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「ルパン3世カリオストロの城」宮崎駿監督

何回見ても良いですね。この映画はルパン3世の中でもレギュラーが協力し合うという珍しいパターンです。さらにルパンは何も盗んでいないんですよね。はじめから恩返しのためにがんばったのです。そして、不二子も銭形も悪いことしていない分だけあまり攻めることはできず、結果的にルパンに協力しているんです。

その協力のチームワークというか「あ・うん」の呼吸がこの映画の魅力でしょう。さらにお宝のすごさ、姫の純粋なところ、悪いやつは外国人で日本人が乗り込んでそれらを一網打尽にするという外国ではヒットしないような映画です。しかし見ていてすっきりしますね。個別にはいろいろと良いシーンとかあるのですが、最後の庭師の言葉「なんとすがすがしい人たちなんだろう」というような言葉にすべてが表されていると思います。見ていても本当にすがすがしい。不二子も裏切りはしないし、銭形も警察として、なかば友情を持ってルパンに接しているし、ルパンたちのチームワークは良いし、すばらしい作品です。

 

監督はこのテーマをいつか扱いたかったのでしょうが、ちょうどルパンというトリックスターがいたのでうまく脚本ができたと思います。あのお宝を披露するにはルパンは贋金を盗むという動機ではうまくないので、このような展開にしたのでしょう。最近このことに気づきました。いい作品ほど端的に、良い、というだけで済みますね。

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「どうぶつ宝島」池田宏監督 昭和46年3月

「怪しい船乗り」が来たら教えろと怪しいやつに言われてもねえ。とにかくこの映画もねずみがかわいいのです。ねずみっていつもかわいい役やりますね。たまに人間が出てくるんですが男の子(A)と女の子(B)という風に考えましょう。この怪しいやつから箱を預かり宝島の地図を入手。

一度宝島を目指して航海に出ますが、途中海賊に捕まります。これもみんな動物。そして海賊島に連れて行かれて、奴隷商人に売られ、かつ宝島の地図もとられます。バーブーはどうするのでしょうか?(小さな赤ちゃん、人間も一緒に船出してしまったのです)Bはフリント船長の孫です。

しかし海賊にまた地図を取られ、海賊の中で抜け駆けするものも出てきて海賊同士の争いの中、どうにか海賊同士の仲間割れを利用して海賊をやっつけます。あとはABのロマンティックな船旅。しかしそうはうまくいきません。嵐に巻き込まれて船はばらばらに。そしてABともに離れ離れになってしまいます。

まあなんだかんだ言ってもABとともに海賊も宝島に来てしまいます。そこでまた一波乱あるのですが、ABともに少年少女のはずですが今のアニメと違って、笑いが少ないのです。どこか大人びているのです。これが時代というものでしょう。しっかりしていますよ。

そして最終的にAが人質になりBもあきらめて宝の案内図を渡すのですが、そこにか隠した手段があるのです。まるでカリオストロと同じようにスイッチがあり、海賊たちはそのスイッチを押して爆破で吹き飛んでしまいます。その爆破とは隠してある、財宝をつんだ船が湖の中から出てくるのですが、その湖の水の水門を開ける役目をします。それでABと優しい船乗りたちはめでたし、めでたし、ですぐに終わります。まああっけないのですが子供が動物の喧嘩を見て楽しむように作ってあるのです。ドタバタですが。かわいい映画ですよ。

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「蘇る金狼」 村川透監督 1979年

これは原作を読んだことある記憶がある程度でほとんど覚えてません。

でもはじめ見たら雰囲気は思い出しました。松田優作は少しミスキャスト感が否めません。

冒頭の1億円事件、あれはありえない。それとその後の会社での会話。「経理部長は融通手形振り出してそれを元に貸付暴利貪る」「専務たちは下請けから半分不良品納入させて私服肥やす」これらはどういう意味でしょう。融通手形はいつかばれます。ここで「社長もぐるときているから」という会話がありますが、手形の裏付けの現金がなければ監査とおりません。不良品で単価安く原価コントロールしているなら会社の製品が安定しないし、めちゃくちゃな会社と言いたいのでしょうか?社会がめちゃくちゃといいたいのでしょうか?良くあるのですが映画監督は所詮は映画監督でサラリーマン経験ない人が多いのでサラリーマンの世界の映画化は難しいと思います。

その強奪した紙幣の番号が控えてあった(まあこれもないでしょう)ため、使えないのでヘロインに形を変えて、そのヘロインを使って中毒させてある人間を操る。という感じですね。しかし確実に見たものは殺していくので犯人とするといい形です。この麻薬のボスが市議会議員でそれは豪邸に住んでます。なにかこの映画に出てくる景色はおかしいんです。映画といってはそれまでですが、設定がおかしい。市議ですかね。その家が暴力団まがいの見張り番雇っていたら問題ですよ。またヘロインと現金の交換のときあんなに銃持っているわけない、というほど持ってます。またほとんど殺されてしまうのですが、そのとき一発も撃たないものでしょうか。

そしてこの油脂会社、重役の椅子を用意するということで殺人を会社の従業員に依頼するもんですかね。まあこれも主人公が仕組んでいるんですがね。用意された銃はまずい感じがします。抜け目なくすべて燃やしましたね。まあ特別背任、資本充実違反(うーんみんな商法違反だ)殺人教唆と脅して200万株手にしようとします。

実際手にして従業員兼大株主の誕生です。そして社長令嬢まで婚約してものにします。

そこにのっとり屋の登場。この会社のっとりたいとのこと。200万株を時価の3倍で買うとの打診。実際特定株200万株ですのでこののっとり成功でしょう。(役員の中から200万株調達してます)。売ってドルに変更の要求。そして有頂天になっているときに風吹ジュンが再登場。いやな予感です。いままでに成功を駆け上っているやつが女で何回失敗していることか。そんな映画は見たくないのです。飽きました。成功する映画が見たいのです。まあうまくいくなと、そしてヘロインも高く売れたし、多分この男は昔からの風吹の方を選ぶだろうと思ってみてましたが、なんだよ、この映画。また同じことの繰り返し。彼女に刺されます。ここで最高につまらなくなります。こんなものか。ダサい。

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「偶然(ぐうぜん)」キエシロフスキ監督 1981年

不思議な映画です。出てくる人物が、魅力的な外見ではないのですが見入らされてしまうような人ばかりです。そして、カットの角度が良いし、画面の色が良いです。さらには作ることのできない社会主義の時代の風景。さらにデンマークとの距離。この監督の映画にはスウェーデンやデンマークとポーランドとの距離の近いことを感じます。ドイツとは近いようで遠いのでしょうが。とにかく、ソビエト、東欧の映画にはこの人今何をしているのだろうか?と役者のドラマを考えさせられる構造が必然的に備わってしまいますね。映画でもマルクスの授業をしている教授、現実には今どんなことを教えているのでしょう?逆に日本の大学ではまだマルクスを教えている人もいるのです。

医学部を途中で休学して共産党に入るのですが、その動機はあまりはっきりしません。その男(A)は共産党の政策の失敗のつけを清算しにある病院に出向きます。そこで共産党でも悩みます。初恋の女に再会して恋愛に落ちるんですがこの恋でも悩みます。なにか、人生は偶然の重なりであってその状況に応じて悩み判断していくといいたいかのようにAは悩み続けます。あるときその恋人が捕まります。Aはそれで嫌気が差して党を距離を置いてみるようになります。恋人も尋問の後はAに対して冷たくあしらうようになります。Aが党幹部の娘と婚約するようなこと聞かされたのでしょう。権威主義のA、さらに上昇志向のために恋人も恋愛も関係ないA。そしてなかば減熱してフランスへ行こうとするとストで足止めを食います。

しかし、そこでもう一度党のメンバーに会う前のワルシャワ行きの列車のシーン。この列車に前は飛び乗り、党員として病院で活躍したり悩んだりしました。今回は乗り遅れます。どんな人生になるのでしょう。なんと,教会側のメンバーになります。まるで正反対。マザーテレサの話の引用などを聞かされます。そしてあの病院で反体制派がやっていたような集会に参加する側になっています。そして出会う友人はデンマークにいたときの男の友人です。今度もまた仲間だと思った連中に疎まれ、またもフランス行くときにストでいけなくなります。

