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「8人の女たち」フランソワ・オゾン監督 2002年 フランス

まず特典の女優たちのインタビューから見ました。内容というよりやはりそこに魅力がありますね。すべて、インタビューの画面でもきれいでした。ちょっとベアールが地味な感じでしたがインタビューでも女優していましたね。皆様。

いや、はじめの蘭やらひまわりやらバラがイメージなのでしょうが、映画に入ったとたん、びっくり。あの人がこんな感じになっている、映画なんだなあ、と感心してしまいます。まあずるい鑑賞方法なのでこういう感動もあるわけです。普段の顔のほうが本人なので良いですね。変わることができるのが女優なんでしょうが。

リュディヴィーヌ・サニエの「パパは流行おくれ」パパが好き、で始まるのが良いですね。ここでこの映画ただものではないと確かに思いました。後ろの二人(母親と姉)も踊りが良いですね。そして殺人。家族しかいないということで家族会議。このときのテーブルに顔が反射するように撮っているのです。きれいですね。ここまでのテンポは陽気な歌から一転して犯罪に、しかしなにかおかしい画面という感じでしょうか。まずは叔母が疑われます(イザベルユペール)。それを追って慰めようと母が立てるようになります(クリスマスの奇跡、ダニエル・ダリュー)。

家政婦(エマニュエル・ベアール)は犬はほえていないので誰も入っていないというのです。そして深夜、ハーブティーを持って行ったことを告白。この家政婦はかなり短期間にこの家に入り込んで内情を詳しい。もう一人の家政婦の裏の商売を知っているんです。するとこの殺人に関して株券の盗難が絡んでいることが判明。一家の危機ですね。ぜんぜん危機に見えないのは使われている色がカラフルだからでしょうか。しかしいつもこういう財産争いを見て思うのですが、誰が多くもらったかで争うのです。みんなで稼ごうという発想をすると良いと思うのですが。あるものを配分しようとするからおかしくなるので、なぜならば配分の線引き、いわゆる基準はあってないようなものだからです。人間は弱いですよ。争いの中で、叔母が(イザベルユペール)が「告白」愛しているのにをピアノを弾きながら歌います。そのときも周りの家族が階段で座りながら楽しそうなんですよ。

被害者の妹(ファニーアルダン、家政婦と仲が良い娼婦、そして兄と近親相姦)が登場します。これで8人。誰かが電話をかけてきたというのが来た理由。歌は「愛のすべて」衣装が赤と黒。情熱ですね。

しかしそのあと、叔母と夫が仲が良いのがばれてしまうのです。そして殺人の時間にみんな部屋から出たり入ったりしているのです。基本的に夫婦が仮面夫婦なんでわかりにくい。

妹が最後に脅しをかけていることもわかりましたが、犯人をみんなで見つけようとしているのですが家族内のことですし、私からすると、みんな(女優たちが出演したいろいろな映画が頭をよぎり懐かしいので、犯人なんてどうでも良くなってます)かわいいから、話の展開はどうでも良いのです。

どうでも良いと思うととてつもない展開になりますね。娘は実は前の日に来ていて父親に妊娠したことを打ち明けていたのです。妊娠して妹は彼はどんな人?と楽しそう。そこでヴイルジニー・ルドワイヤンの歌「モナムール・モナミ」。これもサニエと姉妹でかわいいシーンです。あとで出てくるのですが妊娠した父親は被害者たる父親だったのです。でもこの長女は実の子供ではないので近親相姦ではないのですが。。。近親相姦何回出てきましたっけ。2回目ですよね。未遂が1回。めちゃくちゃな家族です。

家政婦もうそをついているのがわかります。妹を迎えに来たのです。二人はレズです。歌は「ひとりぼっち」愛のかたち。もう一人の家政婦は(ベア−ル)は被害者の愛人でした。もうめちゃくちゃな関係です。多分映画というだけで実際は成り立たない関係ですよ。ちょっとした事件で(家政婦レズ)が脅かされてしまったのです。何か知っているのですが言わなくなってしまった。家政婦愛人の歌「裏か表か」女の魅力、なぜ愛人になったかです。それを聞いたのは叔母様ですがその叔母も女に変身してドレスアップします。イザベルユペールだからできるのかな。

愛人がいることがばれた妻は歌う。「あなたは決して」同じ男を愛した女。カトリーヌドヌーブのショーです。そして真相が明るみに。

最後にダニエルダリューのショーです。「幸せな愛はない」。真相はまあ孤独です。

映画も良い。出演者も良い。雰囲気も良い。こういう映画は楽しいです。

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「人間の條件」小林正樹監督 1959年

第一部 純愛篇

なんというか昔、学生のころめちゃくちゃ感動しました。安くなってしまいましたね。

まず役者からして良いです。

そしてはじめのせりふからして良いです。「好きな人と一緒になれないのなら幸せではない」最高。素晴らしいスタート。才能が違います。最高です。

「もしもあなたに召集令状がきたならば、私あなたの子供を生みたいと思っていたの」こういうせりふを素直に言える時代、映画は良いです。

炭鉱会社に在籍して民間人(A,仲代)として彼女(B,新珠)と生活を始めます。そこで特殊坑人として軍の捕虜を引き受けます。だんだん日本全体が軍と民間の垣根がなくなってくるのです。捕虜は抗戦地域の住民です。まるっきりシンドラーのリストです。陳という若者のせりふが良い。「私のお袋は私を日本に反抗しないように育てました」「抗戦地域だとお前は官官として半殺しにされるな」と。

捕虜たちを面倒見て元気にさせると、日本人の悪口を言うようになります。もともと抗戦地域にいた人たちなので当然です。なにが善意かわからなくなってきます。

また女を檻に入れると能率が上がる「人間とはどんな動物だ」という問いに答えることができません。結局娼婦館に行って頼むと、「いやなら断っても良いんだ」と言っても「仕方ない、仕事なんだから」と軽く受けるのに驚きもあるのです。Aは28歳。労務担当でこの娼婦たちも担当です。一人反対する娼婦がいます。この娼婦役有馬稲子さんなんで(Zとしておきます)

「大きな目的(戦争)達成には小さな過失(殺人)くらい見逃せ」そういう風潮にAは耐えられないのです。これは見ているのは簡単ですし、今の世の中で考えるのも簡単です。当時戦争中にこういうAのような態度を取れるかということです。しかし中国人もAが正義感が強いと知ると「なぜ裁判をしないのか」などと言ってきますし、「やはりお前も同じ日本人ではないか」と言われます。権力のない正義というのも難しいです。答えはわかりません。そんな中国人も大半は娼婦が来ると和みます。

ここで初めて知るのですが、この時点でイタリアが降伏しております。もう戦争末期だったんですね。昔といっても20年位前に1度しか見ていないので、原作も読んでいないし、勘違いしておりました。これから戦争が始まるものと思っておりました。

故郷とは。陳があることを言われます。それは「お前は中国人の精を受けて中国人の女から生まれたんだよ」日本人と一緒にいる陳を皮肉っている言葉です。これ、考えるのですが、やはり自分の属する国というのはあるべきではないかと思います。Aはその上の理想でものを考えているのですが、それは万人に通用するでしょうか?さらに上の階層に宗教がある国も多いのです。宗教は多分何千年もかけての考えた集大成でしょうから、この2000年くらいでは崩れないでしょう。2000年といってもイエスキリストを基準に話しているだけです。揺らぎが1000年単位では起こってますね。プロテスタントの存在が証明の基礎になると思います。

さて映画に。陳は先ほどの言葉で気持ちが揺らいでます。自分は中国人なんだ、と思おうとしているのです。それは中国人の犯罪や脱獄に手を貸すたびに中国人がどんどん仲間だと思ってくれることで、中国人のアイデンティティーを確立しようとしているだけなのです。そして脱獄の手助けをします。

娼婦のケースもそうですが、女の存在というものが男に与える影響、女とは、いろいろな問題提起がなされますね。Bのせりふで「四角張ってばかりいられないときが女にはあるは」という言葉もそうです。Aが硬すぎる。

「暴力に意味があるのは抑圧された人間が支配を覆すときだけだ」この言葉は普通はいえません。素晴らしい。「もっと話し合うのだ」とまで言います。逆は期待しないで言うのでしょうね。犬死しなければ良いのですが。

そして陳がもう一度裏切るかどうか、陳を中国人と話し合いで解決しようとした人の気持ちを無駄にするのか、というところで第一部は終わります。

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「人間の條件」小林正樹監督 1959年

第二部 激怒篇

ここでも冒頭のBの休暇での楽しそうな姿、素晴らしい表現力です。こんなに楽しそうな気持ちを体いっぱいに表現している演技はそうはないと思います。

逃亡してしまいました。陳は裏切ったのでしょうか。Aは戻るときにBに「たったこれだけのことで、なぜそんなに怒るのか」と言ってしまいます。やばい、と思いましたがBの反応も同じです。

そして今回の脱獄でAの友人も離れます。「根本的な矛盾の上に立って(戦争なのに)」正論はないだろう、ということですね。この友人の言うには「生まれつき粗暴なんだ」といういい訳を頭にきてやけになったときに言うのです。ここに主題があります。人間性(ヒューマニズム)は後天的に学習するものなのか?ア・プリオリに人間に備わっているものなのか?そして後天的としても生まれつき動物的なくらいに粗暴なものなのか?という大きな主題が隠されているのです

戦争ということでは、迫害されるほうにはそれをエネルギーとして燃える恋愛もあります。娼婦Zと中の囚人との一目ぼれの恋。このふたりがどういう形で関係してくるのか見ものです。侵攻している側には意外と燃える愛はないのです。攻める苦しみがどこかにあるのでしょう。苦しいから燃える力が出るのです。

