4/2

昨日本日と、ライブの映像を2本観たのですが

1本は「うたかた。」平成十五年 及川光博独演会 。これは全体として楽しくできているライブでした。しかしいかんせん、心の中に入ってくる曲がない。テンポやノリで一気に持っていく力は素晴らしい。人気があるからどれだけのものだろうか、と気軽に観たのが良かったかもしれない。しかし会場は女性ばかりですね。

次は椎名林檎、実演ツアー「雙六エクスタシー」日本武道館公演です。これは音楽は好きですね。しかしライブ映像を切って日常の表情が入るのが気に入らない。一気に見せて欲しかった。こちらのライブの方は動きのない対照的なライブですが演奏がうまいならそれでいい。まあまあかな。

ついでに今、車ではピンクフロイドの「THE WALLライブ1980-81」を聞いておりますが、前の2つとも比較にならないほどの完成度です。世界的に良いものは、嫌いなジャンルだとしても魅力あります。実はこのライブが魅力的過ぎたので、日本で人気ある2人、男と女を一人づつ聞いて、観て見たのですがまあ日本国内限定の人たちね、という印象は変わりません。椎名林檎のバックバンドがもっと魅力的ならばねえ。しかし、素直にピンクフロイド、ロジャーウォーターズのライブを買えばよかったとは思いません。やはり初めてのものも観てみるべきでしょう。たぶんチケットは簡単に買えないのでしょうから。

 

「ショーシャンクの空に」 フランク・ダラボン監督 1994年

この映画良いらしいですね。ちょうどまったく映画を見なかったときに、(お店オープンする準備で忙しかった頃です)、公開されて観ないままでした。まったく内容を知りません。刑務所の話だとは知っているのですが、「カッコーの巣の上で」みたいなものですかね。

ある男の冤罪の話です。罪状は妻と浮気の相手殺し。無期懲役なんていわれたら、どんな気持ちでしょうか(Aとします)。1947年の設定です。とにかく入所からホモの連中に目をつけられておかま掘られる寸前の毎日です。このことを黒人の男(B)のナレーションで淡々と語られます。Aは元銀行マンで税知識にも詳しく、看守の遺産相続の面倒も見ます。

そして趣味の鉱石について没頭しようとする毎日です。しかし聖書が身分証明にはなってます。聖書の一節を暗記していて意味が言えること、これは日常的に聖書に親しんでいるということです。Aにはこれがありました。最高の身分証明になってます。さらに金融の専門的知識で、図書係という名目で図書室に隔離して看守たちの相談相手になってます。信託財産の作り方とか相続とか。おかしい。税金の申告時期にわざとこの刑務所で野球大会が開かれることがあるとのこと、こういうエピソードや、50年入所していた人が仮釈放といわれどうしていいのかわからない寂しさを覚えたこと、など楽しく、つらい話が少しずつ起こります。多分時間はかなりゆっくり経過しているので、少しずつ起こっているのでしょう。映画では次のシーンとなりますがねえ。

「心の豊かさを失ってはだめだ」というせりふにすべてがあるんでしょうが、心の豊かさを失わせるような状況が起こっているんですよね。そして図書館を作る過程は面白かったですね。しかし刑務所の人員を使って民間と入札を競って取ってしまうことで民間業者が「俺には養う家族がいる」というせりふは実感します。公共でいろいろとやることはいいのでしょうが、数字を追わない人と生活がかかった人は違います。私は近くに洋館とかあるのですが、あの設備にはかなうわけないですし、そこでコンサートやられると確かに安いです。私のところでコンサートやると手取り赤字になりますから、やりたくないですし洋館のコンサートと同じ気分では決して出来ないことですよ。このせりふはすごく実感しました。

しかしトリックスターが登場して俄然面白くなるのです。ロックンローラーが入ってきます。それを高卒程度に教育しているのですが、ひょんなことから犯人と同じ監獄にいたときにやった犯罪がAの無実を証明するというものでした。この告白というか説明のシーンは熱くなりましたね。体をこみ上げてくるものがありました。しかしその彼が殺されたときは呆然としてしまいました。タバコが落ちた瞬間、仲間が見てくれていたと思った私は甘かった。あいた口がしばらく閉まらなかった。

そして脱獄した瞬間、なんか観ているこちらまで開放感がみなぎります。その後の仕返し。

そして友人の仮釈放。そのときのせりふ「罪を犯したときから、後悔しない日はない。更正なんて言葉は作られた言葉である」いいせりふです。

仮釈放のあと、約束の地に行った時の手紙の内容は秀逸、元気であるといいが、と書いてあるけど、元気でなくてもこんな手紙読んだら元気が出てしまう内容です。

 

あとは仮釈放が決定してからみんなが思っているシーンに向かうだけです。「ザ・プレイヤー」とこの映画とこの頃いい感じでしたね。「ザ・プレイヤー」は大好きな映画です。

4/3

「ディンゴ」ロルフ・デ・へール監督 1990年オーストラリア、フランス映画

マイルス・ディビスがミュージシャン(A)として出演してます。プーナ・フラットというオーストラリアの砂漠のところについて飛行機から降りるなりすぐに演奏を始めます。まあ画面に移るバンドの数と音が一致しないのですがね。変な始まり方をします。

そのときジャズに魅了された少年が(B)大きくなってしがないミュージシャン放浪生活(キャンピングカー)と汚い家で住みながらAにファンレターを書き続けているのです。昨日の「ショーシャンクの空に」も図書館を作るとき補助金の要請の手紙を書き続けていましたが、手紙はどんな手紙でも相手に意識させるものです。大事な手紙があるからすべて捨てるわけにも行きませんし、一応あて先は見るでしょう。今回はあきれた事務所に人がA本人に渡します。

オーストラリアの田舎では同じバンドの演奏者も下手ですし、聴くお客様もほとんどいない。そんな中レコードでAのライブを聞くのが楽しみです。家庭を持ってしまっているので都会に出ることが出来ないのでしょう。しかしチャレンジはしているんです。しかし人生をかけられない。

そんな時、サバンナでトランペットを吹いているとジャズバンドの幻影が見えます。その次の日電報が舞い込んできます。しかしBは信じません。前に電報でレコード会社から来たように見せかけていたずらされたのに、気分が大きくなってみんなにご馳走してしまったからです。それ以来、笑いものにされています。そんな中子供のときの親友が成功して帰ってきて、どうもBの妻(子供のときはBに譲ったのですが、今は成功して立場が変わってます)に近づいてものにしたいらしい。先ほどサバンナで曲を無意識に演奏したときと同じく、こんどは嫉妬という曲のモチベーションがあります。そういう時は常にBの頭の中にAが現れて演奏を補助してくれるんです。しかし大自然と嫉妬というかなりいいテーマを演奏できるようになりました。

そして親友に妻には会わないでくれ、とけじめをつけて内緒でフランスに向かいます。まあ招待状が本物とわかり、自信がついたのです。まあそして再会して一緒に演奏して終わりなんでしょう。あと変化球があるとしたらどんなことでしょうか。ありました。クラブに無理やりAを連れて行ったらBに演奏しろ、と言われてしまいます。即興でBAの前で演奏します。当然、クラブには行かないことで有名なAが来たことでクラブ全体が舞い上がっております。その中での演奏。一世一代の晴れ舞台ですね。うまいのでAもセッションに参加します。クラブは盛り上がること。そして大喝采。音楽の仕事はパリではとりあえずは見つかります。しかしABに帰れと。自分の音楽を追求しろ、オーストラリアの奥地の叫びのような音楽を、と指導してくれます。

そして当たり前の結末と思ったら、監督の前フリにやられました。もしかして、と思わせることが起こり、でも実は。という終わり方です。すごくいいですね。この映画はいいね。何で評価されないんだろうか?