するとまたあのワルシャワ行きの列車に乗るシーンに戻ります。また乗れませんでした。しかし同じ大学の女の子が見送りに来てました。そして大学に復学して付き合っていると妊娠してできちゃった結婚。卒業のときも大学に残ってくれと。「最近やけについている」と笑いながら言うAの顔が印象的です。このときは党も信仰も信じないAがいます。ただまじめな医者です。しかし当然同じ時間を違う角度で生きているのでほかのメンバーは同じです。ただ、立場が違うので接し方は違うのです。人生、運命、偶然、意外と同義かもしれません。幸せそうでしたが最後の場合もたまたま偶然に外国の航空会社の旅行券だったのでストは回避できたのですが、悲劇もまた出会ってしまったのです。

実に静かですがとてもよい作品ですよ。音楽は「戦場のピアニスト」と同じ人。

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「はるかな旅・日本人2」NHK 2002年

巨大噴火に消えた黒潮の民

鹿児島の上野原遺跡の9500年前の様子。鬼界カルデラから出てきたつぼ型土器、定住集落のあと。時代が早いです。実はこの遺跡知りませんでした。食べ物は、炉で蒸したり燻製を作ったり。おいしそうですね。基本的に土地の所有権なんてないからおいしいところに人はあつまります。また紋様が貝殻なので海とつながりが深いこと。それは北から来た人々がマンモスとつながりが強かったことと同じです。

そして沖縄(ここも日本というのは良いですね)で見つかった港川人(日本最古の人骨、氷河期末期)の頭蓋骨の形状が南方(インドネシアのジャワ島)のワジャク人と似ていて中国大陸系の形でないこと。なぜここに住んでいたのか?それは氷河期住みやすかったから。そして氷河期はジャワ島付近は島が連なる大陸だったのです。(スンダランド)

しかしご多分に漏れず、氷河期が終わるとまた島々に戻ります。そして人口密度が高いので海に出ていかなければならないのです。必要性アプローチの結果人類で一番最初に航海術を取得しました。ユーラシア大陸の人々は自分の大陸がなくなってしまうという必要性アプローチがなかったのです。その一部はフィリピンにたどり着いて、いまでもある種族のDNAを検査するとホモサピエンスに近い値が出てきます。そのフィリピンから5000キロにわたって流れる黒潮がこのような人類を沖縄まで運んだということ。この黒潮は世界最大級の海流ということです。日本は恵まれた条件がそろってますね。かつおなどもこの海流で運ばれます。そして12000年前黒潮の流れがより日本列島沿いに北上します。そして九州にたどり着きます。そしてそれに伴い照葉樹の森が広がります。そこからはマテバシイやヤマモモなどあく抜きしないで食料となるものがたくさん取れたのです。そのことが定住生活につながります。

しかし鬼界カルデラの噴火。俊寛が流されたところあたりですね。やはり意味があるのですね。6300年前の噴火で全滅しましたがその前に黒潮の流れに沿うように文化や人の移動が行われていたのです。それは高知、和歌山そして東京まで及びます。そして混ざり合い、縄文人の土台が出来上がっていくのです。そうですね、マンモスハンターすなわち北の人々と、黒潮の民が混ざり合い縄文人が形成されていくのです。大きな混血です。

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「プッシーキャッツ」ハリー・エルフォント監督 

これ好きな映画です。今回も初めから楽しいスタート。まあアイドルグループを作ったけど言うこと聞かないし先がないと見込んで事故死させるんですね。プロデューサー(Dとします)が。

そしてプッシーキャッツのプロモみたいな映像でスタートです。

レイチェル・リー・クック(Aとします)ベースがBドラムがC。でも実はこの映像ボウリング場の余興で誰も見ていないんですよ。しかし成功するんだから人生、「偶然」と必然の積み重ねですね。流行の最前線の消費者が楽しいの何の。見事に消費させられていきます。しかし思い当たる点もあるんですよ、マーケティング。そこでプッシーキャッツが本物として認められるだろう、ということは簡単に予想できます。しかしそんなに単純でいいのかなあ。予想通りDがアイドルの穴埋めに見つけます。しかしこの映画っていろいろな脇役がたくさん出てきます。アイドルの中には「チャリーズエンジェル」の犯人役の男、プッシーキャッツのマネジャーの彼女は「ギャラクシークエスト」のエイリアンで地球人と恋に落ちた女宇宙人、などです。みんな楽しい役の連中ばかりです。「友情が第一、バンドは2番目」とかわいい誓いを立てて、プロ用に仕上げられます。プロのメイクすればかなり違って見えることは周知ですよね。落ち目の人がいいメイクがつかなくて(つけられなくて)見るも無残な姿さらすケースは現実にかなり見てきてます。

そしてロックの中にサブリミナル効果入れて消費拡大というのは笑えます。楽しいですよ、この映画。三人ともかなりきわどい衣装がんばりました。しかし、Bは黒人なのでバンドから離れるようにサブリミナルがかかってます。そしてレコード会社の本拠地に。そこでは社長は子供のようです。マーケティングはしっかりしているんですがね。

そしてBCが離れようとしたときにAが気がつき、仕返しをすると、レコード会社の連中はみんなコンプレックスの塊をどうにか克服して性格がその過程でゆがんでしまった連中でした。しかしプッシーキャッツのメンバーは素直です。レコード会社の政略なしに自分の本心の歌を、心から歌ったら、そしてなんとコンサート会場でずっと好きだった人から愛の告白を受け、それを舞台の上で受け入れたら、ファンも本当の心の叫びに本当の愛に納得すると思います。そして本当にプッシーキャッツは旅立つのです。本当に楽しい映画です。

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「コンタクト」 ロバート・ゼメキス監督 1997年

この映画と「オーロラの彼方へ」は本当に夜、空を見上げさせてくれる良い映画です。

はじめに電波の混線から。宇宙についてズームアウト、そんなのできないですよね。しかし銀河系がいかに小さく、地球がいかに小さいかがわかります。

子供のときの経験はかなり刷り込みが入りますが、この女科学者Aも子供のときから望遠鏡を見ているのが好きな子でした。父も「宇宙人がいるの」という問いに対して「いなければ宇宙は広すぎるよ」と答えてくれます。

そのままの好奇心をもって科学者になって宇宙との交信を試みるのです。しかし予算カット。

しかしある財閥が助けます。これが頭の良いトップがいるんですよ。まあAも地道に年をとっていくのですが、執念の引きがあります。ちょうど、ちょっと知り合いになった神学者が「いまほど人類が孤独だったことはない」などといっているときに宇宙からの合図をキャッチします。メッセージが届きます。画像はヒットラーの演説。まあ価値判断は入らないで宇宙人の独自の判断ですから文句は言えません。この辺のキャッチしてからの動き映画として緊迫してすごく面白いですよ。

そしてその解読をいち早く行ったのが財閥のトップ、彼がAにその解読方法を教えます。この飛行機(財閥のトップBは飛行機で生活している)で解読方法を教えるときのABの対応と演技、素晴らしいです。かなり印象に残るシーンです。それは惑星間移動の機械の設計図でした。それも人間にわかりやすく、定義式まで入っています。

そして政府のプロジェクトがスタート。昔の上司が表に立って功績を持っていってしまいますが、たいしたことではないでしょう。

「単純な説明ほど正しいものである」こういう説があるらしいですが、証明するの難しそうですね。母集団に何を持ってくればよいのでしょう。Aと神学者Cとの会話、「神はすべてを創造した後に、自己証明をしなかった」「人間は存在しない神を作り上げ、神のせいにしている」基本的には神という母集団(この場合は人間)以外のものがあればすべては証明されることは不完全性定理で明らかですね。

乗組員1名の戦いですね。10名から選ばれます。「日本は候補者を出さない代わりに、総合下請契約を結んだ」とここまで馬鹿にされてます。

結局、神の存在を信じるかどうか、で選考は決定します。このように人類の代表を決定するときは神の存在が大きいようです。そして聖書を曲解しているテロリストにもこの計画は中断させられます。未来の黙示録というらしい。

そしてハイライトへ。ミールからの受信、そして北海道へと展開がきれいに決まってます。映画はこうでなければ。かっこいいなあ。

そして「ヴェガ」へ。地球時間で一瞬でしたので、Aにとっては長い時間だったのでしょう。相対性理論ってこれを示唆しているんですかね。実はよく知りません。格言「オッカムのカミソリ」も知りませんでした。最後の尋問のとき「われわれはより大きなもののひとつの変数に過ぎない」というの良いせりふですね。

そして静かにアリゾナの荒野で終わっていきます。宇宙人も仲間で人間は地球は孤独ではない、閉鎖体系ではない、答えも外の変数を使えば見つかるはず、という良いメッセージでした。

2/9

 

