね。まあ20年前の事件が関係するらしいのですが、また岸恵子(Aとする)なので犯人だと思います。さとちゃんが顔にあざがあるのもそれが原因らしい。しかし岡山ばかりが舞台ですね。総社からまた田舎のところが舞台です。しかし仁科明子は美人です。詐欺師の娘役ですが、身元のわからない子の方が美人になるというのも因果ですねえ。実際の仁科さんは名門です。舞踊の名手岩井さんの娘です。よく国立劇場みに行きました
。この村(鬼首村)の2つの勢力争いがもと。旧家が没落して、新興勢力が台頭してきた頃ですね。この旧家の女の子と旅館の男ができているんですが、何か意味があるのでしょうか?その前に室町からの本当の庄屋はもう跡形もなく一応子孫が生きているだけです。この老人がポイントなんです。この庄屋の土地を旧家と新興勢力の2つが買い取っているんです。庄屋が遊びすぎたのが良くないのですけど。
まあ劇中劇で「モロッコ」がでてきます。まあ対比ですが。
そして感じるのが人間の運命は本当にわからないということ。いろいろあると思いますが、最終的に収まるところに収まるのですね。さらに半端ものとされている人間たちが一番人間を見ているということですね。すべて煙たがれる人物がキーポイントを握ってます。それも証人として。
まあ推理小説なので内容はともかく、かなりいい映画です。松竹の「八つ墓村」(この辺の漢字変換ででませんね)に次ぐ出来ではないかと。
多分、かなりの役者が本当の脇役で出てくるのと、かなり愛情がテーマの映画だからでしょう。それと音楽が「翼をください」を作曲した人で「赤い鳥」などにもかなり曲を提供した人なので意外と雰囲気が出ていたと思います。もともと「赤い鳥」も神戸で活躍してましたし。まあ普通に見て面白いとは思います。今回のBOXでは一番面白かった。しかし届いてから観終るまで2ヶ月かかりました。犯人ははじめの予想通りでした。
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「君が若者なら」深作欣二監督1970年 松竹
この映画はこの監督には珍しいタイプの映画です。予告編がめちゃくちゃ面白そうでしたので観てみました。脚本が3人の連名(中島さん深作さん松本孝二さん)なので話をうまくまとめ上げたのでしょう。中卒のレッテルが最後まで付きまとう映画です。
始まり方は本当にすがすがしい。良い感じがするんですがね。まず、独立したその日からスタート。前向き日本という感じです。ダンプカーを買って仕事を請け負い自営していくその日からスタートです。ダンプの名前は「独立第1号」いいです。ふたりが協力し合い(本当はもっといるのですが)ここまでたどり着いたのです。しかしお祝いを言う社長なども本当に人がよさそうで見ていてこっちまで心が洗われる気持ちです。そして都内を走るロケ。30数年前の日本です。いまだに残っているビルがたくさんあります。本当に良いスタートです。1970年は万博とか三島事件があった年だったと思いますが(調べてません)前向きです。彼らは九州の炭鉱育ちです。懐かしい風景が出てきます。そういえば、炭鉱の労働争議なんてありましたよね。国鉄と日教組、自動車総連なんか強かったですよね。トヨタなんてつぶれかかったのが今では優良企業です。逆に助けた銀行が跡形もないですよ。住友に持っていかれてしまってます。昨年の好決算でも賃上げ要求しないトヨタの組合もおかしいですが、こういう経験がものを言っているのでしょうか?日産なんてつぶしたのは組合みたいなものですよ。とにかく、炭鉱はなくなってしまった日本です。その貧しさの中で集団就職させられて上京して這い上がってきたふたりです。
