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「はつ恋」 篠原哲雄監督 2000年
本当に恋ってタイミングなんです。主人公の女の子が勝手に失恋と思い込んで出せなかったラブレターを破るシーンから始まります。この映画は何の予備知識なしで観たほうが良いんですよ。はじめてみたとき、どうしようもない映画館だったんですが、どんな作品かも知らないで見ていたんですが、どんどん引き込まれました。自分がこの手の作品を好きなんだと思い直した一作です。主人公の高校生の女の子Aとその母B父Cとします。Bの入院中にちょっとAがBの秘密を知ります。昔のラブレターを見つけるのです。それは父に出したものではなかったのです。何でとってあるのでしょう、私ももらったものでは何通かすごく記憶に残っているものはあります(実は持っていたり)。出したのは記憶にないですね。何かいていたんでしょう?「C以外に付き合ったのいないの?」と聞かれると痛いですね。「バウンスKOギャル」ではどちらもだめだね、といわれてましたが、確かに母を見ると結果を知っているだけに娘のほうが強いこと言えそうですね。実際に伊那に行ってみることにします。「高遠」は伊那なんですね。この地名確か武田勝頼の居城の地名、この名前はとことん嫌いなやつです。黒澤監督もうますぎたのでしょうが「影武者」であの馬鹿ぶり、本当に頭にきますね。今は伊那食品かな、元気な企業として有名ですね。これも関係ないですが諏訪湖から流れる天竜川沿いは本当にいいところですよ。諏訪湖に関しては今年「御柱祭り」です7年目に一回、さるとらの年に行われます。すごい脱線しますがこの天竜川に沿って三河に向かいますと、海の手前に織田と武田の戦った馬鹿な戦の跡があります。まさに家康の地元です。
この映画に戻って、Bの昔の恋人Dの居場所をAは見つけました。多分大森海岸あたりでパチンコは蒲田あたりでしょう。落ちぶれてます。Aは桜の下で再会させたがっているのですぐに会いに行くというDをとめます。「今はだめなの、夢が壊れる」。縁というのはそんなものじゃないんです。どんな状態でも結ばれるものは結ばれるんです。強引に結ばれたのがCとBです。Cの情熱があればDもうまくいったのにね。若すぎたということは縁がなかったということです。
Aのすごいところは理想を求めてDを変身させます。たとえばスポーツジムに通ったり、スーツを買ったりして、そして途中喫茶店に行きますが、そこでビールの注文を断りトマトジュースに変更。両方ともうちにないメニューですどうしよう、作ろうかな。しかしこんなカップルまずいなくなりました。ちょっと前まではいたのですがね。ここで最高の田中による「シェー」のポーズです。こういうかわいらしいシーンは良いですねえ。このAとDのコンビは最高です。田中の作品で一番良いんじゃないかなこの作品が。このコンビはお互いに成長する次の一歩のための必然でした。ふたりとも幸せになれたのはこのコンビがあったからです。Aはこの行動力でコンビを作ったのですから幸せになれる権利があるでしょう。
そしてAも洋服買うのですがこの洋服決まっているな、萌黄色と青がかったグリーンです。
しかしDと楽しくって時間が過ぎていくの忘れて帰りが遅くなり、Cに怒られて喧嘩します。ここがすべてこの映画のテーマになるんですが、Aが病院に喧嘩して逃げている間にCは壊れたオルゴールを直しているのです。BとDはうまくいかなかったんですが、BとCはうまくいったというところがこういうところにあるのです。Cの一途な愛なのでしょうが最終的にはそれがBにも安定をもたらせた、そしてAが生まれたということでしょう。実際の生活とはそんなものでしょう。死ぬときにそばにいる人が伴侶なのです。そう簡単に築きあげたものは壊れないのです。家庭もそうですよ。
Aが作る舞台は終わった二人には必要ないもので、続いている二人に、いや三人に必用なものです。その前の日にDの部屋掃除してくれるんですが、女が男の部屋掃除するということは心許してますね。母への信頼が厚いので母の愛した人は大丈夫ということです。そこから入り込んでDを信頼できる人だと思ったんですね。この信頼されたことがDを大きく変えます。また自分たちの信頼を取り戻そうとするのです。自らの行動に出ます、自分たちの家庭の再構築に。AはDを通じて愛するということを知ります。愛する人と一緒にいることの楽しさですよ。これはそのあとの恋愛に大きく関係します。
「あの手紙なぜBは出さなかったんだと思うy」「おれはもらいたかった」とDがいいながら「何故いまさら俺たちをあわせようと思うのか」と質問します。答えは簡単、Bが出さなかったのは時が違うから、縁がないからです。思い切りが二人になかったことです。そしてAの行動は「愛するということ」をBとDを通じて結果的にCも通じて知るためです。
本当に良いプロットです。4人の愛情の表現が違うのですがABDは似ていてAはそこに共鳴するのです。Cは少し引っ込んでいるけど最後にぱっとすべてをさらけ出す、タイプです。ですからいいところを持っていけるのです。まじめでなければできないですけどね。Aは最後の日Dの家をあとにするとき、愛する人と一緒になるのにはなにが必要なのか、知らされて自分にかけていたものを知ります。雨のシーンですね。次の日にCに家族旅行を提案するのもそのせいです。
「憧れではなくお互い本当に好きになった初めての恋だった」「いつかAが恋をしたときも恐れず一歩一歩前に進めていってほしい」という気持ちでとっておいた手紙だということです。桜の下で母の気持ちを知ります。そしてDの思いやりも伝わります。だってそこにCが来るんだから。私からするとちょっとの出演でおいしいところみんな持っていってしまった感じです。平田とか竹中とかの役者は本当においしいところもって行きますね。
「あの瞬間があるから今があるんだ」
はい、チーズとみんなで写真を撮って終わります。恋人もできたしBの最後の遺言でした。最高のときをAは自分のために演出したんです。
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「海辺の家」アーウィン・ウィンクラー監督 2001年
いやらしい世の中ですね。模型作りがリストラにあって退職するとき、記念に自分の作品をいくつか持って行っていいか、と聞くとひとつだけ許可するとのこと。顧客にはCGで足りるけど、オフィスのなかにはCGを置けないですから本物が気分転換にはいいのです。しかしリストラとはね。だいたい、映画だけではなく本当の人生もそうですが悪いことは重なります。癌です。私も回りにいくらでもこの程度の人はいるので、あっそうなのという程度になってしまいました。なにがやりたい?その前にテーゼを、「あと何月しか生きられない」というのは大体違います。もうだめだというところから数年生きている人もいます。きっちり死んだらうそ。まこの主人公Aは「家を建てたい」となります。「家」は大変なんですよ。3回立てたら寿命はないというくらい。それを離婚した妻が持っていった息子と作るというのですが息子はグラムロックにいかれてます。しかし結局手伝うというのは、これはDNAなんではないでしょうか。家族親子というのはどうしても切り離すことができないものなのでしょう。これはすごくよくわかることです。愛情と生活の安定も相容れないようで実は両立できる感じもします。この親子はそれで別れたし、今でも感傷は残っているのです。また息子Bは近くにかわいい女の子がいることもなんとなく去りにくい理由のひとつとなってます。原子的な生活ができないBなんですがAは意図的にか何かをこの息子に残そうとしてます。動物としての人間、感情のある人間ということの再認識、家族の素晴らしさ、友情の大切さなどでしょう。再婚した妻のほうはなんというか恵まれているのですが家事があまり得意でないようで、料理もあまりしなければ、飲み物も缶のドリンクです。映画でよく缶ジュースやビール、ペットボトルが出てくるのですが、普通は何か飲み物を作りますよね。それができなければまず基本失格だと思うんです。そういう女でいいという男もまあ気にしないんでしょうが、Aはそういうところも少しは気になったのかもしれません。しかし妻が気持ちの上でAに戻ってきてしまうのです。お金で買えないものがありますから。はい。
映画ですからね、建てているところのシーンめちゃくちゃいいですよ。実際家というのは建ち始めればすぐなんですよ。基礎が問題。そしてその前の土地の購入や許可が一番の問題なんです。Aと元妻が仲良く踊るシーンを見てBは自分のルーツを知ります。なにか妻も戻ってきそうな雰囲気ですよ。「来ないほうが良い」と断りますがこの判断は正しい。旦那のほうも実はあきれているのです。妻は「いてもいないのと同じと言いますが、実は影で思っているんですよ」(なにか「はつ恋」の平田満みたいですが)。「愛だけでは何も成立しない」しかし「愛があれば」という感じもするのですが、Aは死んでいく身ですからね。
しかし旦那のほうもダサい、気がついていて、「ベットで待っているでは」だめですよ。Aなんて旦那が出て行ったと元妻から聞かされたとき思いっきり抱きしめているんですから。この差は大きい。結構前から思っていたんですが、どんぴしゃの描写を映画でしてしまいますね。監督は言わなくても判ることですが丁寧な作り方をしてます。
もっと言いたいことはあるのですが、なにかいい映画でした。役者もみんないい。ただそれだけでも十分でしょう。
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「白痴(はくち)」黒澤明監督 1951年
カミングアウトしますと以前見たときは途中で退屈しました。
第一部「愛と苦悩」
舞台は北海道。
はじめから「癲癇性痴呆」白痴(はくち)だという告白から始まります。面白い。戦犯として死刑宣告をうけて気が狂ったのだという。「この世の中で真に善良であることは馬鹿に等しい」それゆえ小市民的善良な人間を主人公にしたということは考えさせられます。でもうまいですね。この善良な主人公Aが世の中に対して真摯に生きていくことで負け犬になるという話という前書きです。話の流れを言葉で飛ばすのできっとどこかを集中的に描きたかったのでしょう。とにかくこの帰国の途中に出会った青年Bとうまが合い友人となる。そのBは、ある美しい女性(私の大好きな、原節子様)Cを見初めて(映画では、Aの鬱積した欲望が爆発した、となっている)ダイヤを贈って勘当させられたが、その父親も死んでしまったので遺産も入るので札幌に帰るという。Aも友人を頼って札幌に行くという。このAも死んだものとして財産を処分されていたのです。それが帰ってきたのでちょっと後ろめたい輩は気が気でないでしょう。この連中の中にCを引き取ろうとするものDがいます。しかしDはほかの女Eが好きなんですね。まあいい加減なやつらです。人の隙に付け込むタイプです。EもまたAと同様に潔癖症なんですね。(精神的な潔癖症ですよ)今回は人がたくさん記号で当てはめてますが決してわかりにくいものではなくこれだけの人物がうまく交差し関係するのです。