「ノボ」 ジャン=ピエール・リモザン監督 2002年 フランス

役者と監督が楽しんでいる映画があると思います。これがそういうタイプの映画ではないでしょうか。うまくいえないんですが、見ていて心洗われるとか考えさせられるとかないのです。日本も最近この手の映画が増えているのですが、役者は楽ですしイメージが崩れないしこういう映画は好きでしょう。監督も作りやすいと思います。しかし観客が楽しくないといけないのです。見ていて、君たち楽しんでいちゃいけないよ、と思います。「ガタカ」もそうなんですが、モデルとかスタイリッシュという言葉を変に勘違いするとこういう映画に仕上がります。「ガダカ」も魅力的なはずなんですがなぜかまた見たいという気にさせられない映画です。この映画はその前の段階、この映画にお金出した人がいたのか、という疑問ですね。しかしつまらないかというとそうでもないんです。多分私が年を取って愚痴っぽくなったんでしょう。さらに最近邦画のいい作品を見ているので、かつ洋画も美人ばかり見ているので、この映画の俳優たちが目立たないということもあります。世間ではこの女優はシャネルのミューズという言い方しますが、??モデルというだけです。男優もそれほど良い男という感じではないです。

記憶がないから新鮮であり続けることはできるけど、記憶がないから感動の積み重ねもできないんですよね。記憶の共有ができないということは意外と深い関係になれないということのような気がします。そんなこと考えてみる映画でもない感じがしますけど。事実女のほうは感情が記憶として積み重ねられないのでいらいらします。それまでは記憶喪失の男と欲望だけで関係が成り立っていたのですが欲望もまた、記憶がその高揚に大きく関係するのです。映画自体はこの欲望について中心的に描かれますが、男が記憶が戻ったとき妻とこの女と3人の関係が本当にスタートするのでしょうか?体は記憶がなくてもこの女のことを覚えているのでしょうか。この記憶喪失、無意識の状態での欲望の深さと男と女の結びつきについて、それはありえるという回答が用意されております。まあ愛と夫婦は作り上げるもの。欲望は人間本来のリビドーと私は思うのですが、そうなると妻のほうが不倫を認めなければ成り立たないのです。ですからそこまではこの映画は描いておりません。その一歩前でとまります。そう欲望の関係が頭でなく肌で直感的に覚えているかという問題提起なのでしょう。面白いと思う人もいるかもしれませんがちょっと軽く作りすぎているな、という感想です。

2/10

「黄泉がえり」塩田明彦監督 2003年

はじめから監督の実力、役者の実力がちょっと足りないのではないか、と思ってしまう。しかし大ヒットした事実は紛れもないので、今はそんな時代だと思うことにしよう。

「思いが人をよみがえらせるのか」という問いに、信じなかった女(A)は自分の彼氏もよみがえったかどうか、確認に同棲していた家に戻ります。当然、蘇っていない。なにか、きっかけや理由があるはずです。厚生労働省の役人(B)でAの幼馴染が調査にやってきます。場所は阿蘇。とりあえず「高砂」の木がある神社がありますね。

しかし面白いサンプルが出てきます。特別、表面的には「誰も生きていてほしい、戻ってきてほしい」と思わなかった人までも蘇ってきました。これでAの願いもまんざら嘘ではないということがわかります。

もうひとつは「夫が死んだ後、その未亡人を好きになって未亡人の経営しているラーメン屋で一生懸命働いている男」の場合。必死さから子供もこの男の人になつくのですが、夫が蘇ってから、この男の人のひそかな恋心は壊されます。さらに夫もいなかった間の子供とこの男の人の関係が良い感じなのを、ビデオで見て知るのです。上の戻ってきてもらいたくないと思っているというケースは、この男の兄貴のケースです。確かにうれしいのでしょうが、あまり願っていたことではなかったのですし、この男は兄貴が戻ってきたことと、好きな人の旦那が戻ってきたことを一緒に考えています。すごく短絡的。馬鹿だなあ、と思ってみているんですが、この辺、言葉がなく音楽、それも管弦中心で映像で語れば、雰囲気は当然一気に盛り上がります。

あとはいじめられて自殺した高校生や子供を自分の命と引き換えに死んでいった母のケースなど、あとから死んだ人が戻りその人たちの存在理由が再確認されるケースが出てきます。

しかしAの彼氏が戻ってこないように、クレーターと重力異常が蘇りに関係するみたいです。さらにお墓の位置があるエリア内の限定されています。Aの彼氏のお墓は海の中。しかしこの彼氏を好きだった女のこのところに戻ってきているのではないかとAは疑ってしまいます。BAが彼氏のことをそんなに思っていたのか、初めて知ります。これは本当に思っていたのか、思い出を美化しているのか、微妙なんですよ。実はBの方が合うんですけどね。

しかし熊本へ精密検査に出かけるときその蘇りをした3人が一定地域から出ると消えてしまうのです。そして、生きている人間の下へ現れるんです。誰の元へかは、その人の思いの強さです。そして現世の人間を励ますのです。基本的に蘇った連中は死んだ瞬間を覚えているので、何でも人に施しをできる余裕があるのですよ。ここでありがちな展開をします。Aは実は死んでいたんです。ではどうして映画のはじめから出ていたのか?Bの思いが蘇らせたのです。その蘇ったAは平気でBを裏切るようなことをしていたのです。ではまったく蘇らせた人に施しをAはしないのでしょうか?しないわけないです。映画になりません。しかし次々に死んだ瞬間を思い出していきます。本人たちは一度死んでいるので動揺はしないのですが、周りが思いがあっただけに、動揺します。Aは施しをしなかったのは死んだ記憶がなかったためでした。(寝ていて事故に巻き込まれてしまったのです)しかしBにはチャンスがありました。それは子供が預言者で明日の夕方みんな消えると教えてくれたのです。Bは本心を打ち明けるチャンスをもらったようなものです。多分ここでAも理解してくれるでしょう。RUIというシンガーが何かのきっかけに絡みますね。はじめからずっとキーポイントで歌が流れてます。コンサートのシーンから地味に本当に地味ですがグーと盛り上がってきます。感じる人には感じる素晴らしい盛り上がり方です。歌手(メンバー)もまた蘇りでした。そしてAの会いたい人もBでした。ですからこの蘇りを利用してコンサートが開かれるわけです。そして主役の二人の再会。ここでお互いの心が解け合います。愛という形で永遠に重なり合うのです。

「たとえ、1分でも自分の本当に愛した人と心が通じあえたなら私は自分の人生を幸せだと思える。その思いが私にある限り私は前を向いて生きていくことができる」これがテーマです。

2/11

 

「奇跡の海」ラース・フォン・トリアー監督 1996年 デンマーク

この監督、やはりやばい監督だと思う。ウドキアーとか使っているし、内容もきつい映画が多いです。この作品だけ、廉価版が出てしまって処分できなくて持っております。しかしもう一度見てみることにします。私のエミリーワトソンへの印象もこの映画で変わってしまったのです。

「べスの結婚」

すでに最後まで見る自信がない。人物がもうハイランド特有の顔をしてます。そして寒さからの貧困。寒村の中の結婚です。しかしべスのあの笑顔で考えは変わりました。本当にうれしそう。結婚が幸せだと思っているのです。そして夫婦がひとつの生活単位だと思っているのです。そのためにずっと神への信仰を怠ることなく続けていたのです。素直だ。

「ヤンとの生活」結婚式のときに処女を捨て夫婦生活に入ります。前の結婚式のときにふと思ったんですが日本の田舎とそっくりな部分あると思います。欧州はすこし歴史が古く、国が分かれて民族が入り乱れている分、部落ごとに定住生活をしている日本と似ているのかもしれません。慣習に縛られるところも。横浜なんてNYよりも歴史が新しい町ですからねえ。べス(若草物語みたいですね)は「赤い糸」を信じています。運命の出会いですね。ヤンは女と結婚したくらいの気持ちです。このずれは大きいですよ。

「ひとりの生活」

夫が収入を得るために北海油田に出稼ぎに行きますがその間はべスは一人で生活をします。

しかし一生のい伴侶を神様からいただいた気持ちが強い、べス寂しくて仕方ありません。ここで感じるのですが、スコットランドのような人口が少ないところは電話線よりも携帯電話の電波のほうが能率が良いですよね。そして寒いのですから北欧で携帯電話を中心に競争力をつけてきたのはわかる気がします。しかしべスの愛情は無償のかけがえのないものですね。これはすさまじい。こういう愛は成功します。本当の愛情は一途なものです。