就職した工場は倒産で、仲間の一人がボクシングをやっていたので、その応援に行ったときにかっとなって喧嘩を起こすのです。そしてなにかやらなければ、という問題意識が芽生えます。ダンプを結束して買おう(5人組)。このときの石立鉄男の話し方まったく「鎌田行進曲」の銀ちゃんの風間さんと同じ感じです。ボクサー役はまたまた峰岸さん。最近この人ばかり見てます。ここから5人組がひとり減り、ふたり減りで2人になる話が続きます。まあ、うまく行かないときはあるもんです。ひとりは積み立ててダンプを買う約束を5人でしてましたが、その積み立てが遅れていたので、犯罪に手を出してしまったのです。「あせっちゃったんだよ」この言葉、一言ですべて語りますね。もうひとりは仕事先で妊娠して結婚を迫られて脱退。もうひとりはバイトで「スト破り」をしてそのときの怪我で死亡(ボクサーです)
監獄に入っている奴の家族が上京して生活を始めますがそのとき友達ということで仲良くしてくれるのです。その妹と2人組が一緒にダンプに乗って海へ向かって走って波際で遊ぶ姿青春のきらめきですよ。いいシーンです。そういえば音楽もいい(いずみたく)。そのときに母親の話になるんですが2人組の一人が狂ったようになります。父親が炭鉱で落盤事故で死んでからは生活をするために娼婦になっていたのです。その姿が子供心に嫌で仕方なかったのでしょう。考えてみれば今の時代は面白いですよね。プータローがダンボール丸めて、下手すればテントで堂々と道や公園の脇で生活しているんですからねえ。なにかこれでもわかるようにプライドがなくなってます。
しかし独立して今度はダンプの運転手がストをしているとき、2人組はストを破って仕事をしてしまいます。2人組をAとBにします。Aはかなり素直、Bは母親の娼婦になる姿をみてトラウマになっております。そのBは生真面目でストを破ったことに引け目感じて、注意散漫で自損事故を起こしてしまいます。やけになって飲み歩いてもバーのホステスが母親とダブります。結局死んだボクサーの姉貴と寝てしまいます。とにかくトラウマが強すぎて、こういう知り合いの性格知っている年上の女しかたぶん、Bを理解できないでしょう。Aは監獄に入っている男(Cとします)の妹と出来ます。しかしCが脱獄してしまい、またうまくことが運びません。Cもまた自分の弱さを隠して嘘を言う性格で、AもBもだまされます。人を殺してしまったのです。こうなるとAはみんなが大きな重荷となって肩にのしかかってきますね。人の生き様ですから仕方ないのですが。友情を裏切り、自首すると嘘をいい、ダンプに乗せろとまでいいます。これは単なる恐怖でしかないのです。この恐怖から逃れるにはこのCはもう死ぬしかないでしょう。しかし最後に故郷の海が見たいとCがいうとBが連れて行こうというのです。Aは止めます。しかしCの妹はAが兄をかばわなかったとして、友情の薄い奴だと印象を受けるのです。妹も頭にきてますが、結局は兄貴を警察に売ることは出来ないのです。BはCと佐渡に向かいますが、そこでBは5人がまとまってがんばっていたあの頃の自分から、やり直しをしたいというのです。リlセット。いつまでも5人という気持ちではやっていけないことを肌で感じていたんですね。
結局、途中でダンプは横転してCは死にます。まるで「マイアミに向かったアルパチーノみたい」。そしてBは犯罪者で、Cの妹が面会に。Aもなんだか焼けてよかったと、笑顔になって再出発を決めて終わり。高い授業料でした。
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「機動警察パトレイバー2」押井守監督 1993年
こちらの方が評判は高いみたいですね。
一気に観ました。面白かったです。しかし動機があいまいな点、それが現代日本なのですが、そこの詰めが甘い感じがしますね。社会の緊張感を作り出すだけでは何もおこらないのです。アニメですからそれでいいのかもしれませんが、彼らが仕掛けたことは無意味なことでしかないですね。また、自衛隊と警察、政府の動きはみんな中途半端で見ていてじりじりしました。自衛隊はあのような動きは今の日本では出来ないでしょう。まあこんなことする犯人もいないでしょうが。さらに警察もあのようなモラルはないと思います。これも警察にあのようなロボットがいること自体が茶番ですけどね。それをいい始めたらこのアニメ見なければ良かったという自己矛盾に陥ります。