Dの家族はCとの結婚に反対なんですね。まあお金かけて引き取るわけですから、いい訳ないし、それまでまっとうな人生を歩んでいなさそうですからね。しかしそれだけDは家族の中で弱い立場でもあるということです。
そこにCがたずねて来ます。さらにBが追ってきてCに対して払い下げた60万円プラスいくらで手を打つか取り合いをします。ここでCの感情は無視されるし、Cもまたお金でけりがついたあと、何かたくらんでいるような感じなんですね。この女は人生をまだあきらめてませんよ。しかしですAがCの目を見たことがある、そしてCはDの家族が言うほどの悪女ではないという本質を見抜きます。人目で見抜きます。Cも見抜かれたそのAの眼識に興味がわきます。そしてパーティーに招待するのですが、Aはそこで「私と一緒に死刑台に立たされた男の目だと」言うのです。これはうまい表現ですがCがどちらに転んでも幸せな結婚ができない現状の運命とその先行きに希望が持てない状況を一言で表しました。「長い間昼も夜も苦しんできた、何故自分がこんなに苦しまなければいけないのか、とその目がそう叫んでいたのです」とCに言います。そのときのCの目がいいですね。結局Cを魂から揺さぶることがいえたのはAだけですね。お金じゃないんです。まあお金はあったほうがいいですが。このことはCの結婚の判断をAにゆだねる信頼を得ます。いやーーすごいシナリオ。さすがです。「結婚はよくない」Aのアドバイスです。すべておじゃん。そんな中Bがお金を持ってこの会場に来ます。これすごいですよ、貴族社会みたいなプライドと情熱をかけたパーティーのシーンです。白眉といっていいでしょう。「安城家の舞踏会」という映画があるのですがあの舞踏会のシーンみたいにプライドが満ちてます。こちらのほうは偽善も満ちてますけど。しかしAがCを引取とるというのです。「こんな私を」とC.どんな私なのかわからないけど、目で顔でその人の人格を判断したAは本当に見る目を持った人間です。何回も言いますがこのパーティーのシーンはすべての言葉が素晴らしい。ここでのAのCの愛の言葉、優しい言葉の数々、心の交流とはこういうことでしょう。このことが懺悔につながります。Aが死んだと思って財産をとったものがAが実は「財産の持ち主であること」を告白するのです。しかしCはBと一緒になるというのです。なぜならば「Aは純粋すぎる、生きていくのはできない」ということです。そしてCを奪い合ったお金をCは火の中に投げ込みます。まさにAの財産を奪ったことが判明したばかりですのでDはお金がほしいはず、しかしプライドが邪魔をします。ここでプライドを投げ捨てて当座のお金を確保するほうがよいのです。いちど社会の上層に這い上がったものはその地位保全をしてしまうものですね。地位なんかないのですが嘘のプライドだけが残ります。
そして時間は過ぎますが、BとCは結婚をしません。その間、AはBをたずねて、「君とCは結婚をしないほうがよい、それは君にとってもCにとっても破滅だよ」と忠告するのです。AはCを「かわいそうだから好きだ」というのですが、BはCを「好きだけど憎いんだ」というのです。どちらも違うんですよ。恋愛は愛情は好きでたまらなくなるんです。
しかしAを見ているうちにBは前から思っていたことが強く心の中で浮かびます。CはAのことが好きだということ、しかしAと一緒になるとAを堕落させるからBを選んだということ、です。そしてAと話しているうちにやはりBはCをあきらめAに譲ります。しかしAはだからといって行動にでることができるのでしょうか? 最後にAを刺そうとするBがいますがこれは幻でしょうか?
第二部
「恋と憎悪」
Aは権利があるからといって金貸しからお金を借りて生活してました。牧場をAが帰ってくるまで中心に管理していたDの上司Eの妻はしっかり者で借金取りを寄せ付けないのですが、Dの娘Fに気があるのかどうか気にしてます。実際に美人ですが、親たちの狙いは財産でしょう。その親とFがスケートショー(雪祭り)を見物に出かけます。ここでAと出会いますがFのつっけんどんな態度といったらすごい剣幕です。それはなにに起因するのか?それはFの心を読まれていると思っているからです。そしてDと一緒に歩いているとCが突然出てきてDに対してあなたはお金を騙し取ってなにをしようとしたのか忘れてはならないと、仮面をつけたまま言って立ち去ります。かっこいい原節子です。ここでBがでてきてAに言います。「やはりお前を好きなんだ、お前を幸せにしたがっているんだ」ということです。
そして次の日、待ち合わせをしてAとFは会います。そこでまったく態度が違うのです。「時々こっけいなしぐさをするけど、あなたは人間の中で一番大切な知恵を持ってます」とほめるのです。隠していたんですね。恋心を。これに一番早く気がついたのはCでしょう。だから身を引いてます。
実際にこの日にAのCに対する理解は本当に確信をついてますし、CのAの想いはFへの手紙に書いてありました。それは「FがAと結婚するように」というAの幸せを祈る手紙です。Fも馬鹿じゃないので気がつきます。
Fの言葉にもあるのですが場所が北海道というのは吹雪の激しさ、動的動きとAの人生を達観したかのような静的な動きと対に、さらに雪や風の荒々しさがACの精神的な情動の強さにあらわされるといった感じです。またBFも内面は激しいのです。ロシアが違いという位置的な意味も当然あるでしょう。
AがFを毎日尋ねていくシーンが日替わりではいるのですが日々の移り変わりが、リズムをなし、本当によい夫婦みたいなんですね。生活と精神的にリズムが出るというのは波長があっているのです。Aは知らずに「赤いカーネーション」を持っていくのです。大体よく言われるのですが、女性から見て赤く見える男の人、または赤を連想する男の人は愛している人と言われます。これ自分もよく聞いて見たりしてます。しかしAがFに赤いカーネーションの話題につけこんで(両親も願ったり、の振りをAにしますが)結婚を申し込むシーンは白眉でしょう。黒澤監督の映画でこれだけ愛情が前面に出たのも、女が中心に描かれたのも珍しいです。「しーーん」と一同起立。その思いの強さが感じられるシーンです。
AFともにふたりの間にCがいるのを知っていて知らない振りをしているのです。とくにAは致命的な感じです。どこかでこの精神的破綻は大きく出るでしょう。
吹雪の中FはCに会いに向かいます。ここはすごくポイント高いですよ。最大の見せ場。その前にCはAがFと幸せになることを確認して去っているのです。それを待っているCとB,そこにイワノビッチの「ドナウの小波」がオルゴールで奏でられ、Cの独白が「Aは私の夢の塊です。見るのが怖い(幸せになっている姿は見たくない、しかし幸せになってもらいたい)」この構図、音楽が良いでしょう、中央にステンドグラスをバックにマントの原節子、手前に画面を横切る形で三船敏郎が寝てます。顔を上げているので右下に男の顔、中央に女の顔とバランスがすごくいいのです。「あの人私にとって理想なの」。
AFはFが行く気になっていてAは止めてます。BCはBは知らない不利、Cは恐ろしい思いで待ってます。そして時間が静かに流れていきます。会ってからの原節子と久我美子のにらみ合いでCもAに対する愛情が残っていることがわかります。なんだかんだ言っていても忘れられないのでしょう。久我美子が「あなたもちろんご存知でしょうね、私があなたに会いたいわけを」というのですがCは知らないと、実は私もわからなかったのです。何で会いたいのか、それは「相手の女に勝つためでしょう」としか思えなかったのです。
違いましたね。「何故傷つけたのか、何故捨てたのか」と問うのです。それでまだAを判っていないというのです。犠牲の押し売りはたくさん、とCを批判します。
Cも勝負をします。Aに対してCとFどちらを選ぶのか問います。これはこういう聞き方をするとAが答えられないのでAの精神的破綻の予備線でしょう。私ならこの状況なら久我美子を選んで原節子を心の中に永遠に忘れないでしょう。でも永遠に忘れないなら今これが最後のチャンスなんですよね。判断は?選ばない暴力もあったんですね。CFともに傷つきます。Fとの婚約は破談になり、Cの様子を見に行きます。Bと一緒に歩くシーンは冒頭にありましたが、希望も若さもなくなった感じがします。映画自体は、堂々としたリズムで刻々と時を刻んでいきます。緩やかなテンポで、降り積もり雪がおもりのような感じさえするようなテンポで堂々と描ききってます、本当に見事です。まったくリズムが狂わない。そしてBがCを殺していることを知るのです。それは思いやりからなのですが、Bはその罪の重さと愛する理想の人を手にかけた苦しみで発狂します。冷静に見ると最後まで自分のペースを崩さなかったのはAだけです。そのまま「白痴」のままです。度が進みましたけど、そしてFは気づきます、「人を愛し続けるだけで憎むことをしなければよかった、はくちだったのは私のほうだ」と。誰も幸せにならないのです。すごい袋小路に投げ出されたまま終わってしまいました。しかしすごく充実したときでした。面白かった。
すごいことに気がつきました、この映画は「羅生門」と「生きる」の間の映画なのですね。悪いわけないですよ。また蒸し返しますが、ABCは誰かを常に愛し続けたのです。
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「吸血髑髏船(きゅうけつどくろせん)」松野宏軌監督 1968年
これは笑える映画です。はじめから模型とわかる船で殺し。それも皆殺しです。どういう意味があるのかわかりませんが、気持ちがいい始まり方ではあります。なぜか、脅すだけでなく実際は殺されるでしょう。なのに映画ってなぜか死ななかったりしませんか、それがどうもすっきりしないのです。また悪が逃げ切る映画とか少ないのも反対的に三池監督の映画に気持ちよさを感じる一面でもあります。善良そうなやつが実は悪いやつだったりするんですがね。そういうのを見たいのです。この冒頭のシーンはいきさつがわかりませんが、まあ現実的だなとは思います。
神父に拾われた女の子(A)と彼氏(B)、一見して私には江ノ島と思えたところでボートに乗ってランデブーです。しかし海の中にもぐると骸骨を見ます。Aは一卵性双生児の姉がいて冒頭の事件で殺されたと思うのですが、台風にあって遭難したと聞かされてます。そしてなにか双生児にしかわからない相手の気持ちが伝わってくるのです。なにか生きているかのように。ここまで一気に持ってきてしまうテンポのよさがありますね。テンポがよすぎて、ちょっと待て、と思うくらい。船に行きたいと急に言ったかと思うと、ボートで嵐の中出て行くし、Bが泳ぎきれないのに、ボートが転覆したあと船に乗り込んでいるし、その船はがいこつだらけのあの冒頭の船です。大体3年間漂流しているんですかね。もうそういうこと考えると前に進めないので無視して楽しむしかないのです。
そこで航海日誌を見て冒頭の事件は積荷の金塊を盗む計画の実行だったのです。そしてAは船内を回りますが泣き声とか聞こえてきて気持ち悪い。実はカミングアウトですが、夜見ていたのですがここでやめました。ここからは違う日です。気持ち悪くなってきた。しかし一気に気持ち悪くさせる展開はすごいですよね。怖い映画は弱いんでまたにします。
泣き声の後を追っていくと姉がいるのです。そして気絶するA.