音楽はミッシェル・ルグラン。この人のジャズはあまり好きではないんですが、マイルス・デイビスの存在感は圧倒してました。

4/4

 

「醜聞スキャンダル」黒澤明監督 1950年

「芸術は人まねなんかではない」と絵を描いているときに見物人から、雲取山の色が違うといわれて若い画家(A)が言った言葉です。昨日の「ディンゴ」の中でもマイルス・デイビスが言ってました。それよりも冒頭のバイクで突っ走るところ「大脱走」のスティーブ・マックイーンみたいでかっこいいですよ。「オートバイが傍若無人なところが好きな理由らしい」。そこに自然に見せられたのか歌を歌いながら女性がひとりBとします。声楽家だとのこと。ABともに有名な人たちです。そのふたりが出会って仲良くしているところを追ってきたカメラマンに撮られてしまいます。

「記事なんて少しいい加減でも、活字を入れさえすれば世間は信用するよ」現代の偶像は写真板と活字だとのこと。ライターがびびっているのに「男女関係のいきさつはひとつしかないよ、細かいところは違ってもいい」と編集長です。さらに「上品ぶっている連中はプライドが高くて告訴なんてしないよ、気概の高い軽蔑で済ませてしまうよ」とまで言います。そしてAが編集部に乗り込んで編集長を殴ってしまったからこじれてしまいました。

編集長にも理が出来てしまいました。そのことについてAはまったく抗議しますが、Bは沈黙のまま。Bをたずねると「相手にしないほうがいい」という母親。さらにはAの「僕たちが正しいことがわかっていて何で戦わないのです」ということばに目の演技。Bがひそかに好感を持ってしまったことは事実ということらしい。

「時々無分別になるのは人間らしくていい」「いつも分別ついているようなやつは安っぽくていかん」と訪ねてきた弁護士が言います。この弁護士の娘役かわいいですよ。あとAのモデルやっている人も。当然、Bも。黒澤監督の映画でこれだけ美しい人が出てくる映画は少ないですよ。モデルとAが作品「雲取山」とスキャンダルの話でからかい半分でカフェで盛り上がるシーンはめちゃくちゃいいシーンです。

しかし弁護士が編集長に買収されてしまいます。Bが裁判に裁判に加わらないし、どうなるのか一応、観客を心配させます。

ABに好意はあります。なぜなら「雲取山」を誰にも売らないのです。Bは個展をたずねてこの絵を売ってほしいといいます。Bにもいい思い出なんですね。

弁護士は買収されているので法廷で機能しません。それで世間、法曹界から非難が集まるのですがAだけはヒューマニズムの塊で最後まで信じた人を信じきります。それはあのかわいい娘が父親を信じられなくなったときも信じてやってくれというような言葉で象徴されます。黒澤監督は常にこのヒューマニズムを持った監督です。そしてそれを踏みにじるものを憎むというスタンスを持ち続けた監督です。

しかしここというところで、弁護士は弱みがあるので黙ってしまい、不利に展開します。そんな中最終弁論を待たずに娘が死にます。さて弁護士は?まあ結果はわかるでしょう?

Aの比喩いわく「勝利より私たちは星が生まれるところを見たんだ、その感激に比べれば勝利なんて小さい」これが黒澤監督のスタンスです。

あらまあ、娘役桂木洋子だとのこと。若いときは美人ですね。ついでにモデルは千石則子です。

4/5

 

「インディペンデンス・デイ」ローランド・エメリッヒ監督 

この映画なぜか観ないままでした。多分、「ディープ・インパクト」とかも面白いのですが印象が弱いせいだと思います。でも大音量で観て見ましょう。こんなことは休みの日にしか出来ません。

しかしここにジョディ・フォスターがいればなあ、というようなメキシコの宇宙レーダー探索ステーションで始まります。まあ宇宙人らしきものが月にいるとのこと。考えてみれば災難が地球に降りかかったとして一番慌てるのは今はアメリカ人かもしれません。

話が散漫になってますが、まあ隕石の大きいのが降ってくるということ。これはもう運ですね。地球の軌道が変わって人類滅亡でも仕方ないし、たまたま生き残るのも運。米国大統領も残って、臨時の閣僚を組ませるみたいですよね。何かこの映画プロパガンダはいっているような気がします。どこの?さあアメリカ政府ではないでしょうか?隕石が3つアメリカには向かっていてそれはLANYとワシントンというのはいくらなんでも確率が良すぎるか、恣意的なものでしょう。ということで破壊目的なんですが、その攻撃が宇宙船艦ヤマトの「波動砲」に似ているのには笑わされます。というよりこの映画基本的にどこか間違っていると思う。何も言わずに攻撃するというシーンを作るほうがおかしい。なぜならば有無を言わせず破壊できるなら、一気に突然それこそ地震のように破壊します。映画的な時間が流れてますよね。攻撃というところまでかなり時間かかってくだらない各方面のリアクションなんかをスケッチ風にまとめてます。動機は地球が欲しい、それだけ。酸素を吸って生きていて寒暖の差に弱いからです。それなら人間と同じ発達をすると思うのですが、同じ発達の経路をとったとしてもスタートのときが数億年違えば結果も違いますよね。

しかしあの無線屋と黒人パイロットはかっこいいですね。あと大統領も最後に戦場に出て行くところはいい男です。

ということで最後のほうは一気に観てしまった感じで、わくわくしたというしか表現が当てはまるだけの時間でした。こういう映画って考えないで心地よい気分にさせられますね。ちょっと爆破の余波は小さすぎるかな、とか余計なことは考えるのはやめましょう。映画館では叫ぶ人間はいると思う。

4/6

昨日もライブを見ました。シンニード・オコーナーです。人がなんと言っても椎名林檎や及川さんよりはまったく問題にならないほど上質のものです。

 

「ジョン・レノンの僕の戦争」 リチャード・レスター監督 1967年 イギリス

この原題は「How I Won The War」です。何でジョンレノンがついているのかわかりません。まあジョンのファンを取り込まなければ興行が危ないと読んだのでしょう。正解です。1945年ドイツのライン川まで攻めあがった英国部隊の話です。中尉の回想録(中尉をA)という形で進行します。1939年に軍隊を志願して士官候補になるところから始まります。最近この戦争関係かなり見ているので、こういうときは一気に見たほうが良いのです。

Aの書記がジョンレノン(B)。

まあまったく、映像として流れる話には興味がなく、いいかげんで、自分のことでもほかのことでも考えてみていたのですが、それでも英国は勝ったんです。それと同じようなことを若干皮肉を込めて描いていると思うのです。ホモ、不倫、女などの話をしながら自分たちは大丈夫と思っていると大丈夫なわけはないんですが、相手も同じような人間なので義があるほうが勝ったのでしょう。そんな内容が全編に流れるだけです。このことは「人間の条件」もかなり割いて描いていたので(軍隊の矛盾ですが)まあ風刺なんだろうなと冷めてみておりました。北アフリカのシーンは「アラビアのロレンス」のパロディです。あと「戦場にかかる橋」のパロディも出てくるんですが、この映画事態がパロディで実際に映画の中でも冗句をしょっちゅう言っているんですが、私にするとまったく受けないものでした。基本的には事実というより、冗句の利いた反戦メッセージと考えたほうがいいです。簡単な話、戦争に向かない連中が戦場で関係ないことばかりやっていること自体がパロディでそれでも勝ってしまった事が最大のジョークです。出てくる人たちがみんな平和を愛しているのですが戦争しているのもジョークでしょう。

最後にジョン・レノンはほとんど出ないと思っていて間違いないですよ。

4/7

「真夜中の招待状」野村芳太郎監督 1981年

なんというのでしょうか、かなりの方が今では見ることが出来ない方です。奥様になられた方や亡くなられた方など、今と俳優がまったく違うといっていいのでしょう。1981年ですよ、ついこの間なんですが。

映画はおかしい始まり方をします。婚約者(男のほう、A)がノイローゼで精神科にかかるとなると女のほう(B)の家族が急に反対します。AのノイローゼというのはAの兄弟が4人中3人までが失踪したということに起因します。そしてAの精神治療が始まるのですが心の奥底に立ち入るとのこと。とりあえずいいスタートです。まったく流れが見当つかない。景色も水戸東海村、沼津、熊本ときれいですし、女優陣、男優もですがきれいです。音楽もいいなあ。映画ってこのくらい世俗と違わなければだめですよね。