ここではっきりするのですがこの会社は南満州鉄鋼会社でした。表彰式の夜の宴会は日本の宴会で楽しそうですよ。今の宴会とちょっと違う。ここでは「ソーラン節」でした。

そしてAは陳に食糧の配給券をあげるのです。部下はこうしなければついてこないですよ。この裏で陳も参加している脱走計画が進行しております。しかしこの脱走計画も実は会社側の罠なんです。陳は引っかかったことに気づきますが、そこで女に打ち明けると、(この女が実は曲者なんです)、Zに彼が逃げるよと嘘を教えます。そうするとZは夢中で真っ暗な中彼を探しに出かけます。結局偵察に行かせたのです。誰もいないと戻ってきて言いますと。日本人を殺して電流をとめなければならない、などと吹聴します。実はこの時点で陳は本当の状況を誰にも言っていなかったのです。電流はとめていないけど、中国人の逃亡は予定通り周りも疑わないような状況を作ってはあるのです。そして日本人も逃亡したなら殺す準備はしていたのですが、電流で死んでしまいそれを見ていた陳は自殺します。この件についてAの論理すごい。「自分が日本人であるということは俺の罪ではない、しかも俺の一番罪が深いのは俺が日本人だということなんだ」どうしようもないことなんですよ。このあとも日本人がけしかけるシーンは出てくるのですが、そこで抵抗をすると逃亡とみなす、ということになっていきます。まあ狙っていたのでしょうが憲兵が来ている時に逃亡に見せかけます。すると憲兵は、軍の指揮命令系統にしたがって「軍が逃亡と認めたならA貴様がなんと言おうと逃亡なんだ、処刑、その方法は一任」という指示が出ます。この辺の日本軍の態度は多分事実でしょう。それがこの時代の映画であることの貴重性を物語っております。なんと言っても戦争からこの映画までの期間はバブルの始まりから今くらいの期間的同一性があるのです。バブルの初めのころなんて覚えてますもんね。

そして処刑の立会人をAは任命されます。まあ嫌がらせですね。この処刑者にZの彼氏が含まれているんですよ。

そして中国人の獄中の指導者にAは「小さな過失や誤謬は許されても、決定的な時の過失はあなた自身の立場、考え方に矛盾してあなたを暴力の仲間とするでしょう」というようなことを言われます。「ヒューマニズムで生きるか殺人者に加担するか今まさに判断のときです、ほかの日本人も反対だという人がいるでしょう、その人たちを集めて運動して自分の信念を守ってください」といわれます。Aもそのとおりだと思ってます。しかし言っている中国人も今まで何回となく裏切ってきたんですからね。Aは自分を責めすぎています。

そして処刑の場でもZの彼氏が殺されたあと我慢できなくなってAは「やめてくれ」と言ってしまいます。Bはそんなこと言わないで、とお願いしていたのですが。

そして今にも憲兵に切られそうになると中国人の指導者を中心に反暴力もシュプレヒコールが上がります。そして処刑は中止になります。中国人とAの気持ちが通じた瞬間でした。

しかし憲兵にAは連れて行かれて、中国人(八路軍)と通じていたと自白するように拷問されます。まあ軍だから、民間人があんな風にしゃしゃり出て八路人たちの暴動を引き起こしたので軍のプライドからもそうせざるをえないでしょう。

あの時、中国の指導者(王といいます)も扇動したのですが彼もひどい目にあっていると聞かされてます。まあAは日本人なのでしばらくしたら釈放されます。工場に戻ってみると「召集令状」が届いてます。軍が仕組んだ嫌がらせですよ。とうとう、戦地に行くことになっちゃいましたね。王は実は仲間30人と逃亡したのでした。それを聞いたAは気持ちよく笑います。Aがいたときは逃亡しなかったし、Aが処刑場で殺すなといったときは扇動して憲兵に歩み寄った男です。その彼がAがひどい目にあっている、Aがいないという状況なら逃げる、暴力から逃げるということです。すぐにその気持ちAに対する気持ちがわかったのです。

そして今度はB.久しぶりに会うシーン、すごく動きがあり、その動きが愛情の深さを素直に表現していて見ていてすがすがしいです。そして戦地へ向かうのです。

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「丹波哲郎の大霊界、死んだらどうなる」  石田照監督 1989年

まさか自分がこの映画観るとは思いませんでした。周りでも見た人は聞いたことないですし、うわさになっていたのは知っていましたし、馬鹿にしておりました。そしてそのとおりなんでしょう。しかし結果を見るとこの年の興行成績の邦画ベスト10に入っているんですよ。とりあえず、役者は特別出演でかなりの人が出てますし、余興ということで観ます。これBOX買っているんですよ、やはり買う人なんかいないと見えて投売りしてました。

すごく気が楽に見ることができそうです。

はじめから宇宙の概念と霊界をごっちゃにしている。地球の自転によって霊的エネルギーを放出といわれてもねえ。楽しみますよ。とにかくバブルのときの画像と思ってみております。しかし画面はもう昔の感じが出ているんですよ。バブル絶頂のときですよね、記憶にはすぐ思い出せるのに、映像とか景色は昔の感じがあります。最近、お客様も年金のこととかの老後の心配事の話題が多いのですが、そんなこと考えてもいなかったときですし、少なくても90年ごろまではまたすぐに良くなると思っていた部分ありますよね。

説明はすごい「生きとし生けるものでいずれ死ぬと知っているのは人間だけ、そして視に対する恐怖を感じているのも人間だけ、なぜか?死んだ後を知らないから」やはり楽しい映画です。こういう突き抜けた人は楽しいですよ。中途半端に悩んでいる人の映画はつまらないし、観ていてつらいところがあります。そして私自身が魂と肉体の分離は当然あると思うので、なにか見ていて説得力はないのですが、わかる感じはします。しかし人間の条件の途中にこの映画観ている自分がおかしい。バスの転落事故で死んだ人たちを例に挙げてますが、これ経験あるんです。がけから車で落ちたことあるんです。下に雪があって助かったのですが、これは本当に長い時間のように思えましたよ。あとこの映画、魂が人間のかたちをしているのは愛嬌というものでしょう。あとは製作する国によって共通の言語が母国語になるんでしょう。映画として成り立たせるためです。お客さんは生きている人間ですから。本当かな。

自己保存欲、食欲、性欲のうち前者の2つはなくなるかほとんどなくなるため、無法地帯になるということらしい。まあ反発しないでおきましょう。突然、山が割れてその谷間を通ると海がありそこで禊をして三途の川に着きます。ここから霊界。ちょっと「コンタクト」の宇宙とのつながりみたいですよ。ここからがいけません。趣味思考が集まるコミューンができているというのですが、映像的には音楽もちょっと無理があるかな。ロケは多分五箇山。「一段上に行くためには人間界の修行が大切なんです」このせりふうけてしまった。まさに「人間の条件」のAの状況です。「地球は魂の流刑地」というのもほかに魂の行くところがないということですね。すごい。「死は束縛から自由への瞬間」という説得性。

言葉ではなくイメージの世界でしたが、わかりやすい。この映画今は、このあとに出てくる新興宗教の犯罪などであまりテレビでは放映され難いでしょうし、レンタルもされにくい感じはします。しかしそれなりに楽しめた私はおかしいのでしょうか。わかりやすいし、説得力はある。特典のインタビューも面白い。と思いました。ネットで検索してもこの映画の評価悪いんですよね。

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「人間の條件」小林正樹監督 1959年

第三部 望郷篇

ここでもAは同じ日本人からにらまれます。できるやつ、なんですね。そして美人の妻、優秀な頭、能力そしてそれをいたぶることができる軍隊という序列社会、当然、優秀でないか少しねたんでいるやつは権力を使っていじめます。

「もう一度どこか誰も知っている人のいないところで一からやり直したい」と友人になった古参の兵隊はAに言います。誰もが一度は思うことでしょう。宴会はおかま役がいるんですね。男ばかりですもんね。ここで第一部と第二部の抗人は工人の間違えでした。

言葉に慣れていないので簡単に間違えます。「けいほう」というのがあるんですが漢字が浮かびません。陸軍の法律みたいです。しかし上下関係ははすごく非能率ですね。実は上等兵と軍曹の違い、1年兵との違いなどまったくわかりません。これは経験してみないことにはわからないでしょう。そしてあんな非能率な戦況の拡大、負けるのに決まってますね。誰も気づかなかったわけではないと思います。この映画と同じように、口に出すことさえできなかったのでしょう。

このような中、Bがの兵舎に訪ねてきます。そして信じられないことに次の日の朝5時まで一緒にいることを許されます。ここでの会話で思い出しましたが、純愛篇の冒頭ですがふたりは熱烈な純愛で結ばれたのです。愛はつよしですね。引き合うものが本当にあるみたいです。素晴らしい夜なのですがBは直感でAが戦地に行くような気がします。あたりますね、こういう勘は。

いじめも見ていくし、それを助けると自分がおかしくなる、という世界です。「ちょいと兄さん、寄って行って」と無理やり言わせておかまにさせて、そのあと体罰。精神と肉体両面からやられるのです。このいじめられた兵隊は普段はうまく立ち回れないのですが、うまくいい訳して逃げて自殺します。そのとき銃の使い方うまかった。この家族は母親と嫁が不仲でいちいちその不満を嫁が手紙で書いてくるのです。それを検閲されておりました。

「銃後が健全でないからだ、健全な家庭からしか健全な兵隊は出ない」すごい論理です。今ではまったく通らない論理でしょう。上司とすごい議論を展開します。「自殺に追い込んだ上等兵の暴力の糾弾」と「軍の秩序」の戦い。どちらも説得力があります。しかしAは個別に自殺した人間を追い込んだ男を糾弾しようとしますが、その暴力に訴えようとする時の目でいじめたやつは恐怖を感じます。真剣に生きているということは相手にもわかるんですね。冗談でいじめたやつを震え上がらせます。そうした中、友人となった男が脱走をしないまでも地元民の罪の捏造を見逃したとして逆に罪をきせられます。この辺のことはいくらかいてもわからないでしょう。

実際ぼやに乗じて逃げます、それをふたりが追うのですがAはもう一人の邪魔をしてこの男を逃がします。もう一人の男は都合が良いのですが、あの自殺に追い込んだいじめをした男です。そして泥の中で助けてやるから自分が殺したと告白しろというのですが、そこまで人間の告白に意味があるのかわからないです。実際この男告白以前に体力がなく死んでしまいます。このときのこのいじめた男の死は誰の責任でしょう?いじめたことと、そのいじめを認めさせるために救助を遅らせたことと違いはないのでしょうか?Aも昏睡状態に陥りますが目を覚ましたときに目の前にいる看護婦の美人なこと、なんと言う女優でしょうね。すごく印象深いかわいい子です。