そのあと嵐の中で教会に戻ってきたAもどき。確実に嵐の中に教会にいるというのは裏があります。そして翌日消えていて、海岸では自殺者が。まあ考えさせられますが、その時間を与えないまま、ストリップショーもどきのショーに。この辺はうまいと言うべきでしょう。最近よく見ているペドロ・アルモドバルより上です。このキャバレーを犯人一味が経営しているんです。そして一味の中から踊り子が死体に、そしてほかの一味はAの姉を見たと連絡が入ります。これで鎮魂の為の仕返し劇と思いますね。しかしまさか姉の霊に呼ばれて仕返しをしていくという話ですか。そして最後に正気に戻って結婚、なんていったら私は怒ります。仕返しする姿は「さそり」の梶さんみたいでいい雰囲気は出てます。松岡キッコさん。
予想と違ったのは仕返しが終わる前にBと神父(牧師という人もいるのでごっちゃごちゃになっているに会ってしまったことです。そのためBに別れてくれといいます。そして牧師に懺悔してすべてを話します。その上で最後まで復讐をするというのです。
この夜がいいのです。神父が殺しに来ます。神父が大ボスだったのです。そして生き残った二人がAの死体の前で大体の出来事の確認をします。そうなるとAが殺したというのは理解できても航海日誌をどうやって手にしたのかがわかりません。すると汽笛が2人を呼んでおります。船に行くとAの姉の夫が生きていてAの姉をミイラとして維持しておりました。しかしボスに殺されてしまいますがAが最後の復讐をするために来ます。AはBに助けられたのです。Bに虫の知らせをしたのはAの姿ですので少なくてもAの姉の亡霊はいたと思います。そしてAはボスを殺してそこにBが来ます。最後のお別れのキスをしてBを海に落として船は沈んでいきます。なんというか話は見えていて、ひねりも入っているのですが、なんといっても3人の怪演はすごい。松岡きっこ、岡田真澄、西村晃です。それだけでも見る価値あるというものです。
3/18
「吸血鬼ゴケミドロ」佐藤肇監督 1968年
この映画良いらしいですね。噂には聞いてました。はじめから気になる点がいくつもあります。まず飛行機の操縦室から見る空のダサさ、飛行機の中でのタバコ(これは禁煙ではなかったかも)ステュワーデスのコップの持ち方(普通接客業に従事しているものはお客が口をつけるあたりは絶対に持ちません)もろもろ。でも髑髏船も途中から加速度的に面白くなりましたからねえ。
墜落してからまたぶっ飛んでまして、宇宙生物学の研究者も乗ってます。今思うにこの当時かなりマイナーな映画ですよね。安保闘争とかもまだ学生レベルではやってましたからね。ビートルズも解散していないんですよまだ。そんなときにこの映画はかなりのオタクたちが作ったんでしょう。
そして宇宙船を見てしまうのですが、狙撃犯人が犠牲になります。その間もどこか判らないところに不時着して待機しているんですが夫婦は抱き合っているし、何か可笑しいですよね、この映画。でも冷静に考えると「エイリアン」みたいな密室劇で宇宙人により吸血鬼化した人間が襲うのですから怖いです。劇場で見たらやはり怖いでしょうね。血と肉を切るところ脳みそとかは根本的に怖いです(あたしはホラーだめですから)。
「宇宙生物実在論」とかいう先生も乗っているんですが、いまでは普通に宇宙人はいるでしょう、と考えてますけど、宇宙人が侵略に来たらしい。それで吸血鬼というのもちょっと可笑しいです。基本はエイリアンですが、怖さの元は人間です。人間が一番怖いというのが「世界残酷物語」にありましたが実際にそうです。宇宙人が地球侵略に来ているのでしょうがずいぶん時間かけすぎてますよ。これじゃ何年かかっても無理。「信じられるのは人間の心だけではないですか」というテーマも逆に生きてきます。どう終わるんでしょう?笑い
自分だけが助かりたいと思う人間はみんな死んでいきます、というより自分だけが犠牲になっても良いと思っていても雑踏の中にいるとほかの人の反応で先に死んでいってしまいます。きっと主人公たちみたいに人里はなれたところで信仰心のある人は生きていると思いますがとりあえず人類滅亡して終わるという珍しいパターンです。こういう終わり方は好きですね。しかしダサい映像です。脚本は何か魅力があるんですがねえ。35年前ですから仕方ないと思いますけど。主役の人シャンソンの歌手なんですね。役者としても有名みたい。高英男さんです。勲章もらっている人ですので相当な人でしょう。その人がこんな役というのもすごいのでしょう。
苔寺とみどろが池を合わせて割った名前らしいです。京都の撮影だということです。
3/19
「ピラニア」ジョー・ダンテ監督 1978年 アメリカ
最近、まったく見なかったジャンルのホラー映画にはまってます。なんといっても短くて気軽なのがいいですね。このタイプの映画は間違っても2時間越えません。ジョーズとかエクソシストみたいな大作は超えているかもしれませんが、この映画も90分。
そしてなんといってもわかりやすい。キャンプに出かけてカップルが地図にない施設を見つけて入ってしまった。そうしたらプールがあって泳ごうとなる。そこに、この映画の題名の魚が。笑うくらいにわかりやすい。ここまで2分くらいです。
そして捜索の依頼、その探偵がまた女と来ているからわかりやすい。そして強引に男と出会う。笑っちゃいます。第二のカップル誕生。そして真相解明です。あの立ち入り禁止は軍の施設で今は使われていないものでした。入ってみるとやはり死んだ女の痕跡が。だってあの俳優ちょっとしか出ないのですが強引に脱いで泳いでいましたもん。何か落としてもおかしくないです。そして施設の中に入っていくと、驚きます。なにがってかわいい動くミニ恐竜がいるのです。特撮なんでしょうがCGではない時代ですよね。これは期待以上のかわいい動物です。そして怪しいので、プールの水を抜こうとすると怪しい男が襲い掛かってきます。てっきり怪しいやつがいたと思ったら、事実を知っている人間だったのです。しかし二人にやられて、失神している間にプールの水が抜かれます。死体とたくさんのピラニアが出てくると思ったら死体だけ。水は川に流れるようになっていたのです。期待を裏切ったと思ったら期待通りに戻ったり揺らぎがあって最終的な結論に向かう本当に楽しい映画です。見ているものは次にどうなるのか、と予想しながら見るんですよね。だから気軽なんでしょう。頭まるっきり使わない映画です。このタイプの映画というのは疲れたときにいいですね。川があって移動に筏というので「ハックルベリーフィン」と同じだと思っているとせりふでも期待通りに出てくるんですね。
しかし、どきどきしながら見ていたんですが、やはり子供も襲われました。実は子供が襲われそうな前フリはあったんですが子供が犠牲になる映画はよくないと思っていたのです。でもこの時代はまだよかったみたいですね。今じゃやばいでしょう。塩水でも生きていけるピラニアだったので海を目指して広がって行きます。まあもともと武器として作っているんで死なすことが難しいのです。まあ廃液を使って全滅させたということになってますが、海に出たピラニアもいるのでしょう、という暗示で終わります。なにかご都合主義的な感じもしますが、はじめにプールの水を抜いた女は自責の念はないのでしょうか?そこが知りたいです。
3/20
「昆虫大戦争(こんちゅうだいせんそう)」 二本松嘉瑞監督 1968年
虫ですね。あんまり言うことない感じがします。虫が異常発生して飛行機が墜落した。その墜落した飛行機から逃げた兵隊を殺した容疑がある男にかかる。その飛行機は米軍の飛行機なのでちょっと問題が生じるという程度。英語は吹き替えですし、昆虫の研究員がかなりの権力持っているという状況はほっときましょう。この場所は米軍が占領していたので自然がそのまま残った場所だとのこと。米軍はじつは意外とそのまま残しているんですよ。横浜もそうです。根岸森林公園なんか意外とそのまま残ってます。
しかし実は誰かが毒虫を飼って増やしていたのです。これ戦争になるんでしょうかね。それも大戦争ですからとんでもない展開が待っているのかもしれません。
ユダヤの女が(ナチスの拷問の仕返しに)世界滅亡毒虫で実現しようとしているのです。実はこの映画、今見ても、この白人の女がとてつもないビッチで「ファム・ファタール」に負けないくらいの映画ですよ。何でこんな映画が作れたんでしょうか。とにかく1968年の松竹はおかしい。何かがあったんですね。まったく判りません。
この毒虫の島を、水爆がばれないようについでに使ってしまって破壊しようという米軍です。何も書くことないですが面白いんですよ。そしてやけにまじめなんです。
そしてまたしても悲惨な終わり。よくこれできましたね。逆にまとめて同じ年にこういう映画作っちゃったんでしょう。最後水爆おちても昆虫は生き残り飛んでいってしまいます。
そして水爆の煙を見ながら海のうえで祈っている女。題名からじゃ判らないですね、よく作った。よくできました、という感想です。うそみたいな話ですが政府が輸出品に映画を指定して補助金が出るということで輸出仕様で外人がたくさん出ているんだそうです。うそだーー。爆笑。
3/21
「ベン・ハー」ウィリアム・ワイラー監督 1959年
