ひょんなことから観た映画の感想を書くことにしました。
4/26
「魚影の群れ」相米慎二監督 1983年
この映画は、なんといっても見るきっかけが2つありました。ひとつは女優が美しいとかではなく、この監督を最近注目していること(仏門に入られてしまいましたが)。もうひとつは青森でまぐろが捕れることを先日真っ向から否定してしまったことです。すなわちまぐろをとる作業を見たかったのです。恥ずかしい話、まぐろは黒潮系の魚だと思っておりました。しかし実はこの辺で取れるマグロは最高級のものと聞かされて否定してしまったのです。そして今一番行きたいところが下北半島なのです。さらに主人公の男Aは喫茶店を引き継いでいたのに、漁師になりたいという設定。私のつぼにはまってしまいました。公開されたときはつまらない印象しかなかったのですが、当時はタルコフスキーだとか言ってましたからね。
それで漁師の娘Bと結婚したがってもいるので、Bの親に漁師の教育をしてください、というのですが普通はだめですよね。きついからね。しかし結局喫茶店をやめて猟師町に引っ越してきて、挨拶に行くのですが、そのときBがAのお尻をたたいて挨拶させるんです。なんというか男を立たせる女の愛情みたいなものを感じていいですね。
しかし漁につれて出た時の事故はAの自業自得です。あれは確かに邪魔。職人って言うのは後ろにも目があったりするんですよ。空間の感覚が鋭敏なので、邪魔でしょう。そしてけが人の処置も間違っていないし、マグロがまだかかっていたので漁を続けるのも仕方ないことだと思います。
北海道の「いぶ」と青森の「おおま」の漁港同士は提携がなくて喧嘩しあっているんですが、おいしい時期のマグロということで「いぶ」のほうに隠れて入港して卸します。マージンはかなりとられたんですが。ということは「夏祭り」の時期のこの辺のマグロはおいしいということみたい、でも高いから仕方なく「いぶ」も寄港を許可して業者の言うことを聞いたので、私が食べられる値段ではなさそうなことも事実です。今回はこの視点があるので、やたらこの映画が面白くて仕方ないです。
話が分かれます。
ここからはこの北海道でたまたまBの母親に再会するのです。そして向こうは場末のバーをやっているんですが、ちょっと焼けぼっくりに火がつく感じ。両親の話になります。
青森に戻ってくるとBが籍を入れて店を売って船買ってます。やはり漁師するんですかね。
ちょうどBの父親は力がなくなって引退しようというときです。
最初に釣ったマグロが最後になってしまうとはねえ。こんなシーンまったく覚えてませんでした。これ二本立てだったんでしょうか、記憶がないのです。最後にAは死んでしまうとは、なんというか寂しいですねえ。Bの父親がしっかりしているだけにねえ。
大間(おおま)はほとんど目の前は函館のほうなんですね。仏が浦の北海道側の先端みたいです。
4/27
「仁義の墓場」深作欣二監督 昭和50年 東映
水戸からやくざ志願で新宿に。深作監督も水戸の方ですしねえ。ちょうど戦争中です。ここで深作監督について、たしか開成中学かなで同級生だった人が知り合いでいたのですが、本当にどうやって人を楽しませるか、ということばかり考えていた若者だったみたいです。
しかしタイトルバックの戦後の闇市は実写ですかね。はい、違いますけど、勢いのある映像です。最近戦争関係の映画よく見ますがこの風景を見ると日本が戦後すぐに変わったことがわかりますし、戦争の強さがまるっきりなくなっていますね。それでいいのだと思います。三国人の描写もそうです。あえて、この言葉が何を意味するのかは明言しませんが、わかる人にはわかります。横浜という場所もわかりやすい場所かもしれません。いまだにわかりやすいかも。笑い。おっと笑っちゃいけません。しかし久しぶりにこの監督のコアな映画見ると三池監督に似てますね。それがおかしくて笑ってみてました。
しかし公認の脱獄には笑いました。おかしい映画だな。でも雰囲気はわかるんですよ。
渡哲也ふんするチンピラの不始末で池袋と新宿が和解できなくなって全面戦争になるなんて素敵ですね。暴力は敵なんですが、チンピラでも面倒を最後まで見るという仁義は気に入ってます。しかしね、このチンピラ不完全燃焼なんです。もっとぶっ潰したいやつらがいるんですが、政治的にこの世界も解決するので、何か気に入らないところがあって親分を酒の勢いで切ってしまいます。自首するのですがやくざ社会では生きていけません。関東ところ払いが各組に回ってしまってます。そのところ払いの禁を破って東京に戻ってきた男をかばった少年院時代の仲間をも切りつけます。すでに薬中毒になってしまっていて、体も破滅に近いんですが。かといって一世一代の勝負に出ているわけでもないんです。何かが気に入らないんですね。私もこれが何かわからないんです。
まあ結局、次の日にも仲間の組に殴り込みをかけたので警察と破門になった組、殴り込みをかけた友人の組すべてに追われる立場になりました。もう彼には刑務所もないんです。
しかし彼は逃げもせずにしゃしゃあと破門になった組や仲間を殺してしまった組へ出向いていきます。この意味がわからない。そしてやはり追っ手が来るけど、たまたま死ななかった。そして自分で死んでいくのですが、彼の行動の源、考え方がわからない、まったく理解不能な映画でなにかしっくり来ないものでした。しかし、なにか実際の人物らしいんです。こんなわからない人物は実在するでしょう。なぜならドラマツルギーではこんな人物作りえないからです。あの三菱銀行の猟銃殺人強盗犯人とかもまったく想像を超えた存在でした。人間とは不思議であり、この主人公なりの仁義があったのでしょう。多分、常に死と隣り合わせにいなければ気がすまない、というより渡世とはそのくらい体を張ったものではなければならないものだと思っていたのではないでしょうか。しかし彼には才覚がないから事を起こせない、できることは一人で暴力を振るうことだけです。そこに彼の存在意義を見つけていたのかもしれません。
この映画は、あまり面白くはない。
4/28
「運命の女」エイドリアン・ライン監督 2003年
久しぶりにダイアン・レイン観ます。というよりショックを受けました。おばさんですね。
もともとずば抜けて美人ではないので、平凡な白人の中年です。また映画の始まり方が、ダサい。風で若い男と出会う。ここで観るのやめようと思いましたもん。リチャード・ギアはそれなりにかっこいいです。
どうでもいいけど、何か中身がなさそうな気楽な映画みたいです。しかしこの男の初めての抱きしめ方、そのタイミングはGOOD.つぼを得てます。このままなら、なるようにしかならないという感じですよね。
実際、愛というかセックスにのめりこみます。まあ女性は30後半から40くらいが性ホルモンが盛んですから、ありえる話でしょう。女のほうは頭から若い男が離れなくなっていきます。夫も疑い始めるのですが、妻の体が若い男を欲しているのですからどうしようもないでしょう。あとは時間が解決ですね。無理に夫が動くとこじれます。しかし動くんだなあ。架空出張を作って家を空けて、その間に妻の素行調査を依頼します。まあ妻はそのまま出かけて楽しむのですが。。。ちょっとつまらないので続きは後日、観ます。
この映画つまらないというより、こんな恋愛身近に多くありすぎるので、平凡なんでしょう。特に私にとってはね。これがロマンティックと思えるのは、周りに恵まれていないか、本当に平凡な人たちだけでしょう。結論は男が握っているんです。この映画ではどうなるか、身近のなんとかさんのケースとどう違うのか、あの人とは同じかとか、そういう興味しか残ってません。しかし、まあ時代が変わるもので、リチャード・ギアが情けないですね。
大体は、夫が黙っていると、戻っていくものなんですが、下手に調査しないほうがいいし、相手の男に会わないほうがいいですね。知らない振りをしているのが一番成功しているみたいです。一番だめなケースは、騒ぎ立てるケース。まあこれも周りの経験者を見た結論ですけどね。しかし殺すとは思わなかったですね。これですべては破綻します。だから馬鹿なんだよね、と言う感じがします。監督の性格でしょうが殺された男も実は結婚していたんです。それで別居中の妻から捜索願が出されてしまった。これじゃ、ABの夫婦ともに馬鹿見てますよ。不幸が突然襲ってくるというやつですね。
あと追加、子供がいるから話が変な方向に行くのですね。または子供がいるから元に戻るともいえるのですが、大体周りで見ているとともに子供がないもの同士がうまく行くみたいです。すごいのは男女ともに離婚して結婚というケースもありますね。この辺なんかこの映画を超えているような気がします。日本人もおかしくなってきたかもしれません。
映画では愛再発見で終わるんですが、そんなに甘くないよ。ちょっとかったるい映画です。その辺の町にいくらでも転がっている話ですよ。
4/29
「めぐり逢う大地」 マイケル・ウィンターボトム監督 2000年
久しぶりのこの監督の映画観ます。
アメリカに英国からの移民が流れてきます。カリフォルニアのシエラ・ネバタ山脈のキングダムカムです。1867年。ほとんど明治維新のころです。ゴールドラッシュでスコットランド、ポーランド、アイルランドなどからも来ていますね。それで西部はいろいろなコミュニティーができるのでしょう。
あとで説明するC(親戚を訪ねてきた)と鉄道会社の測量技師の男Bが近くの山にトレッキングに行く約束をしますが山が嵐で山小屋に非難します。Bは基本的に鉄道をどう引くかに影響力があるので賄賂をもらいやすい立場にあるんです。それでこの街はあまり景気がよくないのですさんだ雰囲気があり、鉄道がどうしてもほしい景気浮揚策としてほしいところです。
もうひとつの大きなうねりがこの物語にはあります。それは母と娘。ある男が女を連れてこの街にたどり着いたとき、お金目当てに採掘権と女を交換したのです。その女が子供を連れて戻ってきたのです。この娘Cが測量士と一緒に流れてこの村に来たのです。ここで告白するとこの母と娘と歌手、この映画には美人が3人も出てきます。それだけで画面を十分に彩るんですけどね。歌手はA、母はD。
ACでBの取り合いになりそうです。しかし父親に自分が娘だとわかる物を無言で渡すと父親もすぐに売った娘と妻のことを思い出します。娘はこの歌手のステージで(なぜなら歌手はCがライバルだと気がついたので積極的に近づいていった)あるポエムということでこの身の上を語ります。そして父親にメッセージを送っているのです。このステージのシーンは美しいですよ。
そうこうしていたらボスのお呼びが母と娘にかかります。目的は?ここはどきどきしましたよ。「だんなが遺産なしで死んだ。そして私ももうじき死ぬ。娘の生活だけは保障してくれ」というもの。なんというでしょうねえ。いまだに夫婦だ。やり直そうと。かっこいい、監督のピーター・ミュランです。役者としても「セッション9」とかありますよね。ついでに美人3人トリオはナスターシャ・キンスキ、ミラ・ジョボビッチ、サラ・ポーリーです。娘は結婚に反対して反抗的になります。というより自分の父親だということを知らないのです。さらにCが好きな測量士はこのときにこの町に鉄道を通すのは無理だと判断しているんです。しかしこの二人は引き合っていく。親の残した遺産は、土地は無価値に近くなってしまうんでしょうが。
しかし測量士は言わなくてはなりません。このことは人が死んでもおかしくないくらい重要なことです。街を作るということは何もないところから秩序を作ったので大変なことなのです。そして、Cに対して好きな人についていっていい、と母は薦めます。後で後悔するわよ、とね。
そして母の死後、父と教えられ、捨てたことを許しませんでした。ゆえに好きな人の元に走るのですが、もう何も亡くなった父は悲惨な死を遂げます。
まあ簡単に書きましたが、いい作品です。
4/30
「花嫁吸血魔(はなよめきゅうけつ魔)」並木鏡太郎監督 1960年
日本の映画って上映やテレビで放映されにくい作品があって、この作品も若干その傾向があります。なんというか差別用語とか身体の不自由な人をよく扱わないケースなどが昔の映画には意外と多いのです。
なにか吸血魔の一族がいて誰か仲間が来るのを待っているのです。それは闇の世界の話。
そして現実の話では、バレエ教室に通う美しい生徒(A)がある映画のスターに抜擢されるのですが、その家庭は破産して家の抵当権を執行されるところです。これは映画を撮るということでどうにか成りそうなめどは立ちます。
しかしバレエ教室では男をめぐって熾烈な女の戦いもあるのです。これはAはあまり関知しないのですが周りはAに持っていかれるのを悔しく眺めているのです。しかし女優の美しさは変わらないんですけどね。このころの女優はみんな美しいですよ。
Aをものにするために無理やり分かれさせられた女は当然Aを憎みます。冷静に考えると女と分かれてきれいな身になってから次の女にアタックするというのでやけにいい男ではありますよね(C)。実際はかなり二股かけるやつが多いですよ。
Aに求婚する男(B)はバレエ教室で妹がAと一緒で知り合ったみたいなんです。BCは別の男で知り合い同士なんです。CはBがぞっこんなのを知っているのですが、Cも遊んでみたいという気持ちがあるのです。たまんないのは周りの女。みんな男をAに持っていかれてしまいます。そしてハイキングのときに上から突き落とします。男と女Aはどちらに不幸にされるかと見ていたんですがやはり女でしたね。顔に傷を負います。
そのため、スターの座はだめ、ということは抵当権執行で家をなくし、母は自殺します。遺言で「おことさま」を訪ねろと、その人は唯一の血族だというのですが、この辺からなだれのように変な映画になっていきます。この変化はすごいですよ。この家系は平安時代からの陰陽師の家系とのこと。たぶん南朝について野に下ったんでしょう。それ以降祈りの悲報まで習得して代々引き継いできたらしい。まあなんでもありです。たとえば、自殺するんですがこの「おことさま」の血を飲むと傷もなくなり生き返り、復讐魔になるのです。しかしやさしいところもあり、昔の彼の婚約者については彼が新たに真剣に愛しているのを見て、かつ女が自分のしたことを心から後悔しているのを見て許します。愛する人が幸せになることを願うのです。しかし復讐の血がそうはさせてくれないですし、襲った後、鉄砲で撃たれて怪我をします。何か愛らしい生き物ですよ。いや化け物か。
最後は死ぬと昔の美貌を取り戻し、昔の恋人に見つけられ、多分安らかな死を迎えたのでしょう。こういうのは面白い映画だと思うんですけどね。
5/1
「L.A.コンフィデンシャル」カーティス・ハンソン監督 1997年
時代は「めぐり逢う大地」が大陸横断鉄道ができるときなら、こちらはハイウェイができるときです。まあ街が完成するときには裏の人たちも必要でしょうから、犯罪も起こるんでしょう。「仁義の墓場」の戦後の闇市もそうでした。
まあいい映画でしたね。ロードショー以来ですからもう6年近くになるんですね。誰と観にいったか覚えているので具体的な数字が言えました。昨年かな、この映画の原作の翻訳で商売している方がお客様でいらっしゃいました。この映画の話で盛り上がったことは言うまでもないのですが、その方は本のほうなんです。意外と調べれば誰かわかることなので調べてみてください。はい。
タブロイド新聞の記者が面白くおかしく記事を書くのですが、実際は脚色しなくても面白いことばかりあるというようなことです。
まずは「ブラディークリスマス」仲間の警官がやられたのですが、その犯人が捕まりました。その仕返しを警察内でしているところを写真に撮られてしまいます。これは一般紙。タブロイドのほうはちょっと警察とつるんで面白いようなできレースを書いているのです。
そこにまじめな警官が親譲りで刑事職希望でやってきます。この警官がまじめなやり方で最後を飾るという簡単な話です。あとは面白くなるような話が付け加わっただけですけどね。この映画やけに評価は高いです。実際にいい映画だとは思いますけどね。ちょっと変な話なんですがケビンスペイシーが出ているんですが彼を見ると「アメリカンビューティー」で朝からいけないことをシャワー室でしている姿をどうしても思い出してしまうことは付け加えておきますね。いけないこととは言えないんですが。あの印象は強いなあ。
