ひょんなことから観た映画の感想を書くことにしました。

 

6/2

 

「ワイルド・パーティー」ラス・メイヤー監督 1969年

このヴァージョンはカットされているらしいですね。DVDとかだといろいろな理由があるのでしょうが、時代を超えてパッケージ化されているので仕方ないこともあるのでしょう。とにかく見たことのない監督です。そして「エイリアン」が続いて、これなら気楽と思い観ました。さすがに「エイリアン2」は生半可な映画ではないです。心臓パクパクものです。

はじめにシャロンテート事件のような映像から入って(あのおぞましい事件現場というわけではないですよ)悲鳴とともに、女のソウルバンドのシャウに変わります。場所はある高校の「プロム」。こんな仕事つまらないと国道40号線を使ってLAに向かいます。この道走ったことあるんですがLAに向かって走ると夕日がまぶしいです。バンドの女の子が親戚を頼りに向かって会いに行くのです。しかし、景色がなんか懐かしいんですよ。私が始めてLAに行く13年前の映画です。ということは13年間で景色はそれほど変化していないんですね。今から13年前というと1991年くらいですから、そのころも行っているんですが、まあ空港が変わったからすごい変化したような機がするのでしょうし、高い建物が増えてますよね。

いきなり、訪ねて言ったら、「遺産相続」の話で、もらえるとのこと。そしてパーティーに誘われます。このパーティー、NYのウォーホールの「ファクトリー」なんかと違って明るい、健康な色気のあるものです。気候がいいですからね。「ファクトリー」で思い出しますが「チャオマンハッタン」はすごい映画ですよ。1965年の最高の女の子が主人公です。ボブディランもこの子を歌った歌があるくらい。

話を戻して、この映画女の子かわいいですよ。そしてルックス担当と裸担当が分かれているみたい、顔が映らないように映像化してます。というよりこのころのアメリカは意外と厳しいんですよね。なんてったって欧州が開放的です。

そのパーティーでは有名なロックバンドが生演奏しているんですが、主催者から彼女たちのバンドが紹介され演奏することになります。この主催者は有名な製作関係者みたい。当然そこで気に入られ、デビューします。ちょっと曲風は変わってしまいますがね。

そして、若い世代の風俗が描かれるのですが、若く見えないところに時代が感じられますし、いつの時代も性衝動はあるのですが、これがフロイトなどで論理的解決をしていたりするのがかわいいし、その後に自由奔放なのもエイズ以前の映画です。

しかし若さゆえに楽しいこともあるのでしょうが、結局は信じられる愛をお互いに持って生活できればいいのです。このようにヒッピーになりきれない連中の青春群像を描いているといえるのです。日本は遅れているので私たちの世代もこんな感じでした。

このバンド、新しいプロモーターの下、新しい売れ筋路線行くのですが、どうも先端を行っている人と言われる人種と付き合っていると本物のものを失っていく自分がいることに気がつくのです。そしてあるとき、原点のときすなわち、あの「プロム」で歌った歌を歌うのです。そして友情とかに気がつくのですが、少し平和だと、また同性愛とかに走る。満ち足りた人生なんです。満ち足りすぎるから、ゲイとか倒錯に走る。そしてあのプロモーターは変質者だったのです。そして最後に殺人を仕掛けて多くの人を殺すのですが、助け合った連中は生き残ります。まさに愛を信じた、または今回の騒動で愛を知った連中です。愛とは見返りを求めないもの、なんてこの映画に似合わないせりふで終わります。そしてウェディングの音楽の中、幸せになれる鍛錬を積んだ連中は一緒に結婚式を挙げ、楽しく終わります。

 

実に愉快で、楽しい映画でした。これは思わぬ拾い物でしたよ。本当に二重丸。

6/3

 

「キス・オブ・ザ・ドラゴン」クリス・ナオン監督 2001年

アクション映画は一度はまると抜けられません。この映画は最高にいいですよ。リュック・ベッソンの名前が大きく取り上げられますが監督は違います。

娼婦街の中のえびせんべい屋が中国のスパイ(ここでの主人公をAとします)の隠れ蓑になってます。これよくあるんですが、急に町が変化して周りが風俗になってしまうということは町の変化の一形態でもあるんです。

また捜査協力をするフランスの警察の刑事(Bとします)がめちゃくちゃなやつで「L.Aコンフィデンシャル」の所長みたいなやつです。はじめからAは罠にはまりますが、Bは冒頭から先日の「スカーフェイス」のラストシーンのような切れかたをします。時代が違うんですよ。10数年であの暴力描写が当たり前になっているんです。

ホテルでのシーンの冷静さ、なんでも武器にする応用力、見ていて飽きない。

Aに逃げられたBは中国政府に対してAの乱心で事件がおきたと偽りの報告をします。

そして、Bは娼婦を手なずけており、娼婦の子供をえさに犯罪に巻き込みます。しかし、今回は失敗してしまいました。Aが強かったからです。それで無理やりやめた麻薬(コカインとヘロインってどう違うのでしょうね、実は知らなかったりして)を注射されて裏切らないようにします。(ここでいつも思うんですが、鼻から白い粉を吸うしぐさがあると思いますが、今の映画では当たり前に出てきますが、これはそれほど昔ではないと思います、それこそスカーフェイスあたりがその走りかと。)そして傷ついた娼婦を娼婦街の隠れアジトからAが見てやさしくしてあげるのです。そのうちに恋が芽生えるのですけどね。出会いってこんなものかもしれない。

この娼婦は証人になることもわかりました。しかし娼婦は娘を助けてくれなければ安心して証人にはなれません。Aは頼もしい強い男です。すべてを解決して負傷しながらもBを殺して(この殺し方がこの映画の題名)娼婦の元に子供をつれてくるのです。映画はここで終わるけれど、一緒になるでしょうかねえ。難しいところです。

しかしBを殺すとき、急所を避ける自信があるなら撃たれても攻め込んで相手の急所を捉えれば勝ちますね。強い男です。観ていて気分がすっきりしました。

6/4

 

「スカーフェイス」ブライアン・デ・パルマ監督 

これロードショーで見た人いますかね?結構リアルタイムの出来事でした。ですから冒頭のキューバからの避難民の映像の迫力、カーター大統領の演説など思い出すことができます。

非難キャンプでまず、殺しを引き受けます。そしてアメリカ国籍をとると(こんな形の国籍の大判振る舞い、もうないでしょうね)バイトをカフェで始めます。そこで見ているギャングに近づこうとします。その前にチンピラとの仕事をして実績を積みます。犯罪ですよ。この映画は当時は暴力描写がすごいということでしたが、今見るとたいしたことはないというか、今の映画はもっと切れるのが早いです。実際の人間も切れちゃうんで、時代を反映しているんでしょう。しかしこの映画の主人公Aは精神的に切れるのが早いです。何かに対しての飢餓が常にあります。それは出生から備わっているべき母親の愛情と安定した生活でしょう。これは後天的にどんなにもがいても手にできないのです。実際に母親や妹に会いに行っても母からは冷たくあしらわれ、妹は悪の道に少し足を突っ込んでしまいます。このことに対してはAは妹を守りたくて注意するのですがAが母の注意を聞かないのと同じで言うことを聞きません。

まあお近づきの仕事が罠だったんですが、切り刻まれるシーンとか出てこないですもんね。今の映画とか平気で出てきます。またちょっと矛盾があるんですが映画は楽しければ良いでしょう。はじめですから、成果はピンはねもしなくまじめに収めなければなりません。

そのボスの女に惹かれてしまいます。そしてますます、金=成功しなければならないと上昇志向が強まります。しかしAはチンピラですので、儲けるといっても仕事が限られるのです。

ボリビア、ゴチャバンバでコカインを栽培している組織と取引を始めるという使いに出されます。上司と行くのですが向こうのボスと商談をしているのはAです。そしてAの態度と度胸、知識を信頼して、その上司をアメリカのボスのところに送るといってAと切り離してその上司を殺します。ここからボリビアとAのパイプができ飛躍的にAは伸びます。

ここで重要なのは、相手は目を見ている、そして知識は会話のいたるところで本質を突いて出てくる、さらにやばい仕事に耐えられるだけの度胸があるかをすべてチェックされているのです。私たちも人を見たら、大体信用できる人かどうかはわかりますよね。それと同じです。その人の本質は隠しても隠し切れないものです。そして信用されるんですが自分のボスに話しても信用されません。大きな仕事をしようと子分が言っているのにねえ。その程度の人物なんです。そしてだんだんAはボスから離れて自分で仕事をするようになります。当然ボスは面白くない。しかしボスは気が小さいので、大きい仕事はできないので嫉妬するんですよ。そして暗殺を計画。これに失敗してすべてを失います。

The World Is Yours、まさに天下が来ます。なにやってもうまくいく。信頼関係で結ばれているので強い。裏切るものはいません。理想の女も手にしたし、妹にも良い思いさせた。これらが最終的に裏切るのです。感情的に自己統制ができなくなるという形で。

まさに敵は身内にあり。そして自分自身もヘロイン、コカインか考えてみればよくわからないのですが、それにはまっていきます。途中マネーロンダリングが出て銀行とやりあうんですが、いまいちぴんとこなかったことがわかりました。考えてみれば、彼らの売り上げは申告できないのです。犯罪ですから、それを預金として預かるには、それも正規の預金として預かるには、帳簿の科目の操作が必要です。その手数料を利子として銀行に払えというのです。ということは法人税がなくて、利益率のいい商売で、金がたまると、これならみんなやりたがる?ので新規参入できないようなコネクションが必要なのでしょう。金がありすぎて困る状態というのは一度で良いからなってみたいですよ。

しかし成功で有頂天になっていると落とし穴が。Aには犯罪は2種類あるので(脱税、麻薬)うまく切り抜けられません。警察に目をつけられてしまいました。さてと仮釈放は刑事犯罪はいいとしても脱税はいけません。このときボリビアの友人もコカイン撲滅運動のターゲットになっていてお互い助け合おうといわれるのですが。しかし、、、ここからがこの映画のいらいらするところでどうしてもAにはできないことがあったのです。友人が送り込んだ刺客をアメリカに不案内だから案内役をしてくれと頼まれるのですが、殺したい相手の車に爆弾を仕掛けるのですけど、その車にその男の妻と子供が乗るのです。この女と子供を巻き添えにしたくないということで友人の刺客を殺し手しまいます。変なところで善意が出てしまったのです。これが人間というものかもしれません。しかし悪の道に入ったものには徹底的に悪の道へ突き進んでもらいたい。そして成功してもらいたい。

このことから信頼関係で結ばれていた友人と敵対関係になり、お互い窮地に立つだけでなく友人は刺客をAに送ります。当然です。「裏切り者は殺せ」がルールですから。

そして麻薬中毒のらりった中、壮絶な死を迎えるのです。このあたりが一番気に入らない点ですけど、いい映画です。

妹も崩れた人生になりました。悪貨は良貨を駆逐するです。サプライズのある結婚をしたつもりが友人が遊びで妹に手を出したと思って殺してしまうのです。この友人を殺したことはすごくショックなのです。

そして最後散っていくのですが、この映画を見ると親分が一番強いんですよ。当然なんでしょうが、ここまで大きくなったらブレーンが必要ではないでしょうか。彼は兵隊のまま死んでいった感じです。

ある意味いい映画です。私はこの主人公の馬鹿さ加減がたまらなく嫌いなんですけど、世間では評価は高いです。

6/5

「エイリアン」リドリー・スコット監督 1979年

懐かしいです。この映画、当時地味だといわれながら蓋を開けてみたら大ヒットしましたね。

そしてこの映画は、後から思うと、「エイリアン2」のアクションによって面白さが強調されそのオリジナルとして見直された部分もある映画です。このシリーズは「エイリアン3」も面白い。

その導入とすると、ある惑星に寄ることになって地上に降り立ってみようとする、このことだけでも、マザーシップから切り離されるということ、より孤独の世界に向かっていくということが暗示されます。そして、着陸時の故障もある時間の滞在を余儀なくされることになり、また閉ざされた空間が強く描写されていくのです。そこになぞの飛行物体の廃墟を見つけるのです。閉ざされた中での謎という、エイリアン独特の世界です。この映画とか「スターウォーズ」は新しい流れを作ったパイオニア的な映画だと思うのです。

その廃墟の中は何者かに襲われた跡があり、探すと何か卵みたいなものがあるのです。たくさんあるんですよ。今となると、近寄るなと思うんですが。

自分がこの立場で、わけのわからないものに近づくでしょうか?一回戻るんじゃないかな。

大きな卵で中が透けていて、生物が動いているのに、卵の上が開いたからといって覗き込みますかね?これが第一感染者。やはりばか者です。リプリー(A)は乗船拒否をするのです。本当に正しい判断です。だから最後まで生き残るのでしょう。しかしここでもばか者が現れて被害を大きくします。

さらに科学者がロボットだったときに恐怖はかなりのものになります。この辺は映画の中の人物の気持ちになってみてしまいますね。

そして最後、脱出船にもエイリアンが逃げ込んでいたのには参りました。これは今見ても参る。ここまで来ると観ていて疲れます。まったく気が抜けない敵ですよ。それに立ち向かうのに都合のよいものがありすぎるというのも感じるんですがこれくらいないと戦う気持ちにはなれないですよ。はじめてみたときは実は脱出成功で終わりだと思ったもんでした。実際、あんな化け物とであった時戦う気になるかどうか自信ないですよね。

6/6

 

「エイリアン2」ジェームズ・キャメロン監督 1986年

これはいいです。アクション編ですね。話がつながっているのですね。

エイリアンで最後リプリーが漂流するんですがそれがマザーシップに格納されるところから始まります。しかし57年間漂流して格納されて、リプリーの体からエイリアンが出てくるところは今回もだまされました。

そして嘘みたいですが、宇宙開拓者たちがあの星に移住してお宝探しをするのです。まあ先に見つけたものが所有権を得られるという構図。そしてあの飛行物体を見つけます。アーーあ、という感じ。通信がこの移住者たちと途絶えたから、もう一度行ってくれといわれてもねえ、いやだよね、あの怖いのに会うのは。実際あんな生き物と対面したら逃げることもできないかもしれません。私は大きい土蜘蛛でも怖いですもん。

しかし退治という名目で出かけます。今回は攻めて行くのですから兵器は十分です。だから面白いんですよ。エイリアンは不気味さですがこちらは面白さ。

女の子が一人見つかります。そしてエイリアンの標本もありますがほとんどの人は結局は殺されてしまったのでしょう。さらにエイリアンは大量に脱皮してしまいました。人間のエキスが必要なのか、たくさんの人間がいた分、エイリアンも増えましたね。