この辺で気がついたのですが、意外とこの監督描写がストレートなのです。性行為なんかもごまかしても良いはずなのに描くし、油田の雰囲気、厳しさも描くし、自己でヤンが倒れた病院先での看護の時もエグイし、不思議でしたが、だんだん、人と人のつながりの意味、孤独ではない、そして生まれたからにはなにか足跡を残す、魂が人間にはあるということ、人間の社会性などをうまく描いてます。なんというのか人間は人間として生まれてきたからにはそれだけで義務と責任が生じる、その根源的な部分を描いているのです。

「ヤンの病気」

前の章で、最後のほうのべスの信じる気持ちに感動して泣けてきます。前回はこんなことなかったので、何かが私の中でも変わったのかもしれません。これでこの監督のDVDBOX買う心構えができました。実はDVDは意外と見ないのです。オリベイラもビスコンティもまだ1作品ずつ未見のタイトルがあるくらいです。

しかし病室でのお見舞いの会話はそのひと言ひと言が素晴らしい会話です。人を個人を大事にしながら相手も大事にする、そして愛する人には愛するゆえに体を抱きしめる代わりのことを要求する。

「疑惑」

ここまでは良いですね。実はここまでも前回は良いと思わなかったんです。何かが変わったんでしょう。べスを抱くかわりに誰かに抱かれる話をしてくれ、という要求に無理にこたえようとべスはがんばります。この要求は判る気はしますが、相手のベスは結婚まで処女だったんですよ。無理ですよ。それに答えるべきか教会で悩んでいる姿は実に見ていて悲しい。しかし今回はまことに爽快に大笑いさせてもらいましたが、べスがバスに乗って男の人の隣に移り、またに手をやり、ズボンを開き、陰茎をしこしこと手でこするのをべスは顔を見ることなく行い、かつ男の人もやられるままにさせておくというシーン、いやあーーー疲れが吹っ飛ぶくらいに私には受けました。前回はまったく笑った記憶がないのですが。それを報告するとき、あなたに触れたというのです。バスを降りた瞬間に吐き気をもようしたくせに。信じる、すごいことです。

「信仰」

ここですごい会話が。それは兄貴の未亡人の義理の姉との会話ですが、ヤンとのほかの男と寝て来いという会話を聞かれてしまったのです。べスはヤンしか愛せないので抵抗があるのですが、やるというと、姉は馬鹿なことをするなと止めます。べスはなんと神が彼を信じれば助かると言ったというのです。土地の神を徹頭徹尾信じているんですよ。神父というだけですよ。よそから嫁に来た姉にはこの信仰はわからないと。そして姉は自分の意思で生きるのよ、と近代自我の確立みたいな事を言います。意思と信仰の対比です。

「べスの犠牲」

実はこの前の章の最後にヤンは事実上の離婚調停に賛成していたんです。というのはべスを精神病棟に移してヤンともう会えなくする書類にサインをしたのです。医者からはヤンはもう直らないといわれて、生きている限りべスは犠牲を追い続けるから危険だというのが理由です。もうべスは神の言葉なんて抽象的なものを信仰の対象にできなくなってしまいます。現実には愛が、愛し合うことが精神の救済に一番だと知ったからです。しかし閉鎖的な村は、教会を中心に神の言葉をひたすら読んで信じるものだけが教会員として村で認められるのです。よってべスは村はじきにされ、母親も助けると同様に村八分になるので黙ってます。教会に捨てられ(神に捨てられ)自分自身の中に存在している神と対話しながら、ヤンにも会えなくて、変人のいる船に売春に行きます。前回はそこでひどい目にあっているのに、なぜ行くのでしょうか?試練を乗り越えれば活路が見出せるとでも思っているのでしょうか。まったく無意味です。しかし向かうときに最後に神と自分と対話して何かを見出したのです。それは犠牲。もしくはヤンとの永遠の生。当然今度はめっためったに切り刻まれます。

「葬式」

とにかく、べスは死んだ。しかし彼女は自分の中の神と常に対話していたのです。そして、愛することに忠実に相手を思いやり、回りを気にせずに生きたのです。それも悩みに悩んで。人間なんて、小さな存在ですし、せめて伴侶と添い遂げたいですよね。男と女がペアというのが人間の最小単位です。葬式は行わず埋葬だけ許可されましたが、ヤンは死体を持ち運び油田に投げ込みます。これからそこで仕事を再開するので守り神になるでしょう。

そのとおり、しばらくしたら天から村の教会にはない鐘の音が油田の人々を祝福するかのごとく鳴り響くのです。まじめに信じあっている限り油田の人々は安全でしょう。

素晴らしい映画でした。まったく私の勘違いで、理解不足を反省いたします。

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「はるかな旅・日本人3」NHK 2002年

海が育てた森の王国

縄文時代13000年前から2300年前まで、詳しくは覚えていなかったです。きっかけが始まりと終わりにあるのでしょう。キーワードは「森、定住、集落生活」です。ここに日本人のルーツがあるらしいです。落葉広葉樹における移動生活から定住生活へ。それは8000年前くらいの黒潮の流れの分流が「対馬暖流」が日本海に流れ込んだから、(温暖性)広葉樹、照葉樹において定住可能性が広がったのです。しかし黒潮と対馬暖流の流れているところルートで追うと魚がおいしいところが多いですね。逆に親潮が降りてくるところに寒いところの魚が多いです。ちょうど大洗沖で黒潮が向きを変えるのですがそこには親潮の影響のアンコウ鍋などがありますものね。シベリアからの寒波とぶつかり上昇気流の発生、山岳地帯での雪。太平洋側での雨という水分豊かな国の誕生。四季の季節感の誕生です。磨製石斧が鉄のかわりに斧の役割をします。そして定住の住まいもまた森の木から作ることとなります。定住生活が長くなると分業などの生産性の向上を図ります。5500年前の三内丸山の大規模集落などです。ぶななどの伐採とともに栗の栽培を行い食生活の安定を図ったのです。この栽培ということは必用なものをいつでも手に入れることができるということで漆なども栽培すれば装飾として利用できるのです。そして交易の実施(海の近くの集落、港の意味がある)。日本海中心に糸魚川、佐渡、十勝などです。大規模集落も日本海中心に点在。これは対馬暖流が今よりも勢いがあったから交易の移動手段で迅速に交易できたため。気温が高かったというのは青森に行ったときに聞きましたがそのため海水面が高く海の部分が大きいため、海流の勢いが強かったのでしょう。太平洋側は?親潮があるから移動のハイウェイはフィリピンから日本には早かったのですが、日本国内ではうまく利用されなかったのでしょう。しかし4000年前に気温に低下とともにこの大規模集落は衰退。根拠は繁栄の元は栗の栽培でしたのでその交易手段たる栗ができなくなったからです。そしてこの寒冷化によって日本は平野ができます。地図を見るとわかりますが、今よりも海面が高いと日本は平野はほとんどなく、海と山しかないですよね。平野は最後の温度低下で今の温度になったときに最終的に形成されたんですね。そして山を背景に平野で共同生活を営むようになって今の生活の原型ができてくるのです。

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「チャタレイ夫人の恋人2」 ケン・ラッセル監督 1993年 英国

第3部「愛の歓び」

だんだん、身分の差がいらだたしさを演出します。まあどちらも夫、妻がいる身なのでダブル不倫ですし。でも「森の中では俺のものと」誓わせるのです。その誓い。釘を打って一人ずつ折り、二人でクロスさせるのです。こういう誓いの方法は良いですね。日本じゃ、丑三つ時の呪いですが。そこで侍女も「子供たちは去るけど、一度男に抱かれた感触は永遠に忘れない」と23年前に死んだ夫の話しなんかするのでもう焼けぼっくりに火がついた感じです。愛の形というのはこうなんですよね、という見本みたいです。たとえば、使用人の森の小屋でも満足する。使用人が用意した食事をA(レディチャタレイ)が食べないと自分も要らないという配慮。会った瞬間に抱き合う。愛というのはこういうものです。ここで疑問ですがAは夫となぜ結婚したのでしょう?政略結婚だったのでしょうか?とにかく常に感じるのですが、Aがダイアナ妃と重なって見えることです。そしてとうとう一晩を一緒に過ごしてしまいました。この後はもう検討つくところまで行くしかないですね。このAはバネッサ・レッドグループの娘が演じてます。この人からは想像できないくらい肉感的な体をしてます。雨宿りで一晩過ごした森の小屋で、雨の中二人が裸で森の中走り回るとき、愛の楽しさが満ち溢れています。出会うべくして出会った二人なのですが、あとはお互い無理を承知で困難を乗り切るだけの覚悟があるかどうかです。当然、夫は夜帰ってこなかったので心配して怒ります。しかし侍従はいいこと言います。「人の心は貧富の差とは関係ない」。姉は「生活のつながりが必要だわ」といいます。ある程度財産が必要だということでしょう。あれだけ自由奔放な姉も結局は相手を制限しているんです。しかし妹は子供ができ覚悟はできているんです。愛が一番なんていいですねえ。