この映画は「十戒」と違い、ユダヤとローマが出てきます。エルサレムに逃げてソロモンの神殿の元、信仰は捨てていないところから始まります。ナザレ(A)がベツレヘムに行くところ。当然ローマの統治下。ひとつの流れ星が救世主の誕生を祝うかのようです。今から思うとこの映画は「ローマの休日」より新しいんですね。クリスマスに見ればよかった感じがします。「処女受胎」のシーン。確かに馬小屋です。そしていきなりタイトルのあと紀元26年になるのです。ここではカルトの一神教がはやってます。メサイアが起こると、そし預言者の元、反ローマ運動が起こると信者は信じてます。大工の息子は神は心の中にいるというのです。また大多数のユダヤ人は心の中に信仰を持ち、ローマの兵隊は皇帝に誓いを立てているのです。ずいぶんと異なるわけです。「道を作って兵の移動」でローマは中心として流通でも栄えるのです。そして栄えるところに文化あり。花の都になっていきますね。
ジュダ・ベン・ハー(B)の旧友メッサラはローマの司令官(C)としてエルサレムに戻ってきます。しかしローマに反抗するものを密告せよ、ということでBCの友情は壊れます。そのときちょうどBの部下に当たるものが娘(E)の結婚の許しを受けに、まあお披露目です、Bのところに来ます。Bは愛される人柄、それを心のどこかで妬んでいるんでしょうCは圧力政治に出ます。アクシデントのBを捕まえて裁判をしないまま「ガレー船」漕ぎにします。高貴な人が落ちぶれていくさまは見るものをある種の覗き趣味にします。理由がある程度納得できるものなら、意外と起こりうる嫉妬だと思います。普通に力や知識でかなわないときに起こりがちなケースですよね。
ガレー船までの途中、ナザレの町で休憩のときにローマの兵士にいじめに遭っていたのをキリストが助けます。そしてガレー船の漕ぎ手を3年経過。ソルジャーに推薦されます。まあその前にローマ軍はマケドニア軍と戦うのですが。とりあえずこの海戦も見所のひとつです。そして指揮官を助けてローマの帝国内でどうにかソルジャー(騎士)の生活を得ることが出来ます。何故助けたのか?確かに疑問ですし、その後の人生を見ると取り入った感があるのですが、運命とはこんなものでしょう。
勝利の行進にも参加できますし、皇帝の判断も仰げるのでメリットは大きかったです。実際にトップはそんなにひどくなく、末端がひどいのです。元老院と長老の(ローマはこういうことでは機能している限り理想に近い政治体系でしたね)判断で長官(助けた指揮官、D)の自由の判断に任されました。そして騎士(ソルジャーという喧嘩武道みたいなもの)として優勝も5回しました。この騎士のシーンも見所のひとつです。
そしてローまでの素晴らしい生活をあとに母と妹のためにナザレに向かう途中にバルタザールというものに出会います。ご存知でしょうが、ブレッソンの映画の題名みたいです。何か意味があるのでしょう。「妻は神ではないんだ、ひとりではよくない」という族長の言葉は面白いし、ここで「生命の存在が奇跡なのだ、あとは神の天罰に任せなさい」バルタザールの言葉、本当にその通りです。「星の導きでベツレヘムに行った」そしてキリストの誕生を見たというあたり話が盛り上がってきますね。生家に戻るとEがいるのです。
Eも「愛は憎しみより強い」と憎悪の念を消すように言います。AEはうまくカップルになれましたね。待つということも大事です。母と妹はずっと牢屋の中で「業病」にかかって牢を追い出されます。そして実家に帰ってきて再会しないで病人の隔離された谷に向かいます。親子の情が深い良いシーンです。
そして族長が仲介で競馬が行われオッズはABで4対1、うまく乗せられて大金も賭けさせられます。ほかのものは誰もこの賭けに乗りません。相手はローマの中心で戦ったヒーローですからね。まあ勝利します。しかし死に際に、またBはくだらないことを言ってしまう。そういう性格なのでしょう。「母と妹は業病の谷にいる」と。
そして祖国のために立ち上がることにします。このことはローマの長官の養子の座も捨ててしまうことになるのです。安住はしない、戦い続ける決心をしたということ。ちょうどキリストも力を持ちつつ(教えが広がる)ある状態で、ローマの統治に変更の兆しが出ております。そのことはキリストの裁判にも出てきます。ちょうど母と妹をキリストに会わせたいと、Eが言うので連れて行くと裁判の最中でした。そこでAはガレー船に行く途中に水をくれた人を知るのです。そしてキリストが死ぬ間際「父よ、彼らを許したまえ」という言葉を聴いてAは「憎しみも拭い去られた」状態になり、母と妹は病気が治り、お互いに良い状態で再会します。すべてはキリストが罪をかぶって、愛を与えてくださったのです。最後は実は意外と忘れておりました。
3/22
「ローマの休日」ウィリアム・ワイラー監督 1953年
ベンハーに圧倒されましたので、続いて同じ監督の名作を観たいと思いました。実に6年もこの映画のほうが前に出来ているのです。それも舞台がローマというのはベンハーの後はおかしいですね。
展開のテンポは昔の名作にあるハイテンポで要所のみ、という映画の見本みたいな始まり。オードリーは美人です。この人を奥さんにした人はどんな感じでしょうかね。2回結婚していたと思います。しかし監督も役者もうまいですね。はじめの「靴を脱いで落とす」シーンでもうはらはらしました。やはり名作というのは何回見てもいいですね。将軍が注射を打たれるところ見るだけで倒れるとか、コメディの要素がたっぷりと入っていてロマンティックなんですよ。すばらしい作品です。
出会いのシーン、忘れてました。一歩間違えると危ない状況でしたね。こんな出会いだったかと、忘れている自分が情けない。しかしタクシーのシーンは今では成り立たないシチュエーションですね。まず何かが起こる。怖い時代です、現代はね。アパートの管理人にも「ベリッシマ」と言われるくらいですので治安はよいのです。しかし大胆でしたし、グレゴリーペックのほうは清純でしたね。清い交際という感じでいいなあ。そして寝言で皇女かどうか聞くのはいいです。あとは知らない振りで楽しめます。実際は賭けをしていたのですが楽しんじゃうのですよ。遊んだほうが楽しいですもん。起き掛けに尋問した感じで、遊びに切り替えるきっかけが出来ました。しかし特ダネはまだ狙ってます。当然王女は職務に戻らなければなりません。別れるのですが(よく引き止めなかったと思います)偶然遭うきっかけを作ります。このアパートにいるオードリーは本当に美しい。シャワーシーンなんてとってもいいですよね。少なくても私には美人に見えます。たしかアメリカでは意外と人気高くなかったと思いますが、たまらなく良い。ちょっと朝鮮系の日本人にこの顔に似た人がいるのですがそういう意味では日本も面白い国なんですよね。渡来系というのか、日本海、西日本のほうが特に朝鮮半島に向いている地域には意外と多い感じがします。私の住んでいる横浜は特別な場所なので外国人が多いこともあり、日常的にこういう顔は見かけます。それが日本で人気が高い理由のような気がいたします。本当にいると思います、身近に似ている人がね。
街に出て髪の毛を切るシーンも、生意気なところと、かわいらしさが混ざっていいです。すべてがこの映画はいいなあ。偶然遭うのですが、それまでの王女の行動も見ていて楽しませてあげようという気になるのです。髪の毛切ってジェラート食べているシーンを見てしまうと楽しませてあげようと思いますよ。スペイン階段のシーンです。
スクーターのシーンもドキドキしますけど、警察で夫婦と偽るところで結婚のマーチが流れるところ、せりふがないところがすごく効果的で作り方がうまいですね。観客を主役にさせるというか応援させる役回りに仕立て上げます。それは続く「真実の口」のところで完璧になります。いつ観てもここでの王女の驚き方は本当にかわいいし男優もみんないいです。サンタンジェロ城での踊りもいいです。こんなに踊りがいいのも少ないです。ムーングロー、とかもいいけどね。あれはキムノバクとウィリアムホールデンでしたっけ。
そして王女が美容師と踊っているところ写真撮るところは楽しいですよね。すべてが面白い愉快なシーンです。そしてキスシーン、水も滴る良い男と最高の美女ですね。これも秀逸なシーンだな。せりふが少ないのが本当に良い。
しかし別れのシーンで思ったのですが、こんな素敵なたびになるというのは王女が積極的に作り上げたからでしょう。そして記者も積極的に(下心はあったのですが)参加して作っていったからでしょう。素敵な瞬間はひとりでは生まれないと思います。この築きあげるということが根底のテーマですね。愛は楽しさは作るもの。「義務を感じなかったら、今晩帰ってこなかったでしょう」聞かせてやりたいね。この辺で感情は頂点に達して、最後に記者会見で出会うシーンでまあまあ納得しますが、最後まで突っ走った映画です。珍しいハイスピードの映画でしょう。
3/23
「タイタニック」ジェームズ・キャメロン監督 1997年
はじめてみます。まあ2枚で1480円という映画館殺しの値段なんで買ってみました。ケイト(A)の年とっておばあちゃんになって生きているというのは知りませんでした。見ていないのですから当たり前なんですが、そのおばあちゃんが述懐していくというのは良いですね。ディカプリオ(B)とはじめからカップルではないというのも知りませんでしたから、なにか今頃になって新鮮な目で見ております。
社交界のパーティーとアイリッシュパーティーが映るくらいで特記することはありません。ケイトはわがままな自由奔放な女の子を演じているのがちょっと違和感あるくらいかな。しかしBは男の子、これくらいの押しの強さが必要です。
船の中ということで上流階級と下層階級がそれほど距離を置かないで生活するということにポイント置いている点うまいと思います。