ここでも上官がだらしないので部下がやられていきます。ここでも一番ひどいのは人災なんですね。まず、移住許可の人たちへの許可、そしてこの上官など。すべて悪いほうに動く原動は判断の甘さです。そしてエイリアンをリプリーの寝ている部屋に投げ込むのはちょっとねえ、観ているこっちの心臓が止まりそうになったので実際にこんな立場なら恐怖で大変でしょう。私は今体調が悪いのですが、かなり後悔して何回か途中で止めました。動悸がすごい。それくらい観ていて精神的にきますね。でも救いがあって女の子が生き残っただけあって、通路に詳しいの何の、危機一髪を救います。そして「百聞は一見にしかず」実戦を経験しているリプリーが強いのなんの。そしてマザーエイリアンと遭遇するときの驚きはすごい。まずは逃げなんでしょうが、なぜならば核爆発させるので、それでも撃ち殺していきます。

しかしまだ続く恐怖。最後にロボットで素手の勝負です。このくらい強くないと人間ではないですよね。ここまで来ると元気を与えてくれます。私もがんばろうとね。最後の魂の勝利には映画とはいえ拍手喝采です。最近このくらい面白い映画減りました。改めて、すごい映画です。

6/7

 

「エイリアン3」 デイビッド・フィンチャー監督 1992年

この映画までは観ております。そして「エイリアン2」で限界と思ったにに、この映画もすばらしい出来でした。本当にすばらしいシリーズです。

とにかくこの映画では、冒頭の無言で映し出される映像が深い意味を持ってきます。映画館で気軽に見逃したりしたら大変ですよね。私は以外と途中から平気で入るほうなのでこういうケースはほかにもあったのでしょう。

そして、状況がまたいいんです。囚人の星に来て男ばかりのところに入ります。当然エイリアンもつれてきてしまいます。ところが男たちとの無言の障壁の中で、エイリアンに気がつかないのです。今回のエイリアンは寄生して出てきた段階でエイリアンの形をしていたのでもしかしてエイリアンクイーンなんですかね。続けてみているのでこんな細かいことまで想像しますよ。

そのとおり、エイリアンはリプリーのところに近づいても殺しません。仲間だからでしょう。この2ショットは参ります。すごい。

そして何か今回のエイリアンは少し頭がいいのです。人間が仕掛けることの逆にエイリアンが仕掛けてきます。まとまりはあるんですが、エイリアンが頭よすぎる。見た目も少しかわいい感じがするのは気のせいでしょうか。

そしてこの映画が違うのはいったん解決したかに見えるところです。今までもそうでしたが、解決したら人間同士の問題が浮かび上がってくるのです。そしてエイリアンを逃がしてしまい、かつリプリーがエイリアンに寄生されていることがわかるのです。

そして殺してくれというのですが、高尚なる魂を持ったものをそう簡単には殺せないです。

そして追い込み殺す作業に入りましたが、今回のエイリアンは一匹でなにか追い詰められやすいんですよ。鉛を浴びせてその上に水をかけて殺しました。しかしここでも人間が出てくるのです、人間のほうが恐ろしい。このことを監督は言いたかったのではないでしょうか?

 

しかしTHE ENDという形なんですが、「エイリアン4」よく作りましたね。

6/8

「エイリアン4」ジャン=ピエール・ジュネ監督 1997年

この映画のシリーズの4作目を作るのは勇気の必要なことだと思います。「アメリ」の監督がチャレンジしたんです7ね。実は観ておりません。なぜならば、前作でリプリーは死んでしまったからです。しかしなぜか助かり、エイリアンクイーンの幼生を手術で取り出され、命も助けられました。この映画共同制作者にシガニー・ウィ−バーの名前があるのでどうしてもいつになく目立つ感じです。いままでの目立ち方とはちょっと違う。しかし今回は魅力的な女性が一人居ます。エイリアンって女優が出てこない映画なんですよ。ウィノア・ライダー、実は好きなんですよ。この女性(Aとする)を含めて6人が乗った船が途中修理のためにエイリアンの居るマザーシップに寄ります。リプリーとエイリアンクイーンはクローン化されて生まれてきたのです。この途中に寄った船の連中が何かトラブルを起こすのは目に見えております。またリプリーもクローン化されて生き返ったといってもエイリアンの遺伝子の影響を受けているのです。またエイリアン研究では人間が犠牲になってエイリアンに寄生させてその繁殖具合まで実験してます。何か起こらないほうがおかしい環境です。

Aはリプリーの様子を見に来たのでした。リプリーはまたエイリアンの存在を体の中に感じるとまで言ってしまうのです。そして何かを感じるとき、エイリアンは仲間を犠牲にして凶暴的なときの体液を使って(多分より酸性が強い)床に穴を開け逃亡します。育てていただけに数が多くなります。12匹。なおかつ、待ち伏せまでして追い込み、そこで人間に寄生するということも行います。またエイリアンの泳ぐシーンも出てきて、なんか漫画っぽくなっちゃいました。やはりSFだったのは「エイリアン」だけであとはアクションやコメディの要素が増えますね。リプリーなんかまたエイリアンに寄生されそう。Aはロボットだったし、展開が少し意図的で面白いといえば面白いのですが、飽きてきた感じはします。エイリアンも人間みたいになるし、ゴジラがつまらなくなったあの末期症状が出てます。まあこれはこれで楽しめるのでしょう。人間みたいに子供を生むようになるのです。リプリーがエイリアンみたいな人間で、エイリアンクィーンは人間みたいなエイリアンになったのです。そしてここまで行かなければおわらないというところまで行きます。つまり生まれてきた新種のエイリアンはリプリーを母と思っているのです。エイリアンクイーンはすぐに子供に殺されます。なぜならば新種は少し人間的なのだからでしょう。母リプリート仲良くする姿はもうこの映画シリーズの終わりを意味しております。

最後に宇宙船の外に追い出されるときの母への想いがエイリアン新種にでてくるのはちょっとねえ。そしてこのシリーズ初めての地球のシーンは猿の惑星と同じでした。

6/9

 

「ドールズ DOLLS」北野武監督 2002年

実は始めてこの監督の映画を観ます。漫才は観にいきたいのですが、映画は避けておりました。

冒頭の文楽はよく観にいっているので懐かしい感じがします。吉田蓑太郎師ですね。昨年かな、襲名公演には出かけました。しかし映像で観ると文楽は迫力がないですね。太夫の声の音量を調整しているせいかもしれません。この話とダブるように、こじきになってもいつまでも一緒にというカップルが居たのです(男をA,女をB)。Aは逆たまに乗ってほしいという両親の説得で結婚しようとしますがBは捨てられた悲しさで自殺します。その知らせを結婚式場で聞いてBの元に駆けつけて、そのまま駆け落ちします。こういうの見ていると頭にきます。なぜはじめから出来ないのか?Aの勝手な行動で、純愛になるかもしれないけれど、犠牲になった迷惑はどうなるのか、こういう感覚が大嫌いです。何でこんな展開にするのだろうか?

まあ映画的なずるさ、こうして彷徨しているうちにはじめのこじきのような二人になって行ったのです。そしてやくざの親分と出会う。この親分とABは何の関係もないのです。あるとしたら、貧乏で幸せになれなかった二人。Aの場合は貧乏というより親の薦める逆玉に乗れなかったことです。普通親は金持ちなら越したことはないとは思いますが、薦めたりはしないと思うのだけど。この親たちはAの行動で貧乏になって行きます。

親分の逸話は、昔の恋人とのこと、友人の裏切りなどで、結局は愛に帰っていくということ。今のABを間接的に表現しております。

あと、どうでもいいようですが、あるアイドルの追っかけ(男の子)とあの親分の昔の恋人(いまだに公園で男が来ると信じて待っている)おばさんがあるアパートで隣同士なんです。かなえられない想いを持つもの同士が貧乏な暮らしをしているなかで汚いアパートの同じ屋根の下ということです。

アイドルの場合も親分の場合も男と女が待っているということで話が対になっているのです。大きな伏線ですよね。そしてこの男、究極まで突っ走ります。「ベティブルー」のパターン。自分の目を刺して見えなくして、事故で引退したアイドルに会いに行くのです。当然、仲介の人は会わせてくれますし、アイドルのほうも古くからの追っかけですので顔と名前は覚えております。アイドルもその心意気に打たれます。何かを感じたでしょう。

さらに同時におばさんも親分が毎週行くようになるとどうでもいいと言うようになります。実は彼が来ているんですよね。男と女の想いと言うのが真剣なだけに通じたのです。その瞬間でさえもABは一緒に彷徨ってます。まあしかしアイドルの追っかけも、親分も死んでいきます。やはり一緒になれない運命なのです。そして、たまたま死ぬことが念願かなった時に起こっただけです。親分も追っかけもこの後生きていてもいいことないでしょうし、幸せな死に方だと思う。二人とも相手と別れてすぐの死ですから、余韻の中に死んでいったのです。そしてABもまた意識を取り戻したかに見えた瞬間、そう愛がまた通じ合えた瞬間、図らずも心中のような形で死んでいくのです。そしてそれが最後。愛というのは追っても成就しないものなのです。それが運命さ。幸せそうでも実は、、なんて夫婦のほうが多い世の中です。ここに出てきた人たちはその意味では幸せの中に死んでいったのです。「冥土の飛脚」が来たのですよん。

6/10

「事件(じけん)」野村芳太郎監督 1978年

法廷劇なんでしょうが、はじめからすべて事件が解決する方向でスムーズに進みます。

事件は彼女の姉を殺害。何とならば、姉に妹との間に出来た子供をおろせといわれていたからです。主人公は19歳の青年Aです。未成年だから裁判官も早く片をつけなければならないと言うのです。未成年の保護を考えた判断です。最近ではこういうことも通用しない事件が増えてますけど。そして裁判検事も弁護士もみんな冒頭陳述がどうもおかしいと思っているのです。映像ではフラッシュバック的にどうも姉をかばっているのではないか、という映像が挿入されます。

とにかく舞台の初めのところはうちの近くばかり出てくるので、すごく親しみがあります。地裁や中華街が出てきます。事件も厚木ですし。

「金にならなくてもマスコミが集まる事件をやれ」これが弁護士商法の第一条だとのこと。弁護士がやたらがんばります。ほとんど動いていないんですが、それであてずっぽ言って本当ならそこから新しい糸口が見えてくるという戦術です。もともとAは殺意を認めているのです。ですから刑は軽くなれば成功ならなくて当たり前の事件です。

しかし証人の後ろめたい事実ばかりが裁判で浮かび上がってきます。そして決定的なことは殺された姉が家を飛び出していったのは、母の愛人が手を出してきたことによるという事実がわかってきたのです。母のいい加減な夫婦関係が娘まで変えてしまったのです。そしてホステスに身を落としてそこでチンピラと出会っていくのです。このチンピラがまた人生を狂わせていく。その中で妹とAは埒外の人間だったんですがいつの間にかこの人間関係に巻き込まれていくのです。さらにAは姉と関係していたのを妹に見られてしまったのです。そして姉の妹に対する言葉は「力で奪ってみろ」でした。それから妹は積極的になりAに接近していくのです。

さらに姉はチンピラと縁を切るために逆に手切れ金を払っていたのです。殺された姉はこのようにぼろぼろになっていったのです。そして妹が幸せそうにしているのをうらやましく思ったのでしょう。殺人の瞬間、この姉の顔は「般若」みたいになります。自分だけがいつも不幸、こんな人生は生きられない、そう思ったのでしょう。そして姉が居なくなって周りはうまくまとまったのです。この殺意の証明、出来ないのですよ。

地味だなあ。難しいテーマですよ。しかし神奈川の厚木、平塚あたりですが本当に田舎の風景の感じがしましたね。うーーん、田舎なんだなあ。

6/11

 

「風花(かざばな)」相米慎二監督 2001年

男と女の出会い。酒の席だったので、男は目が覚めてみると忘れてます。しかしなんだかんだ言っても女が故郷の北海道(道東から北見のほうみたい)に帰るのに付き合います。

そして北海道のファーストシーン、喫茶店です。北海道は意外と喫茶店残っているんですよ。まあ大手資本系列のカフェの採算が合いそうなのは札幌くらいでしょう。

偶然、の旅行のようでしたが、女は自分の子供に会いに故郷に帰ってきたのですが、今の商売がホステスということで会わせてもらえません。旦那と何かあったのです。そして男は会社の不祥事を起こしていたのですがそれが大きくなってとりあえず形は任意退職ということになりました。北海道という土地で二人とも宙ぶらりんになったのです。

この二人が風に流されるように、本当に時流にも世間にも流されていく過程を描いたものです。特に女は生まれも家庭環境がよくなく、結婚しても旦那がよくなく(ここははっきりとは描かれていない)風俗嬢にまで身を落とします。それでやけくそで帰った故郷でうえのように仕打ちをされて生きる意味を失っていたのです。生とは偶然なものであるけれど生まれたなら必然となるのです。本当に風に飛ばされた花のように偶然、あるところある両親の元に花を開く、生まれるのです。しかしそんな花もしおれるのは、手入れの問題ですし、環境が大きく左右します。その花が自ら命を絶とうとしたときに、一緒の男は懸命に介護します。こんなに親切にされたのは久しぶりか、または初めてだったでしょう。

これで何か吹っ切れたのでしょう、前向きに生きていく決心が出来ました。そして子供に会いに行きます。当然血のつながりがあるので子供もわかります。この子供と会うなという反対を押し切ってあう自信がなかったのです。それがこの数日の放浪でつかめました。男も何か人を愛するという気持ち、人間代わりはないという気持ちを感じたのでしょう。新しい人生が始まるところで終わります。彼もまた一段と大きくなったのでしょう。

小泉今日子さんのなにかブスな表情がいたるところで見ることが出来る映画でした。ちょっと観念過ぎかな。

6/12

「怪談(かいだん)」小林正樹監督 1965年

これ完全版なんです。一度も見たことはありません。

「黒髪」

主人が没落して職を失った武士が、仕官の道を求めて女を捨てて出かけます。入り婿という形で仕官するのです。当然婿をとるくらいですから、わがままなお嬢ちゃんです。それで昔の彼女が懐かしくてたまらなくなるのです。地方勤務なのです。武士が貴族の守り役のころですから平安だと思います。