まあ「皇帝のいない8月」の延長で知りえたアニメで内容もそれに近いものでしたので満足します。犯人の一人の言葉「また日本は米軍が介入してきて、戦後のやり直し」という言葉は印象に残りました。すぐ、もう一度観ることと思います。私とするととりあえずお勧めの映画です。
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「世界残酷物語」グァルティエロ・ヤコペッティ監督 1962年 イタリア
この映画BOXで入手しました。まあ実は見たことないのです。「モンド」系「ジャーロ」系は一応毛嫌いしているんですが、とりあえず見ておこうと思いました。主題歌最高に良い曲ですしね。
まあ「やらせ」というのは今では定説ですし、楽しもうと思います。しかし40年前の景色、人となり、は嘘はないと思います。またジャケットが良いセンスしてます。
内容は、こんな映画だったのか、という程度。ぜんぜんショッキングではない、というものです。実際に今の犯罪の方が異常すぎると思います。
すごく感じたのは人種がいろいろといて東西南北に広がり、さらに貧困の差があるとこんなにも面白い違いが出るものか、ということです。問題は貧しい人が貧しいと感じているかで、それが富裕層の犠牲になっているのなら仕方ないのですが、違うなら彼らの生活はそのままにしておきたい、と思うのです。富裕層の犠牲では原爆実験のシーンでしょうか。
あとはBGMがまったくうまくかぶせてあり、雰囲気の強調がうまいです。そして良い音楽がかかりすぎていることかな。
世界残酷物語という感じの映像ではないです。残酷な話はもっとあるような気がするのですが時代が変わったのでしょうか。今は大企業、国際優良企業の犠牲になっている残酷物語とかいくらでもありそうですが。まあ次元が違うのでしょう。日本の場合は金融物語とか作れそうです。実際昨今UFJの危機と言われてますが、つぶすなら早く、ですね。みずほ、りそなは大丈夫なのか、という感じもしますし、変な時代です。すくなくてもこの映画の頃は残酷そうでも生活で必要な残酷な映像のような感じはします。ナチスの映像がないのは決定的におかしい。しかしこの映画で出てくるアジア、オセアニア、アフリカの映像は良い感じです。日本を含めて、本当にあるのなら行ってみたいですね。しかしさすがに地元だけあってイタリアに関しては良い感じです。さらに最後のポート・モレスビでの飛行機神話を作り上げた現地人の話はなんか夢がある感じさえします。
主題歌は流れてこないのですね。主旋律しか流れてこなかった。つまらない。
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「はるかな旅・日本人1」NHK 2002年
マンモスハンター、シベリアからの旅立ち
これ良い特集です。私はテレビを持っていないのでDVDで初めて知りました。
いきなりモデルの人の顔のタイプから、日本人の顔のタイプが北方からオセアニア、澪波中国まだ広がることがわかった、と始まるのです。昔アメリカ人のお客様と議論していたのですが、優秀なる人材は混血の中から生まれるということで終わりました。そのときアメリカ人が日本人も混血だと言ったのが鮮明に思い出されます。
とにかくブリヤート人の映像を見ただけで唖然とします。似ている。2万3千年前のマリタ遺跡。グレートジャーニーの亜流でシベリアを目指した人々。その理由は夏の間に出来るオアシスのような環境。その環境を好むマンモス、マンモスを捕まえ生活する狩猟民族。
そして氷河時代の最寒冷時代に今までの環境と同じ環境に移動、すなわち緯度の低い地帯への移動。その中の流れに樺太から北海道の流れがある。といわれると頷くしかない。
そして津軽平野も凍って渡れるようになる。そして本州に移る。ということで2万年以前前には日本には人類は存在しなかったらしい。このころは針葉樹でマンモスなどの獣が散在。狩猟民族。