途中、暗示=呪いが出てくるのですが、その説明のときにサブリミナル効果を使うのです。この映画タイトルバックでやたら変な映像が挿入されていると思ったら、このことの布石だったのです。これもだましが入るんですがね。

「暗くて長いトンネル、トンネルを抜けると深くて吸い込まれそうな谷、またトンネルがあり左手に城跡が見えて、、」高森から高千穂のあたりではないか、ということです。

ほとんど書くことがないのですが、それは監督脚本が、話がばれない程度にうまく端折るからです。結局、もしかして、と思う材料を見ているものに与えないのです。事が起こってしまったら結果として説明は入ります。見ているものの好奇心は持続しますが、ちょっとずるい感じもします。熊本で「新薬の副作用」に展開したときは唖然としました。ここまで行くとつまらないとも思うのですけどね。しかし展開は高千穂線になりますね。この辺の景色はいいので画面がきれいです。

あとは、まあ人間関係の説明と、お金と誠意が違うこと、そのことで愛情も壊れること、などが描かれますが、ポイントが高千穂ですね。結局この映画のおいしいところは女優でも俳優でもなく高千穂が持っていってしまいました。実際に伊勢と同時に日本人なら行くべきところでしょう。でもお神楽の高千穂神社って意外と小さいですけど。

 

映画観ている人にしかわからないともいますが、順吉があの患者だったとは、思いませんでした。藤田まこと、丹波哲郎が本当にちょっとしか出ないのですが、いい味出てますね。

4/8

「私たちが好きだったこと」 松岡錠司監督 1997年

一番初めに女ふたりが(Aは鷲尾B夏川)男ふたり(Cは寺脇D岸谷)の飲んでいるバーの席の隣に割り込んで座る度胸がすべての話をスタートさせます。なんでも積極的に行かなければだめですよ。しかしそのまま居候ということで女が引っ越してきてしまいます。まあ確かに度胸です。しかしここまで来ると少し病的かな。Aの役です。

何で持ち主がリビングに寝なければならないのだろうか。女は強いです。Aは美容師、Bは不安神経症のOLCはカメラマンDはインテリアコーディネーターかな。BDがくっつきます。というよりABを押し付けられます。そしてACがくっつきます。何かおかしいんですが、そんなことは忘れないと見ていられないですよ。BDの距離感はすごくいいですね。恋愛ってこんなもんでしょう。Bは妾の子だったという話も聞かせてくれるし、隠し事ないほうが溶け込みやすいんですよ。例とすると先日の「真夜中の招待状」は隠し事したために婚約解消になりました。

Bが昔、医学部受けたという話をすると、もう一度受験しなさい、となります。「勉強して、掃除洗濯して、食事作って3人の帰ってくるのを待っていればいい」といわれますが大変なことですよ。そんなことしながらBの親が来るしAは昔の恋人とよりを戻すし、微妙にずれ始めます。そしてBは映画ですので医学部に受かるのです。その医学部でもやはり男ができる。Aは昔の恋人の子供ができてしまうけど、堕胎させるんです。実際、私の周りでもいるのですが、美人って周りから狙われやすい分、意外とひどい目にあっている場合があるんです。男はどちらかというと平凡なほうが家庭はうまくいくみたいですね。これは私の経験談ですけど。

まあそれでAB揺れるし、Cも揺れるんですが、離れていくものは仕方ないんですよ。戻ってくるものは戻ってくるしね。結局これはハッピーエンドになるパターンです。あとは知らない。すごく気が楽なテレビドラマのような映画です。まあ、なんとなくDがババ引いた感じがありますけど、人が幸せになるならそれでいいでしょう。

4/9

「モーニングムーンは粗雑に」渡辺正憲監督 1981年

はっきり言ってつまらない映画です。しかしサザンと横浜、神奈川にゆかりのあるものには懐かしい風景が出てきます。それだけでしょう。原宿も懐かしいですね。

「ニューミュージックにはブスが多い、」すごいせりふですが。

あと何にもなくて、高橋洋子がブスになったなあ、と思ったくらい。「旅の重さ」のときは良かったんですが。

 

何も言うことないです。出演者もそんなに印象のない映画ではないでしょうか?しかしサザンオールスターズの曲をこれだけ使うのだったらもっといい映画は出来るでしょう。何でこんな変な映画になったのかわかりません。監督がいまいちなんでしょう。もったいない。

4/10

 

「プライベート・ソルジャー」 ジョン・アーヴィン監督 1998年

久しぶりに第二次大戦のヨーロッパ戦線を観ます。最近極東戦線ばかりで新鮮味がありますね。ノルマンディの上陸作戦の後です。バルジ大作戦とどう違うのか良くわかりませんが、面白いです。本当のことを言うとドイツ、ナチス側から描いたほうがもっと面白いのです。私たちの時代は子供の頃、まだこのような本、絵本で読んだ記憶があるのです。

まあ連合軍のほうですが、小隊を率いたAが一人生き残りかえると、大隊が危ないのですぐに新たな小隊を編成して戦ってくれといわれます。まあ当然ですが、連合軍になんで余裕がないのかわかりません。まあナチスを甘く見ていたのでしょう。

戦車が違うんですよ。タイガー戦車なんです。冷静に考えると子供のときに、ミッキーではなくて戦車の形の絵本を読んでいた私たちはまだ戦争の余波があったのでしょうか?しかし戦争はいつの時代も大将の運、配置の運、天候などの運、本当に生きるも死ぬも紙一重です。そして裏切ったやつはその場ではヒーローですが必ずあとでしっぺ返しを食います。まるっきり関係ないことですが、新兵でこの戦場に配属になるなんて運が悪いですね。ノルマンディーなら良かったのにね。ノルマンディのあと休憩できて復帰したらベルリン陥落なんて運の強い兵隊もいるのです。

この映画の戦争は連合軍が歩兵のみで、ナチスが88ミリ砲と戦車(タイガー戦車ではない)の戦いで、橋の奪取と死守の場面です。

Aのリーダーシップの浸透もひとつのテーマになってます。リーダーシップとは、その人の行動が他人に与える影響の度合いで無意識的なものを言うような気がします。そのリーダーシップがはじめは信頼を受けないのですが、だんだん浸透していくんですね。修羅場を経てわかってくるんです。

小隊のみんなが「生き抜くこと」で意見が一致したときは強い。戦車を命令なく奇襲します。そしてはじめのシーンと同じシチュエーションが生まれるのですが今度は担いでいたやつが担がれて死ぬ寸前。担いでいるのは入隊したときはどうしようもないテンポの遅い兵隊でした。ほんの数日で一流の兵隊になってました。ヒュルトゲンの森の戦いで24000人の死傷者を連合軍は出したとのこと、そしてその後にバルジの戦いになるとのこと。

ナチスもかなりの抵抗をしたんですね。

4/11

 

「イングリッシュ・ぺイシェント」 アンソニー・ミンゲラ監督 1996年

「プライベート・ソルジャー」に続いて1944年の11月です。イタリアですので解放後。戦争初期北アフリカで地図を作っていた男(A)が被爆して全身やけどを負います。その後現地の仲間が現地の方法で応急手当をしてくれて助かるのですが付き添いの看護婦がイタリアの丘の上の教会に一時、自分も安静を求めてこの患者とふたりで生活を始めます。目的はあまり明確ではないのですが。

ギブリ、チェニスで吹く砂嵐、そしてアジェジェ、南モロッコのつむじ風。ハルマタン。サイムーン。

Aが怪我をする前を少しずつ思い出していきます。砂漠のランデブーがあったんです。思い出すのは熱い恋愛のことばかり。「砂漠の狂熱」というタイトルだったかバルザックの短編にあったと思いますが似ております。あの短編は「砂の女」のほうが似ているかな。