そして極め付けのうまいシーン。AがBの誘いを断った後気持ちが変わり(子供が窮屈そうに育っているのを見て)Bの元に行くシーンですが、空が夕暮れの乳白色、場所は船首、そして音楽は主題歌、すべてそろっているシーンです。ヒットするわけです。さめてみていても、決まっているなあ、と思いますもん。
あとは乗組員のかったるさ、どうしてこんなことわからないのだろうか、という点です。これはハラハラします。こういうのがヒットする原因なんでしょう。
そしてね、氷山にぶつかったとき、泥棒騒動をする登場人物たち、なにかさめて「お前ら馬鹿か」と言う目で見ることが出来ます。そういう映画なんですかね。あとは迫力で押し切る映画ですね。ポイントは生きていた(約束を守った)Aの述懐とそれによって真相を知った宝探しの連中に反省を促すと共に、Bの魂の鎮魂と変わらぬ愛情を持ち続けたピュアな女性がいたということでしょうか。写真でもわかるように約束どおり生き抜いて、活発な人生を送ってきたみたいですね。この気持ちを入れ替えるということが一番のBへの思いやりですし、いつまでも忘れないということ、それが鎮魂です。そしてひょんなことからまた再会できましたもんね。
3/24
「トーク・トゥー・ハー」ペトロ・アルモドバル監督 2002年
懐かしいです。ビナ・バウシュの舞踊「カフェ・ミューラー」から始まります。「ホワイトナイツ」みたいですね。
この舞踊の主題が映画に関係していると思います。
この舞台を見ていた隣り合わせたふたりの男A40代B30代を軸に二つの物語が進行していきます。Aは女闘牛士に興味を持ちインタビューしようとします。なぜならばこの闘牛士(C)は孤独の恐怖が顔に出ているからです。ビナバウシュの舞台も同じように風に飛ばされる女ふたりが迷っているところに男が現れて道を開いていくというものです。
そしてBは看護士で4年間眠り続けた女(D)の世話が特に好きな男です。かなり一方通行的な恋愛感情を持っているのでしょう。しかし「奇跡」は信じている男です。
きっかけの提示はひょんなことですがAとCは行動を共にするようになります。信頼関係は出来上がっているのです。しかし闘牛で牛に全身を突かれて意識不明の重態の陥ります。
CDともに同じような状況でABという優しい男がそばにいるという状況が生まれます。
同じ病院なのですれ違いの出会いがあり、お互いに接近していくのです。その前にAは夢の中で思い出として、Cと一緒にいたときを思い出すのですがそのときコンサートに行っていて歌手はカエターノ・ベローゾです。ギターにバブルベース、チェロというロマンティックな構成であのささやくような歌い方です。彼のコンサートの「フェリーニ」にささげるジュリェッタのコンサートはいいですよ。
「死から生が誕生する」その生、精霊を女のダンサーにやってほしい。新しい舞踊の構想。
こうのとおりに映画もなるでしょう。きっとね。
バレエ教室で踊っているDを窓越しに思い続けたストーカーであるBという存在が浮かび上がってきます。ストーカーくらいでないと結ばれないのか?「はつ恋」の平田もストーカーだったですよね。そしてDの親の経営する精神科の患者になり、家に侵入します。
しかし交通事故で植物人間に。病院でたまたまBを介護士に推薦されて今までずっと続きます。BがDのことを好きだと、父親は知らないのです。しかしかなりスキンシップ、「女には自分が重要な存在だと思わせることが回復の第一歩」と信じて介護してます。
縮みいく人間という映画が出てきますが、彼氏が薬を飲んで解毒の薬が出来ないままどんどん小さくなって、途方にくれて母親のところに帰りますがその家をつきとめて迎えに行き、また一緒に生活をするうちに小さくなって体の上にのり、女の体内に陰部から入っていく、というシーンがあるのですが、胎内回帰願望と女を所有する願望を一致させる方法です。Bは女もそれを望んでいるというのです。
AはCが倒れる日に前の彼女の結婚式を見てました。その彼女とは年が離れすぎていて、自ら身を引いたのです。愛情は消えていなかったのです。それはつらいですよ。そのつらさをCも見て知っているのです。そしてCは逆にその日に昔の彼氏とよりを戻したのです。まったく逆。なんというめぐり合わせか。Bはそのことをうすうす感じていたという。関係が何か希薄というのが傍目に判るらしい。そして自分はDとうまくやっていく、結婚したいという。その前に映画の話を聞かせていたときに、なにか強姦したみたいなのです。妊娠したらしい。そして投獄され、Cが死んだニュースを聞いたAが病院に電話してその事実を知ります。面会に向かうのですが、Bの部屋を借りることになります。Bの部屋からバレエ教室を見てみるとDがおなか大きいままいるのです。かなりの衝撃ですよね。友人としてAはなにをしてやれるのか?Aは実際に友人なのか?たまたま劇場でそして病院で出会っただけの男ではないのか。いろいろなことが頭をよぎります。
しかしBはAを友人だと思ってすべてを話してくれたと思います。そして黙ってすべてを残して自殺。はじめてみたとき、Dが生き返っていたということと共に大ショックな展開です。完成したバレエの公演でAとDは出会いますがなんというかもう終わってしまったんですよ。意思は疎通してます。たぶん一緒になるんでしょう。
3/25
「薔薇の葬列」松本俊夫監督
これは期待してみたんですが(一度観てみたかった映画でした)はっきり駄作です。
すべてが中途半端。もともと「ゲイ」の映画ですのでゲイが美男子でなければ見るに耐えないのですが、ピーター(すごい美男子という触れ込みですが)ブスですね。
そして中途半端な権力への抵抗を描くのですが、これも時代を感じますが今ではもっと過激な映像があるので「おまえこんなことしていていいのか」と私は監督に言いたくなるくらい、初歩的なテクニックばかりです。
エディプスコンプレックスの表現で家族写真の父親のところを焼くなんてストレートすぎるし、映画を劇中で作っているのですが彼らがマリファナとか言っているのですが、存在自体がドラッグではないんです。今では逆に薬はやっていない品行方正な子がやっていたりする時代でしょう。
時代を割り引いても、ちょっとダサい。
しかし街の風景は良いですね。懐かしい風景というか日本はこんなに変わったんだ、と思うくらいに違います。そして人と触れ合うこと、外に出ることが時間つぶしになっていた時代ですね。オタク、文化というより外で仲間と出会っていた(どんな仲間でのいいのですが)時代だと思います。
今は活発な人もインターネットはやっているし(インターネットというだけで本当はオタクだと思ってます)DVDで映画を家で見ているしまさに日本人、世界の先進各国総オタク状態ですよ。私は商売柄、この流れをどうにか変えたいのですが、もう無理みたいです。
また快適に引き込もる商品が売れてますからね。液晶テレビ、CS,DVD,PC、インターネット、ADSLなどなどです。そして外に出るときは車。世間を見ていて思うのですが、車を買って乗っている人くらいしか消費していない感じがしております。いわゆる、クルマを買える人は勝ち組み、この人たちが車でいける駐車場のある施設で歩かずに雨に濡れずに買い物食事をして、その中ですれ違う人々との関係のみでまた家に帰ってDVD,インターネットというライフスタイルです。
その点、この映画の人たちはお金の使い方も派手ですし、無駄な使い方です。こういうのは大好きですね。そして、外に出て実際に人と会う、または出会う、という人間の出会いふれあいの基本を確実に行なっております。
しかしポスターになっているシーンはさすがに良いですね。あのイメージで観るとひどい目に会うことは間違いなし。あとは何も言うことなし、という程度。
3/26
「ハード・デイズ・ナイト」リチャード・レスター監督 1964年 イギリス
この映画何回観たことでしょう。楽しい時間です。ビートルズは人気あったんですよね。「ヘルプ」とともにファンの会の自主上映会によく行ったものでした。「レットイットビー」もそうでした。この映画昔、私の場合30年近くしか前ではないですが、映画でもかなり行列したんですよ。有楽町の日劇の前の映画館とか九段会館によく行ったものです。あとファンレター書くシーンがあるんですがファンレターって本当にあったんですよね。映画俳優になら出したことあります。昔スクリーンとかに俳優のファンレターのアドレスが書いてあって海外便で送ったものでした。返事って意外と来るんですよ。今ではインターネットで、意味ないのかもしれません。でも彼らの映画を追うと成長の度合いの速さに驚きますね。ストーンズは逆に変わらない方を選択したんですが、ビートルズの変わり方はすごい。
「キャントバイミーラヴ」、スタジオを出た瞬間、この曲だと思ったらすぐに流れてきて、忘れていないんですよ、歌詞も映画も。そして今この歌詞を読むと深いなあ。愛は金で買えない、というのいいですね。今の日本はお金で買えそうですが。笑い。
映画とすると、今の感想は、ビートルズより年上で出てくるせりふのある役者みんな魅力的ですね。かなり良い俳優使ったんじゃないかな?調べる気はないですけど。
「アンドアイラブハー」のスタジオテイクもいいですねえ。若返った気分です。
結局ノスタルジックな時間はあっという間に終わってしまいました。ビートルズはいいなあ。最後のお辞儀も丁寧でいいですね。何でこんなに良いバンドが生まれたのだろう?