そして任期を終えて帰ってみると彼女どころか都(京都)は荒れ果ててます。家に行ってみると荒れた中にも一人機織をしてたたずんでおります。そして「お帰りなさいませ」「悪かった、あの時はおかしかったのだ」と男。「貧乏がさせたのです」と女。そして仲むつまじい抱擁。しかし女は「しばしの間」と男は「ずっと」というのです。そして契りを結ぶのですが朝起きてみると、白骨の死体が。よく見ると白骨なのに黒髪が残っているのです。見覚えのある黒髪です。それを観て恐れおののき、一瞬にしてふけてしまった男にまだまとわり着く黒髪でした。狂うさまは圧巻ですよ。

「雪女」

二人の老若のきこりが山からの帰り道猛吹雪にあいます。笛の音色が吹雪にマッチしております。何かを呼び寄せているのですね。まさに霊(雪女)を呼び寄せる笛です。そして背景の美しさ、抽象性まさに映画的です。雪女は若い方を生かせて「このことを誰にもしゃべっちゃだめだよ」そして「しゃべったらお前を殺す」と言って立ち去ります。

この男も恐怖から立ち直って山仕事に戻るとそこで一人の美人と会います。ひょんなことからこの人の妻になって子供を作ります。すごくいい妻を演じるのです。当然あの雪女ですよ。それで気を許して、昔雪女にあった話しを妻にするのです。そうすると豹変して「私との永遠の約束を破った、さするに殺すのが筋だが子供がいる、大事にせよ」といって消えるのです。残った男は幸せな家庭を一挙に失ってしまいました。雪女が去るときの外の吹雪の景色と地平に見えるぱっくりと開いた目が印象的です。

「耳無し芳一の話」

冒頭の源平の「壇ノ浦の合戦」すごく絵巻物みたいで美しいし迫力がある映像です。そして赤間の供養寺に。赤間神社だと思うのですがその隣にお寺があったかと思います。

ある日、芳一が一人で留守番をしていると、平家の武士が尋ねてきます。そして平家琵琶をある高貴なお方にお聞かせしたいが来てくれるかといわれ、そのままついていきます。何せ目が見えないので何の疑いもなくついていくのです。しかしほかのものの知ることになり後をつけられます。しかし平家の一族は(この一族揃い踏みのシーンはいいなあ)、「壇ノ浦の合戦」のくだりを聞かせてくれというのです。実はこの演奏は安徳天皇の墓前で演奏していたんです。有名なシーンになるには次のようなロジックが必要でした。「死霊にとりつかれたからには死霊に殺される」だから「死霊を避けなければならない」というわけです。しかし、この平家一門の揃い踏みのシーンは素晴らしい。平家琵琶も美しい音色で本当の日本の美が描かれていると思います。おちは耳に般若信教を書き忘れてしまい平家の霊に見られて、もって行かれるということです。それで霊はこなくなりますが、その霊の気持ちというか霊に触れたことで一層平家琵琶の演奏に深みが出ましたし、その体験の哀れさから世間からのお布施は十分もらえたということです。美しすぎる映像です。

どの作品も、日本を代表する役者が揃ってます。本当に日本を代表する映画の一本といって過言ではないでしょう。

「茶碗の中」

回顧的な語り口です。

昔ある武士が茶碗の中に一人の男を見たのですが、実際にその男が屋敷に現れます。この藩のの江戸屋敷は騒然としますが、「音もなく壁に消えた」と聞くと回りのものは相手にしません。まあ男も気休めにゆっくり眠ろうとすると家に来客がある。出てみると先ほど主人が切られたので、養生が必要、それが終わったらこのご無念晴らしにくるというのです。

また気が狂ったようにこの男は刀を振りかざします。しかし殺したはずの3人の武士は何回も何回も現れてきます。

それから、ここで話は切れているとして、この昔のもガタリを解雇している男のモノローグが始まります。しかし本人が消えております。「魂を飲んだものはどうなるのか」と書き残して。

はい、今度は自分が飲まれる番です。

 

アイルランドとギリシャの混血の日本人と日本の名監督の素晴らしい作品だと思います。

6/13

 

「堕ちてゆく人妻 犯された貞淑」 杉山太郎監督 2000年

題名すごいですね。そんなひどい内容ではないんです。しかしここに書くのはためらってしまうような感じです。でも意外と面白いので書きました。

内容は「パリ・テキサス」のパクリです。だから少し共感したんじゃないかな。あの映画好きですから。

まあ三浦半島で喫茶店かレストラン経営している夫婦が中心です。まあいい加減な描写が多いのです。たとえば暇そうな店なのに従業員が多いとか、多いなら料理作っているのかと思えば、妻が弁当作ってきたりするので飲食ではない喫茶店か?とかもう登場人物に個性を与えたいからいい加減になるのがよくわかります。またここのオーナーがいい加減。

飲食店経営してしょっちゅう外食ばかりしている。

税理士に出す資料遅れるなとか、得意先に連絡したか(仕入先ですよ)とかどうでもいいことで妻を怒るのです(税務署なら重要ですが税理士は重要ならすぐに飛んできますよ)。この辺でこのオーナーは嘘、と思うのです。だから馬鹿さ加減が観ていて面白いのでしょう。

映画の中で妻の役者のほうが圧倒的に美人なのに、ブスな愛人を作るオーナー。「お前ね、愛人作る余裕がいまどきの飲食店のオーナーにあるわけないだろう」と私は思う。

妻はじっと夫の不倫を見てみない振りをするのですが、なにか不満があるのです。それは「自分だけを見ていてほしい」という願望があるからです。

しかしこのことに気がつかずに不倫してはお金を浪費する馬鹿な夫。

当然妻は姿をくらまします。夫は愛人からも奥さんのことを聞かれ、奥さんは知っていて黙っているのかもよ、といわれて少し気になっていたのですが、妻の失踪とともに急に妻が恋しくなりました。

いろいろ探しても見つからないし、この馬鹿な夫は今度は真剣に探すために店をしばらく休業するのです。もう唖然というかありえない展開。よっぽど余裕があるんでしょうか?バイトをに休業を伝えるときに「給料の2か月分振り込む」という太っ腹。こいつ本当におかしい。

そんな時妻の友人から電話があって手紙が来たとのこと。消印を観ると「新宿」。そのため新宿にターゲットを絞ります。バイトの知り合いで新宿でバーをやっている人を訪ねるとバーのマスターに「こういうところにきたら、まずは飲み物を注文するのが礼儀」と言われ「質問するより、まずは飲みなさい」と言われます。私はこのマスターの言葉が大変気に入ってます。飲み物を提供しているところで食べ物をかねようというのは無理。何か今の世の中「ランチ、飲み物つき」の変な世界ですのでこういう余裕のあるせりふはすごい好きです。食べ物を食べ物の店に行く、飲み物は飲み物の店に行く、基本です。

しかし新宿で無理をするから空回りします。ところがある日、娼婦に「見つかった」という知らせを聞くのです。行ってみると個室的ストリップショーみたいな店。

まあ「パリ・テキサス」を浮かべていただければあの、ナスターシャ・キンスキがいたようなところです。そこで同じように電話で話をするのですがそこには、もう夫には未練のない妻がいたのです。ここではみんながこの女を見てくれているという世界。そんな屈折した世界で満足してしまうほどに孤独だったのです。

 

意外と面白かったですよ。題名から借りたり、人に薦められないのが欠点。つくりは、安っぽいビデオ作品だと思います。しかし何かポイントに人の情が描かれている気がしました。

6/14

 

「ピンポン」曽根文彦監督 2002年

普通はテーマになるスポーツではないと思います。水泳でさえテーマにはならない。ですから最近はこういうものにスポットライトを当てた映画があるのでしょう。

とにかく、普段なら冷めた目でこういう高校生を見るのですが、この映画ではやけに共感できます。結局は冷めていないハートを持っていることがわかるからです。

しかし中国からの助っ人が来たと知ると「道場破り」に行くところなんか熱いハート持ってますね。いいなあ。そしてやわなやつをみんな強豪がマークしているんです。実は強いんじゃないかな。しかし「相手の心中を考慮して球を打つ性格なんです」だから勝たない。この辺でこの映画「ドカベン」の卓球版漫画みたいなものだと思いましたよ。すごく気が楽になります。だから人気が出たのかもしれない。

まずはこの控えめな男とチャイナの戦い。面白いですよ。しかし途中で「なんにために中国から来たんだ」という声を聞いて、またまた相手の立場を考えて負けてしまうのです。

そのチャイナも大会のエースには負けます。

主人公は圧倒的に今まで勝ってきた幼馴染にも負けます。主人公とこの気の弱い友人はともに負けてしまうのです。

そして気の弱いやつは真剣なトレーニングをさせられます。試合に負けたら魂をコーチに売ると約束していたのです。

そして主人公はそのままドロップアウト。しかし友人が浪花節を語ってくれて「ロッキー」のごとくカムバック。そのコーチは街の卓球場の女主人です。また気の弱いやつもコーチもまた気の弱いことがあったと聞かされて、何か納得できてくるんです。2人が燃えてきたところでこっちまで燃えてきます。そして最高の舞台を用意します。それは主人公がひざの怪我をしてカムバックして準決勝で大会のエースとあたるという時に辞退しろという忠告を無視して友人との決勝をかけて試合に臨みます。足はもうだめでしょう。しかし友情を大切に戦いに行きます。エースに勝ちます。これは一定のレベルの人間しか味わえない楽しい試合になりました。ということは決勝は友人同士です。

そして卓球を気の弱い友人に教えてあげた主人公が勝ちます。そして世界に羽ばたく。

この映画で疲れぶっ飛びましたし、肩に感じていた疲れ、重さ5キロくらいのだるさが一挙に1キロくらいになりました。こういう映画はいい。

素晴らしい映画と楽しい映画が続いて気持ちはハッピーです。

6/15

 

「十三人の刺客」 工藤栄一監督 昭和38年

老中の屋敷前にて播州の明石藩江戸家老が切腹をして自害します。明石藩の松平家はこのときの将軍の弟だったので重大問題に発展します。冷静に見ると播州は西の要衝でもあるので弟に任せていたのです。また次期の老中も決定しているのです。それなのに、播州国の中で百姓一揆やら参勤交代の際中仙道木曾の上松での婦女暴行事件やらで評判がよくないのです。現老中がこんな人間を老中にできないと判断暗黙に処理したく作戦を練ります。しかし相手は将軍の弟。

しかしお咎めなし。お殿様は当然というくらいのぼんぼん、ですが家老はおかしすぎると思うのです。その通り、裏で動き始めました。狙いはこの馬鹿殿暗殺。

しかし家老もスパイを送ると、大物が動いていることがわかります。スパイも殺されます。これで家老もどんな動きをしているのかわかります、よって準備万端整えます。

しかしこの老中方の追っ手の中の助太刀を買って出る、西村「黄門」晃さんかっこいいですよ。この人は役者ですねえ。以前「髑髏船」で見たときのあの狂ったような演技もできるんですから。

さあ、殿様は参勤交代から国許に帰るときがきました。帰るまでに奇襲が成功しなければ、相手の懐に入り込むのは容易ではありません。

その前に暗殺者の中心人物は(片岡千恵蔵さま)は三味線で仲間を増やします。この三味線の乱弾き良いですよう。

さてと次の日、馬鹿殿は出発。しかし家老がしっかりしております(ここで家老と書いたのですが今まで家老と書いていた人はもしかしてもう少し身分が低いかもしれません、ご勘弁を)、この家老は隙をまったく作りません。追っ手も手を焼きます。

最終的に博打で木曾の上松の近く落合宿です。2つの街道しか選択肢がないので来ると踏んだのです。待つといっても12人。大丈夫なんでしょうか?とにかく前に上松でもめたときにわりを食った尾張藩の協力を仰ぎ通行止めにさせて、尾張藩を通らないルートを探させるというのです。もう博打の世界。そして落合宿の家をとりあえず買い取ります。幕府が裏でやることなのでお金はあるのです。馬鹿殿退治も大変です。この馬鹿殿も「挨拶」の礼儀は欠かないのです。そこに博打があったのです。挨拶の礼儀を欠いて笑いものになるか、それを避けるかで博打を張ったのです。そして殿は博打のほうすなわち待ち構える方向に進み始めます。しかし敵も然るもの、伊那で姿が消えます。そこでどうするのか?動かないのです。初志貫徹。素晴らしい戦術哲学です。

やってきました、そして宿場ごとネズミ捕りのように作ってあるので狭い路地行ったり来たりしているうちに仲間が離散して馬鹿殿も一人になってしまいます。そこを討ち果たす。

名目は発病で御領内に戻りてすぐに死んだとされているとのこと。

 

最後は意外と敵も味方もわからない乱戦で本当に何が起こるかわからないような感じでした。それを追い込んだ策士の勝利です。評判ほどいい映画ではないですよ。

 

もっと痛快無比な映画だと思っておりました。

6/16

 

ALIVE (アライブ)」 北村龍平監督 2002年

オリジナルロングバージョンの方。鉄男と同じで漫画っぽくて良いですよ。

死刑執行して生き残った男(A)を利用します。「生き延びるか、もう一度死刑執行してもらうかはAの選択によります」そして生きる方を選択。24時間監視つきの部屋でほかの男(B)と相部屋で生活をします。とりあえず殺人犯同士。Bが先にAに対してちょっかいを出します。さらに魔女という女(C)が現れ、Bが会いたいというとAを殺してから来てと言うのです。このCの中に宿っている異次物(D)は強いものがあらわれると移動するためAB争わせているのです。Aが殺したのは彼女なんですね。それで凶暴性は意外とないのです。BCを独り占めにしようとして抜け駆けをして魔女に殺されます。

この実験はこの魔女のDを兵器として利用できないかというエイリアンと同じような状況です。その実験だったのです。結構このほかにも概念がエイリアンと同じような部分あります。

Aの殺人は恋人が犯されて、遠ざけてしまうところを恋人に感じ取られて、「やさしくして」と近寄るのをなぜかナイフで刺してしまったのです。恋人の女も抱かれたいから、そして犯されたという劣等感から、強く相手を求めるように近づくのです、それで拒否してしまったのです。

そんなことを思い出させてくれた魔女の女(多分好意をAにいたいていたと思う)からDAの体に入ります。そうすると実験という名目は捨て去り、国家のエゴでこのDの威力を実験に入ります。そして攻撃隊は相手になりません。ここがこの映画の見せ場ですが面白いですよ。撃ってきたマシンガンの弾を素手でとり投げ返すとマシンガン撃つのと同じ威力で相手に命中。全滅します。このDは魔女の父親がアフリカで遭難したときに飢えをしのぐためにサルを食べてからかかったらしいとのこと。そのサルは未確認飛行物体が墜落したときにその中を荒らしたサルだとのこと。結局は宇宙のものらしい。

まあ、どうでもいいのですが、このDの力をAは使いこなせるんです。何が違うんでしょうか?