Aが人妻と恋におちてしまうのですが、それが激しい大恋愛。なにがきっかけか?結局一目ぼれ同士なんですよ。そして男のほうの真摯な態度に惹かれている自分に女のほうは人妻なんですが気がつく。そして燃え上がっちゃうんです。しかしその女が旦那の元にもどります。Aは悪態ばかりつくようになりました。しかし苦しんでいるのは女のほうもなんですね。恋愛の度合いで、相手の苦しみはわかります。ちょっと前に見た「私たちの好きなこと」もあのふたりはいい感じだったんですよ。ということは別れてあげたあの岸谷の懐の大きさが目立ちますね。あれは普通は出来ないですね。あと少し話が飛びますが、看護婦とインド人のラブシーンも秀逸ですね。この監督どこかで聴いた記憶があるのですがほかにどんな映画撮っているのでしょうか?すごくいい監督ですよ。

そして知り合いと終戦まじかのイタリアで再会するのです。その男はナチスに捕まってカナダのスパイとわかり、仲間の名前を白状しなければ指を落とすといわれて切られたのです。Aがスパイだと思っているのです。そして事情がわかり人間性を取り戻していくのです。

しかしAの不倫相手の夫は当然、妻の不倫に気がついていて、なかば自殺をします。妻も道ずれだったんですが不倫の相手同士は生きてしまう。そこでいろいろと裏切られたり、裏切ったりしますがそんなことはどうでもいい。愛なのです。出会ってしまったということは「縁」なんですが不可避的な問題なんですよ。愛の映画としていい映画でした。

ラルフ・ファインズは「ことの終わり」でも同じような、素晴らしい愛を演じてますね。「レッド・ドラゴン」なんて出なければいいのに。

4/12

 

「昭和枯れすすき」野村芳太郎監督 1975年

この映画知っていると聞くと、大体馬鹿にされます。しかしね、いい映画なんですよ。

まずは青森から上京してきた兄と妹(ABとします)Aは刑事、Bは学生。父親が出稼ぎに行っていたときに母親は男と夜逃げをして、お金だけは父親が仕送りしていたけど、結局は工事現場で死んでしまった、二人だけの身寄りの兄弟です。

この映画はふんだんに使われる30年前のロケが利いてます。そのくらい景色は変わるので風景も主役のひとつです。たとえば、三井銀行があります。映画館で「燃えよドラゴン」「ゴットファーザー」がかかってます。

Bの外泊の後、Aは町で家出してきた女をたぶらかそうとしている男を尋問して女を交番に連れてくるのですが、そこでBが男と歩いているのを見ます。そういえば家出って多かったんですよね。私はこの世代も信用していないんですが(団塊の世代、今の50歳代)この映画でもいい加減な感じが出てます。秋吉久美子のほうですけど。日本人は70以上でなければ信用できません。教育が違うんですよ。教育勅語を叩き込まれた世代が私は好きですね。全共闘世代は論外です。まあ世代における私の単なる好みですが。

Bは学校も辞めてチンピラと付き合っています。それが映画館で隣に座って手を握ったらついてきたという関係らしい。チンピラには風俗嬢の女がいます。

Bは別れたはずの男と付き合っていたところ、ホテルに入るのを見られて、Aがその部屋に押し入ります。まあ刑事だからできる無作法ですし、知らなければ、Bも良い妹の振りができたのですが知られたら関係がこじれます。

Bが殺人の容疑がかかります。それはチンピラが殺されたからですけど、まあ映画を見ていれば、風俗の愛人が殺して罪を着せようとしたというのはなんとなくわかると思いますけどね。

しかし妹を疑ってからのAの行動せりふのテンションの高さはすごいものがあります。これって、愛情をかけすぎた待ち続ける自分がかわいそうと思う「岸壁の母シンドローム」に近いものがあるような気がします。異常な環境でしたからなんともないのでしょうがAは深い愛情でBを見ていたんです。そして逮捕したときのシーンはかなりまともな判断で良いシーンです。

 

で題名なんですが、チンピラたちも博多から出てきた貧乏人、その連中が金持ちのぼんぼんを通じて知り合い、恐喝などの関係になり、お互いを疑心案疑で見ていたところから複雑に絡まるだけの、底辺の人たちの話だったのです。刑事が底辺か?この映画では育った環境が悪かったということです。炭鉱がなくなったときなんですよね。この時代。

4/13

 

「北京バイオリン」 チェン・カイコー監督 2002年 中国

予告編がよくって観てしまいました。

演技は下手です。話もありきたりで、わかっているような内容ですが、観てしまう魅力があるんです。父(A)はコック(職人というのはポイントが高い)で子供(B)が13歳のバイオリンの好きな男の子。

北京のコンクールに出ますが、寄付の額で優勝者が出るという始末。そして北京の市民でないと入学できないという状態でABに壁が襲いかかります。それにもめげずに入学させるという情熱のA.それに応えるB.ただそれだけの話です。あとは映像がきれいに決まるか、どんなエピソードを入れたかでしょう。教える教師がいい加減で、と本当にありきたりの展開で安心感があるのか落ち着いてみることが出来ます。あまりにもオーソドックスすぎる内容に拒絶感が生じる人もいるでしょう。ついでに、これは私の偏見かもしれませんが、この映画にも携帯電話が良く出てくるのですが、携帯電話はアジアの人間のほうが良く使うような気がします。うまく利用方法を確立すれば、北欧のような競争力がアジアにも付くと思うのですが。

あと近くに住んでいる女もアクセントにはなってます。物語の展開ではクレッセントですか。そして音楽を通してこの人も幸せになっていく。教師はアダージョみたいな感じです。この人も幸せになっていく。Aは転調かな。笑い。

Aは教師が教えることはないというのに、ほかの教師がいいと思うと変えようとするし、親ばかなんです。しかし田舎に出稼ぎに行くといったとき何か嫌なものは感じました。そして教師の「捨て子」仮説。言ってはいけない事だと、聞いていて背筋が寒くなったことを覚えております。しかしね、あの「5万元」をめぐってのAと女のやりとりは、なにかほっとする、実に涙が出てくるやり取りです。貧乏を経験するとわかる、思いやりをお互いに持っているのです。この辺の、捨て身の相手を思いやる考えは私は好きですね。

最後は予想しない展開になりましたが、商店街ということでは北京がすごく活気があるように映ったのは驚きました。そんなことはどうでもいいのですが、Bもまた捨て身になりましたね。正直に将来を捨てても自分を捨てなかった連中、女とはじめの教師がその場にいて親子の対面を祝福したのはすごくいいことです。

 

演歌というと馬鹿にされがちですが、その演歌の魅力がある映画だと思います。ストレートに真実を描いて照れていない部分が好きですね。

4/14

「切腹」 小林正樹監督 1962年

「人間の条件」以来の小林監督です。あの映画は良かったからなあ。この映画も評価はすごく高いです。

芸州の福島家の藩士だった男が、主家の没落と共に江戸に出てきたが埒が明かず、切腹をしようと思い井伊家の軒先を貸して欲しいと願い出るところから始まります。この映画はこの当時でもそんなに若い人をターゲットにした映画ではないと思いますが、はじめからこんな説明でわかる人は今では少ないと思います。いわゆる、「たかり」です。切腹させるわけにはいかないので何がしかの金品をあげるか、または仕官させる前例が出来てから流行ってしまったのです。しかし井伊家は違いました。切腹させてあげようと言うのです。すると浪人もあせる。しかし追い込む井伊家、仕方なく切腹しますが、もって来た刀が切れない、それで時間がかかってしまう。最後には歯で舌を噛み切る。これは自分のまいた種ですから恨みは出来ないでしょう。しかし井伊家の罪もあるかと思います。ちょっとの逃げる隙を作るだけでも井伊家の家名は安泰すると思うのですが、甘いですかね。とにかく琵琶の音色が映像にぴったりとはまってます。音楽は黛さん。カメラは宮島さん。