3/27
「帝都物語」 実相寺昭雄監督 1988年
この映画、もう15年も前の映画になるんですね。確かに今と俳優が違うことは事実ですが、ちょっとこの前、という印象しかないです。この手の映画は大好きです。
呪詛を土御門家が封印していたのですが、その封印が解かれてしまい、将門の怨念と共に蘇るかという話です。最近、陰陽道とか映画が流行っているのでまるっきり同じだと思ってもかまわないのでしょう。恋愛の片思いの女が鬼になって呪い人形に釘を打ち続けているのをその呪詛と解くと言う話もありますよね。ゆかりという女C(けいこ)の妹、が加藤(安倍の子孫と名乗るもの)に連れ去られて子供を身ごもります。ということは生まれた子供は加藤の子供(ゆきこ、といいます)なのです。何か違うオチが待っていそうですが。この、ゆかりとけいこが親友同士(DE、Dの妻がけいこ)の妻や妹なのですがたまたまなのか話の本筋に忘れた頃に出てきます。
ここで、ちょっと関係ないのですが、ある神社の宮司、Dの妻けいこ(B)の流れは相馬でその先祖は将門といういことらしい。それで平将門の血を絶やしてはならないという試練があるのです。加藤(A)の方は安倍氏につながるみたい。そしてBを使って将門を蘇らせようとしてさらったみたい(まあCを身ごもったので成功でしょう)加藤は土御門とも違うらしい。土御門と安倍は対立しているのでしょうか・この映画ではそうです。
とにかく土御門は「都市にも徳というものがあり」江戸は霊場だったのを吉相に変えることで抑えてきたことで栄えてきた、とのこと。都に徳を持たせようとする人たちと壊そうとする人たちの対決です。Aは大連に行ってしまうのですが数年たってその意味がわかります。東京に地震をもたらす音叉の原理で大連で揺らすと東京では同じ地層の上にあるというのでより大きく揺れるとのことです。同じ地層の上にあるのか知りません。そして地震が起きるが将門の霊は起きなかった。それはBが守っていたからです。そして加藤とBの戦いになる。
途中、地下鉄建設の話の時、「こうもり」の音楽が流れるのですが先日見たビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」でもあのビートルズの前のスタジオでこうもり収録中だったんですが引用されやすいのでしょうか?続けて関係ない映画で出てきたものですから驚いてます。
つまるところ加藤の行動の根源は帝都、江戸は霊地として霊験高らかな土地だったのに都市化で汚されてしまった。それを壊して、霊地として甦らせるというものです。しかし加藤は将門の子孫ではないんですよ。この辺に思い違いがあるんじゃないかな。まあこれからは土御門というよりBと加藤の対決です。
また市民はというと関東大地震のあと地下鉄に端を発し、地下に都市を求めます。そしてロボットを使おうとするのですが、そのロボット開発者に西村さん。この人黄門様より、「ゴケミドロ」みたいな狂気的な研究者のほうがあいますね。
この地下鉄建設と霊能者?の戦いが並列的に描かれるのですが、加藤との戦いは加藤にゆきこ(将門の子孫)が子供として味方した時点で有利になってしまいます。地下鉄建設はこの将門の墓の近くをうまく掘れないのでロボットを使うということで関係するのです。そして加藤が将門の魂を呼び起こそうとするときに、ロボットは出発して、かつ、けいこも戦いに行くのです。ロボットのシーン、地面師(風水学者)と四天王との戦い、将門の墓のシーンがすごく動的なのに対して、加藤とけいこの戦いはやけに落ち着いてます。それだけ、静と動の対比で静的な部分の重要性が強調されます。この辺はすごくいいですよ。ギーガーの作品もたくさん出てくるし、金、かけているな、さすがバブル期と思う瞬間です。ロボットが犠牲になって「地脈」を断ち、かつDCが人柱になって将門の墓に入り込み静まります。瞬間、将門の顔が映るんですがいい感じです。そして加藤は死ぬ。「憎め、その憎しみが私を大きくする」という憎しみの代表者なんですね。
人柱になった3人は将門により助かる。子孫ですから殺しはしません。最後付近に風水学者が「この街は怨霊だけでなくもっと恐ろしいものが巣くっている」という言葉、資本主義の元凶の利己主義、自分だけ儲かればよい、などの考えでしょう。しかし儲かる可能性があるので人々は集まる。
大団円、玉三郎の占い札が「観音」だったのに風に飛ばされて拾ってみると「悪魔」に変わってました。その横を加藤のような軍服を着た男が通る。すなわち右翼化です。そして戦争へと突入していくのですね。その戦争の中で日本は「満州国」という独立国家を作っていくのです。まさに他人の領地を侵して利己主義に走るのです。まあすごい時代です。
この映画、話がちょっと見えにくいですが愛すべき映画です。最後にまた、「こうもり」のワルツがかかって終わるところがいいなあ。オリジナルの楽曲も管弦中心で良い曲が多いですよ。サントラ意外といいと思います。
3/28
「ラストエンペラー」ベルナルト・ベルトリッチ監督 1987年 イタリア英国中国
この監督のオリエント3部作の一番初めですね。意外と映画としてはこの3本とも評価が高いのですが、すべて表面的だ言う意見が多いようです。
どうなんでしょうか?私は感動している方なんですが、「シェルタリングスカイ」は原作者のほうについての映画を見てしまうとそうなのかな、と思います。話は戻りますがこの映画は、何か最近観た映画のテーマとかなりダブルのですが、「人間の条件」「ドクトルジバコ」などです。そういった意味では中国の逆側の風景だと思ってみると、今回は興味を持ってみることが出来ました。ロシアと清は搾取するだけの大国であって倒す価値があったのでしょうか?何故これらの国で、ほかに君主がいた国もあるというのに革命が起こったのでしょう?ロシアの辺境地は中国と接していますし、情報の交換や啓蒙があったのだと思います。しかし共和国となる過程と紫禁城の中にだけ存在できた理由などがあまり表現されていなくて、ちょっと拍子抜けします。象徴として存在していたということですが、実は私は中国の歴史は詳しくないので、そうなんでしょう。しかし子供のときに仏陀と同じような境遇にあったことは事実です。世間を見させてくれなかったという環境です。とにかく、この紫禁城のシーンは私にはつまらないシーンで、すごく興味があるのは溥儀が捕まった後拘束されてからです。なぜならば、違う名目の権力が裁こうとしているからです。ほとんど映画化されておりませんが、スターリン時代、毛沢東時代の両国内の状況を暴露したような映画はないのでしょうか?そのほうが興味あります。
途中「紫禁城は観客のいない劇場、そして熱演は今も上映されている」というような言葉があったと思うのですが、これがぴったり私の気持ちの表現に当てはまりました。なにか過去の遺物を何故残してあるのだろう、とはじめから思っていたのでしょう。これに気がつかないでおかしいと思っていました。すっきりしたのは、ジョンローンとジョアンチェーンのラブシーンからです。この辺の苦悩と夫婦の癒しがうまく表現されていると思います。いつこの奥さんと別れるんでしょうね。その前に共和国制がが崩壊するみたいですね。満州出身の溥儀は紫禁城から追い出しをくう。そして日本との接触が始まるみたいです。この映画昔は興味なかったんです。このような背景まったく考えないで観てました。1924年に共産軍が生まれていたのか?違います。蒋介石の国民党ですね。国民党が西太后および溥儀の祖先の墓を暴いたのも大きかったみたいです。しかし天津にそして1927年日本(日本大使館)に向かったというのはすごく興味があります。どんな背景があるのだろうか。日本もこのころは「帝都物語」ではないですが、関東大震災の頃ですよね。そしてジョンストンという家庭教師が1931年まで天津に滞在していたんですね。この辺の描写は映画では甘いので、深く理解は出来ないですし、劇的な描写もありません。
1934年に満州国の皇帝?に。満州事変より前なんですね。知らなかった、で済まされる内容かな。そして日本の植民地化へ。このとき、映画では甘粕の一連の行動、完璧です。日本こういう感じで他国を攻めるタイプの国ではないので、もしかしてこの人物はかなり優秀かもしれません。しかし大局では、満州に進出と南アジア同時に進撃という馬鹿なことをしたことになります。陸軍と海軍が別れたから仕方ないのでしょうが、満州のみに固執していればずいぶんと変わったことでしょう。その前に侵略戦争を否定しなければなりません。このころ梶上等兵も満州にいたことになりますし、「帝都物語」の加藤に代わるものが帝都を支配したことになるのでしょう。映画って類は類を呼ぶ感じで面白く拝見しております。しかし途中、南京大虐殺が出てくるのですが、これは事実なんでしょうか?よくわからないんですが、日本の国民性からして虐殺が出来るとは思えないのですが、本当にこの規模であったんでしょうか。そして第2次世界大戦の日付が一日前になってます。もうこういうのどうでもいい。そして原爆、昭和天皇のお言葉。日本をテーマにしていないからいいのでしょうが、やはりイタリア人が作ったとしか思えない感じがします。この監督を馬鹿にするわけではないですが、「シェルタリングスカイ」でもボウルズ、バロウズにけちょんけちょんに言われたのが判る気がします。彼らはすごかった、「早くイタリアに帰りたかったんじゃないか」なんて言ってましたね。この言葉わかる気がする。この監督はやはり甘いというかロマンティックすぎる。小林監督のほうが数段上です。「東京裁判」「人間の条件」込みで観るとぜんぜんレベルが違います。それでもアカデミー賞かなりとっているんですよね。まあいいか。その程度の映画です。最後のほうなんか甘くて甘くて観ていられないです。
そして文化大革命を見る元皇帝。裁判を取り仕切った男が捕まってます。毛沢東の名の下に馬鹿な革命が起こってます。中国の歴史はこの辺描けないでしょうか。絶対に面白い。なにせこの映画が出来た頃はまだ天安門事件の頃ですから。笑い。
3/29
「ドクトル・ジバコ」デビット・リーン監督 1965年
よい映画ですね。しかしかなり入り組んだ構造なのでアカデミー賞も主な部門は取れなかったのでしょう。ラーラ(Z)の娘らしき人がみつかり、話しを聞いているうちに、中央アジアの平原の中でジバコ(A)の母親が埋葬されるシーンに移ります。魂は肉体を離れただけです。ここがポイントなんです。バラライカは弾けなくても、大きくなったら詩を好む医学生になります。ここでトーニャ(G、母が死んだあと母の友人の家にもらわれた、そこの娘同い年くらい)はどうしたのかというとパリにいます。