このクリスマス事件でまじめな警官Aはすべて犯罪を明らかにして市民に信頼してもらわなくてはならないというのです。このため警察内部に敵ができます。当然ケビンではないです。かれをBとします。ちょっといい加減な刑事。彼がテレビの刑事ドラマの顧問やタブロイド新聞などの世話をしてます。それを利用してそれらの仕事を下ろすといい証人にさせます。まあ改革の始まりです。
逆に言うと汚職の最後の仕上げです。まあ上司が絡んでいるから仕方なしです。使えそうな刑事を部下に荒稼ぎして引退でしょう。
Bは風紀担当にまわされてポルノなどのチェック。これである娼婦とコンタクトとります。
しかしAがいくらがんばっても内部に先回りして、かつ行く手をさえぎり証拠を処分するやつがいるのでどうしようもないのです。さらに現場でいやいやついていった刑事がAのいうことを守り殉死してしまいます。この辺でおかしいと思ったでしょう。行くのがばれているんでね。だけど、悪いやつの手下にした刑事もだんだん悪いやつらの正体がわかってきます。そしてちょっと久しぶりに愛の味を思い出すとまっとうに生きてみるか、と思うんですね。この刑事の動きをAが気がつくのです。この刑事のほうが先回りしているんですよ。そしてこの刑事を飼いならしたはずの男は気がついていない。そしてABが組んでこの刑事とともに?解決の方向に導きます。しかしラナ・ターナー事件は笑ったなあ。「ロロ・トマシ」の暗号には感動しました。「グッバイモロッコ」の「ヒィーディアス・キンキ」も楽しかったですが子供の暗号は聞いているだけでもかわいいなごみがありますね。最後の銃撃戦は迫力ありました。まあいい映画です。
5/2
「時代屋の女房」 森崎東監督 1983年
これ観たとき、松竹で「蒲田行進曲」のリバイバルと2本立てだったような記憶があります。それでどうでもいいほうがこちらでした。でもこれってたかだか20年前の映画なんですが、こんな商店街や商店主の付き合いとかなくなりつつありますよね。懐かしい感じがすぐにしましたよ、喫茶店も出てくるんです。マスターが津川さん。大井町のあたりみたいなんですが新幹線が走っているので少し内陸側でしょう。雰囲気ですけど。この辺から川崎にかけて下町なんです。
あと私は夏目雅子のファンでもなんでもないのですが、この映画では結構かわいいと思いました。しかしなんといってもクリーニング屋の親父でしょう。駆け落ちをした時の思い出の切符がひょんなことで見つかってからは昔を思い出して明るく元気になるのです。いい思い出はいくつあってもいいですよね。あとは途中挿入されるイメージの世界の映像がとてつもなく映画的で良いです。この良さには今回はじめて気がつきました。映画全体の良さとも言えるのでしょう、今回この映画が良い映画だと初めて気がつきました。このようにある年齢を経てわかる映画というのもあるでしょうし、今観た映画が20年後に観るとまた違って見えるのでしょうし、面白いものですね。これは絶対に買わないタイプの映画なんですが、BOXについていたので仕方なく購入しましたし、20年前も仕方なく観た映画でした。もしかしたらよくやるのですが、ロビーで休憩していたかもしれません。映画との出会いもこう考えると、縁ですね。この映画では当時はまだいったことのない東北のシーンがあるのですが素朴でいいシーンです。いまではかなり飛行機や車で行くようになったのですが当時なぜ行かなかったかというと、目が海外に向いていたのです。時間あれば外国にばかりいってました。ですから途中、ちあきなおみだと思うんですが演歌が入るんですが、こういうつくりの映画は毛嫌いしていたと思います。いまではいい感じだなあ、と思うのですけど。
最後に「あぶさん」がいて歩道橋に姿が見えたとき、良かったねえ、と思ったのでした。
そういえば盛岡でおばあちゃんが記憶が曖昧になり主人公の気分を奈落のそこに落とすのですが、この記憶違い本当にあるみたいです。ちょうどおととい、介護の面接を受けたのですが、家族の状態ということで私も立ち会いました。そこで「本日の昼ごはん食べた?」という質問があったんです。私が「何食べたかでしょう?」と聞き返すと、食べた事実を覚えているかということらしい、これを忘れてしまう人もいるらしいんです。この記憶違いで主人公は本当に愛している自分に気がつくんですけどね。人間というのは面白いですよね。
5/3
「謎の戦艦陸奥」 小森白監督 1960年
邦画を続けることは避けようと思うんですが続いてしまいました。
昭和18年6月8日瀬戸内海、柱島沖で謎の大爆発をした、ということは事実とのことです。この映画も魂の鎮魂を含んでいるとのこと。そういえば松本監督のほかの作品も見ないといけないですね。「十六歳の戦争」はよかったけど「薔薇の葬列」がいまいちでしたので先に進めません。多分私が幼いのだとは思います。それはこの映画でも痛烈に感じます。というのは、兵隊の言葉がわからない。これ一回見ただけではたぶん理解できないでしょう。まともな軍事用語をしゃべられるとわかりません。ミッドウェイでの戦略の変更を山本長官が言って来たということ。この連合艦隊司令長官も4月11日ガダルカナルの近くで戦死。なんとうちの開店記念日ですね。
このミッドウェイで空母を失っても陸奥は引き返せと指示を受けていたのです。何ででしょう?陸奥が日本海軍の象徴的存在だからです。この陸奥と大和は結局は時代遅れになってしまったのですが。それはアメリカ軍が空母を撃沈させたことでもわかります。
その陸奥を沈没させて戦意喪失を狙うスパイたちがいます。とりあえずこのスパイは東洋系です。乗組員の国に対する憤りを利用して爆破させようとするのですが、それ以前に、国への忠誠のほうが上で失敗します。次なる手は、今アメリカで警戒している、靴に爆弾を仕込む方法です。結局スパイはドイツ人で爆薬庫に爆薬と一緒に積み込まれた爆弾が1つだけ見つからずに爆発してしまい大爆発になってしまいました。こうしてみるともったいないですね。先日の大和といい、意味のない沈没の仕方をしております。うちのお客様で60歳以上くらいの方に何気なく聞いてますが、戦艦陸奥は男女問わず、大体の方知っていました。私は存在自体も知りませんでした。
5/4
「富江(とみえ)」 及川中監督 1998年
邦画が続きますが、これはホラーとはいえ気楽です。漫画が原作なんで、少しいい加減なところは感じるのですが、すごく傲慢な女が出てきてその女Aが思った相手のすべてを取ってしまうという設定です。この人物は漫画の原作者の特典映像にあるのですが「昔女性恐怖症だった」ことから作り上げられた人物像らしい。その人物の名前がこの映画の題名です。しかしほとんど顔は出てこないで、嫌がらせをされる女のほうが中心で進行します。ですからこの女性Bが主役でしょう。中村麻美です。まずはこのBの近くに男の子Cが引っ越してきます。そしてCは何かを育てているのです。なにかこの泣き声が気持ち悪いのですが、「憎悪」とも呼べるような抽象的なものでしょう。映画では生き物ですけど。
Bは楽しそうな外見ですが、友人関係もギクシャクしているし精神科の睡眠療法にかかるくらい気の小さな女の子です。専門学校(写真だと思う、関西から一人上京、彼氏と同棲)くらいなのでしょうか。3年前の事故で記憶障害にはかかっております。何の事故かということですが。
ともあれ、このころから嫌がらせが多くなります。自転車壊されたり、真夜中の泣き声や無言電話など。
そして刑事が来て、事の真相というか事実関係がわかってきます。3年前Aがある学校に転校してきてクラスが崩壊したとのこと。そして逃げるようにAが失踪した。その先がBのいるクラスで仲良しになったんですが、Bの彼氏に殺されたらしい。しかし遺体がない。この理由を求めてはこの映画はだめなんです。Bが彼氏をAに奪われそうになり、最後まで理由を探していましたが、理由がないところがホラーだということ。ただ、何回も生まれ変わったり、寄生虫のように乗り移ったりするのか、Aは何回も殺されている記録があるのです。今回は冒頭に出てきた変な生き物を男が飼っていましたがそれがいつの間に大きくなって「富江」になったのです。菅野さんかなり、気持ち悪いです。でもかわいい子らしいですね。まわりで好きだという人結構います。初め「えっ」と思いましたけど、かわいいのでしょう、と思うことにしました。そして、かなりの驚きはあるんですが、この男はABと同級生だったんです。そして精神病院から脱走したらしい。彼自身も自虐の性格があるんですが(それが「富江」の命令かもしれませんが)。彼が言うのは学校のみんなでAを殺してばらばらにしたんですが、Aの首が土の中で生きていたとのこと。これは実写で見たかったです。今モラルの問題があるのか、ばらばらにするシーンとか少ないですよね。昔ホラー映画を見ていなかったので、昔規制される前の映像というのは見てみたい気もします。ホラーはここ最近見るようになってしまいました、だって怖くないからね。怖いのは怪談系。特にうらみとかで死んだ霊の話。確かに生首とか出てくるんですが、作り物とすぐにわかるし、結局、怖さというのは不条理の中にも存在しますが、自分の罪悪感と対になっていると思います。悪いことをしていないので、怖くないんじゃないかと思います。人をだましたり、早い話、殺したりしているとこういう映像でも怖いんでしょうが、私はまったく怖くないですね。しかしかなりいいつくりの映画だと思うんです。そして監督のセンスもいいと思うんですけど、なにかホラーオタクではないでしょうかね。
そして映画はだんだん、この場所でもABの周りの人がいなくなっていきます。死んでいくのです。中でレストランの従業員が惨殺されるケースがあるのですが、このレストラン自体がはじめから胡散臭くて、なんというか店の大きさにしては従業員が多すぎるし、店長が遊んでいるし、プロが誰もいないという店なんです。でも厨房にたかなし、ショーケースがあったので神奈川近郊でしょうか。町の遠景も映るんですが町田っぽい(小金井の近くみたい)。どうでもいいことです。飲食店なので気になったことでした。
最後にABの面会になるのですが、今回の「富江」は前のときの記憶があって、仲良しだった女の子を忘れられないのです。だから仲良く縛ってかわいがるのです。サディスティックですよね。ゴキブリを食べさせようとするし。
それは人間の持っている嫌な一面なんです。そしてABもこのような人間の表と裏の関係にあったとかいうおちがつくんです。もう少し予算かけると豪華な物になったでしょう。しかしこれでも十分にいい映画だと思います。最近の日本映画はホラーも大きな特徴ですよね。
5/5
「三毛猫ホームズの黄昏ホテル」大林宣彦監督 1998年
早く洋画に戻らなければならないのですが、今回も邦画にしました。冒頭の根岸さんの「どこもかしこも不景気な話で、なにか、ぱぁーーと明るい話はないの」というのには笑いながら同感です。自分のうちだけ寝正月だなんてみっともない、という感覚はわからないですけど。
しかし話は殺人事件に急展開するのですが、とにかく、変な映像だと思うんですが、というよりセットというのが見え見えなんですが、慣れてしまうと心地よくなるという不思議な世界です。この監督の「HOUSE」もそんな映画でした。ここでも負けず劣らず、美人、美男子(これは意外とこの監督では少ないかも)が次から次と出てきます。そして途中で気がついたんですが、この映画を見たきっかけは「あぶさん」つながりの三毛猫ホームズだったんです。
10年前に殺人事件が起こったのですが、その現場のホテルにそのとき泊まっていたものが招待されます。余計なものもいるのですが、その辺は楽しくするためです。役者では宮沢さん竹内さんあたりがいいです。ところがまた今回も殺人事件が起こるのです。さてそこで陣内さんの活躍、かな?
まあ都合よく、登場人物がクロスして知り合いになったり、このパーティーに参加したりで面白くまとまっているのですが、最終的な原因はやはり愛でした。それもずっと昔の愛です。それが子供や他人を巻き込んで今に至るまで尾を引いてました。一番は死んだホテルの主人が自分の子供を自分の子供ではないと感じるところから始まります。しかし、自分も不倫をしているんですが、相手(妻)には不倫を許さないという男の勝手な考えで事件が大きくなり、殺人までに発展するのです。結局、大きな事件になると関係する人が増えて、その人たちも自己都合はあるのです。それらが密接に絡んで変なことというかドラマになるのです。ですから解決は猫がしなければなりません。ということはないのですが、人間関係のしがらみがないのは猫くらいです。
映画とすると、こういうの大嫌いという人がいるのはわかります。アングルとかセリフとか、大道具が作り物と一見してわかります。しかし、その作り物の上で見世物としての役者、見世物を作っている監督という観点で見ていると、役者も監督もがんばっているなあと思える作品だと思います。何気なく見ると最後まで見てしまう、そんな映画です。しかし南野陽子さん、美人ですね。歌は一曲も知らないのですけど。
5/6
「自殺サークル」 園 子温監督 2002年
この映画は小説と漫画があります。漫画のほうで興味を覚えました。この漫画自体はネットの中で誰かが評価していたのを興味本位で読んでみたのです。漫画は読むのに時間がかかるんですが、この漫画は1週間くらいで読めた気がします。どうも漫画の絵を何コマか見ると休憩という読み方しかできないので早く読めません。私とすると「富江」に続いて現代ホラーを見るということも今年の傾向です。ちょっと前というより昨年以前はほとんどホラーは見ませんでした。あとSFね、見ないですねえ。しかしこの脚本は映画版は評価低いみたいです。なぜかなあ。漫画は古屋兎丸とか言う人だったと思います。
かなり有名だと思うんですが、女子高校生の集団自殺(これは大迷惑だろうなあ)から始まって(実際見た人は一生忘れない景色でしょう)看護婦が次々と窓から飛び降りるシーンへ脈絡なくつながります。問題はfaxとスポーツバック。このバックの中には人間の皮膚が縫い合わせてありました。
事件の糸口が見える前に次から次に自殺者が増えます。ある高校生なんか、自殺しようなんて冗談の会話から本当に飛び降りてしまいました。そのときみんなでどんな死に方がいい、なんて冗談で言い合っていたのですが、覚せい剤中毒で死んで生きたいとか、乱交が先とか信じられない言葉がぽんぽん出てきます。本当ですかね?
ひとつ、面白いきっかけがあり、ある匿名の子が自殺サークルのサイトを見つけるのです。単に死んだ人の数が記載されるだけなのですが、逆に言うと、記載されたら、近いうちに自殺者が出るということです。漫画では学校の先生が見つけるんですが、ちょっと映画は社会問題として扱っているところがあります。そして犯罪なのです。この主犯者たちといわれる連中が出てくると急にこの映画の質が落ちます。漫画のようにしたほうがよかったのに。そしてあまりに自殺が多すぎます。見ていても自殺者ばかりじゃないか、というあきれた気持ちにもなるくらいに多いのです。そしてついに主人公の刑事の子供まで自殺して、その後かかってきた電話に刑事が出たら、実存についての問いかけがあり、自分自身に実存を認知できないから死んでも良いという論旨のことを子供に言われます。そこにヒントがあるのですが、簡単に実存を他者との関係性において電話の主も説明するのです。これで人間は社会的動物として十分だということに気がつかないのです。そして拳銃で頭ぶち抜き。ここもそうなんですが、他人の脳が割れる瞬間を見たものは一生覚えているんでしょうね。私は親戚以外では葬式のほかに死体は一度も見たことはありません。そこに死体があると知っていてカバーかぶせてある状況はシカゴで一度あります。
とにかく主謀者たちは捕まります。喜んで捕まっていったのです。現代の日本のチャールズマンソンだと言って。
しかしそれで終わりません。アイドルがこの自殺クラブに関係しているみたいなのです。そして自殺はとまりません。そんな時このアイドルグループのコンサートに集合となるのです。場所は「リリィシュシュ」と同じ代々木。ここ撮影しやすいんでしょうかね?