最後に駄目押し。それはもう一体の完全兵器として培養した人間エイリアンが存在していました。この両者を戦わせるのです。しかし予想に反してAが勝ってしまう。

そしてAはこんな危ないものはいらないと自分自身自殺して抹殺するのです。

まるっきり漫画でした。せりふやしぐさ、構図どれをとっても漫画の映画でした。

6/17

 

「豚と軍艦」今村昌平監督 1960年

戦争終わって15年目の映画ですか、まだ記憶に残っている人が現役のときの映画ですね。米軍が出てきます。今だと考えられないと思いますが、日本ってアメリカと戦争したんですよね。いつも不思議に思います。山本連合艦隊長官は正しかったと思う。

そして日本の精神を恐れた米軍が行ったのは、教育の崩壊です。その崩壊された若者がすでにこの映画でも出てきます。豚の商売を始めるみたい、この若い男をAとします。

米軍の象徴として空母のポスターが出てくるところはにくいですね。空母にやられましたからね。

海軍のある街が舞台です。いまだにアメリカ海軍がいる町って那覇、横須賀、防府とかもそうだったと思いますが少ないですよね。長崎もそうかな。まあ横浜にもいますけどね。

しかし俳優はオールスターキャストに近いくらい凄いです。その辺にこの監督の底力があるように思えます。吉村実子さんって誰の奥さんだったか忘れましたが、「鬼婆」といいこの映画といい最高にかっこいい。

そういえば途中で気がついたんですがこの映画のとき沖縄はアメリカの占領下でしたね。となると防府か横須賀あたりかな。横須賀でした。看板でわかりました。海見ていると瀬戸内海のような気がしたんですが。

米軍から金を取ろうとするやつらの話です。あとは米軍からとった金をその日本人から奪うというやつらですね。しかしカンズメの汁まで飲んでしまうシーンにはさすがに時代を感じます。砂糖がおいしかったですよね。最近じゃまず女の子は、砂糖入れないで飲み物のみます。Aの彼女が勤めている食堂が雰囲気が良いんですよ。屋台みたいなんですが、人が集まってくるんですよね。まさにアジアです。とにかくAは中途半端に突っ張ってやくざ気分ですのでそんな役回りばかりなんですが、子供ができたのでまっとうな暮らしをさせたがっているんですよ、彼女が。この彼女の実家もかなり修羅場で家も汚ければ、姉妹で危なっかしい生活をしている感じです。いわゆるしもた屋です。

Aの兄貴分は癌で死期が近いし、彼女はAに愛想つかせてオンリーさんになるようなこと考え始めるし、Aを中心に変な回転をするようになります。パーティで踊り酔いまくるAの彼女のシーン良いですねえ。しかしAにとってもまあ自業自得の世界です。

しかし途中「日産生命」の看板は懐かしいしもう二度と見ることができないものです。「日産損保」も合併という形ですが、半分倒産でしたね。安田と一緒です。合併当時のソルベージマージン相当やばかったです。今でも思うのですが、金融機関の看板なんてロケで映ると懐かしい。「三井銀行」なんて懐かしいですよね。「安宅産業」なんて出てくる映画あるかなあ。

しかし彼女は米兵と遊んでいるうちに輪姦されてしまうし、その腹いせにお金を持って逃げようとすると追いつかれ捕まってしまいます。このように彼女の人生もおかしくなっていくのです。そしてオンリーさんになろうとするのですが肌に合わずすぐに戻ってきてしまいます。ちょうどAもやくざの汚さに愛想が尽きてやめて出直そうと決心したときでしたので二人仲良く出直すことにしますが。

しかしその最後のお金を取りに行くとき最後の仕事で裏切りが出て、どうにもならない状況の中、Aは叩きのめされて、豚と一緒にトラックの荷台に積まれて運ばれますが、そこには闇で手に入れた機関銃もありました。その機関銃でぶっ放すA.しかし相手を狙っていないのです。基本的にやさしいですよ。しかし相手は正当防衛と拳銃を撃ってくるし、警察も駆けつけてます。もう逃げ場がないAは流れ弾に当たり負傷をおい死にます。駅で新天地に向かう待ち合わせをしているその夜にです。彼女のほうは来ないAを待っているのですが、騒動を聞き言ってみると悪い予感が的中します。

そして姉の勧めでオンリーさんになる話が持ち上がりますが、一人Aとの約束の地に旅に出て行くのです。きっとAと心の中では一緒だったんでしょう。

意外とまとまりがないような感じもうけますが、その実、グラフィティのような映画です。なんといっても45年近く前の横須賀が良いです。活気があったなあ。

6/18

 

「ギャング・オブ・ニューヨーク」 マーティン・スコセッシ監督 2002年

聖ミカエルが悪魔を天国から追い払った、という子供への教育から始まります。今度は悪魔関係が続くんでしょうか。

移民対ネイティブの戦い、といってもネイティブの皆様方も昔は移民なんですけど。この戦いぶりは「サルートオブザジャガー」並みに面白いです。アイリッシュカトリック対WASPみたいな構図です。まるっきりケネディ大統領暗殺の構図です。1846年のNYです。嘘だろう、という気持ちでいっぱいです。この数年後ペリーは日本に来ているんです。こんな国内状況だったんですかね。それから16年、南北戦争のとき?のNY.

ペリーの外交とはなんだったんでしょうか?ちょっと勉強しなおさなければなりません。

しかしアイルランド移民の話はアイルランドに行くとよくわかります。ジャガイモしか取れないのに不作だったんですよ。数十万単位で移民してました。

とにかく冒頭の争いで負けたアイルランド系の司祭の子供が監獄から出てくるのです。

そして昔の町に戻ってみると、荒れていて、いろいろな派閥ができています。しかし基本的には荒くれものたちですね。そしてあるボスの元に入り込みます。この司祭の子供(青年になったけど、をAとします)。この親分は肉屋でその派生でナイフを使うのがうまくなってボスになっているだけのチンピラあがりです。スリの女(Bとします)がいるのですがこの女はとりあえず一匹狼ですが、ボスの褒美をもらったものからは確実にスリます。そしてAと知り合いになり、ダンスパーティーで相手を選ぶときにAを指名します。しかしBが娼婦をかねているのでAは避けます。まあ仕事というか生きていければいいのでしょう。その間にもアイルランド人の移住は続きますが、賃金は黒人よりも下(ここは注目)でも仕事をします。そしてソサエティを作っていったんでしょう。カトリックで司祭を中心にまとまりますから。情報網もできやすいですよね。そしてAはこの司祭の子供だったんですが、ボスはアイルランド人を非難するほう。なぜなら司祭はバチカンの言うとおりで自由の国アメリカにはふさわしくないという趣旨です。このボスの父親が自由を勝ち取るために英国群と戦って戦死しているからです。そんな反対ばかりしているとアイルランド系から狙われて狙撃されます。それを最小の傷に食い止めたのがA.

まあ下層階級のほうのアイルランドと黒人の音楽と踊りを足すとタップダンスみたいになりますけど、これがアメリカのオリジナルとはよく言ったものです。アメリカで出会ったのですからその通りです。この飲み屋の中の女の一人がBでキャメロンディアスなんですがまったく目立たない感じです。いいのか悪いのかわかりませんが、アメリカが混沌としていた様子はこの酒場のシーンなどでよくわかります。酒場と港のシーンかな。

ボスはあに司祭との戦いのあらましを説明して記憶に値する相手はこの司祭だけだったといいます。Aはその息子なんですが。

当然Aはボスの命を狙うために潜入しているわけです。しかしそのことをいち早くボスに忠告する男がいました。それまでは命を助けてもらったことでAを信頼していたんですが、隙を見せなくなります。そして政治をかねた見世物ショーの始まり。この映画の最高の見せ場です。こういうの大好き。

Aの狙撃は当然失敗します。そして切り刻まれる状況に。そのときの観客の盛り上がり方は人間の野蛮な欲望を表現していていいですよ。この映画はこのシーンだけで愛すべき映画なんですが。しかし切り刻まないで。町を歩けないように顔にパテでやけどを負わせ、多分片目を失明させます。たぶん映画だからでしょうがこのような状況でつける傷とすると小さいものです。もっとエレファントマンみたいになると面白いのですが。

そのあとアイルランド系で組織してギャング団を作っていきます。最終的には選挙に勝ちたい。アイルランド系の議員を出したいということです。まるで「寒椿」と同じなんです。まああれは昭和初期の議院内閣制が開かれたときで、これはアメリカの公民権(当然、黒人には選挙権がない)の初期なんでしょう。というか移民の影響を馬鹿にできない時代です。

Aもまたボスのやり方を真似て、恐怖の暴力を行います。それは悪いやつらや自分たちの主義にあわないやつらを殺して死体を大衆の見せしめに大きく掲げるのです。そしてお互いがにらみ合うことになります。ではなぜ、ボスは生かしたのでしょう。戦うにふさわしい相手だからでしょうか?ここはよくわからない。多分、自分がAの父親に助けられたからでしょう。そのときのAの素性をボスに教えたやつはその後Aに誤りに行っても相手にされないですし(本当は死が妥当)ボスのところに戻っても、伸してきたアイルランド系への見せしめに瀕死の状態で掲げられます。そして「信仰」の名の元に力を結集させようとします。同じ英語圏でカトリックなのはアイルランドだけです。そしてアメリカの公用語は英語です。フランス語はカナダです。スペイン語はメキシコですし(これも問題はあるんですが)この同じ英語圏であるということが争いの激化の元なんです。

さて、選挙。WASPとほかの団体と対決です。選挙自体は金持ち層と貧乏人層に二分するんですが、主人公には父親の復讐という使命があります。そして相手もそれを待っているのです。いわゆる西部劇そのもの。

そして当日は朝から不満分子が荒れに荒れて暴徒と化します。そして主人公たちはその合間に対決へ。戦いには勝つのですが、途中で暴徒を鎮圧するための政府の軍隊が市民を無差別に殺していくのを見ます。実は敵はもっと大きいものだったのです。復讐というのは実は街での小競り合いに過ぎないものでした。それを現実に知らされながら戦い合うのも滑稽なんですが、復讐ですから仕方ない。受けてたつ方も逃げません。というより殺される感じさえします。

それはNYがまだ整備されていないときの話です。それから中心都市になっていったのです。すごく面白いいい映画ですよ。

でもなぜか黒人の描写はあってもユダヤ人の描写はなかったですね。

6/19

 

「日本黒社会(にほんくろしゃかい)LEY LINES」三池崇史監督 1999年

帰国者センターの若者で保護観察中のかなり、根っからの悪党を北村君が演じてます。いい味出てます。またこいつらがバイク盗んできては売るところもあったりして社会の裏の面がかなり出てます。そういえば先日の「豚と軍艦」に似ている。当然でしょうが、師弟関係はこんなところにも現れるのでしょうか。

まあ悪い連中同士で、田舎から東京に出て一旗あげようとするんですが、出かける直前に辞めるやつらが出てきて、拍子抜け。二人になってしまいます。まあ見送ってくれるところに救いがあるのでしょうが、先が読めてしまう寂しさがありますよ。みんなどこか突っ走ることができない、中途半端な気持ちなんです。踏ん切りがついている北村君とは違う。

また友人が田口君。トモロウくんですよ。北村君の弟は勉強家で中国から日本に来た家族、すなわち両親を背負って立っていくのでしょう。結局出てきて兄貴と一緒に生活してしまうんですけどね。

そして新宿で、シンナーのようなものを作って売る仕事を始めます。まあ闇の商売ですね。

そしてたまたま食事していた中華料理店は売春宿も兼ねていて、食事中に娼婦と知り合います。縁とは不思議なものです。それがスリだったのです。部屋に閉じ込めて追いかけられないようにしてその前に財布なんかを抜き取っていたのです。北村君(A)田口君(B)は田舎から出てきたので都会の厳しさがこれで身に染みる事でしょう。

その後も暴力的なシーンや犯罪シーンが出てくるくらい、底辺の生活の荒海の中の描写が続きます。具体的に書けないようなシーンばかりです。しかしそんなに画面から目をそむけなく観ることができるのは、ABが飛び込んだこんな混沌とした無秩序な世界でどう生きていくのかが興味あるからです。

この世界の中で、チャイナ系と日本人のチンピラの間をどうでもいいような軽い乗りで行ったりきたりしています。そして外国に逃げたいと思って、チャイナの扱っている裏金融の金勘定の場所に乗り込んで、金を奪って逃げます。これ、ってもうばればれの犯罪ですよ。逃げられるわけがない。だけどやってしまう安易さ。

日本のチンピラもそれに乗じて奪おうとするのですが墓穴を掘ります。その前にBは撃たれてしまい、途中「俺の取り分は母親に送りたい」と言って死んでいくのです。はじめはAも故郷につれて戻るだけで、取り分を渡すつもりはなかったのですが、弟が反対するのといままでAの心の支えになったのを思い出し、弟に渡しに行かせるのです。しかし殺し屋が待っていて殺されるし、女と海外に逃亡しようとするとチャイナの親分が待っているし踏んだりけったりですが、最後まで突っ張った人生です。

海に飛び込んだときお札が浮かび上がってくるなんざ、「地下室のメロディー」みたいです。そして最後のシーンなんかまるで「パピヨン」。あの突っ張りが最後まであるのです。そしてかぶさる音楽がバンドネオン。

 

なかなかいい映画です。このシリーズはいいですよ。「カタクリ家の幸福」の方が好きですけどね。

6/20

 

「必殺仕掛人(ひっさつしかけにん)梅安蟻地獄 渡邊祐介監督 1973年

まずは気に入った言葉、梅安の言葉で「食い物には心を込めろ」事実です。ケーキなど作っていて、当然いつも心を込めているのですが、その分出来上がったときにうれしい反面、ぐっと疲れが出ます。どんなに疲れていてもケーキを作るときは真剣になるから不思議です。

まあこの映画では冒頭、梅安が人違いで侍に狙われます。たまたま行きつけの料亭でその相手を知るので、問題ないのですが、逆に深く事情を知るきっかけができてしまったわけで、すごいいいスタートを切ります。今回は緒方拳さん。また同じくせりふで「人とタバコの良し悪しは煙にならなければわからない、昔の人はいいこと言ったもんだ」というのがあるんですが、私もいい言葉だと思います。知識として利用させてもらいます。