第4部「愛に燃えて」

バカンスでシュールレアリズムの話をしてます。管ね。表面化の下の見えない現実、今はもう明らかな表現ができるけど、まだ必要なんでしょうか。確かに隠しているときはこの議論は必要ですが、オープンになりすぎるとかえってまともに議論しているよ、この人たち、となってしまいます。ここでも姉は止めます。愛は重要ですが、「生活が根本的に違う」「命令される側とする側」ということです。確かに日本でもある程度意識されることです。私などはもうお客様商売ですので、何もないのですが、やはり生活が安定していないとだめというのはあるみたいですよ。Bはラグビー邸を辞めるといいます。隠れる気ですね。自ら身を引く。いいことです。

しかし愛が続くきっかけは女性の愛情の深さです。それが今回はあるのです。ここで男は判断できなければ、愛情は得られないでしょう。しかしBが村でつまはじきになり、隣村の炭鉱に仕事を探しに行ったと聞いて追いかけていくAはもう「嵐が丘」のキャサリンなみです。映画では夫が侍従に「ジェーン・エア」を読んでもらうシーンがあるのですが意味あるのでしょうか。プルーストについては夫とAは意見が分かれて、Aは精神的な人で肉体的直情的でないというような批判をします。夫に少しマゾがこのあたりから入ってきます。そしてABの間には信じあう「愛」しかないのです。これだけがあれば十分かもしれませんが、不安ですよね。結果突っ走るのですが、お互いに不倫だったことが一番の問題だったんではないでしょうか?「嵐が丘」の愛にはヒースクリフの無償の愛がありました。キャサリンが結婚していてもキャサリン目当てにヒースクリフはその娘で補うこともできました。この小説はどの映画もだめなのでこうやって書くしかないですね。この映画では子供ができたとき、現代のマリアだ、私は現代のヨゼフだと喜ぶ夫がいるのです。性格的にいい人ですがどうしても合わないのでしょう。

結局、周りの人すべてが丸く治めようと努力するのにもかかわらず、「好きな人がいる、出て行く」と言ってしまいます。そのとき、夫はモーツァルトのピアノコンチェルトのピアノのさびの部分を弾いているところが良いですね。優しい人なんですよ。そして不倫の相手を知ると、驚きます。妻が気が狂ったのかという態度。お金と地位がかなり人をわけている時代ですね。そして「離婚はしない」と。たぶん名誉のため、離婚しない家系というのを守りたいためでしょう。ここで笑っているのは侍従の女。かなり支配に口を出せるようになってます。ここでも思うんですが、英国の例のロイヤルファミリーにどうしても似ている感じがするのです。これは監督の意図でしょう。しかしこの恋愛が小説に映画になったのは身分を捨てて、お金を捨ててというところがあるからでしょうか。身分のある家系はそれを守りたい、ないものは平等だと考えるのが自然です。

最後の二人の顔はそれほど魅力的ではなかったのは残念です。

途中この監督の作品のチャイコフスキーを扱った映画タイトルは「恋人たちの曲.・悲愴」でした。あとこの映画の奥様の姉に扮する俳優とかなり年齢違うと思うんですが、この映画の後結婚したそうです。監督自体もハッピーだったんですね。やけに良い映画ですもん。

2/14

 

「ヒポクラテスたち」 大森一樹監督 1980年

はじめからヒポクラテスの説明が入ってくれて助かりました。実はあまり知りませんでした。ソクラテスは知っているのですが、ソフォクレスも知っているんですが似て非なる方です。そして懐かしい「分裂病の少女の手記」を読んでいる学生。これはもしかしてまだもっているかもしれない。文章が実存について本当に語ってますよね。聞いていて懐かしさがこみ上げてきます。もうちょっと表面的なものが「十七歳のカルテ」ですね。

そして舞台は京都の医大。学生としてのモラトリアム期間の映画です。いろいろと悩んでいる姿だけですが、医者になる人間がこれではというシーンが多いですよ。そしてかなりのテーマが産婦人科。避妊がどうのとか、確かに女性に対してかなり憧れの部分が強い年頃ですがなんか寂しいです。最近実体験として良い医者がいないので、特に外科、脳外科には進んでもらいたいです。「近代医学が患者の犠牲の下発展してきた歴史に目をつぶってはいけないと思う」そのとおりです。それに度胸。血を見るのがいやな医学生がいたのですが(知り合い)血を見なくてすむのは耳鼻咽喉科か精神科といってました。どっちになったんでしょうね。

映画に戻って小児科の先生の役って手塚治虫さんのような気がします。私の見た感じですが。映画に出るわけないですよね。リハビリの患者は鈴木清順監督のような気がするし、何か知っている顔がそこいら中にに出てきます。

しかし産婦人科に戻って「女の一生」初潮に始まり閉経に終わる3期間に分けられる。うーーん、怖い言葉です。これじゃプレッシャーですよ。映画でも堕胎したいという若い子がでてくるんですが大きな病院では堕胎はしないのでしょうか。そんなせりふが出てきますが、まったく知りませんでした。

劇中劇は「勝手にしやがれ」みたいですし、時代祭りのバイトなどのシーンもあり、何か旅行している気分もあって良いですね。

そして実習もだんだん、実用的なところに入ってきます。彼らは若いので、そのもやもやしたものを持っているのですよ、それでも人の命のかかわることをしなければならないし、白衣着ているだけで医者と見られるんです。その責任は大きいですよ。どこかでその責任を無意識に感じていると思います。私などは手術のシーンを見て、今なら医者になれると思ったくらいですが、勉強がついていきません。

映画の中で言うことが良い「見ているだけであんなに疲れるんだから手術すると疲れるだろうなあ」と。こういうのが医者になるんですよ。また人間の病気の過半数は治療方法がわかっていないらしい。勉強だけではだめということ。

そして「森永ヒ素ミルク中毒事件」のディスカッションがでてきます。なんともいえない、水俣病と公害とともに企業責任の問われる問題です。

つぎに主人公の医大生の彼女が中絶手術の後遺症みたいになり同級生の親の病院に連れ込みます。そこでは個人病院のつらさを聞かされます。こうやって、矛盾とつらさをどんどん刷り込まれていくのです。そして医者になるのでしょうが、なれない人も出てきますよね。人間の命は貴賎なく重いのです。このことがわかるまで私もかなり時間がかかりました。そしてどんなときでも離れないでそばにいることができることが愛情だと本当に若いときはわかりませんでした。しかし彼女は田舎に戻って入院します。そして二度と京都に戻ってこなかったらしい。別れ際の手紙も、必死に何かを求めているのですが、主人公はそれを言えないのです。「愛している、一緒になろう」でいいんですがねえ。しかし、田舎に引っ込むということは田舎の生活に戻るということ、都会は異常だから都会から離れたらもう戻れない感じがするというのはわかります。私も田舎に引っ込むいのはやめようと思います。

CTスキャンの開発は英国のEMIと出てくるんですがあのレコード会社みたいです。最近もEMICDDVDいまだに買っていますからそこで儲かったお金をこういう風に再投資していたんですね。賢い。

そこで出てくる言葉「ヒポクラテスシンドローム」通称医学生落ち込み症候群。恋愛については「自分にないものを相手に求めて惹かれあうのではないく、自分にないものが相手にもないということで安心しあう関係」だそうです。白衣の下に若葉マークつけたい、これから先何人の死を見ていくのだろうか?参ったな、どれだけ助けられるかがんばりたいでしょう。と思ってみてました。

きっかけができます。それは彼女が中絶手術をした医者が無免許医だったのです。そして多分、産めない体になってしまったのです。そこへ連れて行ったのは主人公でした。そして彼女の実家に電話して「結婚することにした」と勝手に言うのです。これは主人公の感受性が優先していて現実を見ていない、そして主人公が倒れると、周りの学生たちは「医者を呼びましょうか」と反射的にいうのです。この反射的にいうこと自体が医者にはまだ早いということです。すこし狂ったようになるのですが、医者にはなれないと言うことだけでしょう。医者というのは、もっと大胆に患者を診るのです。患者を助けるのは基本的に本人の意思と家族です。そこから一線を引いて患者と接するのです。しかし事務的にではないところが難しいのでしょう。

伊藤蘭ふんする女学生、入学のときの家族との写真への責任を果たさずに、自殺とは甘い。そして主人公はこの監督自身みたいですね。この監督は「風の歌を聞け」とともにこの映画のように青春ものを扱うことができる年齢のときに燃え尽きている感じがします。