ここの楽屋で本質が見えます。肌を切り裂きそれをつなげることで肌、すなわち自分のものを他者と共有して別の次元でひとつになるのです。肉体を離れるということですね。ですから、肉体はどうでも良くなるという安心感が生まれます。それが安易に自殺できる理由となるのです。
そして刑事の娘の肌もひとつの皮膚のつながりに見つけ、刑事の部下が娘を探してプラットホームで引き止めます。しかしいってしまいますけど。そしてコンサートのほうは「勝手に生きようよ」という言葉で解散ということになります。このアイドル「デザート」というのですが本当にあるんでしょうか?ですから終わり方は永遠に暗い。
音楽はスカーフェイスみたいでいい音楽でした。この映画、私は好きですね。世間の評判は悪いだろうね。若い監督です。今ネット見ましたが評判悪いですね。実存とかの定義があいまいとのこと。あと結末があいまいという指摘が多い。まあそうですね。しかし評価できるレベルだと思いますけど。
5/7
「DEAD OR ALIVE 犯罪者」三池崇史監督 1999年
これは狙ってみているわけで、面白くないという人もいるでしょうが、私は好きですね。しかし冒頭で気がついたのですが最近、邦画ばかりというだけでなくやたらと大映作品ばかりです。しかし改めてみると、いいテンポですし、こんな描写は普通のまっとうな人生を歩んだ人ではできないだろうと思えるシーンの連続です。私も負け惜しみですが、このような世界と縁がないのでこういう映画が面白いのです。
途中「やくざはやくざですよ」というせりふがあるのですがやくざって何を持ってやくざというのでしょう?多分広域暴力団の指定を受けている団体と入所契約を交わした人たちみたいなものなんでしょうが、やっていることとすると、証券会社とかもやくざ的なところは十分にあります。最近はモラルハザードがひどいため誰がやくざかわからない面もあります。まじめそうな人が痴漢やってみたり、教師が教え子に手を出すとか訳がわからなすぎることが多すぎます。
まあ衝撃的なカットのつぎはぎですが、それなりにうまく編集しているのでなんとなく納得してみてしまうんですね。新興愚連隊と刑事の戦いです。前者が「三毛猫ホームズ」の竹内さん、後者が「黄泉がえり」の哀川さん。結局チャイナマフィアというのか?と歌舞伎町のやくざと刑事の三つ巴の話です。
横浜の中華街がロケで使われるんですが、知り合いの店の近くどんぴしゃで出てきました。びっくりした。うちから歩いて6分くらいのところです。
しかし刑事の娘が多分日本では非合法の生体移植が必要でそのために必要なお金が2000万円。やくざに借りにいくという矛盾が生じます。
あと関係ないのですが途中大学の経済学の講義の場面があるのですが、「自殺サークル」がハイデッガーの「存在と時間」をいい加減に引用したようなせりふがあるという批判にさらされているのは書きましたが、ここでもマルクスと共産主義について、大学の先生とは思えないユートピア発言をします。聞いてて馬鹿じゃないか、と思いましたもん。この講義アメリカでしたら笑われますよ。映画は変なアカデミズムは入れないほうが批判浴びなくていいと思うのですが。それより迫力ある銃撃戦のほうがいいなあ。容赦ないもん。殺すときに躊躇したら自分が殺されるという世界です。ここまで感情のない銃撃戦はこの監督の真骨頂だと思います。ほかの国も含めてこんな銃撃戦はないです。あの浣腸のシーンといい、ありそうでなさそうでやはりないだろう、という映像です。笑い。だから映画なんですけど。
刑事、チャイナマフィア(愚連隊)が、やられ、仕返ししつつ、最後の決闘に挑みます。あとは有名なシーンになるだけです。内容?そんなものはないです。何か音楽と映像に酔いしれて、暴力を楽しむ映画でしょう。あっという間の時間でした。こういう映画って映画館出たあと気分いいでしょう。
5/8
「スリーピング・ディクショナリー」ガイ・ジェンキン監督 2002年
ダークエンジェルのアイドルらしいんですがこのテレビ番組自体知りません。
しかしまさに満州事変1936年のインドネシアでの英国人と現地人の交流です。すぐに日本が関係する時期ですね。
イヴァン族というのは英国人を受け入れるとき、言葉がしゃべれるように英国人に一人女の閨の女房役を置くとのこと、そうすれば男Aも女Bもお互いの言葉をすぐに覚えられるという付き合い方をしてきたらしい。ゆえにお互いが閨での辞書、すなわち映画のタイトルということです。Bがダークエンジェルの人でしょう。Aは拒絶するのですがそうすると現地の人に馬鹿にされますし、今度は変わりにホモの男を連れてきます。趣向が違うと思ったのでしょう。
そしてBの積極性と慣習に負けて受け入れます。このときにAは童貞。ですから女にはまっていきます。お見合いの相手を連れてきても愛は普遍だ、見たいな純なところがあるのです。このまま愛を貫いて終わりとかいうと久しぶりに見た洋画迫力なく簡単すぎてつまらない。
展開は川の上流から違う部族の遺体が流れてくる。そのため調査に行くと原住民には受け入れられるけどオランダ領から逃げて銀山の採掘をして一儲けしようとするやつらに出くわす。これらをこの近くの原住民に知らせて森を壊すやつらがいるというととりあえず退治してはくれるんですよ。この辺で一生の愛を誓ってどこかで生きていこうと思い始めるんですが、このように何かが起こっても愛の方向に進むだけで何も変化なし。さらに英国のベースの模様が映るんですが、ここもあいも変わらず、娘がどうしたとか、ここは住むところではないとか、そんなことばかりで行ったり来たりの内容です。そして障害は英国人も現地人もともにどちらも英国の女、現地の男から相手を探せというのです。
そしてお互いにあきらめて、英国の娘とロンドンで結婚します。「しきたり」ということですが、Bも日本が攻めていったとき生きていたのでしょうかね。この映画には戦争の影があまり反映されておりません。ここで映画的なのですが、結婚後もまた以前の仕事を完遂させたいとインドネシアに戻ります。本当に新しい生活を始めるのなら違うところに行くべきです。この辺はいらいらしました。予想通り、Bを探してばかりいて、子供抱いた姿を見つけると回りに僕の子供か?と聞いて歩きます。そして、また会いたいと。馬鹿か。
そのため、Bの今の夫が嫉妬で襲ってきます。そのためAを襲った罪で死刑にしなければなりません。ここでひとつの事実が明らかになるのですが、BはAの上司のやはり「スリーピング・ディクショナリー」との間の子供だったのです。ということはAの上司とAの子供は血がつながっているのです。そして死刑の判決は出しましたが、犯人を逃がします。そのときBと一緒に逃げようと。人生捨てました。
しかしAの英国の妻との間にも子供ができてますし、お互い約束の時間に間に合わないようなことが起こるのです。すれ違い。そして追っ手。一緒になったと思ったら、捕まりそうになる、そこを原住民が助けてくれる。多分そのあともずっと彼らと一緒の生活という終わりです。さすがに見え見えの話なんで退屈はします。しかし良い話ですよね。
「ムルデカ 17805」藤由紀夫監督 2001年
まあ前に見た映画が「スリーピング・ディクショナリー」なので流れからして当然ですよね。ほんの数年後の同じような地域のことです。出てくる人物像がまったく違ったりしてね。1942年3月1日のオランダ領ジャワ島。きわどいですね。オランダ領でした。ABCDのうちの2カ国ですね。英国とオランダ。し8かしね。「東から黄色い人がやってきて、島を幸福にしてくれる」という伝説があるといって日本兵に近づいてお辞儀する様子はさすがに宣伝映画っぽい。単独でこの映画見ればよかったかもしれない。確かにこの映画は少し偏っていると聞いてはいましたがねえ。あと、最近戦争映画ばかり見ているので、しゃべり方やらしぐさすべてがおかしい映画です。「これ、ちょっと」という気持ちが出てしまいます。たとえば、オランダ軍司令部に単独で中尉Aが乗り込んでいくのですが「お前が軍人だとなぜわかる?」と聞かれ、「この軍刀にかけて信じてもらう」というような趣旨言うのですが、「戦艦大和」とか「人間の条件」とかにこんな兵隊は出てきませんでした。これらの映画の監督は実際に戦争へ行っているんですがこの監督はどうなんでしょうね?それより「東宝」のマークがはじめに出たのですが、東宝はご存知のように労使問題で映画が作れないときに、黒澤監督とか大映や松竹で映画作ったり、新東宝という会社で労使問題に関係のない人たちが映画を積極的に作っていたはずです。ですから新東宝は少しナショナリズムがある映画つくり、東宝は左翼系だと思うのですが、まあ時が変えたのでしょうか。それはおいておいて、オランダが無条件降伏をするのですが、そのときは今村均中将なんですね。彼はかなりの人物と聞いております。ちょっと調べてみたくなりました。あと(映画から離れてばかりいますが)一連の戦争映画で、今回初めて中将なんてすごく位の人が出てきました。それだけ大上段に構えた映画なのです。
まあやわらかい話題をひとつ、それはこの映画にもジェシカ・アンバに似た女の子が出てくるのです。「スリーピング・ディクショナリー」なんでしょうか?笑い。この子がAに現地の言葉で話しかけてしまったのですが理解できなかったでしょうと謝るのですが、Aは「理解できる、君の目がすべてを物語っている」というのです。閨での講義はなかったみたいです。大爆笑。それくらいこの映画冗談な変なテンションの高い変な映画です。まったく人には勧めません。
これも置いておいて、「大東和共栄圏と大東和戦争貫徹」の矛盾がこの一兵卒に襲い掛かります。まじめに大東和共栄圏、欧米支配からの脱却を考えていたんですね。ここでのAの上官に対する反抗的な態度、普通じゃないですよ。ほかの戦争映画ならかなりの刑罰が待ってます。と、そんなことしているうちにミッドウェイで空母失って山本長官の戦死(このあたりは字幕でのみの解説です)でこんなところの日本軍は追い込まれてます。
そしてジャワ防衛義勇軍が組織されました。ちょうど戦艦陸奥が爆破されて数ヶ月のころです。そして行進するのですが、その次のシーンで玉音放送、ちょっとねえ監督、ジャワの日本軍がどういう戦いをしたのか、連合軍がどう攻めてきたのか飛ばしすぎですよ。
しかし戦後9月に英国、オランダ軍が侵攻してきたことは事細かに描いてます。ジャワは無傷だったんですかね?絶対にそんなことはないと思うのですが。すくなくてもこの映画は信用できないから機会あったら調べたほうがいいでしょう。
そして、あくまで現地の人に慕われていたAは隊長としてインドネシア独立のために戦います。その部下たちもついてきました。さらに現地の女と恋にも落ちました。なにがそうさせるのか?あえて第二次大戦と書きますが、理念モデルは植民地解放ですので、その理念を信じきった男がいてもおかしくはない、ということでしょう。そして昭和24年になり、下手すると朝鮮戦争の前夜ですね、首都ジャカルタを攻略を挑戦します。まあ成功するんですが、それで終わり。国家が安定してから家族のものが慰霊に来て終わり。
やはり監督は戦後生まれ。せめて戦前で空襲経験あるとかだとまた違うのでしょう。それくらい変なつくりです。
しかし忘れてはならないのは、この映画に出てくる日本人は実際にいたということです。このことは以前から知って感動しておりました。この映画はその感動を深めてくれるものではありませんでしたが。まったく知らない人は見てもいいのかもしれません。
5/9
「価格破壊(かかくはかい)」和田勉演出 1981年
この当時わくわくしてみた記憶があります。「ザ・商社(夏目雅子さんのすごいシーンがある)」とか「けものみち」はそれほどと思ったのですがこれはつぼにはまりました。基本的に政界財界をテーマにした話は好きです。最近では拓銀とか山一の倒産廃業の前数週間を追ったドラマできるといいと思います。実はかなり知り合いがいていろいろと話を聞いております。まあ作れないと思いますけど。
薬の安売りの話です。まあちょっと前までは薬は定価で買うものでしたので、安くすれば商品に差がないだけに定価の店はたまりません。たとえば、「うちは資生堂の商品に、何がしの付加価値をつけてます」なんて売り方はできないのです。いまでは定着してますし、このような小売店が付加価値をつけられない商売はたとえば、DVDなどは安売りの対象になってますね。これなんで再販商品にしなかったのでしょう?CDは逆に安売りがないですもん。多分、ここで出てくるメーカーが圧力をかけるのではなく、価格コントロールしたかったのでしょう。特にメジャー系。
ここではすぐに問屋、メーカーから圧力はかかるし、近所の薬屋は廃業するしでかなり外部環境が悪いです。まあファーストランナーなんで仕方ないでしょう。すごい圧力ですよ。しかし「戦争から生きて帰ったんだ」と言い聞かせてがんばります。一連の戦争映画はここを主張してましたよね。「戦争を生き抜いたものこそ戦争を真実欲しない」まさにこのことです。そして戦争で飢えを経験しているから、食にも貪欲ですし、すべて地獄(戦場)よりはまともに見えたのでしょう。しかし経験していないものが増えてくると通用はしないでしょう。日本の戦後の原動力は多かれ少なかれこのようなことにも起因していたと思います。
「消費者がついてきてくれる限り努力する」という言葉は良いですねえ。メーカー批判はすごいものがあります。それを仕入れて売るだけの小売を維持するというのも難しい話ではあるんですけど。今の日本はこの先に来ちゃっているので、現状しか知らない人はつまらないのかもしれません。あるたとえ話があるんですがメーカーが価格維持に躍起になってあまり安く卸さない商品の原価が5円(定価180円)とのこと。まあこれくらいでないと儲からないわけですがね。何せ人件費が高い。
話は戻して、薬局時代につぶされた薬局の娘がこのスーパーに就職するのですが「はじめはどんな商売しているのか見てやろうと」という気持ちでしたが、いつのまにか「商売の鬼」になって行きます。この時点で会社が大きくなって妻の役割が仕事上では減って行きます。大きくなっていくときというのはそんなものです。しかし気になることがあるのですが、出店ラッシュの時に「規模の経済の享受、日銭が上がる、そして土地価格の上昇」という言葉、かつ「銀行は金を貸すのが商売で、利子くらい返せなくてやっていられるか」ということです。実際にはご存知のようにこれで危なくなったし、銀行まで巻き込んで危ないわけですからね。
この映画では常にお好み焼きやが比較で出てくるんですが、「合理化ではなく、話題づくりと客寄せでっせ」と言われます。そういった時代になってきたとのこと、スーパーでも店頭販売を始めます。現実にこういうことをやっている人は、現役なのでこのような話は過去のものでしょうが、確かに変遷はわかります。配送センターの設置が画期的だったときです。今では当たり前ですけど、当たり前になると本当に利用しているかどうかが疑問にもなるんですけどね。最近、私事ですが、DVDとか購入して運送事故かなりあります。あと注文して在庫がないとか意味がわからないんですけどね。管理が難しいのでしょう。実際店でも、作るのは意外と簡単ですが、維持管理は難しいです。
するとメーカーから休戦の話が持ちかけられます。内容は再販維持価格を守ることで、バックマージンをメーカーが負担するということです。これに戦いを挑みます。メーカーは製造番号から仕入れルートを洗い出しするつもりです。製造番号を消して安売りをやっていた時代があるのは私も知りませんでした。このころはまだメーカーも小売り重視してくれていたんですね。いまでは切り捨てられてます。笑い。
ここで、このスーパーの進出でつぶれるべきところはつぶれた、そのあとの戦いが始まります。スーパーにはスーパーで対抗。そのために薬局から入った娘を引き抜きに来ます。
この彼女は仲間を引き抜こうとしますが、多分この女に恋心を持っている男が一人だけついていきます。まあ人望があったんですよ創業者に。引き抜きでうまくいくのでしょうか。
ここからすさまじい迫力が出てきますよ。
問屋は付き合いがある以上新しいところへはより高い卸値しか出せないといわれます。そして盗品を卸すところから仕入れることにします。
スーパーの社長はこの新たな敵を歓迎しているんですよ。流通経路が闇に包まれるか、逆に一緒に突破口が開けるか見極めたいというのです。前向きな男です。そしてばかげた値下げには静観して様子見を決めます。というより私はこの主人公に肩入れして観てしまってます。前回、23年前ですか、そのときもそうでした。たまたま見たんですけどね。
また、例のお好み焼屋もビルにしてきれいにした分だけ、客足が遠のいてしまいました。どうするべきか?聞かれて社長は「撤退だね」戦争で負けたなら退く。おっしゃるとおりです。私の商売の話は置いておいて、ずっと見てきた戦争映画で失敗しても攻撃して行った日本軍、あの戦艦大和などの悲惨さ、とアメリカ軍がフィリピンから撤退して軍を立て直してミッドウェイで勝利して流れをつかんだ様子身にしみて感じているのでしょう。
そして新しいスーパーは、実は計画倒産だったのです。何の利益があるのか?手形切って仕入れする時点でおかしいと思わなければいけないのですが、そこは任してしまい鵜呑みにして、現業ということでスカウトの連中をすべて役員にして代表権や利益相反取引に引っかからない立場に自分たちを置いておいて、逃げたのです。残った連中はたまりません。
強力なライバル出現とよりがんばった社長も悲しんでます。結局は元の状況に戻って孤軍奮闘しなければならないわけですから。
つぶれたスーパーの親子も法人ですから、役員としての義務しかないと父が言い聞かせます。そして「すみません」と経営責任だけを謝れというのですが、日本はそうは行かないんですよ。結局はお金がなくなるまで追われます。