展開はわかりやすく、あの料亭で間違えられた男と話している男の方を仕掛けてくれという依頼が梅安の元に増し金で舞い込みます。なんとわかりやすい展開なのだろうか。本当に娯楽とはこういうものです。

相手は元侍で今は街の名士の商人。何で商人になったかというと、侍のときにある殺しを引き受けているのです。そして商人になって大もうけする野心があったのです。それには侍のときに作った貸しでコネを利用して旗本などのよい顧客を作る必要があるのでしょう。

実際、大口つかむと商売は意外と順調なものです。その影で甘い汁を吸う連中もいるのは言うまでもありません。

その仕掛けとほかの仇討ちが絡まって共同戦線を組むのですが、ここで出てくる仕掛け人は梅安だけです。この仕返しをする侍は仇討ちのためという名目しかないのです。何の仇討ちかというとやはりこのなり上がろうとする商人になった元侍の弟に手篭めにされた女の仕返しです。

まあアクション的な見せ場は余りありませんが、なにか梅安のひょうきんな性格が全編に渡ってでて、楽しい必殺仕掛人です。

6/21

 

「しなの川」野村芳太郎監督 1973年

これは昔ポスターが有名だったのと、監督で外れていないだろうと思い見てみました。

大正時代に訳ありで生まれた女の子が大きく成長した昭和4年ころの話です。旧家の家柄ですがそこに奉公に若い男がやってきます。Bとしますが沖雅美さんです。人気ありましたよね。この人の歌結構好きでした。多分いまだにシングルは持っていると思います。お嬢様をAとします。由美かおるさんです。この人は興味ない女優です。でも人気あるんですよね。当然、この旧家はしなのがわのほとりです。

BAに身分が違うのですが「はつ恋」をするのです。もう初々しいのなんの。私ももう一度初恋なんかしてみたいですね。そしてAも当然Bに好意あるんです。わざと連れ出して川のほとりで裸になって水浴びをBに見せるようにするのです。このシーンが有名だったんですね。私はこのころは邦画はまったく見ないで洋画専門でした。

ひょんなことからAは自分の母親が生きていることを知ります。そしてそれを隠していた父親に対して軽蔑のまなざしを持って口もきかなくなるのです。そのために父親は長岡の寄宿舎に転向させることにします。なぜ母親は駆け落ちしたのか?それはこの父親(夫)が男色だったからです。

寄宿舎の生活ですぐに憧れの人ができます。国語の教師です。しかし学校にばれることとなり退学、教師はそのままAを引き取りたいと父親を説得しますが反対され、母親同様「駆け落ち」をします。東京に出るのですが世間の風は冷たくジリ貧の生活となるのです。

そしてこの教師は赤狩りにあって警察に捕まるし、実家からの捜索願により刑事がAを引き取りに来るしでAは実家に戻る、すなわち2番目の恋人とも別れなければならなくなるのです。

そして恋人の男が簡単に警察の前で女を裏切ったことを知るのです。さらにもうひとつ、母の居場所がわかりました。そしてここが若さだと思うのですが、電車から飛び降りて向かうは母の場所ではなく、男の場所なのです。男は未練がましく、抱きますが、本気ではないのでしょう。しかしAは恋愛を信じています。そして身をささげるのですが、ここで何か感じ取るものがあったのでしょう。別れる決心をします。この思い立つ気持ちというのは大事にするべきですし、後悔がなくて良いと思います。次に向かうところは、実家でした。実家は事業が傾きつつあり、あの初恋の男はやめさせられていて、周りの視線もどこか冷ややかなものとなってます。

しかしたまたま見つけた昔の男と焼けぼっくりに火がついちゃって、心中するのです。これじゃドラマが終わるので、Aは生き返る。男も大丈夫でしょう。

その男の母に、「お前は母親にそっくりだ」と言われたことから、母に会ってみたくなります。この母は佐渡にいます。佐渡の映像はまさに「砂の器」の映像のような景色で人間の運命を表現しているかのようなものですね。

この母親役、岩崎加根子さんでした。あの「人間の条件」に出てきた美人の人。もうちょっと面影しかないんですが。

ここで逆転ホームランのように母を理解し、父を理解し、自分を理解して何をすべきかがAにとってわかってくるのです。これはみんなが正直になったおかげです。そして縁談。金持ちとの縁談ですが、とってもいい話なんですよ。それを薦める人間が嫌いだからといって避けてばかりいては前に進めません。いまはそのような障害もなくなってめでたく結婚式。

6/22

 

「トレインスポッティング」 ダニー・ボイル監督 1996年

人生みんな選択することばかり、ヘロインを選択するのも理由がある。

そんな若者の話で、モノローグで話が進行します。あとは映像ですが、あまり気持ちのいいものではありません。汚いトイレのシーンなんか見ていて気持ち悪くなりました。

というよりこの映画途中で何回止めたか、そのくらい見るのがつらい。映画館で見ていたら途中退場でしょう。むかつく若者の身勝手な話ばかりでイライラのし通しでした。

 

このモノローグ形式、つまらない挿話、まったく下手な構図、馬鹿みたいな映画です。

またやたら、ほかの映画の批判や意見を述べるのですが、そういう映画に対するオマージュと批判は映画の中では見たくもないのです。私は「アメリカの夜」でさえ嫌いです。トリュフォーの名作という評判が高いのですが嫌いですね。ほかの映画を超えたところにオリジナリティを作れるような映画を評価したいです。この監督は「28日後」でも中途半端な作風だったのでまだ若造なんでしょう。少なくても「ファイトクラブ」のフィンチャー監督のほうに才気を感じます。

まあ観ていてもつまらないから長いこと。途中ヘロイン中毒のリハビリ時に幻想を見るのですがこれがまたセンスないんです。

もうどうでもいい感じもしますね。

まあ更正した後はロンドンで働くのですが、営業なんて張ったりきかせればある程度成功するので、それなりに成功した生活を送るようになります。そして高校生のガールフレンドも離れずにお互いに暗黙に付き合っているような状態。

変な友達が押しかけてきて、仕事もオジャン。そんなこんなで別の友人は惨めな死に方をするし、やることないから、ヘロインかっぱらって、それを売りに行きます。

めちゃくちゃな人生もそれを選択したのは自分。ロンドンで着いた場所は笑ってしまいますが、泊ったことのあるホテルでした。中はずいぶんと違うみたいですが、周りの景色ですぐにわかりました。そこでとりあえず取引には成功します、濡れでの泡。

4人は有頂点になりますが、これから先がないことはみんなの性格からわかります。

一人主人公は金を持ち逃げして新たなまっとうな人生を送ろうと決心するのでした。

一度おちた人生は修正が難しいということです。最後がやけにいいですね。すごく救われた気がしました。

6/24

「レクイエム・フォー・ドリーム」ダーレン・アロノフスキー監督 2000年

この映画は怖い。精神がおかされる感覚に陥ります。ある種、この監督の才能を評価するべきだと思います。こういう映画をいい映画というのだと思います。そのくらいセンスがいい。

テレビで人に見られるということに過剰に反応する「孤独」な人たち。その孤独を蝕むような薬物。そして中毒。その果ては?

母と二人暮らしの息子(ABとします)がともにヘロイン中毒に陥る話なんですが、きっかけは極端。Aはテレビ出演のデマの電話から。太ってしまっているのでやせたいというダイエット願望から。Bは売買して儲けようという気持ちから、泥沼にはまっていきます。Bは彼女Cとブティックをやろうと金がほしいのです。安易なんですよ。そして夢はあるんですが我慢できない。それが短絡的な行動をよぶのです。

Aは禁断の藪医者に。そこでは麻薬を薬にいれ、食欲をなくさせるのです。

Bたちもまた、成功してどんどん金がたまっていきます。そしてAは躁鬱の繰り返しが激しくなります。そして幻覚、幻聴が出てきます。

Bは商売でつまずき、あせるのですが、それまで成功していたので、自分たちも商品に手を出してしまっていてもう中毒になってしまったので麻薬を切らすことができないのです。そしてその商品も入手が難しくなってしまい、だんだん危ない橋を渡るようになります。

もうこの辺の描写はたまらなくいいです。ここからはホラー映画そのものになってきます。

Bは彼女にいやな男に体を売って来いといい、彼女のほうも薬がほしいので応じます。

もうみんな薬漬け。彼女が体を張って稼いだ金もふいになってしまう。そんなに世間は甘くはない。

もうここから先は書けない。ABと彼女はおのおの廃人になって行きます。しかしテンポのあるいい映画だなあ。すごく怖いですけどね。

6/25

 

「河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)」山中貞夫監督 1936年

主人公の名前です。遊び場の主人(坊主)で、賭けに強く気風がいい。人の面倒もよくみるいい男です。イカサマ師に勝った後の豪勢な振る舞いなんか良いですね。こういう気前のいい人減ってしまいました。周りのものに「何でも買っちゃえ」とか「博打で負けただと、金やるよ、とっておけ」なんていえないですよ。うちの店でもたまに「おつり要らないよ」という人いるんですよ。いいねえこういう派手な人、楽しくなっちゃう。

映画はまずは江戸の市井を映し出します。いろいろな商売があるし(蝦蟇の油売り、居合、抜きなどもあるんです)商人の活気があります。しかし商人の元締めがいて寺銭出させるんです。その親分(Bとします)をもちょろまかすいい加減な集金人(C)。この監督の映画を観るたびに思うのですがこの映画のころはちょうど現在と江戸無血開城のど真ん中の時代なんですね。ということは私たちが山中貞夫という監督を思い浮かべるのと同じ感じで山中貞夫も江時代のことを思い浮かべることでしょう。そんな冒頭の町並みです。彼だったらおじいさんくらいから話は聞いていてもおかしくないでスモンね。私はおじいさんとかから大正時代から昭和にかけて聞いていました。特に戦前。これは父親からも聞いているので意外と忘れないで今でも覚えています。

ある武士の小柄が盗まれます。それを闇というか街角オークションで販売するやつがいるのです。また馬鹿な武士がこの入札価格を吊り上げて高い買い物になります。するとこの武士に出会うのですがこの金束をいかがでしょうかというと、買値の3倍で売れます。この辺のいい加減な、商人と武士の関係は面白いですよ。

もうひとつの流れが、弟(D)が遊んでばかりいると姉(F)が心配して弟の常連の場所に毎日のように迎えに行きますがそこの人は知らないというのです。この常連の場所はAの店です。それで毎日来るもんだからAと街中でFは出会うのです。Fは甘酒屋(のりを売りながら酒を出す)をやっていてそこで飲んでいると人の中傷を耳にすると信じて、Aの妻は嫉妬してFに冷たく当たります。弟も冷たくされて行き場所がなく、花魁と心中してしまうのですが。この弟はある武士の小柄も盗んでオークションに出品しているんです。しかし弟だけ生き残って家に帰ってくると姉は暖かく迎えてくれます。そこに花魁の親分(Aがいかさま賭け将棋博打で勝ったときのいかさま師の親分)が乗り込んできて弟はいるかと詮索します。まあ花魁を失うことは、いわば商品を失うことですから大問題です。とくに売れれ筋だったらしい。身請けは300両。Fに作れないなら俺に相談しな、といって帰ります。女郎になれということです。Fは原節子さんなのでこういうこと言われるんですよ。しかしこのDが帰ってきたときのFの態度、そして涙、そこに降り始める雪、有名なシーンです。Dが起きたときには姉はいません。そう身受けに行ったのです、その悲しみの心情に降り注ぐ雪なんですね。そのFが去った後の長屋の風景は単純な風景なんですが感動するものです。

まあ、次の日親分は、300両の金を請求に子分(C)をやるのですがその子分はFによい感情を持っているので、親分にたてつくしFを探します。そのFは河内山の家の近くに身売りしたらしい。

河内山の近所の女衒に買われたF、この女衒は親分ともめます。まさか親分は身売りするとは思わなかったらしい。探すのです。結局高く売れるからほしいのです。「寒椿」もそうでしたが美しく生まれて不幸だと、売春させられますね。美しさというのは顔の微妙な配置なんですけどね。笑い。

しかし河内山はいち早く察知して自分の店にかくまいます。このときの河内山の奥さんの気持ちは複雑でしょう。実際、演技でそのことが出ております。このようにFをめぐって3方の男たちが入り乱れるし、小柄を盗まれた武士も絡みます。

この武士は、やはり、あるところでオークションで同じ小柄を手にしたものから、本物かどうかの確認の意味で現物を出せといわれます。それほど大事なものだったのです。それをFの弟は何気なく盗ったので複雑な絡み方をするのですよ。この小柄が偽物と来るのは実は河内山の大芝居なんです。この藩の殿様や家老をだまして300両奪うつもりなんですね。一世一代の大博打。すぐに江戸から出るつもりなんです。まあ妻が許すわけないですよね。女のためですから。妻のためではないんです。人に任せたつもりということで、Fを連れ出してもらいます。

しかし身内同士言い争いしていても仕方ない、やくざの連中は襲い掛かってきます。まずは妻が犠牲に、死に際にFの居場所を教えるのです。次は河内山の相棒が防波堤になって河内山とFの弟を逃がします。

「人間潮時が肝心、ここいらあたりが俺の潮時だ」と死に向かっていくのです。つぎは河内山、弟は金を持ってFの元へ。この兄弟幸せになると良いですね。

6/26

「張込み」 野村芳太郎監督 昭和33年

昭和33年の夜行列車は、まだ蒸気機関車なんですね。東京発鹿児島行き。これ急行「薩摩」って言いましたか。このような急行が走っていたんですね。急行なので寝台ではないのです。きついですよ。

とにかく警視庁の刑事2人がわざわざ佐賀県まである主婦を張りこみにやってきます。その家庭がドラマになるのです。ですから地味ですよ。

この主婦が東京での質屋での殺人事件の鍵を握っていると踏んでいるのです。しかし地味な生活なのです。

刑事はなぜこのい女を張り込んでいるのか?東京を探してもいないと踏んだので、昔別れた女で、今は人妻になっている女のところに来るのではないかという推測からです。またこの犯人は山口出身でそちらの方にも刑事は行っているのですが映画はこちらの女のほうがメイン。

しかし一週間何もない規則正しい生活です。まあ予定も終わって帰る準備をして地元の警察署に行っている間に女は動き出します。残った一人の若手刑事がつけていきますが、祭りにまぎれて見失ってしまいます。

しかしようやく見つけると、一週間見続けた女の表情とはまったく違う表情が垣間見れるのです。一緒の男はこの女にも嘘をついているようですけど、実際に犯人なのかわからないし、追跡している刑事の自分の考えを独白していくところはまったく予断を許さない展開です。