そしてラーラ(B)がモスクワで恋人(C)と一緒にいるのですがCはボルシェビキみたいな左翼系学生です。Aが見ている中Cはデモに参加して、Bは舞踏会に出かけます。4人がうまくクロスしてますよ。舞踏会は貴族特権階級、外は労働者階級でこのデモは弾圧されます。そしてBは叔父から迫られて、そのときに弾圧が始まり、その音を聞いて外に出てきたAは衝撃を受けます。Bは教会で「肉欲は結婚の契りによってのみ許されるのだ」と諭されますが、Cはこの弾圧でより過激的に変化していきます。AGはまさに良いカップルなんです。しかしBの叔父夫婦がちょっと変態じみていて危篤状態に陥ったときAの先生が呼ばれて、Aも一緒についていきます。ここでABの初対面が。しかしBは状況を知らせにきた叔父に抱きついてしまいます。やばい、見られた、という感じのシーンです。ここで重要なことが起きます。この叔父はAの父親を知っているというのです。Aはそんなことも知らずに、起こった2つの情事に放心状態。
そしてBCは結婚すると叔父に打ち明けます。まあ叔父との腐れ縁も解消したいんでしょう。叔父もそう簡単に納得はしません。Cが一途過ぎるのです。「不純同士の交歓」で逃げられてしまいます。このあたりBはこんな女だったっけと記憶が曖昧でした。まあ清算に出かけますが舞踏会に行ったとのこと、後を追いかけます。そしてその舞踏会にはAGが来ていて、かつ建物の前でCに会います。全員そろいました。殺すでしょう。失敗して取り囲まれたBを割り込んで救おうとするのはCです。ここで思い出しましたがこのCはまさに「人間の条件」の梶上等兵にそっくりです。悩み方まで似ているような気がする。
話はかなり対になるところあるので、続けてみることはお勧めはいたします。右翼的な勢力をうまく利用するというところはうまい。ドイツとロシアの戦争です。この時宮中にはエカテリーナ2世(ドイツ出身)がいたんですよね。「幸せな人間は兵役志願などせず、兵役免除を神に感謝する」まるっきり「人間の条件」と同じ。違うのは兵士が疲弊して(映画では自主的に)帰宅し始めたことです。確かに日露戦争もあったんですし、おかしいですよ。そして人間の条件と同じように帰る道ながら、いろいろなことを思ったんでしょう、革命の兵士と彼らは変貌するのです。アレックギネス扮する反抗分子を軍の中でまとめるスパイもいたのでしょう。そして革命の勝利に導くのです。ここまで革命軍は待ったらしい。しかしレーニンは前線をここまでは悲惨だとは思わなかった。戦場は経験したものにしか判らないでしょう。ここで国のため、戦って死んでいく命は無駄だというせりふにかなり監督の意思が入っていると思います。反戦のメッセージです。とにかく戦場の悲惨さは、当然私にはわからないのですが。この戦場の反抗分子をまとめるという、逆説的な発想ですが革命の発端となったところでABは再会します。Cは勇敢に戦い権力を物にしてます。この映画の描き方は、戦争がいかに無駄な死に方か、権力がいかにたわいもないものか、如実に語ってます。うまいと思いますよ。そして皇帝が殺されレーニンがモスクワに入ります。労働者の国家というのですが、すぐに別の権力が出来るのはご存知ですよね。
このときGはモスクワにいます。ということは2組とも別れ離れでABが一緒にいるということです。カーチャというこどもがBCに出来てます。そして子供とCのところに帰っていくのです。
サーシャという男の子がAGの間にいます。そしてモスクワは今度は公平、平等の名の下人民軍の統治が始まってます。統治とは言わないですね、分配でしょうか。
そして薪泥棒しているところをAはアレックギネスに見つかります。この人はAの兄でした(E)。Eはこのことでは党を裏切り、弟を許します。しかし入党しない弟に対して、「党に理念はわかっても入党しないやつはひ弱な賛同しかしない」という判断をしてます。まあすべてをかける人間と違う人間(リスクへッジ)の差です。そして言葉の端に「モスクワにいるな」という兄に従ってウラルに向かいます。屋敷も取られているので問題ないでしょう。途中でまた人間の業がでてきます。それは、Cの評価もまた低いものです。あれだけロシアから馬鹿にされてきたのに、今度は自分が馬鹿にされてもいいのでしょうか。
第二部
途中Aはひょんなことから、Cに捕まってしまいます。CはAたちの舞踏会を良く思っていないので手加減はしないでしょう。Bがいてくれたらまた話は別ですが。「個人の時代は終わった、愛とかはいらない」というような言葉、Cも変わったのです。BがいなくてもBと会ったという話で助かります。そしてBはユリアティンにいると知るのです。期待を持たせる情報を得ました。そして、そんなたたないうちにCが失脚したというニュースまで。Cは土台を作るまで必要なタイプの理想を追う理念家でしたから体制をある一部の人のためにする段階では要らなくなる人間です。そして満州に逃げてます。何故満州か?別に意味ないのですがソビエトの人間が逃げるときの果て、なのでしょう。そしてロシア皇帝は殺されます。見せしめですね。このときのロシア皇帝の内部の話も面白い話がありそうですね。
ユリアティンで再会するAG。静かですが、内面では激しい情動がうまく表現されてます。会うべき人には会えるのです。また会いたいと念じていれば会えるのです。
そして二股の生活。Gはまた身篭ってます。そして薬を取りに行き、関係をすっきりさせておいて帰る途中にパルチザンに襲われて仲間にさせられます。まあ医者がほしかったのです。しかしこの時点でどちらがパルチザンかまったくわからない感じですけどね。「人間の条件」とまったく同じ展開ですよ。白軍は皇帝が殺されているのでよく抵抗はしていると思うのですが。日本軍もそうでしたからね。
ある程度パルチザンも目的達成したあと、逃げても追われない時に、郷愁から家庭に帰りたくなります。そしてひとり原野を彷徨うのです。動機は「人間の条件」とまったく同じ。シーンも見ているかのごとく同じです。この映画には先があって、家族はいない状態になってしまったことです。梶上等兵も帰っても同じだったと思いますけどね。Bが心づくしの準備をしてくれてます。BとGがAを探しにきたときに会っていて、手紙を言付けていたのです。その手紙にはBのことをある程度知っていること、そして子供のこと、これから行くところなどが託されてました。Aは家庭に戻るべきでしょう。しかしこれほどまでにABと燃え上がらなかった映画だったっけ?まあモスクワでBの叔父ということで姦通していた男が助けてやると来ますが、逆に居場所が判っているということは危険なことでもあるのです。まあどうせ捕まるならと、昔家族で住んでいたところに行ってぎりぎりまで一緒にいようと覚悟を決めます。そこは妻の愛情が感じられるほど、そのままに残してありました。そこで久しぶりに詩情が沸いてきます。そして「ラーラのテーマ」が心地よく流れます。生活も静かな良い時間の流れで、ほんとに久しぶりの人間らしい生活です。
しかしCが死んで追っ手が翌日来ると叔父が知らせに来ました。「この大悪党の保護を受けてくれ」とくるのです。ここで尊厳を取るか、逃げるか、Aとすると不倫ですから、自分の立場というより感情、愛情で動いているのです。しかしGへの愛がないのではないのです。家庭は大事ですが好きな人が出来てしまうことは男も女も仕方ないのでしょう。Aは両方を選択します。すなわちBを叔父と先に行かせて後から行くといい、自分は永遠に近い別れを心の中でするのです。まあ家庭外での愛はこれで終わりでしょう。しかしAには待っている人もいるから、そこに戻らないと。ここで重要なことはBが最終的になぜ、行ったのか?母親の義務、愛情の証を守るということです。その子供がこの映画の冒頭の子供です。
終始ABの愛が変わることはないのですが、子供は両親がいないことをうらんでいます。愛と両親の問題、政治の問題、そして受け継がれるべき血統を見事にまとめております。少し判りにくいかもしれませんがそれは、血の流れ、を表現するためでしょう。愛情の表現だけならもっと簡単なんですがね。
3/30
「三文役者(さんもんやくしゃ)」 新藤兼人監督 2000年
殿山泰司さんの話ですが、まあ映画になるのかな。新藤監督が自分自身を省みるにもいい題材だと思います。先日この監督の娘さんの映画も「LOVE・JUICE」も見たばかりですしいい機会だと思います。しかしはじめに後半の人生を付き合う人との結婚の場面ですが
何かうまくいくというのは、自信があるんでしょう。前半の人と別れるときずいぶん簡単です。戸籍入れてなかったので簡単なんですが女の人も未練はあるんでしょうが簡単に許してくれました。年が16歳違うんですがこれも問題なし。そして両親の許可も「河内音頭」歌ってOK.なんか現代の独身比率がうそみたいな映画です。途中、乙羽さんのインタビューが入るのですがそれも意外と事実だということを示していておかしいですよ。
さらに深い愛情で結ばれているし、女の方もここというところでは芝居打っていて面白い人たちです。恋愛というのはこういうものかもしれません。似ているものは引き合いますね。そしてもと妻も強い。すぐさま籍を入れて養子までもらってしまったんです。それに返すあと妻。ではその養子を子供として私が育てます。女は惚れたらおしまいですね。
しかし魅力的な人でしょう。そうでなければあんなに愛されません。本当に愛されてます。
しかし「裸の島」の前に肝硬変で倒れていたんですね。そのエピソードあたりはこの監督自分の作品ですから詳しいでしょう。あのつらそうな顔は本当につらかったんですね。この映画も地味な映画です。しかし「裸の島」で肝硬変が治ったというのは確かこの映画のときに聴いた記憶がありますが、今こうしてみて見ると運の強い人だと思いました。確かこの頃新藤監督はロケ隊が現地で店と張って自炊で映画作っていたんです。そしてこの映画孤島が舞台ですので酒が飲めなかったのが良かったですね。
続く「母」あたりで映画のせりふですが「男と女の性は人間の根源だ」と言い始めたらしい。みんな観ている映画なので思わず懐かしく見てしまううまさがあります。そして竹中と荻野目の二人が息があっていていいですね。吉田さんは独自にいいです。
「鬼婆」のシーンが出てきますが懐かしいですね。いい映画ですよ。そしてこの映画に戻ると側妻が強い。本妻も強い。これは意地の張り合いと男の優しさでしょうね。
次の「悪党」もいい映画です。最後自害するんですが、なんと言うか哀れさとともに可憐な感じが残る秀作です。といっても最後に見たの何年前か覚えておりません。
まあ殿山さんはお金の使い方がきれいというか、女に好かれる使い方かもしれません。今は男はお金を使わないのが一番いいみたいですが。
68歳くらいからなにか哀愁が出てきて、人生ってなんだろうか?という疑問が浮かんできます。確実に次の世代になっているんですが現役なんですね。その寂しさというか現役だから感じる寂しさがこちらまで伝わってきてつらいですね。癌になって余命半年というときに仕事が立て続けに入ってきます。これは監督の中で周知になったのではないでしょうか?