しかしその後すぐに始まる温暖化。広葉樹林に変化。さらには水面の上昇により大陸と切り離される。この草原から森林化の変化は大型獣の狩りつくし、食糧不足を生む。ここで土器の発明と木の実の料理(火を使い食べやすくする)の可能性。ドラマが出来てから500年くらいとしましょう。映画が出来てから100年、そんなのかわいいよ、と言わんばかりのドラマがありましたね。生きていくということはこういうことなんでしょう。この煮炊きする土器の発明によって定住生活、すなわち縄文時代が1万年続く。素晴らしい。
1/30
「ゴースト・ワールド」テリー・ツワイゴフ監督 2001年 アメリカ
この映画いいです。レトロな番組を見ながら音楽にあわせてひとり部屋で踊るような内的に爆発している子(Aとする)がでてきます。彼女と親友のBはいつも一緒。しかし高校の卒業式。さめてはいても進路の決定を迫られます。お決まりのプロム。何にもないパーティーでした。
さてと、新聞の出会いの欄の記事の投書の相手をからかい始めます。ここまででAはユダヤというのがわかります。そしていろいろなマイノリティーが出てきます。手っ取り早い社会の縮図。相手の男が来て、すっぽかされたと知って帰っていきますが後を追います。すると、フリーマーケットでレコードを売っているのです。Aは逆に「イモっぽいので、逆にイケテイル」と思うのです。ビデオ屋の店員は「体制を壊したいならビジネススクールへ行け」「既存の価値概念を内側から壊すんだ」と良いこといいます。
そしてこのイモ(C、レコードコレクター)に興味を持ちます。それはAも社会から浮いている自分を感じていて、自分の世界を持っているCを何か憎めないんですね。そして親密になっていきますがBは反対ですし、CにもAが応援するので彼女が出来てしまうんです。そうするとAは一人残された気分になってしまう。さらに美術の補講での自分の作品が反社会的と認められなかった点もあり、自分の居場所がなくなってしまいます。父親も相手が出来るし、やりきれない気持ちから街を後にするのです。
そのAが新しい決心がつくまでの話ですが、なんというか周りに人間が、素直に枠に入っていくのにAはどうしても入りきれなくて出ていくのです。変わる事を拒絶しているのですよ。しかし人間も変われば、街の景色も、どんどん、ファミレスができてコンビニが出来て変わっていくように古い町並みは壊されていきます。それを不思議と思わないで今の街にあわせる人々。そのようなことが出来ないA.。きっと次の街ではなにか見つけるのか、じぶんがあわせていくのかどちらかでしょうが、一人で出て行くという判断が出来ればもう大丈夫でしょう。
音楽がしみじみとしていていい映画だと思うけど。逆にノー天気な「シーズオールザット」とともに好きな映画です。
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「チャタレイ夫人の恋人1」 ケン・ラッセル監督 1993年 英国
テレビ用に作られたみたいですね。この映画は良いです。長いので1から4というまとめ方します。もともとこの監督好きです。「チャイコフスキー」で出会い「トミー」で熱狂し、この映画もいい。
主役の2人はかなり良いです。ジュエリー・リチャードソン(A)と野蛮な門番(B、ショーン・ビーン)ともにすばらしい、美人、美男子ぶり。英国の風景も最高です。愛情も最高の映画です。
1は「ざわめく心」