そして、この女と男の関係が明らかになるのです。当然、警察も元恋人同士と知っていて張り込みをしていたのですが、元恋人というには似合わないもえたぎる情熱がお互いの中にあったのです。そしてお互いの幸せのため、などという名分で昔別れてしまったことを後悔していて、久しぶりに会うなり愛情は爆発的に燃え上がります。この様子を見ていた若い刑事は自分の境遇を考えて、自分も後悔のないように気持ちに忠実に生きようと思うのです。

この映画では犯人はいるのですが、その犯人たちに人生の機微と愛情の大切さを、教えてもらう刑事がいるという面白い構成になっていると思います。

この犯人たちの愛情の会話だけでも聞いてみるといいと思いますよ。

6/27

 

「張り込み」篠原哲雄監督 2000年

続けて同じ題名の映画です。そしてちょっとアフレコがひどい映画です。役者の力量なんでしょうか。こちらは「はつ恋」の監督です。まずは舞台となっている団地よく知ってます。すごく余計な情報なんでしょうがどうしても現実と比較してみてしまいます。

まあ少女の投身自殺。そして女のうちに刑事と称して男が張り込みにきます。まあ普通じゃないですね。爆破犯人が向かいの棟にいるとのことでよく見えるこの棟とのことですが、この刑事変なことばかりしゃべる。実際にどういう犯人を追っているのかなんて絶対に言う訳ないでしょう。昨日の映画では刑事はまるっきり何も言いませんでした。

この刑事も胡散臭ければ、この女も胡散臭いのいです。刑事はなにか痴漢的な男ですし、すごく強引に人の私生活に踏み込んできます。女は前に若い男をつまみ食いしたのですがその男がなぜかこの団地で自殺をしているんです。

この事件を深く知っている男だったのです。それはこの死体の鑑識係。そして現場でこの女に一目ぼれをしたので、今回このような形で強引に近づこうとしたのです。まあ変態です。気持ち悪いの何の。

しかし女は縛られて、何されるかわからない状態になったとき一発逆転がありました。男が油断してしまった隙に、縛られている縄が解けて、男が脅していた凶器を手にすることができたのです。男はそれで脅しているだけだったのですが、女のほうは即座に思いっきりひっぱたきます。そして死ぬまで何回も。ここは恐怖映画のテイストです。

そして、死んだ後、その男のタバコをゆっくりと吸う女。もう投身自殺では通らないでしょう。どうするんでしょうかね。しかし自首するような女ではないことは確か。

 

カラーとモノトーンをうまく使い分けて、ちょっといやらしいつくり(後味がよくない)の映画です。

6/28

「八甲田山(はっこうださん)」森谷四朗監督 1977年

この映画観た事がありません。たぶん洋画ばかりのときに封切られたのでしょう。

明治の日露戦争前夜の弘前。この戦争はかなりいい戦争というか戦術も素晴らしい。ここで例の連合艦隊が名乗りを上げ、大艦巨砲主義が定着したのは不幸ですけど。でもこれは陸軍の話ですし、遼東半島での決戦の寒冷地対策としての予備訓練のことです。

青森と弘前、青森と八戸が遮断されたときに通路を作るとしたら八甲田山しかないからその寒さを体感して来いとのことです。

まあこの映画のころがこの時代の映像を作りうる最後の俳優が揃っている感じですね。今では明治時代を表現できる俳優はいません。何が違う?顔が眼光が違うのです。

弘前出発と青森出発で八甲田山ですれ違うという計画が無理があるみたいなんです。それは弘前の小隊の計画ルートでも明らかです。弘前から十和田湖系由で八甲田山というのは車で考えても遠いですよね。

とにかく出発の日。弘前隊から青森隊に手紙が「途中困難極めたときは、武士の情けで救助を」このことは、厳しい行軍になると暗に言っているのです。

失敗するときはすべてそうなんでしょうが、後から思うと、あそこでこうしておけば、と思うことの連続です。青森隊は編成を大きくして、かつ地元のガイドまで断ってしまいます。どうしようもない状態に追い込んでしまうのです。当然、めちゃくちゃな状態に陥ります。指揮系統が複数できてしまうのと、現場と指揮権限の不一致がこのような状態を招きます。その前に、予備訓練が安易に終わったことも油断させる原因となるのです。

青森隊は自分で精一杯になりますね。弘前隊は案内人の元、順調なのですが、外でビバークするなど一応訓練とはいえ無理をします。

青森隊を見て興味を覚えるのは「指揮命令系統が不安定になると、それまで我慢してついてきた部下が倒れていく」ということです。これはよい研究材料なのですが、実際生きて帰らなければなりませんよね。実際に目にしたものしか事実は見ていないのですから、戦場を体験するのと同じことですね。

そして終盤、弘前隊の隊長の幼少のころの心象風景が映るのですが、その美しい、夏とは対照的な冬の残酷さを描き出します。これはまったく自然の驚異です。

最後、青森隊の隊長の遺体は、消えぬ友情で結ばれた弘前隊の隊長を待っていたのです。その無念と約束を持って。しかし山で見たあの遺体は魂だったんでしょうか?

ラストにかけて、たまらない感情の高ぶりを感じる映画です。

その後の彼らの消息を含めて。ちょっと涙が止まらなくなりましたね。

6/29

「必殺仕掛人(ひっさつしかけにん)春雪仕掛針 貞永方久監督 1974年

「近頃じゃ盗人も荒っぽくなってきた、昔の盗人はあんなことはしなかった」

この映画の当時でも今からすると甘いし、時代設定江戸時代。それからすると今は狂ってますね。「人間誰を殺したって、後で重たいものを背負うんですからねえ」まるっきり「四谷怪談」の精神状態ですね。さらにおかしいのは「魔性の夏」と同じ場所が写ったこと。ロケで使いやすい場所なんでしょう。

今度は梅安が狙われる番です。相手は昔仕掛けた相手の夫で今回の仕掛の相手でもある武士。今回はやばそうなんですよ。相手が強い。梅安の弱音も出ます。針で刀に向かうのではじめで勝負が決まります。それに失敗。おびえる梅安。そこに援軍が。後に仕掛人に加わる人です。テレビのシリーズでかなあ。

さらに悪党の頭は女なんですが、その女が梅安の昔の女だった、と梅安尽くしです。そういえば映画の中でふぐの薄作りが出てくるんですが梅安が考えたものらしい。冗談はこれくらいで、とにかく梅安ばかり出てくる映画です。あと題名からは意外と感じられませんが、多分当時は有名だったんでしょうが、エロのシーンがサービスカットでかなり入っている映画でした。特にこの映画はそうです。監督がその畑の人なのかなあ。

また梅安は女にだまされて捕まるし、今回の梅安は情けないったらありゃしない。しかし仕掛を頼んだ本人が命がけで梅安を助けてくれます。

そして頭は今回は気乗りがしないから辞めておくというと、子分であり愛人が殺そうとします。しかしそこで頭「お前に頭は務まらないよ、殺したいなら殺してくれ、もう飽きたよ」というのです。そうなると殺せないものです。そしてこの子分が独断で強盗を開始。しかし胡散臭い鍵屋に捕まります。もう仕掛けは始まっているのです。

うまく金蔵の中に閉じ込めて仕掛、そして頭は元の愛人だった梅安が殺す。

そのとき梅安はちょっと足を洗いたい心境になりますが、もう一人の侍のほうは「生きていく以上恨みを買うのは仕方がない、また許せぬやつも多い」と仕掛人になっていくのです。

この映画は最高にいいです。仕掛人シリーズでもトップクラスにいい。なんていったって仕掛人自身が悩んでいる姿が出ているし、それを乗り越えていく人間らしさがとってもいいです。

6/30

 

「クィーン、ライブAT WEMBLEY」1986年

この年のライブです。当然フレディー・マーキュリーも参加しているのです。

観客は思ったより男が多くて、ステージから見る迫力は半端じゃありません。さらにクィーンのライブなんか聴いたこともないので、そのうまさに脱帽いたします。そしてカリスマ的ボーカルはバンドには必要だなあ、と思いました。そしてこのライブを通して流れるバンドの連携の輪の良さとそのことに起因するショーのまとまりは素晴らしい。どんなバンドもショーも本当はこれくらいでなければならないと思う。しかし現実にはここまでできる人は少ないし、バンドとなるとほとんどないと思う。意外とミュージカルやオペラにはこのくらいできる人はいるのですが、ロックバンドは甘えがあるのかあまりいないと思います。そのくらい演奏をとめることなくすべてを一致させて進行する土台のしっかりしたコンサートです。追記事項ですがいつ見てもセンターライン(フレディーとロジャー)がしっかりしてますね。ブライアンもうまいし。

最近見たライブではローリングストーンズの「ハイドパーク」以来のできです。動き回るということでは及川ミッチーもすごかったですけどね。椎名林檎にいたっては動きがないのと、声が出ていない、そしてバンドが不細工な男が多いという欠点がありました。まあ一番の欠点は人の曲のほうがいい曲だということでしょう。懐メロ路線でしたモン、昨年のコンサート。

コンサートはブライアンのギターソロがギンギンに入った後、ロックンロール。そのあとにアコースティックで静かに歌い上げるフレディー。このときの観客の扱い方がうまい。ここでも観客が画面いっぱいに圧倒してます。これに立ち向かうエネルギーはかなりのものでしょう。このあとバンドの4人がステージの前に集まってコーラスとアコースティックで、プレスリーの好きそうな歌をうたうのですが、この歌の曲名知らない。いい曲です。

そして「ボヘミアンラプソディー」につながるのですがこの曲での会場の一体感はすごい。実際、こういう良いコンサートは経験してみなければわからないです。好きなアーティストがいてたまたまコンサートを観ることができて、そのコンサートの出来が良いというのは幸せですよ。滅多にないことなんです。サザンなんかも曲はいいのですがバンドに体力がない。桑田さんもフレディーを見習ってほしい、そのくらいにかっこいいです。

CRAZY  LITTLE THING CALLED LOVE」(すみません曲名忘れてしまいました)で一段落つくのですが、となるとアンコールはどんな曲かこれからどう盛り上がるかはおのずと見えてきます。

RADIO GA GA」(これも曲名忘れました)がライブでこんなに盛り上がる曲なんて思いませんでしたねえ。この曲に入る前、オールディーズの曲をさわり歌うのですがこれがまたいい導入になるんです。まだまだいい曲が残っているからなあ。アンコールが終わりと見せかけてロジャーテイラーだけ残っているんです。もう曲はわかりますよね。「WE WILL ROCK  YOU」というやつです。これも曲名忘れた。最近ロックなんか聴いていないモンで。そして「キラークィーン(違うかも)」「伝説のチャンピオン」と続きもう興奮してきますよ。ここで気がついたのはこのコンサート観たことありました。

しかし素晴らしいコンサートで素晴らしいバンドだと思います。「他人を興奮させる場」を作るというのは簡単なことではありません。それができるのですからアーティストなんでしょう。実際こんなに素晴らしいバンドは少ないのです。ローリングストーンズ、レッドツェッペリン、ピンクフロイド、ビートルズ、そのくらいではないでしょうかねえ。

7/1

「デモンズ2」ランベルト・ハーヴァ監督 1986年

この映画シネフィルなんですよ。意外ですよね。

欧州の悪魔信仰はどんなものなのか、計りかねますが、とにかく「悪魔」を信じて楽しもうとする若者が、逆に泥沼にはまっていくのです。そして映画自体は入れ子構造でこのような暴走する若者たちがテレビで映し出されているのを少女が見ていたり、こちらの世界でいろいろなことが起こったりするのです。そして視聴者はデモンズが生き返る過程を知っているのです。そして若者たちが死んだ後、デモンズは画面の視聴者のほうを観て終わるのです。まさにテレビを通じて多くの人に乗り移ったかのように。それである女性に乗り移るのです。その女性は誕生日のパーティーの主役。まさにテレビのこちらの世界もはしゃいでいるのですが、そこにデモンズ。まあ皆殺しなんですが、体が崩れていく描写を執拗に映すのですけど、まったく怖くないというか、がんばって作ったんだ、観てあげるね、というような感じですかね。本当にがんばったという努力は認めます。このデモンズはその体液が「エイリアン」張りに何でも溶かしてしまい、このパーティーをやっていた人たちのいるビル全体の電気系統を破壊してしまいます。ですから原初的な「暗闇」という恐怖が今度は人間を襲います。実はこれが一番怖い。だから神とか信仰が生まれたのです(自論)。

そしてデモンズは皆殺しした人間に移り住んで増殖を始めるのです。この辺は面白いです。いろいろな工夫がなされて画面ができているな、とすごく感心させられます。

さらに、これもエイリアンそっくりなのですが、小さな男の子が一人残され、逃惑います。ほかの人はビルの外へ出ようと正攻法でドアを壊そうとしているのです。いわゆるインテリジェントビルなので、ドアもロックされてしまうし、防犯のためガラスも割れにくいようにできているのです。

さらにエイリアンと同じで人間に寄生してその中から生まれてくるのですが、まず逃げるのです。これがいけない。生まれてすぐは人間でもわかるようにはっきりした意識がないのでここで叩きのめすはずなのですが。映画だなあ、と思ってみてます。そのあと、この女の彼氏が助けに来ますが、私の思った通りの殺し方をします。男と女はこんなに違うものでしょうかねえ。

とにかくここで出てくるデモンズはみんな弱いのです。人間に怪我生えた程度ですので何かしぐさ自体も笑えるような内容です。最終的にはみんなやっつけて終わるのですが、始まり方も強引ならば、終わり方も強引です。これくらい出なければこんな映画できないのかもしれない。私の評価は最低ランクです。

7/2

「ナチュラルウーマン」佐々木浩久監督 1994年

この映画実は気に入っているんです。原作も読まなくてはいけないんでしょうが、とにかく映画が先でした。

ABという二人の女の子が同居しているんですが、主人公のAはあるとき夢でほかの女の子のことを想像して燃えてしまいます。この夢の女の子をCとします。

ABは漫画家志望。Aは夕べの夢を漫画にしてみるとBは意外と興味を示します。ここで思うんですがABの関係が本当に女の子の間柄でくっつかず離れず楽しいみたいな感覚ですごく観ていてほつとするのです。さらにACの女の同姓への憧れというのはよく聞きます。