「人間の隣には人間がいる」丹下一等兵が原隊復帰の時の会話の一部です。丹下一等兵とはかなり腰の据わったAのような男です。

そしてこのかわいいと思った子はAもお気に召していて女もAのことが気になります。それを怖い婦長が察しして今度も糾弾されます。そして前線行き。看護婦も違う前線に。別れ際に「会いたい人には会えるんだと、目くら滅法に信じる」と言って別れていきます。そして次へ。看護婦の女優の名前は岩崎加根子(俳優座の人みたいです)。

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「カオス」 中田秀夫監督 2000年

この辺の映画はアメリカなどを調べてみると意外なことに商品化されているんですよね。怖いくらいに日野日出志とかもパッケージになっています。リメイクが流行っているからでしょうか。萩原くんは「CURE」以来です。

冒頭のレストラン、なんですかあのオープンな雰囲気に変にトラディショナル、そして壁にはカシニョール、もうおかしい。(外観が写った瞬間、あそこだ、と見当ついてしまいました)すごい違和感が襲います。女に肉を切らせる男も凄い。(手に怪我をしているんですけどね)女はAとしておきます。すぐに誘拐されます。萩原君(B)とします。また犯人役。ポイントはAが誘拐される前、鏡を意味ありげに見ていたこと。

そして夫に脅迫したと見せて、バックアップ体制の方の妹を脅します。警察はここはノーケアでした。しかし「今、家にある金すべてもってこい」といわれて「はいそうですか」といえる身分になりたいです。というより誘拐とか強盗には縁がなさそうな自分が少し寂しい感じもします。お金ないところにはこういう事件おきませんもんね。というよりこれはAの狂言なんですがABに手付金も払って誘拐を演じてもらうのです。何かお金が飛び交ってます。出てくる人がみんな若いので何でこんなにもっているんだろうと、不思議でなりません。この映画観ている人でこんなこと悩んでいる人はいないでしょう。若い人はすんなり見ていると思います。Bの女優は中谷美紀というのでしょうか、ずっと見ていてどこにでもいる普通の女の子だけに気味が悪い感じがします。本当に、ファンの方には失礼ですが、平凡な女の子でこの映画がどこででも起きるという感じを醸し出します。友人の部屋に隠れるのですが「ここにいたという存在証明を残さないこと」とBに言われますが、友人に頼まれた金魚にえさをあげていれば、すなわち、金魚が生きていればBの存在は友人にはばれますよね。これも禁止されます。そして手首を縛る練習。解放されたときに縛り傷がなければ疑われますよね。この練習をしているうちにAはだんだん恍惚的になっていきます。Bはここぞとばかりに犯します。なにかこのシーン、お互いに心の底で合意しているような変な関係ですよ。しかし戻ってみるとAは殺されてます。手足縛って殺されているんじゃ、いくらBが依頼受けたといっても信用されないでしょう。そこに電話、Bも動揺しているのでしょう、電話に出てしまいます。相手は殺したらしき人、なんとなく夫が関与してそうなんですがね。もうBは言われたままに死体の処理をさせられます。しかし子供を送る途中に街でAを見かけます。死体の確認はしたなら、違う人のはず。死体の確認が中途半端ならありえます。しかし狂言誘拐として警察は捜しているはずなので自由に街を歩くことはできないはずですが。当然、Bは掘り返しに行って死体の確認をします。腐乱してきてますけどね。何回も私なら行かない。どんな辺鄙なところでも電気は目立ちます。車も目立ちます。Bはそれを犯しているのです。

まあ、結局は「恋のもつれ」なんですが、後は詳しく書いても仕方ないでしょう。

まあBがだまされたことに気がつき、警察ぬきで金銭の要求をします。そこで夫とBの間に立つA(愛人)がどちらに転ぶかですね。BAに指示する関係です。夫はAが立てた計画を忠実に守るタイプです。Aの愛情は本当にあるのか?そこがポイントですよ。

最後にゲームの終わり方のABの考え方の違いが鮮明になります。

ぜんぜん怖くない映画なんですね。カオス、考えてみれば怖いわけないですよね。しかしもっと混沌としたテーマでも良かったと思います。出てくる人間がほとんど私利私欲の行動なんですよ。ひとり愛のためというのがいますが「人間の条件」の途中に見るには「お前ら、しょうがないなあ」と思ってしまいます。中谷さん有名な女優みたいですね。知りませんでした。

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「必殺仕掛人」渡邊祐介監督 1973年

はじめてみます。必殺シリーズは好きなのですが、この監督の名前も知りませんでした。凄い恥ずかしいことのような気がします。

梅安さん(A、田宮二郎、役者の名前を書くときは印象に残った場合の時のみです、大体がその俳優でなければだめというのが少ないから記号で済ませるのです。私くらい役者より脚本、監督をかっている人間も少ないでしょう)。が標的が女ということで担当。始まり方が良いですね。この音楽は普遍みたいです。かっこいいですね。

「仕掛人が自分の仕掛を普請するのは墓石の下だけですよ」というせりふ、「大霊界」のあと見るとおかしくなりますよね。しかしセットでの撮影とわかっていながらぐいぐい見せる力のある映画です。そして今回は左内とともにふたりとも「仕掛人」は続けたくはないと思っているところがあるのです。町方同心に佐内が口利き料30両でのるかどうか迷います。凄いですよ、お金あれば、町方同心になれるんですかね?この時代に行ってなってみたいですよ、一度は。そういえばこの映画で知ったんですが梅安さんは藤枝の出身なんですね。また藤枝に行く時期です。あそこは楽しいですよ。帰りに鞠子で自然薯食べて帰ってくるんです。その小さいときに生き別れた妹がいるという話です。

ここでまったく話が変わりますが、ある仕掛を頼んだといって弟分と長男だけに言って死んでいく主人がいます。その弟分は音羽屋に確認に行く際に弟分が思うもっと悪いやつまで仕掛けてほしいというのです。これは今の映画ではなかなかないシーンです。あの人のため、恩のために自分の目で見た悪いやつを故人のために恩義とは言え、身銭切って仕掛を依頼するということはもうなくなりました。とりあえず不景気の性になってますが、何か違う、自分だけを慮る精神が日本人の中に急速に広がっているように思うのです。なんてことはこの映画でもないのです。笑い。この弟分も裏切るのです。江戸から変わらない体質なんですね。あとで裏切るシーンを見たときなんだ現代と同じジャン、と思いました。ともあれ、これの仕掛の対象は実は梅安の友人を殺したやつなんですね。この辺はうまく完結するように話ができてます。それ以上に考えていなかったことが設定されてます。この仕掛の相手とつるんでいる女、すなわち仕掛を頼んで死んでいった主人の奥さんが梅安のあの妹なんです。そして相当な悪。その相方を今まさに狙っているのが梅安という構図。良いですねえ。あとこの映画が何で良いのか気がつきました。ギターの音色で現代的な雰囲気が出てますが、基本は三味線などが流れる歌舞伎みたいな映画なのです。せりふまわしも梅安は意外と歌舞伎調ですよ。歌舞伎では中村勘九郎さんがうまいんですよ。

そして実の妹も悪いやつですのでついでに殺してくれと依頼が入ります。そして梅安が。

しかし運悪くつかまります。「殺せ」と開き直るのですが依頼者は誰か?聞きたくて殺さない。今よりも仕掛人は強くないですね。こんなストーリー初めてです。妹が「銭持たないで女郎屋にあがったものは簀巻きにして川に投げ込むのが掟」と言ってそうします。こうされると助け甲斐があります。常にひとり梅安についているんですから。結局妹が命助けたようなもんです。

そして妹を殺すのですが、殺したときなにか妹のような気がするのです。

まあ殺し屋には平穏無事な人生なんてないんでしょう。最後にまた仕掛の依頼が入ってきます。忙しい、物騒な江戸時代です。まるで現代ですよ。しかし三味線の音とギターの音色が印象的な映画でした

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「サルート・オブ・ザ・ジャガー」デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ監督 1989年

この映画は凄くいいです。なんというか魂に響く映画ですね。一部の人間には支持されているのですが、有名ではない作品です。

何が良いのかというと、最後のせりふが最高にいいのです。ジョアン・チェン(A)もすごくいいですよ。なんと言っても使い古されたルトガー・ハウアー(B)も最高にかっこいいです。闘士たちの話なんですが、いつの時代でも結局はいいのです。近未来というだけで、別にローマ帝国でも同じような話はあったと思います。

この闘士たちは賭け勝負をして賞金で渡り歩くのです。その一座が東洋系のAがどうも気になるのです。ここはなぜだか判らないのですが、このゲームは魅力的なゲームなので、好きだからでいいと思います。

そしてBの率いる一座はどう見ても弱い。女もいるし、けが人もいるようなどさ回りの一座です。しかしBは強い。昔の国の代表選手です。今はどさ回り。敵にAが加わります。Aはアジアの代表みたいな役でアジアの強さ、存在感を示しているのです。まあこの時代2200年くらいだったか、このころに国境も何もないと思いますが、人種的な問題はあると思います。Aの強さと闘争心は凄いのですがBにやられてしまいます。そして負け。これが彼女最後の負けです。この映画でジョアン・チェン好きになりましたが、この映画以上の映画はないし、のちにレズビアンと知ったときはちょっとショックが大きかった。映画監督もやってますよね。まあアジアの役者のはしり、みたいな存在でしたから。

強さの階級はあるのです。権力の階級も存在して、この両者は密接な関係です。Bは昔、この密接な関係を壊したから除名されたのです。しかし強さは本物。たぶん俳優は各大陸の象徴なんでしょうがいろいろな人種で一座は構成されております。Aが仲間に入りたくてついて回りますがフォワード役のやつは大怪我はしてますがBは仲間だとまったくAを相手にしません。仲間は見捨てない、これが戦いの基本です。しかし立てなくなったとき、その仲間から外れることになります。そしてAを仕方なく指名。この一座は弱そうですが、実は仲間意識が強く、信頼しあってます。そして何よりBがセレクションしたメンバーなので基本的には強いはず。Aの初戦は先制パンチを食らいますが相手のフォーワードを捕まえて耳を食いちぎり、立てなくしてそのままひとり戦力を減らします。このフォワードだけは手も使えるし、何でもできるのです。というより、手しか使えないのですがその分密着した攻防があります。今思うと「ハンニバル」(これ結構好きです)よりもずっと前に(多分「羊たちの沈黙」よりも前ですよね、この映画)こういうシーンあったんですね。