次に来たAにはこの話を聞かせて帰そうとするのです。しかし切腹をすると。そして介錯を馬回り役にお願いします。その指南頭がいないので迎えに行く間に戯れ話。それは先の浪人はAの知り合いだとのこと。そして福島正則の流れとその没落の話を言って聞かせる。周りの井伊家の連中もこれが理不尽だと知っているので、なんとなく聴いてしまいます。そして先の切腹した人間は自分の同僚の子供だというのです。この辺は普通には聴いて入られません。井伊家は徳川譜代ですが福島家は豊臣の譜代ですから、感覚が違うといえば違うのです。しかし介錯の指名する武士がみんないないのです。それらはみんな先日のAの同僚の息子の切腹を進めた男です。ここでAが命を賭けて仕返しに来たとわかるのです。

「もともと罪科の切腹にあらず、介錯人は私が選んで当然」と井伊家やり込められました。前回は親切を義に切腹させたのですが、今回は親切を前に出すなら、この言葉が利いてきます。「かくなるうえは問答無用じゃ」と言わせたらAの勝ち。戦う義が出来ます。しかしまた戯言を始めます。今度は話が終わったら切腹、抵抗しないとの約束。かなり覚悟が出来てます。

この戯れ話ですべてが明らかになるのですが、武士階級のうわべだけのプライドを痛烈に批判します。A自体もちょっと前までは気がつかなかったことです。

3人の髷をとって井伊家のみんなに見せ付けて、3人のいい訳を明らかにしたところ、まさに千両役者、かっこいい、というか素晴らしい出来。実践が剣法より強いことは「プライベート・ソルジャー」でも明らかでした。

そして、井伊家の中での立会い。無理に切ろうとするから、切腹したいというものの望みをかなえてやれずに抵抗の理を与えます。その結果、ここで死んだものは病死、Aは切腹で片がつき、体面を整えました。後半の1時間近く、心臓がパクパクした緊張感のあるシーンの連続で興奮がなかなかさめやらぬままでした。

映画というのを超えて感動しました。

4/15

 

「復讐するは我にあり」 今村昌平監督

いい映画だと知ってみているんでなんとも思わないですが、はじめに捕まるところから始まるのですね。仔細は忘れています。そしてまず2つの殺人を動機の提示なく見せます。表面上は売上金強盗でしょうが、そんなことで出来る殺人ではないです。

五島でのキリシタンの差別も入るあたりから、面白くなるのですが、結局、戦前、親の代から犯罪が形成されたのでしょうか。いや、親の敗北を見てぐれたという事なのでしょうが、親元から離れたという感じです。そして、別府で旅館を構えます。嫁は愛媛の春川温泉で女中をして生活してますが、嫁を迎えに父親が行きます。そこで嫁と父が抜き差しならぬ関係になり別府に戻ります。この嫁と父、息子と母という関係がすべてをおかしくさせます。しかし、ここで注目すべきは家族の中で人間関係が完結していて、「家」というものが大きく影響をしているということです。いまではもし不平があったなら、友人とか下手するとインターネットとかに逃げることが出来るのです。人間が一番怖いのは自明ですし、腐れ縁というか壊れた人間関係の中で悪態を付かれるのが一番疲れるし大変なことでしょう。そんな中、もともと犯罪歴がある主人公が立ち直るきっかけを失ったままになります。

しかし旅館で生計が立っているのがいいですね。これだけ修羅場の家庭ですと仕事に身が入らないと思うのですが、これは私の職業病かもしれません。映画の画面以外の生活まで考えてしまうんです。

後半は主人公の逃亡生活ですが、口から出まかせばかりで旅して歩いているんですが、本人の心情はまったくといっていいほど描かれておりません。その反面、実家では嫁が父と出来てます。というより、嫁が愛情の深い女なんです。倍賞美津子さんは良く演じきりましたね。またね、主人公は主人公で旅先で良い女を見つけるんです。小川真由美が演じるのですが、「どこへでも連れてって」というせりふ言うまでの流れが本当にうまい。本当に犯罪旅行になってしまいますけどね。このせりふを聞いたとき、決まったなあ、と思いました。しかし、そこからがすごい。犯人とわかって家につれて戻ります。覚悟はできたわけですが、この女の母(殺人罪で15年服役)から「人並みの暮らし」できるようになったのに壊しに来たのか「出てってくれ」と言われます。「人並みの暮らし」と言える人は苦労はしてますね。しかし、この女を殺したとき、あきらめたのでしょうが寒気がしました。何かが狂っている。映画としてもラストシーンは狂っている。あんまりいい映画でもないですね。

4/16

 

「水の女」 杉森秀則監督 2002年

はじめのシーンの舞台どこでしょうか?やけに海が瀬戸内海ぽいのですがよくわかりません。そして父親、恋人をなくしてひとりになった女(A)が富士山の近く「天下茶屋」に向かいます。ここも知らないのですが、富士山の見え方からすると富士川沿いでしょうか?しかし樹海が映るんで本栖湖のあたりかな。まあ樹海ってアイルランドの森に似ていますね。今回はじめて気付きました。そこで変な女と知り合いになり、気持ちが落ち着いて帰ってくるのですが、改めて銭湯の大きさに気が付きます。そこに見知らない男がいます(Bとします)。このBは火が好きな男でAは水の女、ですからABで銭湯が再開できるという安易な流れです。「はじめてあった人と仲良くしたいなら何も聞かないこと」と富士山で会った女に言われたのですがABに何も聞きません。富士山というのは銭湯の背景画というつながりがあったのです。ABに好意を持っているのは歴然としてますよね。

それは置いておいて銭湯のシーンはすさまじいですよ。さらに次の日の朝の掃除。大変そう。人間の垢は脂ですから、排水溝とかも掃除怠ったらいけませんよね。しかしなんというかAB二人の動きが仕事をしているように見えないんです。役者なんだから仕方ないとおもいますがどう見ても力仕事や銭湯を経営しているようには見えない。まあどうでもいいことですけどね。雰囲気とかでできる仕事ではないことは事実です。

Aの母という浮浪者が出てきますがBが勝手に阪神大震災の被害者ということにします。その映像が小川真由美さんが演じるのですが、ちょうど先日見た「復讐するは我にあり」の彼女からすると痛ましい感じで変わってしまったなあというのが実感で、女の辛さ、が出てしまいます。女性は老けるなあと。しかし「復讐するは我にあり」の浜松のシーンと同じような展開になるとはねえ。偶然ですかね。こちらは男のほうが自殺して終わります。

 

どちらにしても指名手配で逃げているというのは尋常ではない気持ちがあるんでしょう。逃げるほうは動けるけど、女は動けないケースが多いのでどちらの映画も良い関係になってしまうみたい。まさにどちらの映画も少年時代にトラウマがあるわけで、子供の育て方に問題があるかもしれないし、そうならざるを得ない環境も問題でしょう。しかしこの映画ではあの浮浪者が助けてくれると共に、Aの恋愛も終わりました。現実に戻ったほうが良い、という感じの終わり方ですかね。あまり面白くない映画のような気がします。

4/17

 

「闇の狩人」五社英雄監督 1979年

1747年かあ、イメージないですが賄賂の政治なんですね。

また闇の世界ものっけから手下と愛人に裏切られています。画面は横長で歌舞伎の舞台のような印象を受けます。ですから人物の動きは基本的に左から横切るかたちで、映像とするとアップは良いとこ取りですね。

裏切るはずの用心棒が寸前で裏切った(大将の値踏みをした)から話が面白くなる。うまいなあ、映画ってこうでなければいけない。あとでわかることですがこの裏切った武士の女も裏切って殺された親方が忍ばせておいた女です。裏切ったことでこの女が生きてきます。