私自身が男の同姓に憧れを持ったことがないのでよくわからないのですが、女性の場合はいろいろと打ち明け話は聞いてます。私が異性だから話してくれるのでしょうけど。

ACの出会い。それはCの才能がうらやましくて、ACの所属する漫画研究会のようなサークルに応募したことです。そのとき才能があるはずのCAを気に留めてしまったのです。Cだって普通の感情はあります。好きになって何がいけない?何もいけないことはないという具合。ACの出会いは大学時代。ABの同居の時点ではACの関係は終わっているのです。それを過去形ですが、今起こっているかのように描いていくのです。どういうことかというとCAの才能を見抜いていて友情を超えた愛情を築きたいと思ってAを旅行に誘ったりしてCだけのものに囲い込もうとするのです。まあ女同士の相思相愛です。これがこの映画ではわかる気がするので、俳優が意外と適材適所なのでしょう。Cいわく「男とならいろいろと我慢しなければならない」というのです。ですからCの方が積極的でACに対する憧れの部分が大きいのです。

実際にACの作品に出版の話が持ち上がります。Cは一貫して拒否。しかしAの漫画が出版されてからCの態度が急に冷たく変わります。サイン会の話とかでも切れてしまいます。それはCAを好きで所有したいからなんです。所有というよりもずっと一緒にいるということを優先したいからなのです。しかしAは出版とかサイン会とかでCから離れていってしまう。これを敏感に感じているのはC.Aは普通の生活と思っているのです。結局Cは甘えん坊で依存性が強いのです。そしてCの方から「キスしてくれないの」と強引に奪うあたりからAの気持ちも冷めていきます。深入りしすぎた感じ。Aは基本的に普通の生活を普通の男とできるタイプです。Cはできないタイプなのです。

「私たちって腐った果物みたい」とCが言うのが印象的。食べたくても食べられない、つかみたくてもつかめない、みたいな感覚でしょうか。そしてAが無言のままCを無視したときCAに戻ってくるような合図を出して戻ってくるときに飛び降り自殺をします。実にAに見せているのです。Aは拒否した自分のせいかもしれない、と思うことでしょうし、実際にそう思わせるのがCの目的。Cは死んでAの頭に一生残るのです。呪縛。

並行するABの後日談ですが、BAACに抱いたような同じような気持ちになるのですが、Aは拒否します。Cとの関係が尾を引いてます。Bは健康すぎて相手にはならないと思うのでしょう。Cはその点不健康そのまま、異常性ありでしたから。

ABは最後にCの自殺した場所に向かいます。ここでCの霊と出会いAの本当の気持ちを伝えました。「好きだ」ということ。Cは「私が死んだのはあなたが別れようと言ったからじゃないの、それはあなたが考えて」といって消えます。最後にすべての思い出を焼こうとするAに対して「これはとっておいたら、つらい思いでも思い出だから」といって捨てるのをやめさせます。そうですよ、思い出は大事だモンね。

7/3

 

「ニーナ、または恋狂い」チェザーレ・リエヴィ演出 2002年

チューリッヒ歌劇場合唱団、管弦楽団、アダム・フィッシャー指揮、チェチーリア・バルトリ。

古い時代のオペラなので、よくある結婚の話です。まあ家柄が違うとかの話ですけど、メゾとテノールの見せ場は十分にありますよ。そして人物描写をアリアでうまく表現している作曲家です。パイジェッロです。またモーツァルトのアリアも劇中に出てくるのです。そういう意味では楽しい気楽で簡単なオペラです。こういう素朴で楽しいオペラが良いですよね。ワーグナーみたいに重厚長大でもいいのですが普通に楽しめるほうが楽で良いです。

伯爵の父とちょっともめている娘のニーナ。その彼女が彼氏を待ち焦がれて歌うアリアは魅力いっぱいの曲です。こういういい曲が何気なく使われるとうれしくなっちゃいますね。

この後の村の娘たちとのやり取りはハイライトに近いくらいに素晴らしい時間です。本当に素晴らしい。

そこに彼とは違う男がが帰ってくるのですが、そのテノールもいい。Bがこの男の歌を心で感じていると言って返す歌もいい。返し歌ですよね。すごい対の構造です。確かこの曲がモーツァルトの曲、「フィガロの結婚」だったと思いますが四重奏くらいの歌だったと思います(度忘れしております)

さらに女(メゾ、B)の「愛の気持ちを歌う」アリアのときオーケストラからクラリネットが舞台に上がって一緒に愛を奏でます。そしてこれらの歌からは伯爵が憎いらしいのです。

何か彼を盗ってしまったと思っているらしい。男も同情をします。そしてBの愛の不安を歌い上げた四重奏(B、お手伝い、男、伯爵)はきれいに決まって、Bは退場します。

すると彼(A)が生きていたというのです。見た人がいると侍従が駆けつけました。そしてAの登場。そして伯爵からAを待ち焦がれて毎日ここで花束を作って待っていたけど今は平常心ではないといわれます。そうです、この狂うような愛の様子を先ほどまで歌で語り聞かせていたバルトリはうまかったですよ。一人舞台の様相でした。

愛を尽くしていたのを知っているので村のものも大喜びの中再会です。真実の人は周りからも祝福されますね。しかし彼を識別できません。でもずっとそばにいてくれる、と聞きOKとなり、事のいきさつを聞いているうちに「安堵の歌」になります。Bの幸せの瞬間ですね。しかし幸せになるということは実感できないのですが、周りが祝福してくれて伯爵もAも状況を説明してくれるうちにBも有頂天になってきます。愛の成就ですね。最後はもう少し盛り上がってほしかったです。歌の内容は盛り上がるのですがオペラ自体は盛り上がりがかけるというか、ロマン派以前という感じはいたします。

7/4

 

「ひかりのまち」マイケル・ウィンターボトム監督 2000年

この映画は大好きな映画です。ロンドンの今(2000年)が封印されているような映画です。ロケが多用されているので画面が揺れますがいい映画ですよ。

次女(A)は出会い系でいい彼氏と出会いがないかといつもチャレンジしてます。しかしこれっ、というのがいない毎日。カフェでバイトしてます。

長女(B)は亭主と別居して男の子を一人で育ててます。美容院で働いてます。

三女(C)は今新婚でまさに子供が生まれようとしております。

音楽担当のマイケル・ナウマンはこれらの登場人物に主題の旋律を割り振ってます。Aのテーマはいいですよ。

長男(D)は彼女と逃避行。本当に面白い兄弟です。父と母もやることがなく楽しみもない夫婦です。たまに子供たちのところに行って気晴らしをしているだけ。子供たちは別の生活を持っているのでそんなに真剣に相手してもらえないですけど。母は近所の犬が気になるし、父親は何をしていいのかわからない。隣のうちが騒がしく、楽しんでいるのを、癪に障る母親。自分が楽しくないからねたみもあるんです。ここで大事なことは自活できるような人はみんな何かしらの孤独を抱えていて、自活もできないようなDは楽しんでます。

電気店に勤める黒人の青年(E)もまた人にはわからない価値観を持って殻に閉じこもってしまってます。しかし収入があるだけまし。

しかしCの夫が黙って会社を辞めてしまいました。Cの両親みたいになるより自分のしたいことをやったほうがいいだろう、とタワーブリッジが対面に見える橋の上で一人言い聞かせます。国立劇場があるところの橋だと思います。近くに観覧車もありますよね。

Bは子供のお守りをAにやらせておいて美容院で不倫をするような崩れてしまった女です。女の人って微妙で一度崩れると意外とあるところまで行ってしまうんです。まあ女だって楽しみたいですから。これは亭主がだらしないと、離婚がらみでなりやすい。しかしこの性格が大事です。Cは妊娠まじかでノイローゼ気味。夫が仕事やめたと聞いて逆上します。生活の基盤がなくなるのですから。ここで主婦として生活の不安、相談なしに起こした行動を認めようとしないのです。そうなると旦那は出て行くしかなかった。起こったことは認めなければならないのです、一緒に生活するからには。

そんな中でも、映画は家庭の主婦が暇つぶしにしているロッタリーを映し出します。みんな暇と平凡さに女らしさがなくなってしまっています。

この妻が出かけている間に夫が帰ってきますが不在なので中に入れず、近くの黒人の奥さんのところにちょっとの間置いてもらうことにします。そうするとそこでは酒は飲むしダンスは踊るしで生活をエンジョイしているんですよ。そのペースで久しぶりに楽しい思いをしたでしょう。生きるということは楽しくなければやっていられない。

そんな時、たまたま偶然ですがBの夫が遊びでかけた電話でAとデートの約束をして実際に会ってしまいます。お互いに気まずくなるのは当然ですがこの旦那は姉の旦那と割り切っているからAも何でも言えるし、あの姉と一緒になったくらいだからこの男も楽しいのです。こんな感じでいいと思いますが、姉の旦那なのですぐに別れてバーを後にします。このフランクな感じを誰にでも出せればいいのです。しかしその後、同い年くらいの写真家の家に遊びに行ってしまうのですがここで彼でいいと思ったのです。しかし今度は相手が体だけが目的でした。そして彼の家からの帰り、彼は送ろうともせず、Aは一人バスで帰ります。そのバスの中はみんな友人や恋人と乗っていて、より一層Aの寂しさが強調されます。それはまさにバスが雨の中を走るがごとく、Aの心の中も雨模様なんですね。寂しさを紛らわすのはあせってはだめです。本物を見つけなければ。Aの母親も昼間ロッタリーで面白くなかったので隣の家のうるささにとうとう爆発して隣に家の犬に毒を飲ませます。このように孤独ということは普段考えもしないことを行ってしまう力があるのです。

Bの子供もやはり寂しいのです。Cのお産がち近づいてBが面倒を見なければならなくなり、約束の花火大会はいけないと電話があると、一人で花火を見に出かけます。そこで強盗にあいます。子供だからといって甘く見られたのでしょう。そして悪いことは重なりCの夫も、多分むしゃくしゃしていたのでしょう、事故にあいます。そして病院に運ばれます。そこでCがたまたまお産をしていて、生まれたばかりの赤ちゃんを見ることができます。すると愛情がわいてやる気になってくるのです。Cの問題は解決。Bの問題も子供に怪我はなかった、そしてやはり夫はだらしないということで解決。ほかにも花火大会の日、すべてを祝すようにすべてが解決の方向に向かいます。

そしてA,次の日、たまたま父親のところに寄ったら、Eと出会い、三人で話をして二人で職場に向かいました。あとは言うことはありません。一日遅れてAも幸せになりました。

ワンダーランドの花火大会の魔術です。あせることはない、すべてはなるようになるのだ。だからワンダーランドなんだ。そんな映画です。

7/5

 

「マグダレンの祈り」 ピーター・ミューラー監督 2002年

1964年アイルランド、ダブリン。

結婚式?のパーティでケルトダンスの最中、いとこ同士で女が無理やり強姦で犯されます。

そのこと事態すぐに知れ渡り、影でいろいろといわれるのです。ほかには子供ができてしまった女の子や素行不良という女の子が出てきます。すると両親はその子供を養子協会に預けて育ててもらうということにします。そして修道院に入れられます。同じときに入院したのが3人(ABCとしておきましょうAが子供を生んだ子、Bは素行不良孤児院から来た子、Cが冒頭のいとこと関係した女の子)。マグダラのマリアの話をはじめに聞かされます。(娼婦だったのが、信仰を信じて倹約しているうちに聖人となった女性)らしいのですが聖書関係は弱いんですよ。

それと、まあ時代でしょう、JFKの写真が机の上を飾っております。ちょうどアイルランドカトリック系の初めての大統領ですね。

Aは当然、乳が張ります。それを母乳を出したらシスターが怒り、折檻されるということを古株に教えてもらいます。なにか一歩間違えれば、東映の「さそり」ですね。多分、この修道院の共通項は処女ではないということがわかったもので家とかがここに送り込んだ女の子の集まり。

一人脱走した女の子がいるのですが、家に帰ると両親が連れてくるのです。なぜならば、両親に恥をかかせたということらしい。そして罰で坊主頭にされます。まるでシンニード・オコーナーみたい。この歌手のメッセージもこういうところに根ざしているのかもしれません。確かこの歌手の家も厳格なるクリスチャンでしたね。

こういう罰を、いきさつを見ているにもかかわらず、Bは脱走しようとします。この子は性交渉はないみたいなんです。なのになぜ自分が入れられるのか不思議というか反抗心が旺盛な女の子です。

しかし計画段階で見つかってしまい、シスターにも知らされるし、仲間と思った男の子が直前に裏切り、お終い。ここからの罪への償いはまさに、修道院もののいかがわしさそのままです。髪の毛を切られ、みんな裸にされと、この映画、まともな映画なんですがこんな表現からするといかがわしいものに思えるでしょう。

しかしCは神父の性的に堕落した姿を見てしまいますし、シスターの後をつけると秘密の出口があるのです。しかしCはそこから逃げられるにもかかわらず逃げませんでした。

そして極めつけはこの神父が関係したのはCの友人でした。二人とも性病になります。しかしこんな言い訳が通るわけがありません。この友人の女の子は、精神錯乱ということで精神病院に収容されます。

しかしCは弟が迎えに来て、修道院から出ることができます。家族が受け入れてくれると大丈夫みたいですね。

残るABは脱走を試みます。本当にひどい仕打ちばかりでした。まさに「カッコーの巣の上で」みたいなものです。

そして成功。

その後の人生はさまざまですが、アイルランドではこうした修道院が1996年まで存在していたそうです。魂の叫びとその崩壊、さらには崩壊を防ぐ真実の内なる信仰について考えさせられるいい映画でした。

7/6

 

「レオン 完全版」リック・ベンソン監督 1996年

はじめに殺しの仕事の依頼を受け、派手なアクションシーンで始まります。しかし依頼者も殺さないというのはかわいいところがあると思う。そして少女(B)出会う。

殺し屋(A)は何かミルクを良く飲むシャイな感じの殺し屋なんです。自分の生活を大事にしているから短時間でかねを稼げるこの仕事に就いたみたい。

Bの両親が麻薬関係の仕事をしていて、商品をネコババしているのではという嫌疑がかかり時間切られても実際にそうですので返しようがありません。そのために殺しに来た連中に殺されますがBはちょうど買い物でその現場の跡に来てとっさの判断からAの部屋に入ろうとするのです。そして命は助かります。そこでBは子供なのに殺し屋になりたい、というのです。まあ家族に恵まれていなかったし、環境も最悪でしたので、殺し屋という響きにあこがれもあったのでしょう。その通り、Aと一緒に出かけるとき子供ということでかなり得をします。しかしお互いに愛が芽生えます。本当かなあ。しかしBが大人びた少女なんでありえるのかもしれませんが、ロリコンでしょう。しかしBはかなり命をかけてます。

そして二人で殺し屋をやるのですが、ナタリー・ポートマン今思うとかなりやばい演技してますね。成長に影響ないのだろうか?