そして昔いたスーパーに本店と支店の売却(債務込み)での打診をします。ここで女は終わり。しかし本店だけを買い取ることにして、電気製品を始める方針です。この電気製品もダイエーなどの大型スーパーの不振の原因であったはず。先が危ないですね。日常のものを買うところで、数年に一回のものをついでに買わないのです。消費習俗の違いはスーパーの消費提案でも変えることはできないですし、新製品のサイクルが早すぎるのです。食品はその価値、味のよしあしは普遍的なものですけどね。
しかし最後にかけて、今まで締め付けていた連中がすべてスーパーの社長を頼りにしてきます。男一本で戦場から這い上がった男に負けたわけです。所詮サラリーマンなんですよ。
結局、薬局の娘は平凡な男と結婚して普通の生活に戻ってしまいました。そして主人公はまだ戦い続けるのです。というところで終わり。
本当にいい映画です。絶対のお勧めです。音楽は今とはまったく曲調が違う加古隆さん。
5/10
「まあだだよ」黒澤明監督 1993年
この映画は良いですよ。晩年の黒澤監督の映画は良いです。「八月の狂詩曲」も良かったですけどこの最後の映画も良いです。
この作家は売れる前に30数年も教師をしていたんですね。内田百閨Bおかしいことにこの映画も戦争と関係します。ちょうど陸奥が爆発した年からスタート。学徒出陣もすぐでしょう。
しかし良い先生には良い生徒ができるというのは良く聞きますがまさにこの映画はそんなことばかりです。そこらじゅうに笑いや楽しさは充満している映画です。またせりふや構図が本当に良いんだ。監督のセンスはすばらしいです。こういう楽しい映画が最後の映画というのも良いですね。いい監督というのは最後に良い映画作りますね。今村監督とか新藤監督とかどうでしょうね。深作監督はやはり良い映画で締めておりますね。
「方丈記」(鴨長明)の心境でどんなところでも落ち着いて、心平穏に過ごす毎日、その四季の移り変わりがきれいに描かれてますし、どんなぼろやでも出かけるときは正装して出るというのは良いです。いまは勝ち組サラリーマンも意外とラフなかっこうするでしょう、あれは好きではないんです。おしゃれって重要だと思います。
「摩阿陀会」の様子は見ていても参加しているかのように楽しいです。参加者の動きが生き生きしているんです。本当に楽しい宴会とはこんなものでしょう。そして男子校なので男しかいないし、生徒のほうも家庭があるはずなのに、何でこんなに無邪気に楽しめるのでしょうか。
次は「ノラや」です。愛猫のノラが失踪してしまうエピソードなのですが、子供と同等だったのでその落ち込み方は深く苦しいものでした。しかし大黒様はまわり心配してくれたみんなの優しい気持ちと理解してから元気になります。迷った因幡の白兎は自分であり、大黒様は自分を見守ってくれた人々ということでしょう。そしてすばらしい「摩阿陀会」はずっと続いているのでした。そして最後のシーンで見た「夢」。本当に善意のある良い人ばかりの映画でした。
5/11
「永遠のマリア・カラス」フランコ・ゼフィレッリ監督 2002年
まったく知らなかったのですが、マリア・カラスは日本公演を恥じていたんですね。引退のきっかけになったみたいです。その前にオナシスと泥沼になっていたんでしょうか。精神的ダメージは晩年大きかったみたいです。
そしてこの映画は過大な期待をしなければ、人生の再生、みたいなヒーリング効果はあるでしょう。それ以上でも以下でもない映画だと思います。では嫌いかというと嫌いではなく好きな映画なんです。
ちょっと良いとこ取りの感じがするのですが演じてみたい役を「カルメン」というのがいいです。一度はみてみたいですよ。一度も現実の舞台を見たことがありません。そんなの上演の機会も多くないですし。メッゾ・ソプラノで良い人が少ないせいもあるのでしょう。今はバルトリで観てみたいですけど、チケットとか買えなそうですね。
映画の中で、ファニー・アルダンの方ですが、マリア・カラスの役を演じているのですが、そのカラスが若い俳優が楽屋に訪ねてきたときに思わずキスをしてしまうシーンは良いですねえ。ファニー・アルダンの演技は素晴らしいですよ。ここでね、カルメンと逆のことが起こるのです。この辺はこの映画のいいところで、ドン・ホセ役の男の俳優が先ほどの若い俳優です。
次は「椿姫」ヴィオレッタ役とこの映画でのカラスがそっくりなので問題ないでしょう。
その哀れな娼婦の雰囲気を打破したいと、「椿姫」はやめて「トスカ」(最高ですね)で間バックしたいと考え始めます。前向き思考になりました。よく考えると、カルメンとトスカですか、すごい情熱的な役ばかりですね。この2つは歌がうまいだけではなく、存在感すべてが演技に要求されます。本当に適任なんてそう簡単に出ない役ばかりですよね。さらにトスカに関しては彼女自身名演を残してます。大丈夫でしょうか?と私も思ったくらいですのでやめましたね。そして程なくの死。まあドラマとしては出来がいいと思います。
現実に観客は、どんな人生だったかは事実としては知っているので再構築は難しかったと思います。しかし、あまり書きたいと思うことはないのですが、観ていて時間がたつのが早かったことは事実です。難しい構成だと思いますが、うまい編集でした。
5/12
「新宿黒社会チャイナ・マフィア戦争」三池崇史監督 1995年
この映画は初期の作品ですが、逆に私は好きな方の作品です。「フルメタル極道」とともに良いですよ。しかしまったく人には薦められない映画です。麻薬、ホモ、殺し、何でもあります。目玉くりぬきもね。
まあはじめに歌舞伎町で中国人がらみの殺人事件が起こります。これが首を切られて死んでいるのです。まあ最近見る映画で首を切るシーンが多いこと。何か異常です。しかしこの映画ですでに9年前の作品なんですよ。この監督の作品を見るときいつも思うんですが、この監督は横浜の映画学校出身なので慣れているのでしょうが、これだけ中国人と日常的に接する町は日本でも少ないと思うのですが、日本の田舎とかでもこういう映画は受け入れられるんでしょうか?やはり旅行していて感じるのですが、外国人とかが少ない町の方が多いですよ。ましてや犯罪が絡む外国人がうちの近くには多いので、なんともなく見ることができるのですけどね。
それを追う刑事A(椎名)、逃げる謎のがきBの関係がまあ中心かも、という程度です。しかしまあ、タイトルが出るまでがすごければタイトルが出るところもすごい。女を椅子で叩きのめしますもん。こういう映画良く作れるなあ。この刑事が暴力団とつるんでいる。というか金を受け取っている。そして中国残留孤児で中国人に育てられたのです。よって両親は中国人。そして弟がいて弁護士。映画ではグレて兄貴に反発します。この辺のセンスは私は大嫌いなので観ていながら、兄弟協力しろよ、と心の中でいつも叫んでます。
さあ、簡単な流れ。日本の暴力団がいます。そして台湾から流れてきたチャイナ・マフィアというか愚連隊がいます。彼らは故郷に病院を作って臓器売買をしてます。そして刑事が中国系なのでわかりにくいと思いますけど、チャイナ・マフィアも王道とこの愚連隊とに別れること、さらに日本の暴力団もいくつか絡んでいることを除けば簡単なストーリーです。なんとなく中華街を浮かべると簡単にわかるんですけど。笑い。この暴力団から金もらっているからAは愚連隊を掃除したいという気持ちと弟をこいつらから放したいという気持ちで意地の捜査をします。
Aは台湾に不法滞在者の強制送還のために向かいますが、これは映画として面白くするためでしょう。まあ上司の情けで言外に調べてこいという事はあるんですが。そして実際に行くと周りの村は疲弊して薬物中毒患者ばかりです。それで子供の臓器を売ってしまうというモラルハザードが起こるのです。結構この監督このころは問題提起が多くて、この映画だけでも生体間臓器移植、中国残留孤児と天皇の戦争責任(Aと弟の名前、天皇の名前に近い)などをちらつかせております。答えは出さないところがずるいけどね。
映画に戻りますが愚連隊(映画では王一味)とAにかね出していた日本の暴力団の取引が成立してAはいらなくなってしまった。
あとはピンチも切り抜け、弟を両親の元に返し、愚連隊の大将を殺して終わり。この映画は上で書いた複雑な組織の関係は意外と単純なままに終わりました。日本の暴力団とチャイニーズしか出てこなかったですね。
そしてAもいつかは殺されてしまう。このように一作目は気持ちが入り込みすぎていて実にまとまりが良いです。しかし決してひとに薦めません。
5/13
「オーロラの彼方へ」 グレゴリー・ホブリット監督 2000年
かなり前に観た記憶があるのですが、まだ2000年の映画なんですね。廉価版が出ました。ラッキー。
ナイチンゲール殺人事件、これだけなら面白くないので、オーロラを兼ねます。それは道具として過去と現在とつなぐ役割をします。そして父と息子をつなぎます。運命も変えるのですよね。何かてんこ盛りです。
1969年10月10日が「ヒートウェーブ」で始まります。この歌オリジナルは誰なんでしょう?声はリンダ・ロンシュタットみたいですけど。エルビスが好きな旦那は(Aとします)「サスピシャス・マインド」をLPでかけます。いい曲ばかりですよね。そしてハム無線(これも「コンタクト」以来2回目ですよね)で現在とか遠い地域と無線がつながってしまいます。
そして舞台は1999年10月10日。当然地上では30年の歳月がたってます。みんな年を取り息子(B)は30数歳。今離婚の危機です。物理学は宇宙の軸が10から11あるのではないか(まあ10次元の世界とかですね)、というストリングス理論が隆盛になってきてます。(実は知りませんでした、最近物理学チェックしていないです)それで第二の時間があるということです。そして30年ぶりにNYの下町(近所の人が子供のときから一緒に遊んで大人になっても交流があり、人のうちのどこに何があるか知っている)でもオーロラが見れるようになります。これで舞台は整いました。量子論で過去現在未来の時間の流れは取れるというのですが、今の量子論ではそうなんでしょうか?笑い。昔の量子論では、まあ哲学に近いわけですが、時間はゆがむ、でなかったでしょうか?
まあこの近所の友人の子供が勝手に無線機を出してしまったのですが、いつの間に無線を傍受します。ここで30年前とのコンタクト、それも父親とのコンタクトが可能になったわけです。初めのうちは気がつかないのですが、無線の向こうに子供が出てきます。その子供と無線の相手のやり取りが自分と父親のやり取りに似ていたのです。自分の声を聞いていたんですよ。ここが映画なんですが、死ぬ前の日に無線が通じたのです。ということは無線で死ぬ原因を教えてあげれば対処できるわけです。実際事故死なんで、違うルートを教えてあげるのです。それで助かってしまう。ということは現在において、父親の命日も変化するということです。助かった瞬間、いろいろな時間軸がクロスしたかのように、また新たに発生した父親との時間が突然、未来でもあり過去でもあるかのように頭をよぎります。ここで時間軸はずれました。みんなの記憶も変わります。今度は肺がんで10年前に死んだということになりました。ということはあのあと20年間生きていたわけです。逆に母親が先に死ぬという記憶が生まれました。今現在生きているのですよ。父親が生きてしまった関係で、他者に影響が及び、ナイチンゲール殺人事件の被害者になってしまったのです(Bの母親は看護婦)。ほかにも被害者が増えます。
そのため、あらかじめ事件が起こった日付がわかっている分には無線で父親に現場にいてもらい犯人を見てもらうことにしたんですが、犯人の気に障ることをしてしまい危なく殺されそうになります。そのとき財布を盗まれそうになるのですがそこに指紋がついているのです。現在にそれを送ると、指紋鑑定からは犯人が特定できました。元警官。
しかし盗まれた免許証から容疑は父親にかかってしまいます。現在では息子が犯人の元警官に詰め寄ります。現在と過去で同時にこの男に迫っているのですけど、もう一歩向こうのほうがやけになっていて、あとには引かないくらいに殺しに来ます。
まあ過去の方はとりあえず解決したのですが、そこで殺していれば現在の方で襲われることはないのですが、行方不明という状態にしてしまいました。現在の方の危険はいまだあるというとき、過去の方も襲われます。同時というのは考えもしなかったので、面白い展開ですよ。過去の方が犯人の手を撃ったとき現在では手がなくなりますが、そのとき過去と現在の融合が図られました、なぜならばこの事件は解決できる状態になったからです。そして過去から現在に来た父が犯人を撃って解決。事件も被害者は少なくて、家族そろって今でも生活しているとさ。こんな感じの寓話です。最後はNY郊外の善良な人々のささやかな(ヤフーで儲けた人を除くか)人の生活を映して終わります。本当にいい映画ですね。
5/14
「サハラに舞う羽根」シェカール・カブール監督 2002年
「エリザベス」の監督というだけで観てしまいました。1884年の英国ですか。世界の四分の一を支配ということですが、欧州のこのような植民地支配については何もとがめられないのは、結局はいまだに欧州勢力が強いからでしょう。その英国で祖国のために戦わないものを示すものが「白い羽根」とのこと。はじめからラグビー、キルト、ティーと英国を示すものが出てきます。
はじめに若い二人の婚約発表があるんですが(女をA,男をB)そこでの席のダンスの場面ダンスの音楽を止めて映像だけ躍動的に音楽はピアノ一本というのはきれいです。
まあ彼らは軍隊なのですけど、その軍隊の練習風景を見ていると強そうもないです。英国の支配は産業革命を背景に他国にない武器で、技術優位性のもと実現しているので兵士の力は人口のままでしょう。人は石垣なんですがその人口がないのがやはり衰退の原因ともいえます。というよりもともと面積が小さいですからねえ。
案の定、アフリカで氾濫があり鎮定に向かいます。Bは結婚を前にしているし、怖さもあり除隊願いを出します。当然受け入れられません。そのくらい丁重な教育を彼らは受けているのです。上でも行ったように弱いだろうと観ていて思えるくらいの英才教育です。砂漠ではそういうのは通用しません。当然「臆病者」のレッテルは貼られます。Bの友人のCはBを信じているのですが、Bはもともと帝国主義に反対なのでしょう。Aも軍隊に戻れといいます。結局破局してBは失意のうちに民間人として単身スーダンに向かいます。そこで砂漠を越えて英国軍の基地に向こうとするのですが、ガイドに裏切られ砂漠で置いてけぼりを食います。砂漠で一人はつらいでしょう。そんな中Cは英雄として本国に帰ってきます。Bはまるっきりシェルタリングスカイです。倒れたところ現地人に拾われた。
そして現地人とともに英国軍の荷物持ちに採用されます。しかし現地人もBをおかしいと思い(スパイの可能性もある)現地人も高級部族と低級部族がいるのです。その低級部族の一人Dと話すようになります。BDは行動をともにしますが高級部族中心の反乱軍が英国軍の要塞を占拠しているところに入っていくとBだけ連れて行かれます。そこでDは単独に英国軍にこれから襲ってくると知らせに向かいます。Dも高級部族を一掃したいのでしょう。信じない英国軍は四方から攻められます。角陣を組む英国軍に攻めるときの迫力は「アラビアのロレンス」を上回ります。味方の援軍が来たと思い逃げるアラブ軍に追い討ちをかけると砂の中に隠れた兵隊が飛び出してくるし、援軍は先ほどの要塞を占領したときに英国軍から奪ったものです。Bは見た目がアラブに見えないのでこの兵隊に属してました。そして敵だということをいち早く教えるために先に飛び出したのですが、まさに英国の兵隊、それも多分Bの親友でAの今の恋人に撃たれます。映画ですから馬が撃たれて落ちるのですが、英国軍はもうだめでしょう。しかし素晴らしい戦術です。Bは親友だけ助けますが親友が自分の許婚と結婚するつもりなのをもっていた手紙で知ります、そこで現実の厳しさを知るのですが、親友もまた戦場で怪我をして目が見えません。Bが助けなければ死んでいたでしょう。そして帰国しました。BDがある程度まで送ったんでしょう。ロンドンではAが待ってますが目が見えないというのをあってはじめて知ります。そこに戦友がきて戦場でBを見たというのです。そのあと仲間の戦友を助けに刑務所に行ったと言うのです。
その後は刑務所のシーンですが、「ミッドナイトエキスプレス」みたいなものです。Dがたまたま差し入れてくれた毒薬を戦友とBは二人して飲んで死のうとします。アラブ上流階級の司令部の人間の方がしっかりしてます。同じ日に英国人捕虜が死んだと聞いたらすぐに死体置き場に行きました。タッチの差でDが救出に成功します。この薬は「ゾンビ伝説」にも出てきた薬かもですね。あの映画もお勧めです。
しかし追っ手が来ます。そこで二手に分かれますが、玉が一発しかないのでどうしても不利。最後の命の叫びを思いっきりぶつけてどうにか追っ手を殺します。この叫びは生存本能なのでしょう。愛も失ってますから。そうしてDと別れて友人を連れて英国に戻ります。Aに会うのですが、Aは「白い羽根」を返してといいます。「これはずっと僕を守ってくれた」という言葉でわかりました、Dもほかの上級原住民もこの羽根の意味を知っているか、現地ではいい意味なのでしょう。
最後に助けたAの夫となりそうな親友の演説。「両隣にいる友人のために戦う、彼らとともに過ごしたよき思い出のために」という締めくくり。結局ABは一緒になるでしょう。神の思し召しです。笑い
まあ、とてもいい映画です。
5/15
「連合艦隊(れんごうかんたい)」松林宋恵監督 1981年
時代は違いますが「人間魚雷回天」「戦艦大和」があまりに良かったのでこの映画初めて観ます。普通はこの手の映画この時代には時代遅れの印象で見ませんでした。
はじめに大陸での失敗を海に求めた、と出てきます。満州事変などの後ですから、海軍が出てくるのは対中国戦略が滞りをしてからなんでしょうか?