そしていよいよとなったとき本妻は行かないというのです。強い女ですね。人間もこの意地というものがなくなったら終わりのような感じがします。
冒頭の36歳と17歳の結婚の口説き方が何か思い出されて、臨終というときになにか私も身内のような気持ちにさせられる良い映画でした。途中の新藤監督の全盛期の映画も懐かしかったです。恋愛ドラマとしては上質の話だと思います。
3/31
「白痴(はくち)」手塚眞監督 1998年
最近、黒澤監督の同じタイトル見たばかりなのでどうでしょうか?原作が違います。黒澤監督のほうがドストエフスキーですから、日本の坂口安吾とは違いますよね。
あらまあ、また原爆からスタート。廃墟のイメージであとは下町、それも汚い下町の下宿です。道がコンクリートならちょっと前までの東京に会った景色なんですが、数年前にみた大阪の岸和田のほうの景色に似ております。そして町の中の人間模様は、確かにあるだろう、しかし役者の物腰が違う、という感想です。あと極端ですね。
テレビ局の内容は、手塚監督らしいものでやはりこの路線のほうがいいんじゃないか、と思います。「銀河」というアイドルを売っているテレビ局です。彼女のステージに出ていた連中は俳優なんでしょうか。それとクレジットはないですがかなり有名な人(俳優と限らない)が出てきます。私もすべて追いきれませんでした。テレビ局の中のシーンは「鎌田行進曲」のパロディですよね。きっと。
そこで「銀河」にからかわれて、落ち込んでいるときにみる夢のシーンは音がいいですね。この男をA,隣の夫婦の気がおかしいほうの奥さんをB、旦那のほうをCとします。BCが良い味出てます。BCのことが映画を作るAからするとテレビ局の仕事よりもリアリティあるんですよ。もともとテレビ局のシーンは現実性ないんですよ。長屋というか汚い下町に超現実があるという感じの設定なんです。
しかし銀河がAに体調が悪いときにオフにして話しかけるモノローグはかなり哲学しているんです。そして、母性の象徴のような内容を両性具有的な体つきの銀河が話し続けるのです、まさにパラドックス。しかし銀河は結局は欲望の象徴でしょう。この辺でこの映画はいいと思いました。こうなると残りみるときは安心してみることが出来ます。
そして自分の部屋に戻ってみると、BCが近いんですよ。良い味出るんですよ。環境からね。笑い。へこんで帰ってきた自宅の押入れに隣の奥さんがいると普通でもあせりますが、この奥さん普通でないから、尋常じゃない状態になります。この辺おかしくて、笑い転げてます。このBは四国のお遍路さんで途中Cに見初められて連れてこられたと思ったのですが、やはり、何か悩みがあったはずで、この時代の精神状態を表現しているのだと思います。テレビ局は実は参謀本部を揶揄する意味あるのかもしれない。この戦争を顧みるとどうみても、参謀本部がハイになっているとしか思えないんですよ。
Bのこの家での悩みは愛情がないことですけど、Aも常識人で愛情を表現できないし、Bが「嫌われているのですか、私、来なければ良かった」といって迫って初めて意味がわかる人です。ここで判りました。Cがかなり頭の中で飛んでしまっていると、常識的な愛情表現が出来ないのです。Aも映画ということで言葉先にありき、な性分だったのです。ここから同棲が始まるのですが、Aは浅野(「殺し屋一」など)で若いイメージなんですが、Bは甲田(dip In The pool,でキャリア長いので中年のイメージがあるので)役者としてBのほうが遠慮している感じの距離感が二人かわいいです。これ私の感想ですけど。
外に出るとテレビ局と戦争ですが「戦争というものが健忘症にさせてくれる」というせりふがあったと思うけど、これ現代のことも言っているんですよ。現代の戦争は武器を使わないだけに変な戦争ですよね。株価、為替などが影響する資本市場と資金の調達かつ、情報社会というなかで利益を上げていくということはまあ戦争です。
だからこの戦争はいつの戦争でもいいのかもしれない。「世界の果てまで一緒に言って、聖なる山で、精神と肉体の分離を見る」という映像というか、感覚が生まれる時代が舞台です。「世界の果てまでつれてって」とは話が違うんですけどね。懐かしいですね、この本、初版で持っているとなかなか読めないです。京都大学の生田先生の初めてにちかい翻訳本だったと思います。ABの世界の果ては、ひとつになれる瞬間です。まあ、端的に言って深い愛です。はい。しかし大爆撃のときAはBが般若みたいになる顔を見てしまうのです。般若とは悲しみにくれた果ての顔です。何故にBが?時代の代表なのか?その前にCが嵐の中家の屋根に上がって仕舞を舞うのです。Cは嵐がきっかけでこの世に戻ってきて、その霊を呼び起こすきっかけの現在霊がBなのでしょうか。とにかくBCは終わってみれば存在しないも同然の人たちです。狂っているんではなく、存在していないんです。
しかし戦争という愛情の場がAを変えます。「天井桟敷の人々」のシーンさながら「風と共に去りぬ」の炎上のシーンのような爆撃の中、与えられた場(爆撃された場所)のなかで愛を欲し、そして真実の愛を知る瞬間です。思いっきり引き寄せたぜBをAの元に。そして一緒に生きるんだ。死んでからも一緒だよ。実はBはAの母親です。Bの想いとは残した息子に会いに来たのです。そして最後に成仏して、菩薩となりかえっていくのです。
「銀河」役は橋本麗華という女の子。キュートです。そしてメイキングは素晴らしい出来。
映画自体もいい出来なのでそのメイキングが悪いわけないのですが手塚監督はいい監督です。ナレーションでわかります。いい映画だった。
4/1
「エレメント・オブ・クライム」ラース・フォン・トリアー監督 1984年 デンマーク
「奇跡の海」以降の感じとまったく違う映画です。まず男が精神科にかかるところから始まるのですが、治療メソッドが後に出てくる捜査メソッドと同じなのです。人間の思考と現実の行動の一致なのです。まあどうでもいいことですが、欧州(ドイツだと思う、それに英国の感じも、しゃべる言葉が英語だから、これらをミックスして欧州全体を表現したかったのかも)に滞在して何かにとりつかれたという男が出てきます(A)。欧州は昔と変わったというのですが、それは容易に「安定性がなくなった」ことだと推測できます。これの答えが主題です。監督の答えは私にはわかりません。Aは13年ぶりにカイロから欧州に出かけます。刑事で殺人事件の捜査協力(少女のばらばら死体、この死体は毎月4体の死体があがる一環の一人、連続殺人事件です)のために戻ります。Aの恩師が書いた本が「犯罪の原典、エレメントオブクライム」です。
同期の嫌なやつがいつの間にか警察署長になっていた。
宝くじ売りの女が殺されたんですが、現場のシーンに馬が殺されて海に落ちて拾い上げられるという映像が散りばめられております。馬は男根、男の象徴ですけどねえ。しかしここで決定的な挿入が。子守唄のようにこの事件の結末に関係することが流れるのです。そのなかで死体は収容されます。これはまずは結末の提示、そこから派生パターンですね。
死体には犯人の残した後があるのですが、検死官は美しいというのです。それはすべて窒息死させてから同じ切り口で切り刻まれているのです。ちなみに残虐なシーンはありません。馬といえば「カルネ」をどうしても思い出してしまう。ノエ監督ですね。こちらは馬は象徴というだけでしょう。
まあ戻って、恩師は誰かをかばって自分の著書の書いた犯罪理論を曲げているのです。人間、元気なとき頭で考えるときと、体がついていかなくなってから頭で考えることは変わってきます。そして結婚についても嘘があり、年を取ってから結婚して奥さんが逃げ出したのを死別したというのです。この恩師の異常性が明らかになり、必用書類を焼くことといい何か関係があると思わせるのです。恩師の担当した連続殺人と今回が関係あるのです。それは表題の著書に犯罪者と警官の精神的同一性をもって犯罪者心理をつかむ、という原則を持って犯罪のあとをトレースしていくメソッドなのです。Aも同じ道を歩んでみます。連続殺人の犯人と恩師のたどった道。途中、たしか「犯罪は必ず、ルールがあるのですか?」というようなインタビューの挿入があるんですが、Aも正しいルートを歩いているという前フリです。
第一の現場はアジア的で場末もいいところ、アヘン窟みたいな感じの売春宿。第二の現場の向かうときこのアジア人の(私には中国の南のほうの人種にみえる、名前はキムというけど)売春婦が一緒についてきます。そして、Aの自己分析の補助をするかのような言葉をどんどんと言ってゆきます。「人は変わるわ、生きていくために」どんぴしゃ、の言葉です。その裏づけの映像はAが思考するとき水に浮かんで流れていくのです。そういうシーンが随所で出てきます。そうすると、一箇所殺人が起こっていない場所が浮かび上がってきて行ってみるとやはり殺人が発見されないだけでした。
何かおかしいでしょう。そうです、Aが恩師、そして恩師がトレースした犯人の動きに自分も束縛されて、かつその束縛から無意識にどう考えるべきかという強迫観念が植え付けられて、神経症的になってきているのです。これは本人は気がついていない。映画を見ている観客はナレーションがかなりいろいろと入るので、ちょっとややこしいでしょうがはじめに、あの子守唄に気がついてしまったので。あとカイロでの治療の先生の言葉に反応したので意外と楽に見ることは出来てました。
ひとつ気がついたことがAにはありました。殺人現場を地図においてみるとHの文字が浮かび上がります。そうなると、これが完成していないところでまだ殺人が起こる可能性があると読むのです。このへん、「羊たちの沈黙」のレクター博士みたいです。
それがわかっても犯人の子供を生んだとキムに自白されて半分おかしくなりそうになって、少し妄想が出てます。なぜならば、犯人に接するのとまったく同じようにキムは行動していたからです。それだけならばいいものを、Aも同じようにさらに正確に犯人の行動をトレースしていたのです。ですから犯人の狂気が乗り移らんばかりですよ。
警察署長は、「アナーキーだ、自由ではない」といいます。まあ私と同じような意見です。とにかく欧州に行っておかしくなるなら安定性がないのです。カイロのほうがいい訳はない。これは私の考えです。どういう安定性かというと、すべてです。人間性、政治、国家、さらには人間の精神構造までも含めて安定ではない。カイロはどこかハイテクを受け入れない部分、気候の性で人間が怠惰に出来ている分、安定しております。多分ね。カイロ行った時私も暑くて動かなかったですもん。夜に出かけて食事くらい、そうなると楽しみは食事と寝ることくらいなので、悩みなんて考えるより楽しみを作っていく、人間の会話のほうが大事です。引きこもっちゃ、生活できないですからね。さらにカイロは宗教的にも安定してます。
恩師は計画の完成のために自殺します。ここで死ななければいけないという場所があるんです。そしてAも犯罪に加担しそうになるのです。完成の前の殺人を危うくしそうになる。しかし恩師はAを嵌めて先に殺人を行っていたのです。なのに、なぜAを呼び出したのか?そうです、恩師は犯人になってしまったのです。そして恩師によって完成してしまった殺人なので、Aはどうすることも出来なくて気が狂う、精神的浮揚感しか残らない半分狂人になってしまいました。精神の深遠なんてないと、人間は起きて食事して寝る、これが基本。食べ物を捕獲するか栽培するか、自然と共に生きること。これが欧州に欠けているということみたい。ひとつ気になったことは完成前の殺人はAが行ったかもしれない。しかしそれならば、倒れた男の映像の挿入はなにを意味するのだろうか?
どちらにしろAも恩師も狂っている。そしてカイロの精神科の声も聞こえなくなっている。思い出す過程で発狂しましたね。もともと犯人と同じなんですから危ない存在にはなっていたんです。しかし続けて坂口安吾の発狂とこの映画の発狂と狂った映画が続くとさすがにおかしくなりそう。しかしいい映画ですよ。