田沼意次は北前藩士の動きを注視するべく、幕府の闇のものを忍ばせております。この懐刀は北前藩の藩士で裏切ったものです。おとり潰しになる前に寝返ったわけです。その男が闇のものをお家再興の動きをするものを消すために使うのです。まあ、腐りきった関係ですね。闇のものが腐ってはいないはずですけどね。「恩と義理の売り買い」で成り立っている世界ですから、義理を忘れてはいけないんです。そして、この裏切った用心棒が北前藩士でお家断絶を阻止すべく、間違って親殺しをした男です。かなり入り組んでいるんですが、その知り合いが闇の親方の愛人となっているという具合で、話は一気に進みます。これだけ都合が良ければ物語の進行は早いですよ。お家断絶の復興のためのお世継ぎの居場所をなんと闇の親分の愛人から聞きだします。この居場所は裏切った親分の愛人を拾った男も知っているんです。これで愛人が2人重なるわけで、面白くなりますよ。

「闇の家業、いざとなったら未練がなくたためるのが利点」ということで親分は勝負に出ます。というか恩と愛人(北前藩の人間)への未練です。愛人というほどではなく身投げをしたところ、拾って世話をしているというところですけどね。しかし、勝負をすると田沼の側近を敵に回すことになります。走馬灯を背景に「お前の始末は俺がつける、それまで黙って俺の言うことを聞いていればいいんだ」というせりふ、決心しましたよ。この映画、この走馬灯もそうですが、こいのぼりなどの江戸の風情が背景で役者を際立たせているのです。それはまるで歌舞伎です。結局、北前藩の男と女は死にそうになるのを(身投げなど)男は闇の親分を裏切った一の子分に拾われ、結局は親分に付いた。この恩義が親分にはあるんです。そして女は親分に拾われた。このように二人とも闇の世界の物に拾われて表に戻ろうという話です。しかし結末は、現実は厳しいです。

そして映画の最後も田沼意次の一人がち、というか勝手に滅んでくれたというか、平和な時代の汚職は崩れにくいという感じの終わり方です。

4/18

「中国の鳥人」 三池崇史監督 1998年

笑う。はじめからいい加減な映画だ。会社の隠れた不正の尻拭いの役を知らずに中国へ派遣された男Aがだまされた、やくざもどきに脅されて始まります。中国に出張に行ってから事実を知っても、うらむべく上司同僚は日本だしね。

中国を馬鹿にするのもいい加減にしろというか、ありそうなシチュエーションというか運転手の運転はめちゃくちゃです。ガイドの日本語もめちゃくちゃです。このガイド「ひどい田舎だから、毛沢東知らない爺さんもいるくらいだから」うーん、センスあるせりふだなあ。やはりこの監督はいいですね。変な旅行者もいます。「雲南のあたりって、日本の源流といわれて、羽衣伝説なんかもあるから、日本で見つかった遺跡にある、羽の生えた人間を探しに来た」ということらしい。筋は通っているんです。

またね、役者に過酷な演技を要求してますね。それに本木さんと石橋さんは見事に応えて、楽しいコンビになってます。すべてのシーンが楽しい。スパイスがガイドのぼけ、です。

しかしきのこ食べた時(このシーン良いですね)ガイドが倒れたときはちょっと驚きましたね。置いてきぼり食ったか、と思いましもん。

そして目的地について(景色がすごくいい)鳥人の学校を見つけ、やくざのほうが真剣になります。ここで出てくる村民の役、日本人が何人くらいいるんでしょうか?日本人の源流といいますが、この辺とバイカル湖周辺は本当にあの人に似ていると思い当たる人にいくらでも出会います。そして景色が少し耶馬渓とか高千穂に似ているのは気のせいでしょうか?

やくざのほうが率先して地元とくに飛ぶ鳥学校に馴染んでいきます。そこで先生のおじいさんがイギリス空軍の兵隊だったこと、航空機が落ちたときここで骨をうずめたこと、そして英語で秘伝書を残して行ったこと、などを知ります。おじいさんはここで秘伝書の原典を見つけてどうにか解釈をしていたんです。その翻訳を始めます。そして孫が歌っている歌は恋愛の郷愁の歌ということがわかります。

そのあたりから彼らの順風が吹き始め、すべてがうまくいくのですが、やくざは土地の自然に魅了されたのか同化を始めます。日本が小さく見えてきたんでしょう。あと近代化を阻止したと思っちゃったんです。笑い

そして二人は、あの羽で飛べるかどうか、信じているかを自ら試し、飛ぶことにします。それが出来たなら村の人々に人神として祭られ言うことは詔となることでしょう。これにチャレンジします。まあ失敗しますがヤクザは居残り、土地のものというか土地のもの移譲に自然を愛するアドバイザーとして生活していつの間にか飛べるようになりましたとさ。

いい映画だなあ。この監督の作品とは思えない。ずば抜けて良いですね。

4/19

 

「攻殻機動隊こうがくきどうたい(GHOST IN  THE SHELL 」 押井守監督 1995年

パトレイバーがらみでこの作品も見ることにしました。しかしまったく知りません。実はパトレイバーも意外と期待したほどではないという印象なのですが、これはどうなんでしょう。アメリカではヒットしたらしいですね。テンポが良すぎてついていけないところはあるんですが、ハイテクが主導の割には人間が主役なんですよ、この近未来。なにかしっくり来ないんですが50年前からすると今もこういう風に物は進んだけど人間は相変わらずだな、といったところでしょうか。

何か説明がなくてはじめとまどいましたが、一連のタイトルバックの映像で説明があったんですね。あれで「電脳」のゴーストがいるらしい、ということを判れというのでしょう。全部、有機体からなる人間が珍しい世の中らしい。擬体も使いより機械的になっているのです。しかしそれを悪用もできる、ハッカーの存在がポイントになる世の中。生きていたくない様な世界です。結局、システム化されたものはそのシステムの限界があり、かつ志向性も同じなので変化がないのと同義になってしまう危険があります。そのシステム化された反応を操ろうとするのがハッカーなんです。はっきりいって途中で投げ出したくなるような映画です。しかしなにか音楽とか演出の魅力は感じます。

実はここで一度断念をして再トライです。今回が3回目くらい。まったく意味がわからないので途中で2度ほどやめてました。

とにかく少佐が女なんですが、頭の後ろで情報のやり取りをしているのか、スパイみたいな存在です。そして国家間の争いに口を挟むみたい。しかし、はじめの絵でやはり付いていけない。この少佐はなぜか任務をするときに裸になるんです。電脳迷彩というらしい。多分、人口の皮膚は隠せるけど物理的な洋服は隠せないからでしょう。

しかしこの映画がつまらないのはわかりました。それは新しい発想の物が出てくるので登場人物に説明させなければいけないのです。だからそのせりふがやけに冗長なものになるので聞いていて普通の会話とは思えない。この会話の非日常性が最大の欠点です。まあこれは置いておいて少佐のいる9課は情報犯罪を扱うところみたい。そして女であるということは電脳の過程を見ると裸になるんです、そのシークエンスを描きやすいからではないでしょうか。男だと突起物があるし、女の胸は意外と普遍的だからという感じがします。多分ぜんぜん違う意味なんでしょうけどね。

最後は続き物が出来るような終わり方です。最後に戦った二人というか2体は合成したみたいですね。壊され方とかかなり暴力的です。そして、脳の一部にしか元の形がないため、こういう壊され方をしても生きて(存在)し続けるのでしょう。

まあ、古いながら一時はやったアニメを経験したということが一番大きいですね。アニメは難しいです。

4/20

「悪霊島(あくりょうとう)」篠田正浩監督 1981年

久しぶりに金田一さんです。そして篠田監督です。あまり好きな監督ではないのですが。

舞台は九州と四国の間の島。景色のいいところですよ。大好きな場所です。これだけで見てよかったと思ってしまう。しかし役者が違うとこんなに違和感があるのか、と思うのも事実です。

たぶん本当のことでしょうが、恐山の「いたこ」のような霊媒師を四国のこの地方では「いちこ」というらしい。どちらも行ってみたいところです。刑部島と刑部神社共にあるなら行って見たいです。磯川警部と金田一耕介の目的がひょんなことから一致します。