3国同盟にも時間がかかったみたいです。そして海軍が一番慎重な態度だったらしい。
そして真珠湾攻撃にさしても空母の重要性を認識していながら、なぜ戦艦大和、陸奥にこだわったんでしょうかね。というより作りきれなかったんでしょう。
海軍の命令系統は軍令部にあったけど責任が連合艦隊にあったとのこと。連合艦隊司令長官はアメリカの太平洋艦隊の壊滅をまずは考えました。とこう思うと筋が通る攻撃ですね。その前に海軍が反対していたことは忘れてはなりません。状況が戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずして亡国は民族の魂を奪う、という後ろ向きのぎりぎりの選択が真珠湾だったのです。この辺昔詳しかったんですが、実体験ではないので忘れてしまいました。実際経験されている方は忘れようとも忘れることができないものだと思います。
真珠湾攻撃で空母がいなかったのが大きかったと山本長官のせりふ。それに引き換え日本は戦艦大和を作ってしまった。戦術のミスです。真珠湾攻撃は戦略の成功、空母がいなかったことは不運です。というのではないか、12月8日にする必要はなかったので空母を確認しなかったミスですね。
そしてミッドウェイ、ここに南雲機動部隊と主力部隊(山本長官含む)が出撃するにいたって、がっぷりよつの戦いをアメリカに仕掛けました。今のアメリカからするとぞっとしますけど。この頃も同じだったんでしょう。ミッドウェイのところは悔しいですね。避けていて、後ろから機動部隊を全滅させられてしまいました。日本が空母を沈められなかったのと逆に日本は空母を沈められてしまいました。アメリカのできレースだった感じですね。あとは軍部と連合艦隊との意思疎通の不徹底。かつナチスの場合もそうですが連戦連勝のおごりと休養と称しての息抜きに穴があった感じです。相手は家を奪われているのでその抵抗が大きいでしょう。これは逆に言うと、太平洋戦線よりもヨーロッパ戦線のほうが抵抗が大きいように思えます。自分の家を失っているのですから。太平洋は植民地ですからね。
次はガダルカナルです。私の昔の先生はここで生き残った人でした。とりあえず玉砕した島ですよね。すさまじかったらしいです。
空母一隻のみになってしまい、空母を守るために引き返す航空機もあり助かることは助かりますが、あとはだめです。という書き方よりも何かを守ると何かが薄くなる、というように資源に限りがありすぎました。
あとここで一兵隊の婚約取り消しの話が出てくるんですが、まさに「静かなる決闘」と同じで戦争による婚約破棄です。良い人材がかなり散っていったのでしょう。「静かなる決闘」とはたまたまでしたが、これほど重なってみると感無量になります。
そして山本長官の死。情報が漏れていたんですね。日本はもう少し情報を重視するべきでした。アメリカは情報戦争に完璧に勝っていたのです。
そして日本は禁断の学徒出陣。実戦経験がないから特攻隊にまわされるんですよね。人間魚雷もそうでした。映像では、たぶん立教だとおもう、大学が映ります。そしてひどい場合は同じ囮の船に兄弟が乗り合わせることもあったのです。空母「瑞鶴」です。囮になって敵をひきつける間に南方で今ある連合艦隊の主力部隊を無事前線に通す役割を担っているのです。この空母の艦長もまた優秀な人材でした。山本長官が出て行くのを止めた男です。しかしです、無線が通じなくてこの囮作戦が失敗したと思ったのです。そして作戦を土壇場で変更。致命的です。
「至誠通天」そして、もう最後。戦艦大和を意味もなく出撃させます。このへんは「戦艦大和」のところで詳しく書きました。「愛する人たちのために戦う。人に愛と犠牲がある限りその民族は滅びない」うーー、まさに「サハラに舞う白い羽根」のテーマそのものです。素晴らしい言葉です。
5/16
「丹下左膳余話百万両の壷」 山中貞夫監督 1935年
欲の張り合いが面白いです。はじめに壷に百万両の在り処が書いてあるというのが胡散臭くないでしょうか?笑い。100万両ということは1両金貨100万枚ですよ。普通じゃ考えられない。あとこの殿様、柳生の守。これも胡散臭いですよね。城がすごい立派です。
この殿様いらないものと持って弟にあげてしまった。ところで取り返しに行くとき「兄上様がお家大事のお宝が」なんて使者のものが言うから弟も返してくれない。壷の名前が「こけ猿の壷」これわざとらしい名前です。はい。弟もこけ猿なんで馬鹿にされたと思ってくずやに売ってしまう。
的や(遊技場)にこのくずやの住んでいる長屋のものが出入りして遊びほうけているのですが、その的やでの弓や遊びの場面で丹下が登場するのですが、そこの女将さんに歌を歌わせようとするまでの音楽の流れはもう映像が踊ってます。素晴らしいですよ。これはよくこの監督が天才だと言われますがそうでもあるのでしょうが、このころまでの日本の遊び場の雰囲気がすごく良かったからではないでしょうか?粋ですよ。弓が曲がっているという、いちゃもんには用心棒の丹下が「やろう」と出てきます。
まあ「壷」については弟も妻にせかされて探しますし、兄貴の方も弟のところにないとわかったら日雇い雇って探してます。
弟の方は前の日に的やの前を通って女将の歌声聞いていたので遊びによってみます。すると女中は歌を聴いていたのを覚えていて、話が弾みます。まあ弟もろくでもないやつですね。
丹下は女将と一緒に長屋の男を捜しに出かけます。こいつは大店の主人と偽ったことを言っているのですが、たまたま件のくずや、に会って道を聞きます。しかしこの男が死んだことを伝えなければならないので行って見ると小さな男の子一人で「こけ猿の壷」で遊んでいるのです。お父さんが死んだとはいえなくて、女将のところで食事をさせていると、丹下の方が子供にまいってここで育ててやることはできないのかと女将に聞きます。それはできないというのですが、件の壷がここにあることがポイント。あの弟も妻に急き立てられ壷を探すと出てはこの的やで休憩ばかりしているのです。そこに小僧として壷の持ち主がお茶を入れたりしております。
冗談だろうけど、望遠鏡で弟の手代がおみくじの方向を探っていると見つけます。そして弟の妻の方を呼び寄せると妻はそこで一緒に魚釣りをしている夫を見つけ職務怠慢を発見してしまいます。そこからはだましあい。弟をくずやが見つかったと案内しますがそこで丹下とこの子供の関係がわかります。しかし妻は遊んでいたとわかり表に出してくれません。
兄貴の方は広告戦で壷をすべて買うという戦略、丹下が売ろうと前金を受け取ってくると子供はめんこがほしいと、金を上げるとそれをめんこにして両替屋の子供から大金を勝ってしまいますし、売ろうとした壷は子供が大事にしていると女将に言われて売るのをやめます。金を返しに行きますがあとをつけられます。
両替屋に子供がお金を返しに行くときこのあとをつけてきた男に大金を盗まれます。問題は親同士というか女将と丹下にもかかってくるわけです。
その問題で女将と丹下が喧嘩していると子供は詫び状を書いて家出します。そんなことをさせてしまったのか、と今度は丹下が博打で勝負します。余裕がないときは負けるでしょう。次の日は道場破り。まずは弟の方が経営している道場に向かいます。すべての門弟は負けます。ここの拳闘のシーンは素晴らしいですよ。役者の基礎が違うという感じがいたします。そして妻に急かされて主人たる弟が。しかし丹下とは的やで知り合いです。影で「負けてくれ、いくらほしい」と「60両」「それはちと高い」「しかしまけられない」というやり取りの末、負けます。丹下も弟の方も面子立ちました。おかしい。百万両の思いやりですね。
しかし男の子は壷を売りに行きます。助けようとしてです。(もう童話ですよね)。しかしぎりぎり間に合います。この辺は活動写真です。そして弟たる道場の主は表立って壷を探しに出かけます。そして丹下に預けておき、見つからないといいながら浮気を続けます。もうこうなると教育の問題ですよ。何でこの時代の日本人が優秀なのか、山中貞夫監督だけでなく、たくさんの優秀な人材が出ております。これは教育以外には考えられないことだと思います。
しかし見事な作品です。70年前ですよ。実はこの人のシナリオ集も持っているんです。久しぶりに読んでみましょうかね。もう一度、近いうちに幻の場面ありのバージョンを見てみたいと思います。「人情紙風船」が入っていないのが残念です。
5/17
「デモンズ」 ランベルト・バーヴァ監督 1985年
山中監督の「丹下左膳」の次にこれを観るというのもおかしい話ですが、三池監督にしようか迷った末、ホラーが良いかなと思いました。この映画にはまったく関係ないことですがイタリアって日本と3国同盟結んでいたんですよね。この映画もそうですがそんな面影まったくないというか、戦うタイプの人たちではないですね。そういえば、サッカーで戦っているのか。イタリアでナショナリズムが盛り上がったというのはイタリア統一の流れなんでしょうか?ちょっと前に統一したばかりですもんね。フランスがシチリアから攻めてきたんですよね。まあ関係ない話です。そういえば大戦でイタリアはどこに進駐したのでしょう?アフリカはわかるんですがあとはたとえばナチスと相手を挟み撃ちにするとかという戦略があっても良いと思いますがねえ。すみません、最近戦争映画ばかりなもので。
まずは主人公の女学生Aが地下鉄で不気味な仮面の男を見ます。地下鉄を降りてもその顔の残像が頭から消えません。すると近寄ってきて恐怖の絶頂なのですがグランギニョル系の映画か舞台のチラシを配っていたのです。それで安心して友人も誘って見に行こうとします。会場はオブジェがロビーディスプレイされており、映画自体はノストラダムスの予言の碑を見つけたりして若いカップルが興味本位で楽しんでます。しかし映画自体は劇中劇の感じで、アキロンの大王が来るようなことをしてしまいます。デモンズのお面をかぶってしまうのです。その瞬間、映画を見ていた観客にも何人か頬に傷ができます。映画と現実の境がなくなるのです。映画の中ではお面をはずすときに同じ傷ができているのです。そして映画と同じくゾンビというかデモンズ(悪の手先)になって映画館の観客を少しずつ襲います。映画館の中が映画と現実とで混乱します。私はまったく怖くなかったですし、混乱もしませんでした。
とにかくハイテンポで襲ってくる。多分当時は見ていて飽きなかったでしょう。私は最近三池監督のでこんなの慣れてしまっていて何馬鹿な演技しているんだと思うようなひねくれた見方しかしませんでした。
後は劇場内での惨劇、そして観客は劇場から逃げようとして四苦八苦する様子、それにも変わらずデモンズの犠牲者が増えていく様子が描かれてます。しかしたまたま外から侵入した若者たちがいます。彼らがトリックスターになるのかもしれません。
しかしどんどんやられます。でも大事なことは一貫して友人が被害に会うと助けようという姿勢があるということです。置いてけぼりにはしないという勇敢な態度があります。
あとどんなひねりがあるのか、と見ていたのですが、ただそれだけ。2人だけ劇場の外に逃げたのですがそこもまたデモンズにやられてました。まだ普通の人間たちが逃げるのに拾ってもらって逃げるのですが、女のほうはデモンズになり彼氏ではなく乗せた連中が容赦なく殺します。そして彼らは果てしのない旅へ。まるっきり「28日後」みたいな映画です。なにが面白いのか、なにが怖いのかまったくわかりませんでした。
つまんない。
5/18
「女はバス停で服を着替えた」 小沼勝監督 2003年
北海道の鹿追と地域合同の映画みたいです。北海道は今景気最悪状態が数年にわたって続いているので、景気浮揚策でもあるのでしょうか?笑い。映画で景気あがれば言うことないですよね。映画でも不景気さが満ち溢れております。出てくる映像に銀行があるか探すのがまずは基本ですが、銀行は今では不景気なところは採算が合わないから撤退してますからね、出てこないですね。
まあ東京から、鹿追に来て廃業した食堂を借りて「そばや」を始めたい男が出てきます(Aとします)。そして今のところはそば農園で働いてます。元手なしで飲食業を始めるというのは虫が良すぎますが、まあ映画でしょうし、友人も気前がいい。私もこんな人と出会いたいですよ。元手なしからですからねえ。大笑い。同じころ女が故郷?に帰ってきます(Bとします)。まあ田舎に二人も若い?層が増えたわけです。これは滅多にないことでしょう。これも映画だから良いでしょう。というようにこの映画はこの監督の往年のきれ、センスはないです。居酒屋の店主は客のコップの口をつけるところ持つし(ここは持っては絶対にいけない場所)、いい加減なんですよ。主役の二人に魅力がないのが一番の欠点ですけどね。二人ともその辺の居酒屋のお客さんという感じ、そういう意味では違和感はないのですが、きらめくような感じはないです。エロくもないし。多分わざとでしょう。実物は良いと思います。
ただし「そば粉」を水回しで丸めていくときの指導はあっていると思います。最近私は作らなくなりましたが、タルトの生地作りとまるっきり同じです。そばって同じジャン、と思いましたよ。爆笑。細かいことを言えば「そばの生地」を伸ばすときの力入れ具合が違います。一番違うのは「粉は生きている」と指導を受けながら、女が来たらそれをほっぽって話に出てしまうところ。それは違うだろう?プロ目指しているのだろう、と思いました。あと時期が同じなんですよね「すずらんの花」が出てきますし、セロリの味噌漬けも出てきます。セロリの味噌漬けはおいしそうですね。
「かんだにっしょう」という画家のふるさとみたいです。美術館があります。すごいすいてそうな美術館です。この画家も何か意味あるのでしょう。Aの子供のときの思い出の絵でもあるみたいです。そしてBがAに「ここには帰ってきたの、それとも逃げてきたの」と聞きますが「わからない」。なんとなくこの気持ちはわかります。「東京では夕日なんて忘れて生活できたもん」という言葉のあとの答えです。
まあ昔この二人は何かの過ちがあったのでしょう。多分不倫。
まあしかしそれを忘れてサルサを友人の結婚式で踊ろうとAはBを誘います。このサルサ見ものです。コンクールで入賞しているのですごいものなんですが、それはすごいものです。場末のバーみたい。
BはAに間接的に求婚しますがAはたぶん昔のことがあり、「そば」を打ち続けています。Bは相手にされません。そのとき、そばの厨房でそば粉をBがひっくり返して「そんなことやめて」と狂ったようになるのですが、本当に見境がなくなったのでしょう。この頭に来たときの動作というものがありますが、間違っても私は粉をひっくり返すようなことはしません。なぜならば、掃除が大変だからです。Bは飲食業に向いていないですね。同じことをBはAに言われます。
ほかに並行して若いカップルが出てくるのですがこちらも、めんどくさい関係。2つとももっとはっきりしろよ、といいたい。いじいじしているな。
さて友人の結婚式です。祝辞もダサい、次の「てんとう虫のサンバ」はこれはサルサの踊りを引き立てるためにこんなにひどいものにしたのでしょう。Bは結局会場に来ました。
サルサを二人で踊るんですが、ここまで下手なら、瞬間きめのポーズのコマドリしてつぎはぎでよかったと思います。下手に長回しされるから見ているほうが恥ずかしくなってしまう。
しかし、最後に美術館でBの方からAに抱きついて「またいつか会えるよね」というせりふは妙にいいなあ。もしかしてここ狙っているのでしょうか?そうしたら大成功です。このシーンは秀逸ですもん。
さて大団円。床屋の娘の前を通ったら髪を切ることに。この娘は、若いカップルのほうです。また、俳優は中村麻美といいまして「富江」の嫌がらせをされる方の女の子の役をやった子です。一番輝いてました。そしてこの映画では田舎に残ることにしたのでしょう。この辺はあいまいですが、どっちでもいいですよ。
問題は、ABですがBはまた立ち去ることに。ここに来たことは意味があったのでしょうか?