途中のどさ回りの試合でBは片目を失います。これは致命傷。しかしAは選抜チームと戦いたいという願望をBに打ち明けます。Bは却下するのですがいつしか自分も戦ってみたいと思うようになります。

そして階級と力の象徴のレッドシティに。そこは砂漠の下深く、核などのシェルターだったんでしょう。

挑戦資格があるかどうか、審査されるのですが、今までの戦歴は充分、しかしBが元代表だとばれてしまいます。そして拒否されるどころか、徹底的に抹殺せよ、と指令が代表チームに伝わります。本当に権力の階級のほうは嫌なやつらばかりです。しかし観客は興味がない試合になります。結果がわかっていると思っていたのです。Bたちの負け。大方の予想を覆し粘ります。チームの信頼がBの復讐というところでまとまったのです。Bがつかまりますが(ここで必要以上に痛めるために捕まえさせた)ほかの4人がぎりぎりのところで殺されそうになっても相手を逃さないので、Bのところに殺しに行くメンバーができないのです。そのうちに試合は長引き、観衆も集まってくるし、捨て身の挑戦者に対して惜しみない応援が続きます。最高にかっこいいシーンです。しかしBのところに向うのエースを行かせないようにBの仲間の女は捨て身で怪我などかえりみずに体を張って止めましたが怪我でそうしようもなくなってしまいます。そこでマネージャー役の年寄りが代わって出場するのです。それでなくても弱いチームのメンバーに年寄りが?しかし成り上がる魂と一旗あげようという魂、勝負にかける魂が奇跡を生みます。相手は怪我したら交代してべストの状態で戦うのですから判官びいきに観客がなってもなんらおかしくないですよね。もう興奮のるつぼと化します。Bを凄い。押さえつけてBを殺しに来させようとした抑えた男の兵隊をこの老人の仲間の兵士に逆に抑えてくれと頼みます。完全仕返しですよ。「目には目を」戦いが始まります。老人がひとり抑えていれば、4人対4人ですから老人だなんて関係ないんです。そしてBは相手のエースめがけて戦いに行きます。そして打ちのめす。そうなると3人対4人。3人が相手3人を抑えていればフォワードは一人残ります。ゆっくりとゴールできるわけです。

そしてまだ若い3人が代表にスカウトされます。Bはいずれ死ぬだろうと相手にされません。あの傷ついた女と老人とまた新しいどさ回りのチームを作ります。

3/1

 

「八月の狂詩曲」黒澤明監督 1991年

今回改めて感じたのは、黒澤監督の映画というのは、面白いつまらない、という問題よりも、まじめな真摯な態度が画面いっぱいに広がっている映画だということです。ちょっとの揺らぎもなく、遊びというか、変な下心のあるような映画ではないということです。

舞台は長崎、良い町です。旅をした気分で見てました。

浦上天主堂、懐かしい思い出があります。この辺の町並みもちょっと狭い路地が多いのですが歩くと楽しいですよね。子供たちに原爆のあとを学習させるように歩かせるというのもまじめな態度が出ております。子役に「おばあちゃん、アメリカに行かないよ。原爆落としておじいちゃん殺された国に行かない」というようなせりふがあるんですね。逆に見ているこちらがどきっ、とする言葉です。

「雷が落ちて心中した二本の杉の木」の話を聞かせれても子供たちは都会っ子、ましてや生活スタイルは欧米様式、夜の怖さ、自然の恐怖は知りません。基本はこの自然の恐怖にあると思うのです。そして人間のいろいろな意識の衝突や出会いをさまざまな人でいろいろな角度から描写することで夏の彼岸前後の出来事をまとめて見た感じの映画なんですね。それも原爆でアメリカと縁ができた(良いことも悪いこともありますが)老人の女性の一生の思い出がつづられる感じで関係ないようでひとりの日本人の戦後の生き方、さらに戦後を問わず日本人の女性の感じ方をうまく子供たちを使って描いております。

子供たちはアメリカに行っても原爆のことなど言わなかったんですが、孫たちは数日おばあちゃんと一緒に生活して少しずつ田舎ののどかな自然と密着した暮らしがわかってきたのです。すると外国と交流なんかないところでアメリカに対する印象は意外と原爆だけなのにいつの間にか意識に刷り込まれるようになっているのです。孫たちの「今日の晩御飯ご馳走だったのに楽しくなかったね」「大人の話が面白くなかったのさ」という孫たちの会話は、最高のシーンですよ。そして親たちの会話のシーンがあるのですが、黒澤監督には珍しい、冗談のシーンですね。私は始めてみるような気がします。

そして子供たちが良い気になっているときにおばあちゃんも孫も原爆を忘れないというのです。この映画の最大のテーマだと思う世代間の良識の伝達です。さらに人種間の伝達もうまくいくでしょう。それは生き方を人は見ているのです。おばあちゃんにはしっかりとした生き方がありました。いや、本当に良い映画ですよ。黒澤監督は「乱」以降一切見ておりませんでした。これも付録の感じで一番つまんなそうなので(ほかのタイトル「白痴」「醜聞」なので、どちらも女優がいいから内容もさることながら楽しみでした)先に見たのですが、良い映画ですね。小泉監督が「阿弥陀堂だより」作るのわかる気持ちがします。

多分原作がいいのでしょうが、アメリカ人と孫たちが原爆の落ちた学校で会うシーンは最高ですね。こんな展開考えても見なかった。

「あの世であって一緒になりましょう」まるで「大霊界」の展開です。おばあちゃんと縁側のシーンとかわざとらしいとは思うのですが、ほのぼのしております。滝のシーンも良いし、そこで父の訃報を聞くという展開。そして帰ってきたら夕日さす居間でおばあちゃんが兄貴にわびている様子。年月を経ての再会ができなかった無念さ。すべて良いですよ。思いが入っているので無念さが増すのです。

「幽体分離」するシーンを象徴的に描いてますがこの辺は監督うまい。孫たちが間に合うかどうか、とはらはらしながらシューベルトが流れます。なぜシューベルトか、わからないのですが、それは薔薇がおばあちゃんだからでしょう。「野中のバラ」これはおばあちゃん。これで8月9日の日に孫が見たようにおばあちゃんはあの世でおじいちゃんに出会えるでしょう。

 

うん、この映画は孫が一番早く人間の本質をわかったというのが本当にいい。

3/2

 

「コンセント」 中原俊監督 2001年

田口ランディさんの処女小説です。お亡くなりになった今となってはなにか感慨深いものがあります。まだ若いんですが。

とにかく映画のほうへ。

兄の死に方が普通ではない。葬儀屋もお盆に毎年お迎えするのに顔はいい顔で思い出してあげてください、といって見せません。便利屋が来て死体の腐乱した匂いの染み込んでいる部屋の清掃をしますが、大家が「このにおい消えるんでしょうね」と聞くと「消えます」「家族想いの死に方をした」というのです。前者は魂が永遠と反対の言葉で肉体は消え匂いも消えるということ。後者は死に方にメッセージがあったということ。

主人公の女はこの兄(B)の妹(A)でBの死に方により「匂い」に敏感になります。事実、病気の人の匂いは私もわかります。自分がおかしいときもわかります。そして大学時代の恩師にカウンセリングを依頼に行きます。多分心理学科だったんでしょう。このときの

ABのことを話す態度は毅然として論理的でかなり観察していたんだという事を充分に判らせるものです。そして恩師(C)に「肉親のカウンセリングはできない」ということで慰められます。ここポイント高いんです。ABをカウンセリングしたかったんです。また別の表現をすれば、映画のジャケットポスターと違って市川さん魅力的です。

このCとの間に学生時代、変な関係(不倫だと思う、Cが独身なら不倫ではないんですが、師弟の間の変なセックスパートナー)があったんです。それには「オチ」がついていてCAをいたぶっているようで実はインポなんですね。自分自身が精神的欠陥があるのです。しかしそれを乗り越えてAは相談に来たということ、私なら、関係修復と思いますがCは契約を結びカウンセリングを週一回行うことにします。その帰りAはひとり居酒屋で刺身を注文し見ているとそこに兄の死体にたかっていた「蛆虫」が見えてくるのです。実はこの映画を今回見た日に保健所の年一回のセミナーがあり出席したのですがそこでかなりBSEの話になりました。そこで話を聞いていると、私の中でイメージが膨らんできて、肉を食べるということは?と思ったのです。牛が食べている草をそのまま食べるわけには行かないのか?なぜ、草を食べた牛の肉が食べたいのか、また牛の脳、脊髄、目玉なんかにBSEの危険が高いのだがそれらを好んで食べている人たちを中心に人間にも死者が出ていると説明を受けたとき、英国でそういう習慣あったっけ?と考えながら、牛のそのような部位普通食べるかな?と変なことを考えてました。その別の説明で乳牛で年齢が高いものの方がBSEになる危険が高いということ、そしてそのような牛の肉を砕いて牛のえさに混ぜていたことから発生率が急に高まったことなどを聞いているうちに(内容は違うかもしれません、セミナーの講師ではなく私の聞き方が悪いのかもしれません)凄く浅ましい気持ち、肉を食べるということの贅沢性を感じました。肉というのは1頭から有限にしか取れませんよね、そのため高いはずなんです。しかし牛丼とか安いんですよ、何かがおかしい。なにか年末に贅沢にディナーに追加でステーキ注文したらそのステーキだけで1万円したんですよ。総額で一人当たり18000円。本当はそのくらいが普通なんじゃないかと思い始めた矢先で現代の食というものをすごく考えさせられてます。

しかしAは表面突っ張っているんですが、孤独なんです。実は誰かにずっとそばにいてもらいたいのですが言葉ではいえない、そんな女です。結婚しようと言われた男にも「見ていて苦しい」「何でそんなにバランス悪いんだ」と言われます。このように理解してくれる人の胸に飛び込むと正解ですが、そうなるならAみたいなアイデンティティーできないんですよね。

Bとの共同生活の中でBの観念的な生活をAがあこがれていた部分があるんですよ。そして一緒に見た「世界残酷物語」(これBOXほとんどまだ見ていないです)を思い出してみてみると一緒に見たシーンがないのです。事実そんなシーンはこの映画にはありません。もうこのコンセントのシーンそのものがBの精神的限界なのです。どこにでもいける電流のようなものを意識していると思うんです。人間の精神は何かにつながれて世界とつながり、そこで見たものを頭の中で咀嚼するそんな意識構造を考えているのではないでしょうか?ちょっと「攻殻機動隊」に似ている感じがします。