この島に向かうのですが、当然この島は平家の落人伝説があります。そして「鵺」という鳥。からつむぎ、というらしい。私の場合、「能曲」で知っているので何の疑いもなかったのですが、「鵺」という鳥は別名みたいです。伝統芸能の流れですが、祭りで「人形浄瑠璃」をやるなんていいねえ。「神楽」はスサノオノミコト、

事件は少し入り組んでいて、監督のまとめ方が下手なので、わかりにくい人物関係です。

まあどうでもいいでしょう。シーンのつなげ方がうまくないと思うのです。また金田一シリーズの中で一番つまらないと思います。

しかしまたこの映画でも「原爆」が出てきたのは、なにか縁があるのでしょうか?最近原爆や戦争の事が出てくる映画ばかり観ております。

古尾谷の述懐という展開も気に入らなければ、ビートルズの曲が流れるのも気に入らない。この監督は、やはり「心中天網島」だけの監督です。60年代で安保闘争していた連中は好きになれません。これほど持ち上がらない「金田一シリーズ」もこの作品以外にはないと思います。もうちょっとおどろおどろしくなければだめです。この島は実存しないらしい。監督が日本の原風景を求めて作った架空の空間とのこと。この点では大成功をしております。

4/21

 

「金環蝕(きんかんしょく)」 山本薩夫監督 1975年

また、仲代さんと三國さんという感じですので、かなりいい役者なんですね。実際私もそう思います。しかし仲代さんに関しては最近観た邦画ほとんどに出ている印象です。

そして政治家周辺の風景はまったく変わってしまった感があります。赤坂の料亭なんて今ではほとんどないです。兜町から日本橋の景色も変わりました。

「リベートの財源は国民の血税だよ」というせりふにはちょっと笑いましたが、いい思いしていたやつらがいたんですよね。彼らは決して返そうとはしないでしょう。これからいい思いができなくなるだけです。だから現役組は今の若者の年金に対してと同じような不満があるのかもしれません。年金も破綻しそうだというけど、ここまでほっといたのは誰なんでしょうか。一方で補助金はあるんです。補助金はカットしてでも年金基金の積み立て取り崩しはしないほうがいいと思いますけどね。素人の考えとは違うのでしょう。

ダムを作るのに、部下の見積もりでは足りないという、なぜならば、作業には石材が足りないから近くの山から切り出す必要がある、その運搬のために橋を作らなければならないし、道路も整備するだろう、というのです。落札させて見返りを多くもらうのは工事費用が高くなければいけません。だから、こんな見積もりになるのでしょう。いざ入札価格が高いとほかのゼネコンがディスカウントしすぎで落選します。そして賄賂を渡すときに、一介の成り上がり老人の金貸しに脅しを内閣の官房長官がかけられます。老人は調べ上げておりました。

あとは最終的には無難に終わるのですが、

途中は面白くはなります。でも限界が見えたあたりから、やはりつまらない、と思えましたが、いい作品であることは確かです。この老人に一肌脱がせたかったなあ。

しかしこのような邦画を見てしまうと、洋画は見にくくなってしまいます。たぶん気のせいでしょうけど。役者が日本人で日本語話してくれたほうが日本人が観るにはいいとは思います。最近字幕を読むのがめんどくさくなっただけだとは思いますけどねえ。

4/22

 

「点子ちゃんとアントン」カロリーヌ・リンク監督 1999年

この作品も大好きです。この作品のスパイスはなんと言ってもお手伝いのおばあさんと家庭教師のフランス人でしょう。

点子ちゃんは、ちょっとお金持ちの家庭の女の子の愛称です。お転婆なんです。アントンは好きな男の子。アントンの両親は離婚しているんですが死んだことにしていて子供に父親に会わせないようにしております。それで女の手ひとつで育てているのですが途中で病気になり、代わりにアントンが小学生ながらアイスクリーム屋で働いているんです。それで学校では寝てばかり。

点子のお母さんはNPOみたいな海外支援活動ばかりしていていつも海外に出張ばかりしていて家にまったくいません。それで点子の話し相手はいつもお手伝いさんか家庭教師です。この家庭教師のフランスの女が馬鹿で遊んでばかりいるんですね。それはお手伝いのおばあちゃんもそうです。3人で楽しい毎日なんですが、お母さんがいないんですよ。でも楽しそうなんです。3人でフランスの歌を歌うところなんか最高に愉快なシーンですよ。

途中でこの3人の中で感じることは、「母親が海外援助に行っているけど、援助する人は国内にもいるし、自分の子供もかわいがらなくては」ということです。

アントンは母親思いで母は常に「夫は好きではないけど、夫がいたからこのアントンがいる」という優しい目で子供に接しています。しかしお金に困って夫に無心しているのを、アントンに聞かれます。そしてアントンはまだ見ぬ父親に会いに行きます。それは無謀なんですが、子供のさびしさには母親も気がつきました。

そして、点子はお金を稼ごうと街で歌を歌います。これも家庭教師の影響ですけどね。その歌が大ヒットしてしまいますけど、両親に見つかって中止。このあたりで母親も家族の大事さ、国内での援助を必要とする人の存在などに気がついていきます。

そんなときに、アントンは点子のうちに泥棒に入ろうとするのいち早くお手伝いに教えて、このおばあちゃんと二人の連絡で泥棒を捕まえます。

ここで、優しい心のもち主と知った点子の母親は(実は、アントンは出来心から点子のうちで盗みをしていたのです、これを点子の母親は許していなかったのです)アントンとアントンの母親を海に招待して(海で療養すると治ると言われていたんです、ここは深く突っ込まないこと)2つの家族が仲良くなったという、子供の心が大人を動かしたという話です。

監督は違うのですが「ふたりのロッテ」とペアでお勧めしたい作品です。楽しい映画ですよ。

4/23

 

「人間魚雷 回天(にんげんぎょらい かいてん)」松林宋恵監督 1955年

なんというか、事実なんですね。特攻隊とともにすごい攻撃の仕方です。たまらなくいい映画ですよ。特攻隊については少しは知っていてほしいし、回天についても知っていてほしいと思います。これはこの映画には出てくることですが、特攻隊は人間魚雷の場合は軍隊年数の少ない、学徒たちが割り当てられたみたいです。それは短期間に訓練は難しいから。本当かどうかはわかりませんが、海軍経験10年もの古兵はこの映画では特攻隊に行きません。この映画はどのシーンを切っても絵になる、すばらしい映画です。こういう映画は少ないのですが、どこを切っても大丈夫です。その瞬間すべてが何かを語っている映画ですよ。

「突撃する」このことはハッチを閉めた時点でこの世とのお別れを意味します。この講義を聞く兵隊の真剣な目つき、そして機会があったら彼らの日記とか読んでみるといいと思います。あとノート、きれいな字で書かれております。

この回天、速度計がついていないんですよ。自分がどのくらいのスピードを出しているのかわからない。設計者の考えはおおかた見当がついてますけどね。

あと練習中の兵隊の言葉に「俺たちは人間じゃない、生きていると思うな、生きていると思うから苦しくなるんだ」という言葉がありますが、そうでしょう。これは経験してみなければわからないことです。そして明日が出撃という日が来ます。場所は大津島というところ。失敗しそうだからあいつははずすか、とか、坊主の出身の兵隊が数珠を自分の乗る潜水艦(人間魚雷)につけて「地獄行きは覚悟しなければ」というくだりがあったり人それぞれ、身分相応に立場が違えば考えも違うんです。しかし、国のためというのは変わらないです。出撃の前の日の宴会は、なんというか華やかなもので、あきらめの後の人間にしかできない開き直りが楽しいものになるのでしょう。ということは、今の時代は、開き直りや、ぎりぎりに追い詰められた状態ではないということですね。