Aも死んだら遺産をBに上げてくれというし、親密なるパートナーといえるでしょう。

最後に部屋を取り囲まれてしまうシーンは何回見ても迫力がありますよね。しかし「キスオブザドラゴン」(これは製作だけ)「二キータ」などでもそうですがこの監督はすごいピンチを作りますね。そして主人公がうまく抜け出すというすごく映画的な解決をします。どんな人間もこの包囲網は破れません。普通ならね。

まあ破れるところまで行って、おいそれはないだろう、というような結末ですが、何かおかしいと思います。それを考えていたのですが、Bを助けに行ったときに麻薬捜査官のボスを殺さなかったことです。というかいなかったこと。この辺は物語の進行に関係するので仕方ないのでしょう。ということで最後にかけてまた感動してしまった。完全版は初めてだと思う。

7/7

 

「王は踊る」ジェラール・コルビオ監督 2000年

カストラートの監督ですね。すべて観ております。この映画は「太陽王」の話で音楽はバロックとたまらない作品です。リュリはほとんど聴いたこともないのですが、ルイ14世といえば絶頂期ですね。イタリアオペラを馬鹿にして、というよりイタリアも初期のバロックオペラですけど、フランスはダンスだと。王はダンスは踊っても歌はうたわないと。楽しい会話です。

音楽と踊りのみを支配する王が映画のはじめのほうで金色の衣装で踊るところは鳥肌が立ちます。素晴らしい光景。こんな王は道楽の世界からしか生まれません。ある面、貴族社会のいいところです。

それから8年後、実権を握っていた宰相がなくなると王自身が親政を振るうと告知します。これで名実ともに王になったのです。反対貴族は踊りを通してその息子たちを友人として囲い込んであります。ということは息子の代になればより強固な政治が実現するのです。実際一番権力があった王ですから。

この国王になったときのダンスもいいです。「エリザベス」といいこの時代の権力者は粋ですよ。日本でもちょっと前の時代は織田信長の能や豊臣秀吉の茶の世界がありました。この時代のバロックのダンスの曲はチェロが低音のリズムのための楽器なので迫力が出るんです。そして勢いでベルサイユ宮殿を造ります。耽美的でもありますね。織田信長の安土城と似ているような気もいたします。

そして国王のためにモリエールの戯曲とリュリの音楽で舞台を作ります。これが映画でも出てくるのですが、贅沢なつくりです。モリエールってこれだけ国王に取り入っていたんですね。知らなかったです。でも考えてみれば、パーセルのオペラの内容のような戯曲がありますね。似たようなものだったんでしょう。とにかく権力者が芸能界の中心にいるので貴族の奥方の受けがいい、そのことは権力基盤が磐石だということです。

しかし教会との対立が残っておりました。一度はモリエールの「タルチョフ」も上演中止にしたくらいなのですが、どうにか教会の保守性は打破したいのでしょう。そこのところを気にかけつつ、唯一の保護者たる母が死にます。ここで保守勢力の台頭はなくなったのでしょう。この葬儀の音楽もレクイエムなのでしょうが荘厳な曲です。

この映画では王の影に常にリュリがいるのです。戦争のときは荘厳な音楽で興奮させ、その勢いで勝つ。性交渉のときは(影で見ているというのもすごいですが)ロマンティックな曲で雰囲気を作るという具合です。

しかしこの映画の宣伝で有名な太陽の神の踊りのとき、うまくいきません。年をとり始めているのです。それを認めて対応すればいいのですが無理をします。完璧を求めるのです。この辺から破綻を始めます。言葉の世界、すなわち芝居劇、オペラに傾注していきます。

リュリはそれが面白くないのです。そのときの花形ソプラノはリュリの妻の姪です。

そしてそれはモリエールとリュリの関係の清算まで及びます。結局リュリもオペラを書くけど唯一、一人の音楽監督として迎えてほしい、友として迎えてほしいと王に頼むのです。これが受け入れられて、変革を起こします。王の賛歌のオペラを作ります、当然姪が中心。内容は王の賛美ばかり。しかし音楽だけが空回りしてしまいます。王は政治をこなさなければなりません。ベルサイユも完成いたしました。これからが正念場です。

といういことでこの映画は主人公はリュリでした。彼の王に対する同性愛的尊敬と自分自身の上昇志向が一生を貫いた人生でした。残されたものは寂しい死だけ。がんばったのにね。

 

映画とすると少し中途半端な感じはしますが、シーンごとに見所は満載の映画です。お勧めです。しかしメイキング観るとがっかりします。全部セット撮影。

7/8

「死んでもいい」石井隆監督 1992年

これは観ておりません。評判は聞いていたんですが、やはり映画から遠ざかっていたときですね。

大月駅の改札出て商店街に出るところで男と女が出会います。男をA女をBとしましょう。出会いは夏ではない時期。夏だと肉体的に余裕ないので、また大月のあたりは暑いのでこんな感じにはなりません。Bは不動産屋の人妻。Aはこの女に一目ぼれ。そして不動産屋で働きたいというのです。まあ積極的ですね。

Aはどうにか仕事をはじめ、順調に不動産屋に入り込みます。そしてあるとき空き物件の中でBを待っていて来たら、そのまま体を奪ってしまうのです。何か、あまりに安易なんですがどうなるのでしょうか?題名からすると見当がつきますが。

そしてABは体がお互いちょうど合うのです。フィット感というかドンぴしゃり会う関係ってありますよね、そのような関係です。Bの役が大竹しのぶさんというところに無理があるのですがまあいいんじゃないでしょうか?田舎娘のイメージありますよね。

そして社員旅行があって旦那が酔っ払って朝までおきないと思い二人でお風呂に入ります。そこを見つかる。というより、普通はそこまではしないでしょう、と思うのですがねえ。

奥さん立場ないですよ、裸で一緒に風呂はいっているの見つかるんですから。私だったらなんて言いますかねえ?

まあ夫は無視するようになってしまいますわ。それとは関係なく「赤い糸」的な出会いはBをして履歴書から元の職場を訪ねさせます。ABの再会。それも女のほうから。やばそう。

Bのせりふはいい言葉が続きますよ。「何で後ろめたいのかなあ」「出会うのが遅いだけでなで一緒になれないのかなあ」とかほとんど良いせりふです。

ここで重要なのはBAに会いに行かなければ何もなかったのですが、ここで会い話しているうちに女一人に男二人どちらかが死ねばいい、という話になるのです。その晩帰ると夫のほうも準備していて、都合よすぎるくらいに東京の会社を手伝いに行かせます。まるでABの逢引を幇助するようなことです。そしてABの後をつけてBに殺しの件を伝えます。やはり家庭に帰ると夫なので、いざ殺すとなると躊躇します。Aは独り者なので自分勝手に話を進めようとしますがBはそうは行きません。そこに夫が来てしまうのです。というより一応確認のために来たのでしょう。案の定男がいたということ。ここで夫は離婚しても良いと思います。「出てっても良いんだぞ」とは言いますけど、離婚するとは言わない。なぜだろうか?諭すのです。「あんな半端ものと一緒になって幸せになれると思うか」とね。Bも答えはわかっているので、反論できません。しかし夫はよくホステスと飲み歩いていると思うんですが、真剣にならなければ良いということでしょうかねえ。まあこの場合は夫が粋な計らいで「やり直そう」と新婚旅行気分でホテルの予約をしてくれました。そのサプライズに驚いていたときにBの頭の中でいやな予感がめぐります。このままやり直したほうが良いのに。

その予感どおりにその晩、Aから殺しの合図がかかってきます。この映画の特徴はこの緊張感にあります。なぜ緊張感がみなぎるのか?女性は意外とすべてを受け入れることができる存在なのですが男はそうは行きません。その優柔不断な女性が判断できないままに男が直感で動いてしまうのです。それに流されてしまう女。戸惑う女、そんなことから、あの時やめれば、とか言う後悔などとともにすごい緊張感が生まれます。次にこの女は何を選択するのだろうか?というような感じです。

 

結局、殺人はこのホテルで行われるのです。この後はどうなるかはわかりません。実話ですと二人とも捕まったそうです。映画の中でも夫が死んだときのBの反応はすごかったからねえ。遊ばなければよかったのかもしれないし、Aも極端に走らなければよかったと思う。ただそれだけ。でもいすごく面白い映画でした。この監督で一番良いのではないかなあ。

7/9

 

「洗濯機は俺にまかせろ」篠原哲雄監督 1999年

この監督としては古いほうですよね。題名からは印象が違う映画です。

関西から出てきた電気店で働く漫画化志望の若者Aを中心にその電気店の社長の娘で出戻りの女Bなどの日常の話だけなんですが、意外と面白い。

この映画でいつも出てくる洗濯機、壊れたらひどい目にあうんです。それはうちの場合は取り出しにくいところに置いてあって、もし壊れたら壊れたのを出すのも新しいのを入れるのも大変なんですよ。その事実をこの映画を観ている最中ずっと気にかけておりました。

Aの友人でコックCがいるのですが腕がいい。しかしレストランで仕事が長続きしない。こういうタイプは多いですよね。あとおいしいレストランなんですが客の入りが悪いとか、何でだろうと思うこともしばしばあります。

もうひとつの流れがAの電気店の前のパン屋でバイトしているAを好きな女の子Dです。これはうまくいきそうなんです。Bと違って晩熟。

あと個人的なことですがこの映画に出てくる食堂とかみんな大衆的でもうすでに汚いというか、あまり華やかな感じというより、タバコの煤や油で汚れた感じの店ばかりなんですが、そういうほうが落ち着くんでしょうかねえ。うちも方向転換しなければいけないのかもしれません。男が行く店なので仕方ないんでしょうが、本日もお客様と話していて、私のほうから男のお客様は少ないと言っておりました。どうにか男のお客様取り込みたいですねえ。なにか商店街の店が舞台なのでどうしてもそんな些細なことに気がついてしまいます。

しかしねえDとのデートのときにBを見かけたからといって変な言い訳をしてBを追いかけると嫌われますよ。ABを憧れを持って好きみたい。そのBからその夜、酒飲んだ後ベットに誘われます。当然Aは受けるし「キスしてもいいですか」だって。二股ですね。

しかしBのこの積極性は男と女の関係で成功するもとです。女が積極的でないと盛り上がらない。富田靖子いい役やってますよ。Bがあこがれていた、今はだめな中年Eと別れようと決別しようとAと一緒になろうと思って最後の抱擁をしていたところをADの二人に見られます。結局ABともにベットを一緒にしながらお互いに二股かけていたんですよ。しかしABは本当に惹かれあっているんです。これは心のそこからどうにようもできない感情なんです。これだけは事実。

そして日曜日、大売出しの日。先輩の持ってきた洗濯機が粗大ごみを拾ってきて使い物にならないということがわかったのです。この先輩はBの憧れの人でAも良き先輩と慕っていた人なんです。しかしこの電気屋辞めてからろくでもない生活が続き、Aに金は借りるし、偽の洗濯機を持ってくるし人生落ちるとこうなるというような見本です。

そかしBは仕事が決まりいなくなります。しかしその仕事の最中に(DJ)自分からもリクエストでAの好きな歌をかけます。当然Aもその番組を聴いてます。そして普通の生活に戻っていくところで終わり。

 

二人が結ばれることは言わないでもわかりますね。題名によらずいい映画でした。

7/10

 

「花と蛇」石井隆監督 2003年

これは「死んでもいい」が良かったので観る事にしました。もともと主演女優が嫌いなので観るつもりはなかったのですが、監督に惹かれてみてます。しかし役者はあまりよくないです。最近の映画って同じ人ばかり出ているのでもう少し目先を変えたほうがいいと思う。

さらにお金持ちの夫婦にしては住んでいるところとかインテリア、身なりがダサい。こういうのがSMって積み重なっていくものではないでしょうか?別にその嗜好がないのでどうでもいいのですが作りこみが弱い、画面が主張していない感じはします。何度も言いますが杉本彩ではだめですね。

そして金持ちのくせに弱みがあって、フィクサーの前で美人?の奥さんに踊ってもらいたい、フィクサーはファンなんです、と脅され、そのまま仮面舞踏会に参加します。

あとはお勧めしません。ちょっとえぐい描写が。

 

途中画面観ないときもありましたし、杉本彩さんのファンでなければ観ないほうがいいかも。「死んでもいい」は大竹しのぶさんが裸にならなかったから良かったのかも。

7/11

「スカーレット・ディーバ」アーシア・アルジェント監督 2000年

この監督の父親の作品集を買ったついでに、先に観ることにしました。というより夜観るのに父親の作品は怖いから、こっちにしたというのが正論。

しかし、男女構わず、抱いたり抱かれたり、自分自身がするのを監督するというのはさすがに何か精神的に行き詰った感じでしょうか、とにかく裸の自分というのを見つめなおしている節もある映画です。あと映像が、かなり安いカメラ使っているので素人みたいな仕上がりですが、これはこの手の映画では成功していると思います。

自分がスターという設定もなかなか出来ないですが、その日常の普通性と異常性を交互にクローズアップすることで女としての一個人を感じさせてくれるような感じもする映画でした。孤独感と飢餓感が主人公を覆いつくしているのはわかるんですが、俳優としての欲望を監督として実現したのか、かなり自分自身もハードな演技をするとともに出演者にもそのような演技を求めます。ある有閑マダムの愛欲の世界という感じ。余裕があるから出来ることです。そしてその果てに精神的に崩れていくさまはなかなか観ていて迫力あります。この崩れ方は女性特有なので、よくわからないのですが、女には女の悩みがあるんですよ、きっと。

そして映画は途中でストーリーが破綻しますけど、これはこの映画を製作するときに思いついたアイデアでしょう。その製作の苦労が映画に挿入されてます。映画って儲けようとして作ると違った作品になるでしょうし、結果は予測できないものでしょう。かなり博打的な道楽商売だと思いますけどね。

最後には恋人にも裏切られて、どうしようもないときに、信仰心が芽生えて終わり。そのマリアの姿を自分自身に似せて作り、さらに王子(イエス)が光り輝く中登場して終わるのです。これは暗示に過ぎないのですが、まあ終わり方はいいですね。もう孤独を克服したのですから。

 

ちょっと「17歳のカルテ」みたいな部分もある内容でした。普通は観ないと思いますが偏見を持つほどひどい内容ではありません。こういうときジャケット、ポスターがいけないと思います。

m_i08.gif (1119 バイト)昔に書いたこと(2003,11/21より)

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