同じことは長谷川監督にも言えそうですが、それでもこのように良い作品が作れるのはすごい。若いころにしかできない映画と言うのは本当にあると思います。この作品は名作だと思いますけど。

2/15

 

「恋愛寫眞(れんあいしゃしん)」 堤幸彦監督 2003年

できちゃった結婚しちゃいましたね。広末さん。「二十世紀ノスタルジア」が好きなのでもう少しがんばってもらいたい感じです。しかし基本的には役者には向いていないかもしれません。彼女のほうが(A)写真を教えてもらってたんですが、NYで思いつくままに写真を撮るようになってました。元彼氏(B)のほうはへっこんだ人生を送ってます。最近の日本映画は悩んだ先の楽しい出会いとか、過激なものとかが多くて見ていて楽です。ちょうど「ヒポクラテスたち」の後なので余計に感じます。友人とか仲間、社会、政府とかいうの最近の映画でてこないですよね。これだけで楽。感性の映画というのか、らくだということは良いことですし、センスは数段上です。それは新しいので当然だと思います。

Aとの出会いのきっかけなんか良いですよね。軟派男を殴って逃げて、公園で虹を作るなんて絵に書いたような世界です。しかし「どこでもドア」をCGでやってしまうのはちょっと、遊びすぎかな。

しかし20数年で日本の大学生もこんなに変わったのかと思わせる順番で映画を見ております。顔がすでに幼いです。何でなのかわからないのですが、たぶん育ってきた親の世代の違いがあるのでしょう。

男の子が優しくてかわいくなります。壊れたカメラ直ったなんてうそ、いいねえ。若いふたり、どこまでも幸せそうで。このシーンのアップのときの広末さんの目が充血しているのはなにかあるのでしょうか。とにかく松田さんと良いコンビです。

しかし、才能への嫉妬がふたりの関係の中でBを引きこもりというか意固地にさせていきます。わかる気もしますが、なにか甘いです。多分再三書いてますが「ヒポクラテスたち」が良すぎたせいでしょう。しかしAの別れるときの会話は素直な愛情そのものですよ。なぜに気がつかない、この馬鹿なB.と思います。「同じく空気吸っていたかった」なんて最高の言葉ですよ。いつかこういう別れかたは思い出す時がくるんですよ。実体験あります。

そして3年、同窓会の変わり方は嫌な部分です。所属する企業によって序列が変わっているんです。すでに大学では目立たなかった連中も、変わっている。会社の経費で行っているのに、偉そうにしゃべったりしている中で浮いてしまいBAが1年前に殺されていることを聞かされます。

しかし映画自体はBNYに行ってからおかしくなります。黒人に殴られてあの程度の怪我か?助けてくれた人の家のインテリアは?なにか、ずれた感じが出てきてしまう。

しかしABがオーバーラップしてくるところあたり、Aの意図が働いているとしか思えない。愛情ですね。Bも愛を忘れていない。別れられない何かがあるんですね。最後ハッピーエンドになったら、見ていられないという展開ですよ。まるっきりふたりの愛を見ているだけになってしまう。しかしその予想をはるかに上回る、Aと同棲していた、ダンサー崩れのコンプレックスの固まり女にAは殺され、同じくBも殺されそうになります。この展開は監督は狙っているので、幼い演出とか言わずに評価したいと思います。こんなのあり?という感じです。さらにすごいのは、それでも死なないB.かれはすでに3回死んでもおかしくない思いしてます。すべて軽傷または生活に不自由ない傷で助かってます。これも見てみない振りをしましょう。

そして、心にAを住まわせて、相談しながらNYでカメラマンとしてBが一本立ちしていく様子で終わります。こういうエンディングなら納得。単純な映画ですが、簡単に見ることはできるし、わくわくもするし愛する二人の関係が距離感が良いので良い映画だと思います。心に愛する人がいるということは大きな力となるでしょう。

2/16

 

「大いなる遺産」 アルフォンソ・キュウアソン監督 

この小説は大好きで、高校時代に原典読んでいた記憶があります。この映画はディフォルメされてます。

しかし色の使い方が意味によって分けていてきれいです。そして音楽雰囲気すべてがロマンティックにまとまってます。しかしストーリーが19世紀ロマン小説の面影がないのです。「目ではなく手に人格のすべてが出る」事実です。良いことを教えてもらったんですよ、そして命を助けてあげるんですね、脱獄囚の。これが最後まで影響するなんて、本当にわくわくして読んだ記憶があります。この映画もそのあたりのつぼがはずしておりません。

ダンスを踊りに行くといって絵を描くようになるのは最後まで影響しますよ。ひとつの冒険心、見た目ではない脱獄囚を助ける優しい心が人生を変えるのです。このダンスの音楽が「べサメムーチョ」というのがメキシコ湾岸に舞台を移しているだけにこの映画の雰囲気作りに貢献してます。

しかし子供のときの幼なじみというのはかなり人生の中で大きな役割も果たすのですね。今は近所づきあいも少ないし、マンションが多いし、習い事などで本当の近所づきあいのできる幼友達が少ないような気がします。ですから良い友人のできるような学校に通わせたがるのでしょう。この子供のときの経験が本当にすべて主人公の人生に影響してくるんですね。ここにポイントがほとんどあると思います。素直な気持ち、子供の純粋さ、子供の夢などです。

それが「きっかけ」をくれたんですね。そして若者になった(A)は成り上がって、昔のダンスを踊ったエステラ(B)をものにしようとがんばるんです。そしてNYの街を描きはじめます。なにか昨日の「恋愛写真」と同じようなパターンですね。自分でもおかしいくらい。同じく故郷の存在は大きいですよ。やはり生まれ育って利害関係のない間柄というのは一生忘れられない思い出ができるものです。お互いに語りはしないですが、その思い出は大事に持っているのです。

そしてAは才能を発揮して個展を開けるようになります。ここでミスをします。Bが求婚されていると告白するとAは「おめでとう」と言って、心の中でなぜそんなこと俺に言うのだ、と言ってしまう。これが素直でなくなってきている成り上がりの気持ちのすれなんです。ここで「俺と一緒になれ」で良いんですよ。子供のときは言えたのにね。都会に出てきてしまうと何かいろいろなしがらみが絡まっておかしくなってしまいますね。「ヒポクラテスたち」のあのカップルみたいです。しかし突撃開始。婚約者がいるのにディナーの席に行って踊ってくれないか、と誘い、昔一緒に踊った踊りを踊るのです。それは息はぴったしでしょう。NYの連中は頭でっかちが多いからこういう踊り得意ではないんです。

そして個展に故郷から見に来てくれるんですが都会と勝手が違います。その人に冷たくしても故郷はルーツなんですけどね。そこに戻ることになるところですよ。故郷を切ってBを迎えに行くとそこには上流階級の冷たい仕打ちが待ってます。Aを利用して同じ上流階級同士で結婚させたのです。まあ振られたというか、一人になりましたね。ところがですよ、この小説は。

ディケンズの才能は素晴らしい。振られ傷ついた心をABの母から受け継がせるのです。次に愛の復讐に燃えるのはAになるという構図。それまではBの母が裏切られた婚約者による心のトラウマから愛に対する復習を誓っていたのですが、その復習をBが上流社会の中でかっこたっる地位を築くために利用してAを壊すことで達成したのです。

しかし個展の後、わかっていてもAとあの脱走犯の出会いの場面は良いですね。すごく映画、、というのを感じさせてくれます。すごい良いシーンです。内容がわかっているからかもしれませんが、「大いなる」といわれる「遺産」とはなにか?それが伝わってきます。デ・ニーロの話し方も良いですね。そしてお絵かき帳が出てくるときにはもう感動で体がいっぱいになります。本当にあの助けられたことがうれしかったんですね。そして子供の素質を見抜いていた脱獄犯、すごい執念の素晴らしい影響をAに与えていたのです。女と男の異常な執念に翻弄された奇異な人生をすべて知ることとなったAは本当に人間がわかってくるでしょう。孤独の意味がわかるでしょう。素晴らしい経験をしたのです。その後のことはどうでも良いでしょう。うまくいくに決まってます。なぜなら?こんな素晴らしい遺産をもらっているのですから。故郷で良い出会い。そして永遠の愛。初めからわかっていたことですがと遠回りしただけです。

2/17

 