もちろんあったのです。そして次のステップに進めばいいのです。思い出すかどうかは性格でしょうね。多分、ABともに思い出すタイプです。まじめな映画だなあ。
5/19
「バージン・ブルース」 藤田敏八監督 1974年
この映画見た記憶がないです。しかし最近この年代から80年くらいまでの映画をよく観てますね。当時は洋画しか見てませんでした。音楽がミッキー吉野、タケカワユキヒデというのも知りませんでしたし、三井銀行が存在してます。かすかな記憶ですよ。三井銀行だけの看板というのは珍しいです。長門さんも先日の「丹下左膳」でお父さんを見たばかりです。あの弟の道場主を演じていたのが長門さんと津川さんのお父様ですよ。
また場所は幡ヶ谷近辺ですが、30年前なら記憶があるので街並みとか懐かしいものがあります、というような年になってしまいました。そして主役は女子予備校生A。長門さんは脱サラのラーメン屋のご主人(Cとします)。たまたまAの友人Bと一緒にスーパーから逃げ回ったときCと出会います。そしてハンバーガー屋に連れて行ってもらいます。たしかこのころ、マクドナルドが日本に入ってきたと思いますのでまだこういう商売もあったデすし、携帯とかないので日常的に喫茶店とかでお金使っていた時代です。あと本もよく買いましたね。
まあCも借金取りに追われて逃げていたので、Cの家に逃げるわけには行かず、寮の前にいると近くのラーメン屋の出前持ちに出会います。その男Dのところに逃げ込みます。Dが3畳一間の屋根裏で、部屋の中のポスターとか時代を感じるとともに、風呂にも入らないで寝ることができるのはこの時代の人なんです。いまはシャワーとか浴びないと気持ち悪いと私でさえ思うようになりました。Dは働いているところの出前ごまかして二人に食べ物持ってくるしABがスーパーから逃げたのは万引き見つかったからだし、Cは妻に働かせて借金取りから逃げながらも女を買うし、「お前ら、まじめになれよ」とさすがに画面に向かって言いました。みんないい加減すぎる。ラーメン屋とかばれないですかね。うちみたいに少量のケーキしか作らないとすぐにわかるんですけどねえ。
ABは仕方なくCを頼って田舎に帰るから金貸してというと一緒に行くというのです。Aの実家が農家ということで山を安く売ってもらおうとするのです。まあどうあれ、ロードムービーの始まりです。この辺から面白くなりそうですよ。このロードムービーすごいのは映画の中でABの写真撮ろうとする若者が写っているということです。予備校生を電車が着くの待って写真撮らないよね。結構町歩いている人の視線とか、完全なロケですね。監督までエキストラで出てます。
実家には警察から連絡があり、それを先に探りに来たCは聞き出してAが実家の敷居をまたげなくなります。またまた面白くなりますね。岡山周辺の案内でもしてもらいましょう。幸い岡山県は一度しかそれもツアーでしか行ったことがありません。それも、やったあ、「倉敷」行ってみたいところです。ラッキー。30年前の景色が見れる。すげえ、多分「大原美術館」の中庭で野坂昭如の歌が聞ける、という特典つきです。いいなあ。
Bのほうは実家で座敷牢です。岡山って岡山出身のやつによく聞くんですが田舎なんですよね。私のイメージでは神戸、姫路に近いと思うんですがやはり遠いみたいですね。
まあ倉敷のほうに戻ってAはいとこと称する昔の男(Aがバージンをささげたみたい)に会いますがこの男、ストリップ劇場を中心にメッセージを発信したがって劇団みたいなものを作っているんです。次の発信メッセージは「自動販売機でものを買わないでください」、私には大うけしました。「お金を入れると物が出てくる、これは人間を堕落させる」という論理みたい。こういう人今でもいますかね?そこにCがAの「バージンを守る」といって仲を割って入るのですが、実は、Aは、という感じでCだけが浮いてしまいます。
Cは結構まじめなんです。ここでAもCとともにまた出てしまうのですが、下津井城あとなんていいですねえ。このへんで金子が切れてきます。旅も終わりかな。Bは捕まります。その晩ACは激しく抱き合います。何かいているのかわからないかもしれませんが、先がない二人が刹那的なたびをして、その場限りを楽しく、危うく生きているとこんな感じになるのかというのはわかります。長門裕之さん 秋吉久美子さん二人はお似合いの役でした。この二人だから面白い映画になったと思います。こんなに面白いと思わなかった。すごく得した気分です。
5/20
「寒椿(かんつばき)」降旗康男監督
昭和初期の祇園からスタート。何か復習みたいですね。最近この時代の映画ばかり観ております。すぐに高知。何でこの映画観ているかというと、高知に行きたいな、と思っているからなんです。しかし主役、西田さん、始めてみる感じ。「釣り馬鹿」を観ないので意外と縁のない俳優です。
うん、西日本一といわれる「ようき楼(すみません当て字にしておきます)」に芸妓を紹介していた(Aとします)男の話みたいです。面白そう。小奴(Bとします)は松崎という桶屋に預けられます。この町並みきれいです。高知ではないのかもしれませんがいいところです。セットも多用されてますけどね。
Aと離婚したく実家に帰っている妻と子供を追いかけて妻の実家に行って子供(Zとします)だけ連れ戻します。これ男の子なんで跡取りなんですよ。
まあ、話が進むとすると東京から金持ちが来て(金貸し)毎日毎晩宴会してどうしようにも手がつけられない状態になっているんですが、静かにしてくれと行くと拳銃突きつけられるけどひるまないでいると、こいつらは出て行きます。
次の問題は、役人が借金して娘を形に差し出してきたんで、それをAが受けるのです。この娘Dはバスの車掌をしていたのですが父親の借金で売られるわけです。まあこのようにエピソードが列挙されているわけですが登場人物の紹介を兼ねているのです。結局、「ようき楼」がDを受けてくれたので、かなり安心できるのです。そのときAの過去の話をDは聞かされるのですが、Aは昔はどうしようもないばくち打ちだったんですが、ほれた女ができてきれいに足を洗ったらしい。こういう話って私は好きなんです。それでDは芸子の修行をさせられるのです。その練習風景は「女はバス停で服を着替えた」のサルサよりぜんぜんうまいですよ。これは良いです。しかしDの俳優の立ち位置が高いのでひょんな印象を受けてしまうのが欠点ですね。小さくまとめるといい踊りができます。
まあ時代は公職選挙法が選挙権者を一挙に増やして、選挙の行方が見えなくなっており、そこに二つの陣営にやくざが絡んでくるのです。ひとつはAとつながりの深い「どめき」親分。もうひとつは先ほど「ようき楼」で馬鹿騒ぎしていた金貸し(Fとします)。
水面下では選挙に向けて動いているのですが、映像は郷土相撲です。このシーンはいいですよ。とにもかくにもFの元に世話になっている元相撲取りがDをとにかく好きでいろいろな事件や、シーンとなるのですが、なかなかDは気がつきません。DはそれよりAのことが好きみたいで、そのために公職選挙に立候補した二人から同時に身請けの話があってもどちらかに決めかねているのです。Fの肩入れしているほうでないほうにDの身請けが決定しました。Fも選挙運動しているといいながら何もしていないんですがね。勝ったらがんばりました、というタイプです。このFの元にいてDを好きな男(G)は金を借りてでも身請けしたいと言い出します。選挙結果は大体見えているんですが、どうなるんでしょう。政党の名前で実はわかるんです。これは現実の歴史なんで。はい。
まあ二つの政党の立候補者の影でお土産を盗みそれを自分の支持者や相手方の支持者に配るということは行われます。
その裏で「ようき楼」に近い政党の息子というか立候補者は不祥事をしてカツGにDを持っていかれます。Gの単独行動なんですが、Fはそれをも利用します。関係ないと言い張り、両陣営がGDを探し回ります。ここで関係ないのですがGのことを好きな女がいるのですがこれは裏切られた形ですけどかわいい俳優なんですよ。Dより良いかもしれないなあ。
先にFがGDを抑えるところがいい。そしてAが引き取りに来るのですが「Dの不心でご迷惑をかけ」といってGを説得してDを引き受けに向かいます。このことはひとつ示唆に富んでいてこういう相手の気持ちで納得できる理由を考えて説得に向かうということが重要ですし効果があるということを示してます。私も商売上いい勉強になりました。
そしてこのFは不祥事の資料を自分の立候補者ではなく相手方に返します。Fはからす、になってます。どっちでもいいように、そして自分は裏の世界で長く生きていけるように策略してます。そして息子にDなんて田舎娘じゃ、大きくなると邪魔になる(その通りです)と指導すると自分のところに来ないでGが連れて行ったとはいえ夜逃げした女だし、と捨てる気持ちになります。そうなるとライバルのほうも要らない、女の売り方を失った形です。そうしてAのところにきて愛を告白するのですがAは常識を持って良き道を検討します。そうして議員になった息子のところへ引かされるんですがFが策略してそのまま満州の女郎にDを売り飛ばします。このころ満州が建国ラッシュで女郎を売るといい商売になったらしい。これは逆に言うと戦争映画で満州が出てきて女郎がいることでもわかります。それを国内のこんな小さな幸せも知らない女の子を中心に描くとこういう話になるのです。ということで結構好きな映画です。満州にDが売り飛ばされると知ったAはどうにか女郎の仲買人のつてで途中で引き渡してもらいます。「価格破壊」でも出てきましたが商人同士の絆は意外と固いものです。便宜図ってもらえますからね。お客様はお金の関係でしょうが取引はお金では買えないものがあります。連れ戻して、多分、いろいろと犯されひどい目にあったんでしょう、Dの変わった姿を見たAは(高倉健さん並みに殴りこみでしょうか?と思ったんですが本当にそうなります)殴りこんで、警察までぐるなのを暴くのですが殺しはしない。これ後で致命的になると思うんですがね。
ここで都合よくGは出所して、Fのお金をすべて持ってDのところにいきます。当然Fの追っ手は来るわけで(まったくGはトリックスターですよ、出てくると話がこんがらがるような存在)、ここでGの一世一代の大勝負になるんでしょう。Aの残ります。しかしそれを観てDも逃げるのやめるんですよ。観ていていらいらします。何のために戦ってんだよ、と。しかしGに刺さりそうな刀を手で止めてしまうのです。Dの手は当然切れて落ちてしまう。そのまま逃げても最後にFが追いかけてきます。(いままでの追っ手はどうしたんだよ、とも思えるんですが)Fの撃つ拳銃にあたってAの息子は危篤に。当然、逃げるよりとめて勝負したほうがいいです。刺し違えるんですが、Aは一応生きてます。後はごたごた話しが続くんですがどうでもいいでしょう。
しかしこの話の中でも、ことあるごとに、ここには住めない、大阪、東京に逃げようという話が出るんです。ここなんですよ、田舎で生活するには「筋」の通った生活しかできないのです。都会はいろいろな人がいるから、ごまかしが利くけど。田舎の風景というのはそのような節度はあると思います。そういう景色が出てくる映画が好きですね。いまでも田舎で変な事件が起こると、変な人間が入り込める場所かどうか確認するくらい、日本の田舎は生活は(慣習的にも)硬いと思います。役者が悪いとか、あまり有名な人が出ていないとかあるかもしれませんが、みんないい演技でいい映画でした。こういうのいいなあ。
ロケで近江八幡とあったんですが、なるほどわかる気がしました。
5/21
「県警対組織暴力(けんけいたいそしきぼうりょく)」深作欣二監督 昭和50年
昭和38年倉島市とあるんですが、冒頭に事実を下のフィクションとあるので、倉敷市でしょう。なぜか「バージンブルース」についですぐですね。何か不思議な縁だなあ。
警官がチンピラを捕まえたら殴りこみの前ということで、殴りこみに行かせる。そのほうが処分が早いという論理です。しかし無銭飲食だけは許さない、というところはいいですね。うちでさえ一度やられてます。携帯がいけない。携帯で電話出ている振りして出て行かれてしまった。
とりあえずこの映画おかしい。どうおかしいのか?それは警察と暴力団が仲良すぎる。たまに喧嘩するけど、警察に暴力団が出入り自由というのはどうみてもおかしい。常に警察にたてつくシーンがあります。それは警察官が金銭的便宜を受けているの知っているからです。あと刑事部長が以前、暴力団の抗争を報告しなかったのでそのことがばれるといけないので現場主義で刑事と暴力団が話をつけてます。だからやりとりがギクシャクしておかしささえあります。このおかしさは面白さですけど、これ事実に近いんでしょうかね?
地元系の暴力団が警察に、大阪から流れてきた外様が大きな態度で市会議員も寝返ってこいつらの仲間になっているので調べてほしいと依頼するのです。すると警察は外様のところに行って一人捕まえて、一切面会謝絶、暴力団から何の差し入れもないというウソの状況を作り、孤独に追い込み、自分の組織に疑心を持たせすべてを白状させるんです。それを捜査に使うのでなく、地元の暴力団に持っていくのです。それは競売物件の落札を無効にするべく、警察が新興の暴力団のほうを検挙して、入札無効にして競売無効の申し立てを競売物件所有者にさせて、その仲介を地元暴力団が買って出るというわけです。これじゃ、地元びいきの警察です。しかしねえ、男と男の情というのはひしひしとにじみ出ているんです。新興の連中はそれがないのです。現代的といえば現代的。しかし警察のほうが浪花節なんでそれが胡散臭くてたまらないし、地元のやつに花を持たせたいのです。
この警察と暴力団の関係は男の友情と賭けです。ある一介の刑事があるチンピラに花を持たせて大きくさせるという気持ちで殺人(敵対暴力団組長殺人)を見逃してやり、男もそれに応えて組を大きくするというものです。ですから刑事も積極的に新興の敵対する暴力団の探りを入れるわけです。ですから警察みんなが悪いのではなく、一介の刑事の話なんですよ。それもあくも方便というところもあるのです。悪はなくならないとしたらその悪は掌握できたほうがいいという考えもできるわけです。さてとこの二つが火花散るときがきました。警察がチンピラを護送していたときにダンプ(新興やくざのチンピラ運転)が突っ込んできて衝突しそうになりました。このがわざとかどうかは定かではありません。どうでもいいことです。しかし警察に反抗していたとき護送されていたチンピラが手助けをして殺してしまうのです。まあ新興やくざにはいいきっかけができました。殴りこみです。会えば殴り合い、殺し合い、一般市民にも影響が出ます。そこで県警が乗り込んできます。その長は理想主義者で倉敷の警察署とはまったく違います。就任演説が法に忠実たれ、組織に忠実たれ、暴力団との私的交際は絶てですから。そして見逃したやくざのことを聞いてきます。そんな時に組長が出所してきます。しかし完全に骨抜きになり、おかまのダチを連れてくるし、毎日、読経を一時間は欠かせない人間になっています。そんなときに県警の刑事部長が組に来ます。根掘り葉掘り聞きに来たのでしょう。この組長から落とします。組長に部下が裏切り行為をしていると吹聴するのです。そして今度の刑事部長は警察と暴力団の癒着を暴くためでもあるのですから昔ながらの暴力団のほうに厳しい制裁を加えていきます。組長が組を解散します。そして組員は新興の暴力団の組長に進退を預けるべきとまでいうのです。ここまでいくと今度は警察は新興暴力団とグルと思いますね。そんなことしそうもない刑事部長ですけど。
しかし癒着刑事は捜査からはずされるしやくざは最後の抵抗に出ます。その前に逮捕状が出ているので散り際を飾るのです。篭城して街中でもぼんぼん、発砲します。この篭城をとく説得役にあの捜査からはずされた刑事が選ばれます。そして警察に暴力団の幹部を引き渡すから、刑を10年以下にしろ、新興暴力団の解散、これからも自分流儀の操作の継続を認めることを条件で出します。もし飲めないなら、今までの不正の事実すべてをマスコミに公表する、かつ暴力団の幹部をこのまま篭城作戦に戻れるようにするというカードも用意します。まあ刑事も人生を賭けました。
しかし最後に目をかけたやくざはこの条件でも裏切ります。それを見てすぐさま撃ち殺したのは癒着刑事。
そのあと、まじめな刑事部長は新興暴力団が絡んだ用地買収の跡にできた石油会社で役職もちで転職、ほかの癒着刑事や元の警察署の刑事たちは閑職や左遷。そして例の癒着刑事は多分、敵を討つというチンピラの手にかかって死んでいくのです。
最後が寂しいですが、意外と作りこみが良い面白い映画です。
5/22
「オーディション」三池崇史監督 1999年
この映画は面白いです。一生の伴侶をオーディションで決めようというのです。
まあ連れ添ってきた妻に先立たれ、男の子(高校生くらい)と二人暮しが始まりますが、自分の子供に最近いけてない、といわれて、「結婚でもしたら」といわれるのです。それで、そうか、とその気になるほうもすごいですが、その件を友人に話すと「オーディション」で選んでみたらというのです。この映画の前提として、家庭が悪くない連中ばかりが出てくるということです。ですから、この男(A)にも生活力があるし、今度は手に技術がある女がいいというのです。それは「いざというときに、何にもできない女は頼ってばかりになる、手に職があるとそれが自信になるから女がりんとしていていいというのです」。この辺がキーワードなんですね。女は優しければ、子供と家庭のことを第一に考えてくれるようならいいと思うのですが、少しAは欲張って変な価値観を持ってます。
またAの友人が映画制作とかに関係していてしょっちゅう「オーディション」をやっているからこんな話になる。普通は映画制作している友人なんていないですよ。私はいません。
事前に履歴書であたりをつけておきます。そして面接に立ち合わせてくれるのです。履歴書ではわからないですもんね。しかしAの信念は変わりませんでした。
その人が(Bとします)面接に来ると、それまで黙っていたAが突然話し始めます。面接も並行して行っているのですが、Aは少し舞い上がり気味でBとコンタクトとろうとします。簡単なんですよ、連絡先もわかるし「製作のものですが」といえば会ってくれます。しかし友人の勘のほうが正しかったのです。「才色兼備でおしとやか、おまけにバレエまでやっている、独り者の女」なんていまどきいないよ、と止めるのです。実際に勤め先とかバレエ教室などを問い合わせてもすべて今は閉鎖されております。ということは連絡先は履歴書の電話番号だけなんです。そこにAは電話してアポイントとってデートに誘います。ここで、も一歩Aのミスがあるのですが、Bが積極的に個人的な付き合いでもいいから相談相手になってくれ、というのです。まあAは舞い上がる。しかしCはますます止めるのです。おかしいですよね。順調すぎる。裏があると。そして相手から連絡があるのを待て、と忠告するのです。実際Bも待っていて、こういう待っているときに連絡のある男しか相手にしないのです。この女はこうして連絡ある男を殺すというか半殺しにしていく趣味があるのです。なぜか?幼児期にうけた虐待が性格をゆがめて男に対する仕返しを精神的に植え付けられたのです。
そして深みにはまっていくB。何気ないようでCはチャンスを狙っているのです。ちょうど同居している息子が外泊のとき狙います。Bもこのときに下心が爆発するのです。笑い。
そしてCを招待します。そこで起こる事実は、麻酔で動けなくされて、針を体中さして痛みをなくすようにしてから少しずつからだの足とか手とかを切り刻んでいくのです。もう感情は持っていないんです。復讐の気持ちが無意識的に刷り込まれているのですよ。ここがこの映画の見せ場です。
たまたま、息子が彼女と会えなくて帰ってきてびっくりの現場に出会い、そのままCと格闘してCは階段から落ちて倒れます。
この映画はじめのうちはどうしたんだ、と思いながら観るのですが後から怖さ急増します。いい作品だと思います。Bは少なくても片足は切られてしまったんですけどね。失ったものは大きかったという話でした。女の怖さはずば抜けてますね。
5/23
「ねじ式」石井輝男監督 1998年
これ、原作まったく知りませんし、つげさんという漫画家は名前は知っていますけど作風は知りません。そんな状態で見ると、冒頭からショックを受けます。「やめようかな」とか思いますよ。どこまで行っても画面いっぱいに「貧乏くささ」が蔓延してます。本当に見ている自分が情けなるくらいです。
まず主人公の漫画家(A)が女と同棲しているんですが生活を維持できないのと、女の浮気で少しナーバスになってます。見ている限り、どうでも良いようなことなんですけどね。
とにかくこのAのモノローグで進んでいきますが、なにか妄想をよくみるのです。その妄想のシーンがいろいろと映像で出てくるのですが、なんというのか、まあいい加減な世界です。演技するほうも大変だろうなと思うようなシーンが多いです。それでいてみていて面白いというわけでもないので、ゲテモノ趣味みたいな感じです。それでもスケベ専門の俳優とそうでもない俳優の境界はどこにあるのかわからなくなります。ジュリアンムーアのいう「ついているものはみんな同じだから裸になるのはいとわない」ということを実践しているかのような映画です。その中で印象深いシーンがありまして、房総の食堂で泊めてもらったとき、そこの女の子に手を出します。そして1年後同じ店を訪ねても店員になっているときの女の子は気がつきません。これは意外とわかるんです。できるだけ覚えているようにはするのですが、あんまり行かなくなったから行きにくいとか、覚えているだろうかとかお客様は考えるのですが、私の場合は意外と何にも考えていないですし、先日3年ぶりくらいのお客様に久しぶりです、と言ったとき、あとから「久しぶり」というのを通り過ぎているよな、と思ったモンです。やはり飲食とかは提供するものを作るのが精一杯なのです。これはなんとなくわかる気がしました。この女の子の役、きれいな人なんですが、また変なシーンがあるのです。はい。そんなことの羅列ですよ。「無量庵」だったかな、とか「天狗堂」とかおかしなところばかりです。何でこんなに変な人ばかりいるんだろうか、なにを描きたいのか、途中でわからなくなります。しかし途中、「母親探し」の主題が出てきます。傷をぱっくりと開けてまま金太郎を作っている母親に出会うのです。いいたい事はわかりますけど、ちょっとここまでが長すぎた。映画館で見た人飽きるんじゃないかな。この傷を止めるのが「ねじ」なんです。女医にとめてもらうんですが、女ということで良いんではないでしょうか。しかし女といえばはじめの同棲していた女はどうしたんでしょう?