Aに関してはBと教授のふたりに男のトラウマが植え付けられております。どちらも愛してはいけない人なのに、という気持ちがどこかにあるのでしょうし、コンプレックスもあると思います。そして長い間かかってゆがんだ性格が形成されたのです。さらに教授のずるさもかなりのものです。それを知っていてなぜにAはカウンセリングを受けているのか?または最後に兄の死はあなたには永遠にわからない、といわれるまで信じていたのか?この辺は私にはわかりません。しかし一緒にカウンセリングを受けているという状態が気持ち悪いなら受けてはいないと思うのです。知り合いでカウンセリングが好きな人がいるのですが、この人はだめだと思う相手に対しては一回で行くのやめます。私はカウンセリングなんか止めたほうが良いよ、と言っても無駄ですけどね。

Aは自分自身で「幻覚と幻臭がでている」「精神分裂病の初期症状だよね」という自覚はあるんです。この自覚があってなぜに心理学のカウンセリングを受けるのか?マゾなのか?わからないなあ。そして大学時代の友人に会います。彼女は「シャーマニズム」の研究をしてます。この女(D)は少しAに憧れを持っていますね。とにかくここでまとめるわけではないのですが、出てくるものすべて不安定な精神状態過ぎますよ。しかし「乖離性障害」(かいりせいしょうがい)の人がいてその人の言葉に「トランス状態になるときコンセントが抜ける」というらしい。ここでまとまってきました。友人の「シャーマニズム」研究、そのDが引き合わせた医学部助手の専門が精神病のなかの乖離性障害、そしてその患者の言葉。実際にシャーマンのように幻覚が実際に起こる様子。なにとコンセントがつながっていて、どうなるとコンセントが外れるのか?そこです、ポイントは。

そして患者のケースではトランス状態に入れることを自発的にできることを優越感を持って普通の人と差別化した気持ちを持っているらしい。

ABの場合はきっかけが愛犬の死にあるらしい。それも犬がかんだといって父親が鎖につながれた愛犬をバットで殴り殺す瞬間をふたりは見ているのです。このときからふたりは父親からはなれ、愛犬に異常な愛情の思い出を形成したのではないでしょうか。愛犬、愛するものの死、それも生まれてはじめてみる死、自分を生んだ種を持つ父親への愛情とどちらが深いか、Bは中学生くらいなので愛犬への愛情が強かったかもしれませんが、Aは父親への愛情が強いはずです。変な問題提起ですが、親子の愛情にまさるペットへの愛情はありえない、というのが私の考えです。しかし最近のペットブームではそうではないらしい、というのもわかっております。この辺がトラウマの原因です。

沖縄のケース。かみだより(と聞こえたのですが)という精神かく乱状態を経て巫女として覚醒するという過程があるらしい、そしてAはその過程にいるのではないかと友人のアドバイスがあります。私はAがその過程にいるかどうかはどうでも良くて、実はこの友人はAとのコミュニケーションの手段として面白い実話を持ち出しているのではないでしょうか、それも無意識にね。なにか孤独感が感じられるんです。というより友人いわく「Aが私のコンセントなんだよ」そうだろうなあ、この友人は自分が薄情なの、愛情とか友情をもてあそぶせいかくなのを知っていて、自覚していて善意ぶる態度の中にある悪意に気がついているのです。というより、自分のことしか考えていないことに気がついているのです。そのために他人を治すことはできないのです。これがわかった時点でこの映画すごく気に入りました。いい映画です。

そしてこの友人の心のそこの闇が見えた瞬間にAはシャーマンに近づきます。事故で幽体分離する姿をはっきりと見るのです。そして友人も治し、教師も治します。すべてが見えるということ、そして何でもできると言うこと(教師の治療にはセックスをしなければなりませんでした)はシャーマンに近づいていることだと思うからです。そして兄にも会えるようになります。

追加、コンセントとはここでは性的に問題のある人間が多数出てくる関係で、女性の性器という意味の暗喩らしい。解説による。これは気がつかなかった。いわれてみればこの映画セックスでずいぶん癒される人間が出てきます。まさにヴァギナを治癒の手段として利用したのですね。しかしそうなるとちょっと次元が低くなると思うのは私だけでしょうか。性的シーンは性的コンプレックスからの欲望のはけ口、として解釈してはいけないのかな。

まあとにかく、昔見たときはまあ変な映画だな、と思っただけでしたが、今回は本当に良い映画だと思いました。

3/3

「怪談かさねが淵」中川信夫監督 1957年

この監督は本当に息の長い監督です。そして主演の丹波哲郎。「大霊界」見たばかりなので

この映画はおかしささえあるのですが、俳優生活も本当に長いですね。新東宝のマークも今では珍しくなってしまいました。古い映画ですが怖さはありますよ。

「累ヶ淵」って千葉が舞台でしたっけ。舞台の場所は意外と覚えていないものですね。下総です。年月を経て見ると違った発見があるものですね。武士があんまから金借りているので江戸の中期以降でしょうし、飲んでいる酒が清酒なので武士階級は清酒を飲めたのでしょうか。この映画が正しいというわけではありませんが、なにせ「人間の条件」ではないおですが終戦から干支で一回りしかしていないときの映画ですからちょっと感慨深いものがあります。

とにかく、借金しているのに清酒飲めているので、怪談の主人公になってしまうのでしょう。武士階級の矛盾ですね。一番階級が高いのに金はなし。あんまを手打ちにしてしまうなんざ私でもできません。基本的にハンディキャップのある人はいじめたりできないものです。この武士はおかしいのでしょう。妻にもつらく当たるし、奉公人に死体の処理をさせます。妻が葬式に行くといったら怒って肩をもませるなんざ、普通の人間はできません。わざとしているなら別ですが、おかしい行動ですし発言です。ここで告白しますと、夜ひとりでこの映画観ていたのですが、ここで観るのやめました。背中がぞっとしてきました。ここからあとのことは後に観たのだと思ってください。語り口から気持ち悪くなりました。

次の日です。笑い

結局、武士も気がおかしくなり、妻を切り、そこいら中にあんまの顔が浮かぶ上がり自分で塁ヶ淵に落ちて行きます。そして残った子供は羽生屋にもらわれていきます。(拾われていきます)

そして20年。今ではまともな従順な奉公人になりました。そしてその家のお嬢さんのお稽古事についていくと三味線の先生はあんまの子供なのです。

そして奉公人のことを三味線の先生は好きでたまらない、関係です。しかし三味線の先生を好きな武士がもうひとりいます。そして奉公人が好きなお嬢様。おかしくなりそうですね。しかし役者の質がいい。無名というか知らないだけかもしれないがいい俳優いましたね。お嬢様には金持ちのいいなずけがいるので母はこの奉公人を追い出したくて仕方ないのです。愛に生きられたらたまらないと思うのでしょう。形式でも金持ちと一緒になってほしいと思うのは仕方ないことです。

しかし先生は三味線の撥で、お手伝いが奉公人が先生の父の仇と聞いた日に、父親がはじめに切られたところと同じところを怪我します。何かの因果でしょうか?

そして武士はお嬢様と奉公人の間を取り持つ親切な振りをして先生の嫉妬を買うように仕向けます。怖くなりそうですね。当然先生は追ってきます。そしてほんの弾みで階段からおちてしまいます。2代続く悲劇です。

そのあとお手伝いから父の仇と聞かされ逆上して恨みを晴らすべく直系の人間と悪巧みをした人間すべてを呪い殺して終わります。最後にあんまと武士の所の使用人が供養して終わり。怖いですよ。

3/4

 

「ファム・ファタール」 ブライアン・デ・パルマ監督 2002年

この監督の昔の作品、良いと思うんですが投売りされてますね。これは最近では昔のテイスト復活と言われた作品です。

冒頭の黒人の話す宝石泥棒の仕方すごいですね。あれくらいの覚悟がなければだめですね。そして「蛇女」の宝石とカメラマンの冒頭の女、BGMは坂本龍一さんの音楽。会場は「イースト・ウェスト」の試写会場。この映画が何か意味あるんでしょうね。

とにかく略奪のシーンの素晴らしさ、なんともいえない。あの黒人が失敗するところもいいですね。あのモデルはレズなんでしょうか。とにかく一応は進行できました。まる。

 しかし今回の映画はこの監督にしては美人は出てくるし、映像もきれいだし、音楽もいいしずいぶんと映画がきれいになりました。本当にきれいな映画です。どちらかというとこの監督女優はあまり美人ではない人が多かったと思います。

冒頭の女(A)とします、Aが報復としてホテルの内部バルコニーで投げられたとき下にクッションがあり助かったのがひとつの転換期でしょう。あの目、「フューリー」みたいですよ。だいたい教会で母親に会うのが、ちょっと待てよ、逃がしてやれよ、と応援している自分に気がつくのです。それが裏切られるのですがね。楽しいですよ。裏切られ方。

7年後の人生、再会。普通の人生のほうが良かったのにねえ。3つの糸が錯綜しますねえ。

7年間で復帰した裏切られた男。またパリです。

今回の映画で感じているのは「ヒント」の数がすごく多いということです。ですから楽しみながら監督の作った話を楽しむという趣向になっているのです。ですから深く考えないで何でもあり、と思っているとよいでしょう。

私はフランス語はほとんど知らないのですが「SEX SHOP」とかは英語そのままの看板でいいのでしょうか?日本でも日本語あるのでフランスでもフランス語があると思うのですが。まあいいか。

しかしAはかなりいかれた女ですね。パパラッチ(B)もたじたじです。夫なんてチョろいものでしょう。Aの目的はどこにあるのか。とにかく途中1本の糸は切れたままというのが怖い。そう冒頭の犯罪で裏切られて刑務所に行った男たちです。Bを利用してこいつらを殺そうとしているのでしょう。ではBは?