俳優の名前はわかりませんが朝倉少尉と役者名で殿山さんと加藤嘉さんの3人のシーンは涙がこみ上げますね。こういうことは実際にあったんでしょうね。もったいない人材を失ったものです。このようなシーンもこの監督はその効果を狙って作ったというより、実際にあった事を、なくなった戦友たちにささげるために作ったから、その失った友を思う、偲ぶ気持ちが弔いとなっていい映画となって結実したのでしょう。

カントの「そうだ、これでいい、なにもかもいい。もはや言うことはない」と死んでいったときの心境にまで昇華できたのでしょう。

唯一、笑えたのは「特攻隊の方々の前に出ると、軍神ですから」とおびえている給仕兵隊に対して「軍神か、早いこと化けの皮がはがれる前に、神になるか」という冗談を言うときです。極限まで行くとこういう冗談が言えるんです。冗談というのは中途半端な状態ではいえないことなんです。真の冗談というのは、貧乏など極限のときに出るもんです。

しかし仲間の潜水艦が空母など大物に出くわす前に撃沈してしまっており、人間魚雷は発射されずに死んでいきます。それを聞いて乗組員はあせります。駆逐艦が来て潜水艦を撃沈しようとしたとき、艦長は深く潜水しません。なぜなら、回天が壊れる危険があるからです。しかしこの潜水艦も人間魚雷未発射のまま撃沈してしまっては意味がない、そう思った回天乗組員は、たとえ駆逐艦相手でも私が行くといいます。艦長も仕方なく承知。

そのあと、艦隊に遭遇して2隻の空母を含む軍艦を映画の中では爆沈させました。

解説でもありますが、この回天は成功率が高く、戦後すぐに回天を搭乗した潜水艦を連合軍は調べたらしい。死がわかって、生の期限を切られても、相手艦隊にぶつかっていく精神力を持ち続けることは並大抵のことではありません。彼らの魂の鎮魂をするとともに、このような戦争を繰り返さないように努力することは必要なことだと思います。

NYの9.11のテロとは質が違います。中東の自爆テロとも次元がまったく違います。なぜか?わからない人はいないでしょう。

4/24

 

「戦艦大和(せんかんやまと)」安部豊監督 1953年

「回天」もそうでしたが学徒出陣があったのでかなり、哲学書を持って兵役についていたみたいです。回天ではエマニュエル・カント、この映画ではスピノザです。逆に今の学生はどれだけ読んでいるのでしょうか?馬鹿にしたもんではないと思います、かなり読んでいるみたいです。この映画は助言に大和の副長が入っているので、かなり忠実なんでしょう。

それからすると、大和の出撃は時すでに遅し、本土で活用すべし、だったみたいです。さらに燃料も片道分しかなく、沖縄援護に単体に近い形で出撃したみたいです。戦争はなんでもそうですが、後から見ると馬鹿げたことはいくらでも出てきますね。

船員の言葉は涙が出てきます。「大和は沖縄の真っ只中に出て、敵の標的となって、その間に特攻隊が攻撃をする」理にかなっておりますが、みんな犠牲になりますよね。絶句。特攻隊は援護機ではないのです。そして制空権はアメリカにあり、空からの攻撃には弱い軍艦に過ぎない大和、せめて空母なら、空対空の戦いができます。なんで出て行ったんでしょうね。しかし一条の光はあります。出撃前に予備兵を降ろすのです。これはもう艦長はじめかなりの人のコンセンサスだと思いますが、(映画では明記はしませんが)、将来の日本を担うものを囮に使って無駄に死なせたくなかったのでしょう。

この映画とすると、出撃してから、内地の恋人とか妻の回想がいくつも入り、映画のテンポが急に悪くなります。後は沈没するだけですからね。しかし潜水艦にも弱いのは致命的でした。しかし死ぬ気なので、どんなに水が入ろうと、どんなに被爆されようと、誰もひるまないで最後まで魚雷の位置などを確認する様は見ていて言葉では表現できません。まったく無駄な戦いなのですが、ここまで命を捨てた戦いはないでしょう。まるっきり織田軍に挑んだ武田軍みたいに無駄な突進です。しかしこの様子は心には刻み付けておこうと思いました。役者もまだ、特攻隊会館で見た写真のように目がきらきらと輝いているんです。あの目のきらめきを見た人たちは取り組みがたい相手とは思ったでしょう。今の日本人にあるかどうかという議論はおいておいて。

最後に傾斜復元の見込みがなくなったとき「総員を甲板にあげます」、言葉がなくてもこの総員の気持ちがひしひしと伝わってきますよ。さらに逆もあったのでしょうが、沈没した後、浮き木にもたれて漂流している兵隊に機銃を浴びせてきます。これには、事実とはいえ参った。やはり現実のほうが映画より怖い。自分が映画を作ったらこんなシーンまで用意はしないと思いますし、最後の言葉「戦争を生き抜いたものこそ、真実次の戦争を欲しない」も事実だと思います。戦場の怖さは多分味わって見なければわからないと思います。

4/25

 

「プリシラ」ステファン・エリオット監督 

ゲイがバーでショーをしてもゲイバーとかでなければ、お客さんの反応はいまいちですよね。いくら楽しんでもらおうと、性を超えた魅力をヘテロな方々にだすのは難しいのです。そんなゲイの挫折をはじめに見せられ、落ち込んで仲間に電話するとパートナーが死んだとの事、憂さ晴らしに旅行(地方公演)でもというのはいい考えです。シドニーから出発するのですが、自由を求めて西に向かうのです。何かおかしいなあ。日本で関東だと、厳しさを求めて北に行くとよく言うのですが、同じような方向でアメリカ、オーストラリアは西に向かうのでしょうか。まあ東が発展したどちらかというと都会ですから、そういう発想なんでしょうか。とにかくまっすぐの道を太陽が沈む方向をめがけて突き進む旅。

 しかし、ゲイは男も女もともに言えると思うのですが、ヘテロに恋したり、または片思いのケースが多いのではないでしょうか?恋に疲れた話がいくらでもゲイの映画では出てきます。この映画でもそうです。最終的には趣味が変わっているというだけで、素直ですからうまくいくケースが多いです。よって、私の考えでは「根性のひねくれたゲイほど扱いにくいものはない」です。しかし私は当然、誰も知人でいるわけでもないですよ。

まあ砂漠の中を走るのと同じ速度でゆっくりと移動します。しかし砂漠ですから、好きなこともしながら、街に寄るたび傷つきながら進みます。しかしここでも、うちに敵あり、ゲイ同士がうまく行っていないのです。またまた、車も故障します。砂漠の中でショーの練習をしていたときにヒッピーに出会います。(しかしショーはアバの曲なんですね、意味があるんでしょうか)さらに修理屋にあって、車は治るのですがメンテナンスということで同乗します。

砂漠を走っているときは、若いゲイは屋根で「椿姫」のアリアを楽しそうに聴いているのですが、やけに砂漠がこのゲイたちを成長させるというか変化させてもいるのです。そして「都会」という孤独の中でしか生きられないということを知るのです。「孤独」でないと、周りは無視してくれないのです。これがわかっただけで十分なんですが、映画はここからひどくなります。同乗した男とゲイの一人が仲良くなるんですが、この口説き方はさすがに気持ち悪い。これ多分、テレンス・スタンプでしょう。

そして、目的地についてショーをやる前に、ゲイの一人の子供に会います。一同ショック。この辺、私も映画を見ていて意味わかりませんでしたもん。当然でしょう。ゲイに子供がいるのはおかしいんですね。

それはさらにラスト、途中で乗せた修理屋とゲイが出てきてしまい、最後にシドニーに戻らないで残って一緒に暮らすというときに、仲間のゲイが「本当か」というようなこと聞くんです。この意味がわからないことと同じです。男とうまく行くのがいけないことなんでしょうか?というよりうまく続かないと思っているんでしょう。ゲイの仲間がそう思うくらいなら私みたいなのが、この映画見ていて気持ち悪いと思うのも仕方ないかもしれません。とにかくこういう、この映画のつぼの場面でまったく登場人物の心理が理解できないので、少しかったるい映画でしたけど。

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