最初と最後は人間の中の小宇宙の中の欲望の楽園でしょうが(ソドムとゴモラみたい)この欲望の吹き出しをとめたのがねじなんでしょう。ということで考えるとねじでとめるまで、欲望の中を彷徨していたことになりますね。そう思うとわかりやすい映画です。しかしちょっと人には薦められません。日本映画ってかなり変なぶっ飛んでいる映画がありますね。うちに秘めた欲望があるんでしょうか。
この映画は題名とジャケットからは想像できないだけに要注意。あまり気分のいい映画ではありません。「自殺サークル」とかは題名から狙ってみているんですけど、もっとメルヘンかな(いやこれもメルヘンなんで)、もっとうぶな映画だと思っておりました。
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「愛と死の天使」ジェームズ・トバック監督 1982年
ありがちな題名です。たぶんすぐにこの作品をこの題名から浮かぶ人はいないでしょう。
音楽はトリュフォーの映画で常連のジョージ・ドリリューです。そして冒頭のパリの俯瞰、ピエール・クレモンティ(A)の異様な様子と舞台は整っています。この俳優はやはり存在事態が異様ですね。
関係あるのか、カフェ爆発テロが起こります。
アメリカの片田舎が次のシーン。大学の文学の授業。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を主題に芸術と愛の必要性を現代社会に求めるべきだという授業です。受講生にナスターシャ・キンスキ(B)がいます。この映画の俳優と音楽担当はみんな名前を書きたくなるような人ばかりです。さらにシャネルズといったかなあ、50年代アメリカの音楽がかぶさります(アメグラで使われていたと思う曲)。この女学生がこの曲を好きでもいいんですが、パリは景色だけね、といった感じです。俳優がドイツフランスなのに、何でこうなるのでしょう?そしてなにが悪いのかに気がつきます。衣装です。センスないよ。そこでちょっと恋愛の破綻があってNYへ。
そこでまず「スリ」に会います。仕方なしに次の日にバイトを探します。まずはピアノ。ここで弾いているの、バッハですかね。曲調はそうです。あとは変な人ばかり絡んできて仕事にありつけません。結局ウェイトレスの仕事をするのですが、そこでお客に来ていたカメラマンに認められモデルにならないかとアプローチされます。しかし女優としてのBはこの映画はかなりブスなんですよ。もとは良いですけどね。結局モデルになるんですが、撮影場所にテロで崩壊した世界貿易センタービルがあります。それをバックにポーズをとるという観光客顔負けの構図です。実際できた写真も良いものがないんですよ。これは私の基準で判断してですが。映画では美しいだろ、という感じです。しかし衣装は洗練されてきました。(この辺の衣装はイヴサンローランが担当です、もしも田舎時代のもそうだったらどうしよう、馬鹿にしてしまいましたモンね)
次にまた急にパリのノートルダム寺院が映ります。舞台は再びパリに。撮影に来ているだけです。しかしそこで女の人(Xとしましょう)に見つめられていて、その女の人を写真にとっている男(Zとします)がいます。
またすぐにNyに戻って、ある絵画の展示会のパーティで男から美しいとBは声をかけられます。男はルドルフ・ヌレエフです(G)。一度だけ衰えたころ、まさにこの映画よりあとに日本公演で観たことがあります。彼は踊らないのですが、次のシーンでBが自分の部屋で踊ってます。笑い。ちょうど「フラッシュダンス」みたいな感じかな。この年ですよね、この映画。ちょうどこのころ毎年NYに遊びに行っていたモンで雰囲気はつかめてます。
この出会いのあと、GはBに影絵のように付きまといます。またBはGが気になるから付きまとわれても悲鳴をあげるでもないし、逃げるのでもないのです。正体を知りたいのです。「私はバレエダンサーだ」なんていわなかったですけどね。この映画で初めてこの二人のツーショットは決まった、と感じました。二人の距離感と関係の雰囲気がすごく良いです。ヌレエフはそれこそ美女の館にいるわけですし、慣れているんですよ。ヌレエフがBに付きまとう男(田舎での腐れ縁)を殴るシーンがあるんですが、もうまさに「ロメオとジュリエット」の一シーンみたいな映画離れした雰囲気が出てます。これはすごく良いです。はっきりいうとこの映画はこの二人のシーン観ているだけでいいのです。あとは何もないんです。BはなぜかGに惹かれる気持ちを意識してますし、Gももう積極的。すぐに部屋につれてきます。その部屋で一連のテロ組織の犯罪を聞かされます。パリで写真を撮られていた女もテロの一味でZがテロを追いかけているGの友人です。Zの父親はナチスにアウシュビッツで殺されたのです。そんなことはどうでもいいのですが、この二人の会話は聞いているだけでぞくぞくしてきます。私が二人とも好きなせいもあるのでしょうが
ヌレエフは良いですよね。彼を見ているだけでいろいろなバレエが頭に浮かびます。「海賊」とか「ドン・キホーテ」とかね。その点ミーシャは映画に出てもバレエシーンがある映画ですのでうまいですね。ヌレエフも「バレンチノ」があるんですが。
ここでバイオリンを出して(Gはバイオリニスト)演奏するのはバッハの「シャコンヌ」です。いい曲です。バッハ尽くしですね。そのあとの演奏はBの体の上で、となります。良いなあ。
すぐにパリに切り替わります。Gはリハーサルでパリに行ったということ。BGはともにこちらの町のほうが合います。Gなんか芸術監督してましたモンね。そこでGは告白します。「私が復讐魔だ」と。Bはおどろくとともにうそをつかれたことで怒ります。そして帰るのですが、今まで言われたことを思い出してBは一人でZに近づきます。この二人がおしゃべりするのがマクドナルド、これはがっかりしますよね。科学調味料の体臭が消えなくなりますよ。そしてGはBをアジトに連れて行きます。そこでは次なる爆破計画が計画されてました。協力しろというのですが、まあ今回は間に合わないので、次回もしやる気ならとテロ組織と別れます。ここでテロの犯行前に計画知っている人間を逃がすのはおかしいでしょう?当然追跡がついてます。Bの向かう先は?当然Gです。リハーサル中でした。チャイコフスキーのバイオリンコンチェルト、「北京バイオリン」でかかっていた曲ですね。
さあ、テロの親分と復讐魔の対決です。まずはGの仲間が殺されます。これは外で見張っていたテロ一味に面が割れているからです。そして逃げようとするところをBGに見つかり二人は追いかけます。そして同士討ち。生き残ったのはBだけという悲惨な終わり方をします。
いい映画だと思います。詰めの甘さはあると思いますが、モデルは当時の一流のモデルを使ってますよ。かなり一流尽くしの映画です。もっとゴージャスにすればよかったのに。もったいない。しかしこの映画世間では評価低いです。よく世間で評価低い映画を私は良い映画だというのですが、主題とかドラマツルギーよりも「場」の雰囲気とか役者、景色に惹かれたりするからだと思います。
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「にっぽん昆虫記」今村昌平監督 1963年
まずは、妊娠のシーンから。家で出産してますね。人間だけ人の手を借りなければ出産できないというのも実はおかしいことですもん。大正7年のことです。
次は大正13年、すでに子供が2人います。みんな親が違うという話です。山の神様に献上するこけしを夫は作っていますが、妻はほかの男とまだ子供作りをしております。多分、この夫との子供は一人もいないと思います。しかし子供戸籍上で育ての親になついています。これって戸籍が入っていれば実の親なんでしょうかね。出生届も本人が出してますから。
昭和17年、戦争中。子供も大きくなって工場で働いてます。一番初めの子供は女の子でしたがその子が地主のところに嫁(実質奉公)に行くことが急に決まりました(女の子をA)。
ここの家は「出雲系の神」を信じているみたいです。地主の三男坊ですので家の中でも地位は低いです。そして奉公のみということで嫁いできたのですがそんなわけにはいきません。実際このAは嫁ぐ前の日まで父と寝てました。近親相姦かどうかは定かではないのですが、多分父はあまり性に興味がなく山と子供を育てることに興味があるタイプだったのでしょう。しかし奉公のみのAが子供ができたので実家に帰されます。実家では地主に食い込むためのAが返されて予定が狂ったというし、子供は増えるしでめちゃくちゃな人間関係です。生まれた女の子を生かすか殺すかというところでAは生かしてほしいといいます。今の少子化とはまったく違う世界です。昭和18年生まれ。子供をBとします。この子がお乳を飲まないので乳が張って痛くなるので父親が代わりに乳を飲みます。すごいですね。まったく羞恥心がないというか自然なんですよ。
そして昭和20年8月。アメリカの主導の「農地改革」地主の没落。Aは工場で知り合った上司とできてしまいます。
しかし労働組合運動を激しくまじめにこの上司とやっている姿を見て上司は引いてしまいます。Aはまじめに尽くしているんです8が、その情熱が強すぎるのです。そして別れ話。昭和24年のことです。
その後も男と転々として幸せになりきれません。Aは男好きのする顔なので、かつ情熱的ですので男がいつもできるのですが、その激しさで離れてもしまうのです。その挙句、新興宗教の門をたたきます。なんか仏教系。昭和26年のことです。赤線で働いているんです。そんなこんなで昭和30年になってしまいました。新興宗教にはまだ入ってます。そして旦那を見つけたら売春宿の女将を警察に売ります。そして顧客名簿を持って独立しようとします。この時点で最後にAは殺されそうな予感。前に見たんですが内容は忘れてました。
そして現天皇の結婚式パレード。観てみたいですね。そして裏切った売春宿は売りに出てます。旦那は買おうというのですがAが少し躊躇します。「賭けに勝った、お前の勝ち」といわれたのが気になったのでしょうか?とにかくAの人生はいろいろな勝ち負けの人間を見てきた人生です。しかし大事な取引に体を提供する女の役をAに押し付けられ、賄賂も立て替えさせられます。実際にここに愛情があるのか、疑問に思い始めます。
そして整形までさせてかわいい顔にして商売させます。でもね、因果応報。自分がしたことは自分もやられます。若い子に裏切られて裏で商売をされます。それがわかったとき、顔を壊してやるというときの迫力はすごい。確かに整形手術をする金をだしたのはAです。
そこに田舎にいた娘が尋ねてきます。開拓農場を始めたいので金を貸してくれと、そして今までなにをして暮らしてきたのかと聞かれます。そんな中父親が倒れたという知らせが入ります。昭和35年、60年安保の年。
東京に帰ると、みんなに裏切られてます。そして警察に。自分のやったことそのままに、逆にやられました。そして娘にまで手を出されます。娘が上京してきたときAは刑務所でいないので旦那のところに行くと週何回かで20万円になるというのです。ようは愛人になれと。Aの怒りはかなり頂点になり(Aは旦那にかなりお金を用立ててあげている)怒鳴り込みますが、逆に縁の切れ目に。旦那は今度は娘のほうに交換条件を出します。このまま東京に残れば店を出させてやる。しかし愛人関係はそのままと。娘はOKします。そしてお金をもらって渡してくるといってそのままアパートの敷金も抜いてもって帰ってしまいます。旦那も娘にやられました。娘はAがひっぱたいたことが効いているのでしょう。
娘は自分たちの生活を。そしてAはそこに向かうところで終わり。なんというか、たくましい映画です。難しいというかいやな一面を見ますけど、人間ですからね。左幸子一世一代の演技でしょう。なんというか実生活でも妹に持っていかれたんですよね、あまり触れないでおきましょう。
5/26
「昭和残侠伝血染めの唐獅子」マキノ雅弘監督 昭和42年
昭和初期の浅草、とりあえずお決まりの満州事変の数年前です。みんなこういう発想がないんですよ。東京博覧会らしい。ここでひとつ大きな視野を持ちたいのですが、この映画に出てくる人たちが真に戦争を望んでいたか、というとこの映画の人たちでさえ望んでいなかったと思います。
鳶職人の頭は大喜びしますが、そこに博打畑の組の頭が建設業に(笑い)進出するということでこの大きな仕事を請け負いたいと懇願に来ます。浅草地域はこのとびの頭が江戸時代から任されていると断ります。元締めなんですよ。ここで鳶の話をしたいんですが、うちの店を作るときも優秀な鳶の人たちが入ったんですが、それは周りとか通行人も見物するすばらしい仕事でしたよ。仕事自体が人を惹きつけるんです。
とにかく、この新興は政治と組んで入札制度導入を考えてます。確かに入札制度は自由競争でしょうが、今でこそ、この制度は有用だと思いますけど、この時代は街の仕組みを変えてしまうものではないでしょうか。今残っているゼネコンの母体を見れば地域密着というよりある時期から金の勢いで急成長したという印象はぬぐいきれません。この自由競争という名の元、大事なものを失ったかもしれません。実際食えなければ、負けですし、撤退しかないのです。鳶なんていうのは職業を超えて文化だと思うんですけど。
そんなときに鳶のエースが帰ってきます。健さんです。(Aとしますなんていえないですよね)すぐに頭になってくれと周りの願いがきます。しかし「無理と断りますが」無理やりに頭の羽織を着せられると「受けます」。この受けるということは周りの懇願を(信頼を)受けるというすごく重いことなんです。それを承知でなるというのはなかなかできない。今は逆に周りから頼まれなくても自分が、俺がなりたいというやつのほうが多すぎます。
そこに良さんが来て「俺がいる限り俺の一家とお前のところを敵味方にはさせないつもりだ」とかっこよすぎる。良さんの妹が純子さん。健さんの家で待っているとのこと。結ばれます
そして入札。新興は白紙。結局、一番安い値段を読み上げてできレースにしようとするのです。それがばれて、鳶の連中に落ちます。しかし良さんは疑われるし、土建の仕事に口を出してはならないといわれます。絶対に「渡世の仁義」は守る男なのにもったいない。
そんな時新興の親分が良さんの妹を嫁にといいます。
しかし新興の親分の嫁に、と言われてた女がいます。当然断りますが、話はややこしい方向に。借金のかたなので、金を作らなければなりません。鳶の一人(B)が火消しの纏を質入して金を作ります。しかしそれが敵の手にいってしまいます。みんなでお金をかき集めます。小頭の母親も気風が良いですよ。また金を返すときの気風のよさ。集まったお金すべて、多い分は利息でつけてやれ、と。たった一日ですよ。この辺の一言一言がすごく勉強になります。しかし金を持っていくとそのBは殺されます。そして警察沙汰にされ、Bの一人芝居ということになります。纏は当然帰ってきません。しかしBの好きな女が新興のボスのところに行けば問題は解決です。行く決心をして、纏を火事現場に持ってきて「堪忍してください」という女、それを受け取る健さん。しかし女は自殺をします。その死体を持っていってお礼を言う姿は泣かせます。しかしこれにもめげずにどんどん業者を引き抜き、脅し、仕事ができないようにします。そこで良さんも新興土建や博徒を破門になります。これで良さん健さんが二人で殴り込みをかける準備はできました。その前の藤純子さんのせりふは女の気持ちそのままです。
最後に警察の捕まるとき、警察は個性喪失した役人で、中央に男と女。女が自分の作った着物の着崩れを直してあげて、いつまでも待つと無言の返事。良いですよというより最高の映画です。
5/27
「妹(いもうと)」 藤田敏八監督
バージンブルースが思いのほかよかったんで期待してますが、見た記憶あるんですよ。覚えていないということはつまらないということなんですが、今見るとどうでしょうか?