逆にやられてしまうシナリオが完成。そしてセーヌ川に落ちていく。

さて本筋。

身代わりになった女が自殺しようとしております。今度は水槽の水もこぼれてません。何かが違う今回のシーン。現実なんでしょう。

いい女ジャン。と思うようなことをしてくれてますね。その徳の分だけハッピーになれました。パパラッチは相手しないほうが賢明でしょう。

いろいろな別テイクのエンディングがありそうな映画でした。面白いけど、なにかすっきりしない感じもするのです。

3/5

 

「アリゲーター」ルイス・ティーク監督 1981年 アメリカ

この手の映画は普通は見なかったんですが、「羊たちの沈黙」以来機会があれば避けないで見るようにしております。これもたまたま見ることになったんですがどうでしょうかね。

ワニショーでのハプニング。とにかくもう夢中になります。「あっ」と声を上げたら監督のセンスのよさですよ。観客のひきつけ方がうまい。このまま突っ走れれば最高なんですが。

画面に古さは感じます。80年がもう古い時代なんですね。何もない意外と空白の時代のような感じです。確かCDへの本格的な移行もこの頃です。ですから風景にLPはあるし、車は古いし、携帯はないインターネットもない時代です。ドン・ビト・コルレオーネの友人の役の俳優が出てます。懐かしい感じですよ。

映画に戻ると、アリゲーター(A)とします。これは子供のとき女の子に飼われていたのを父親が勝手にトイレに流してしまったのです。その後下水道で生きていて食べ物があるので大きく成長してしまった状態ですね。ここで疑問ですがAは人間を喜んで食べるのでしょうか?ちょうど動物実験の死体を製薬会社が経費削減で下水道に流していたのですがそのしたいではだめなのでしょうかね。まあ生きているものの方がおいしい感じはします。人間の肉は人間の食べるものから推測しておいしいでしょうしね。絶対的モラルで食べようとなどは微塵もおもいませんが。

まあ下水道ではAが有利でしたが捜索の手が入りマンホールを壊して地上に出てしまいました。大丈夫かな。すぐに殺されそうですが。これでおしまい、なんてなると思うけど、意外と引っ張るんですよ。

水があるところに逃げられるのが強い。ですから川とか下水道にすぐに逃げ込んでつかまらない。そして地上に出てきては人間ばかり食べる。そんなに食べられるものかと思うんですが、飲み込んでしまう。実際に人間ばかり被害に遭うから映画になるんですけどね。ペットばかり襲われていたらこんな恐怖心は生まれないでしょう。しかし映画観ていてなんで人間ばかり、それも短時間にあんなに食べられるのかと疑問に思った人はいないのでしょうか?私は楽しみながらそんなことばかり考えてました。

最後に始末したあと、また小さなアリゲーターが捨てられるのですが、これも大きくなるのでしょうか。

まあ一気に見てしまって時間がたつのが感じられなかったのであまり感想はないですがある意味楽しい映画です。怖くはないです。

3/6

「バウンス・KOギャル」 原田眞人監督 1997年

このときに高校卒業した女の子バイトで雇ったことあります。98年に大学一年生でしたので間違いないですよね。そう考えると意外と身近で怖い感じはします。あと場所柄毎日店の前を高校生が通学しているので複雑な感じもします。

産婦人科で高校生がずうずうしく待っていると男に付き添われた女がぶりっ子しています。そこに痛烈なひと言「だったらやるな」正論です。そのあとも爆弾発言が連続。「年に何回エッチしているかわからないですよ、うちの両親なんか」「遊び方とか教えてあげようと思うのです」「貯金なんかも私のほうがあるみたいだし」なにか涙出てくるような笑えるシーンです。親の立場ない。私も感じるのですが、最近男が妙に家庭に入り込んで気持ち悪いです。有休使って幼稚園の運動会はないだろう、と思いますけど。こういう親は馬鹿にされます。

この映画私には大うけ。爆発しますね発言。「援助交際の売り、とかは心とか体が余裕あるうちにやっておいたほうがいいよ」と女友達を誘っているシーンなんかぶっ飛んでます。論理を超越した説得力があるのがおかしい。この世代は今20台半ばくらい、怖いですね。

風俗の経営者に役所が扮するのですがまずは高校生を買います。そしてホテルに連れ込んで値段聞きます。「下なしで10万円」役所のせりふ私と同じこと考えてます。「世の中なめているのか」瞬間私も呆然としました。役所は自分の商売が落ち込んでいて自由に援助交際されているのが気に入らないらしい。しかしその高校生、その日に子供おろして来たばかり。「今までにやり逃げ,3回、怖いのは今回が初めて」こう聞いているほうが怖くなってきます。体が痛くなってきます。現実にあるんですかね。

次のショック。渋谷でナンパを振り切ったまじめな学生(これナンパも大変だなあと思ってみていたんですが)後つけられるんですよ、これで階段あがっていってばれちゃうじゃん、と思っていたら下着売りに来ているんです。もうだめだ、唖然としてきた。店員が桃井かおりなんですがいくらつける、といわれると高校生のほうがあせっているんです。そして次に生脱ぎしてみる?といわれてそこで脱いでみて、それ売るから、といわれます。買う人いるんですよね。お金の使い方間違っていると思う。すごいお金になってしまいました。そのまま泥沼に入りそうです。痛い映画ですね。気持ちが痛い。

そして先ほど脅された生徒が仲間のところに戻ってきて会話に加わるのですが、私もなに言っているか判らなくなってしまってます。いちいち意味追っていたら疲れます。

あとはあのナンパやろうが年相応でいい恋人になる、風俗営業はそれ相応の人間が勤める、高校生は勉強、というくらいになるんじゃないでしょうかね。この路線にならないことだけを書いて見ます。すべてが危なっかしくて見ていて疲れます。

役所が風俗経営者として「なぜカラオケ付き合うだけで10万円になるんだよ」と訊きます。「常識ある大人が少なくなったからじゃないですか」「若いことお友達になりたい男が多いです」と答えになっていないんですが、できるだけお金とりたいのでいくらなら取れそうか考えていくうちに10万になったという意味でしょう。でも本当に10万払う人いたんですかね。10万円ですよ。うちのお客様で来てくれないですかね。年間飲み放題でもいいです。でも背景に「日債銀」があるので金融小恐慌の前ですね。それで相場が高いんだ。納得。

風俗経営者と先ほど脅された女の友人がお金取り返しに来て信頼関係ができ、情報をもらうということになりました。しかしカラオケはつき合わせていただきます。と仁義はわきまえてます。歌う歌は「インターナショナル」この歌知っている人には若い子はわからないですよ。

OK.予想どうりに大体なりました。うまく恋愛はめどがつくし、親友関係はできるし、風俗営業も仁義をわきまえたものになった。救いがここにありました。頭にきたといってこうならなければ許さない、といったとおりにほぼなったのにはおどろきましたがそうなるでしょう。日本人はまだ大丈夫だと思います。これからまtが物作り、働き蜂でかつ独創性を持って盛り立てましょう。友情は一番重要なものです。そして信頼は金では買えません。

最後にうまく完結するので面白かったです。ちょっと言葉足りないのですが、観てみる価値はあると思います。

3/7

LOVE/JUICE(ラブジュース)」 新藤風監督 2000年

あまり言うことない映画です。

画像もあまりきれいではないし、生活観がにじみ出ていて、画面がにおってきそうな感じは良いと思うのですが、女の子ふたりのポジションがあいまいです。

この子達はどうして一緒に生活するようになったのでしょう?それが判らない。どちらかが根を張った生活に目覚めたとき別れるのでしょうが、まあお互い不便なく生活できるのでそのままというか、寂しさを感じないで済むから一緒という感じです。

この映画を見ていて思ったのは、孤独なんだなあ、ということ。見ていてつらいんですよ。でもこんな女の子はいくらでもいるでしょうし、男はなんか彼女がいなくても違う感じになるような気がします。男同士一緒に住むということはあるのか良く知りませんが、女の子の怠惰な感じは良く出ています。でもあの金魚屋の男もおかしいよね。あれだけ積極的にアプローチしているのに無視していていいのだろうか?

かなり期待してみた割には、つまらないかな。

しかし実際の女の子を表現はしていると思います。男は意外と女に過大な期待をかけるから外れるのであって、このような子達が普通だと思います。縁側で絵を描いたり、金魚飼ったりしてます。

レズの子の方の性的衝動の強さはなにに起因するのかは知りたかったです。孤独なんですが、それがいろいろなところで描写されます。なにかこの子は自殺するタイプですよ。

レズではない子の男友達が遊びに来たとき部屋に入れないで返したのですがそれで二人の関係がおかしくなります。しかしその男にレズのほうが犯されます。男のほうはレズの女のほうに興味があったのです。ふてくされる女と犯されたレズどちらもいい思いはしていないのですが、レズのほうは黙っていますけど、出て行きます。別れてみて気づく愛情、友情なんですがこのふたりも別れて気がつきます。そしてけじめ。「ずっと一緒にいたらほかの人を好きになれない」とレズ。まあその通りです。早く別れなさい。しかし思い出は残るよ、というところで終わり。

 

奥野ミカという子がレズの役ですがこの名前聞いたことあるんですよ、有名な子なんですかね?藤村ちかという子がもうひとりの役ですがこの子もいい子です。

 

3/8

「私の骨」 荻野憲之監督 2001年

この映画ネットではまったく馬鹿にされた批評しか見当たりません。

どうなんでしょうね。早く言えばJVDというメーカーは評判は悪いのですがまさに作りの悪いDVDです。作品以前の話です。VHS見ているみたいな画像。

まずは主人公は作家(A)とする。家族とは別居して作家活動に専念している。その叔父に会いに行くと(この叔父の役が棒読みの大根役者と批判されるんでしょう)押入れに骨壷がありAが見つけるように仕向けます。そして消えていきます。その骨壷を開けて骨を組み立てると、なにか自分の息子の骨のような気がしてくるのです。しかし骨は処分しなければなりません。よってすべて砕きます。頭蓋骨にハンマーを刺すのですが最近、肉体と魂の関係についての映画ばかり観ているので、まったく怖くないです。魂の抜けた頭蓋骨にはなんら意味がないのです。生きているときは頭蓋骨と魂が一体ですので殺人となりますし、意味があるのですけど。

そして妻と子供に会いに行くのですが、変な小説書いているので、世間体が悪いということで同居を断られます。そのときの妻がいいこと言います。「流産したときあなた何といったと思う。子供なんてまた作ればいいじゃん。しかし子供はそれぞれ違う」というようなことを言うのです。まさにその通り。子供は親を選んでくるのです。したがって流産はその子供の魂の死に値するのです。この妻は物の道理をわかっている人間だと思いますよ。