「四月物語」 岩井俊二監督 1998年

この時期になるとこの映画とか篠原監督の「はつ恋」などをどうしても見るのですがまずはこの映画行きましょう。

本当に桜の始まりですね。あの景色は意外とどこにでもあるのでしょうが、すごく旅立ちを考えさせられます。桜=転機なんですね。嫁いでいく花嫁もうまい具合にクロスするし、新入生も通るし、どんな学生生活が待っているのでしょう。いまでは不景気から引越し風景は珍しくないのですが、どんな人が来たのだろうと見ている夫婦がいるのが何かほほえましいですよ。たしか、拓銀、山一、日債銀、三洋証券まとめてつぶれたのこの年でなかったでしたっけ?あのころはどうなるんのかと思いました。しかし今のほうがもっと危ないと思います。政策的に銀行をつぶしに行かないのが今の政府の考えみたいですけど、まあつぶれてもおかしくない所いくらでもありますよね。さらにあの金融政策、かなり頭にきております。話がそれてしまいますが、そんな時期だったんですね。本当に映画が好きな人はこのはじめのシーンでこんなこと考えないでしょうね。私はいろいろと考えてしまった方です。

そしてあいさつ回りに向う三軒両隣りを回るのですが、これも今はしないんですよね。よく近所で、引っ越してきた人挨拶がないケースが増えてきて、「あの人挨拶あった?」と近所の人たちで言い合うのが多くなってます。そして挨拶しない人がマナー守らなかったりするんですよね。この映画ははじめの段階で、どんどん私の気持ちを揺さぶります。感情もですが常識、都会生活の孤独というものをすでに語ってくれているように思えて仕方ないのです。またキャンパスの様子が昔とまったく変わっていなくて、特に北海道から出てきた主人公の女の子(A)は息が詰まるような馴れ馴れしさと、どこか距離がある、深い孤独を無意識に感じていたのではないでしょうか。自転車のシーンがすごく開放的に映ります。しかし映画館にはじめての日曜日に行くか?とも思うのですが見ている映画は多分、この監督のオリジナルの時代劇。大学一年生の女の子が時代劇というのもねえ。さらにこの時代劇、めちゃくちゃな内容でまるで「角川映画」です。

あとは映画なのか現実のこのような女の子がいるのかわからなくなるくらいに等身大の生活を映し出します。でもカレー作ったとき隣が女性だからといって「一緒に食べませんか」は普通はないですね。さすが旭川と思ったなあ。その旭川から「武蔵野」へ、先輩を介して進学するのですが、思いは強いだけに、この思い裏切るような形になってほしくないな、と思ってしまいます。何か親心みたいなものを感じてしまう。

そして「雨」がきっかけでいろいろと思い切って話ができましたね。きっかけというのは必用ですね。Aの場合はきっかけというより、必然です。あれだけ努力しているんですからね。後はうまくいくと良いですけど、大学は長いしねえ。

あまけに劇中映画がついているのですが、見る気にはなれませんでした。意外と良いところで終わったので、もう少しどうなるか見ていたかったのですが、充分です。こういう終わり方はうまいと思いました.

2/18

 

「バチ当たり修道院の最後」ペドロ・アルモドバル監督 1989年 スペイン

また映画で欧州旅行の感があります。

この監督は最近の作風がまったく変わってきており、昔の作品に興味がありました。

まず断っておかなければならないことは、この作品でさえ私は良いと思います。なぜか、下層の困ってもがんばって生きていく人たちを描いているからではないでしょうか。音楽もはじめからゆっくりのテンポにリズムをベースで強く刻むラテン調ですし、場末の女もたくさん見ているので彼女たちの哀れみ(と周りは思うでしょうが、実はすごく元気)もかなりわかっているのですごくわかりやすい映画です。人生とか愛とか悩む前に食べて寝るということですからわかりにくいことはないのです。

途中、修道女が現れる前に映画の「陽は沈み、陽は昇る」の音楽が入るのですがそんな生活ですよ。これ本当。

とにかくちょっと怪しい修道院に、生活に疲れた水商売の女(A)がやってきます。とりあえず、有名人というきあ歌手みたいですが画面見ていると生活感がにじみ出てます。
この修道院をAとともに立て直す計画を立てているのです。それには遊びが必要なのでしょう。ビルヒニア(公爵の娘)の使っていた部屋に入れられて、ヘロインで落ち着かされます。起きてみると虎とか飼っているのに気づくのですが居心地が良い。なぜなら修道女はお金を寄付してもらうための仮面で生活さえできれば、エロ本は読むし酒、ヘロインとやり放題なんです。まあ魅力的に移りますよね。では寄付をどうするかです。

とにかく歌手が手に入ったことは間違いないのです。そして普通の生活でも歌を急に歌うようなミュージカル仕立ての映画になります。この歌も良いし、けばけばしい雰囲気も慣れているせいか、まったく違和感なく意外と楽しんでみております。こういう映画は楽しくて良いと思うけどなあ。

ミサも何かおかしいこというのです。「ブロンドのイブに始まる原罪」についてはここでも出てきます。この国も厳格なるカトリックの国でスモンね。しかし祭壇には黒いマリア様はいないのです。宗派が違うのか?

まあいろいろとあってマドレがふさぎこんでいるとAが慰めのために歌を歌うことになります。このころはもう静かな生活になじんでいるのですよ。環境が人を変えるとはこのことですね。楽しいショーでしたよ。修道女たちが演奏してサルサっぽい歌を歌いました。それが院長の怒りに触れ、この修道院を手放すことになるのです。しかしショーを伯爵夫人は気に入ってくれました。修道女の中に匿名で小説を書いていたものもいたのですが、その本当のことを打ち明けるとまたまた気に入ってくれるのです。そして院長に対してマドレは「ローマ法王には従います」と突っぱねて、麻薬の運び屋をやります。尼さんなら疑われないだろうと話が来ていたのです。そして行こうとした前の日Aにお礼を言いに行くとAは消えていました。そして、みんながまた悲しい孤独と直面しなくてはならなくなったのです。特にマドレ。ほかの人はマドレが救いの相手となるのですがマドレはAを頼りたかったのです。

「愛したいときには人はいない」ということですね。やっぱり修道院はつまらないのでしょう。しかし麻薬で入ったお金でどんな施設ができるか見てみたかったです。それは伯爵夫人のところで楽しいときが進行していることと思います。修道院の形にこだわった分小説家と歌手はいなくなったのです。

これ面白いですよ。

2/19

「終わりなし」 キェシロフスキ監督 1984年

タイトルのところからブレイスネルのコンサートで聞いたことのある曲からスタート。この監督については知識ばかりが先に入って、実際の映画はここにいたって始めてみるものが多いという逆の付き合い方をしております。

死んだ人間(中年の男、Aとする)の魂がモノローグで現実の世界について語ってます。Aは弁護士で相談の途中に死んでしまったわけで、その引継ぎはなかなか難航します。しかし引継ぎの弁護士(B)が定年させられることなり、最後と引き受けることにします。スト関係の案件で敵が多いみたいですね。

一方、未亡人は呆然としたまま、(愛していたんですね)夫の遺品を整理しているとポルノが出てきます。少し寂しかったみたいです。妻はそのことに気がつき、友人に相談します。まあ後の祭りというやつですが、死も突然やってくるケースは心の準備ができないので、いろいろと後悔しますよね。ポルノは妻のバイトだったんです。顔のところを切ってあります。

そして裁判の日誌には引き継いでもらった相談者の秘密の手紙が入っておりました。彼は「連帯」ではないということ、あくまでストを主張手段として採用しただけとのこと、家族が心配なこと、などが書いてありました。これを友人はBが引き受けるわけない、というのでBはかなり体制寄りの弁護士でしょう。それが引く受ける?何かあるのです。そして同じ資料のところにBの名前の欄に?がついております。本当に何かあるのでしょう。

このあたりから飼い犬はとっくに気がついているのですが、Aの魂がまだ地上にあることをが明示されます。妻が事故を起こしそうになると車が自然に止まる。このあたりから?を魂がつけたと思い、引継ぎの家族のところに行って説明します。「Bはやめろ、と主人が言っているのかもしれない」と。暗号も伝えます「娘を父親に渡すな」、妻は意味がわからないのですが、伝えると、よくわかるといいます。

そして友人などの出会いを通じてAが死んでから初めてAを理解し始めましたし、妻も自分を理解し始めるのです。しかしなぜ、英米人に体を売ったのか?それがわからない。寂しいからではないはず、なぜならばAの友人がいたから、そしてその友人が「好きだ」ということをほのめかしていたから。映画とすると、ショックな展開です。いや、妻はAが自分とあっていないという事に気づいたということでしょう。「かかえていた」という言葉に象徴されます。では誰となら合うのでしょう?難しい問いですよ。しかし、彼のことを忘れられなくて「Aと手の感触が似ていた男」と寝たのです。Aと寝ているつもりになりたかったのでしょう。孤独だといっているのと同義です。かかえていたから、愛を素直に表現できなかったけど、実は本能では忘れられないほど愛していたということでしょう。