兄役の林隆三さんはいいのですが、妹役の秋吉久美子さんはいまいちの感じです。しかし、出てくる俳優はすべて今と違う感じがするのです。なにが違うのか、服装だけなのか、よくわからないのですが、観ていてそう思うのです。これは何なんでしょう。まあはじめに早稲田の近くで懐かしいですし、「かぐや姫」の「妹」が流れてくると「懐かしいなあ」という気持ちでいっぱいになります。途中で気がつくんですが、この歌詞どおりに映画のシーンが進むところもあるんですよ。当時なら当然、そのつもりで見たんでしょうが、今となって「かぐや姫」とか忘れているとすごく懐かしいです。しかし良い曲ばかりありますよね。そういえば最近、「なごり雪」という映画もありました。
まあ妹の結婚相手?も妹がいて、兄と嫁が同時にいなくなったのでお姉さんの実家に来て見ると妹と兄しかいないんです。それで今度は早稲田のほうで兄と妹と妹(妹の嫁ぎ先の妹)の変な関係が出来上がります。こう書くと難しそうですが、単純なものです。
実家では行方不明の夫というか弟たちを探しているのですが見つかりません。なぜ別れたかが焦点ですね。
しかし実は別れたのか、夫が蒸発したのかわからないのです。とにかく鎌倉にブティックを持っているのですが、その店をほっぽらかしていなくなってしまった。その夫の兄弟はみんな秋吉のせいだというのです。このブティックは鎌倉の御成通りにあります。これ実際にある店だと思うけど、景色はまだ活気のあるときの鎌倉です。いま御成通りは死んでますよ。
ここで兄のほうは鎌倉の店に行って、妹を引き取って手伝わせてくれ、といいます。妹が中途半端になることを避けたいのと、相手方の妹にも興味があったんでしょう。 しかし行動の動機がみんな若くて、いまの私ではついていけないというか、若いなあ、と思ってしまいます。
心中は出てくるし、なにか登場人物は、不安定なんですよ。結局不安定なまま、年をとって小さくまとまっていくんでしょうけど。
妹は、夫を殺していたみたいで、兄が鎌倉に帰れといったときにその殺した崖の上の寺に入って尼になり、そこの若い寺の住職と駆け落ちしてしまいました。いつか兄とも再会できることでしょう。ほんのつかの間の兄弟水いらずでした。
よい映画とはいえないと思いますが、心に何かは引っかかります。
5/28
「カタクリ家の幸福」 三池崇史監督 2000年
観てからかなり経ってから書いていますのであいまいな点があるかもしれません。まず、総論はすごく楽しい元気の出る映画だということです。これも人それぞれなんでしょうが、私は、すごく落ち込んでいるときに観たのですが、途中から晴れ晴れしい気分になりましたよ。
多分、出ている俳優がすべて好きなのと、嫌いな俳優が助演に回っていることあたりがまたまた良いです。「女はバス停で服を着替えた」ではないですが、遠藤さんあたりはこういう変な助演が似合うのであって主役をやるべきではないです。これは竹中さんにもいえます。ジュリーとか松坂慶子さんが主役には向いてます。ですから映画の骨格がこの監督の映画にしてはしっかりとしているんです。丹波さんまで出てますしね。
丹波さんといえば、おじいちゃん役なんですが、カラスを、薪の木を投げて打ち落とすのが得意な才能を持っております。2回だと思いましたが、この薪木投げのシーンは素晴らしい。あんな素朴なシーンですが、こんなに楽しい気分になるなんて、監督の才能ですし、役者のセンスでもあると思います。
話は脱サラしてペンションを始めたけど、お客様は来ないし、子供たちも中途半端だし、とどこにでもある話です。本当にどこにでもありますよ。
このペンション、本当にたまに来るお客様は変なのばかりで、なぜか、みんなこの家族が悪いのではないですが死にます。ここで「地獄モーテル」だったっけなあ、こんな題名の映画思い出しました。これは確信犯で殺しては死体を穴に埋めるんです。そんな悪いことはしていないのに、死人が出たという評判が立つとお客様が来なくなると心配して、すべての死体を穴に埋めて処理してました。そんな中、娘が詐欺師に引っかかったり、犯罪者が来て、めちゃくちゃになったところに近くの火山が爆発して、家が流されるのですがみんな一致団結して家を守ったら周りの景色もきれいになって、最高のロケーションにペンションは生まれ変わった、というような話です。
途中、この映画はミュージカルコメディで、歌あり、ダンスありで最高に楽しいですし、歌もロックから演歌まで、踊りもまともなミュージカルから丹波さんが参加する冗談ダンスまで、レパートリーが広くて飽きないです。
また人形アニメがはじめと途中に入るのですが、これも効果的ですし、途中なんて忌野さんと丹波さんの戦いのシーンは二人ともアニメに変化します。
何を書いてもこの映画の魅力は語れないと思いますし、観ていない方はぜひご覧ください。きっと楽しいと思います。こんな映画を邦画で作れるなんて考えてもいませんでした。本当にすばらしい。
5/29
「カンゾー先生」 今村昌平監督 1998年
最近は今村監督の映画が多いです。多分この後すぐに「神々の」を観ようと思います。
「復習するは」はあまり好きではないのですが昔の映画はいいのが多いですよ。
しかしまたこの映画は時代が戦争中です。主人公は医者(A)ですが、やはり現代の俳優を使っているので、戦争の兵隊の雰囲気は1950年代の戦争映画と比較して格段の差があります。実に兵隊らしくないのです。これは、日本人といってももう今の人と戦時中の人は人種が違うといっても良いくらい違います。
日比の紫雲閣も出てきます。いい名前ですね。ナチスの無条件降伏の後ですから45年6月くらいです。このころは日本の攻撃もめちゃくちゃでした。特攻隊だけでしたね。沖縄は当然陥落してます。原作は坂口安吾「白痴」以来です。
医者が主人公ですので「静かなる決闘」とほぼ同時期の医者です。それにしてはまじめさが違うし雰囲気が違うのは監督の違いもあるでしょうが、作品のとられた時代によるものです。もう今の日本で戦争中の景色人物を撮ろうとしてもできません。70年くらいまでではないでしょうか、それが可能だったのは。この景色は今の景色でしょうが、瀬戸内海の静かな波と町並みはいい感じで映ってますよ。
淫売の女が、医者の看護婦になって正しさを感じていく流れがあるのですが、それでもおおらかな性生活というのはすごく感じます。日本はそういう区にうだったんですけど、今の都会的個人主義のなかでは消えてしまいましたね。昔の日本は子供が多かったですもんね。なにが変わったのか、母性がなくなったのか、脂ぎる男が減ったのかわかりません。笑い
そして、学会ではやはり肝臓病がはやっているというコンセンサスを受けた次の日、故郷に帰ってみると捕虜が逃げておりました。その捕虜を、淫売出身の看護婦は、こともなげに入院させます。先生は仕方なく往診するのですが、体中傷だらけ。この捕虜はカメラ技師で顕微鏡のセッティングをしてくれます。そして死にそうな患者がいると、遺言ですぐに埋めて腹を冷やしておいてくれ、と書いてくれるように懇願するのです。そして土葬の後すぐに掘り出して肝臓を取り出し、顕微鏡で研究します。肝臓を取り出すとき、満州で日本軍がやっている細菌研究の話を友人がするので変な想像と罪の意識で少しおかしくなります。しかし肝臓をすりつぶして顕微鏡で見ると、まあ映画ですね。ここに軍隊が押し寄せて、この捕虜を連れ去るとともに、医者やこの件にかかわるものをすべて連れ去ります。観ていて寂しくなりましたよ。この瞬間。
まあ日本人はすぐに釈放されますが、捕虜は虐待されます。このころから終戦を象徴するようにめちゃくちゃな行動をとる人間が増えます。役場の会計係は使い込みして出家、モルヒネ中毒の外科医はモルヒネを盗みに軍の施設に乱入、軍医部長は権威で料亭の女将を抱く、など、など。人間がやけになっています。
しかし主人公の医者は開業医で研究医ではないことを思い出します。そして
治療に専念する。と島への往診の帰りに鯨に出会います。瀬戸内海に迷い込むことがあるのでしょうか?エノラゲイという鯨みたいです。8月6日のことでした。淫売女は鯨を捕獲に向かいます。逃がしてしまったところに鯨と原爆が重なります。そのきのこ雲は肝臓のようだと、。二人は結ばれ、戦後を平和に生きていくのでしょう。
5/30
「ケンパーク」ラリー・クラーク監督 2002年
この手の映画は弱いです。アメリカの日常ほど絵にならない景色もないと思うほど、いやな景色です。「アメリカンビューティー」もそうでした。この映画もそうです。さらに現代の嫌な部分も描かれており、モラルハザード、冷蔵庫にビンやかんなどの一人分の飲み物が入ってます。よく映画では出てくるのですが、そんなに冷蔵庫
一人で飲みきるような飲み物を入れておくものでしょうか?
何人かの高校生の生活が、一人一人交互に映し出されるのですが、なにか、自分のことは置いておいて、他人に求めたり、不満ぶつけたりしているだけです。何かを与えているような人物はほとんど出てきません。
性交渉や自慰などのシーンなどが出てきますが、結局はアメリカで生活していることが、世界的に見れば自慰行為なんでしょう。ですから、日常といえばこんなシーンばかりになるのだと思います。このようにこの映画にはドラマツルギーがないのです。最近こういう映画が増えてますよね。あと、やたら裸が出てくるんですが(ぼかしははいってます)これも欲望の国ということでしょう。生存欲求が満たされているから、もうひとつ上の欲求が出てきます。
優等生の女の子が彼氏をベットに縛り付けて愛撫しているのを親に見つかったり、みんな欲望の塊なんです。監督はインタビューで言ってましたが実話に近い親子は監督の友人で2組いるらしい。当然俳優が演技しているんですけど。とにかくこの映画での俳優はかなり、特に男のほうはさらけ出さなければなりません。だから見ていて楽しいという感じでもなければ、何でこんな実話を見せられるのか、という気持ちにさえなるのです。しかし見終わると何か懐かしい連中なんですよ。そういった意味ではこの映画は成功しているかもしれない。上で書いた優等生の女の子の両親は敬虔なキリスト教信者です(どの流派かまではわからないのですけど。この両親の言っていることはよくわかるんです。しかし、優等生の女の子が刺激を求めているというのもなんとなくわかります。時代の変化なんですよ。退化ではないと思います。
まあ、俳優は普通の俳優ではなく、ポルノ系の俳優だと思うんですが、みんな相当きわどいシーンがあります。どうなんだろう。このこととは関係なく、「痛い」映画です。つらい青春と逃げ場のない生活があり、その中で自分たちの世界をつく7って精神的浄化を行っているのです。いつかはみんな別れてしまうのですが。正式にはKEN PARKと英語のまま日本でも上映されました。
5/31
「神々の深き欲望」今村昌平監督 1968年
本当に神の話です。「にっぽん昆虫記」でも山の神とか出てきたようにこの監督は素晴らしい日本の伝統の表現をいたします。私は好きな監督です。
まずは舞台は幻想集落。ありそうで実際はない集落です。縄文式のような、弥生的な集落であるし、しかし沖縄みたいな景色です。そういった感じでは、神代の時代に近いかもしれないというところです。しかし神代の時代は意識され実際にあるといわれるのが、応神天皇くらいだといわれているのでそれほど古くはないですよ。10代天皇くらいからは追跡できるといわれてましたっけ。この辺は定かではありません。しかし現代なんでしょう。この辺の曖昧さが話に内在している神の存在に焦点を当てるのです。今でも通用する話であるし、千数百年前の話でもあるというような具合です。この舞台となっている島自体が「古事記」などの大八島創生の話になぞられており、大神伝説のごとき「蛇」がご神体の意味もあるのでしょう、登場してきます。すごい面白い映画ですよ。
男(陽)と女(陰)一体でひとつ、お互いの足りない、多すぎるものを補充しあう関係ということで「性」の問題がクローズアップされます。
現代の内容としては、沖縄に砂糖工場を作ろうとする会社が調査に来ます。この辺は資本主義ですね。しかし砂糖で思い出すんですが、沖縄のお土産といえば、「砂糖きび」だったときもありましたね。あと西表などの工場で直接砂糖買うとやすかったです。私が行ったときはまだこの島には信号も舗装路もなかったときでしたけど、砂糖工場はありました。
そして沖縄はシャーマン、巫女の存在する世界です。ですから意外と仏教寺院は少ないのですよ。シャーマニズムも古代のようで現代劇で古代を象徴するよい材料です。
砂糖工場を作るのに水源確保が必要なんですがなかなかない、しかし神の森の中によそ者なので入っていくと、シャーマンが管理している神の水があります。それを使いたいというけど、巫女はなんと答えるやら。決まってます。「おたき信仰」(水場の名前)が島に行き渡っているのです。そして、慣習は「迷信」と言い張る若い者も破ることはできないのです。共同幻想です。そこに砂糖工場の下見役の都会人が入っていったので、とうとう切れてしまいます。性習慣はおおらかですし、「おたき信仰」はありますし、神の存在をそこいらじゅうに感じなければ生活できないのですから仕方ないことです。都会人にはその神を感じられないのです。しかし、一人反抗しても熱帯の熱さは容赦がない。むき出しの本能に溺れます。女に落ちて、自然のままに生きるという感じ。
そのまま、現地になじんでいきます。
そうこうしても自然は変わらず、日照りは続いたままです。途中からストーリーは、わかりにくくなります。それはいろいろなエピソードが入ってくるからです。葬式もあるし、シャーマンも出てきます。すべてをひとつのドラマツルギーで示すことは無理です。総論と根源論を示す形をとるのです。
だって、砂糖工場建設やら、飛行場誘致などの資本主義原理がこの映画には入り込んでます。資本を神まぜこぜにするから話がわかりにくいのです。そして「おたき」神の森を移動して空港を建設するという話で巫女も納得しているという前提で話が進んでいきます。ひとりだけ、神の田んぼのための水道を良くするために邪魔な大きな岩をどけることを何十年もかけてやっていたのですが、その岩がとうとう崩れます。その前に、空港建設に前向きな態度を村のみんなが取り始めたら、恵みの雨が降るようになりました。この辺は、このままの生活を守れということなのです。しかし降ってわいた「観光」化の誘惑にみんな負けて土地を手放し、開発が進みます。一人の反抗者は逆に土地価格が吊り上りみんなから疎まれるし、巫女を買収して(体の魔力で、笑い)このものを裏切り者として神のお告げのレッテルを貼るようにさせるのです。巫女はどうするのでしょう?さて「祭り」です。このようは慣習は捨てられません。巫女はいない。祭りは騒然として形さえ整わなくなります。舟をこぐような動きは祭りとして行いますけどね。
逆に、反抗していた農民のほうは、島を女と抜け出して「西の神島」に向かいます。二人だけの楽園です。しかし祭りの船は追ってきます。途中でお神酒を飲んで、仮面をかぶって神の御心という形で抹殺します。海に落とせばそこは鮫の世界、自然界の掟が支配します。そして巫女だった女を連れて戻りますが、そのラストシーンの海と夕日の美しさは「太陽がいっぱい」と同じでしょう。きれいです。こうして近代化は慣習のみのを使って島に浸透していきます。あの反対していた男を殺そうとした、空港建設賛成の人間は巫女を性的に喜ばせていたときに腹上死したのでした。その罪の償いを神が下したことでめでたしめでたし、ということになったのです。崇高なる魂は滅んでいくのでした。
さて後日談。空港ができました。そして飛行機で砂糖工場を作ろうとした男も役員と一緒にやってきます。あの死んだ男を、神としてみるという地元民の言葉とそれを否定する空港関係者、恋人を待ち続けて岩になったという女の像を説明すると、地元の人はついこの前あったこと、砂糖工場の男を待っていて死んだ女のことを示唆するのです。この男が乗った列車を待っているかのように女は現れて、消えていきます。待っていた人が来たのですから、待った甲斐があったのです。そして消えて、海ではあの男の船が漂っているのでした。
こんな映画もう二度とできないと思います。よく作れたとさえ思いますし、才能、努力すべてがなければできない映画です。日本を代表する映画だといっても過言ではないでしょう。素晴らしいです。
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「悪魔のえじき」 メイル・ザルチ監督 1978年
これおもしろいんですかね、という感じで見始めたんですが、何かちょっと違うなあと思いました。単純にレイプされて復讐すると思ったんですが、もともとこの女主人公(A)は一人で旅行して、川に着くなり裸になって泳ぎます。もう無理がありますよ。
しかしAが小説家で一人バカンスに来て原稿を書くところは「SWIMMING POOL」に似ております。あれはサニエに影響を受けるランプリングすごかったですねえ。世間の評判は悪いですがすごく気に入っている作品です。むこうは受動的に男を受け入れるけど、こちらの映画はレイプです。若さが違いますけどね。しかしこの映画観て思うんですが、性交渉というのは合意であろうとこのように非合意であろうとなにか終わった後間が抜けますね。なんというか終わったあとだらだらと映像にするのは締まらない映像になってしまうと思います。しかし昔の牧歌的なところはいいですよ。
しかしすごい強い仮定がこの映画にはあります。それはまずはじめのレイプから逃げて裸で森を歩くと、森の中でまた男たちに出会います。当然裸の女が歩いてきたのですから、何か声をかけると思うのですが、彼らはすぐにまたレイプを始めます。男はみんな女を見たらレイプしたがる、というのはちょっと受け入れられない仮定です。それにあまりに悲惨すぎる。この時点でこの映画の「悪魔のえじき」の悪魔はオカルトの悪魔ではないことが判明。これじゃ、題名に負けているよ。
さらに悲惨なのは、森からやはり裸でロッジに帰ってくると先ほどのはじめのレイプをした男たちが待っているのです。レイプ第三弾。ちょっとあきれてきます。救いのない映画ですし、Aの立場になって考えたら、もう思考停止でしょう。やられるままがいいと思います。変に悔しいとか考えるとだめなような気がする。まあ私は男ですのでよくわからないのですけど。
それからがすごい。レイプした女を口封じのために殺しに行くのです。ここで転機。一人の弱弱しい男に行かせるのですが、行ってみるとAの無残な姿でどうしても刺せません。
生かしておくので、Aも仕返しする気になります。「悪魔のえじき」というタイトルでこういう話というのは許せません。Aに魅力がないとどうしようもない映画で、私の目で見た感じでは、この役をやってくれる女優で、こんなくだらない映画にも出てくれる人の中では美形の方でしょう。このことが最大のポイント。
そしてAの復讐が始まるのですがこの殺し方もちょっとスケベ心をくすぐるようなもので、この映画は恐怖というか、ポルノ系の映画ではないのかと思わせます。
観ていて飽きないで見ることは出来るのですが、なんというかよくもこんなくだらない映画を作ったという気持ちが常に頭から離れません。
結局当事者は全員殺して終わるのです。レイプされて復讐する映画がなんで「悪魔のえじき」なんだろうか?絶対にお勧めいたしません。