そのとき妻から夫が2歳のとき死にそうになったのを父親が渾身の力で助けた、という話を聞かされます。そしてその夜、帰ってみると骨は消えています。そして骨壷には赤い液体が。それは気味が悪いので捨てていると骨壷の裏に日付が入っています。まさにAの誕生日。そういえば、あの骨、2歳児くらいだったような気もします。まさにその通り、だんだん妄想が激しくなり、何かに襲われる夢を見るようになります。しかしその襲われた後のところにある骨はなくなっていくのです。どうも、いとこの若い女の子が遊びに来たあたりからおかしくなっているので、何かあるのでしょう。

今度妻が尋ねてきたとき、結婚指輪を返されます。そして告白されます。「あなたなんてどうでも良かった。子供がほしかっただけ」と。いやーーいい味が出てきますね。この映画意外といい映画ですよ。

ある事実が判明しますがそれはもしかしたら、Aの見ているのは妄想ではなく呪いかもしれないということです。昔の話、この家系はある巡礼者の子供を人柱として犠牲にしているのです。その怨念があることがわかります。いとこの女はそのことが書いてある本を持ち出してます。なにかこの話がばれることを恐れているのではないかな。しかしAの先生はほかにこの呪いの話が書いてある本を見つけてAに読ませます。Aの家系は代々男が生まれない家系になってしまったのです。それは怨念からですがAだけが例外というわけです。

しかしこの姪(いとこではなかったです)はAが直系ではないことを調べ上げました。なぜならば、男を盗んできてその両親を殺して自分たちの子供として育て上げたのです。そのことが記事で見当がつきました。Aを愛する姪はこれで近親相姦はなくなると喜んでいたのです。さらに姪はAが直系ではないため、妻との間には男の子が生まれる可能性が半分あったのです。そのため、呪いの人形を贈っていたのです。そして流産。しかしもうひとり男の子ができてしまいましたね。この男の子を殺そうとするところにAが駆けつけ、怨念を晴らします。どうやって、直系の男を殺せばいいのです。Aは直系ではないのですが跡取り。よってAは自分の命を絶つことで怨念を晴らします。子供のほうは家督も継がないし直系でもないので助かります。

しかしこのことはAを愛していた姪の心を壊します。そして怨念は最後の仕上げをして終わります。そうです、妻が子供を殺すのです。もしかしたらAは実の子供だったのかもしれない。しかし姪の愛情がおかしくなるので、直系ではないが家の跡取りということ、すなわち家を断絶させることを狙ったのでしょう。

かなりいい作品です。何であんなにネットで評価が低いのだろうか?

3/9

「穴(あな)」ニック・ハム監督 2001年

市川監督の作品ではないのです。市川監督の「穴」は大好きですがこれはどうでしょう。

ソーラ・バーチはまた髪を染める役ですね。高校生の多感な時期の金持ちの子供の話です。

余裕がありすぎると文化が生まれますがゴシップも生まれますわね。ゴシップの方かな。

ウェールズへの研修旅行に行きたくなくて、学校と親をだまして旅行に出かけます。それが防空壕の穴なんです。普通はウェールズのほうが良いのですが向うで特訓が待っているみたいでこちらに逃げてきました。アレンジしているやつがオタク系(B)でこいつが好きな女の子(A)と彼女の憧れの男子(C)を一緒にしてあげます。何かたくらみがあるのでしょう。3日後に迎えに来るといったまま、迎えに来ないのです。中の人間はあせります。

ACと一緒に相談して、ACのことを嫌いになるのを待っていると言います。CBAのことを好きなのか、と聞きますがその通り。嫉妬のなせる業なのか、と逆に仲が良くなってしまう。そして盗聴をしていると知って逆に中の悪い振りをする。これは危険です。本音が出てしまう可能性があります。

しかし成功、脱出できます。ACの愛情も勝ち得ます。ここがおかしい。ここまで筋書きに入っている気がする。

しかしBの供述は逆です。ACをくどき落とすために仕組んだと。まったく違うことを言います。

事実は監禁された中で3人が死んで1人が帰って来れたという事実です。

しかしこういう展開は映画としてかなりいけない行為だと思うのですが、実はAは乱交パーティーを企画してCをものにしようとしたのでした。しかしCがのってこないでAの友人の美人の女の子(D)ばかり男2人の目が注がれるので頭にきております。そして監禁状態を作ってAは好きな人と一緒に死んでも良いとさえ思っているんです。鍵を閉めたのはAですよ。そしてCと一緒にいられると思ったのです。事実仲良くなりますが、Dは死んでしまい、Cも友人を些細なことで殺してしまいます。そしてふたりだけになったときCからとうとう愛しているという言葉が発せられます。とりあえずこの賭けは勝ったのだと思うのですがなぜこの続きがあるのでしょう。

Cに真実を告白したら嫌われるだけでなくすべてが明るみに出るところでした。しかしアクシデントでCは死にます。確かにCの愛情を勝ち得るためにやったことです。しかし3人が死んでしまいます。Aは直接にはまったく手を出しておりません。唯一、Bを犯人に仕立てるために自殺と見せかけるときに殺します。Aも生きていても仕方ないのですが死なないということはCの面影を抱いたまま生きるのでしょう。後味の悪い、気持ち悪い映画です。まずこんなことは起こらないでしょう。

3/10

 

「人間の條件」小林正樹監督 1961年

第五部     死の脱出

第四部の最後「どんなことをしても生き抜いてうある、俺は鬼だ」というのは何人殺しても俺は生きる道を選ぶということでした。敵の中、味方は数人。ひとりの見張りを殺せば、突き抜けることも可能な状態。結局誰も行きませんし、Aが鬼になるといったくらいですので殺しに行きます。3人はどうにか逃げたもののつかまるのは時間の問題。

ところでこの5部から音がかなり良くなりました。戦後のこの2年間は大きかったのでしょう。あと追記ですが、この映画は俳優がかなり良いです。クレジット見ているだけで凄いと思ってしまう。

逃げる途中に民間人と出会います。その連中も一緒に連れ立つのですが、食料を持っていないので、すぐに食料がなくなります。そこで軍を罵倒するもの、一緒に生きようとする老齢のご夫婦など人間のいろいろな様子が描かれます。ここでもAは試練を与えられるわけです。

そして森の中をさまよい、荒野をさまよい、最後に賭けに出た日の前日に最後の食料をすべて食べて出かけます。ほとんどの人はついてこれない。そしてAも信念が揺らぎ始めます。しかしやっと人の気配が感じられて、ついたところは?

また嫌になるくらい試練が待っております。「なぜ最後の突撃をしなかった」と言われます。「みんな玉砕したはずなのに、なぜ生きている」。

それで切れたA.。相手の考えが良くわかっているのです。それは食料欲しさ、そして逃げ道の模索でした。そのまま合流せずにまた分かれます。しかしあの3部で病院で一緒だった気骨のある人間に再会します。彼(E)はAの方について来ます。ここのシーンなんか、見ていて、「まだ生きていたんだ、良かった」とこっちが思ってしまうほど、うれしいシーンですよ。

しかし中国人に道を聞いたら革命軍に包囲されてしまいます。なんでみんな銃を持っているのか?という疑問がAに生まれるのですが、戦うしかない。そのときに戦法として中央突破を考えます。いつもこの映画ではそうでした。中央突破はリスクが大きい反面、相手も突破されたら体制が崩れる利点があります。逃げようとしたなら包囲されてしまいます。

「くだらない自由を高い金出して買っているのかもしれない」というEの言葉は信憑性があります。冷静に考えて、ロシアと中国が攻めてきているのでいつかは捕まるのです。逃げおおせる場所ではないのですし戦争が終わっているという確証らしき記号はあちらこちらにおちています。

そして衣食住という甘いえさを目の前にちらつかせて、罠にはまります。Aは逃げようというのですがねえ。

そして女は手りゅう弾をおなかに突っ込まれて死んでます。やるもやられるも紙一重。そしてどちらも本当は戦いたくないのです。最高の舞台を作ってます。それは戦争ではない、しかし殺しあわなければならないという状況です。

そして火であぶり出しされます。「ここで投降か」しかしあぶり出しの場合は殺すということです。参ったね。2人一組。

しかし中国では共産党の戦いが始まっていて、日本人、満州人関係なくやられていきます。とにかく「負けた国の女ほど惨めなものはない」という言葉に表現されております。「十六歳の戦争」にも出てくるテーマです。Aたちの理想の国家を作るはずの連中の暴力ということでかなりの衝撃を受けますが、道中は続き途中に日本人の女たちを拾ってまた一緒に行動します。ここで負った精神的傷もすごく大きいものです。実はこの映画民間から軍隊に入り戦争終結そして愛情の元への帰国への道中を精神修行になぞらえて作られているのです。修行というよりもうできた優秀な純粋な人格の変容と破壊の過程とも言えるものなのです。

敗残兵の部落があるのですが彼らは情報がないのです。負けたことも知らない。そして話題は満州がどうなるか。ソビエトは取らないで中国に帰すだろうとかいろいろな議論がなされます。実際にどうなるのかわからない人のほうが多かったでしょう。しかし同じ日本人同士で女と弟しかいない兄弟でお姉さんがロシア人に犯されるのを見ていて自閉症になった女を送っていくといって犯します。兵隊がです。女は希望がなくなるでしょう。

その兵隊が犯してすぐにAたちに合流したので問い詰めてみてわかった事実です。ここでこの章は、ばさっと終わります。希望はないんですよ。正義をどこまで保てるかです。きつい映画になってきました。しかし良い映画です。見ていてまったく飽きません。

3/11

 

「私の秘密の花」ペドロ・アルモドバル監督 1995年 スペイン

この映画,ホアンキン・コルテスが出ているんですね、どんな役でしょうね。

まあこの監督は意外と好きな監督ですので、いい感じにまとめるでしょう。何故好きかっていうと、色とか映像が少しラテンしていて、かつ映像がちょっと胡散臭いにもかかわらず楽しいシーンがあり、それで映画を強引にうまくまとめ上げるところが意外と好きなんじゃないかな。

はじめに臓器提供の話が出てきますが、それは練習みたいで、フラメンコが中心になってきます。ダンサーが(A)いて大会に出るのですがその母親(B)も昔はうまかった。こうなるとこの二人の踊りは見たいですよね。ホアンキンはAです。途中のBGMもタンゴからフラメンコといいですよ。そして臓器提供の説得の練習を指示していた女性(D)は作家は姉妹で作家のほうは多分匿名で違ったタイプの本を書いてます。(Cとしましょう)