「欲望の歯止めは?」と聞かれたらなんて答えますかね。「欲望は自由にさせたい」とは答えないと思いますがAはこう答えます。夢のシーンでそのまま「黒い馬(欲望の象徴)が夫と彼がクロスして放たれる夢」見ます。この辺は監督のよさ、そして下半身が麻痺している夫を笑うかのように顔をベールで隠して裸のダンスをして夫の呼び出しに答えます。夫はラグビーの地主なので名門ですよ。かなり良いシーンですよ。「身体は顔より人格全体を表現する」というのですよ。かなり真実ですし、すごいせりふですよ。そうです、私の人格を見て、ということなんです。それが、顔の上品さと違ってかなり魅力的な情熱のある体つきをしてます。多分、監督もキャスティングで体つきまではいって選んだのでしょう。とにかくAの姉がBに看護婦を雇いAを自由にさせようと提言します。このことが自由に羽ばたく、きっかけとなるのです。しかし衣装からアクセントからすべていいですね。
2「禁断の森で」
看護婦と夫はうまが合い、面白い話をしてます。「若い子はお金がほしい、そしてお金が入るとすぐに使う」「今は不景気だからみんな不平ばかり」なんて話してます。Aは森の美しさや鳥を育てることの楽しさに興味が引かれていきます。しかしBの方から接近したときに胸を触りに行きますと、なんとAは「抱いてほしい」と言ってしまいます。その場はすぐに自制して屋敷に戻ります。しかしAのベクトルは屋敷を出るようになってから外に森に向けられてしまいます。自由な空間です。そしてとうとう一線を越えたときのよそよそしさ、お互いに恥ずかしいのです、それとAの衣装のピンクいわゆる初々しさが見事なコントラストです。もうAもBもかなりお互いを意識してます。そして夫までが子供ができたなら、そして健康な正常な子供ならこの家を継がせる、とまで言うのです。そして、Bを真剣に愛したら、そのまま落ちていく恐怖と戦うAがいるのです。自制の効かない愛情だと自分でよく知っているのでしょう。
あとは第3部へと続き。
2/1
「戦国自衛隊(せんごくじえいたい)」 斉藤光正監督 1979年
実は一度も見ていないのです。信じられないのですが事実です。話はちょっと見えにくいのですが自衛隊がクーデターを起こそうとして結集したときにタイムスリップしたらしい。「時をかける少女」といいこの時代はこういう映画がはやったのですね。当然この時代はエイリアンは見ても(このエイリアンも馬鹿にしていた)この手の映画はまったく見てません。そこで上杉謙信に出会うのですが、越後の守の部下だったときです。そのときたまたま自衛隊の協力で敵将を殺します。そして下克上で、自衛隊の長(A)に一緒に天下をとらないかと話しかけます。この男だけは自衛隊を怖いものだと思わない男です。
しかし一人殺すごとに現代でその子孫がどんどん消えていくはずですが大丈夫なんでしょうか。さらに自衛隊の中が2分して勝手に船で逃げて好き勝手に海賊みたいに振舞う連中も出てきます。なにやっているんだ、としか思えないのですが、自衛隊長と上杉謙信がうまが合うのです。友情で結ばれてしまった。そして進路を二つに自衛隊が武田信玄に、上杉が浅井朝倉軍に攻めて京都で会う約束します。しかし夜這いして性欲満たすとか意外と昭和の次代でできないことが許されていて、実行するとやる気というか生きる気力生まれてくるし、考えてみれば小隊で武田信玄と戦うときに敵に不足はなし、というところです。ところがすごい強い。武田軍。命かえりみないで突っ込んできます。どんどん武器を失いますがAが一対一で武田信玄に勝ちます。銃使いましたから。大将が倒れると総崩れ。なんというかお金かかってます。薬師丸ひろ子ちょいやくですがかわいいです。知っている俳優ばかりで勝頼は真田がやります。
しかし最後に上杉謙信に裏切られてみんな死んでいきます。その前の晩、「Aに対してもと来たところに戻ろう」という提案がされるのですが、みんなにAが戦いのあるこの戦国時代が好きだというのがばれてしまいます。そこでみんなが戻れば、もしかして現代に帰れたのかもしれませんが、最後はかなり潔く、みんな死んでいきます。なんといういい映画なんでしょう。私好みのいい映画でした。途中、歌が流れるのですが、それはもっと弦楽とかで時代に普遍性を持たせればいつまでも残る作品のような気がします。役者がまだ個性的なころでしたね。ぎりぎりなんでしょう。そのハザマを角川映画は駆け抜けたのでしょうか。まさしくこの映画のような感じなのでしょう。