Bに夫の釈放を依頼している妻をCとします。CAの妻はなにか親近感を覚えるようになっています。孤独と性みたい。暗示でAの面影を消してくれと頼んでも実際に消えてしまうと戻してくれと頼むのです。しかし戻してくれと頼みに行ってももともと暗示では死者はできないとうそついていたといわれます。ということは自然に消えてきているのです。喪失感はさらに自慰をしながらもAの名前を叫ぶシーンでもわかります。面影が消えてほしくないのです。

この映画はポイント間違えましたがAの妻をZとしなければ話が進みません。Zは子供にAとの性交渉の見られたのですが、そのことについてあれが「愛の形」と教え、子供を抱きながら「こうしてお前を抱くのも愛」と教えるのです。愛の形についていろいろありますね。

そしてBは釈放させようとしているものが、拒んでいるということに疑問を感じてます。すなわち、ストの主張を曲げて釈放されることはいやなのです。Bも彼が無罪だと知っているのです。体制の問題だと知っているのです。だから、釈放するということで成功だと思うのですが答えはノー。人間の生き方考え方もいろいろとあります。

 

最後に対比。生きていれば釈放されれば、また出会える。死んでしまったならもう会えない。会いに行くZ,それで終わり。子供は好きなAのママの元に預けて。良いのかな?

2/20

 

「グロリアの憂鬱」ペドロ・アルモドバル監督 1984年 スペイン

のっけから「剣道」ですか。いやな予感。日本の武道まともに外国映画で描かれたことないもんね。スペインで剣道?柔道でないのかな?剣道は意外とお金がかかるから?まあ道場でうさぎ跳びは日本はやらないですね。外でやるよ。

そして練習の後シャワールームで掃除のお姉さんとセックスしないよなあ。また洋服濡らしてまでもシャワーの下で抱き合う情熱があるのかな。

家庭では宿題教えてよという、中学生くらいの男の子の質問に母が「学校出ていないんだから、父親に聞きなさい」というの良いなあ。そしておばあちゃんに聞くんですが、次の作家ロマン派か写実主義か答えよ、というのひとつしか当たっていない。イプセン、バルザック、ゲーテ、あとだれだったっけな、まあ外国の作家なんて知らない、という感じ。こういうの良いですね。

そして父親はおばあちゃんとご飯の取り合いや交換、そして足りないとお金払ってもらっている、妻はローンで金がないと、良いなあ、こういうの好きです。そしてテレビを見ると冗談のような番組をやっているし、食後に炭酸水で乾杯。これ傍で見ていると笑えますが実際にそうだといらいらするのです。私も店が暇だと本とか読んでますが傍で見ると楽しそうですがお客様がいたほうが実は楽しいです。だからなんかこの映画の家族、わが身見ているみたいで笑い転げてます。この妻は先ほど剣道の道場であれ、やってきた女ですよ、好きものですね。まあ、いらいらしているんでしょう。隣に風俗嬢が住んでいるのですがそのお客が、奥さんが掃除やってくれないか、聞いてくれとなり、まあ仕事を増やします。この出会い大きいですよね、きっと。この妻がグロリアというのですが(以下A)本当に旦那の財布をこっそり見たときお金がまったくないのにで掃除婦になる決心をして「心中よりはまし」というのです。ここまでくると良い人生が待ってますよ。女はここまでならないとだめ。これができない人が多いから独身の女が増えているのです

しかしこの家族面白いのはおばあちゃんとグルで長男が貯金ばかりしているんです。きっと役に立つな。ふたりして両親から取っては銀行の窓口もあきれるくらい小口に貯金しに行きます。次男のほうはかかりつけの歯医者に養子にもらわれます。どうも男の子が好きな趣味があるみたい。このあとこの子が出てくるか楽しみですね。

孫とおばあちゃんは「草原の輝き」を見ながら、田舎で牧場やるのなんてどう?「いいね」と話をしているんです。まあ先が見えてきているんですが、夫婦は毎日の生活でたいへん。これからの人ともう終わった人は良いですね。コンビ組んじゃって、意見が合うみたいです。

しかし旦那がドイツの友人を迎えに会社を休んで、おしゃれして出かけようとしてアイロンかけろといわれてさすがにAは切れました。そして肉の棒でちょうど剣道の面、みたいに殴るのですが転ぶときに打ち所が悪く死んでしまいます。その前にAは安定剤が切れていらいらしていたんですよ。それでも料理始めていたんですが、こういう環境はお互いが我慢すれば成り立つのであって、それを裏切るとだめですよ。一応Aは友人のところに行ってアリバイを作り殺されたことにします。安定剤が切れたのが運のつきでしたね。まさに憂鬱。子供とおばあちゃんは田舎に行くことにしました。Aも誘われたのですが残ります。

近所のお友達が女の子を預かってときます、このお友達はアリバイの重要な証人ですし、その子供が好かれていないのを知っていて養子に行きたい、もらいたいという関係です。そして預かっている間にこの子供に超能力があることがわかります。仕事が速くできるのです。

安定剤が切れた時期と家族がみんないなくなった時期がほぼ同じで、Aは何か拍子抜けした感じで憂鬱状態に入っていくのです。実は今までがハイな状態だったんですよ。あと一歩でべランダから身を投げるときに養子にやった息子が帰ってきます。そうですね、ここに一人いたんですよ。それで孤独にならずに、憂鬱にならずに済んだのです。多分、この息子はあの子と結婚するんでしょう。何か意外とまともな結末でちょっと面白くなくなっちゃった。もっとハチャめちゃになるかと思ったんですがね。

2/21

 

「毛皮のヴィーナス」 イアン・ケルコフが製作に加わっているのですが監督の名前忘れました。1994年

静かな始まりです。過去のことを回想する展開ですね。呆然自失とあの時を思い出している感じです。あの時とは毛皮を着た美人と過ごした時間です。

たしかに内容も悪くないのですが、まずは主役のこの女性に魅力がないのがこの映画の一番の欠点です。確かに見ようによってはかわいいのですが、もう少しノーブルな感じがほしいですね。

内容は別にないのです。単に男がこの女を気に入って、愛するようになるのですがあまりに大事にすることの裏返しでどんなことをされてもうれしくなります(快感という感じではないですねえ)。しかし、多分この監督のこだわりなんでしょうが、毛皮を着たままムチでも打たれるほうが良いと言う男です。この男もなんか擦れた感じで主役としてはちょっと映画の質が落ちる感じです。というより、マゾッホの小説は映像化難しいですね。「クイルズ」という映画がありましたが、あれはジェフリー・ラッシュが台無しにしてました。あの俳優は下世話な役しか似合わないでしょう。このように私が思うだけですが、テーマがかなりアブノーマルなものなら、出演者は無名でもいいからピタ、と決まる役がいいですね。今回は女は、少しやさしい、ヤンキー娘という感じです。男はソビエトあたり出身の昔良かったけど最近疲れた感じになった男です。バレエでいうとルジマートフの現在という感じですよ。別に今のルジマートフが悪いとはいいませんし、昔、「海賊」「ドンキホーテ」などは素晴らしいバレエを披露してくれました。まあ映画に戻りましょう。

「愛ではなく肉体の中毒」らしい。マーラーの交響曲やチャイコフスキーの交響曲からのメロディーがいたるところに抜粋されて流れます。ロマン派なんですね、こういう情熱は。

主人公の男の毛皮に対する執着は12歳のときの叔母によって強姦させられたときに始まるのです。手足を縛られてね。そのとき毛皮を着て美しく見えたというのです。映像は黒人3人の女性に囲まれて乱暴させられるシーンです。

しかしここでの主人公の女のほうは多分、普通の愛を求めているのだと思います。男は愛しているといっても、鞭打ちなどの手段を介しての愛が中心ですが。最後に女は気移りして去って行きます。残された主人公はこの女とのひと時を忘れられずにたたずむだけです。

イメージの世界なので、あとせりふがほとんどないのでイメージの世界を映像で表現しているのです。まあまあこんなものかな。言葉のほうが刺激的かもしれないですね。

m_i08.gif (1119 バイト)昔に書いたこと(2003,11/21より)

 

m_i08.gif (1119 バイト)昔に書いたこと(2003,12/14より)

 

 

 

 

 

 

 

 

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