ちょっとスペインの人の顔が区別つきにくいので、(別に東洋人がみんな同じ顔に見えるといわれても、同じような私には欧米人が同じような顔に見えます)ちょっと入り組んだ人間関係です。まずは人物の登場の仕方のまとめが監督は下手です。

Cの本は「愛」があったのですが匿名で評論を担当するようになってCのパンネームの人を評論してほしいといわれますが、ほかのものについてかなりまともに書いてしまいます。しかしCを育てた女性編集者は「現実なんて実生活で充分」「現実を禁止させるべきよね」とすごくわかることを言ってくれます。しかし匿名の作家でいることをやめます。編集者はルール違反だというし訴えるといいます。そうするとばれてしまいますね。そしてCはその作家つまり自分自身についての評論を書くのです。それには編集者(別の)も驚きます。何故そうなったのでしょう。ABCのお手伝いとその息子という関係です。Cの愛する旦那が帰ってくるときパエリァを作っているのですが息子が大会に迎えに来ます。そしてCの説得もあり大会に向かいます。どっちが主役なのかこれから明らかになりますね。旦那が帰ってきたときの情熱的なキス、先が思いやられます。しかし旦那にはそっけなくされるし、修復の可能性はないといわれるし、実家の母は妹と折り合いが悪く田舎に帰るというしめちゃくちゃな精神状態の中、カフェでテレビを見ると歌手が歌ってます。この歌がいいんだ。愛の歌。表に出ると学生のデモ(職がないというデモ)がリズムを刻み始めると、フラメンコがかぶります。

しかし田舎に帰って落ち着いたほうがいいですよ。匿名の作家は別の編集者が書いて作品を送りました。引継ぎです。Cの旦那のあとの彼氏になりそうです。

そしてフラメンコ大会。素晴らしい踊りです。

まあ作家が本業なのか、愛情の寂しさに始めたのか、どうでもいいですが、作った作品が一人歩きしたことは事実です。そして映画になったり、匿名の架空の作家になったり、その名前をシェアしたり、いろいろと物語が進行します。そのなかであとの彼氏とCが一緒に暖炉で話をするときに「ベストフレンズ」という言葉が出るのですが、まさにあのヒューストン監督のあの映画です。意外な単語でした。いい映画ですよ。

まあ違うことは違いますが、収まるところに収まった感じです。普通の駄作かな。この監督の映画はスペインのサッカーみたいなところがあります。点の取り合いで面白い。ビクトルエリセ監督と同じ国とは思えないところもあります。

3/12

 

「人間の條件」小林正樹監督 1961年

第六部     荒野の彷徨

題名自体が入力できません。すみません変換の仕方わかりません。

満州の問題で日本軍の兵隊との議論でソビエトは満州を中国に返すと思っているらしい。

介石はほしがっているけど、八路が取るでしょう、という意見です。何も言わなくてもこの辺の事情お分かりですよね。わからない方はちょっと調べてください。私はこの辺までは日本人の常識だと思ってます。蒋介石にソビエトが返さないというのはアメリカの関係ですね。それが台湾と中国にもなってます。

さまよっている間に小山に篭城している連中に出会います。そこでは軍の規律がそのまま生きていて、一緒に逃げたいというものも脱走の罪で処罰されます。本当に無意味な殺し合いです。そしてよく考えてみればわかるのですが、ソビエトが下手に通すわけないですし、要所はすべて押さえられているでしょう。そのなかで可能性にかけているのです。主人公の場合は愛情にかけているのです。

ソ連兵とぶつかっても戦います。そしてソ連の兵器は捨てる。これは兵器略奪の罪の言い逃れができるからです。そしてポイントとなる一般人との接触の場面。開拓村へ乗り込みます。この人たちはもともと中国の人でしょうし、どう待遇されるか、まったく予測がつかないし、村によっても人によっても違いがあるのでしょう。この村は女ばかりでした。その長を笠智衆が演じてます。女たちははじめは怖かったけど日本兵より物をくれるだけまし、と売春をしてます。日本兵はただ乗り、食い物ねだるだけと厳しい評価。しかしこの人たちに頼まれたとはいえ、近くの畑に行って食べ物を盗んできます。そのときに見張り番も殺します。一体何人殺したでしょう。

高峰秀子にすごいこと言われます。「女はね一緒に逃げてくれる兵隊さんを待っているんです」「亭主もちは舌を噛み切ってしななければならないのですか」この言葉は梶の気持ちを揺さぶります。妻も同じだろうか?

一晩明けると女と残って避難民になろうというやつらが出てきます。これが普通ですよ。女と男が一緒。一番です。しかし梶は向かうべき女がいるのです。そこで各自の生きるべき道と思うように生きろ、となるのですが、そこにソビエト兵が来ます。ここで高峰秀子が飛び出します。なぜなら、後が怖いからです。ソビエト兵にばれてしまったので、仕方なく降伏いたします。このとき見ていてつらい。もうやるせない気持ちです。誰がわるいとは言いません、しかしこの胸のつかえは何なんだ、ということです。

ゴミ箱あらしを人に見つからないようにつけて配給食に混ぜて死なないようにぎりぎりの栄養を確保するのですが、その役をしている兵隊は「水洗いが冷たくて大変ですが、これで明日もみんな大丈夫だと思うと張り合いが出ます」というのです。生に意義を見出せる人、間は人間はまだ大丈夫ですね。しかしまた、日本人をいためるのは日本人でした。あの日本人を犯したやつは早く捕虜になった分、優位な立場になりました。そして主人公たちに復讐をするのです。将校たちも将校待遇をいいことに梶を押さえようとするのです。何故日本人同士でいじめあうのか?ソビエト兵もいじめに対して「やめないか」といい見ているやつを「お前らよく見ていられるな、とめないのか」とまで言います。

しかしまたまた日本人の通訳が言ってもいないソビエト兵の悪口を通訳します。もう心が苦しくなってきますよ。何で日本人はこうもお互いにいじめあうのか?外人にはへつらうのに。

重労働に出されますが、やっと光が。丹下(そういつか病院で一緒だった、そして途中まで一緒でこの章のはじめお山の大将のところで脱走兵を殺したやつを撃ってしまってあとでひとりソビエト兵に投降したやつです)に出会うのです。仲間がいるということはうれしいことですね。「階級的に捕虜のやつらは敵ではないはずだ、しかし感じるんだ、欠けているものを。それは唯我独尊」このせりふ、もしかしたら今の映画では通用しないようなせりふかもしれません。この映画全般に意外と難しい概念が普通の会話で出てくるのです。

撮影の宮島さん編集の浦岡さんはじめ素晴らしいスタッフの結集の賜物です。

3/13

「流されて」リナ・ウェルトミューラー監督 1978年 イタリア

「ムーンリットナイト」の監督ですね。この作品が代表作でしょう。どうでもいいですが主役になる女が女優として魅力ないですね。これでは映画自体の魅力がなくなります。

イタリアの北部と南部の所得格差と資本主義と共産主義という安易な二元論をまずは地中海バカンスのヨットの上で再現します。

しかし主人公の男Aと女BとしてAのいう「女を甘やかすから」勝手にされるというのはあってます。本当に気ままに我侭三昧です。この中の悪い二人がヨットからボートで洞窟を見に出かけますかね。なにかBの方にAを意識する動機があるんです。またボートのエンジンが故障してしまう。普通はオール(予備用として)あるでしょう。でも使えないというのです。風が強いし、ゴムボートなので意味ないのでしょう。そんな中2日くらい漂流して岩の島にたどり着きます。ここまでふたりの言い争いというかBの愚痴ばかり聞いてます。映画とするとさすがに下手な作りでないか。そしてこの映画で一番おかしいのは、女のほうがこの環境でこのような仕打ちをされたなら自活するでしょう。それだけのインフラというか自然はありそうなんですが、火の作り方も知らないのかもしれません。学校の自然教室は重要なんですね。こういうときに役に立ちます。

しかし、男女の仲が自然と近づいていくのではなく、強引にBを力でねじ伏せます。対等なら結びついてもいいのでしょうが、身分というか財産が違うのです。まあ、ここでもお金の論理がついてきますね。まだ権力の論理(中世貴族の統治の意味)よりはましですがどうもしっくり来ない展開です。それにふたりだけなら真っ裸になればいいのにズボンはいているのはこの時代の倫理観なんでしょうか。まあかわいいです。なぜかわいいのか、梶上等兵を見ているからでしょう。あのときは野蛮さはもっと強く、ヒューマニズムはもっと深い描かれておりました。

Bは意外とうぶで、Aと良い仲になって行きますが、描写が甘い。抱き合うときはお互いに裸です。しかし映画では服着たまま。さらに共産主義とブルジョワ階級の比較ですがそんなのどうでも良い。すべてが中途半端になるのです。Bは財産とブルジョワ階級というベールをきたうぶな女だったというのですが、ちょっとだめですね。Bがヨットを見かけたとき助けを求めないでAのことを好き、と言ってからは内容的にはよくわかりますが、結論がわかります。Bがブルジョワの階級にいて教育を受けているからこんな愛になっただけで、Aが同級生と来ていたらこんな風にならないのです。頭で考えないですぐに一緒になったでしょう。逆にBが友人とこの状況になったなら同じく意外とあっさりした感じになったんじゃないかと思います。結局万人が同じような欲求を持っていてそれをどう隠しているか抑圧しているかということの違いを言いたいのでしょう。それと気がついた点、監督が女なので女に合うような感じで撮ってます。男優は魅力的なのもその一因かも。最後の電話でこれは発揮されます。現実的かロマン的か?私が作るなら前のほうでしょう。Aも馬鹿なんだ、また島に行くなら戻ってこなければいいのに。焼けぼっくりに火がつくかどうか、の電話です。幸い子供がいるのが男の方なのは話をロマン的にしやすい。しかし「椿姫」同様に身を引きます。お互いの今ある家族を大事にしたいということでしょう。Aがロマンティクになっただけでした。男をロマンティストにしやがって、と思いますがね。この監督はこの映画で最後でしょう。出ている俳優が「ムーンリットナイト」もいいのですが生かしきれてませんもんね。

 

m_i08.gif (1119 バイト)昔に書いたこと(2003,11/21より)

 

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